米軍のパナマ侵攻期間
− 1990年1月
米軍
駐屯軍13,000人
本土部隊9,500人
パナマ軍
国防軍15,400人
米軍 23人戦死
パナマ軍 400人〜2,000人戦死・犠牲
パナマ侵攻(Invasion of Panama)
米ソ東西冷戦時代末期の1989年12月20日から1990年にかけてアメリカ合衆国とパナマ共和国の間で勃発した戦争のこと。
軍事的には当時のパナマの事実上の指導者
マヌエル・ノリエガ司令官の独裁政治
や、パナマがアメリカ米国に対して
麻薬を密輸
している等の理由を掲げて米軍がパナマに軍事侵攻した事で戦争が始まり、結果的には米国側の圧倒的な軍事力の差で、米軍が勝利に終わりパナマ側は降伏しノリエガの身柄を米軍が確保・拘束した事で終結した。
ただ、米国が他国の政府を軍事力で一方的に崩壊させる行為は第二次世界大戦後の
国際法に違反
しており、その事に対して米国の行動を批判する意見も根強い。
軍最高司令官マヌエル・ノリエガは1983年以来、パナマにおける事実上の最高権力者となっていた。
ただ、ノリエガ体制のパナマは
非民主的な政治体制
が原因で中南米の中でも孤立していただけでなく、中南米における麻薬ルートの温床となっているとされていた。
ノリエガは冷戦下の1966年から
中央情報局(CIA)
のため、中南米における情報収集活動の手先として働いていたことも明らかになっている。
ノリエガは1971年に中央情報局(CIA)が、ノリエガが
パナマ情報局長の地位
に就いている間に、ノリエガを給与計算対象に加えており、それ以前にも、米国諜報機関からケースバイケースで給与を受け取っていた。
ノリエガへの定期的な支払いは
カーター政権下
で停止されたが、その後再開されたが、ロナルド・レーガン政権下で再び停止された。
CIA長官の
ジョージ・H・W・ブッシュ
の時代に、ノリエガがキューバ政府、後にはニカラグアのサンディニスタ政府に関する情報を進んで提供したため、彼を資産とみなし諜報活動の要員として利用し、中南米やカリブ海の
左派政権の攪乱
に協力していた。
また、アメリカの麻薬対策にも協力していると考えられており、1978年から1987年まではアメリカの
麻薬取締局(DEA)
から毎年感謝状が贈られていたことでも知られている。
ただ、1970年代初頭までに、米国の法執行機関はノリエガが麻薬密売に関与している可能性があるという報告を受けていたが、CIAの諜報活動を行っていたため、利用価値があり、正式な刑事捜査は開始されず、起訴もされなかった。
なお、1981年から1987年にかけて、ノリエガと米国の関係は大幅に深まっている。
これは、米国が自国の安全保障上の利益を追求することと、ノリエガがこれを好意を得るための効果的な手段として利用することの両者のメリットが重視されたことで推進された。
1979年から1981年にかけてニカラグアとエルサルバドルで内戦が発生していた。
このため、レーガン政権はパナマを含むこの地域で同盟国を探すことになった。
CIAの諜報員として活動していたノリエガは、ニカラグアの
コントラ反乱軍
に対する資金や武器を含む米国の支援のパイプ役を務めた。
彼はCIAがパナマに情報収集拠点を設置することを許可したうえ、米国が支援する
エルサルバドル政府
が左翼のエルサルバドル反乱軍
ファラブンド・マルティ民族解放戦線
と戦うのを支援した。
なお、こうした活動資金は米国に流れ込む麻薬を使ってマネー・ロンダリングした資金が利用された。
また、米国の諜報船はニカラグア政府に対する作戦で
パナマの基地
を使用し、これらの船によって収集された情報の多くはパナマの米軍基地で処理された。
そもそも、ノリエガは、
パナマ運河条約
で米軍基地の使用が運河の防衛に限定されていたにもかかわらず、これらの活動を許可するなど超法規的な優遇が行われている。
なお、CIAなどの麻薬資金の利用に関しては、麻薬資金が洗浄され、武器等の提供に使われるなど、後にイラン・コントラ事件として問題視されることになる。
映画「潜入者」でも描かれたが、1986年に税関主導によって行われた
「Cチェイス作戦」(Operation C-Chase)
により、ノリエガが米国内への麻薬の輸出ならびに
マネーロンダリング
に関与しているという疑いが浮上してきた。
さらに1987年6月には反米ナショナリストとして民衆から広く慕われたパナマの軍人
オマル・トリホス
の1981年の暗殺にノリエガが関与したという疑惑が持ち上がり、反ノリエガ派がノリエガ排除に動き出すという事態となった。
(トリホスは1981年、「謎の飛行機事故」で死亡したが、事故の原因は米国CIAによる暗殺と言われている。)
1988年2月にはパナマの
エリック・アルトロ・デルバイエ大統領
は米国の支援を受けて
ノリエガ解任
を発表した。
これに対して、ノリエガ派の国会議員によってデルバイエ大統領が解任され、マヌエル・ソリス教育相が大統領代行となった。
これを受けて3月には
クーデター未遂事件
が発生している。
また、3月には米国マイアミの裁判所がノリエガを起訴し、
ロナルド・レーガン大統領
は「パナマに民主主義が建設されるまでは制裁を続ける」と述べ、パナマの
在米資産凍結
パナマ運河使用料支払い停止
を発表した。
パナマはこれに対抗して全ての
在パナマ外国資産凍結
を発表したが、これにより脆弱なパナマの経済システムは大混乱に陥り、産業稼働率が40パーセントに落ち込んだ。
アメリカは裏面でノリエガの引退によって、司法取引で
訴追を免除すること
を持ちかけたが、ノリエガ拒否した。
また、ノリエガとの蜜月関係に合ったCIAの工作も行われたがノリエガの権力は影響を受けなかった。
このためレーガン政権末期の段階で
「エラボレート・メイズ」作戦
など、パナマ侵攻作戦が策定された。
1989年1月に第41代アメリカ合衆国大統領に就任した元CIA長官の
ジョージ・H・W・ブッシュ
は、麻薬撲滅の為に「麻薬戦争」と呼ばれる
麻薬撲滅政策
を掲げた。
ノリエガは1989年5月に行われた大統領選挙に自派の
カルロス・ドゥケ
を出馬させたものの、当選したのは反ノリエガ派で反米派の
ギジェルモ・エンダラ
であった。
ただ、ノリエガは、アメリカ合衆国の干渉があったとして軍を挙げて
選挙の無効
を宣言し、フランシスコ・ロドリゲス会計院長を大統領に据えて、権力の保持を図った。
この動きを受けて、5月には暴動が発生したうえ、9月30日には再びクーデター未遂事件が発生した。
12月15日、ノリエガは議会によって「最高の政治指導者」としての地位を承認させ、独裁体制の継続を誇示した。
またこの間、ノリエガ派の「尊厳大隊」による反対派への暴行が横行していた。
ブッシュは5月の大統領選挙直後から、
特殊部隊のパナマ派遣
を極秘裏に承認した。
12月16日頃からアメリカ軍人に対する殺害や暴行事件が発生しているという報告が伝えられた。
リチャード・ブラウン国防次官の報告で米軍施設への武装侵入が数十回、そのうちの一件で2人のアメリカ軍兵士が殺害されたとしている。
12月20日深夜0時45分にブッシュは
パナマ在住アメリカ人の保護
パナマ運河条約の保全
ノリエガの拘束
を主目的とする「大義名分作戦」(Operation Just Cause)の発動を命令した。
15分前にはエンダラを大統領として宣誓させた。
ブッシュはこの侵攻を、ノリエガの煽動に対する
米国の自衛権発動
であると主張して、軍事侵攻を正当化した。
「大義名分作戦」は当初「ブルー・スプーン」と名付けられていた。
これに対し、ジェームズ・L・リンゼイ陸軍大将から「奇妙な作戦名だ」と評されたため作戦名は「大義名分」と改められた。
ブッシュは12月20日未明にパナマに駐留していたアメリカ南方軍など空軍・海軍・陸軍からなる5万7384人のアメリカ軍をパナマに侵攻させ、ノリエガの率いるパナマ国家防衛軍との間で激しい戦闘が行われた。
パナマ国家防衛軍は米国製の旧式の武器を中心とした装備に対して、米軍は
ロッキードF-117型戦闘機
マクドネル・ダグラスAH-64 アパッチ
などの最新鋭機を中心とした300機を超える航空機を投入するなど、圧倒的な軍事力を使って間も無く首都のパナマ市を占領した。
なお、ノリエガはアメリカ軍による拘束を逃れて
バチカン大使館
に逃れた。
その後、米国は
ニフティ・パッケージ作戦
によってノリエガを大使館より退去させ、1990年1月3日に米国軍に拘束された。
ノリエガはその後米国内に身柄を移送され、1992年4月にフロリダ州マイアミにて麻薬密売容疑等により禁錮40年の判決を受けた。
後に30年に減刑され、さらに模範囚であった為2007年9月9日に釈放されたが、麻薬取引で得た資金のマネーロンダリングをフランスの銀行システムを悪用して行ったとして2010年4月26日に同国に移送された。
フランスでは禁固7年の有罪判決を下された。
2011年12月12日に約22年ぶりにパナマに帰国し、
在任中の政敵殺害に関与した罪
で禁錮20年の刑に服した。
戦後にパナマ国防軍は解体され、非軍事的性格の国家保安隊(国家警察隊・海上保安隊・航空保安隊で構成される)に再編された。