マーシャル・フィールド
(Marshall Field)
1834年8月18日 - 1906年1月16日
米国の起業家
シカゴに本拠を置く百貨店
マーシャル・フィールド・アンド・カンパニー
の創設者で、当時としては並外れた品質と顧客サービスで有名であった。
マーシャル・フィールドの家系は、1629年にアメリカに渡ったピューリタンの子孫としれ知られ、彼はマサチューセッツ州コンウェイの農場で
ジョン・フィールド4世
フィデリア・ナッシュ
の息子として生まれた。
17歳のとき、彼はマサチューセッツ州ピッツフィールドに移り、そこで兄の
ジョセフ・フィールド
と共に乾物店で初めて働いた。
乾物店で5年間働いた後、急速に拡大する西部で新たな機会を求めてマサチューセッツを離れた。
1856年、22歳のとき、彼は兄と一緒にイリノイ州シカゴに移り、大手乾物商
クーリー・ワズワース商会
に就職した。なお、この商会は1857年にクーリー・ファーウェル商会となった。
フィールドはクーリー・ファーウェル商会で急速に出世した。
1862年、経済的な理由からクーリーは会社を去った。
同年、フィールドは会社のパートナーシップを購入し、会社は
ファーウェル・フィールド商会
として再編された。
社長のジョン・V・ファーウェルはフィールドの鋭いビジネス感覚を高く評価したものの、性格に関しては2人は非常に異なっていたという。
フィールドの堅苦しい効率性は、ファーウェルのよりリラックスした明るい物腰に依存していた。
ただ、ビジネス上のコラボレーションには
広範な個人的な交流が必要だった時代
に、このパートナーシップは長くは続かなかった。
1865年1月、フィールドとパートナーの
レヴィ・ライター
は、ポッター・パーマーが経営する乾物店のシニアパートナーになるという申し出を受け入れた。
新しい会社は「フィールド・パーマー・ライター&カンパニー」として知られるようになった。
1867年、フィールドとライターが「フィールド・パーマー・ライター&カンパニー」の資産を買収する余裕ができた後、パーマーは会社から撤退し、会社は「フィールド・ライター&カンパニー」に改名された。
1867年、フィールド・ライター&カンパニーは1200万ドル(2023年の2億1500万ドルに相当)の収益を報告した。
当時の多くのシカゴのビジネスマンと同様に、フィールドの会社は1871年に起きた
シカゴ大火
で大きな影響を受けたものの、比較的早く再開した。
会社は比較的低い負債レベルが維持で来ていたことで1873年恐慌も乗り切った。
1881年までに、フィールドはライターに事業の持ち分を売却するよう強制した。
フィールドの独占となったことで、店の名前を「マーシャル・フィールド&カンパニー」に変更した。
フィールドは、19 世紀初頭の消費者の視点であった「買い手は用心せよ」という原則を止め、それを金ぴか時代にふさわしい豪華なショッピング体験へと変えた。
つまり、フィールドの革新的なアイデアとして無条件返金、一貫した価格設定、海外からの輸入品などを商売の軸とした質の高い小売業の標準を作り上げた。
フィールドの従業員は、当時の店では一般的だった、興味のない顧客に商品を売りつけないことも徹底指導していた。
「女性には欲しいものを与えろ」や「顧客は常に正しい」という名言は、フィールドの名言とされている。
現在では小売業で最も有名となった事業だが、1880年代、フィールドの卸売業は小売業の年間5倍の収益を生み出していた。
卸売業には、1887年に建てられたマーシャル・フィールドの卸売店というランドマーク的な建物もあった。
なお、マーシャル・フィールドの小売業の収益は、フィールドが亡くなるまで同社の卸売業を上回ることはなかった。
フィールドは、その生涯を通じて労働組合に強い疑念を抱き、従業員の労働組合結成を禁じた。
1886年5月4日にシカゴのヘイマーケット広場で行われた労働者デモで発生した爆破事件いわゆる
ヘイマーケット暴動
の際、被告の妻らが控訴を起こした。
フィールドを除く地元のビジネスマン全員がこれに同意し支援した。
ジャーナリストで改革者の
ヘンリー・デマレスト・ロイド
は恩赦を与えるための全国的な運動を主導した。
また、ライマン・J・ゲージのような銀行家ですら恩赦を支持し、穏健派が資本と労働者の関係改善につながると信じていた。
ポッター・パーマーとチャールズ・L・ハッチンソンは賛成する傾向にあった。
ただ、マーシャル・フィールドはこうした動きには反対だった。
他の多くの男性は、シカゴで最も裕福で最も権力のあるビジネスマンであるフィールドに公然と反対する気はないとゲージに打ち明けた。
フィールドは、1905年のシカゴのトラックスターズストライキの際も労働組合に反対した。
フィールドは政治的、社会的陰謀を避け、代わりに
仕事と家族やお気に入りの慈善活動の支援
に集中して取り組んだ。
フィールドはジョージア州ジキル島の
コマーシャル クラブ
ジキル島クラブ(ミリオネア クラブとしても知られています)
の非常に活発な会員であった。
フィールドは1863年、オハイオ州アイアントンの
ナニー・ダグラス・スコット
と結婚した。
2人の間には2人の息子と1人の娘が生まれたが、息子のルイスは1866年に幼児として亡くなった。
生き残った子供はマーシャル・フィールド・ジュニアとエセル・フィールドである。
マーシャル・ジュニア(1868年 - 1905年)はアルバーティーン・ハックと結婚し、ヘンリー・フィールド(マーシャル・フィールド3世)とグウェンドリン・メアリー・フィールドの両親となった。
グウェンドリン・メアリー・フィールドは第6代準男爵アーチボルド・チャールズ・エドモンストン卿と結婚した。
エドモンストン卿はトスカーナ大公妃エリッサ(エドモンストン)の祖父母である。
1905年11月22日 、37歳のとき、マーシャル・ジュニアは腹部を銃で撃ち、数日後に病院で死亡した。
なお、彼の死因は今でもはっきりせず、自殺から家庭内事故まで様々な説がある。
下世話な別の説では、彼はエバーリー・クラブの売春婦に撃たれたとされている。
エセルは二度結婚し、最初はアーサー・マギー・ツリーと結婚し、ロナルド・ツリーという息子をもうけた。
その後、1901年に初代ビーティ伯爵デイビッド・ビーティと結婚し、デイビッド・ビーティ、第2代ビーティ伯爵とピーター・ビーティという二人の息子をもうけた。
ナニーは1896年に亡くなった。
1904年、フィールドは長年の友人でアーサー・ジョン・ケイトンの未亡人である
デリア・スペンサー
と結婚した。二人の間には子供はいなかった。
フィールドは1906年1月16日、ニューヨーク州ニューヨーク市で71歳で亡くなった。
元日に甥で秘書でもあるエイブラハム・リンカーンの長男
ロバート・トッド・リンカーン
とゴルフをした後に肺炎にかかり、亡くなった。
様々な遺贈が行われた後、フィールドの残りの財産は2人の孫のために40年間信託され、60%がマーシャル・フィールド3世に、40%がヘンリー・フィールドに渡された。
1905年、フィールドの財産は1億2500万ドル(2023年の価値で32億9000万ドルに相当)と評価された。
ヘンリー・フィールドは1917年に亡くなり、フィールドの財産はマーシャル・フィールド3世の手に渡った。
フィールド自然史博物館は、1894年に彼が100万ドル(2023年の時点で3520万ドルに相当)を寄付したことから、彼の名が付けられた。
フィールドは当初、寄付に消極的で、「博物館のことなど何も知らないし、知りたいとも思わない。100万ドルはあげない」と言ったと伝えられているが、鉄道資材業界の大物で博物館の初期の支援者(後に初代館長)でもある
エドワード・E・エイヤー
が、プロジェクトに資金を提供することで彼の永遠の遺産が達成されるとフィールドを説得した後、彼は妥協し寄付を行ったと伝わっている。
フィールドの死の翌年、フィールド博物館は彼の遺言に従ってさらに800万ドル(2023年の時点で2億6200万ドルに相当)を受け取った。
シカゴ大学は、フィールドとニューヨークの
の両者によって、近隣のエバンストンにあるノースウェスタン大学に対抗するために設立された。
なお、マーシャル・フィールドは創業者の死後1世紀後にメイシーズに吸収された。