岩岡新次郎
明治24年東京生まれ
新次郎は明治40年東京府立第一中学2年を修業した。
実父が経営する東株仲買人岩岡株式店に雇用され、有価証券業に従事した。
大正12年独立して東株実物取引員の免許を取って開業した。
同13年一般取引員免許を取り、実物取引員を廃業した。
昭和6年父が死去したため、新次郎を襲名して東株仲買人岩岡株式店も引き継いだ。
東京府立一中(日比谷高校)から株式仲買に転じる例はあまりない時代だが、岩岡新次郎は同中学の2年を修了したところで、先代岩岡新次郎が経営する岩岡株式店に入っている。
これは明治40年のことであり、父親の命令によると考えられる。
先代は文久2年(1862年)生まれで、早くから兜町で株の現物商いをやっていた。
明治44年に東株仲買人の権利を取得しているが、当時の地場評の記録では「年額480円余の直接国税を納め、まずは二流より下らぬ店」とある。
つまり、超一流ではないが、二流と呼べるものでもないというところで商売を行っている仲買と見られる。
息子の2代目新次郎は大正12年、32歳の時独立して東株実物取引員の免許を取った。
次いで同短期取引員の免許を取っている。
一般取引員を目標に一歩、一歩着実に階段を登っていく姿勢からは手堅いところでもある。
2代目新次郎の言葉として残るのは、「何によらず自制ということが大切ですが、特に投機界に臨んでは、最もこれを守らねばならず、自制のない思惑は決して大成するものではないと、私は思っている。私などは仲買業を父祖の業と心得てやっていますから、あんまり渦中に投じませんが、相場に出動しようとするならば、第一に自己の資力の範囲内でやることで、成り金を夢に見て一度に大きな欲を起こさないことが肝要です」とある。
まず自制心を説くところは堅実主義を標ぼうする岩岡らしい。また、岩岡の談話の中にある「渦中には投じません」
「それはなぜかといいますと、先物の方ではとかく速成にいきたがるので自然、やりそこなうこともありますが、実物は先物のように忙しくなく、従って悠々と合理的な思惑ができるので、早まったこともせず、十分に見込みを達せられます。とにかく相場は一種の道楽としてやるのはよいが、おのれの財産全部をかけてやるべきものではなく、いわんや1万円のものを10万円に活動させようなどとはもってのほかで、そんな危い綱渡りは決して長続きするものではありません。かの石井借金王をご覧なさい。よい教訓じゃありませんか」
とあるのは、みずから相場の渦巻きには身を投ずることはしないで手数料主義のブローカー業務に徹している堅実主義を全面に出している。 岩岡は実物取引から入った人だけに先物よりも実物の方が安全率が高いと現物取引を勧めていた。
また、岩岡がいい教訓という
石井借金王
とは、大物相場師、石井定七のことで、巨額の借金をしてコメを買い占める一方、鐘紡株を買い占め、「横堀将軍」として満天下にその名をとどろかすが、1925年の鐘紡新株をめぐる仕手戦で敗北し、大阪株式取引所理事長の島徳蔵を巻き込んで挽回を図ったが力及ばず、石井は破産宣告を受けた。
その後10数年かけて多額の負債を返済、完済して間もなく交通事故死している。
「いかに資本は少なくても、またその時の配当は低くても、その会社の経営者の人柄の立派な株であれば買って間違いありません。これに反して、暗中で盛んに仕事するような重役のいる会社の株は、まず避けた方がよいと思います。いずれにしても注意の前には損失はないものです。…昨今は、昔と違ってすべての解決は人情でいかない恐ろしい世の中となりましたから、相場をするにも、何をするにもよほど気を付けないといけません」
岩岡の営業は独特で、毎日広告郵便を各方面の見込み顧客に送り、数十人の店員が
文書の整理と電話の応接
に追われ、多忙を極めた。
また、大正8年(1919年)発行の「株式総覧」に「通信販売の範を示している」との記述がある。