ラ・ペルーズ伯ジャン=フランソワ・ド・ガロー
(Jean François de Galaup, comte de La Pérouse,)
1741年8月23日 - 1788年?
フランスの海軍士官及び探検家
太平洋における遠征航海の指揮をとり、最後はオセアニアで消息を絶った。
フランス南部のアルビ近郊で生まれた。
ラ・ペルーズというのは一族の所有地にちなんだ姓である。
イエズス会のコレージュで学び、15歳でブレストの海軍学校へ入った。
英仏間の植民地競争の激化に伴い、1756年から1763年まで行われた18世紀の実質の世界大戦
七年戦争
に従軍し、北アメリカでイングランドと戦った。
戦争初期にフランス領の海岸で交戦し負傷、投獄された経験を持つ。
西インド諸島でイングランドのフリゲート艦エアリアルを撃破した功績で准将の位となった。
1782年8月、彼はハドソン湾岸の2つのイングランドの砦を攻略した。
しかし、捕虜にせず生存者たちに食料と弾薬を与えて解放している。
翌年、故郷の家族は彼に
ルイーズ・エレオノール・ブロドー
という、中流階級の若いクレオール女性と結婚させた。
彼はルイーズとフランス島(現在のモーリシャス島)で出会っていた。
1785年、国王ルイ16世よりラ・ペルーズは太平洋探検を命じられた。
彼が率いるのは、それぞれ500トンのフリゲート、ブッソール号とアストロラブ号だった。
ハドソン湾への奇襲作戦でラ・ペールズの部下だった
ド・ラングル
がアストロラブ号の艦長に任じられた。
なお、この航海への同行を申し込んできた者の中に、16歳のコルシカ人
ナポレオン・ボナパルト
がいた。
彼はパリの軍学校出身で予備のリストに掲載されていたが結局は採用されなかった。
当時、ナポレオンは自身が数学と大砲に通じていることから陸軍より海軍に興味を抱いていたとされる。
ラ・ペルーズは、イングランドの優れた航海者
ジェームズ・クック
が探検手法を真似て、太平洋の島を巡ろうとしていた。
114名の乗員のうち天文学者であり数学者のダジェレ、地理学者のラマノン、植物学者のラ・マルティニエール、医師、3人の自然科学者、そして3人の絵描きドゥシェ・デ・ヴァンシーと、プレヴォスら10人が科学者だった。
1785年8月1日、ブレストを出航した。
ホーン岬を回り、スペイン領チリを調査した。
そしてイースター島(1786年4月)、ハワイ諸島(彼はマウイ島に上陸した最初のヨーロッパ人となった)の後アラスカへ航海した。
1786年6月にセント・イライアス山(山頂にカナダとアメリカ合衆国の国境が通っている。)近くに上陸し周囲を探検した。
1786年7月13日、2隻のロングボートと積み荷、及び21名の乗員がポール・デ・フランセ湾(ラ・ペルーズの命名。現在のリチュヤ湾)の激しい海流に飲まれ遭難した。
北カリフォルニア沿岸を航海し、9月7日に爆発したシャスタ山(カスケード山脈の南部にある火山)の記録を残した。
モンテレイ(メキシコ北東部のヌエボ・レオン州の州都)へ1786年9月14日に到着した。
彼はスペインによるカリフォルニア植民地事情を調査し、フランチェスコ会のインディアンに対する扱いを批判的に記した。
ラ・ペルーズは100日かけて太平洋を横断した。
途中で再びハワイの近海を通過し、北西ハワイ諸島中のネッカー島とフレンチフリゲート瀬を発見している。
アジアで最初に到達したのはマカオで、そこで彼はアラスカで手に入れた毛皮を売り、売上金を乗員との間で分配した。
アジアで最初に到達したのはマカオで、そこで彼はアラスカで手に入れた毛皮を売り、売上金を乗員との間で分配した。
1787年4月9日、マニラに立ち寄って補給を行った。
その後、アジア大陸北西岸を目指した。
彼は済州島を見た(それまでヨーロッパ人が訪れていたのは1635年にオランダ船が難破した際のみであった)。
彼は朝鮮半島沿岸を訪れ、その後奥蝦夷(現在の樺太、サハリン)に渡った。
奥蝦夷の住民が、奥蝦夷、蝦夷(現在の北海道)とタタール沿岸(アジア大陸本土)の地図を書いて見せた。
ラ・ペルーズは、樺太とアジア大陸の間の海峡(間宮海峡。タタール海峡とも呼ばれる)を調査するため海峡の手前まで北上した。
しかし、この海峡の水深がきわめて浅いことを島民から聞きその通過を断念している。
進路を南へ変えて宗谷海峡(樺太と北海道の間の海峡。彼に因んで後にラ・ペルーズ海峡と名付けられた)を航海し、そこでアイヌ民族と出会い、千島列島を探検した。
最終的にはカムチャツカ半島のペトロパヴロフスクへ1787年9月7日に到着した。
ここで彼らは休息をとり、ロシア人とカムチャツカ半島人らの歓待を楽しんだと伝わる。
ラ・ペルーズは、パリからの手紙を受け取り、イギリスが植民しているニュー・サウス・ウェールズの調査を命じられた。
探検隊には駐クロンシュタットのフランス副領事
ジャン・バルテルミ・ド・レセップス
(スエズ運河開発者フェルディナン・ド・レセップスの叔父)
が通訳として探検に加わっていた。
ラ・ペルーズのド・レセップスはこの地で下船し、1年がかりでシベリアとロシアを横断して探検の記録をフランスへ持ち帰った。
結果として、彼はラ・ペルーズ探検隊唯一の生還者となった。
ラ・ペルーズが1787年12月6日に
サモア諸島
に立ち寄った。
一行がサモアを離れる直前、給水に向かって浅瀬で動けなくなったボートをサモア人が襲撃し、アストロラブ号の艦長ド・ラングルと科学者のラマノンを含む12名が殺され20名が負傷した。
ラ・ペルーズは上陸隊の生き残りから悲報を聞いたが島民への報復攻撃を自制した。
トンガへ、そしてオーストラリアへ向けて探検を続けた。
1788年1月26日、ボタニー湾に到着した。
そこには新植民地建設を目的としたイギリス艦隊が、数日前に到着していた。
指揮官のアーサー・フィリップ提督はより適した入植地へ乗艦と共に北上した後だった。
イギリス船員の話で入植先がポート・ジャクソン(現在のシドニーの港)であることをラ・ペルーズは知った。
イギリス人たちは礼儀正しく一行を迎えたものの、物資が欠乏していたためフランス探検隊に援助をする余裕はなかった。
ラ・ペルーズは、自分の記録と手紙をイギリス艦シリウスへ託しヨーロッパへ送り、上陸して食料と新鮮な水を手に入れた。
3月10日、ニューカレドニア島、サンタクルーズ諸島、ソロモン諸島、ルイジアード諸島、そしてオーストラリア西岸と南岸を目指して出航した。
1789年6月にはフランスへ帰国することができるだろうと期待を書き綴った。
しかし、ラ・ペルーズを含む一行全員がその後の消息を絶った。
幸運なことに、出発する前、ラ・ペルーズは価値ある探検の記録の詳細をパリへ送っており、死後出版されている。
1791年9月25日、海軍少将
ジョゼフ・アントワーヌ・ブルーニ・ダントルカストー
は、ラ・ペルーズ探検隊捜索のためブレストを出発した。
彼の航海は、ラ・ペルーズがかつて提案していたオーストラリア北西の島々を巡る科学的・地理的発見の道のりとなった。
1793年5月、彼はサンタクルーズ諸島のヴァニコロ島へたどり着いた。
ダントルカストーは狼煙とも思える煙を島の何ヵ所かで見た。
しかし、島の周囲を囲む危険な暗礁のせいで調査することはできなかった。
ダントルカストーは2ヶ月後に病死し、折悪しく勃発したフランス革命戦争の余波で捜索は断念された。
1826年に、アイルランド人艦長
ピーター・ディロン
はサンタクルーズ諸島の一つティコピア島で、彼はラ・ペルーズ探検隊の物と思われる数本の剣を入手した。
ディロンは売人に尋ね、それらがヴァニコロ島近くの壊れた2隻の大きな船から持ち出された物と知った。
ディロンはベンガルで何とか船を手に入れ、ヴァニコロ島へ出航し、珊瑚礁の狭間の海中にある船の残骸、大砲の弾、錨など多くの証拠を発見しこれら遺品をヨーロッパへ持ち帰った。
探検隊の唯一残った一人、ド・レセップスは当時存命であり、彼はディロンが持ち帰った品々をアストロラブ号の備品と確認した。
ヴァニコロ島の住民から聞いたディロンの情報から、
アストロラブ号もブッソール号も暗礁で難破した。
アストロラブ号は積み荷を降ろして、ばらばらになった。
ブッソール号の生き残りたちは、島の先住民らに虐殺された。
先住民によると、船員の生き残りたちがアストロラブ号の残骸から2本マストの船を造り、9ヶ月後に西へ向けて出発した。
その後彼らに何が起こったか誰も知らないという。
そしてまた、主人と思われる男と彼の従者の2人が島に残り、ディロンがやってくる数年前に島を去ったとのことがわかった。