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2025年01月07日

25年の相場を暗示か 政治ニュース引き金に通貨オプション取引が急増

 通貨オプション市場は6日、静かなスタートとなったが、
   政治関連ニュース
を受けて状況は一変し、取引規模が約2カ月ぶりの高水準に膨らんだ。
 今年起こりえることを暗示しているかのようだ。

 米証券保管振替機構(DTCC)のデータによれば、同日の取引高は
   1080億ドル(約17兆円)
に到達した。
 昨年12月に日米金融当局が金融政策を発表した両日を上回った。
 カナダのトルドー首相の辞意表明や米国の関税に関する報道が取引急増の要因となった。
 
 米国経済の強さとトランプ次期大統領の関税を巡る脅しを受けた米ドル需要の高まりから、米ドル上昇を見込んだヘッジファンドのポジションは、約6年ぶりの高水準まで積み上がっている。
 そうしたポジションの偏りを受け、市場が急反転した際に損失が拡大するリスクが高まっている。

 6日は関税の脅威にさらされている国・地域の通貨に対する
   米ドル・ロング
のオプションを、短期筋が巻き戻す動きが見られた。
 トランプ氏の側近らが関税の範囲を重要輸入品のみに限定することを検討していると、米紙ワシントン・ポスト(WP)が報じたことが材料視された。
 その後、トランプ氏は報道を否定した。

 
ひとこと
 手の内を報道されれば否定するのは当然であり、意固地になるかどうか。

 
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ベンチマーク・ミネラル・インテリジェンス(Benchmark Mineral Intelligence 別名ベンチマーク・ミネラルズ)  チウムイオン電池から電気自動車(EV)サプライチェーンまでの専門情報プロバイダーで価格報告機関(PRA)

ベンチマーク・ミネラル・インテリジェンス(Benchmark Mineral Intelligence 別名ベンチマーク・ミネラルズ)
 2014年に
   サイモン・ムーアズ
によって設立され、所有されているロンドンを拠点とする
   価格報告機関(PRA)
であり、リチウムイオン電池から電気自動車(EV)サプライチェーンまでの
   専門情報プロバイダー
である。
 同社の資産は2022年時点で1100万ポンドであった。
 
 ベンチマークミネラルズの価格評価部門は、リチウム、コバルト、グラファイト、ニッケルの原材料価格を定期的に算出している。
 2019年8月、同社はリチウム価格について、
からタイプ1合理的保証として知られる
   国際証券監督者機構(IOSCO)
の最高保証を獲得した。

 2021年、ベンチマークは、リチウム、コバルト、ニッケル、グラファイトという主要なバッテリー原材料すべてについて、
   PwC
からIOSCO認定を取得した。
 このような認定がそれぞれ個別に取得されたのは初めてとなる。

 同社のリチウムイオン電池メガファクトリー評価では、カソード、アノード、原材料需要、セルフォーマット、エンドユーザーなど、世界中のセル容量の世界的な増加を追跡している。
 ベンチマークミネラルズは、自社の専門アナリストが最新のデータ、分析、市場に関する見解を発表するイベントを開催している。
 ベンチマークワールドツアーは、業界向けの無料投資セミナーシリーズである。
 2015年に8都市で始まった
   ベンチマークワールドツアー
は、ニューヨーク、トロント、シドニー、メルボルン、香港、東京、ソウル、ロンドン、フランクフルト、ケープタウンを含む世界15都市にまで成長した。
 ベンチマークミネラルズの主要業界イベントは、毎年カリフォルニアで開催されるベンチマークミネラルウィークとして知られている。
 カソードカンファレンスとグラファイト&アノードカンファレンスの2つの主要なショーが開催される。
 ベンチマークミネラルサミットは毎年5月にワシントンDCで開催される。
 この会議には、米国を拠点とするリチウムイオン電池から電気自動車のサプライチェーン、米国政府部門、政策立案者が集う。

 ベンチマーク・ミネラル・インテリジェンスは、2017年、2019年、2020年の3回にわたり、米国議会
   上院エネルギー天然資源委員会
で証言を行っている。

    
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ジョン・D・マッカーサー(John D. MacArthur)米国の保険王、不動産投資家

ジョン・ドナルド・マッカーサー
        (John Donald MacArthur)
   1897年3月6日 - 1978年1月6日
 米国の保険王、不動産投資家、慈善家であり、
   ジョン・D・アンド・キャサリン・T・マッカーサー財団
を設立し、マッカーサー・フェローシップの寄付者でもあった。
 
 ジョン・ドナルド・マッカーサーは、1897年3月6日、ペンシルバニア州ピッツトンで
   ジョージナ
と牧師
   ウィリアム・テルファー・マッカーサー
の7番目の子供として生まれた。
 彼は5歳の時にピッツトンからイリノイ州シカゴに引っ越した。
 彼と彼の多くの兄弟は、巡回バプテスト派の説教師と機知に富んだ妻の子供として貧困の中で育った。
 彼の父親は多くの福音主義の訓練を受け、家族はシカゴからニューヨーク州ナイアック、マサチューセッツ州スプリングフィールドまで、国中を転々とした。
 彼の義理の妹は女優の
   ヘレン・ヘイズ
である。
 彼の兄弟はアメリカの劇作家でアカデミー賞受賞脚本家の
   チャールズ・マッカーサー
で、劇「The Front Page」の共著者である。
 ジョン・マッカーサーは8年生の後に学校を中退し、セールスマンになった。

 マッカーサーは第一次世界大戦中にアメリカ海軍に入隊し、その後カナダ空軍に入隊した。[
 彼は健康上の理由で除隊となった。
 
 マッカーサーは通信販売の保険事業で財を成した。
 彼は1935年に2,500ドルを借り入れて大恐慌で倒産した保険会社
   バンカーズ生命保険会社
を買収し、その後多くの小規模保険会社を買収してビジネス帝国を築いた。
 1950年代には有名なアナウンサーの
   ポール・ハーベイ
を自社のラジオスポークスマンとして契約した。
   
 マッカーサーはまた、フロリダの不動産に多額の利益をもたらす投資をして、莫大な財産を増やした。
 死去するまでに、彼はフロリダに10万エーカーの不動産を所有していた。
 1954年にマッカーサーは550万ドルで、当初
   ハリー・シーモア・ケルシー
が所有し、後にハリー・オークス卿が所有していたパームビーチ郡北部の2,600エーカー(11 km 2)の土地を購入した。

 そこには、今日のレイクパーク、ノースパームビーチ、パームビーチガーデンズ、パームビーチショアーズのほとんどが含まれていた。
 マッカーサーは長年、パームビーチショアーズのシンガーアイランドにあるコロネーズビーチホテルのコーヒーショップの隅のテーブルで商売をしていた。
 彼と妻は、大西洋とレイクワースラグーンを見下ろすバーの上のアパートに住んでいた。
  
 マッカーサーは最初に
   ルイーズ・インガルス
と結婚し、2人の子供をもうけた。
 息子はアメリカの実業家で慈善家の
   J・ロデリック(1920年 - 1984年)
で、娘はヴァージニアである。
 夫婦は1937年に離婚した。

 1938年、マッカーサーは秘書の
   キャサリン・T・マッカーサー(旧姓ハイランド)
と結婚した。
 マッカーサーは数十年にわたってマッカーサーの会社の経営に深く関わり、マッカーサーの慈善財団は彼女にちなんで名付けられている。
 ハーパーズ・マガジンの社長であり、J・ロデリック・マッカーサーの息子である
   ジョン・R・マッカーサー
は、ジョン・D・マッカーサーの孫である。

 1978年1月6日、彼はフロリダ州ウェストパームビーチのグッドサマリタン病院で膵臓癌のため亡くなった。
    
   
posted by まねきねこ at 17:06 | 愛知 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | バイオグラフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

トランプ氏の大統領選勝利が確定、議会が正式承認

 米国議会は6日、上下両院合同会議を開き、共和党のドナルド・トランプ氏を次期大統領に正式に選出した。
  
 大統領選の選挙結果の承認手続きは毎年1月6日の午後1時に行われる。
 各州から送られてきた選挙人の投票記録を開封して、公式な集計を行う。
 前回2021年の認定手続きでは、バイデン大統領の
   勝利に異議
を唱えるトランプ氏の支持者らが連邦議会議事堂を襲撃し、大混乱に陥った。
 そのため今回は、議事堂周辺に高いフェンスを設置するなど、大幅に警備が強化される中で実施された。
  
 大統領選でトランプ氏に敗れた
   ハリス副大統領
は、これに先立ち動画を投稿した。
 上院議長として投票結果の集計をとり仕切るという憲法で定められた役割は「神聖な義務」だと述べていた。
 議会襲撃事件を念頭に置いた発言とみられる。
  
 トランプ氏はこれまで、襲撃事件から4年が経過し、議会に乱入し有罪となった支持者らを「愛国者」として、恩赦する意向を示している。
    
   
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韓国当局が尹大統領の逮捕状延長を申請、再執行の試みは週後半以降となりそう

 韓国の高位公職者犯罪捜査庁(公捜庁)は、尹錫悦大統領に対する逮捕状の延長を申請した。同庁の捜査チームは3日に逮捕状を執行しようとしたが、数時間に及ぶ大統領警護官とのにらみ合いの末に執行停止を余儀なくされていた。
  
 逮捕状執行が阻止されたことを受け、公捜庁は警察に代理執行を要請した。だが、警察は公捜庁が取得した逮捕状の執行を担当すれば法的な問題が生じる可能性があるとして、要請を事実上拒否した。
  
 警察庁幹部の白東欽氏は6日、「逮捕状執行について公捜庁と協議を続ける」と記者団に述べた。

 逮捕状の延長申請は、執行があるとしても今週後半以降になる可能性を示唆する。
 いずれにせよ、尹大統領の法的代理人は大統領が協力することはないと述べ、法的措置を警告した。
  
 「公捜庁は警察の捜査を監督する権限がないのに、警察をその下部機関のように扱っている」と、尹大統領の弁護人を務める尹甲根氏はブルームバーグ・ニュースに対するテキストメッセージで主張した。
  
   
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ロシアが北朝鮮に高度な衛星技術を提供する可能性

 ブリンケン米国務長官は6日、ロシアが近々、北朝鮮に
   高度な衛星技術
を共有する可能性があると警告した。
 北朝鮮はウクライナへの侵攻を支援するためロシアに軍隊を派遣している。
 ブリンケン氏は「北朝鮮はすでにロシアの軍備と訓練の提供を受けている。今やロシアが北朝鮮に高度な宇宙・衛星技術を共有する考えであると信じるに足る理由がある」と述べた。

 トランプ次期米大統領の就任を前に、ブリンケン氏は最後の外遊の一環として米国の主要同盟国を訪問している。
 韓国軍合同参謀本部によると、ブリンケン氏の発言は北朝鮮が朝鮮半島の東岸海域に
   中距離弾道ミサイル
と思われるものを試射したことを受けて行われた。

 ブリンケン氏はまた、ロシアのプーチン大統領が北朝鮮の
   核兵器計画を容認
しようとしており、朝鮮半島の非核化に向けた数十年にわたる関与を覆す可能性があると述べた。
 この警告は米国連大使が以前に発していたものと同じだ。

 米国では、プーチン氏と北朝鮮の金正恩総書記が昨年6月に「包括的戦略パートナーシップ条約」を締結して以降、両国の同盟関係が深まっていることに繰り返し懸念を表明している。

    
      
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クックFRB理事、追加利下げを「より慎重に進める」こと可能

 米連邦準備制度理事会(FRB)のクック理事は、追加利下げに関して政策当局はより慎重に進めることが可能との見解を示した。労働市場が堅調な上に、インフレ圧力が根強く残っていることに言及した。

 クック理事は6日、ミシガン州アナーバーで開催されたイベントで「昨年9月以降、労働市場は当時の私の想定に比べて幾分堅調である一方、インフレは根強い」と指摘。「それゆえ、追加利下げをより慎重に進める余裕がある」と述べた。発言内容は準備原稿に基づく。

 米連邦公開市場委員会(FOMC)は昨年9月に利下げを開始し、12月まで3会合連続で引き下げた。クック理事はこうした措置によって「金融政策の景気抑制度合いが著しく低下した」と述べた。

 「私は当初から、金融緩和の早い段階にはより迅速に動き、政策金利が中立に近づいたら緩和ペースをより漸進的にすることを想定していた」と発言。「時間とともに、政策金利をより中立的スタンスに向けて動かすことが適切になる公算が大きいだろうと、なお考えている」と話した。
  
 クック理事は米経済については、「良好な状態で」今年が始まったと評価。失業率が比較的低いことや賃金の伸びがインフレ率を平均的に上回っていることを踏まえ、雇用の状況は堅調との認識を示した。労働市場がインフレ圧力を著しく高める要因だとはみていないとも語った。
  
 物価上昇についてはここ数年で大きく鈍化したとした上で、「当局の2%目標に達するには、まだ先がある」と言明。「インフレ率は均一ではないにせよ、2%目標に向けて時間をかけて持続可能な形で徐々に戻りつつあると、引き続きみている」と述べた。
  
   
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テンセントADRが急落、米国防総省が中国軍関連企業リストに掲載

 米株式市場で中国テンセント・ホールディングス(騰訊)の米国預託証券(ADR)が6日急落した。
 一時10%近い下げとなった。
 米国防総省が同社を人民解放軍に協力しているとされる企業のリストに追加したことが材料視された。
  
 米国防総省は同日公表した連邦官報掲載の通知で、テンセントの他、電気自動車(EV)バッテリーメーカーの
   寧徳時代新能源科技(CATL)
やドローンメーカーの
   オーテル・ロボティクス(道通智能)
も同リストに加えたと明らかにした。
 米国防総省のリスト自体は具体的な制裁措置を規定していないが、米国企業はリストに掲載された企業との取引を控える傾向にある。
  
 テンセントは発表文で、リスト掲載は「明らかに間違っている」と主張した。
 同社広報担当は「当社は軍事企業でもそのサプライヤーでもない」とし、「制裁や輸出規制とは異なり、今回のリスト掲載がわれわれのビジネスに影響を与えることはない。それでも当社は米国防総省と協力して誤解に対処していく」とコメントした。
  
 また、CATLもリスト掲載は「間違い」だと表明した。
 軍事関連の活動には関与しておらず、非公開で設立され、2018年に上場企業となったと声明で説明した。
 オーテル・ロボティクスに営業時間外にコメントを求めたがすぐに返答はなかった。
  
 テンセントのADRは一時9.8%安と、日中取引で約3カ月ぶりの大幅下落となった。
 テンセント株の4分の1近くを保有するオランダのインターネット企業プロサスのADRも一時9.6%安と大きく下げた。
  
 2020年にトランプ大統領(当時)は、人民解放軍が所有ないしコントロールする中国企業への米国投資を禁止する命令に署名したが、国防総省の同リストはこの命令に由来する。
  
 国防総省は連邦官報への通知で、リストに掲載された企業は見直しを求めることが可能だとした。 
    

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アメリカ国内で初めて「鳥インフルエンザ感染の患者」が死亡

 米疾病対策センター(CDC)は6日、南部ルイジアナ州で、
   鳥インフルエンザウイルスの「H5N1型」
に感染し、入院して治療を受けていた患者が、国内で初めて死亡したと発表した。
 この患者は高齢で基礎疾患があったが、人から人への感染は確認されておらず、一般の人に対するリスクは引き続き、低いとしている。
 地元の保健当局によりますと、この患者は
   高齢で基礎疾患があったということ
で、先月、重症のケースとして感染が確認され、治療を受けていました。
 CDCは鳥インフルエンザに感染し、死亡したケースとしてはアメリカ国内では初めてだったとしています。
 この患者は、自宅で飼育していた鳥などと接触したあと、感染が確認されていた。
 ただ、人から人への感染は確認されていないということで、CDCは、一般の人に対するリスクは引き続き、低いとしている。

 アメリカでは去年以降、鳥インフルエンザに感染した人が66人確認されている。
 なお、ほとんどのケースは目の充血など軽い症状で、感染した鳥や牛に接触する機会があったという。 

   
ひとこと
 新型ワクチン接種でヒトの耐菌性の抵抗力が落ちたという話もあり気になるところ。

   
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世界食糧計画(WFP)の車両にイスラエル軍が射撃

 世界食糧計画(WFP)は6日、パレスチナ自治区ガザの検問所付近で、WFPのスタッフ8人が乗った3台の車列が
   イスラエル軍の攻撃
を受けたと発表した。
 スタッフにけがはなかった。
 また、WFPは「恐ろしい出来事を強く非難する」として、全当事者に国際人道法を尊重するように求めた。
 銃撃を受けたのは5日で、少なくとも16発の銃弾が車両に命中したという。
 イスラエル当局からは必要な許可を得ており、車両にはWFPを示すマークが付いていた。


ひとこと
 イスラエル兵士のコントロールができなくなりつつあるようだ。
 恐怖心等で精神的に不安定な兵士が多くなっているのか、意図的に攻撃したのかは不明だ。

  
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日鉄とUSスチールが買収阻止でバイデン氏「不当介入」と主張し提訴

 日本製鉄のUSスチール買収計画にバイデン米大統領が不当に介入したとして、両社が提訴した。

 日鉄とUSスチールが6日、共同で発表したところによると、両社は、バイデン大統領が自らの政治的目的を達成するために全米鉄鋼労働組合(USW)の支持を得て、
   法の支配
を無視したと主張した。
 同大統領が不適切な影響力を行使したことにより、
   対米外国投資委員会(CFIUS)
は誠実な審査を実施しなかったと断じ、大統領の買収阻止命令とCFIUS審査の無効などを米裁判所に申し立てた。
  
 また、USスチールの競争力をそぐために
   買収阻止に加担
したとして、競合のクリーブランド・クリフスの
   ローレンソ・ゴンカルベス最高経営責任者(CEO)
とUSWの
   デービッド・マッコール会長
を別の米裁判所に提訴した。
  
 日鉄とUSスチールは、政治的な介入に屈することなく買収を完了させるという「変わらぬ決意」を今回の提訴は示していると説明した。
  
 日鉄はUSスチール買収への不当介入に対する訴訟に関して、7日午前9時から都内で会見する。

 USスチールについてトランプ次期米大統領は6日、「かつて世界で最も偉大だった企業」であり、「先頭に立って偉大さを取り戻す」存在になれると、自身のソーシャルメディア「トゥルース・ソーシャル」に投稿した。

 この投稿でトランプ氏は、「関税でUSスチールははるかにもっと稼げるようになり、価値ある企業になる。そうであれば、いま身売りしたいと考えるだろうか」と問い掛け、「その全ては、すぐ実現する!」と続けた。

 米紙ワシントン・ポスト(WP)は同日、トランプ氏側近らが重要な輸入品を対象に全ての国に適用する関税の導入を検討していると報じた。

 6日の米株式市場でUSスチールは8%上昇して終了した。

 ホワイトハウスのパターソン報道官は「国家安全保障と貿易の専門家からなる委員会は、この買収が米国の国家安全保障にリスクをもたらす可能性があると判断した。
 バイデン大統領は、この国の安全保障、インフラ、サプライチェーンの強靱さを守ることを決してためらわない」とコメントした。
  
 クリーブランド・クリフスのゴンカルベスCEOは、両社による訴訟について、「自らの失敗から目をそらすための必死の試み」であり、根拠を欠くと主張。「われわれは訴訟に十分備えており、法廷で事実を明らかにできることを期待している」とコメントした。
  
 USWのマッコール会長は、「われわれは訴訟の内容を検証しており、これら根拠のない申し立てに対し断固として反論するつもりだ」と述べた。
   
 
ひとこと
 国の安全保障という視点から言えば、バイデン氏の判断も出てくるだろう。
 訴訟により泥沼に陥る可能性もありリスクはより大きくなりかねないかも。
 
   
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アメリカのシリア制裁が暫定政権と特定の取引を許可し人道支援を後押し

 米国政府は6日、アサド前政権下のシリアに発動していた制裁を一部緩和すると発表した。
 シリアの暫定政権と特定の取引を許可する内容で、国際組織や非政府組織(NGO)による人道支援活動を後押しする狙いがある。
 財務省は声明で、制裁が公共サービスや人道支援の提供などを妨げないようにするための措置だと説明した。
 さらに、アサド前政権の崩壊は「シリアとその国民に再建のまたとない機会」と指摘し、「人道支援と責任ある統治を引き続き支援していく」と強調した。
    
    
posted by まねきねこ at 10:06 | 愛知 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | onemile stone | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

想定される複数の目的を仕込んだ、トランプ氏の関税政策における不透明性こそが要点

 米国への輸入品全てに一律の関税を導入する計画を掲げる
   トランプ次期大統領
が、対象範囲限定の検討を巡る米紙
   ワシントン・ポスト
の報道を否定したことで、政権発足後に実際に講じられる政策への不透明感がより広がった。
 そして、こうした不透明性こそが重要なポイントだとの見方が広がっている。
  
 トランプ氏と同氏のチームが
   どのような関税措置を打ち出すつもりなのか明確にしていない
ことで、市場や企業、貿易相手国は臆測するしかなく、6日の同紙報道で疑念はより深まった。
  
 関税について全ての国に適用されるが、国家および経済安全保障上の懸念がある重要輸入品のみを対象とすることを側近が検討していると同紙が伝えた。
 この報道に対し、トランプ氏は自身のソーシャルメディアプラットフォーム「トゥルース・ソーシャル」に、「私の関税政策が縮小されると誤って報じている。それは間違いだ」と投稿した。

 ただ、何が正しいのかは結局、明確でないし、基本的には米国の政権にとって利益が大きなものであれば、米国経済にとってメリットとなると言い換えて緩和するといった見方もある。

 トランプ氏は大統領選で全ての国からの輸入品への10−20%の一律関税と中国からの輸入品への最高60%の関税賦課を公約している。
 当選後には、10%の対中追加関税に加え、メキシコとカナダからの輸入品への25%関税賦課の可能性を表明して再び市場に衝撃を与えた。

 次期政権のチームが計画をまとめたのかどうかは不透明なままだ。
 トランプ氏が包括的な関税政策を打ち出す用意を進めているのはほぼ確実であり、これが実施されれば対抗措置が講じられ意味がない政策になり負担を負うのは米国民となり、逆に、米国の財政には一時的にメリットが生じることになるだろう。
 同氏は関税について、歳入増や米製造業の復興をもたらし、貿易相手国を自分の優先課題に従わせる手段の一つと見なしているが、そもそも、単純なものではない。

 トランプ政権1期目で米国の代表として主要7カ国(G7)や主要20カ国・地域(G20)の会合に参加し、現在は法律事務所
   スクワイヤ・パットン・ボグズ
でパートナーを務める
   エベレット・アイゼンスタット氏
は、トランプ氏が過去数週間のSNSへの投稿で、関税が自身の経済政策の重点施策の一つであるとあらためて表明したことに言及し、
   「これは単に取引目的ではないと見受けられる」
と指摘した。
  
 その上で、「関税には複数の目的があると考えられ、彼も複数の目的を意図していると想定される」と述べ、「次期大統領が何をしたいのか知るためには、彼に尋ねなければ分からないということを今回再確認することになった」と続けた。
 
 
ひとこと
 トランプ政策で右往左往することで効果の評価を出そうとしているようであり目論見通りになるかどうかは不明だ。
 
    
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FRBのバー氏が任期全う方針一転させ、銀行監督担当副議長を退任

 米連邦準備制度理事会(FRB)の
   マイケル・バー氏
は、銀行監督担当副議長の職を退くとFRBが6日に発表した。

 後任が早期に決まる場合を除いて、同氏は2月28日付でこの職を降りる予定だった。
 なお、FRB理事としての職務は続ける意向だという。

 「監督担当副議長という役職は、世界金融危機後に創設されたもので、FRBの監督と金融システム規制における責務を拡大し、透明性と説明責任を高めることが目的だった」とバー氏は声明で説明した。
 また、「この役職を巡る議論は、使命からの逸脱につながるリスクがある」と続けた。

 銀行監督担当副議長としてのバー氏の任期は、2026年7月までとなっていた。
 同氏は昨年11月、トランプ次期大統領が同氏の解任に動いても任期を全うする計画だと述べていた。
  
 大手米銀の資本要件を大幅に引き上げる抜本的な規制強化案は、バー氏の副議長退任によってその先行きが一段と見通しにくくなった。
 規制案は将来の銀行破綻やシステミックな金融危機の再発を防止するためのもので、バー氏はこの交渉で中心的な役割を果たしてきた。

 新たな案ではシティグループやJPモルガン・チェース、ゴールドマン・サックス・グループなどトップクラスの銀行に19%の資本増強が求められる。
 金融業界はこれに強く反対し、積極的にロビー活動を展開している。

 昨年9月、バー氏は
   資本増強率を9%に緩和するという変更案の概要
を提示した。
 ただ、連邦預金保険公社(FDIC)では理事5人のうち少なくとも3人が、この修正案に反対しているとブルームバーグが報じた。

 かつて財務省高官として2010年成立の
   ドッド・フランク法策定
に貢献したバー氏は、2022年に超党派の支持を得て銀行監督担当のFRB副議長に就任した。
 暗号資産(仮想通貨)や気候変動といったバイデン政権の政策強化へ、大手銀行を日々指導すると同時にルール執行と監督も強化した。
  
 上院銀行委員会の共和党トップ
   ティム・スコット上院議員
は銀行の資本要件案や地銀危機に関連してバー氏の行動を声明で批判した。
 また、「責任ある金融監督者が就任するよう」、トランプ次期大統領と取り組む用意があると述べた。
  
 ニューヨーク株式市場ではKBW銀行指数が一時2%余り上昇した。
 昨年12月中旬以来の高水準に達した。
 市場分析会社バイタル・ナレッジの創業者
   アダム・クリサフルリ氏
は「バー氏の退任はポジティブなニュースだ。同氏は銀行規制の強化と資本ルールの厳格化を提唱する人物と考えられていたからだ」とリポートで指摘した。
   
   

posted by まねきねこ at 09:28 | 愛知 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | onemile stone | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

チャレンジャー・グレイ・アンド・クリスマス(Challenger, Gray & Christmas) 専門の外部企業に委託して再就職を支援する制度を米国で初め導入した企業

          (Challenger, Gray & Christmas)
 米国イリノイ州シカゴに本社を置く、企業が
   リストラや事業縮小などの理由
で従業員を退職させる際に、専門の外部企業に委託して再就職を支援する制度を米国で初め導入したエグゼクティブ・アウトプレイスメント会社で
   ジェームズ・E・チャレンジャー
が創設し、北米全土にオフィスを構えている。
 人材管理協会は1996年に彼をアウトプレイスメント分野の創始者および先駆者として表彰した。
 同社の創設者であるジェームズ・E・チャレンジャーは、非自発的に退職する人々に親切にすることは良いビジネスであると企業を説得しようと何年も費やした。

 1961 年、ジェームズ チャレンジャーは休暇を取ったため法律事務所を解雇された。
 1966 年に、彼は
   Challenger, Gray & Christmas, Inc.
を設立した。
 彼はトレーニング、カウンセリング、サポート プログラムを考案した。
 1983 年に UPI の Cathy Lewandowski 氏は「今日、完全な雇用保障など存在しません。どんな職種であっても、解雇された場合に実行できる明確に定義された代替プランを用意しておく必要があります。」と述べている。
  
 1977年、チャレンジャー・グレイ・クリスマスは、国内で最も古く、最大の再就職支援会社の一つとして認められた。
 チャレンジャー・グレイ・クリスマスの初期の主要顧客には
   モトローラ社
   マクドナルド
   ユナイテッド航空
   クエーカー・オーツ社
   シアーズ・ローバック社
などがあった。

 2003年、ジョン・A・チャレンジャーは、米国下院中小企業委員会で、世界経済における
   恒久的な雇用喪失の問題
について証言した。
 2002年、ウォールストリートジャーナルはチャレンジャーに、2002年6月25日のジャーナルに掲載された署名入りの記事でこの問題について話すよう依頼した。
 彼は連邦準備銀行の労働/人事委員会に2期3年務めた。
  
   
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E. ピアース マーシャル(E. Pierce Marshall)米国の石油業界の幹部

エヴェレット・ピアース・マーシャル
          (Everett Pierce Marshall )
   1939年1月12日 - 2006年6月20日
 米国の石油業界の幹部。父の
   J・ハワード・マーシャル2世
から相続した
の16%の実質的所有者であった。
 彼は、遺言書から除外された父の財産の一部を求めた継母の
   アンナ・ニコル・スミス
と兄の
   J・ハワード・マーシャル3世
の訴訟の被告として、人生の最後の12年間を過ごした。
 
 マーシャルはウェッブ・スクール、ミラーズバーグ陸軍士官学校に通い、 1956年にカルバー陸軍士官学校を卒業した。
 1961年にポモナ大学で学士号を取得した。
 マーシャルは
   ゼネラルモーターズ
でエンジン試験エンジニアとしてビジネス・キャリアを開始した。
 その後アメリカ海軍に短期間勤務した。
 海軍を退役した後、マーシャルはニューヨークの投資銀行である
に勤務した。
 1969年、マーシャルは父親と一緒に働くためにヒューストンに移住した。

 1974年の兄の結婚式で、彼と兄は父のJ・ハワード・マーシャル2世から「これらは王冠の宝石だ、大切にしろ」と言われコーク・インダストリーズの株式4%をそれぞれ贈られた。

 J・ハワード・マーシャル3世は
   ビル・コッホ
   フレデリック・R・コッホ
の側に立ち、ピアスと父はチャールズ・コッホとデビッド・コッホの側に立ち、コッホ・インダストリーズの経営権をめぐって争った。
 その結果、J・ハワード・マーシャルは、以前J・ハワード・マーシャル3世に与えていた株式を買い戻した。
 同社は1983年にビル、フレデリックらの残りの株式を購入した。

 1979年から1981年まで、彼は
   インターナショナル・オイル・アンド・ガス・コーポレーション
の財務担当副社長を務めた。
 1982年には自身の投資を管理した。
 1983年、ダラスの証券会社
   ウェーバー・ホール・セール・アンド・アソシエイツ
に入社した。
 1986年8月、コロラド州リトルトンに拠点を置く鉄鋳物工場
   エレクトロン・コーポレーション
の社長に就任した。
 1981年に義父が亡くなってからは会長も務めた。

 彼はエレクトロンを成功裏に立て直し、コロラド州とオクラホマ州で300人以上の雇用を維持した。
 1993年に父のJ・ハワード・マーシャルの健康状態が悪化し始めたとき、彼は証券仲介業をやめ、エレクトロンでの責任を委任した。
 また、マーシャル・ペトロリアムの運営責任を引き受けた。
 1995年に父親が亡くなり、家族の財産はピアースのために信託され、兄の
   J・ハワード・マーシャル3世
と父親の未亡人である
   アンナ・ニコル・スミス
には遺言が残されなかった。
 スミスとマーシャル3世は訴訟を起こし、ピアースと父親の遺産はマーシャル対マーシャルやスターン対マーシャルなど数件の訴訟の被告となり、両訴訟は米国最高裁判所にまで持ち込まれた。
 最終的に裁判所はマーシャル3世とスミスには遺産に対する権利がないとの判決を下した。
 ピアースは脚光を浴びたり弁護士と関わったりするのが好きではなかった。
 ただ、父親の遺志を継ぐための闘いをしていると信じていたため、訴訟の和解を拒否した。
 
 マーシャルは2006年6月20日、薬剤耐性ブドウ球菌と連鎖球菌の感染による敗血症性ショックで67歳で亡くなった。
 コーク・インダストリーズの株式はその後、妻のエレイン・テッテマー・マーシャルと息子のプレストン・マーシャル、E・ピアース・マーシャル・ジュニアのために信託された。
 
 マーシャルは1965年に
   エレイン・テッテマー・マーシャル
と結婚し、プレストン・マーシャルとE・ピアース・マーシャル・ジュニアの2人の息子をもうけた

 マーシャル氏は常に、コーク・インダストリーズが株式公開を計画しておらず、流動性が低いため、同社の株式は公表された報告書に示された額よりも価値が低いと述べていた。 

 マーシャルはモータースポーツ愛好家で、 1979年4月に行われた
   キャノンボール・ベイカー・シー・トゥ・シャイニング・シー・メモリアル・トロフィー・ダッシュ
   (通称キャノンボール・ラン)
の最後のレースに出場した。
 スポーツカー・クラブ・オブ・アメリカのレーサー、デイブ・ファウストとカービー・グッドマンとチームを組み、マーシャルは9C1ポリス・パトロール・パッケージと350立方インチのLT-1 Z-28シボレー・カマロ・エンジンを搭載したシボレー・マリブを運転した。
 47人の参加者中13位でフィニッシュし、コネチカット州ダリエンからカリフォルニア州レドンド・ビーチまでの走行を36時間51分で完走した。
 マーシャルは「20年以上経った今でも、笑いと思い出は新鮮だ。参加できて幸運だった」と記している。

   
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ヴィルヘルム・カナリス(Wilhelm Canaris) アプヴェーア(ドイツ軍事情報機関)の長官

ヴィルヘルム・フランツ・カナリス
          (Wilhelm Franz Canaris)
   1887年1月1日 - 1945年4月9日
 ドイツの海軍提督であり、1935年から1944年までアプヴェーア(ドイツ軍事情報機関)の長官を務めた。
 カナリスは当初は
   アドルフ・ヒトラー
   国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)
の支持者であった。
 しかし、1939年のドイツによるポーランド侵攻後、第二次世界大戦中にヒトラーに反対し、受動的および能動的抵抗活動を行った。

 ナチスドイツの
   軍事情報機関
の長として、彼は抵抗に参加し、ナチスの戦争努力を抑制・妨害する重要な立場にあった。
 戦争がドイツに不利に傾くと、カナリスと他の軍将校はナチスドイツの指導部に対する
   秘密の反対
を拡大させた。
 1945年までに、ナチス政権に対する彼の抵抗と妨害行為が明るみに出され、連合軍が南ドイツに進軍する中、カナリスは
   フロッセンビュルク強制収容所
で大逆罪で絞首刑に処された。
 
 カナリスは1887年1月1日、ヴェストファーレン州のアプラーベック(現在はドルトムントの一部)で、裕福な実業家
   カール・カナリス
とその妻
   オーギュスト(旧姓ポップ)
の息子として生まれた。
 カナリスは、自分の家族が19世紀のギリシャの提督で政治家の
   コンスタンティノス・カナリス
と親戚関係にあると信じており、それがドイツ帝国海軍に入隊する決断に影響を与えた。
 コルフ島を訪れた際に、このギリシャの英雄の肖像画を贈られ、常にオフィスに飾っていた。
 しかし、リチャード・バセットによると、1938年の系図調査で、カナリスの家族は実は北イタリア系で、もともとカナリシ人で、17世紀からドイツに住んでいたことが判明した。
 祖父はカトリックからルーテル派に改宗していた。

 カナリスは、デュースブルクのシュタインバルト=レアル高等学校を卒業した。
 幼い頃から帝国海軍の士官になることを志していたが、父親は帝国陸軍に入隊するよう勧めた。
 1904年にカール・カナリスが亡くなったことで、カナリスが海軍でのキャリアを追求する上で唯一の障害が取り除かれた。
 1905年3月の卒業から1か月後には海軍に入隊した。
 キールの海軍兵学校に入学したカナリスは、 SMS シュタインに乗って海軍教育を開始した。

 シュタインは、海の士官候補生が基本的な航海術を学ぶ練習船だった。
 1906年に士官候補生の階級に達し、1907年4月から海軍士官を目指す者に求められる学科を受講した。
 1908年秋、 SMS ブレーメンに乗って勤務を開始し、中南米付近の大西洋を巡航した。
 1909年2月、カナリスはフアン・ビセンテ・ゴメス大統領からベネズエラ解放勲章(騎士階級)を授与された。

 経緯は不明だが、1908年初頭にカナリスがドイツ政府代表と当時のゴメス副大統領との協議を仲介したことも含まれている可能性がある。
 1910年8月に彼は中尉に任命された。
 
 1914年に第一次世界大戦が勃発するまで、カナリスは1911年12月に配属された軽巡洋艦SMS ドレスデンで海軍情報将校を務めていた。
 この艦は、 1914年12月の
   フォークランド諸島の戦い
で長期間イギリス海軍の攻撃を逃れることができたマクシミリアン・フォン・シュペー提督の東アジア艦隊の唯一の軍艦であった。 

 マス・ア・ティエラの戦いの後、動けなくなったドレスデンはロビンソン・クルーソー島のカンバーランド湾に停泊した。
 抑留に関してチリと連絡を取った。
 湾内にいる間、イギリス海軍の艦船がドレスデンに接近して砲撃し、乗組員は船を自沈させた。
 乗組員のほとんどは1915年3月にチリで抑留された。

 1915年8月、カナリスは流暢なスペイン語を使って「リード・ロサス」 という名前で脱出した。
 ドイツ商人の助けを借りて、彼は1915年10月にドイツに戻ることができた。
 この途中、彼はイギリスのプリマスを含むいくつかの港に寄港した。

 カナリスはその後、おそらくチリからの巧妙な脱出によりドイツ海軍情報部の目に留まり、諜報活動に就いた。
 ドイツは地中海で諜報活動を開始する計画を進めており、カナリスはその役割にうってつけと思われた。
 最終的に彼はスペインに派遣され、マドリードで敵の船舶の動きを秘密裏に偵察し、地中海で活動するUボートへの補給サービスを確立する任務を負った。
 916年10月24日に海軍本部から潜水艦監察部に配属された後、Uボートの艦長としての任務に向けて訓練を受けた。
 1917年9月11日に潜水艦学校を卒業した。

 彼は1917年後半から地中海でUボートの指揮官として戦争を終えた。
 戦争時、数多くの船を沈めた功績が認められ、皇帝の目にも留まった。
 スペインでの功績により、彼は一級鉄十字章を授与された。

 カナリスは英語を含む6か国語に堪能であった。
 旧来の海軍士官として、彼は両国間のライバル関係にもかかわらず、イギリス海軍に大きな敬意を抱いていた。
 
 1918年から1919年のドイツ革命の間、カナリスは、
   ロシア革命の理想
を中央ヨーロッパ諸国に広めようとしていた
   共産主義革命運動
を鎮圧するために、準軍事組織である
   フリーコープス
の結成を支援した。
 彼は、スパルタクス蜂起に関与したとして左翼革命家
   カール・リープクネヒト
   ローザ・ルクセンブルク
の殺害に関わった者たちを裁判にかけ、多くの場合無罪とした軍事法廷のメンバーであった。
 カナリスはまた、殺人で有罪判決を受けた者の一人、
   クルト・フォーゲル
の脱獄を手助けした。
 カナリス自身はこのことで4日間投獄されたが、起訴されることはなかった。
 カナリスは、国防大臣グスタフ・ノスケの補佐官にも任命された。

 1919年に彼は実業家の娘
   エリカ・ワーグ
と結婚し、2人の子供をもうけた。
 1920年7月20日、カナリスはバルト海海軍基地司令部の提督の参謀となった。 

 1924年の春、カナリスは大阪に派遣され、ベルサイユ条約に直接違反する秘密のUボート建造計画を監督した。
 アドルフ・ツェンカー海軍中将がイギリスとのより協力的な関係を優先してその計画を棚上げすると、カナリスは取引を始めた。
 ドイツの有力な海運王の息子である
   ウォルター・ローマン大佐
の助けを借りて、彼らはスペインの商人、ドイツの実業家、アルゼンチンのベンチャーキャピタリスト、スペイン海軍と交渉し、ドイツが秘密裏に海軍活動を継続できるようにした。

 カナリスは秘密事業と諜報交渉の過程でドイツ国内に敵を作った。
 しかし、これは映画製作会社フィーバス・フィルムがローマンとの取引で倒産したことも一因であった。

 突然、かつての「リープクネヒト事件」への関与が再び浮上し、カナリスは不利な立場に立たされ、スペインでの地位を失うことになった。
 代わりに、彼はヴィルヘルムスハーフェンに派遣された。
 新しい職で、カナリスはローマンの「投資」が合計2600万マルク以上の損失をもたらしたことを不運にも知った。

 1928年のある時点で、カナリスは諜報部の職を解かれ、前弩級戦艦 シュレジエンに乗り込んで2年間の通常海軍勤務を開始した。
 1932年12月1日に同艦の艦長となった 。
 そのわずか2か月後、
   アドルフ・ヒトラー
がドイツの新首相となった 。
 カナリスはこの展開に興奮し、シュレジエンの乗組員にナチズムの美徳について講義したことで知られている。

 カナリスは、共和主義の原則にまったく魅力を感じなかった
   ワイマール前政権
から離れ、ナチ党に未来を託した。
 カナリスにとってナチスの2つの特徴は、彼が支持したカリスマ的な指導者が率いる国家中心の権威主義政府への回帰と、ベルサイユ条約の束縛を断ち切る決意であった。

 ヒトラーは世界大国への復帰を説いたが、カナリスにとってそれは、兵士を基盤とした高潔な社会、「武装した共同体」を維持することで超大型艦隊を建設することを意味していた。
 ワイマール政権が発足したばかりのドイツでの第一次世界大戦後の混乱期に、カナリスが条約に違反して国内警備隊の設立を支援した。
 フリーコープス運動に共感し、カップ一揆に参加したことは、思い出す価値があった。

 カナリスがナチスに惹かれたもう一つの側面は、その反共産主義だった。
 彼の友人の多くはナチスの聖戦に参加し、カナリスは「同様に熱心な国家社会主義者と見なされるようになった」。
 元SS将軍ヴェルナー・ベストはかつてカナリスを「根っからの国家主義者」と評した。
 それに応じてカナリスはナチスを「これまでの何よりも」はるかに優れていると考えていたと主張した。

 長いナイフの夜の後でさえ、カナリスは「新政権への全面的な協力を説いた」と伝わっている。
 カナリスはかつて「我々将校は…総統と彼のNSDAPなしでは、ドイツ軍の偉大さと軍事力の回復は不可能であったことを常に認識すべきである…将校の義務は国家社会主義の生きた例となり、ドイツ国防軍(陸軍)に国家社会主義のイデオロギーの実現を反映させることである。それが我々の壮大な計画でなければならない」と語った。
 
 1934年9月29日にスヴィネミュンデの要塞司令官に就任したカナリスは、家族とともに一種の「地方亡命」生活を送った。
 キャリアの終わりが近づいているようにも見えた。
 その後すぐに、カナリスは、辞任を余儀なくされたアプヴェーア総司令官
   コンラート・パッツィヒ大尉
の後任をめぐる国防省の争いを耳にした。
 パッツィヒは、カナリスの優れた軍歴と、諜報活動での経験から、この職に最も適任だと考え、後任に推薦した。
 彼の願望は急速に実現され、新しい仕事に熱中するカナリスは、党とその警察組織の「悪魔のような」陰謀についてのパッツィヒの警告を「ほとんど気に留めなかった」。

 訓戒は主に、SS諜報部(SD)の長である
   ラインハルト・ハイドリヒ
に関するもので、ハイドリヒは第一次世界大戦中のドイツの敗北はSSの軍事情報機関の失敗によるものだと信じていた。
 このため、 SS情報部に対して好意的ではなかった。
 さらに、ハイドリヒはドイツの政治情報収集のあらゆる側面を監督したいという野心を持っていた。

 1935年1月1日、ヒトラーがドイツ政府を掌握してから2年弱後、カナリスはドイツの公式軍事情報機関である
   アプヴェーア
のトップに就任した。
 記録によれば、カナリスは妥協案としてアプヴェーアのトップに就任することが承認された。
 これは、ドイツ海軍の司令官で海軍出身の
   エーリッヒ・レーダー提督
が当初は彼の任命に反対していた。
 ただ、カナリスが拒否された場合は陸軍将校がそのポストに就くことを提案して状況を操作したパッツィヒに屈したためである。

 当時のハイドリヒとカナリスの関係は一見友好的だった。
 ただ、元アプヴェーア長官インゲ・ハーグによれば、少なくとも互いに対する態度から判断すると、ハイドリヒはカナリスのアプヴェーア長官就任を支持していた可能性があると指摘した。
 2人は「友好的な」ライバル関係のままだったが、カナリスはハイドリヒを「残忍な狂信者」とみなしていた。
 また、ハイドリヒのSDがアプヴェーアの電話通信を常に監視していることも知っていた。
 ハイドリヒはカナリスを疑っており、「狡猾な老狐」と呼び、同僚たちに彼を決して侮らないよう警告していた。

 カナリスはアプヴェーア長官に就任してわずか数週間で、ハイドリヒとその幹部数名と会談した。
 アプヴェーア、ゲシュタポ、SDの間で諜報活動を分担した。

 元ゲシュタポ将校のゲルハルト・フィッシャーによると、カナリスが当時ヒトラーの真の信奉者であったことは情報源から明らかで、総統とカナリスの紳士的な関係がカナリスを「ヒトラー主義の極端な推進者」に変えたと主張している。

 1935年5月、カナリスは少将の制服を着ることになった。
 この昇進は、ドイツの急成長する再軍備計画を敵の防諜から守るという彼の責任と一致した。
 それはアプヴェーアの大幅な拡大を意味していた。

 アプヴェーアの任務の拡大により、カナリスは「防諜の巨匠」
   ルドルフ・バムラー少佐
と接触するようになった。
 バムラーは彼が軍需工場、港、軍隊、メディアに広範囲な監視網を構築するのを手伝った。

 1935年から1937年の間に、カナリスはアプヴェーアのスタッフをわずか150人から約1,000人にまで拡大した。
 彼は1936年12月21日にハイドリヒと再会し、2人は彼らの周囲で「十戒」として知られるようになった文書に署名した。
 この協定はゲシュタポとアプヴェーアの対スパイ活動の責任範囲を明確にした。

 伝記作家ハインツ・ヘーネによると、カナリスはヒトラーの考えのほとんどに賛同していたという。
 ヒトラーのナショナリズム、社会ダーウィニズム、ベルサイユ条約への反対、大ドイツ帝国再建の信念、反ユダヤ主義のイデオロギーがアプヴェーア長官の心を打ったからだ。
 反ユダヤ主義に促されて、カナリスは1935年から1936年にかけて、ユダヤ人を識別するためにダビデの星を使うことを初めて提案した。
 これは後に、ユダヤ人をドイツ国内でドイツ国民と区別するために使われ、やがて彼らの孤立を告げ、強制移住を予告し、最終的には彼らの物理的な絶滅につながった。

 スペイン内戦(1936年 - 1939年)の間、ドイツはフランシスコ・フランコ率いる国民党と共和党の交戦勢力への武器禁輸に関する国際協定に署名した。
 実際、ドイツはフランコ側に援助を提供し、カナリスはイギリスのヴィッカース兵器製造会社のコネを使って国民党への武器供給を支援した。

 ヒトラーによるオーストリア併合(アンシュルス)の1か月前、カナリスはアプヴェーアを活動させ、欺瞞作戦を自ら指揮した。
 この作戦は、オーストリアに対し、ドイツ軍が侵略行為に向けて相当な準備をしているという印象を与えることを目的とした。
 しかし、この見せかけの行動はオーストリア首相シュシュニックを動かすことはなく、ドイツ軍がオーストリアに進軍した。
 1938年3月13日にオーストリアが大ドイツ(グロースドイッチュラント)に正式に併合されると、首相は辞任を余儀なくされた。

 しかし、その展開でカナリスは
   ハンス・オスター
と過ごす時間が増え、ヨーロッパ戦争を未然に防ぐ方法も考え始めた。
 ウィーンに最初に到着した者の一人であるカナリスは、ロンドンのスペイン内戦時の武器供給業者とのつながりが言及される可能性を恐れた。
 なお、特別チームにオーストリアの公文書館から記録を押収させた。
 また、オーストリアの諜報機関を可能な限りアプヴェーアに吸収させ、ナチスに改宗していた者を避けた。

 カナリスは、他の者たちと同様に、ヒトラーがチェコスロバキアを併合しようとしていることに動揺した。
 ヨーロッパで新たな戦争が起こることを恐れていた。
 その結果、ドイツ外務省の職員と軍の高官からなる陰謀グループが結成された。
 このグループには、ルートヴィヒ・ベック将軍、外務省の国務長官エルンスト・フォン・ヴァイツゼッカー、エルヴィン・フォン・ヴィッツレーベン将軍、カナリス提督が含まれていた。
 
 カナリスとその仲間は必ずしもヒトラー政権の打倒に尽力していたわけではなかった。
 しかし、ハンス・オスター大佐とハンス・ベルント・ギゼヴィウス率いる「反ナチ」派という、より過激なグループと緩やかに同盟を結んでいた。
 彼らはこの危機を口実に
   ナチス政権を打倒するクーデター
を企てていた。
 カナリスがエヴァルト・フォン・クライスト=シュメンツィンと共同で考えた最も大胆な計画は、チェコスロバキア侵攻前にヒトラーとナチ党全体を捕らえて失脚させることだった。
 まさにその頃、クライストは密かにイギリスを訪れ、イギリスのMI6や高官数名と状況について話し合った。

 ドイツの高官らは、ヒトラーがチェコスロバキアや他の国に侵攻すれば、イギリスはドイツに宣戦布告するだろうと考えていた。
 MI6も同じ意見だった。
 イギリスの宣戦布告は参謀本部にヒトラー打倒の口実と支援を与えることになると考えた。
 参謀本部の多くは、当時の「ドイツ国民の反戦感情」を理由にヒトラー打倒を計画していた。

 ズデーテン地方に対するヒトラーの要求に対するイギリス政府の反応はより慎重なものだった。
 ミュンヘンでヒトラーと会談した際、イギリス首相ネヴィル・チェンバレンとフランス首相エドゥアール・ダラディエは戦争よりも外交を選んだ。
 ミュンヘン協定はクライストとカナリスにとって大きな失望となった。
 この協定はヒトラーの評判を大きく高め、彼が平和をもたらしたように見えたため彼の人気は急上昇した。
 しかしヒトラーは戦争を望んでいたため彼の計画に抵抗した将軍たちを軽蔑した。

 ヘルマン・ゲーリングは和平交渉をしたことで彼の支持を失ったが、西側諸国が譲歩したにもかかわらずヒトラーの戦争への意欲は衰えなかった。
 カナリスは戦争が回避されたことに安堵し、ズデーテン危機に関して提出された
   アプヴェーアの報告書
の多くが著しく不正確であることが判明した。
 このため、ヒトラーとの連絡を再開しようとした。
 ハンス・オスターとその仲間たちにとって、カナリスは突然ヒトラーに再び忠誠を誓ったように見えた。
 
 1939年1月、カナリスは「オランダ戦争の恐怖」をでっち上げ、イギリス政府を動揺させた。
 1939年1月23日までに、イギリス政府は、ドイツが1939年2月にオランダに侵攻した。
 オランダの飛行場を利用して戦略爆撃を開始し、イギリスの都市を破壊してイギリスに「ノックアウト」打撃を与えるつもりであるという情報を受け取った。
 その情報はすべて虚偽だったが、カナリスはイギリスの外交政策の変更を意図していた。
 カナリスは成功し、「オランダ戦争の恐怖」は、1939年2月に戦争が発生した場合にイギリスの地上部隊をフランス防衛に派遣することを誓約することでチェンバレンに「大陸的コミットメント」をさせるのに大きな役割を果たした。
   
 1937年、カナリスはアプヴェーア内に新たな航空情報部を設立し、ドイツ空軍の
   ニコラウス ・リッター大尉
をI.ルフトの長官(航空情報部長)に任命した。

 米国に12年間住んでいたリッターは、南北アメリカと英国で活動するアプヴェーアのエージェントに対する主要な権限を与えられた。
 カナリスは、第一次世界大戦中に知り合ったニューヨーク在住の元ドイツ海軍情報部のスパイマスター
   フリッツ・ジュベール・デュケーン
と連絡を取り、再活動させるようリッターに指示した。
 デュケーンとは第二次ボーア戦争中にイギリス帝国の要塞植民地バミューダの捕虜収容所から脱走したアフリカーナー人で、第一次世界大戦中にHMS ハンプシャーの沈没でイギリス陸軍元帥
   ハーバート・キッチェナー(初代キッチェナー伯爵)
の死に誤って功績を負わされていた。

 1931年にリッターはニューヨークでデュケインと会っており、2人のスパイは1937年12月3日にニューヨークで再会した。
 リッターはまた、PAULというコードネームで活動していたスパイ
   ハーマン・W・ラング
とも会った。

 ハーマン・ラングはニューヨークのカール・L・ノルデン社で機械工、製図工、組立検査官として働いていた。
 同社は高度な極秘軍用爆撃機部品であるノルデン爆撃照準器の製造を請け負っていた。

 彼はアプヴェーアに爆撃照準器の大きな図面を提供し、後にドイツに赴いて改良版の作業と完成に取り組んだ。
 ドイツでは、ラングはカナリスとゲーリングの両者から事情聴取を受けた。
 リッターはアメリカ全土で他の数人の優秀なエージェントを雇ったが、後に連邦捜査局(FBI)の二重スパイとなる
   ウィリアム・シーボルド
を採用するという過ちも犯した。

 1940年2月8日、リッターはハリー・ソーヤーという偽名でシーボルドをニューヨークに派遣した。
 海外のドイツ短波放送局との連絡を確立するための短波無線送信局を設立するよう指示した。
 セボルドはまた、コードネーム「TRAMP」を使用し、コードネーム「DUNN」の同僚エージェント、フリッツ・デュケインと連絡を取るよう指示された。

 1941年6月28日、2年間の捜査を経て、FBIはデュケインと他の32人のナチススパイを、米国の兵器と船舶の動きに関する秘密情報をドイツに中継した容疑で逮捕した。
 1942年1月2日、米国が日本に真珠湾攻撃され、ドイツが米国に宣戦布告してから1か月も経たないうちに、デュケインスパイ団の33人のメンバーは合計300年以上の懲役刑を宣告された。
 彼らは、歴史家ピーター・ダフィーが2014年に「今日に至るまで米国史上最大のスパイ事件」と述べた事件で有罪判決を受けた。

 ドイツのスパイ長の一人は、後にこのスパイ団の一斉検挙が米国におけるスパイ活動に「致命的な打撃」を与えたとコメントしている。
 エドガー・フーバーは、FBIによるデュケインのスパイ団への一斉検挙を米国史上最大のスパイ一斉検挙と呼んだ。

 1942年に上司に宛てたメモの中で、カナリスは捕らえたスパイ数名の重要性を報告し、彼らの価値ある貢献を指摘した。
 デュケインは「米国製のガスマスク、無線操縦装置、漏れ防止燃料タンク、テレビ機器、航空機対航空機用の小型爆弾、空気分離装置、プロペラ駆動装置など、貴重な報告書と重要な技術資料を原本で提供した。
 提供された品物には「貴重」というラベルが貼られ、さらに「良品」や「非常に良品」というラベルが貼られた」と記している。

 1939年9月にドイツとポーランドの間で戦争が勃発した後、カナリスは前線を訪れ、ドイツ軍による荒廃を目にした。
 ワルシャワが炎上するのを見て、彼は涙ぐみ、「私たちの子供たちの子供たちがこの罪を負わなければならない」と叫んだと伝えられている。
 また、 200人のポーランド系ユダヤ人がいたベンジンのシナゴーグの焼き討ちなど、SSのアインザッツグルッペンが犯した戦争犯罪の例を目撃した。
 さらに、彼はアプヴェーアのエージェントから、ポーランド全土で起きたいくつかの大量殺戮事件についての報告を受けた。
 カナリスは1939年9月12日、当時シロンスク県にあったヒトラーの司令部列車を訪れ、残虐行為に対する異議を表明した。

 カナリスはドイツ国防軍最高司令官
   ヴィルヘルム・カイテル
に「大規模な銃撃戦…貴族と聖職者は絶滅させられる」と告げた。
 この申し出に対して、カイテルはヒトラーがすでに「決定」したと告げた。
 カイテルはカナリスに対し、残虐行為の詳細な計画はヒトラーから直接もたらされたため、抗議をこれ以上続けるのはやめるよう警告した。

 カナリスはヒトラー政権打倒に向けてより積極的に活動し始めたが、囮を作るためにSDと協力した。
 そのおかげで、彼はしばらくの間、信頼される人物を装うことができた。
 彼は1940年1月に大将に昇進した。

 1940年秋、彼は部下の
   エルヴィン・ラハウゼン
と共に、同じ考えを持つ
   ドイツ国防軍将校のグループ
を作ろうとしたが、当時はほとんど成功しなかった。

 1941年9月中旬、コミッサール命令に関連したソ連軍捕虜の残酷な扱いに関するOKWの法令がカナリスの目に留った。
 彼は別の苦情を申し立てた。
 カイテルはカナリスに、彼が「騎士道的な戦争」という観点から考えていたが、それは当てはまらなかった。
 なぜならそれは「世界イデオロギーを破壊する問題」だからだ、と諭した。

 一方、ハイドリヒは、苦情とカナリスの明らかな嫌悪感に気づき、アプヴェーアの「政治的信頼性のなさ」に関するファイルに記録した。
 カナリスはまた、ジブラルタルを占領するドイツの計画であるフェリックス作戦の提案を阻止するために働いた。

 1941年12月にベルリンで行われた上級将校会議で、カナリスは「アプヴェーアはユダヤ人迫害とは何の関係もない...我々には関係ない、我々はそれとは距離を置いている」と述べたと伝えられている。

 カナリスはスイスに拠点を置くポーランド人スパイ
   ハリナ・シマンスカ
と性的関係を持っていた。
 シマンスカはカナリスからの情報をロンドンに拠点を置くポーランド亡命政府に渡した。
 またアレン・ダレスを含むイギリス人とアメリカ人の意のままにしていた。

 カナリスからシマンスカ経由で連合国に渡った重要な情報は、ドイツによるソ連侵攻であるバルバロッサ作戦開始の事前警告だった。
 カナリスと同じく反共産主義を唱えたMI6長官
   スチュワート・メンジーズ
は、戦争終結時のカナリスの勇気と勇敢さを称賛した。
 1940年12月、ヒトラーはカナリスをスペインに派遣し、必要であれば強い圧力をかけながら、連合国との戦争でスペインを支援するためにフランコと協定を結ばせた。
 しかし、カナリスはヒトラーの望みを承諾させるどころか、イギリスが敗北するまでフランコはスペイン軍を派遣しないと報告した。
 フランコとカナリスの間の会話は記録に残っていないため不明だが、スペイン政府はカナリスの未亡人に年金を支払って感謝の意を表した。
 フランコはスペインを戦争から遠ざけるよう助言してくれたカナリスに「永遠に感謝」し続けた。
 
 1942年6月、カナリスはパストリアス作戦の一環として、 8人のアプヴェーア工作員を米国東海岸に派遣した。
 その任務は、米国の経済目標を破壊し、米国民間人の士気を低下させることだった。
 しかし、2週間後、任務を裏切ったアプヴェーア工作員2人が原因となり、全員がFBIに逮捕された。
 アプヴェーア工作員は私服で逮捕されたため、ワシントンDCの軍事法廷で軍法会議にかけられた。
 全員が有罪となり、死刑を宣告された。

 FBIに協力した他の2人は、代わりに終身刑を宣告された。
 他の2人はコロンビア特別区の刑務所で電気椅子による処刑を受けた。
 パストリアス作戦の恥ずべき失敗により、米国ではそれ以上の破壊工作は行われなかった。

 1942年以降、カナリスは頻繁にスペインを訪れ、おそらくジブラルタルのイギリスのエージェントと接触していたと推測される。
 1943年、占領下のフランスでカナリスはイギリスのエージェントと接触したと言われている。
 パリでは、目隠しをされた状態で聖主受難の修道女修道院(127 Rue de la Santé)に連れて行かれた。
 そこで「ジェイド・アミコル」というコードネームで呼ばれるイギリス諜報機関の現地責任者と会った。
 実際はオリヴィエ大佐だった。
 カナリスは、ドイツがヒトラーを排除した場合の和平条件を知りたかった。
 2週間後に送られてきたチャーチルの返事はシンプルで、「無条件降伏」だった。

 SS将軍ハイドリヒはアプヴェーアに疑念を抱いていた。
 ハイドリヒがプラハに赴任して間もなく、彼はカナリスにアプヴェーアをSDとSSの管理下に置くよう要請した。
 これにより2人は管轄権をめぐって対立することになった。
 カナリスは外交的に事態に対処し、アプヴェーアに直ちに影響はなかった。
 しかし、プラハにおける協力とSSの管理の強化を意味した。

 2人は職業上の意見の相違があったにもかかわらず、カナリスはハイドリヒとの個人的な関係を維持し、行政上の意見の相違から数週間後に
   ハイドリヒが暗殺されたこと
に「深く動揺した」。
 カナリスは両方の側で働き、イギリスのMI6とのつながりをさらに2つ確立した。
 1つはチューリッヒ経由、もう1つはスペインとジブラルタル経由である。
 バチカンとのつながりは、イギリスの同僚との3番目のルートにもなった可能性がある。

 カナリスはまた、ユダヤ人を含む多くのナチスの迫害の犠牲者を危険な場所から救うために介入した。
 例えば、1941年5月には500人のオランダ系ユダヤ人を安全な場所に移すのに尽力した。
 そうした人々の多くは、アプヴェーアの「エージェント」として形式的な訓練を受け、その後、ドイツを出国することを許可する書類を発行された。
 彼が支援したと言われている著名な人物の1人は、当時のワルシャワのルバビッチ派のラビ
   ヨセフ・イツチョク・シュネールソン
である。
 このことがきっかけで、チャバド・ルバビッチは、ホロコースト記念館
   ヤド・ヴァシェム
で自分を「正義の異邦人」として認めてもらうためのキャンペーンを行った。
  
 カナリスが二重スパイを働いていたという証拠が増え、
   ハインリヒ・ヒムラー
の強い要望により、ヒトラーは1944年2月にカナリスを解任しアプヴェーアを廃止した。
 その機能は、国家保安本部の一部であり、SS旅団長のヴァルター・シェレンベルクが率いる
   アウスラントSD
に引き継がれた。
 これまでアプヴェーアの管轄だった分野は、ゲシュタポ長官ハインリヒ・ミュラーとシェレンベルクの間で分割された。
 この数週間後、カナリスは自宅軟禁となった。
 彼は1944年6月に釈放され、連合国によるドイツ経済封鎖への抵抗を調整する商業戦争および経済戦闘措置特別スタッフ(HWK)の責任者としてベルリンの職に就いた。

 カナリスは、軍事情報部の彼の後任である
   ゲオルク・ハンセン
の尋問に基づいて、1944年7月23日に逮捕された。
 シェレンベルクはカナリスを尊敬しており、逮捕されたにもかかわらず、彼がナチス政権に忠誠を誓っていたと確信していた。
 ハンセンは7月20日の陰謀での役割を認めた。
 ただ、カナリスをその「精神的扇動者」と非難した。
 彼が陰謀に関与したという直接的な証拠は発見されなかった。

 ただ、彼が多くの陰謀者と親密な関係にあったことや、彼が書いた破壊的と見なされる特定の文書から、徐々に彼の有罪が疑われるようになった。
 カナリスの仲間で知られていた共謀者として疑われていた2人の男が銃で自殺した。
 それがきっかけでゲシュタポは彼が少なくともヒトラーに対する計画に関与していたことを証明しようと動き出した。

 捜査は結論が出ないまま長引いた。
 1945年4月に、陰謀に残っていた囚人を処分するよう命令が下った。
 カナリスの日記が1945年4月初旬に発見され、ヒトラーに提出され、陰謀への関与が示唆された。

 カナリスは、オットー・トルベック裁判長、ヴァルター・フッペンコーテン検事長のSS簡易裁判所で裁判にかけられた。
 彼は反逆罪で起訴され、有罪判決を受け、死刑を宣告された。
 カナリスは、副将軍のハンス・オスター、軍法学者のカール・ザック将軍、神学者のディートリッヒ・ボンヘッファー、軍人ルートヴィヒ・ゲーレとともに、証人の前で辱めを受けた。

 カナリスはヨーロッパ戦争終結のわずか数週間前の4月9日、フロッセンビュルク強制収容所で裸で絞首台に連行され処刑された。
 ユルゲン・シュトロープ(SS集団指揮官)によると、カナリスは中世に由来する手法で肉屋のフックに掛けられて絞首刑にされたという。

 ある囚人は、処刑の前夜、カナリスが独房の壁に暗号メッセージを打ち込み、自分は裏切り者ではないと否定し、国家に対する義務として行動したと述べているのを聞いたと主張した。
 カナリスの主な部下である
   エルヴィン・フォン・ラハウゼン
   ハンス・ベルント・ギゼヴィウス
は戦争を生き延び、ニュルンベルク裁判でカナリスがヒトラーに対抗した勇気について証言した。
 ラハウゼンは、カナリスとヴィルヘルム・カイテル将軍との会話を思い出した。
 その中でカナリスは、ポーランドでの残虐行為の責任はドイツ軍にあるとカイテルに警告した。
 カイテルは、それはヒトラーの命令によるものだと答えた。
 争を生き延びたカイテルは、ニュルンベルク裁判で戦争犯罪で有罪となり、絞首刑に処された。

   
posted by まねきねこ at 08:50 | 愛知 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | バイオグラフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

NY州裁が10日に「口止め料」量刑の言い渡し、トランプ氏に出廷を命令

 ニューヨーク州地裁のマーチャン判事は3日、トランプ次期米大統領は大統領選挙に勝利したことを根拠に、いわゆる
   不倫口止め料の不正処理
で受けた有罪評決の破棄を求めていたがこれを再度退けた。

 今月下旬の大統領就任式を前に、
   刑事裁判での有罪評決を破棄
したかったトランプ氏のもくろみは失敗した。

 マーチャン判事は1月10日の量刑言い渡しに出廷するようトランプ氏に命じた。
 量刑は条件を伴わない
   刑罰の放免
が最善の選択肢になると述べ、収監はしない方針を示唆した。

 判事は大統領特権を理由に有罪評決を無効にするというトランプ氏の要求について、次期大統領にはそのような
   特権は存在しない
と指摘した。
 トランプ氏本人が量刑言い渡しに出廷するか、オンラインで出廷するかについて、今月5日までに決定するよう求めた。

 なお、判事は収監しないことによって「無条件の刑罰放免」が最も実現可能な解決策だと述べ、トランプ次期大統領は有罪評決が記録に残る以外には実質的な罰則を受けないことになると説明した。
 理論的にはトランプ氏は
   最長4年の禁錮刑
を言い渡される可能性もあったが、検察側はすでに「現実的な勧告ではない」と譲歩したと判事は述べた。

 「この裁判所は評決後、合理的な期間内に被告に量刑を言い渡さなくてはならない」と判事は説明した。
 「被告には可能な限りあらゆる上訴の利用が認められなければならない。被告はその意向を明らかにしているが、それは量刑を言い渡されて初めて完全に利用可能になる」と述べた。
  
 トランプ氏が2016年の選挙前、
   ポルノ女優への口止め料
を不正に会計処理したとして、ニューヨーク州地裁は5月、34件の重罪で有罪評決を下した。
  
 トランプ氏は4件の刑事訴追と闘いながらホワイトハウスへの復帰を目指した。
 しかし、選挙前に公判が開かれたのはニューヨーク州の「口止め料裁判」だけだった。
  
 同氏はこれらの刑事事件について全面的に無罪を主張していた。
 なお、訴追は同氏のホワイトハウス返り咲きを阻もうとする「魔女狩り」の一環だと主張していた。
  
 有罪評決が出たままでは現職大統領の権限が損なわれると主張し、トランプ氏は評決の破棄を求めた。
 しかし、マーチャン判事はこれを否定したうえ有罪評決が出た後でもトランプ氏は選挙に勝ったことを指摘した。

 「いかなる不名誉が考えられるにせよ、被告が自身の任務を遂行する能力を妨げることはまずないだろう。それは次期大統領としても、現職大統領としても同じだ」と述べた。
  
   
posted by まねきねこ at 00:00 | 愛知 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | onemile stone | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする