市場散歩   注目銘柄   One Milestone   証券会社

2025年01月22日

ECBは年半ばにはインフレ目標に接近、中立金利も可能

 欧州中央銀行(ECB)の政策委員会メンバーのナーゲル・ドイツ連邦銀行総裁は21日、ダボスで開催の世界経済フォーラム(WEF)出席に際してブルームバーグテレビジョンのインタビューに応じ、「目標に向けて順調に進んでいる。今年半ばまでに、目標に近づけると見受けられる」と語った。

 また、今年半ばまでにインフレ目標の2%に接近し、経済をもはや圧迫しない水準にまで金利を引き下げることができるだろうと、述べた。

 それまでに、いわゆる中立金利に達することは可能かとの問いには、「可能だと思う」と答えた。

 ナーゲル氏は、インフレ抑制というECBの課題はまだ完了していないと警告した。
 サービス価格のインフレは「極めて根強い」様子だとの認識を示した。
 それでも賃金上昇のペース鈍化を受け、向こう数カ月でサービスのインフレは抑えられる公算が大きいという。
  
 ECBは1月30日に次回の政策発表を控えている。
 ナーゲル氏は、利下げの「一定の可能性」があるとしつつ、「全く確定してはいない」とくぎを刺した。
  
   
posted by まねきねこ at 22:00 | 愛知 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | onemile stone | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

トランプ氏企業が暗号資産 利益相反の恐れも

 トランプ米大統領の一族が運営する
   トランプ・オーガニゼーション
の関連企業が発行したトランプ氏公式の暗号資産(仮想通貨)が、米国で話題になっている。

 17日に取引が始まり、大統領就任を前に買いが殺到し、価格が急騰した。
 ただ、政策や規制を担う政権のトップが暗号資産取引に関与する形になり、
   利益相反の恐れ
が指摘されている。
 暗号資産比較サイトのコインマーケットキャップによると、時価総額は19日に一時150億ドル(約2兆3400億円)に達した。
 この暗号資産は、ジョークやファン向けグッズのような位置付けにある「ミームコイン」の一種という。
 ミームコインは値動きの荒さを利用し、投機的に取引されることもある。
 トランプ氏は昨年の大統領選で暗号資産推進を打ち出し、業界から支援を受けた。
 政権内に暗号資産政策を担当するポストを作り、証券取引委員会(SEC)のトップにも推進派を起用した。
 SECは21日、これまで未整備だった
   明確なルールづくり
に着手している。
 その一方で大統領側が暗号資産を発行することは、自身や一族への利益誘導に当たるとの批判を招き逆風となりかねない。
   
    
posted by まねきねこ at 21:55 | 愛知 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | onemile stone | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

国家安全法違反の罪で台湾陸軍退役中将の高安国被告ら6人を起訴

 台湾高等検察署(高検)は22日、台湾陸軍退役中将の高安国被告ら6人を
   国家安全法違反の罪
で20日に起訴したと発表した。

 中国軍側から資金を受け、中国が武力侵攻する時に台湾内で協力する武装組織を設立したとされる。
 発表によると、高被告らは2018〜24年に繰り返し中国に渡り、面識を持った中国軍関係者らから
   資金援助や指示
を受け、台湾軍の退役・現役軍人を誘い組織化した。
 高検は「国家の安全を予見困難な危険にさらした」として、高被告に懲役10年以上を求刑する方針を示した。

     
ひとこと
 中国共産党による武力行使前の準備は着々と進んでいることを示す出来事だ。

   
posted by まねきねこ at 21:16 | 愛知 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | onemile stone | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

トランプ政権が控えめなら出遅れた欧州株に期待(BofA調査)

 バンク・オブ・アメリカ(BofA)の調査でトランプ米大統領の通商政策のスタンスは懸念されていたよりも控えめになるとの見方から、出遅れた株式の上昇に備える動きが見られることが示された。

 BofAの調査によれば、ファンドマネジャーはトランプ氏が打ち出す関税および移民対策に総じて備えている。 
 ただ、物色の矛先は今月、米国株から欧州株に急激にシフトした。

 BofAのストラテジスト、マイケル・ハートネット氏は
   関税に関する懸念
が「根拠のないもの」だと証明されれば、投資家の資産配分は高いリスク志向が続き、米国株の力強い上げに追随できなかった株式が追いつこうとするだろうと述べた。

 調査によれば、欧州株への配分は1月にネット1%のオーバーウエートと、前回調査の22%のアンダーウエートから急増した。
 欧州株へのエクスポージャーとしては過去25年間で2番目に大きな拡大となった。
 米国株に対するオーバーウエートはやや縮小した。
 世界的な株式に対する配分はなお高く、ネット41%のオーバーウエート。   
  
 一方で債券への配分はネット20%のアンダーウエートと、2022年10月以来の低水準となった。
  
 調査は1月10日から16日に実施され、182人の運用担当者から回答を得た。
 運用資産総額は5130億ドル(約80兆円)だった。
   
    
posted by まねきねこ at 21:03 | 愛知 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | onemile stone | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

フランス、銀行団通じ約8カ月ぶりに国債を発行、需要は過去最大

 フランスが約8カ月ぶりに銀行団を通じて売り出した国債に、過去最大の需要が集まった。
 バイル内閣にとっては、懸案の予算案通過に十分な政治的な支持を取り付けようと躍起になっているため、励みになりそうだ。

 この国債は2042年に償還予定の新発債で、発行予定額は
   100億ユーロ(約1兆6100億円)
で、ブルームバーグがまとめたデータによると、注文は1340億ユーロを超えた。
 発行利回りは同種の債券を8ベーシスポイント(bp、1bp=0.01%)上回る水準になりそうだと、関係者が匿名を要請して話した。
 フランスが銀行団を通じて前回発行したのは昨年5月で、マクロン大統領が議会の早期解散・総選挙を発表する1カ月足らず前だった。
 この総選挙後、同国は政治的な混乱に陥った。

 バルニエ前内閣の崩壊を受けて誕生したバイル内閣は、議会の不信任決議案を乗り切り、今年の財政赤字を国内総生産(GDP)比5.4%と、前内閣よりも緩やかな縮小幅とする計画で欧州連合(EU)の支持も確保した。

 なお、注目されているリスク指標であるフランスとドイツの10年債利回り差は先週、昨年10月以降で最も大きく縮小した。
 21日は1bp縮小して77bp前後となっている。

 銀行団を通じた国債発行は、入札方式よりも発行利回りが概して高くなる傾向にあるが、さまざまな投資家から大規模な資金を速やかに調達することができる。
  
   
posted by まねきねこ at 21:00 | 愛知 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | onemile stone | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

職安法の法令改正して対応すべきだ。

 厚生労働省は22日、闇バイト対策の取り組み状況を求人サイトの事業者に確認していると明らかにした。
 昨年11月に闇バイトが疑われる求人情報の掲載防止や掲載した場合の削除を要請していた。
 (要請ではなく、求人情報提供自体が、詐欺や傷害、殺人など刑事事件とし、犯罪行為の幇助としての厳重に措置すべきだろう。)

 空き時間に働く「スキマバイト」の仲介事業者も対象。取り組み内容を確認した上で不備があれば、サイトに掲載する前にチェックする事前審査の徹底などを指導する。
 厚労省は、募集者の氏名や住所、連絡先などの記載がない広告は違法との周知もしている。
 12月には「怪しい求人には応募しないでください」と求職者に呼びかけるリーフレットをX(旧ツイッター)に投稿した。


ひとこと
 職業安定法を改定し、求人掲載のメディア媒体に対する、幇助罪等で対応すべきだろう。
 また、オレオレ詐欺等に置いても、詐欺のツールとして利用される電話会社に対して振り分けた電話番号強制回収や遮断等措置が取れるようにすべきであり、明らかに不自然な発信を確認した場合に電話会社が放置すれば、掛けた数分の課料を払わせるようにすべきだろう。
 よく、TVCMなどで過払い金のて続けなどのコマーシャルが流れるが、これも、法律を作る時に、貸金会社が返金を行わせるようにし、何も行わな方場合に倍返しと金利の支払いを弁護士や司法書士が行うような仕組みにすれば良く、法の組み立て方が弁護士や司法書士の仕事を作ってやっているようなものだろう。
posted by まねきねこ at 19:52 | 愛知 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | onemile stone | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

関西テレビ大多亮社長が記者会見でフジテレビ問題「非常に重い案件」との認識??

 関西テレビ放送(大阪市)の大多亮社長は22日の定例記者会見で、タレントの中居正広さんと女性とのトラブルにフジテレビジョン社員が関与したと報じられている問題に関し、大多氏が
   フジテレビ専務
だった問題発生当時の受け止めを問われ「非常に重い案件。衝撃を受けた」と述べた。
 大多氏は
   事案について「把握していた」
と述べ、事案を把握した当日にフジテレビの港浩一社長に(何を)伝えたと説明した。
 当時の対応が適切だったかについては「我々の考えが足りていなかったかもしれない。そうであれば申し訳ないと思う」と話した。
 大多氏は自身がフジテレビの調査委員会の調査対象に含まれるとも語った。


ひとこと
 企業内のコンプラや企業の管理統制を理解しているのだろうか?
 「非常に重い案件。衝撃を受けた」というが専務としての行動は...
 (責任範囲、守備範囲外で対応できないのかも。)
   
posted by まねきねこ at 19:24 | 愛知 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | onemile stone | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

中国に10%追加関税検討のトランプ大統領、中国政府は「国家の利益を断固として守る」 と批判

 米国のトランプ大統領は就任式から一夜明け、中国に対し
   10パーセントの追加関税
を課すことを検討していると明らかにした。
 米国内でメキシコから密輸される薬物中毒が広がっており、「中国がフェンタニルをメキシコとカナダに送っているという事実に基づき、中国に10%の関税をかけることを議論している」と警告している。

 トランプ大統領は21日、記者からの質問に答え、中国に対し来月1日から10パーセントの追加関税を課すことを検討していると明らかにした。
 合成麻薬「フェンタニル」の原料が中国からメキシコやカナダに流入していることを理由に挙げている。
 これに対し中国外務省は22日夕方の会見で、「中国側の立場は何度も表明している」と強調したうえ、中国外務省・毛寧報道官は「我々は常に“貿易や関税における戦いに勝者はない”と考えている。中国側は国家の利益を断固として守る」と主張し、その上で「両国関係が安定し、健全に持続可能な形で発展することを望む」と続けた。


ひとこと
 中国が違法薬物の原料を輸出している現実には何も対応できておらず、米国が2月1日から10パーセントの追加関税を課す可能性は高い。
 ただ、米国内での販売を維持するために価格を10%引き下げれば、米国内の物価上昇への影響は低いが、価格を維持して輸出すれば消費者が高い負担をするか、買い控えが起きるかだろう。
 どちらでも中国経済には圧力となる。
 3月の全人代開催で習近平への政治闘争が激化する可能性があり注目だ。

    
posted by まねきねこ at 18:54 | 愛知 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | onemile stone | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

有事対応がでたらめでは?

 石破茂首相は24日の施政方針演説で、2026年度からの
   防災・減災、国土強靱(きょうじん)化の新計画
ついて、現計画の15兆円を上回る事業規模とする方針を表明するという。
 今年の経済財政運営の基本指針「骨太の方針」で、国・地方の基礎的財政収支(プライマリーバランス、PB)の黒字化を含む「財政健全化の取り組みを示す」とも訴える。
 政府関係者が22日、メディアに明らかにした。


ひとこと
 東京一極集中による天災事変時のリスク管理が全くお粗末だろう。
 BCP計画を作成しても、関東大震災時に企業が9割倒産したことを意識すべきだろう。
 人は半分が機能しない状況で作るべきだろうが、所在確認が最優先では、企業の活動は無理だろう。
 そもそも、人を運ぶ手段が途絶することをBCP計画で策定しているとこは極めて少ない。
 紙上の空論で単に作れば良い程度のBCP計画のお粗末さで安心しきっている企業経営者や幹部の思考で何が出来るのか疑問だ。
 政治家や官僚も多くが同じ程度のものだろう。

 東京首都圏から全国に企業と住民を移動させるの方策が必要であり、連邦国家に変質させるべきだろう。
 重複した県と国、市町村と県が重複した業務や調整が多すぎる状況は仕事と人材の無駄遣いなのは明らかだ。
 国は防衛と外交だけをすれば良く、他の業務は9ブロックに分け、県単位にするか道州制に変革すべきだろう。
 そもそも、戦後の許認可で東京に本社を集中させた行為の逆をすれば良いだけだ。
 大阪由来の企業が半分以上あり、これを大阪に戻せば2極になる。
  
   
posted by まねきねこ at 18:00 | 愛知 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | onemile stone | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

イザベル・コッチャー(Isabelle Kocher)2020年2月までエンジー(旧GDFスエズ)の最高経営責任者

イザベル・コッチャー
     (Isabelle Kocher Thabut)
   1966年12月9日生まれ
 フランスの実業家。2020年2月までエンジー(旧GDFスエズ)の最高経営責任者を務めていた。
 イザベル・コッチャーは、1987 年にパリの高等師範学校とMines ParisTech工科学校を卒業した。
 また、量子光学の修士号と物理学の大学院証明書も取得した。

 コッチャー氏は1997年から1999年までフランス予算局で
   郵政・通信予算局長
を務め、その後国防予算局長も務めた。
 1999年から2002年までは、フランス首相の
   リオネル・ジョスパン氏
の事務所で産業問題顧問を務めた。

 彼女は2002年にスエズ社に入社し、機能的および運営的な役職を務めた。
 2008年に同社がGDFスエズとなったとき、彼女はフランスの水道事業を統括していた。
 その後、コッチャーは財務部長と運営部長に昇進した。
 彼女は2011年にGDFスエズの最高財務責任者に任命されました。
 2014年10月から2016年4月まで、副CEO兼最高執行責任者を務めました。

 2016年5月3日、コッハー氏はジェラール・メストラレ氏の後任としてエンジー社のCEOに任命された。
 彼女はCAC40指数の中で唯一の女性CEOとなった。
 CEOに就任して以来、コッハー氏はエンジーの戦略を明確化、再定義し、今後数十年にわたってエンジーをエネルギー市場の「先駆者」および「主要プレーヤー」として位置付けるために大きな変革を行ってきた。

 コッハー氏は、世界をリードするエネルギープレーヤーとして、エンジーは気候変動に対して「責任を負い」、それを脅威としてではなく、根本的な変化のてことして考えなければならないと述べた。
 彼女は、この課題に対応し、脱炭素化され、部分的に分散化され、デジタル化された世界、そして発展途上国を含むすべての人がエネルギーを利用できる世界へと進むためには、エネルギー業界が革命に立ち向かわなければならないと考えている。
 会社を自身のビジョンに合わせるために、コッチャー氏は以下の取り組みを行いました。
 グループを再編し、管理階層を削減して、Engieの機敏性を高め、従業員の自律性を高めました。
 この目標を確実に達成するために、Engieは従業員のトレーニングを改善するための変革計画に3億ユーロを投資しました。
 
 同社の資産の20%、150億ユーロ相当を売却し、特に石炭火力発電に投資し、その収益を風力や太陽光などの再生可能エネルギーに再投資し、地域的な再生可能エネルギー発電所を含む分散型電力への拡大を図る。
 2018年末までにデジタル技術や様々な革新的技術に15億ユーロを投資する計画である。
 オープンイノベーションとデジタル技術は、Engieの移行にとって極めて重要です。
 デジタル化によって、インテリジェントネットワークを通じて地域の再生可能エネルギーの在庫を管理できるようになる必要があるからです。

 エンジーの多様化をさらに推進するため、コッチャーは人事チームの多様性を高めることを優先課題とした。
 彼女はエンジーの構成をより国際的にし、エンジーの幹部の少なくとも4分の1を女性にし、有能なスタッフの35%を女性にするという目標を設定した。
 コッチャー氏は2018年にメストラレ氏の引退後に会長職を引き継ぐべく選挙運動を行ったが、政府が代わりに
   ジャン=ピエール・クラマディウ氏
を支持したため敗北した。
 2019年、コッチャー氏は新たな事業に150億ユーロを投資した後、石炭事業からの完全撤退と2019〜2021年に向けた新たな戦略計画を発表した。
 同氏の計画は、高付加価値サービスと再生可能エネルギーに特化することであった。
 同氏はこれらの事業にさらに120億ユーロを投資する予定で、その一部は60億ユーロの資産(最後の石炭火力発電所を含む)の売却で賄う予定であった。
 また、エンジーが事業を展開している70カ国のうち20カ国から撤退し、グループの事業を主に東南アジアとアフリカの20カ国と30の大都市圏に集中させる意向も発表した。

 2019年末までに、グループ内で戦略が分裂し、取締役の間でガス資産の一部売却を追求するかどうかで意見が対立しているという報道の中で、コッチャー氏は圧力にさらされた。
 その後、彼女は次の任期を務めるための州の支援を得ることができなかった。
2020年2月6日、彼女のCEOとしての任務は更新されず、Engieのトップには新たなリーダーシップが必要であることが発表された。
 
 彼女は、
   スエズ
   アクサ
   インターナショナル パワー
   インベスター AB
の取締役でもある。
 また、3 つの軸に沿って新しい世界的エネルギー ミックスを実行することを目的とした世界的な非営利団体、テラワット イニシアチブの会長も務めている。
 再生可能エネルギーの大幅な増加に対応できない古い電力網を置き換えるために最新の技術を導入する
 新たな再生可能資産の導入により、発展途上国における世界のエネルギー需要を満たす
 先進国では、古い資産をクリーンで再生可能なエネルギーに置き換えることで、化石燃料から撤退している。
 
 テラワットの目標は、COP23ですぐに実行可能な提案を提示することである。
 コッハー氏はレジオンドヌール勲章の騎士であり、フランス国家功労勲章の騎士でもある。
 2017年9月、彼女はフォーチュン誌の最も影響力のある女性の国際リストで3位にランクされた。
 コッチャーは離婚しており、5人の子供がいる。

   
posted by まねきねこ at 16:31 | 愛知 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | バイオグラフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ルイス・マルクス・アンド・カンパニー(Louis Marx and Company)1919年から1980年まで営業していた米国の玩具メーカー

ルイス・マルクス・アンド・カンパニー
        (Louis Marx and Company)
 1919年から1980年まで営業していた米国の玩具メーカー。
 ブリキの玩具、玩具の兵隊、玩具の銃、アクションフィギュア、人形、玩具の車、模型列車など、さまざまな玩具を製造していた。
 有名な玩具には、ロックン・ソックン・ロボット、ビッグホイール三輪車、ディズニーブランドのドールハウス、ガンスモークなどのテレビ番組を題材にしたプレイセットなどがあった。
 同社の製品には、「マルクスの玩具の1つ、全部お持ちですか?」というスローガンがよく印刷されていた。

 マルクスのロゴは、円の中に「MAR」の文字があり、その上に大きなXが描かれ、踏切の標識に似ていた。
 Xが見えないことがあるため、マルクスの玩具は当時も現在も「Mar」の玩具と間違われることが多い。
 伝えられるところによると、この名前の混乱のため、イタリアのダイキャスト玩具会社
   Martoys
は、2年間の生産を経て、1976年に社名を
   Bburago
に変更した。
 マルクスの名前は、玩具コレクター以外には現在ではほとんど忘れられている。
 同社が開発した製品のいくつかは、 1964年に発売された
   Rock'em Sock'em Robots
や、1970年代に最も人気のある玩具の1つであるベストセラーのスポーティな三輪車Big Wheelなど、大衆文化の強力なアイコンであり続けている。
 1969年に発売されたBig Wheelは、アメリカ国立玩具殿堂に収められている。
 マルクスのおもちゃには、ブリキの建物、ブリキのおもちゃ、おもちゃの兵隊、プレイセット、おもちゃの恐竜、機械仕掛けのおもちゃ、おもちゃの銃、アクションフィギュア、人形、ドールハウス、おもちゃの車やトラック、HOスケールやOスケールの列車などがあった。
 マルクスは子供用のタイプライターもいくつか作った。
 マルクスの安価なおもちゃは10セントショップで非常に一般的で、より大きく高価なおもちゃは、イートン、ガマージス、シアーズ、WTグラント、モンゴメリーワード、JCペニー、シュピーゲルなどのカタログやデパートの小売店で特にクリスマスシーズンに定番の商品だった。
 第二次世界大戦前のアメリカでは、クレスゲやウールワースがマルクスに毎年少なくとも100万ドルの注文をするのが一般的だった。
  
 1919年8月にニューヨーク市で
   ルイス・マルクス
   デイビッド・マルクス
兄弟によって設立された。
 会社の基本的な目標は、「より少ないお金でより多くのおもちゃを顧客に提供する」ことであり、「品質は譲れない」ことを強調した。
 この2つの価値観が会社を大成功に導いた。
 1894年生まれのマルクスは、フェルディナント・シュトラウスの下で働いた。
 その後、当初は製造能力のない販売業者であったため最初の数年間は、すべての製品生産を外注しなければならなかった。
 マルクスは仲買人として資金を調達し、入手可能な製品を研究し、それらを耐久性がありながら安価にする方法を見つけ、そして販売を成立させた。
 以前の雇用主であるシュトラウスから、アラバマ・クーン・ジガーとジッポー・ザ・クライミング・モンキーという2つの旧式のブリキのおもちゃの工具を購入するのに十分な資金が調達された。
 微妙な変更を加えることで、マルクスはこれらのおもちゃをヒット商品に変えることに成功し、2年以内にそれぞれ800万個以上を販売した。
 もう一つの成功例は、ピアノ、バイオリン、スネアを演奏するブリキのネズミと指揮者による「ネズミオーケストラ」であった。
マルクスは、成功するおもちゃに必要な6つの特性として、親しみやすさ、驚き、技術、遊びの価値、わかりやすさ、頑丈さを挙げた。
 1922年までに、ルイス・マルクスとデビッド・マルクスはともに億万長者になっていた。

 当初、マルクスはヒットを予測し、競合他社よりも安価に製造することで、いくつかのオリジナルのおもちゃを再評価して生産した。
 ヨーヨーがその一例である。マルクスがこのおもちゃを発明したと誤って評価されることもあったが、同社はすぐに独自のバージョンを市場に投入した。1920年代には、約1億個のマルクスヨーヨーが販売された。

 他の多くの企業と異なり、マルクスの収益は大恐慌の時期にも成長し、ペンシルバニア州、ウェストバージニア州、イギリスといった経済的に大打撃を受けた工業地帯に生産施設を設立した。
 1937年までに同社の資産は320万ドル以上(2005年の価値で4260万ドル)となり、負債は50万ドル強となった。
 1937年10月、ロンドンの新聞で彼は「世界のおもちゃ王」と評された。
 1938年までに、マルクスはダドリー工場で500人、アメリカの工場で4000人の労働者を雇用した。
 1950年代までに、マルクスは世界最大のおもちゃ製造業者となった。
 1946年1月のフォーチュン誌は彼を「おもちゃの王」と称し、1941年の売上高が少なくとも2千万ドルであったことを示唆したが、1955年にもタイム誌の記事でルイス・マルクスを「おもちゃの王」と称し、その年の会社の売上高は約5千万ドルであった。
 マルクスは雑誌のスター記事であり、彼の写真が表紙に掲載された。
 マルクスは玩具産業の殿堂の最初の入会者であり、彼の記念碑には「玩具産業のヘンリー・フォード」と記されていた。

 最盛期には、ルイス・マルクス・アンド・カンパニーは米国で3つの製造工場を運営していた。
 ペンシルベニア州エリー、ジラード、ウェストバージニア州グレンデールである。
 エリー工場は最も古く、最大の工場であったが、1934年にジラード・モデル・ワークスを買収した際に取得したジラード工場ではおもちゃの電車を、グレンデール工場ではおもちゃの車を製造していた。
 さらに、マルクスは海外にも多数の工場を運営し、1955年には米国でマルクスが販売したおもちゃの5%が日本製であった。
 1952年、マルクス・アンド・カンパニーはメキシコ、イギリスのロンドン、ウェールズのスウォンジー、南アフリカのダービン、オーストラリアのシドニー、カナダのトロント、ブラジルのサンパウロ、フランスのパリに事業所を構えていた。
 1959年までに、アメリカのおもちゃの需要は年間10億ドルに達した。
 マルクスはニューヨーク市北部の裕福な郊外スカーズデールにある20.5エーカーの邸宅で富を享受した。
 この邸宅には25室のジョージ王朝様式の邸宅、彼が育てた馬のための納屋と厩舎、その他の設備が整っていた。
 1982年に彼が亡くなった後、この邸宅は開発業者に売却され、29軒の住宅が建てられた。
 
 最も長く続いているマルクス作品の中には、1950 年代から 1960 年代にかけてテレビ番組や歴史的出来事を基にした箱入りの「プレイセット」シリーズが数多くあった。
 これらには、「ロイ ロジャース ロデオ ランチ」や「ウエスタン タウン」、「ウォルト ディズニーのアラモの砦」、「ガンスモーク」、「幌馬車隊」、「ライフルマン ランチ」、「ローン レンジャー ランチ」、「ブルー アンド グレーの戦い」、「独立戦争」(「ジョニー トレメイン」を含む)、「ウェルズ ファーゴ物語」、「アンタッチャブル」、「ロビン フッド」、「リトル ビッグホーンの戦い」、「北極探検」、「ベン ハー」、「アパッチ砦」、「ゾロ」、「バトルグラウンド」、「トム コーベット トレーニング アカデミー」、「先史時代」など、多数の作品があります。
 プレイセットには、非常に精巧なプラスチック製のフィギュアやアクセサリーが含まれ、その多くは玩具界でも最高級のブリキ製リトグラフで仕上げられている。マルクスのプレイセットの箱は、常に中身がぎっしり詰まっていたが、平均的な 4〜7 ドルを超える価格のものはほとんどなかった。
 「ジャイアント・ベン・ハー」などの大幅に拡張されたセットは、1960 年代初頭に 10〜12 ドルで販売された。
 この価格設定方式は、マルクスの「より安く、より多く」という方針を忠実に守り、長年にわたりほとんどの顧客が全シリーズを入手できるものにしていた。
 オリジナルのセットは、今日でもベビーブーマー世代のコレクターに高く評価されている

 マルクスは 1920 年代から 1970 年代にかけてドールハウスを製造した。
 1940 年代後半には、プラスチック製の家具を備えた金属リトグラフのドールハウスの製造を開始した。
 同時にサービス ステーションの製造も開始している。
 これらのドールハウスはコロニアル スタイルのバリエーションであった。

 1949 年のシアーズ カタログに掲載された「ディズニー」ハウスは瞬く間に話題となった。
 マルクス ドールハウスの人気は高まり、1950 年代には 150,000 台ものマルクス ドールハウスが製造されました。2 つのハウス サイズがあり、それに合わせて 2 つの異なるサイズの家具が付属していました。
 最も人気のあるのは 1/2 インチから 1 フィートのスケールで、もう 1 つは 3/4 インチから 1 フィートのスケールである。
 1953 年には L 字型の平屋が市場に登場し、1958 年にはスプリット レベルが続いた。
 興味深いことに、1960 年代初頭には、防空壕付きのドールハウスが短期間販売された。
 宇宙開発競争が激化するにつれ、マルクスのプレイセットは、宇宙をテーマにしたセットの中でも「Rex Mars」、「Moon Base」、「Cape Canaveral」、「IGY International Geophysical Year」など、地球外のものすべてに対する執着を反映したものになりました。
 同様のテーマで、マルクスはロボットブームにも乗じて、「Big Loo」、「Your friend from the Moon」、人気のアクションゲーム「Rock'em Sock'em Robots」も制作した。
 1963年、マルクスはビートニク風のプラスチック製フィギュアシリーズ「ナッティ・マッド」の製作を開始した。このシリーズには、ミニチュアカーを運転する半人半狂人のドナルド・ザ・デーモンなど、ほとんどサイケデリックな作品 も含まれていた。
 これらは、約1年前に他社が発表したカウンターカルチャーキャラクター、例えば「ビッグ・ダディ」エド・ロスによるレベルのラット・フィンクや、ビル・キャンベルがデザインしたホーク・モデルの「ウィアード・オーズ」に似ていた。

 ルイス・マルクス・アンド・カンパニーは、1929年にジラード・モデル・ワークスと5年間の販売契約を結び、1932年にウッズ/ジラード社と契約して全ての列車と玩具を独占的に生産した。
 この列車はジョイ・ラインと呼ばれた。
 これらは、小型のゼンマイ式または電動エンジンを搭載した、直径4インチの小さなブリキの車両だった。
  マルクスは1934年にウッズ社を買収したが、そのブランドは買収の何年も前から床下電車、路面電車、ジョイ・ライン、M10000セットに表示されている。
 これがマルクス列車の始まりであった。
 1934年、マルクスは最初の新設計の鉄道模型セット、流線型のユニオン・パシフィックM-10000を生産した。
 流線型のマルクス・コモドア・ヴァンダービルトは、新しい直径6インチのブリキの車両とともに1935年に発売された。
 常に人気のあったマルクス・カナディアン・パシフィック3000は1936年にカナダで登場し、連接式のマルクス・マーキュリーはアメリカに導入された。マルクス列車ラインの成功により、他のメーカーもサイズとスタイルで追随せざるを得なくなった。
 マルクスは1972年までブリキの列車セットを作り続けた。
 プラスチックのセットは1952年に始まり、1973年以降は1975年に会社が消滅するまでプラスチックのセットのみが製造された。
  
 マルクスの列車はライオネルの列車ほどの名声は得られなかった。
 1950年代後半のほとんどの期間、ライオネルの列車を上回る売り上げを記録した。
 ライオネルの1950年代半ばの玩具の売り上げは最高で約3200万ドルだった。
 しかし、マルクスの1955年の玩具の売り上げは5000万ドルだった。
 品質と量に関して言えば、
   ルイス・マルクス・アンド・カンパニー
は「安価なアメリカの玩具列車の最も重要な製造業者」と見なされている。

 マルクスは、コレクターや一部の子供たちの間では、高品質のおもちゃの兵隊を作ることでよく知られている。
 これらのセットは、ドイツ兵とアメリカ兵をセットにした「バトルグラウンド」としてよく知られていた。
 ただし、日本兵と零戦などの戦闘機をセットにしたパシフィック セットもあった。
最も人気のあるセットには、『ナバロン』(映画『 』に基づく)、『硫黄島』、『アラモ』(映画『 』に基づく)があり、さらに『ザ・ギャラントメン』などの映画やシリーズに基づいたセット、特にジョン・ウェインと彼が出演した映画に基づいたセットもありました。

 鋳鉄は扱いにくく、重く、適切なディテールやモデルの比率に適していなかったため、徐々にプレス加工されたブリキに取って代わられた。
 マルクスはカートから飛行船まで、さまざまなブリキの乗り物を販売していた。
 同社はおもちゃのパターンを大きなブリキ板にリトグラフで印刷していた。
 これらは次にスタンプされ、打ち抜かれ、折り畳まれ、組み立てられた。
 マルクスは長い間車とトラックのおもちゃで知られており、同社は古い製品の人気を回復するために小さな一歩を踏み出した。 
 1920年代、売れ行きが悪かった古いトラックのおもちゃにプラスチックの氷を詰め込んだところ、同社は新たなヒット商品を生み出した。
 ハネムーンエクスプレスは、上空を飛行機が旋回する線路上のゼンマイ式列車で、後にミッキーマウスエクスプレス、さらにサブウェイエクスプレスになりました。
 ほうれん草の樽を押しているポパイは、1940年代の街頭清掃員ティディ・ティムとベンジンバギーに乗ったチャーリー・マッカーシーになった。

 最も人気のある乗り物のいくつかは、1926年のファニー・フリバーのようなクレイジーカーであり、もう一つは駆け落ちする「ジョイ・ライダー」でした。
 以前の非常に人気のあるブリキのおもちゃの1つは、オープンのエイモスとアンディ・フォードの4ドアモデルTと、ヨーロッパ旅行に出かけていると思われる運転手が後部にヨーロッパの様々な都市の名前が書かれたトランクを引いている別のモデルTでした。
 このモデルは様々な塗装で生産されました。
 リトグラフ印刷されたブリキの戦車、飛行機、警察のバイク、トラクター、列車、豪華客船、ロケット船はすべて明るい色で生産されました。
 おもちゃの1つ、トリッキータクシーは、ドイツのニュルンベルクの
   ハインリッヒ・ミューラー
のおもちゃに由来しているようです。
 1935年のGマン追跡車は、長さ14½インチで、おそらくマルクスが作った最大の車両でした。
 人形の家、ガソリンスタンド、駐車場、街の風景さえもブリキで作られました。
 マルクスが不況の中でも好調だったことは、有名なバイク警官のおもちゃが発売された年が1933年であることからもわかる。 
1930年代、特に10年代後半には、ブリキ製のトラック、バス、バンが数多く製造された。
 トラック、特にスチュードベーカーは、様々な色や形式で製造され、シアーズのカタログでよく宣伝されていた。
 これらには、5台のブリキ製「ステークベッド」トレーラーを牽引するトラック、ゴミを投棄する「ダンプ」トラック、様々な車両を牽引する大型トラック「カーキャリア」の多くのバリエーション、完全にクロームメッキされたトラックのセットなど、いくつかの異なるシリーズが含まれていた。
 金属製のガスステーションや消防署のセットも購入でき、車両でより本格的に遊ぶことができた。
  
 「ルマーラインズ」は、1930年代初頭にアメリカとイギリスで始まった床上操作のブリキ玩具、トラック、車両、列車のラインに使用された別名である。
 ルマーラインズの旅客および貨物用床上列車は1939年から1941年まで生産された。
 生産は第二次世界大戦後も続けられ、「フレンドシップ」列車は1947年にアメリカからイギリスに物資を送った実際の列車に敬意を表して作られた。
 「標準軌」床上列車は1933年に「ジラードモデルワークス」の名で初めて販売された。
  
 ルイス・マルクス・アンド・カンパニーはプラスチック玩具の分野では初期の企業であった。
 第二次世界大戦後、マルクスは様々なプラスチックの成形技術を活用し、より多くの車両を発表した。
 プレス加工されたブリキとスチールは、ビュイック、ナッシュ、または他の半未来的なセダン、レースカー、トラックの形で残ったが、実際の車両を模倣したものではなかった。
 ある車はブリキのビュイックのような木製ボディのステーションワゴンだった。
 これらは、長さ10インチから20インチまで、さまざまなサイズのものが多かった。
 一部の車両はマルクスだと見分けるのが難しく、通常は車両の下部後部にある小さな「X-in-O」のロゴを探す必要があった。
 ベースにはマークがないことが多かった。
 しかし、さまざまなサイズのプラスチックモデルがどんどん登場し、そのうちの3つのシリーズが重要です。
 1950年の最初のシリーズには、タルボット、フォルクスワーゲン、ジャガー、スチュードベーカー、フォード、シボレー、GMCバンなど、1950年代初期の外国車と国産車の安価な4インチレプリカが含まれていました。
 これらは、マルクスの大きなブリキのガソリンスタンドや鉄道駅のおもちゃのアクセサリとして供給された。
 これらはポリスチレンで成形され、ダイキャストメタルのホイールと車軸の組み合わせが付属していました。
 2番目のシリーズは、車が1954年モデルに更新されたことを除いて同一でした。
 1959年にリリースされた3番目のシリーズには、1959年の車の更新モデルが含まれていた。
 なお、これらはポリエチレンで成形され、ポリエチレンのホイール/車軸を持ち、更新された1959年のガソリンスタンドが付属していた。
 マルクスの1959年のガソリンスタンドの車は、AMTとJo-Hanのフライホイールモデルの小型化および簡素化されたバージョンであった。
 1950 年代初頭、Marx の製品ラインの 1 つが、より洗練されたおもちゃを提供しました。
 「Fix All」シリーズが導入されました。このシリーズの目玉は、付属の工具と機器を使って分解したり組み立てたりできる、大型のプラスチック製車両 (長さ約 14 インチ) でした。
 1953 年型ポンティアック コンバーチブル (パッケージでは誤ってセダンと記載) と、連結式ドライブ ラインを備えた 1953 年型マーキュリー モントレー ステーション ワゴンでる。
 ピストンからクランクシャフト、後輪車軸のギアまですべてが透明なプラスチックを通して見え、側面の木製トリム デカールがこの素晴らしいモデルを完成させました。
 非常に大型の 1953 年型クライスラー コンバーチブル、1953 年型ジャガー XK120 ロードスター、第二次世界大戦時代のウィリス ジープ、ダッジ風のユーティリティ トラック、レッカー車、トラクター、大型バイク、ヘリコプター、そして数機の飛行機が、すべてFix Allシリーズの一部でした。
 車の箱には、「50 個以上のパーツ」や「本物の整備士向け!」などの特徴が誇らしげに書かれていた。
 たとえば、レッカー車には、鋳鉄製の箱とオープン レンチ、調整可能なエンド レンチ、ツーピース ジャッキ、ガソリン缶、ハンマー、ドライバー、消火器が付属していました。
 ジープには、星型レンチ、スクリュー ジャッキ、作業灯が付属していた。

 1950年代以降、マルクスはさまざまな場所に工場を構えていた。
 その中には、ウェールズのスウォンジーにある工場があり、イギリス市場向けにさまざまな玩具を製造していた。
 そこで製造されたプラスチック製の自動車の例としては、モーターウェイステーションワゴン(1950年代後半のアメリカのフォードに似ていた)、リモコン式の1950年型ポンティアック、フォードゼファーワゴンのパトカーなどがある。
 マルクスの工場は、コーギートイズの工場と同じ工業団地にあった。
 
 1948年、ハドソン自動車会社は、ディーラー専用に、4ドアの「ステップダウン」コモドールの詳細な社内プロモーションモデルを製作しました。
 このモデルは非常によく出来ており、4つの本格的なツートンカラーの組み合わせがあった。
 しかし、残念ながら小売市場では入手できなかった。
 一部の情報源は、このモデルはマルクスによって作られたと誤って主張している。
 しかし、実際には、ハドソンの自社生産であり、ハドソンの本社工場で製造、生産、組み立てられました。
 その後すぐに、マルクスはハドソンのより精密なモデルの射出成形金型を製作し、この簡略版をより安価な機械玩具として販売した。
 この車は、草の緑の警察車両と明るい赤の消防署長車両として販売された。
 オリジナルの透明な窓は、漫画風の警察官や消防士の石版画が刻まれた、刻印された金属片に置き換えられた。
 警察バージョンでは、フロントガラスからショットガンが突き出ていた。
 電池を入れると、特大の天井ライトが点灯し、銃はダサい「タタタ」という音を立てた。
 マークスのハドソンは、あまり売れたおもちゃではなかったが、10 代前半の子供をターゲットにしていたため、大きくて扱いにくいものであった。
 より新しい、より現代的なアメリカ車が登場すると、マークスのハドソンはすぐに時代遅れになり、小売店のおもちゃ棚に過剰在庫が並びました。
 1960 年代半ばまで、アメリカ全土でハドソンは簡単に見つけることができ、通常は 1 ドル程度で購入できました。
 これは、元の定価 4.95 ドルからかなり値引きされた金額です。
 オリジナルの箱付きの保存状態の良い Marx の警察署長または消防署長のハドソンは、状態にもよりますが、今日の市場でも 50 ドルから 100 ドルの値がつきます。
 本物のハドソンのプロモーション版は、今でも約 2,000 ドルの値がつきます。
 長年にわたり、プロのハドソン専門家は Marx のバージョンをアップグレードして、オリジナルのプロモーション版に似たものにしてきた。
 これらは通常 600 ドルから 800 ドルの値がついていた。
 
 マルクスは、特に 1930 年代から 1940 年代にかけて、スチュードベーカーとパッカードの車両も製造していました。
 これらの車両は、スチュードベーカーのバッジ ロゴを非常に宣伝的な方法で付けて登場することが多かった。
 ただ、マルクスが宣伝業者であったという証拠は定かではない。
 マルクスの後期のスチュードベーカーの 1 台は、へこんだフェンダーを「修理済み」のフェンダーに交換できるアバンティでした。
 これは奇妙なことでした。
 なぜなら、本物のアバンティはグラスファイバー製のボディで、へこむことはなかったからである。
 1948 年型パッカードの消防署長の車は、テーマ的には、ステップダウン ハドソンによく似ていた。
  
 1960 年代から 1970 年代にかけて、Marx 社は依然として自動車を製造していましたが、日本や香港で製造されるケースが増えていた。
 特に印象的だったのは、フォード C シリーズ キャブを備えた 2 フィートの「ビッグ ブルーザー」レッカー車と「ビッグ ジョブ」ダンプ トラック、同じ大型サイズの T バケット ホット ロッド、後に再発行された Jaguar SS100 などの外国車です。
 Marx 社は、Jaguar XKE リモート コントロール コンバーチブルなどの 1/25 スケールのスロット カーも製造した。
 1970 年代に入ると、Marx 社は、典型的な 1:25 スケールのモデル サイズのプラスチック製のひもで引っ張るファニー カーなど、いくつかの流行に乗りましたが、会社を救うには十分ではなかった。
 マルクスは、ヨーロッパの玩具メーカーと提携して、伝統的なヨーロッパの玩具に自社の名前を付けることもありました。
 たとえば、1968 年頃、ソリドとマルクスは、フランス製の金属製ダイキャスト モデルを箱にマルクスの名前を付けて米国で販売する契約を結びました。箱のほとんどは、ソリドの通常の赤い箱で、マルクスの「x-in-o」ロゴと、ソリドの文字のすぐ下に「by Marx」と書かれていた。
 車にはマルクスの名前はどこにもなかった。
  
 1960 年代、マルクスは、マッチボックスのような 1930 年代から 1950 年代のレースカーを赤と黄色の箱に詰めたコレクションであるエレガント モデルを販売した。
 また、飛行機、トラック、そして同じシリーズで、同様のスタイルの箱に入った金属製の動物も販売されました。
 この時代の車両の一部は、Linemar または Collectoy という名前で販売された。

 1960年代後半から1970年代前半にかけて、マルクスはマッチボックスだけでなくマテルのホットウィールとも競争しようとし、細い車軸と低摩擦の車輪を備えた小型車を製造した。
 これらはいくつかの異なる名前で販売されたが、あまり成功しなかった。
最も一般的なものの一つは「スーパースピードホイール」の付いた「ミニマルクスブレイザーズ」だった。
 車はホットウィールよりもわずかに小さいスケールで作られ、1:66から1:70程度であった。
 これらの車の比率は単純だが正確であったが、細部がやや欠けていた。
 ただし、一部の車にはハンドルを握る運転手などの細かい装備が含まれていた。初期のおもちゃのいくつかはより単純なトゥーツィートイスタイルのシングルキャストであったが、新しい車は明るいクローム塗装で着色され、デカールと高速車軸ホイールが付いていた。
 タイヤは薄いホワイトウォールの無地の黒であった。
 ラインマートイズは、マルクス玩具が日本で製造され、米国やその他の国で販売されていた商標です。
 ラインマートイズを日本で製造した理由は、コストを抑えるためでした。ラインマーの名前で、マルクスは原始家族フリントストーンやその他のライセンスを受けたおもちゃの乗り物を製造しました。
 ラインマーのラインには、 KLM、パンナム、その他の航空会社のカラーで製造された飛行機も含まれていました。ラインマートイズの商標は、ジュナグループLLCが所有している。
 
 1972年、マルクスは会社をクエーカー・オーツ・カンパニーに5,400万ドル(2023年の価値で3億9,300万ドル)で売却し、76歳で引退した。  クエーカーはフィッシャープライスのブランドも所有していたが、マルクスとは苦戦していた。
 クエーカーはマルクスとフィッシャープライスの相乗効果を期待していた。
 ただ、両社の販売パターンがあまりにも異なっていた。
 また、 1970年代初頭の電子玩具へのトレンドをほとんど無視していたことでも非難された。
 1975年後半、クエーカーはエリーとジラードの工場を閉鎖し、1976年初頭、苦戦していたマルクス部門をイギリスの複合企業ダンビー・コンベックス・マルクスに売却した。
 ダンビー・コンベックス・マルクスは1967年にマルクスの旧英国子会社を買収していた。
 
 多くの玩具メーカーと同様、ダンビー・コンベックス・マルクス社も高金利と景気低迷に苦しみ、破綻した。
 1979年までに米国での事業の大半が停止され、1980年までにウェストバージニア州の最後のマルクス工場が閉鎖された。
 マルクスのブランドは消え、
   ダンビー・コンベックス・マルクス社
は破産を申請した。
 マルクスの資産は1980年代初頭に
   ケミカル・バンク
によって清算され、商標と玩具の金型の大半は
   アメリカン・プラスチック・イクイップメント社
のジェイ・ホロウィッツが購入した。
 ホロウィッツは後にアメリカン・プラスチック・イクイップメント社の子会社である
   アメリカン・クラシック・トイズ社
にすべての権利を譲渡した。
   
 マルクスの人気ツールの一部は、現在でもおもちゃや列車の製造に使用されている。
 マルクス・トレインズ社という会社は、オリジナルのデザインとルイス・マルクスの旧型パターンに基づいた石版印刷のブリキ列車を製造した。旧マルクスの型を使用したプラスチック製のOスケールの列車車両と情景は、以前はMDK社によって製造されていた。
 しかし、現在は「 K-Line by Lionel」というブランド名で販売されている。
 モデルパワー社は、古いマルクスの型からHOスケールの列車を製造している。ビッグホイールは、アルファ・インターナショナル社(アイオワ州シーダーラピッズ)の所有物として走り続けているが、同社は同じくシーダーラピッズのJ.ロイド・インターナショナル社に買収された。
 マテル社は2000年頃にロックン・ソックン・ロボットを再導入した。
 ただし、オリジナルよりサイズは小さい。
 マルクスのおもちゃの兵隊やその他のプラスチック製のフィギュアは、現在メキシコと米国で北米市場向けに製造されており、主にコレクター向けだが、一般消費者向け市場でも時々見かける。
  
 2001年、長年マルクス玩具の収集家であったフランシス・ターナーは、ウェストバージニア州マウンズビルの旧グレンデール工場の近くにマルクス玩具博物館を設立し、自身のコレクションの玩具を展示し、同社と創業者の歴史と成果について訪問者に知らせることを目的としていた。
 しかし、15年間の運営期間中、博物館の収入では物理的な施設の維持を維持できず、2016年6月30日に閉館した。
 コレクションは、他の博物館への貸し出しや、2021年初頭から販売されている「バーチャルミュージアム」ウェブサイトを通じてのみ公開されている。
 2019年、Marxブランドの現在の権利保有者であるAmerican Classic ToysのJay Horowitz氏は、The Juna Groupと独占ライセンス契約を締結し、玩具と遊び道具以外のすべてのカテゴリーでMarxブランドを世界中で販売しました。
 2021年、MarxブランドはThe Nacelle Co.に売却された。

  
posted by まねきねこ at 14:49 | 愛知 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | よもやまばなし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

欧州金融市況 トランプ氏が就任式の演説で欧州標的の関税を発表せず 債券・株ともに上昇

 欧州市場では21日、国債が上昇した。
 とりわけ英国債が大きく上げた。
 英国とフランスが銀行団を通じて売り出した国債はいずれも
   過去最高の需要
を集め、売り圧力を緩和した。
  
 英10年債利回りは4.59%と、7ベーシスポイント(bp、1bp=0.01%)低下した。
 ドイツ10年債利回りは2bp低下の2.51%で、英独10年債のスプレッドは5bp縮小し208bpと昨年11月以来の小ささとなった。
  
 短期金融市場が織り込むイングランド銀行(英中央銀行)の年内の利下げ幅は65bpだ。
 前日比で3bp拡大した。

 欧州株式市場でも買いが広がり上昇した。
 トランプ米大統領がまずは欧州を標的にした関税を打ち出さなかったことが好感された。

 ストックス欧州600指数は0.4%高となった。
 高級品ブランドグループのLVMHモエヘネシー・ルイヴィトエルメス・インターナショナル、デンマークの医薬品メーカー、ノボ・ノルディスクが買われ、指数を押し上げた。
  
   
posted by まねきねこ at 11:00 | 愛知 | Comment(0) | TrackBack(0) | onemile stone | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

中国が輸入拡大を表明、早期の米関税回避後に均衡取れた貿易を促進

 中国の丁薛祥副首相は21日、スイスのダボスで開催の
   世界経済フォーラム(WEF)
で、「われわれは貿易黒字を求めているのではない。均衡の取れた貿易を促進するため、競争力のある質の高い製品やサービスの輸入を増やしたい」と述べ、中国が
   輸入を拡大する意向
だと表明した。
 トランプ米大統領は就任初日となる前日、対中関税発動の発表を見送っていた。

 なお、丁氏は国名は言及しなかった。

 トランプ氏の大統領就任後、まだ間もないが、米中関係は
   予想外に友好的なスタート
を切ったようだ。
 トランプ氏は米国内での中国系動画共有アプリ「TikTok(ティックトック)」使用禁止措置も一時的に停止し、米国側との何らかの取り決めを結ぶ
   時間的猶予
をTikTokと親会社の
   字節跳動(バイトダンス)
に与えた。

 また、中国の習近平国家主席と会合や電話会談を開くつもりだと示唆し、中国から招待されていると説明したものの、詳細は示さなかった。

 中国は輸入拡大に努めており、全体的に関税は7.3%と低水準に設定していると、丁氏は指摘した。
 いわゆる「グローバルサウス」での影響力拡大を目指す中、中国は後発開発途上国と関税ゼロの取り決めを結んでいるとも同氏はアピールした。
 丁氏は中国共産党中央政治局常務委員7人のうちの1人だ。

 中国の貿易黒字は昨年、21%増の9920億ドル(約154兆2700億円)と、年間ベースで過去最高となった。
 トランプ氏のホワイトハウス復帰を控え、国内の需要低迷を補うために米国企業の求めに応じて輸出を急いだことが影響した。

 地政学的な緊張が高まる可能性がある中で、丁氏は投資家に対する中国の魅力も強調した。
 企業にとっての障害を取り除くと約束し、より多くの外国企業による中国市場への参入を呼びかけた。

 「中国の開放の扉は閉ざされることなく、さらに広く開かれる。われわれのビジネス環境は良くなる一方だ」と続けた。
 
 
ひとこと
 口では何でも言えるが、中国進出企業の価値がなくなれば放り出されている現実がある。
 技術や生産ノウハウが合併先の中国企業が習得すれば、資本関係で中国が51%の株式を強制的に持つことが出来る環境では、撤退や売却にも大きな障害があり、タダ同然で設備等を放棄せざるを得ないだろう。
   

posted by まねきねこ at 10:00 | 愛知 | Comment(0) | TrackBack(0) | onemile stone | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ロシアの海上原油輸出がバイデン政権の包括的制裁により大幅減少した。

 ロシアの先週の海上原油輸出は、約2カ月ぶりの大幅な減少となった。
 バイデン前米政権がロシアの石油業界に対して導入した
   包括的な制裁
が、早くも効果を発揮しつつある。

 ブルームバーグがまとめた船舶追跡データと港湾サービス関連業者の報告によると、19日までの1週間に輸出されたロシア産原油はタンカー26隻で合計1926万バレルだった。
 その前の週は27隻で合計2106万バレルだった。

 なお、週ごとの変動をならした4週平均でも、1日当たりの輸出量は300万バレルを下回り、直近の1年4カ月ぶり低水準に近い値に抑え込まれている。

 バイデン政権の制裁が発表されて以降、タンカーは進路を変更し、買い手はロシア以外に目を向けている。
 スエズ運河の通行がフーシー波の攻撃等で回避され、運搬ルートが長くなった影響などでタンカー等の傭船料金が高騰した背景もあり、ロシア極東のコズミノ港では制裁対象となっていない船舶が不足するなど、混乱の兆しが幾つか見られていた。

 制裁の影響は、ロシア極東でとりわけ強く表れそうだ。
 昨年10月初め以降に輸出された東シベリア・太平洋(ESPO)原油のおよそ75%は、今や制裁対象に指定された船舶で輸送されていた。
 サハリン沖の石油・天然ガス開発プロジェクト「サハリン1」、「サハリン2」で利用されていたシャトルタンカーも全て制裁対象となった。

 究極的には、トランプ新政権が制裁をどれほど厳格に執行するかに、ロシアの石油業界が被る影響は左右される。

 インドは、バイデン政権が制裁を発表した今月10日以前に予約されたタンカーについては、制裁対象であっても米国が設定した猶予期間が終了する3月12日まで荷揚げを認めると発表した。
 ただ、インドの製油会社はロシアが迂回策を見つけるため、影響は一時的であるかもしれないとの認識を示している。
 なお、トランプが経営する不動産企業の進出先としてモスクワにもあることから、親ロ政策が優先される可能性が高いトランプ政権が対ロシアで柔軟な姿勢をとるとの期待もある。

  中国では10日以降にロシア産原油を積んだタンカーが、初めて荷揚げした。
 このタンカー「ザリフ・バイカル」は制裁発表の1日後に荷積みし、約70万トンのサハリンブレンド原油を江蘇省連雲港に輸送した。
  
 
ひとこと
 中国とロシアの間にはパイプラインが敷設されており、タンカー輸送のみに注目しても、ロシア産原油や天然ガスの販売量は不明だ。
 ただ、中国から国境問題で対立関係にあるインドにロシア産原油や天然ガスが直接渡ることはないだろう。
   
   
posted by まねきねこ at 09:00 | 愛知 | Comment(0) | TrackBack(0) | onemile stone | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ソフトバンクG出資のインドネシア新興企業が業績を水増していたことが内部調査で判明 人工知能(AI)企業の投資判断の大きな誤差に注目

 ソフトバンクグループなどが出資するインドネシアの水産テクノロジー新興企業
   イーフィッシャリー
は数年にわたって売上高と利益を水増ししていた可能性がある。
 同社の会計に関する内部告発をきっかけにした内部調査で明らかになった。

 予備的な調査結果では、経営陣が昨年9月までの9カ月間に売上高を
   約6億ドル(約930億円)
水増ししていたと推計された。
 投資家の間で回覧された52ページにおよぶ調査報告書の草案をブルームバーグ・ニュースが確認したという情報が市場に流れている。
 これは同社から報告された数字の75%余りが偽りだったことを意味するという。
 なお、同社にはシンガポール政府の関連投資機関テマセク・ホールディングスも出資している。

 インドネシアの魚やエビの養殖業者に給餌機を供給しているイーフィッシャリーは、同国のスタートアップ界の寵児で、アラブ首長国連邦(UAE)の王族でアブダビ投資庁の会長を務める
   シェイク・タフヌーン・ビン・ザーイド・アル・ナヒヤーン氏
が所有する人工知能(AI)企業G42が直近の
   資金調達ラウンド
を支援した際には、14億ドルと評価されていた。
 同社はインドネシア水産業の近代化を目指し、何億ドルもの資金を調達している。
 養殖業者に
   スマート給餌装置と飼料
を供給する一方、水産物を買い取ってより広い市場に販売している。
  
 同社は2024年1−9月に1600万ドルの利益を上げたと投資家に報告した。
 しかし、取締役会が委託した調査では、実際には3540万ドルの損失を出していた。

 この期間の売上高は、投資家に伝えられていた7億5200万ドルではなく、8割も少ない1億5700万ドルと推計された。
 経営陣は数年にわたって売上高と利益を水増ししていたという。

 この事情に詳しい関係者によると、会計が正確ではないと内部告発者が役員に訴えたことをきっかけに調査が始まった。
 取締役会は昨年12月に正式な調査を依頼し、会計上の不整合が発覚した後、共同創業者であり最高経営責任者(CEO)の
   ギブラン・フザイファ氏
を解任した。
  
 
ひとこと
 会計上の不整合により、利益を得た共同創業者の悪行であり、見抜けなかった投資家の判断で人工知能(AI)企業G42の投資判断の大きな誤差に注目したい。
 数値を追うだけで、企業価値を判断するだけで、悪意ある数値の改ざんが見抜けないAI情報のへの過信が気になるところ。
 これで更に莫大なAI投資に傾倒するつもりか?
 
   
posted by まねきねこ at 08:00 | 愛知 | Comment(0) | TrackBack(0) | onemile stone | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

コリス・ポッター・ハンティントン(Collis Potter Huntington)西部鉄道のビッグ4の1人

コリス・ポッター・ハンティントン
         (Collis Potter Huntington)
   1821年10月22日 - 1900年8月13日
 米国の実業家、鉄道王
 米国初の大陸横断鉄道の一部としてセントラル・パシフィック鉄道を建設するというセオドア・ジュダの構想に出資した
とともに西部鉄道のビッグ4の1人である。
 ハンティントンは
   サザン・パシフィック鉄道
   チェサピーク・アンド・オハイオ鉄道(C&O)
など、他の主要な州間鉄道の指導と開発に貢献し、C&Oの完成にも協力した。
 1873年に完成したC&Oは、バージニア州民の長年の夢であった、リッチモンドのジェームズ川からオハイオ川流域まで鉄道でつながるという夢を実現した。
 そこの川に隣接する新しい鉄道施設により、ウェストバージニア州のかつての小さな町ガイヤンドットは、彼に敬意を表してハンティントンと名付けられた新しい都市の一部に拡大した。
 路線の東端であるリッチモンドに目を向けると、ハンティントンは1881年から82年にかけてC&Oの半島延長を指揮し
   ウェストバージニア州の 瀝青
炭が輸出用にハンプトン・ローズ港の新しい石炭埠頭に届く経路を開いた。
 また、ニューポート・ニューズ造船所および乾ドック会社の発展と、バージニア州ニューポート・ニューズを新しい独立都市として法人化した功績も認められている。
 彼の死後、甥のヘンリー・E・ハンティントンと義理の息子のアーチャー・M・ハンティントンの2人がニューポート・ニューズでの仕事を引き継いだ。
 3人ともコミュニティの創設者とみなされており、地元の名所にはそれぞれにちなんで名付けられている。

 コリス・P・ハンティントンが構想し、主導した鉄道と産業の発展の多くは、21 世紀初頭でも依然として重要な活動である。
 サザン パシフィック鉄道は現在ユニオン パシフィック鉄道の一部となり、C&O 鉄道はCSX トランスポーテーションの一部となった。
 いずれも米国の主要鉄道システムです。
 ウェスト バージニア州の石炭は、今でも鉄道で輸送され、ハンプトン ローズで石炭船に積み込まれます。
 近くでは、ハンティントン インガルス インダストリーズがニューポート ニューズで大規模な造船所を運営している。

 ハンティントンはワシントンを拠点に、1870年代から1880年代にかけて
   セントラル・パシフィック鉄道
   サザン・パシフィック鉄道
のロビイストとして活動した。
 ビッグ・フォーは強力な政治組織を築き上げており、ハンティントンはその運営に大きな役割を果たした。

 ハンティントンは政治家や国会議員に惜しみなく賄賂を贈った。
 1883年にハンティントンの悪行が暴露され、国内で最も嫌われている鉄道関係者の一人となった。
 ハンティントンは自らを弁護し「私の行動の背後にある動機は誠実なものであり、その結果は私自身よりもカリフォルニアの利益に大きく寄与した。」と主張した。
 1968年、ハンティントンは
   国立カウボーイ&西部文化遺産博物館
の偉大な西部人の殿堂入りを果たした。
  
 コリス・ポッター・ハンティントンは、1821年10月22日にコネチカット州ハーウィントンで生まれた。
 彼の家族は農業を営んでおり、彼はその手伝いをしながら育った。
 10代前半には農作業や近所の雑用をこなし、稼いだお金を貯めた。

 16歳の時、彼は行商人として旅を始めた。
 この頃、彼はセールスマンとして旅をし、バージニア州ワーウィック郡の田舎町ニューポートニューズを訪れた。
 彼は、ジェームズ川がハンプトン・ローズの大港に注ぐこの地域の未開発の可能性を決して忘れなかった。

 1842年、彼とニューヨーク州オネオンタの兄弟ソロン・ハンティントンはオネオンタで成功した事業を立ち上げ、1848年頃まで雑貨を販売した。
 ハンティントンはアメリカ西部にチャンスがあると見て、カリフォルニアへ向かった。カリフォルニア・ゴールドラッシュの始まりに、彼はサクラメントで商人として開業した。
 ハンティントンはカリフォルニアでの事業で成功した。
 彼はマーク・ホプキンスとチームを組み、鉱山労働者の物資やその他の金物を販売した。
   
 1850年代後半、ハンティントンとホプキンスは、
   アメリカの東西を結ぶ鉄道
を建設するという構想を追求するために、他の2人の成功した実業家
   リーランド・スタンフォード
   チャールズ・クロッカー
と手を組んだ。
 1861年、これら4人の実業家(ビッグフォーと呼ばれることもある)は、それぞれの資源とビジネス感覚を結集した。
 アメリカ初の大陸横断鉄道の西側を結ぶセントラル・パシフィック鉄道会社を設立した。
 4人のうち、ハンティントンは鉄道事業の追求において最も冷酷な人物として知られ、パートナーのスタンフォードを追い出した。

 ハンティントンはワシントン D.C.で、東部から鉄道建設を監督していた
   グレンヴィル・ドッジ
と、鉄道がどこで合流するかについて交渉した。
 両者は1869年4月に合意に達し、ユタ州プロモントリー・サミットで合流することに決めた。
 1869年5月10日、プロモントリーで
   セントラル・パシフィック鉄道
の線路が
   ユニオン・パシフィック鉄道
の線路と合流した。
 アメリカに大陸横断鉄道が誕生した。
 この合流を祝って、サンフランシスコの銀行家で商人の
   デイビッド・ヒューズ
がセントラル・パシフィック鉄道に贈った金の釘が打ち込まれた。
  
 CSX (旧 C&O 鉄道) ハンティントン支社本部。前景には ガットスン・ボーグラム作のコリス・P・ハンティントンの像がある。
 1865年からハンティントンはセントラル・パシフィック鉄道の四大経営者とともにサザン・パシフィック鉄道の設立にも関わった。
 同鉄道の最初の機関車CPハンティントン(CPRから移管)は、彼にちなんで名付けられた。

 ニューオーリンズから南西部、カリフォルニアまでの鉄道路線により、サザン・パシフィック鉄道は9,000マイル以上の線路に拡大した。
 また、5,000マイルの蒸気船接続路線も管理していた。
 ハンティントンはサザン・パシフィック鉄道を利用して、自由港争奪戦でサンペドロ港がロサンゼルスの主要港になるのを阻止しようと努めた。
 
 アメリカ南北戦争後、バージニア州ではリッチモンドとオハイオ川流域を結ぶ運河または鉄道の完成に向けた取り組みが再開された。
 戦争前、バージニア州公共事業局とバージニア中央鉄道は、ブルーリッジ山脈を通る州所有の運河建設に資金援助を行っていた。
 戦争勃発時には、このルートはシェナンドー渓谷の上流まで完成していた。
 社長ウィリアムズ・カーター・ウィッカムが率いる
   バージニア・セントラル鉄道
の役員たちは、再建のためには経済的に荒廃した南部以外から資本を調達する必要があることに気付いた。
 彼らはイギリスの利益を惹きつけようとしましたが、成功しなかった。
 最終的にウィッカム少佐はコリス・ハンティントンの関心を引き、鉄道の完成に協力してもらうことに成功した。

 1871年から、ハンティントンは、リッチモンドからバージニア州とウェストバージニア州を通り、オハイオ川に至る、新設のチェサピーク・アンド・オハイオ鉄道(C&O)の完成を監督した。
 そこで、義理の兄弟であるデロス・W・エモンズとともに、ウェストバージニア州ハンティントンの計画都市を設立した。
 彼は、C&Oのために、新興のウェストバージニア州南部の瀝青炭事業の開発に積極的に取り組むようになった。

 ハンティントンは1865年から、当時鉄道が通っていなかったバージニア州東部タイドウォーター地域で土地を取得していた。
 1880年にオールド・ドミニオン土地会社を設立し、その土地を同社に譲渡した。
 
 1880 年 12 月から、彼は C&O の半島支線の建設を指揮した。
 この支線はリッチモンドのチャーチ ヒル トンネルから東にバージニア半島を下り、ウィリアムズバーグを通り、バージニア州ワーウィック郡のハンプトン ローズ港の半島南東端まで伸びていた。
 新しい鉄道と彼の土地会社を通じて、ニューポート ニューズ ポイントに石炭埠頭が建設された。

 バージニア州で初めて鉄道が開通してから、半島下部に鉄道が敷かれるまで 50 年以上かかったかもしれない。
 しかし、いったん工事が始まると、すぐに進んだ。彼が以前に大陸横断鉄道やオハイオ川までの路線で用いた方法に従い、ニューポート ニューズとリッチモンドの両方で工事が始まった。

 両端の作業員は互いに向かい合って作業した。
 作業員は1881 年 10 月 16 日にウィリアムズバーグの西 1.25 マイルで合流し、線路を完成させた。
 しかし、完成を早めるために一部のエリアでは仮線が敷設されていた。
 ハンティントンとその仲間は、アメリカ独立戦争終結の最も象徴的な出来事とされる、1781年にヨークタウンでコーンウォリス卿率いるイギリス軍が降伏してから100周年を米国が祝っていたヨークタウンへの鉄道サービスを提供すると約束していた。

 最後の釘打ち式から3日後の10月19日、ニューポートニューズからの最初の旅客列車が、新しいリーホール車両基地の本線からヨークタウンまで敷かれた仮線路を通って、地元住民と国の役人をヨークタウンでのコーンウォリス降伏100周年記念式典に運んだ。
 1881年後半にニューポートニューズの新しい石炭埠頭への線路が完成するやいなや、同じ建設作業員が後にペニンシュラ管区のハンプトン支線と呼ばれることになる工事に取りかかった。

 この線路は東にエリザベスシティ郡のハンプトンとオールドポイントコンフォート方面に約10マイル走っており、そこでは米陸軍基地フォートモンローがチェサピーク湾(および大西洋)からハンプトン・ローズ港の入り口を守っていた。
 線路は約9マイルのところで完成し、町は1882年12月にフィーバスと名付けられ、その指導者であるハリソン・フィーバスにちなんで名付けられた。
 この新しい支線は、民間人に人気の古いハイジアホテルと新しいホテルチェンバレンの両方に停車した。
 20世紀前半には、近くのバックロービーチまで観光列車が運行され、そこには教会のグループと行楽客の両方にとってのアトラクションの一つである遊園地があった。
 ハンティントンは、かつては静かな小さな農村だったニューポート ニューズ ポイントで、ランドマークである
   ホテル ワーウィック
を建設し、ニューポート ニューズ造船所およびドック会社を設立して事業を開始した。
 この会社は、米国最大の民間造船所となりました。
 ハンティントンは、活気に満ちた進歩的なコミュニティを創り上げ、築き上げたビジョンと開発の組み合わせで、大きな功績を残した。
 15 年間の急速な成長と開発により、 1896 年にバージニア州ニューポート ニューズが新しい独立都市として法人化された。
 バージニア州で最初に法人化された町として発展することなく、このようにして形成された 2 つの独立都市のうちの 1 つである。

 C&O鉄道ハンプトン支線の線路近くには師範学校があり、創立当初は南北戦争と奴隷制度廃止後に南部に残された多くのアフリカ系アメリカ 人解放奴隷を教育する教師の養成に特化していた。
 大人も子供も熱心に学ぼうとした。
 南部の黒人のほとんどは、南北戦争以前は教育を受ける機会を奪われていた。

 現在のハンプトン大学へと発展したこの学校は、元北軍将軍
   サミュエル・チャップマン・アームストロング
によって最初に指導された。
 アームストロング将軍の教え子の中で最もよく知られた人物は、
   ブッカー・T・ワシントン
という青年で、彼は後に、同じく歴史的に黒人が通うアラバマ州の
   タスキギー大学の学長
に採用され、同大学をタスキギー大学に発展させた。
 サム・アームストロングは、1892年にニューヨーク滞在中に重度の麻痺に陥ったとき、黒人教育プロジェクトで協力していたハンティントンが提供した私有貨車でハンプトンに戻った。

 南半球では、コリスとハンティントン家の他の一族、および彼らのオールド・ドミニオン土地会社は、生活とビジネスの多くの側面に関わった。
 彼らは、学校、博物館、図書館、公園を設立するなど、多くの貢献をした。

 ウィリアムズバーグでは、コリスの
   オールド・ドミニオン土地会社
が 18 世紀の州議事堂の歴史的な場所を所有していた。
 これは、後にバージニア州保存協会 (以前はバージニア州古代遺物保存協会として知られていました) となる団体の初期の推進者であった女性たちに譲渡された。
 この場所は後に、アビーとジョン・D・ロックフェラー・ジュニアによる旧植民地首都の大規模な修復の重要な部分となった。
 彼らは、世界の主要な観光名所の 1 つであるコロニアル・ウィリアムズバーグを発展させた。

 ハンティントンはC&Oの反対側の端にある同名の都市を無視しなかった。
 C &O、さらにはサザン・パシフィック鉄道やセントラル・パシフィック鉄道に貨車を供給するために、ハンティントンはエンサイン・マニュファクチャリング・カンパニーの主要投資家となった。

 彼は会社をウェストバージニア州ハンティントンに置き、C&Oに直結させた。
 エンサインは1872年11月1日に設立された。
 1900 年にハンティントンが亡くなった後、甥の
   ヘンリー E. ハンティントン
が彼の産業事業の多くを指揮した。
 甥はすぐにサザン パシフィックの株式をすべて売却した。
 彼と他の家族は、ハンティントンの文化および慈善事業の多くを継続および拡大し、さらに独自の事業も展開した。

 ハンティントンは1900年8月13日、アディロンダック山脈の「キャンプ」であるパイン・ノットで亡くなった。
 彼はニューヨーク、ブロンクスのウッドローン墓地にある古典様式の霊廟に埋葬された。

 彼は膨大な美術品コレクションを収集し、国内有数の美術品収集家として広く認められていた。
 彼はコレクションの大半、300万ドル相当をニューヨークのメトロポリタン美術館に遺贈した。
 義理の息子アーチャーの死後、同美術館の手に渡るようにした。
 彼の遺言では、もし義理の息子が子供を残さずに亡くなった場合、ハンティントンの5番街の邸宅またはその売却益をイェール大学に寄付するとされていた。
 また、ハンプトン大学(当時はハンプトン研究所)とチャピン老人ホームに合計12万5000ドルの遺贈を行った。

    
posted by まねきねこ at 07:24 | 愛知 | Comment(0) | TrackBack(0) | バイオグラフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ゴールドマンが次世代担うリーダーを登用 主要部門の幹部を昇進

 米国の投資会社ゴールドマン・サックス・グループは、主要部門を統括する幹部の昇進に向けて準備している。
 次世代を担う新たなリーダーが指名される。

 こうした事情に詳しい複数の関係者がメディアの取材で明かしたところによれば、ゴールドマンは株式、債券、バンキングの部門で新たなグローバル責任者の登用を計画しているという。
 この関係者らは、人事に関する内容だとして匿名を条件に語った。
 
 同行ではまた、国際部門でも新たな共同責任者の指名を予定している。
  
 株式部門はアーディット・ホッジャ氏、シリル・ゴッディーリス氏、ドミトリ・ポティシュコ氏が統括する。
 また、債券部門はクナル・シャー氏、アンシュル・セーガル氏、ジェーソン・ブロース氏が責任者に就任する。
 バンキング部門はキム・ポスネット氏、マット・マクルアー氏、アンソニー・ガットマン氏が率いる。

 シャー氏とガットマン氏は、上記の新たな役職に加え、ゴールドマン・サックス・インターナショナルの共同最高経営責任者(CEO)にも就任する。
 現在の国際部門トップ、リチャード・ノッド氏(64)は同職を退任し、ゴールドマン・サックスの副会長に就く。
  
 
ひとこと
 従前から米国の大手投資会社等からは常に人材が流出して、投資企業等を設立し、新陳代謝が繰り返される環境であり、多額の報酬を受け取り、新たな事業を設立できることが背景にある。
 日本も戦前はこうした好循環に人材が動く環境があったが、戦後、不暴動とも言える累進課税の適用などで会社の資産を食らうような社用族など無責任な輩が増えてしまっている。
 企業の社畜同様に、官僚なども公僕とか国民目線などといった曖昧な基準が適用されている始末だ。
 本来、年金や税金などの資金が効率的に活用されて資産を増やして税金や年金を軽くしていく仕組みが必要だが、平等と言うなの不平等がマスコミの洗脳的な情報誘導でまかり通ってしまっているのが、現在の日本の元凶だろう。

 そもそも、血税などという言葉を用いる政治家の扇動的思考の胡散臭さは話にもならない。
 
   
posted by まねきねこ at 07:00 | 愛知 | Comment(0) | TrackBack(0) | onemile stone | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

トランプ政権の政策でイールドカーブのスティープ化に連動

 トランプ氏の勝利と共和党の議会選圧勝は、トランプ政権の政策がインフレをあおり、米長期債を圧迫するとみられていたため
   イールドカーブのスティープ化
につながると予想されていた。
 そして、まさにその通りのことが起こっている。
 米国債券市場では2年債と10年債の利回り差は約34ベーシスポイント(bp、1bp=0.01%)拡大し、2022年初頭以来の大幅なスティープ化に近づいている。
 一方、長期債はトランプ氏の大統領就任を前にして下落している。
  
 底堅い米経済指標やトランプ氏の政策に対する不透明感により、短期金利も圧迫されている。
 金利スワップ市場は現在、年内の追加利下げを0.25ポイント幅で2回未満と見込んでいる。
 選挙前には、約6回の利下げが予想されていた。
  
 それでも、市場で確かなものは不確実性だけだ。
 先週、予想を下回るコアインフレ率の発表を受けて、米国債利回りが全ての年限で急低下した。
 
posted by まねきねこ at 03:00 | 愛知 ☔ | Comment(0) | TrackBack(0) | onemile stone | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ポール・ウェイリッチ(Paul Weyrich) ヘリテージ財団、自由議会財団、アメリカ立法交流協議会(ALEC)の共同設立者

ポール・マイケル・ウェイリッチ(Paul Michael Weyrich)
   1942年10月7日 - 2008年12月18日
 米国の宗教 保守派の政治活動家、評論家で、新右翼と関係があった。
 ヘリテージ財団、自由議会財団、アメリカ立法交流協議会(ALEC)の共同設立者であり
   「道徳的多数派」
という用語を作り出した。
 これは、1979年にジェリー・ファルウェルと共同設立した政治活動グループ
   モラル・マジョリティ
の名称である。

 ウェイリッチはウィスコンシン州ラシーンで
   バージニア・M(旧姓ウィックストロム)
   イグナティウス・A・ウェイリッチ
の息子として生まれた。
 ウェイリッチの父親はドイツからの移民である。

 ウェイリッチは1960年にセントキャサリンズ高校を卒業し、ウィスコンシン大学ラシーン校に2年間通った。
 1961年から1963年までラシーン郡において 若手の共和党員として活動し、1964年には
   バリー・ゴールドウォーター
の大統領選挙運動にも参加した。
 ジャーナリズムの世界では、ミルウォーキー・センチネル紙の政治記者、ミルウォーキーのWISN-TVの政治記者兼週末アンカー、ラジオではウィスコンシン州ケノーシャのWAXO -FM 、WLIP -AMの記者、デンバーのKQXIのニュースディレクターとしてキャリアを積んだ。
 
 ウェイリヒは第二バチカン公会議後、カトリック教会のラテン教会からメルキト派ギリシャカトリック教会に移り、ニュートンの
   メルキト派ギリシャカトリック教区の助祭
に任命された。
 
 1966年、ウェイリッチはコロラド州の共和党上院議員
   ゴードン・L・アロット
の報道官に就任した。
 この職務中に、彼はクアーズ醸造家の一族の長である
の補佐官ジャック・ウィルソンと出会った。
 彼らは公共政策研究の現状に不満を抱き、1971年に
   アナリシス・アンド・リサーチ社
を設立したが、この組織は社会に受け入れられず勢いを増すことができなかった。

 反ビジネス的だとみなしていた税制と規制に関するリベラルな見解に対抗するためウェイリッチは1973年
に財政支援を説得し、エドウィン・フォイルナーとともにシンクタンクとして
を共同設立した。
 当初は影響力がほとんどなかったこの組織は、その後、世界最大の公共政策研究機関の一つに成長し、保守的な政策を推進する上で大きな影響力を持つようになった。
 翌年の1976年、ウェイリッチは再びクアーズの支援を受けて
   自由議会存続委員会 (CSFC)
を設立した。

 CSFCは「冷戦後、東欧の政治で活発に活動するようになった。
 この活動で目立ったのは、ウェイリッチの右腕である
   ラズロ・パストル
で、サーラシ・フェレンツが率いたハンガリーの極右超国家主義政党
   親ナチス矢印十字党(Arrow Cross activities)
の元指導者であり、ヒトラーの第三帝国と協力した人物だった。
 なお、1944年3月のドイツによるハンガリー占領と10月のホルティ(Miklós Horthy)が失脚後、サーラシは政府および国家元首に就任し、国民統一政府として知られる彼の親ナチス傀儡政府を率いた。
 ハンガリーは矢十字党のメンバーが支配し、戒厳令を敷き、ドイツの戦争活動に参加した。
 ホルティによって中止されていたハンガリーでのホロコーストを再開した。
 彼の民兵は、65万人のハンガリー系ユダヤ人を絶滅の収容所に移送し、1万人から1万5千人のハンガリー系ユダヤ人を殺害した唯一の責任を負って、戦犯として絞首刑となった。

 パストルは「矢印十字党の活動で」2年間戦争犯罪者として投獄された後、米国に渡り、共和党全国委員会の民族支援部門の設立に尽力した」と作家マーティン・リーは1997年に書いている。

 ウェイリッチの指揮下で、CSFCは非常に革新的な組織となった。
 ダイレクトメールキャンペーンを通じて大規模な資金集めを行った草の根組織としては最初の組織の一つであった。

 また、社会保守主義運動の活動家や支援者を募集・育成する場として福音派キリスト教会を活用した最初の組織の一つでもあった。 
 1977年、ウェイリッチはロバート・グラントとともに
   クリスチャン・ボイス
を共同設立した。
 2年後の1979年、彼はジェリー・ファルウェルとともにモラル・マジョリティを共同設立した。
 その後の20年間、ウェイリッチは、他の多くの著名な保守団体を設立、共同設立、または主要な役割を果たした。
 その中には、州議会議員の組織であるアメリカ立法交流評議会の設立、社会保守主義者の戦略策定組織である国家政策評議会の共同設立、保守派雑誌であるコンサバティブ・ダイジェストの共同発行、保守活動家組織の連合であるアメリカ連合の全国会長としての活動などがある。
 彼は後にCSFCを自由議会財団(FCF)に再編した。

 1997年、ウェイリッチは自由議会財団の支援を受けて、ワシントンDCに拠点を置く衛星 テレビ局
   ナショナル ・エンパワーメント・テレビジョン(NET)
を設立した。
 同局は後に営利チャンネル「アメリカの声」として1997年に再スタートした。
 同年、ウェイリッチは自身が設立したネットワークから追い出された。

 この追放はネットワークの責任者が役員会を説得し、敵対的買収でウェイリッチを追い出したためだ。
 ポリティカル・リサーチ・アソシエイツの
   チップ・バーレット
は、これは「明らかに共和党の実利主義者を攻撃する分裂的な行動が原因」だと述べた。

 1989年から1996年まで、彼は
   フリー・コングレス財団
の1部門である
   クリーブル研究所
の所長も務め、東欧と旧ソ連で民主化運動を支援し、中小企業を設立する活動家を育成していた。

 1997年までに、ヘリテージ財団とフリー・コングレス財団は、最大規模かつ最も資金力のある保守系シンクタンクのトップ5のうちの2つとなった。

 2009年にウィリアム・リンドと共著した著書『次世代保守主義』の中で、ウェイリッチは保守派は「1950年代の家族構造に戻るために戦うべきだ」と主張しており、これは彼の後継者たちが引き継いだ目標である。
 
 ウェイリッチは多くの保守派とは対照的に、長年にわたり
   鉄道による 大量輸送
を熱烈に支持してきた。
 彼は「バス高速輸送」(通常のバス輸送よりも収容力は高いがコストも高い特殊なタイプのバス輸送)に反対した。
 鉄道輸送をより効果的な代替手段として支持した。
 1988年、彼は都市鉄道輸送をテーマにした季刊誌「The New Electric Railway Journal」を共同設立した。
 この雑誌は1996年までFCFによって発行され、ウェイリッチ自身が発行人を務めていた。

 FCFは1996年にTNERJとの提携を中止したが、同誌は別の出版社の下で発行され続け、 1998年末まで、ウェイリッチは「名誉発行人」として名を連ねていた。
 2000年初頭、最後の雑誌が発行されてから約1年後、ウェイリッチとウィリアム・S・リンド(1996年まで同誌の共同発行人だった)は、鉄道輸送に関する意見やニュースを引き続き掲載できるウェブサイトを立ち上げた。
 彼らはそのウェブページを「The New New Electric Railway Journal」と名付け、ウェイリッチは提案されているライトレールや地下鉄システムを支持する論説コラムを多数執筆した。
 彼はまた、米国の都市に路面電車を復活させることも支持した。

 ウェイリッチは1987年から1993年までアムトラックの全国理事会、アムトラック改革評議会、地方および地域の鉄道交通擁護団体にも勤務した。
 
 ハーパーズ・マガジンが「崇拝者から『社会保守主義のレーニン』とよく呼ばれる」と評した新右翼の重要人物として、ウェイリッチは州の権利、結婚、反共産主義といった伝統的な社会政治的価値観の擁護者であり、新左翼の断固たる反対者であると自らを位置づけた。

 ボブ・ジョーンズ大学では、1971年まで黒人学生の入学を拒否し、1971年から1975年までは既婚の黒人のみ入学を許可し、 1975年から2000年までは異人種間の交際や結婚を禁止するという方針をとっていた。
 1997年10月、『ニュー・リパブリック』誌はデイヴィッド・グランによる「右派のロベスピエール 革命で私が食べたもの」という記事を掲載した。この記事では、ウェイリッチは保守体制の確立に非常に効果的であったが、同時に気まぐれで激しい性格の持ち主でもあったと描写されている。
 ウェイリッチは、ジュディシャル・ウォッチのラリー・クレイマンの支援を受けて、同誌およびその他を名誉毀損で訴えた。
 訴訟は却下され、 2001年1月に差し戻されたが、ウェイリッチによって取り下げられた。

 ウェイリッチは、彼が「文化的マルクス主義」と呼ぶ政治的正しさを嫌悪し、それを「我々の伝統的、西洋的、ユダヤ・キリスト教文化」とアメリカ社会の保守的アジェンダであると信じていたものを故意に弱体化させようとする試みとみなした。
 1999年に彼は「我々は文化戦争に負けた」と書き、「我々が従うべき正当な戦略は、政治的正しさのイデオロギーや我々の伝統的文化の他の敵によって捕らえられた組織から自分たちを切り離す方法を探すことだ。我々はこの[異質で敵対的な]文化から脱却し、たとえそれが我々が物理的に今いる場所であっても、敬虔で正義の、そして真面目な生活を送れる場所を見つける必要がある」と示唆した。

 1999年にマスコミが報じた、アメリカ軍に所属するウィッカ教徒のグループが配属先の基地の敷地内で宗教儀式や礼拝を行っていたという論争を受けて、ウェイリッチはウィッカ教徒を憲法修正第1条の信教の自由条項から除外し、軍務に就くことを全面的に禁止しようとした。

 ウェイリッチは自由議会財団の会長として、10の宗教右派団体の連合を率いて、ウィッカ教徒全員が軍務から排除されるまでキリスト教徒の入隊ボイコットを試みた。

 神権監視団体と名誉毀損防止同盟によると、ウェイリッチと彼の自由会議財団はどちらもドミニオン主義と密接な関係があった。
 神権監視団体は両者を「ドミニオン主義の実践」の代表例として挙げ、「ポール・ウェイリッチの自由会議財団の宣言書」である『理論と実践の統合:新伝統主義運動のためのプログラム』を引用し、「ドミニオン主義運動の戦術を明らかにしている」。
 神権監視団体はこれを「ポール・ウェイリッチのトレーニング・マニュアル」と呼んだ。
 この宣言書をアメリカ政治における「神権右派」が権力を獲得し維持する方法についての事実上のプレイブックであると考えられている。
 名誉毀損防止同盟は、ウェイリッチと自由会議財団を、政教分離を脅かす50人以上の最も著名な保守派キリスト教指導者と組織の同盟の一部であると特定した。

 ウェイリッチは、自身が神政政治を主張しているという非難を否定し続け、「この発言は驚くほどの偏見に満ちている」と述べた。
 また、キリスト教右派がアメリカを神政政治に変えたいと望んでいるという主張を否定した。

 キャサリン・ユリカは、ウェイリッチがエリック・ヒューベックに、2001年に自由議会財団によって出版された戦略計画「理論と実践の統合」の執筆を指導したと書いている。
 彼女によると、この計画では、欺瞞、誤報、分裂を利用して、保守的な 福音派キリスト教 共和党が米国政府の権力の座を獲得し、維持することを求めている。

 ウェイリッチは、同僚の保守派の行動や権力の乱用を問題視することが多く、草の根運動である「次の保守主義」を奨励した。
 また、下から「アメリカを復興」するべきだと主張した。
 ウェイリッチは、自分の主張を説明するために、「キリスト教会が衰退するローマ帝国の中でどのように成長したか」と「アメリカ帝国が崩壊する中で、次の保守主義がアメリカ共和国を復興できるか」を比較した。

 彼は、旧ソ連からの侵入者がまだ潜んでいると主張し、メディアから共産主義者を特定し排除することを目的として、下院非米活動委員会と米国上院司法委員会の内部安全保障小委員会の復活を主張した。

 クリントン・ルインスキー事件に対する国民の無関心に不満を抱いたウェイリッチは、1999年2月に手紙を書き、保守派は文化戦争に負けたと考えており、保守派は腐敗した主流社会から離れて独自の並行機関を形成すべきだという分離主義戦略を主張した。
  
 2004年までに、世論の動向とジョージ・W・ブッシュ大統領 の再選を受けて、ウェイリッチはより希望的になったと伝えられている。
 当初はブッシュを支持していたにもかかわらず、彼はブッシュ政権の政策にしばしば反対していた。
 彼らの反対の例には、イラク戦争、移民、ハリエット・マイアーズ、財政政策などがある。
 ソ連崩壊後、ウェイリッチはロシアを何度も訪問し、ロシアとアメリカの緊密な関係を支持した。
 
 ウェイリッチと妻のジョイス・アン(旧姓スミガン)はバージニア州アナンデールに住み、5人の子供と13人の孫がいた。
 
 1996 年、ウェイリッチはブラック アイスバーンで転倒し、脊髄損傷であるクモ膜炎と診断された。
 2001 年から 2008 年に亡くなるまで、彼は車椅子生活を送り、慢性的な痛みに悩まされた。
 2005 年 7 月、怪我の合併症により、両足の膝下を切断する必要があった。
 
 2008年12月18日、ウェイリッチは定期検査のためにバージニア州フェアファックスのイノバ・フェアオークス病院を訪れた。
 そこで66歳で亡くなった。死因は公表されていない。
 ウェイリッチは脊髄損傷と四肢切断に加え、以前に2型糖尿病と診断されていた。

   
posted by まねきねこ at 02:00 | 愛知 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | バイオグラフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

プーチン大統領がトランプ氏とウクライナ情勢巡る対話にオープンと伝達

 ロシアのプーチン大統領は20日、テレビ放映された安全保障会議で次期米大統領に就任する
   ドナルド・トランプ氏
に祝意を表し、ウクライナでの戦争を巡る米国との対話についてオープンな姿勢を示したうえ、トランプ氏が望む
   直接的なやり取りの再開や第3次世界大戦を防ぐ必要があるとの同氏の主張を歓迎するとした。
 プーチン氏は「ウクライナでの紛争に関して、われわれは米国の新政府との対話に前向きだ」と語り、「対話では、戦闘の継続を目的とした戦力の再編成や再軍備のための一時的な停戦ではなく、この地域に住むすべての人々や国家の正当な利益を尊重した長期的な平和を目指す必要がある」と訴えた。    
  
   
posted by まねきねこ at 01:00 | 愛知 | Comment(0) | TrackBack(0) | onemile stone | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする