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2014年06月01日

ヨハン・グーテンベルク 印刷機を発明

 
ヨハネス・ゲンズフライシュ・ツール・ラーデン・ツム・グーテンベルク
       Johannes Gensfleisch zur Laden zum Gutenberg
                  (1398年頃 - 1468年2月3日)
 
 
 ドイツ出身の金属加工職人 印刷業者
 活版印刷技術の発明者として広く知られている。

 
 グーテンベルクの古い記録は、裁判記録以外ほとんど残っていない。
 
 活版印刷技術の真の発明者は誰かという論争が古くから行われてきた。
 グーテンベルクとする説が最も有力である。
 
 1445年までに活版印刷技術を考案し、その機器の実用化に成功して、自ら印刷業・印刷物出版業を創設したといわれる。
 
 
 金属活字を使った印刷術を発明したことで印刷革命が始まりルネサンス、宗教改革、啓蒙時代、科学革命の発展に寄与した。

 
 1439年頃にヨーロッパで初めて活字による印刷を行った。
 
 活字量産方法の発明、油性インクの採用、当時使われていた農耕用スクリュープレスのような木製印刷機の採用など、様々な面で印刷に貢献している。
 
 
 グーテンベルクの活字生産方法の目新しい点は、古くから活字合金の発明とパンチ法と呼ばれる鋳造技法といわれている。

 活版印刷具は急速にヨーロッパ各地に普及し、さらに世界中に広まっていった。
 
 印刷技術は羅針盤、火薬とともに「ルネサンス三大発明」の一つにあげられる。
 
 
 
 ドイツの都市マインツの上流階級の織物の貿易商人
   フリーレ・ゲンスフライシュ・ツア・ラーデン
とその2番目の妻で商店主の娘であった
   エルゼ・ヴューリヒ
の間に末っ子として生まれた。
 
 

 13世紀以降、グーテンベルク一族は冶金業と商業に従事していた。父母の間には長男フリーレ(後に市参事会員)、長女エルゼが生まれ、次男として生まれたのがヨハネスであった


 当時のマインツでは市民と貴族の間で争いが繰り返されていた。その煽りでグーテンベルク一家は1411年以降、他の貴族たちと同じように、何度もマインツを離れて母が相続した地所を持っていたエルトフィレ・アム・ラインへ逃れることを余儀なくされた。
 
 
 成人したヨハネスは金属加工の腕を磨き、貨幣鋳造職人としてその手腕を高く評価されていた。
 
 ただ、母方の祖父が貴族でないという理由で貨幣鋳造業ギルドへの加入が認められなかった。
 
 1434年3月にグーテンベルクは金細工師としてシュトラースブルクの民兵組織に登録されている。
 
 1437年には裕福な商人に宝石研磨の技術を教えていた。
 
 1439年頃、グーテンベルクはアーヘンの巡礼者に聖火を写し取るといわれていた研磨した金属鏡を売るという事業に出資を募り、財政的問題を生じた。
 
 アーヘンではカール大帝の遺品を展示する計画があったが、深刻な洪水が発生したため1年延期された。
 
 そのため集めていた資金で使ってしまったぶんを返せなくなったのである。
 
 
 1440年、シュトラースブルクで自身の研究に基づく印刷術を完成させ1450年までには印刷所の運営を開始した。
 
 最初に印刷したのはドイツ語の詩と見られている。
 
 グーテンベルクはヨハン・フストという裕福な金貸しから事業資金を得ることに成功した。
 
 
 フストは設備費として800グルデンを貸し付け、二人は共同事業者として新規事業を立ち上げた。
 
 フストはパリで写字生の経験を持つ
   ペーター・シェッファー(1430年頃-1467年)
という青年をグーテンベルクのもとに連れてきた。
 
 シェッファーはいくつかの最初の書体をデザインしたと考えられている。
 
 シェッファーは後にフストの娘クリスティーナと結婚して婿になり、印刷業をビジネスとして成功させることになる。

 グーテンベルクは親戚が所有する Hof Humbrecht と呼ばれる建物を印刷所とした。
 
 
 フストからさらに800グルデンを借り、1452年から聖書の印刷を開始した。
 最も利益の上がった印刷は、教会向けの数千枚の贖宥状の印刷で、1454年から1455年ごろから印刷している。

 「グーテンベルク聖書」と呼ばれる最初の印刷聖書「四十二行聖書」は1455年に完成した。
 約180部を印刷し、多くは紙だが、一部は羊皮紙に印刷された。
 

 フストがグーテンベルクを訴えるという事態が起きグーテンベルクの印刷機と活字、印刷済みの聖書の半分などがすべて抵当としてフストの手に渡った。

 グーテンベルクはこの決定に従った。
 
 再び資金を集めて自宅の印刷所で書籍の印刷を続け、1459年頃にはバンベルクのアルブレヒト・プフィスター (Albrecht Pfister) の工房での『三十六行聖書』印刷に関与した。
  
 
 グーテンベルクには印刷日時や印刷者の名前を書物に入れるという発想がなかった。
 直接的な年代の確定が困難であった。
 
 
 グーテンベルクを追い出したフストとシェッファーは事業を順調に発展させ、1457年8月15日に出版した『マインツ詩篇』は世界で初めて奥付(コロフォン)に印刷日と印刷者名(フストとシェッファー)を入れた書籍として歴史に残ることになる。 
 

 1462年、マインツは対立する司教同士の争いに巻き込まれた。
 アドルフ2世大司教に従う軍勢がマインツを略奪し、グーテンベルクは自宅と印刷所を失ったためエルトフィレ・アム・ラインに逃れた。

 グーテンベルクは、印刷術考案の功績を讃えて1465年に
   アドルフ大司教
の宮廷に従者として召し抱えられる栄誉を得た。 
 なお、俸給として宮廷での衣装一式と、2,180リットルの穀物と2,000リットルの免税のワインを与えられている。

 グーテンベルクがひっそりと世を去ったのは3年後の1468年のことであった。
 
 
 
   
    
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posted by まねきねこ at 20:47 | 愛知 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | バイオグラフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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