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2014年06月16日

本間 宗久 「出羽の天狗」

  
 
本間 宗久
   1724年(享保九年) - 1803年(享和三年)
 
 出羽庄内(現在の山形県酒田市)出身
 江戸時代の米商人で、酒田、大坂、江戸での米の商いで莫大な富を得た。
 後に出羽国米沢藩の第9代藩主上杉鷹山を補佐した酒田の豪商本間光丘は甥にあたる。
 
 
 大坂・堂島の相場師牛田権三郎と並び称される。幼名 久作
  
 
 
 酒田五法
 ・三山 ・・・ 酒田五法:三山
 ・三川 ・・・ 酒田五法:三川
 ・三空 ・・・ 酒田五法:三空
 ・三兵 ・・・ 酒田五法:三兵
 ・三法 ・・・ 酒田五法:三法
を発案し、ローソク足の考案者であると言われている。
 
 江戸時代、世界的に見て先駆的な先物市場であった大阪堂島、蔵前の米会所で、後の
   チャールズ・ダウ
と並んでテクニカル分析が行われており、200年以上がたった今でも、その基本的な手法が活用され酒田罫線法として伝わっている。
 
 
 
 本間宗久の父親は酒田の米屋「新潟屋」の本間原光である。
  
 宗久が16歳の時、8代将軍徳川吉宗が統治する江戸へ家業修行のための見聞を得るために遊学し帰省後酒田にて米相場における投機を父に進言した。
 
 しかし、手元にある資金を先物相場で現実には手元にない米を売買するといった偽りの行為について「商いの正道ではない」と容れられなかった。

 父原光の死後、後を継いだ長兄光寿も数年で隠居した。
  
 
 光寿は「新潟屋」の跡継ぎとして長兄の子光丘を家業修行のため愛媛「奈良屋」へ手代奉公として出した。
 
 その間は宗久を仮の主としたことで宗久は店の資金を元手に酒田の米相場で投機を行った。
 相場が見事当たり、一躍「新潟屋」身代を数万両単位で増資させた。
 
 
 甥の光丘が愛媛より帰郷したため、久作は仮の主の座を返した。
 
 光丘は「新潟屋」の経営方針を違える久作とは叔父甥の縁を切り店(たな)より追放してしまった。
 また、久作が投機で得た金の多くを防砂林等の公共事業へ寄付してしまっている。

 
 酒田を出た久作は江戸で米相場の投機を行うがこんどは目論見がことごとく外れ破産してしまった。
  
 
 失意の中で帰郷した久作は懸命に働き資金を蓄えて体勢を立て直し、今度は当時江戸以上の大市場であった大坂で再度投機を行うために出向いた。
  
 
 大坂の米相場では江戸の失敗を材料に相場の流れを読む手法を考案するなど才能を発揮し大勝利を繰り返し、「出羽の天狗」と称された。
 
 
 大阪で得た利益を持ち酒田で再度商いを始めたものの、相変わらず光丘からは縁を切られたままの状態が続いた。
 
 
 50歳になった久作は、名を宗久と改め江戸へ移った。
  
 ここでも相場に成功し多額の身代を作り出した影響もあり、出羽国米沢藩の藩政改革で上杉鷹山を補佐するようになっていた光丘とは長い間対立していたが和解がなった。
 
 その後は江戸で新潟屋の現物米とあわせて莫大な財産を手にしたという。
 
 
 宗久は酒田の米を売り本間家の勃興を側面から支えた。
 
 その活躍ぶりは、
   『酒田照る照る、堂島曇る、江戸の蔵米雨が降る。』
   『本間さまには及びもないが、せめてなりたや殿様に』
といった唄が流行るほどであったという。 
 
  
  
 
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posted by まねきねこ at 05:30 | 愛知 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | バイオグラフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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