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2014年06月09日

田中平八 「天下の糸平」

田中平八
 (1834年8月15日(天保5年7月11日)
       - 1884年(明治17 年)6月8日)
 

 
 長野県(現在の駒ヶ根市)生まれの幕末、明治の実業家、本姓は藤島で幼名は釜吉、名は政春といった。
  
 生家は資産家であったが
   米と綿相場で失敗
し没落したため、三男の平八は1846年(弘化3 年)頃に現在の飯田市の魚屋に丁稚奉公に出された。
 
 
 1849年(嘉永2 年)頃に、魚屋として暖簾分けしてもらい独立り、1853年(嘉永6年)に田中はると結婚し、田中家の養子となり田中姓を名乗った。


 名古屋の伊勢町や大阪の堂島で市場取引が行われていた米相場に手を出したものの大損した。
   
 
 幕末期の神道無念流剣術の剣術家では千葉周作の玄武館や桃井春蔵の士学館と並んだ江戸三大道場の一つ
   練兵館
の創立者
   斎藤弥九郎
の門下生となった。
 
 同道場が長州藩の師弟への剣術教授をしていた関係もあり
   吉田松陰
   清河八郎
らと交わったとされる。
  

 水戸の天狗党の乱(1864年(元治元年)で挙兵後に参集した群衆の一人として参加した。
 挙兵は鎮圧されて捉えられ小伝馬町に投獄された。
 
 この投獄によって剣の道から離脱して商売に生きることを決意したともいわれている。
 
 
 横浜へ1858年(安政5 年)頃に出て、生糸・藍玉を扱う商売を始めた。

 その後、1865年(慶応元年)横浜で大和屋の後ろ盾を得て
   糸屋平八商店
を開業し、生糸・為替・洋銀・米相場に成功し巨利を得た。

 この成功により通称
   糸屋の平八
   天下の糸平
と呼ばれた。
 
 しかしいつまでも天下は続かず、1868 年(慶応4年)には、四日市から横浜に茶を運ぶ途中に所有していた船が難破し全財産を失った。


 その後、横浜金穀相場会所を1872年(明治5年)に設立し頭取に就任した。
 また、同時期に洋銀相場会所を設立している。


 相場師の諸戸清六今村清之助と組んでイギリス人貿易商や清国人商人を相手に仕手戦を仕掛けたが、資本にモノを言わせて買い捲ったものの追加資金が細くなって負けそうになったことから、偽札を作り見せ金とすることによって勝利した。

 しかし、これが露見してしまい信用がなくなり横浜での商売が出来なくなった。


 東京で田中組(後の田中銀行)を1876年(明治9年)に創立した。
 1878年(明治11 年)に
    渋沢喜作渋沢栄一の従兄)
を発起人として東京株式取引所の設立し、同時に大株主となった。


 東京米商会所(後の東京米穀取引所、現在の東京穀物商品取引所)の初代頭取として1883 年(明治16年)に就任した。
 
 また、この米商会所の株式を上場することで、後に、これも仕手戦と化し莫大な資金を確保することとなったという。
 
 
 晩年、病気となり熱海で療養中には私財を投じて熱海までの水道・電話線を架設した。


 座右の銘として
  相場は騎虎の勢い
が知られ、長女の名前も「とら」とするなど縁起を担ぐことも多かったようだ。
 
 また、横浜ではお倉という女将に富貴楼という待合をもたせた。


 子孫としては、長女とらの婿に糸平不動産や田中鉱山(後の田中鉱業)を興した三代目田中平八(北村菊次郎)、三代目田中平八の長男に日本のラグビーの父と言われる田中銀之助がいる。
  
  
  
 
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posted by まねきねこ at 20:41 | 愛知 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | バイオグラフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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