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2014年06月15日

最後の“相場師”是銀

 
 
是川銀蔵(これかわ・ぎんぞう)
  (1897年7月28日 - 1992年9月12日)
 

 兵庫県赤穂市の貧しい漁師の七人兄弟の末っ子
   小山銀蔵
として生まれた。
 
 もともとの小山の家は赤穂では有名な旧家であったが、明治維新で没落した。
  
 
 3才の時に赤穂から神戸へ転居し、尋常小学校を卒業した後、14歳で貿易商の
   好本商会
の丁稚となった。
 
 1914年に好本商会が倒産、一旗上げるべくロンドンを目指し出国した。
 中継地の中国の大連に着いたときにヨーロッパで第一次世界大戦が勃発した。
 
 
 日本軍が山東半島の龍口に上陸したため、軍との商売を目指して龍口へ移った。
 軍が青島へ向かうと徒歩で追いかけたという。
  
 手持ち資金が底をつき生死を彷徨いながらも軍の出入り商人となり、貿易会社小山洋行を設立した。
 

 食料品や桐を扱って利益を上げたが、軍の高官に対して饗応を行った為、1915年に
   贈賄容疑
で憲兵に逮捕された。
 ただ、未成年であったこと等を理由に無罪となり、日本に送り返された。

 
 約半年後、再び青島へ渡り現地の通貨である一厘銭を両替し、金属資源として売却する商売を始めた。
 

 一厘銭は亜鉛・銅・鉛の合金であり、戦争による金属資源の高騰から2倍以上の価値で売れ莫大な利益を上げた。
 
 
 その後、1916年に孫文を支援する日本軍に貸した3万円が返済されず、12月にドイツからの講和の打診により相場下落も影響して事業は破綻した。

 
 意気消沈として日本に戻り姉婿の縁で龍野市で貝ボタンの工場を経営した。
 
 
 質素な平々凡々とした生活に飽き足らず、自由に活動するために工場を兄に譲り1919年に大阪へ移った。
 
 
 伸鉄工場を作り、景気悪化の影響を受け倒産寸前であった亜鉛メッキ工場を安価に買収して
   大阪伸鉄亜鉛メッキ株式会社
を作り、260人の従業員を雇用するようになった。
 
 
 1923年に関東大震災の一報を受けるとバラックの需要を見越してトタン板と釘を買占め、巨利を得た。
 なお、この取引で得た利益は他人の不幸によるものであったため、半分を大阪府へ寄付したという。
 
 
 1927年に昭和金融恐慌が発生した際には預金していた銀行が破綻、会社運営の資金が消失してしまい支払いが出来ずに倒産してしまった。
 
 ただ、債権者達は理解があり、事業の継続を支持したものの経営者としての責任を取り是川は経営を債権者に任せて引退した。
 
 
 経済恐慌を経験したことで資本主義に対して懐疑的になり、3年間図書館に通い詰めて世界情勢、投資理論を独学
   恐慌は景気循環によって生じる予測可能な変動
であるとの理論を形成し、資本主義の仕組みは衰退しないと判断したという。

 
 1931年、34歳で70円を元手に大阪株式取引所で株式投資を始め、年末までに7000円に増やした。
 
 
 1933年に大阪堂島で「昭和経済研究所」(是川経済研究所)を設立し、研究と指導を行った。
 
 
 商品先物を扱う
   大阪三品取引所
では1935年に綿の世界的凶作を見越して綿を買い、売りに回った昭和綿花株式会社の
   駒村資平
と仕手戦を数ヶ月続けた。
 
 なお、買い方が優勢で約300万円の利益があった。
 ただ、欲が頭に入ってしまったのか駒村資平からの解け合いの申出を断った後に相場が反転し下落してしまい、逆に1万数千円の損失を受けた。

 
 諸外国の経済動向の調査から、アメリカ、イギリス、ソ連が水面下で
   極東に向けた軍拡
を行っていることを予測し、軍・財界・マスコミへ警告を行った。
 
 
 ただ、当時は米英との親善外交が主流であり憲兵隊などから取調べを受けた。
 
 戦前期の内閣直属の物資動員・重要政策の企画立案機関である企画院の沼田多稼蔵の理解を得て陸軍へ進言するようになったという。
 
 

 1938年に朝鮮半島東部の江原道で
   是川鉱業
を設立させ、これを短期間で軌道に乗せた。
 その後、1943年には是川製鉄株式会社を設立させ従業員1万人を雇用する朝鮮有数の大企業となった。
 
 
 朝鮮総督だった小磯國昭と知遇を得てから、1944年の小磯内閣誕生の際には入閣要請を受けたものの事業に専念するため断った。
 
 
 太平洋戦後、日本の国策会社のオーナーであったため、新生朝鮮の警察に逮捕された。
 日本企業の資産を奪う目的があった朝鮮の対応を見て処刑を覚悟したが、朝鮮人を平等に扱っていたことから、嘆願運動が発展して釈放された。

 
 1960年に大阪府の泉北ニュータウン開発でも土地投機を行い3億円を得て、株式相場への復帰資金をつかんだ。

 
 
 なお、相場師として晩年となった昭和50年代に入ってから市場で話題となった。
 1976年の日本セメント、1979年の同和鉱業、1982年の不二家、1983年の丸善石油、平和不動産の株買い占め、仕手戦で名前が知られるようになった。
 
 最も良く知られたものは1981年から1982年にかけての住友金属鉱山の仕手戦であった。
 

 1981年9月に金属鉱業事業団(現独立行政法人石油天然ガス・金属鉱物資源機構)が鹿児島県の
   菱刈鉱山
で金鉱脈を発見したと発表した。
 
 是川は朝鮮で鉱業を営んでいた時の経験に基づき、いち早くこれに注目し現地視察を行った。
 
 住友金属鉱山株の買い占めを行った。
 買い占め前の8月の安値203円から仕手戦の様相となり暴騰したものの翌年3月に逆に利益確保が強まり大暴落してしまった。
 
 その後、是川がもつ隣接鉱区を住友金属鉱山が買取、金鉱開発に着手すると発表した後に4月の高値1230円まで株は高騰した。


 是川は約1500万株(本人の談話では名義書換を行ったのは1400万株)を買い占め200億円の巨利を得たとされるが大部分を税金で国庫に収めた。 
   
  
  
 
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posted by まねきねこ at 06:24 | 愛知 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | バイオグラフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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