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2018年08月09日

方 望(ほう ぼう) 中国の新代の軍師


方 望(ほう ぼう)

   ? - 25年

 中国の新代の武将、政治家
 司隷右扶風平陵県(陝西省咸陽市)の出身だが、出身階層など不詳な点が多い。
 前漢の元帝の皇后・王政君(孝元皇后)の甥
   王莽
が簒奪した漢朝の復興を目指した活動家のひとり。
 
 地皇4年(23年)に隴右の
   隗囂
は新の皇帝王莽が敗北した際、群雄の1人として自立した。

 隗囂は使者を派遣して
   方望
を軍師として招聘し、方望もこれに応じた。

 方望は、漢復興の大義を示すため「神道設教」を行うことを進言した。


 隗囂もこれを容れて邑に東面して廟を建てた。
 高祖(劉邦)、太宗(文帝)、世宗(武帝)を祀るなどの行事を取り行った。
 これに伴い、隗囂は元号を漢復に改め、漢復元年(23年)7月付で漢室復興の檄を各郡国に飛ばした。


 漢復2年(24年)に、隗囂が更始帝(劉玄)の招聘に応じて長安へ向かったが、方望は更始帝の敵は多く不安があったため、これを諫止した。
 しかし、隗囂が聞き入れなかったため、方望は手紙を残して隗囂と決別したという。


 翌更始3年(25年)1月、更始政権の統治が混乱した。

 方望は、王莽に廃された
   劉嬰(孺子嬰)
を探し出して天子に擁立することで漢朝を復興しようと図った。

 安陵(右扶風)の人弓林らを説得して同志に加えたうえ劉嬰を長安から探し出した。

 臨(安定郡、現甘粛省鎮原県)にて天子として擁立し、兵を募ったところ数千が集まった。
 なお、方望自身は劉嬰政権の丞相、同志の弓林は大司馬となっている。

 更始帝の命を受けた更始政権の丞相李松、討難将軍蘇茂、定陶王劉祉に討伐された。
 劉嬰、方望、弓林は戦死し、劉嬰政権はあっけなく滅亡した。


 方望の弟方陽は、その後、更始帝が方望を殺したことへの復讐で、華陰(弘農郡)で農民反乱軍
   赤眉軍
を迎え、宗室から天子の劉盆を立て進軍し、王匡軍を撃破して長安に入城、投降した更始帝を殺害した。
       
       
  
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posted by まねきねこ at 06:00 | 愛知 ☔ | Comment(0) | バイオグラフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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