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2018年08月11日

盧 植(ろ しょく) 「黄巾の乱の追討」に功績を挙げた軍師


盧 植(ろ しょく)

    ? - 192年


 中国後漢の末期に
   文武の才能
を見込まれ「黄巾の乱の追討」に功績を挙げた将軍の1人

 字は子幹

 幽州涿郡涿県(現在の河北省保定市涿州市)の出身で「後漢書」に伝がある。

 儒学者としては『礼記』の注釈者としても知られ、三国時代の蜀漢を興した劉備の師でもある。
 
 身長は8尺2寸(約195cm)で、声は鐘のように大きくよく響いたとされる。


 若い頃に、鄭玄とともに外戚出身の豪族
   馬融
に師事して儒学を学び、古今の学問に通じた。
 なお、馬融よく多くの女人を侍らせ歌舞を楽しみながら講義をしていた。

 盧植がそれに目もくれなかったため、馬融は盧植に敬意を持った。

 古今の書に通じ、博学で節義も高かった事から人望が厚く
   剛毅で節度のある性格
であり、常に世の中を救いたいという志を持っていた。辞賦は好まず、酒は一石程嗜んだ。


 桓帝の没後、皇后の父である竇武が霊帝を擁立し朝政を見るようになると、封爵を与えようとする意見があった。
 盧植はこれを諌めたが、竇武には聞き入れてもらえなかった。


 盧植には州郡からの仕官の誘いがあったが、それをすべて辞退した。

 建寧年間の中期に博士となった。

 熹平4年(175年)に
   九江蛮
が反乱を起こすと、文武の才能がある人物として四府から推薦され、盧植が九江太守に任命された。
 なお、蛮族が降服すると、盧植は病のため官職を去った。


 盧植は故郷の幽州涿郡に戻り
   尚書章句
   礼記解詁
といった著作を著した。

 また、学舎を主宰し、劉備や公孫瓚と高誘といった近隣の子弟に学問を教えた。

 会南夷が反乱を起こすと、かつての九江太守であった時の恩信を買われ、廬江太守に任命されている。

 数年して復職し議郎に任命された。

 黄巾の乱が中平元年(184年)に勃発すると盧植は再び四府からの推挙を受け、北中郎将に任命された。 
 節を持つ事を許され
   護烏桓中郎将
の宗員を副官とし、北軍五校士の将軍とされて天下諸郡の兵を集めた。

 反乱軍の指導者
   張角
の討伐に向かい大破して万余人を斬る功績を立てた。
 張角は広宗に敗走したため、盧植はこれを包囲し雲梯を使って攻め立てた。

 丁度、霊帝が左豊を軍の監察の使者として派遣して来た。
 左豊は盧植に賄賂を要求したものの盧植がこれを断ったため、左豊は
   「盧植は戦おうとしない」
と霊帝に讒言した。
 このため、盧植は怒った霊帝から罪人に落とされたうえ、死一等を免じた上で
   官職を剥奪、収監
される事となった。


 この後に皇甫嵩が黄巾を平定したが、皇甫嵩が盧植の功績を大いに称えた。
 このため、盧植は許され再び尚書に任命された。
 光熹元年(189年)、何進は
   宦官皆殺し
に反対する何太后に圧力をかけるため、凶悪な性格を持つ并州の
   董卓
を呼び寄せようとした。

 盧植は董卓の熟知しており、それを止めさせようとしたが何進はそれに従わなかった。

 宦官の策謀で暗殺されると、その部下の
   袁紹
らが宦官誅罰のため挙兵した。

 盧植もそれに参加し、帝らを連れて逃げる宦官の前に、大斧を持って立ち塞がっている。


 董卓は争乱時に実権を掌握し、帝を少帝から献帝に挿げ替えようとした。

 董卓の暴虐さに誰もが口を噤む中で、盧植のみがこれに反対した。
 そのため董卓によって処刑されかけた。

 ただ、海内の学者・大儒として名高く人望の厚かった盧植は
   蔡邕
や議郎の
   彭伯
の取り成しで助命され、免職だけに留められた。

 その後、災いを避けるため病を理由に都から逃亡した。


 董卓はこれに追っ手を差し向けたが、追い付けなかった。

 その後、盧植は郷里に隣接する上谷郡で隠遁生活を送った。

 冀州牧となった袁紹に招かれて軍師となり、初平3年(192年)に病死した。
 建安年間になり、袁紹を破り河北に進出した
   曹操
は、袁紹の子らを破り柳城まで遠征する途中、盧植の故郷である涿郡を通過した。

 曹操はこの時、亡き盧植の功績を称えて顕彰し、子の盧毓らを官職に就けて報いたという。
  
   
   
  
posted by まねきねこ at 06:00 | 愛知 ☔ | Comment(0) | バイオグラフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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