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2018年08月04日

樊 崇(はん すう)  赤眉軍の頭領


樊 崇(はん すう)

     ? - 27年

 中国の新代に蜂起した農民軍である
   赤眉軍
の頭領で、後漢時代初期にかけての武将。

 なお、後漢の大司徒ケ禹の配下にも同姓同名の人物(驍騎将軍)が存在するが、これは別人。 

 字は細君 

 徐州琅邪郡の出身

 呂母の乱(天鳳元年(14年))から数年後に、莒(琅邪郡)で100人余りで挙兵した。
 泰山(太山)郡に入って三老を号した。

 当時、青州と徐州は天候不順により
   大飢饉
に見舞われ、各地では匪賊など武装した盗賊が蔓延っていた。

 これらの盗賊の間では樊崇を勇猛な人物とみなしてその傘下に加わるようにもなっていった。
 樊崇軍は1年ほどの間に1万人余りの軍勢に膨らみ勢力が強まった。

 さらに、琅邪郡出身の逄安、東海郡の徐宣、謝禄、楊音ら各地の武装集団も傘下に加わり、数万の軍勢となった。

 最初、莒を攻撃したが攻略できず、転じて姑幕(琅邪郡)を攻撃し支配下に加えた。 


 地皇2年(21年)、探湯侯田況の軍を撃破した。

 樊崇の軍は、青州で略奪を働いた後に泰山に引き返した。
 この頃から、盗賊の寄せ集めだった樊崇の軍が次第に軍隊としての組織、規律を整えていくようになった。
  

 地皇3年(22年)、新朝の皇帝王莽は、樊崇を討伐するために、更始将軍・平均公廉丹、太師王匡の軍を派遣した。

 樊崇らは、敵軍との識別を図るため、自軍の兵士の眉を赤く染めるように指示した。
 こうした風貌から赤眉軍と呼ばれるようになった。

 赤眉軍は廉丹、王匡の軍を撃破し、さらに無塩(東平郡)まで追撃して廉丹を討ち取った。
 その後、赤眉軍の一部は河北へ分散して転戦、樊崇の軍は、各地を攻略しながら陳留郡に侵攻し、魯城(魯郡)を攻め落とした。
 勝の勢いに乗り濮陽(東郡)に進入した。


 更始1年(23年)10月、洛陽に遷都した
   更始帝(劉玄)
は、使者を派遣して樊崇に降伏を勧め、これに応じて樊崇は将帥20数人だけを連れて洛陽を訪れ、列侯に封じられた。

 ただ、地盤が安定せず支配地域が増えていない更始帝としては樊崇らに領地を与えられず、養えなくなった部下の兵士が四散し始めた。

 軍が自壊する流れになっていたため樊崇らは洛陽から逃亡して再び自軍を統率するために戻った。

 赤眉軍は潁川に入り、軍を2つに分け、一軍を樊崇、逄安が率いた。
 もう一軍を徐宣、謝禄、楊音が率いた。

 樊崇軍は長社(潁川郡)、宛(南陽郡)を攻略し、徐宣軍は陽翟・梁(潁川郡)を攻略して
   河南太守
を斬った。

 赤眉軍は連戦連勝しながらも将兵の消耗は激しく兵士の補充が効かず疲弊し、兵士たちは出身基盤の東へ帰ることを求め始めた。


 樊崇らは、東へ戻ると兵士が帰郷して軍が瓦解すると判断したため、あくまで長安へ進攻することを主張した。


 更始2年(24年)冬、樊崇軍は武関から、徐宣軍は陸渾関から、それぞれ三輔へ進入した。
 翌更始3年(25年)1月には弘農郡で両軍が合流した。
 
 赤眉軍は更始軍を撃破して、華陰(弘農郡)に到達した。
 ここで、従軍していた巫(かんなぎ)がトランス状態で劉氏宗族を天子に立てよと告げた。

 更始帝に殺された方望の弟
   方陽
が、劉氏宗室の者を擁立して
   軍の正統性
を確保することを勧めた。

 これを赤眉軍諸将は協議して、一番血筋が近い者三人から籤で選ぶことにした。
 結果、同年6月、劉盆子を皇帝に擁立し、建世元年と号した。
  

 樊崇は勇猛をもって頭領となっていた。
 ただ、読み書き計算が出来なかったため、学問の素養があった
   徐宣
に丞相の地位を譲り、自身は御史大夫に就いた。

 同年9月、赤眉軍は、更始帝に反逆した
   張卬
らの手引きにより、長安を攻め落とし、更始帝を降伏させてその政権を滅ぼした。

 ただ、樊崇らの支配地域では乱脈の限りで、長安やその周辺では
   略奪狼藉
を繰り返した。

 建世2年(26年)春には、糧食が尽きてしまい、長安を捨てて西進するが、安定郡で
   隗囂
と戦ったが大雪に逢い多くの死傷者を出して、結果的に東に還ることとなった。

 この間、光武帝(劉秀)配下の大司徒
   ケ禹
は主力部隊が抜けた機会を狙って長安を攻略して支配下に置いたが、戻ってきた赤眉軍の
   謝禄
がケ禹を撃退するものの、杜陵(京兆尹)で逄安が率いる主力部隊が
   延岑・李宝
に撃破され、兵站線が維持できず食料も不足したため、同年12月、樊崇らは東へ帰る決断をした。
  
 建世3年(27年)、樊崇らは、追撃するケ禹の軍を各地で撃破しながら懸命に東へ逃走した。

 崤底(弘農郡黽池県)で
   馮異
が率いる漢軍に大敗した。

 樊崇らは宜陽(弘農郡)へ逃れたものの、ここで光武帝らが率いる漢の大軍に正面を塞がれ、ついに徐宣以下30人と共に肉袒(上半身を肌脱ぎ)して降伏した。

 その後、樊崇は洛陽に妻子と共に居住したが、同年夏、逄安と共に謀反したため処刑された。
      
       
  
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posted by まねきねこ at 20:37 | 愛知 ☀ | Comment(0) | バイオグラフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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