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2024年04月16日

ジェイ・グールド  典型的な泥棒男爵(悪徳資本家)で合衆国最大の鉄道財務運営会社の多くに関係を持った人物


ジェイソン・"ジェイ"・グールド(Jason "Jay" Gould)

   1836年5月27日-1892年12月2日

 米国の資本家で指導的鉄道開発家、投機家であった。
 典型的な泥棒男爵(悪徳資本家)と誹られてもいる。

 ただ、ウエスタンユニオン電信会社を支配したような、建設投資が再評価されている。
 
 ニューヨーク州ロクスベリーで
   ジョン・バー・グールド(1792年-1866年)
   メアリー・ムーア・グールド(1798年-1841年)
夫妻の息子として生まれた。
 父はイギリス人の血を引いており、母はスコットランド人の子孫だった。


 ホバート・アカデミーで学んだが、16歳の時に退学、父の金物商の手伝いを始めた。
 ただ、退学後も独学で勉強を続け、測量や数学に強くなった。

 その後、ニューヨーク州西部で製材業や革なめし業で働き、さらにはペンシルベニア州モンロー郡トラウズバーグで銀行業に関わるようになった。

 グールドと1860年代後半にウォール街で非倫理的なビジネス慣行で全国的に有名になったビジネスマン
   ジェイムズ・フィスク
が民主党の派閥
   タマニーホール(1790年代から1960年代にかけてに存在)
に関わるようになったのは同じ時期だった。

 タマニーの領袖
   ウィリアム・M・トウィード(ボス・トウィード)
をエリー鉄道の社長にし、トウィードはその見返りに彼等に有利な法律を手配した。

 トウィードとグールドは1869年に
   トマス・ナスト
の政治風刺漫画の題材にされた。

 1871年10月、トウィードが100万ドルの保釈金を積んだとき、グールドが主保証人になった。
 
 グールドとフィスクは、1869年8月、金価格の上昇につられ西部の農夫の売りたい小麦価格を上昇させた。
 東部のパン原料輸送料を増やし、エリー鉄道の荷受量増加に繋がることを期待して、市場買い占めのために金を買い始めた。

 この期間、グールドはユリシーズ・グラント大統領の義弟
   アベル・コービン
との接触を利用して、大統領とその国務長官
   ホレス・ポーター
への影響力行使を図った。

 この金投機による価格上昇は1869年9月24日の暗黒の金曜日と言われる恐慌まで登り詰め、20ドル金貨表面価格に対する割増率は62%から35%まで下がった。
 グールドはこの操作で名目利益を得たものの、その後の訴訟でそれを失った。

 金買い占め操作で、市場を意のままに上下させることができる全能の人間として新聞界におけるグールドの評判が固定し作られた。
 グールドの残りの人生では、新聞記者が
   他では説明できない市場展開
の大半をグールドの暗躍の結果に結びつけた。
 
 グールドは、1873年、移民用の土地を物色していたキャンベル氏族の従兄弟
   ゴードン=ゴードン卿
からの海外投資を得ることでエリー鉄道の支配を目論んだ。

 グールドはゴードン=ゴードンに株式で10万ドルの賄賂を贈ったが、ゴードン=ゴードンは詐欺師であり、直ぐにその株を現金に換えてしまった。

 グールドはゴードン=ゴードンを告発し、その裁判は1873年3月に行われた。
 ゴードン=ゴードンは法廷でヨーロッパの有力者の名前を出して召還を請求した。

 ただ、その照会が行われる間に保釈を認められた。
 ゴードン=ゴードンはこの機会を利用してカナダに逃亡し、そこで当局を彼に対する告発は嘘だと説得した。

 グールドは、カナダ当局にゴードン=ゴードン引き渡しを要求したものの却下された。
 この要求が失敗した後、後にミネソタ州知事になった者2人と、米国議会下院議員になった者3人を含む仲間達と、ゴードン=ゴードンの誘拐を試みた。

 この誘拐は成功したものの、米国に戻る前に王立カナダ騎馬警察に止められ逮捕された。
 誘拐実行者達は監獄に入れられ、保釈も拒否された。

 ただ、これがアメリカとカナダの間の国際問題になった。

 誘拐実行者達が保釈されないことを知ったミネソタ州知事
   ホレス・オースティン
はその帰還を要求し、州兵に即応体制を取らせた。
 多くのミネソタ州人が全軍でのカナダ侵攻を志願したが、交渉によってカナダ当局は誘拐実行者達を保釈で解放した。

 この出来事全体のために、グールドはエリー鉄道支配の可能性が無くなった。

 プルマン社の株式はジョージ・ピーボディが保有し、多くの財産を築いた。
 グールドはユニオン・パシフィック鉄道やミズーリ・パシフィック鉄道を含み西部の鉄道4社を1879年までに支配した。

 グールドは中西部の鉄道システムを作り上げることを始めた。

 同1879年、インターナショナル・オーシャン電信会社(International Ocean Telegraph Company)
の支配権を掌握した。
 また、1880年には1万マイル (16,000 km) の鉄道を支配した。
 これは当時の米国全体の鉄道路線のほぼ9分の1となり、1882年までにはその15%を支配するようになった。

 1881年以降はニューヨーク市の高架鉄道も手に入れた。

 グールドは1833年に連邦政府に対する負債で政治的論争の渦中にあった
   ユニオン・パシフィック
の管理から撤退し、それで大きな利潤を得た。

 また、ウエスタンユニオン電信会社を支配するようになった。
 そして、ウェスタンユニオンのために@最初に取得したインターナショナル・オーシャン電信会社を99年の期限付きで借り受け、Aアメリカン・ユニオン電信会社と、同社を通してそのカナダの持株会社を取得できるよう取り計らった。

 ウェスタンユニオンのシステムは、物理的に大西洋横断電信ケーブルと結合、さらに金融的にもカナダの通信システムと結合された。

 1883年12月12日、コマーシャル・ケーブル会社(Commercial Cable Company)が創設され、グールドによる電信・ケーブル敷設の独占を打ち破った。
 1868年から1888年の期間に、グールドは合衆国最大の鉄道財務運営会社の多くに関係を持った。

 1886年サウスウェスト鉄道大ストライキの間にはスト破りを雇った。
 労働組合活動家に拠れば、当時グールドは「私なら労働階級の半分を雇って残り半分を殺すこともできる」と言ったと言われている。
  
 グールドは1892年12月2日に結核で死亡した。


    
posted by まねきねこ at 21:47 | 愛知 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | バイオグラフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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