(Société Générale S.A. 略称 ソジェン)
フランスでBNPパリバに続くメガバンク
世界約80カ国以上で個人と企業の双方を顧客とし、プライベートバンキングを営み投資信託取引も担っている。
専用の会議回線を介して行われる金の価格設定組織
ゴールド・フィックス(Gold fixing)
の加盟行で、以前は、ロンドン・ゴールド・マーケット・フィクシング・リミテッドのメンバーによって
ネイサン・メイヤー・ロスチャイルド&サンズ
のロンドンの敷地内で開催されていた。
なお、ソジェン・ベルジック(Société Générale de Belgique ベルギー国立銀行)とは異なる。
1852年、ペレール兄弟(Frères Pereire)が
クレディ・モビリエ(Crédit mobilier)
を創立した。
クレディ・モビリエは少額の株式・社債を大規模に発行し大衆貯蓄をプールして
産業金融と公共事業投資
を国際的に展開する兼営銀行となった。
これに対抗してロスチャイルド家を基軸とするシンジケートが1855年に組織された(Réunion Financière)。
同シンジケートにはケス・デパーニュグループ創業者
ピレ(Pillet-Will)
やパリ割引銀行の
ヘンチ(Édouard Hentsch)
アントウェルペンの
カーン閨閥(Famille Cahen d'Anvers)
アライド・アイリッシュ銀行の
エドワード(Edward Charles Blount)
商工信用銀行の創立者
タラボー(Paulin Talabot) など
が参加していた。
同シンジケートの大部分が
ジェネラル・クレジット(General Credit and Finance)
を資本金2億5千万フランで1863年にロンドンに創立してトーマス・ブラッシー(Thomas Brassey)がリーダーシップをとった。
ジェネラル・クレジットは大英帝国が植民地化を勧めていたエジプト・近東で活躍した。
1864年5月、ソジェンがシンジケートを更新する形で資本金1億2千万フランで創業、シュナイダーエレクトリックの
ウジェーヌ(Eugène Schneider)
が社長となった。
ただし、ロスチャイルド家は直接的には出資をしなかったが
アルフォンス・ド・ロチルド
をソジェンの監査役に就けている。
普墺戦争の翌年、短期資本で運営されていた
クレディ・モビリエ
が不動産投機に失敗し破産した。
その後に中国興業銀行がペレールの轍を踏むことになる。
フランスでは無敵となったソジェンは、金属工業の盛んなサン=テティエンヌとクレルモン=フェランに支店を出した。
普仏戦争までにアルザスにも支店を出し、1871年、初の海外支店をロンドンに開設した。
ジプト、ムハンマド・アリー朝の第5代君主
イスマーイール・パシャ
への借款を回収できなくなった
農業信用銀行(Société du Crédit Agricole)
が1876年に倒産した。
この事件は50年後の
が誕生するまでにおいて、フランス農業金融に対する最初の試練といわれる。
農業信用銀行は
クレディ・フォンシエ(Crédit foncier de France)
の子会社であり、親会社フォンシエはスエズ運河運用純益の担保権を実行していた。
フォンシエは1852年、ポーランド立憲王国の貴族で、ロシアの圧制から政治亡命して、ボナパルト家やロスチャイルド家と親しくなった
サビエル・ブラニキ(Xavier Branicki)
が設立した不動産信用銀行で、債券発行によって調達した資金を長期の不動産抵当貸付に運用することを基本業務とした。
同行は,19世紀末〜20世紀初頭における資本金は1億7000万フランで,当時のフランスで最大の企業となった。
フォンシエは開発業者がパリ改造の対価として受け取った土地を大規模に割引いて販売した。
54年以降は,中央銀行であるフランス銀行と同じく,政府の任命になる総裁・副総裁制を採り入れ,半官半民の性格を持つようになった。
60年にはアルジェリア,1909年にはチュニジア,20年にはモロッコと,子会社を通じて活動の場をフランス国内から植民地地域へと拡大した。
クレディ・フォンシエに当初は農業に対する信用供与であった。
農業金融機関としての機能は少なく、融資の主要部分は,諸都市,なかでもパリ市における住宅建設,地方自治体による道路・学校建設などの公共事業,海運・水運業に向けられていた。
クレディ・フォンシエの成功に刺激を受けた各国は,同行をモデルに同種の金融機関を創設した。
日本勧業銀行(現在のみずほ銀行)もその一つである。
ドイツ帝国は1880年に北東アルザスの子会社を閉めるか分離するかせよと命令してきた。
1881年ソジェナル(Sogenal)を独立させた。
一方でオスマン債務管理局が発足して債権回収の目途が立った。
ソジェナルがドイツで勢力を拡大するにつれ、ドイツ系銀行が同局の開発利権に食い込んできた。
1888年、ソジェンが
オクタヴ・オンベルグ・パパ
を派遣してインドシナ銀行の重役を任せた。
三国干渉でフランス資本は広東に足がかりを得た。
そして露清銀行の主導権を奪いかけたロシアを日露戦争が動揺させた。
1906年、ソジェンはベルギー領カタンガ州の地下資源を開発するため
ユニオン・ミニエール
の設立に参加した。
なお、ユニオン・ミニエールはカタンガ州の非鉄金属、特に銅及びコバルトにおいて圧倒的なシェアを占めた。
1910年、子会社の北方銀行(Banque du Nord)が露清銀行と合併して露亜銀行を設けた。
ソジェンは主導権を奪い返そうとしたが、思うようにはいかなかった。
ロシアはオスマン帝国への攻撃やポーランド分割のときからプロイセンと交渉をもっていた。
また、サンクトペテルブルクの中央銀行にはロスチャイルドの代理人が送り込まれていた。
1913年、ソジェンはドイツ・オリエントバンクのモロッコ支店を買収した。
一方、インドシナ銀行の天津支店長
ペルノット(Joseph Pernotte)
が創立計画を立てていた
中国興業銀行(Banque industrielle de Chine)
が1913年に発足した。
翌年、第一次世界大戦が勃発し、フランスは辛くも勝利した。
戦後処理としてヴェルサイユ条約でアルザス・ロレーヌが戻ったが、ソジェンとソジェナルは統合せず独立を維持した。
中国興業銀行はロイズ銀行とコルレス関係にありながら資金難でペレール的な兼営銀行路線を突き進んだ。
ソジェナルはドイツで支店を出し続け、1926年チューリッヒへ設置するまで拡大が続いた。
ソジェンは1920年代に政府の景気を刺激されて成長できたが、世界恐慌には耐えかね
クレディ・リヨネ(現クレディ・アグリコル)
と経営拡大を自制する合意に達した。
第二次世界大戦中のヴィシー政府のペタン元元帥が率いる政権下で、産業金融を営む銀行は支店開設と証券業務を禁じられた。
1944年にはバーデン銀行(Badische Bank)がソジェナルを吸収してバーデン・アルザス銀行と改称した。
バーデン銀行は
ロスチャイルド家
とディスコント・ゲゼルシャフト(現ドイツ銀行)が1870年に創立したもの。
終戦五、1945年12月、ソジェンとクレディ・リヨネ、パリ割引銀行と国民商工業銀行(ともに現BNPパリバ)が国有化された。
オートバンクは理事会に席を占め、発言力を残した。
また、バーデン・アルザス銀行はそのままだったので、自由に経営を拡大した。
ソジェンも国有銀行としてアルジェリアをはじめとする旧植民地へ支店を展開した。
1955年バーデン・アルザス銀行が再びソジェンを名乗り、地域開発会社(Société de développement régional)を牽引した。
1960年代はじめ、ソジェンは政府のデフレ政策により融資額を厳しく制限された。
1966年、支店開設に事前承認が不要となった。
欧州経済共同体へ加入した1968年、政府が業務範囲の拡大を奨励するようになった。
ソジェンはユーロダラーに活路を見出し、合衆国へ進出し、外為業務と商取引をターゲットに国際的な急成長をとげた。
世界が変動相場制となった1973年、ソジェンは株式の25%を従業員と限られた投資家に売却し、東京支店を開設した。
さらに、フランス初のベンチャー・キャピタル(SOGINNOVE)の設立を主導した。
ソジェンは主幹事として
アーノルド・スミス(C. Arnholdt Smith)
が経営するUSナショナルにユーロダラーを貸し付けていたものの、倒産して750万ドルの損害を出した。
この倒産以降、ソジェンはコングロマリット化を推進し、1979年までにソジェンは世界60カ国で200支店をもつ多国籍企業となっていた。
同年政府介入なしに増資できる法律が制定された。
フランス政府が92%も支配率を維持していたのに画期的な出来事であった。
1980年、ソジェンはイギリスブローカー
Strauss Turnbull & Co
を買収して、同社のユーロ債取引を乗っ取った。
ミッテラン大統領の時代、とソジェンは1982年に再び完全国有化され、元BNP社長のジャック(Jacques Mayoux)がソジェン社長となった。
ソジェンは1984年に国際部門で240万ドルの損失を出したが投資銀行を志向してグローバルに大口顧客を探し回った。
翌年に3.3万人をリストラして、レバレッジド・バイアウト用の新会社
Projis
を設立して、ベンチャー・キャピタルを二倍に増資した。
ソジェンは半官半民を経て1987年に完全に民営化された。
ブラックマンデーの後ソジェンの株価は下がっていた。フランスの総合娯楽企業ヴィヴェンディの重役
マル・ヴィエノ(Marc Viénot)
がソジェン会長となった。
フランスの証券会社は独占的にブローカー業務を営んでいたが、法改正により初めてソジェンが証券会社を買収して独占体制を切り崩しパリ証券取引所に改革をもたらした。
最近の出来事としては、2016年3月に、重大不正捜査局がEULIBOR不正操作の疑いでSG元トレーダー1人とドイツ銀行行員・元行員4人の弁護人の欧州逮捕状を取った。
4月、パナマ文書をめぐり、本社が捜索された。
6月、フランスの労働裁判所が
ジェローム・ケルビエル
の解雇は不当だとして、ソシエテ・ジェネラルに45万ユーロの損害賠償を命じた。
同月、クラインワート・ベンソン・ロンズデールを買収した。
クラインワートはゴールド・フィックスの参加者であったが、1995年ドレスナー銀行に、また2009年ドレスナーごとコメルツ銀行に買収された。2009年10月リップルウッド・ホールディングスへ売却されていた。
2018年 6月4日、米仏各当局に和解金13億ドルのを支払うことで合意した。
容疑はLIBOR不正操作(2006年、東京とロンドンの職員が連携。2017年8月には元ソジェン幹部2人が同様のスキームで刑事告訴された。)
また、カダフィ政権に対する賄賂(2004-9年。調査ファンドLegg Masonまで買収。連邦海外腐敗行為防止法違反)の2つの事件。
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