マーク・リッチ(Marc Rich)
1934年12月18日 - 2013年6月26日
ベルギー出身の起業家で相場師。スイスの商品取引大手であるグレンコア社の創設者。
ベルギーのアントウェルペンで両親がユダヤ人の家庭で育った。
出生名は Marc David Reichという。
1941年にナチを避けて一家で渡米し、高校を卒業後、ニューヨーク大学に進学したものの、一学期で退学だいた。
すぐにディーラーとして働き始め、貴金属取引の分野で頭角を現した。
グレンコア社の前身である商品取引会社「マーク・リッチ社)を1974年にスイスで共同創業した。
パフラヴィー朝時代のイランからイスラエルに必要量の石油を極秘に
パイプライン輸送
により、供給する合弁事業を何年にもわたって成功させた。
また、イラン・イスラム革命後のイランとイスラエルとの間の
非公式仲介者
としても活動し、公式にはイスラエルに敵対的だったイランの最高指導者
ルーホッラー・ホメイニー
と友好関係にあったうえ、
イスラエル諜報特務庁(モサド)の活動
に対しては
財政面で支援
しており敵対関係にある双方に対して取引を行う両面使いであった。
貴金属取引の経験で培った様々な独裁国家や独裁者との繋がりを使って、アパルトヘイト政策に対しての経済制裁を受けていた南アフリカ共和国へ総額20億ドル(約1780億円) 相当の石油を販売した。
また、キューバのフィデル・カストロ、ナイジェリアのサニ・アバチャ、チリのアウグスト・ピノチェト、リビアのムアンマル・アル=カッザーフィー、ルーマニアのニコラエ・チャウシェスク、中華人民共和国、ソビエト連邦と取引関係を持った。
1970年代のオイルショックの際、巧妙な原油取引により巨億の富を手にした。
しかし、パートナーの
と共謀して脱税やイランとの不正な石油取引を行った疑いで、1983年に米国の検察当局から起訴された。
起訴時には、リッチはスイスにいたため、連邦捜査局(FBI)の
10大指名手配犯リスト
に名前が載ったために米国に帰ることは事実上不可能になった。
そのため、1984年には欠席裁判で有罪判決を受けた。
2001年1月20日、任期終了数時間前の
クリントン大統領
から恩赦が与えられた。
しかし、大統領恩赦に先立ってリッチの元妻
デニス・アイゼンバーグ・リッチ
が民主党に総額100万ドル以上の献金を行っていた。
このため、一部のメディアで「金で恩赦を買ったのではないか」と揶揄された。
クリントンの決定の裏側には、民主党への多額の献金があるユダヤ系の支持を取り続けていく必要があり、イスラエル政府からの嘆願や、リッチが献金していた
名誉毀損防止同盟
からの圧力も存在したと伝えられている。
リッチは赦免を獲得するや否や
石油・食料交換計画
のスキャンダルに絡む事業でイラクのサッダーム・フセイン政権と関わった。
2013年6月26日、スイス・ルツェルンの自宅近くの病院にて死去した。
立地は長年に渡りスイスのツークで暮らした後、同国ルツェルン州メッゲン市に居を移した。
リッチの邸宅(通称"La villa rose")はルツェルン湖の湖畔にあり、その周辺では厳重にプライバシーが守られていた。
スイスのほか、スペインにもスキーリゾートを所有していた。
また、絵画収集を趣味とし、モネ、ルノワール、ピカソの作品に囲まれて生活していたという。
リッチはメディアに素顔をあらわすことは滅多にないが、一度だけ米国のテレビクルーに捕まってインタビューに応じたことがある。