香港上海銀行
(香港上海滙豐銀行有限公司。略称は英語でHSBC、中国語で滙豐銀行)
イギリスの金融グループHSBCホールディングス傘下の銀行で香港に本店を置き、香港ドル発券銀行の一つである。
香港で海底ケーブルによる電信の便益を最大限に享受した一方、1881年にリヨン支店を、1889年にハンブルク支店を開いている。香港植民地の法律が設立根拠となっている。
なお、チャータード銀行のような勅許状による銀行ではなかった。
香港の統治返還前の1991年に香港上海銀行グループの持株会社として
HSBCホールディングス
がロンドンで設立された。それに伴い、
香港上海銀行は、同グループのアジア太平洋における中核子会社となった。1997年の香港のイギリスから中華人民共和国への返還、移譲に伴う1993年の香港金融管理局成立以前は、香港において中央銀行が行うべき役割も果たしてきた。
香港上海銀行はスコットランド人で現在の英船会社P&Oの香港支社長
トーマス・サザーランド
によって、
アヘン戦争
の後にイギリス(大英帝国)の植民地の香港で創設された。
非法人として1865年に営業を開始し、1866年の香港政庁命令第二号により認可された法人となった。
正式な発足は香港会社法による1865年3月3日で、資本金は250万ドルであった。
その行名のとおり、香港に本店を置き、大英帝国の共同租界が置かれていた満州族の征服王朝清朝の上海支店で同時に営業を開始した。
香港在住の英国貿易商らにより設立された。
サザーランドを幹事とする設立準備会には
デント商会
(Dent and Co. 寶順洋行)
ラッセル系オーガスティン・ハード商会
(Augustine Heard and Co. 瓊記洋行)
ジームセン商会(Siemssen and Co. 禅臣洋行)
サッスーン商会
David (Sassoon, Sons and Co. 沙遜洋行)
ラッセル商会(Russell and Co. 旗昌洋行)
などを含め14人がいた。
サザーランドは1884年にペニンシュラ・オリエンタル汽船会社(Peninsular and Oriental Steam Navigation Co.)の社長となり、ミッドランド銀行の取締役になる。
ジャーディン・マセソン商会(Jardine, Matheson and Co. 怡和洋行)は当初参加せず。
その後に親密な取引を行うようになった。
(なお、長崎のグラバー商会はジャーディン・マセソン商会の長崎代理店でしかない。)
これら英国の貿易商らは、香港上海銀行を通じて植民地で得た利益を本国に送金した。
1864年9月24日、パリ割引銀行の香港支店長であったスイス人
ヴィクター・クレッサー(Victor Kresser )
が初めての頭取となった。
11月18日にはイギリス領インド帝国にあった植民地銀行
オリエンタル・バンク
出身の
デビッド・マクリーン(David McLean)
が上海支店長となった。
主に在華外国企業(サッスーン商会、ジャーディン・マセソン商会、デント商会などのアヘン貿易商社)のインドなどの他の大英帝国の植民地との間における(アヘン貿易の利益のイギリス本国への送金を含む)貿易金融を扱った。
このほか、通貨の発行も行っていた。
設立翌年の1866年には日本支店を横浜に設立した。
その後、神戸、大阪、長崎にも次々に支店を開設した。
日本政府の貿易金融政策の顧問業務を担い、大阪造幣局における金銀通貨の造幣にも協力した。
横浜正金銀行が金融機関としての仕組みを作る際には、香港上海銀行がモデルとなったし、香港上海銀行も支援した。
ただ、横浜と神戸の支店は洋銀券を発行していたため明治政府との関係は良くなかった。
明治政府が依存していたオリエンタル・バンクが1893年恐慌で倒産し歴史の表舞台から退場すると一層積極的に関与した。
1898年、親ドイツの英国下院議員
ベレスフォード(Lord Charles Beresford)
が満州の実情をふまえて「門戸開放」をめぐる
日英米独同盟論
を展開した。
翌年にベレスフォードは、外国人によってリードされる日本の財務局を中国政府の金融顧問として設立するなどの金融改革を提案した。
この1899年に清朝が造幣局を設立するとき、香港上海銀行は横浜正金銀行をともない総理衙門へ連盟状を提出した。
そこでは造幣局の創設から運営まで両行が顧問となることの他、機械の導入、技師の派遣、条例作成の助言が提案された。これは一度拒否されたが、イギリス代理公使
バックス・アイアンサイド(Henry Bax-Ironside)
の発議により改めて提出された。
この経済関係がその後の日英同盟のたたき台になった。
香港上海銀行は日露戦争用の借款募集を五度も取り扱い、当時ロンドン支店長
ユーウェン・キャメロン
(英国首相のデーヴィッド・キャメロンの高祖父)
は日本銀行の高橋是清副総裁から真っ先に公債を引き受けた。
ただ、全てがロスチャイルドが工作し、大きく割り引かれた価格での販売となり、日露戦争後の償還では日本にとって大きな負担となった。