Apple Inc.(アップル)
米国の多国籍テクノロジー企業
本社をカリフォルニア州クパチーノに置きデジタル家庭電化製品、ソフトウェア、オンラインサービスの開発・販売を行っている。
ハードウェア製品としては、iPhone、iPad、Mac、Apple Watch、HomePod、AirPodsなどの開発および販売を行なっている。
また、ソフトウェア製品としてはApple Music、Apple TV+、Apple Arcade、 Apple Fitness+、Apple Podcast、Apple Books、App Store、iTunesなど広範囲のデジタルコンテンツ販売などを行っている。
また、iCloud、iCloud+などのクラウドサービスも提供している。
全世界での年間収益は、2020年度には2745億ドル。
Appleは売上高で世界最大のテクノロジー企業に成長、2021年現在で世界で最も価値のある企業のひとつとなった。
販売台数では世界第4位のパソコンメーカーで、2021年のスマートフォン市場では、出荷台数第2位、売り上げシェア第1位となっている。
1975年、大学を中退しアタリの技術者として働いていた
スティーブ・ジョブズ
との友人でヒューレット・パッカード(HP)に勤務していた
スティーブ・ウォズニアック
スティーブ・ジョブズ
との友人でヒューレット・パッカード(HP)に勤務していた
スティーブ・ウォズニアック
は、シリコンバレーのコンピュータマニアによる「ホームブリュー・コンピュータ・クラブ(HCC)」の会合に頻繁に参加していた。
ウォズニアックは、HCC内で高く評価されていたマイクロプロセッサであるIntel 8080の代わりに、安価なMOS 6502を処理装置とするコンピュータの自作を開始した。
1976年3月までにApple Iの原型となるコンピュータを独力で完成させている。
1976年3月までにApple Iの原型となるコンピュータを独力で完成させている。
ウォズニアック自身はこのコンピュータの回路図をHCCにて無料配布することを望んでいた。
これに対して、ジョブズはその商業的可能性に興味を持って、このコンピュータを利用してビジネスを始めるべきだと説得した。
これに対して、ジョブズはその商業的可能性に興味を持って、このコンピュータを利用してビジネスを始めるべきだと説得した。
2人は当初、それぞれの勤務先であったHPとアタリに製品化を提案したいづれも提案が却下された。
このため、自ら起業して基板(プリント配線板)の製造・販売を行うことにした。
このため、自ら起業して基板(プリント配線板)の製造・販売を行うことにした。
1976年4月1日、ジョブズとウォズニアックにロナルド・ウェインを加えた3人が、共同で
Apple Computer Company(アップルコンピュータ・カンパニー)
を創業した。
アタリで製図工として働いていたウェインは、株式の10パーセントを持つことを条件としてジョブズに誘われ会社に加わった。
なお、ジョブズとウォズニアックはそれぞれ45パーセントの株式を所持した。
なお、ジョブズとウォズニアックはそれぞれ45パーセントの株式を所持した。
ウェインはApple社の最初の製品であるApple Iのマニュアルを作成した。
このほか、リンゴの木とアイザック・ニュートンが描かれた最初期のロゴマークをデザインした。
このほか、リンゴの木とアイザック・ニュートンが描かれた最初期のロゴマークをデザインした。
1977年、スティーブ・ジョブズからの依頼により、ロブ・ジャノフが欠けたリンゴのロゴマークをデザインしている。
ジョブズは、個人以外の販路を求めてマウンテンビューのコンピュータ店「バイトショップ(Byte Shop)」の経営者
ポール・テレル
にApple Iを売り込み、強い興味を持ったテレルはすぐにApple Iを50台注文した。
ポール・テレル
にApple Iを売り込み、強い興味を持ったテレルはすぐにApple Iを50台注文した。
納品時に1台につき500ドル(合計2万5000ドル)を現金で支払うと約束した。
なお、テレルが注文したのはApple Iのプリント配線板ではなく、パーツがすべて装着済みの完成品だった。
しかし、手持ちの資金では必要な数の部品が購入できなかったため、ジョブズらは部品サプライヤーを説得して30日間の支払猶予つきでパーツを購入し、懸命な作業で29日後には50台のApple Iを完成させ、テレルの店に納品して約束の代金を受け取った。
Apple Iは1976年7月から希望小売価格666.66ドルで市販され、最終的に約200台が製造された。
創業者の1人であったウェインは、ジョブズの野心的な経営方針に不安を抱いた。
このため、800ドルを受け取って所有する株を放棄し、1976年4月12日にAppleを自主退社した。
創業者の1人であったウェインは、ジョブズの野心的な経営方針に不安を抱いた。
このため、800ドルを受け取って所有する株を放棄し、1976年4月12日にAppleを自主退社した。
テレルとの取引で手応えを得たジョブズは事業拡大を望んだ。
そのために多額の資金が必要となったためセコイア・キャピタルの創業者
に会って融資を求め説得した。
しかし、バレンタインはApple Computerへの投資に興味を持たず、代わりに自分の元部下で、個人投資家として財を成していた
を紹介した。
面談し説明を受けたマークラはジョブズの野心とウォズニアックの技術的才能に心を動かされ、1976年11月からAppleに加わった。
マークラは自分の個人的資産から9万2000ドルを投資したほか、バンク・オブ・アメリカから25万ドルの信用供与を確保した。
1977年1月3日には"Apple Computer, Inc."(アップルコンピュータ)として法人化し、その後「Apple II」をはじめとするコンピュータの販売が急速に拡大した。
マークラはAppleの成長には経験豊富な経営者が不可欠と考え、ナショナル セミコンダクターから元同僚の
マイケル・スコット
を引き抜いて初代社長兼CEOの座につけた。
スコットは1977年2月からAppleでの仕事を始め、社員番号を入れた社員証を発行するなど、会社をより組織的にするための施策を実行した。
他方、ウォズニアックはApple Iの改良を着々と進め、1976年8月末の時点で後継機となる「Apple II」のプロトタイプを完成させた。
Apple IIは1977年4月16日にウェスト・コースト・コンピュータ・フェアで発表され、小売価格1,298ドルで発売された。
Apple IIの販売は当初から好調だったが、1978年7月に発売された専用フロッピーディスクドライブ「Disk II」と、同年10月に発売されたApple II専用表計算ソフト「VisiCalc」の大ヒットは販売を大幅に増加させた。
Apple IIの販売台数が大幅に増加し、1980年には設置台数で10万台、1984年には設置ベースで200万台を超え、Appleに大きな利益をもたらした。
ジョブズは1979年12月にゼロックスのパロアルト研究所(PARC)を見学し、そこで見たマウスによって操作される先進的なグラフィカルユーザインタフェース(GUI)に強い印象を受けている。
ジョブズは当時Appleで開発中だった次世代コンピュータ「Lisa(リサ)」にPARCで目にしたようなGUIを実装することを決意し、設計への介入を強めた。
しかし、Lisaプロジェクトはジョブズの過剰な介入によって混迷することとなり、ジョブズはスコットら経営陣の判断で1980年9月にLisaの開発チームから外された。
1980年12月12日、Apple Computerは新規株式公開(IPO)を行った。
1956年に自動車会社フォードが行ったIPO以来となる記録的規模の資金調達を成功させた。
このIPOにより、ジョブズは約2億5600万ドルの個人資産を手に入れている。
1984年発売の初代「Macintosh」に代表されるように、革新的なグラフィカルユーザインタフェース(GUI)を採用したコンピュータを次々と開発して当初成功していた。
この株式公開に先立つ1980年5月、Appleはビジネス向けに特化されたApple IIIを発表した。
巨大企業IBMに商用コンピュータ市場で挑戦を仕掛けたが、4,340–7,800ドルという価格設定の高さと、ハードウェアの設計上の欠陥がわざわいし、Apple IIIは極度の販売不振に陥った。
1981年、ジョブズとの対立を深めたスコットは社長兼CEOを辞任した。
1981年3月からはマークラが暫定的にCEOとなったが、ジョブズはスコットの後任としてマーケティングに優れた経営者を連れてくる必要に迫られた。
他方、IBMは1981年8月にIBM PCを発表してパーソナルコンピュータ市場へ参入し、AppleとIBMの競争が激化して、IBMのシェアを追い抜くことはできず、ジョブズは経営陣や取締役会との関係が悪化した。
1983年、ジョブズはペプシコーラから
ジョン・スカリー
を引き抜いてAppleの新CEOに就けた。
他方、開発の遅れたLisaは1983年1月にようやく発売されたが、9,995ドルという極端な高価格とソフトウェア互換性の欠如がユーザーを遠ざける結果となり、LIsaはApple IIIと同じく商業的な失敗作に終わった。
1984年4月末の時点で5万台を売り上げるなど販売も非常に好調だったが、2,495ドルという価格が一般向けPCとしては高額であったことと、対応ソフトの不足が災いし、発売から数カ月が過ぎるとMacintoshの販売が停滞し始め、開発担当者であるジョブズとスカリーらApple経営陣との関係も悪化した。
スカリーはジョブズをMacintosh部門から降ろすことを決定し、1985年4月には取締役会から全会一致の承認を得た。
この決定に反発したジョブズは、スカリーが中国に出張する隙に彼を解任することを画策した。
スカリーはフランス法人のトップ
ジャン=ルイ・ガセー
から事前にジョブズの計画について知らされたため、出張をキャンセルし重役会議でジョブズと対峙し、その場に居たAppleの重役の全員がスカリーへの支持を表明し、その後取締役会もスカリーへの支持を表明した。
このため、ジョブズは1985年5月31日に全ての業務から外され、何の実権も持たない会長職を与えられた。
1985年9月、ジョブズは当時所有していたAppleの株を1株だけ残して約650万株をすべて売却したうえ、Appleの一部の同僚を連れてNeXT社を創立した。
それと同時にスカリー宛てに郵送で辞職願を提出し、会長職も辞任した。
また、同年にはウォズニアックも円満にApple社内のプロジェクトからは離れたものの、それ以後もAppleの社員ではあり続けている。
1990年代に入り、パソコンの市場が拡大・発展していった。
こうした市場拡大の中で、AppleはインテルのCPUにマイクロソフトのWindowsを搭載(Wintel連合)した低価格帯の製品に押されて、シェアを失っていった。
取締役会はギル・アメリオをCEOとして起用して、レイオフ、経営陣のリストラ、製品の絞り込みなど、財政的に問題を抱えた会社を立て直そうとコストカット優先の経営に切り替えた。
なお、アメリオは失敗したOS戦略を解決しようと、1996年12月にAppleがNeXTを買収してジョブズを呼び戻した。
ジョブズは1997年9月に暫定CEOに就任し、「Think different」キャンペーンを展開して、iMacの販売で黒字化を達成した。
2001年にはiPodの発売、直営店のApple Store開店など、Appleブランドを再構築した。
2007年にはデジタル家庭電化製品への注力を反映させて社名を「Apple」に変更した。
また、同年にiPhoneを発売し、高い評価と経済的成功を収めた。
2011年8月、ジョブズは健康上の理由でCEOを辞任した。
後継としてティム・クックがCEOに就任、2か月後、ジョブズは死去した。