リーマン・ブラザーズ・ホールディングス
(Lehman Brothers Holdings Inc.)
かつて存在した大手投資銀行グループでリーマンショックで破綻した。
ドイツ南部から移住したアシュケナジムユダヤ系移民
ヘンリー、エマニュエル、マイヤー
のリーマン兄弟によって1850年に創立された。
その後、アメリカン・エキスプレスに身売りした後1994年に再独立した。
アジア通貨危機でNY地区連銀にLTCMの救済をFRB議長が求めた後、(サブプライムローン)低金利で住宅融資が拡大していった。
ハイリスクハイリターンであるサブプライムローンを組み込んだ金融派生商品を開発して販売を推進し、米国住宅バブルの波に乗って米国第4位の規模を持つ巨大証券会社・名門投資銀行に成長した。
2000年代後半の住宅バブル崩壊により経営が急速に悪化し、2008年9月15日に連邦倒産法第11章(日本の民事再生法に相当)の適用を連邦裁判所に申請し倒産した。
この倒産は世界金融危機顕在化の引き金となり、世界経済に多大な影響を与えた。
倒産するまで格付け機関から信用格付けAAAを受け、世界の経済・金融で重要な存在であった。
1844年、23歳の
ヘンリー・リーマン
はバイエルン王国のリムパーという町から米国に移民した。
ヘンリーは南部アラバマ州のモンゴメリーでシーツ、シャツ、糸、綿ロープ、オスナバーグと呼ばれる粗布などの綿製品を扱う日用雑貨品店
Southern Domestics
を開店した。
1847年、弟のエマニュエルが移民してきたために店名を「H. Lehman & Bro.」に変更した。
1850年には末弟のメイヤー・リーマンが加わり「Lehman Brothers(リーマン・ブラザーズ)」(リーマン兄弟商店)となった。
南北戦争勃発の前、1850年代に綿花は黒人奴隷を使った栽培農場が南部で広がった米国で最も重要な作物の一つであり、アラバマ州では最も収入の多い商品作物であったため綿花生産が盛んだった。
1860年の国勢調査では、アラバマ州の総人口の45%近くを奴隷が占めていた。
この国勢調査では、メイヤー・リーマンは7人の奴隷(「5歳から50歳までの男性3人と女性4人」)の所有者として記載されている。
3兄弟は店の客である
奴隷農園
からの支払いで現金の代わりに綿花の現物を受け入れた。
この取引をきっかけに、綿花を買う工業者や輸出業者との仲介をする役割を担った綿花取引に経営の重点を移した。
1855年に長兄ヘンリーが黄熱病で死去した。
残ったエマニュエルとメイヤーが経営を引き継いだ。
綿花取引の中心は、1858年までには南部からニューヨークへ移り
コットンファクター
コミッションハウス
が拠点を置くようになった。
リーマンもニューヨークにも事務所を構えた。
1862年、南北戦争で南部連合が敗戦したためリーマンは、困難に直面し、綿花商の
ジョン・ダー
と組み、リーマン・ダー・アンド・カンパニーを設立した。
本部をニューヨークに移した。
1870年にはニューヨーク綿花取引所が開設され、リーマンもこれに協力した。
エマニュエルは同取引所の取締役を1884年まで務めた。
また、鉄道債の新興市場を扱い、金融顧問業にも進出した。
1883年にはコーヒー取引所の会員となり、1887年にはニューヨーク証券取引所の会員になった。
1899年には、同社初となるインターナショナル・スチーム・ポンプの優先株と普通株の引受を行った。
ただ、商店から金融顧問業への本格的な移行は1906年まで始めていない。
その年、創業者エマニュエルの息子で2代目社長のフィリップは
ゴールドマン・サックス(GS)
との提携を進め、株式取引市場にゼネラル・シガー、シアーズ・ローバック・アンド・カンパニーを売り出した。
これらの中には、F・W・ウールワース、メイ・デパートメント・ストア、ジンベルブラザーズ、R・H・メイシー・アンド・カンパニー、スタッドベーカー、B・F・グッドリッチ、エンディコット・ジョン・コーポレーションも含まれ20年間で100社以上の社債を引き受けた。
フィリップは1925年に退任し、イェール大学卒の息子・ロバートが跡を継いだ。
世界恐慌を受けて一時経営危機に陥ったものの、個人投資家や合併を積極的に支援することでこれを乗り切った。
1929年、リーマン・ブラザーズから投資業務を分社化して
リーマン・コーポレーション(Lehman Corporation)
を設立したが、経営陣の多くはリーマン・ブラザーズと兼務していた。
数年後、リーマン社史上の大きな転換点となる、資産管理業務に参入した。
1930年代、リーマンは、最初のテレビメーカー
デュモント・ラボラトリーズ
の株式公開を引き受け、ラジオ・コーポレーション・オブ・アメリカ(RCA)の資金調達を支援した。
また、ハリバートンとカー・マクギーを含む、急成長する石油産業への融資も助けた。
1950年代、リーマンはデジタル・イクイップメント・コーポレーションの新規株式公開(IPO)を引き受けた。
その後、コンパックによるデジタルの買収を調整した。
社長のロバートは、リーマンのさらなる成長と拡大を目指すにあたり、それまで続いてきた同族経営の体質を是正しようとした。
1924年には、リーマン一族以外では初となる共同経営者
ジョン・M・ハンコック
を招き入れた。
その後、1927年にはモンロー・C・ガットマンとポール・メイザーが加わった。
1928年までに、会社はワン・ウィリアム・ストリートの場所に移転した。
1969年にロバートが死去して以降は、リーマン一族が経営を支配することはなくなった。
この結果、リーマンは社の大きな求心力を失った。
この事態の打開のため、1973年には、ベル&ハウエル社のCEOピーター・ピーターソンが経営に参加した。
会長兼CEOに就任したピーターソンの主導により
アブラハム&カンパニー
を1975年に買収した。
1977年には、当時経営が低迷していた
クーン・ローブ
を統合し、リーマン・ブラザーズ・クーン・ローブ(Lehman Brothers, Kuhn, Loeb Inc.)へ改称した。
ピーターソンは、多額の赤字経営からリーマンを救済し、投資銀行の中でも特に収益率の高い、記録的な黒字決算を5年連続で実現させた。
こうして会社全体としては成長を続けたものの、花形である投資銀行業務を担当する社員と、その一方で実際の収益拡大にはより貢献していたトレーダー社員との間で確執が生じるようになった。
このためピーターソンは1983年、社長兼COOでトレーダー出身の
ルイス・グラックスマン
を共同CEOに就任させた。
グラックスマンは賞与制度などの改革により、競争的な社風を築こうと試みた。
この措置が、かえって社員の精神的ストレスの原因を作ることとなった。
経営方針をめぐり2人のCEOも対立するようになり、ピーターソンが追い出さて、グラックスマンが単独CEOとなった。
社内の混乱を嫌った社員はリーマンを去っていき、リーマンは崩壊の危機に瀕した。
1984年4月、グラックスマンはリーマンの身売りを迫られ、同社を
アメリカン・エキスプレス(アメックス)
に3億6,000万ドルで売却した。
サンフォード・ワイルとエドモンド・サフラが持株会社
シアーソン・リーマン・アメリカン・エキスプレス
(Shearson Lehman/American Express)
を設立したのち、1988年、シアーソン・リーマン・アメリカン・エキスプレスはさらにE・F・ハットン&カンパニーを吸収、シアーソン・リーマン・ハットン(Shearson Lehman Hutton Inc.)となった。
1993年に就任した新CEO
ハーベイ・ゴルブ
のもと、アメリカン・エキスプレスは事業の集中と選択を進めた。
リテール分野と資産管理業務を
プライメリカ
に売却した。
1994年、さらにプライメリカが同事業を分離して
リーマン・ブラザーズ・ホールディングス
(Lehman Brothers Holdings Inc.)
として株式をニューヨーク証券取引所に再上場させた。
この再上場のあとも買収の対象としてたびたび噂されたが、リーマン・ブラザーズはこれを重ねて否定していた。
投資銀行業界の中ではリーマン・ブラザーズは比較的弱体であったことへの危機感は強く、1999年には事態の打開策として、資金が焦げつく危険性の高い
サブプライムローンの証券化
をいち早く推進するというハイリスク・ハイリターンの方針を打ち出した。
これがアメリカの低金利政策による住宅バブルの到来と軌を一にし、業績の拡大に成功した。
リーマン・ブラザーズは9.11事件後48時間で、インターネットの不動産サイトでニュージャージー州の施設を購入した。
間に合わせのトレーディングルームが設置され、6,500名の社員が移動した。
9月17日にニューヨーク証券取引所が再開されると、リーマン・ブラザーズはすぐに取引に復帰して損失を最小限に抑えた。
アジアに対する積極的な投資も特徴でがあり、日本との関係で有名なのは、古くは、リーマン・ブラザーズに統合される前のクーン・ローブが、日露戦争の日本軍戦費調達のため、大日本帝国の戦時国債を引き受けた。
近年では、ライブドアへの投資(転換社債型新株予約権付社債)がある。
2005年には、アジア(特に中国市場)の高成長と住宅バブルの昂進に後押しされ、ゴールドマン・サックス、メリルリンチといった強豪を抑えて投資銀行における最大手に躍進することとなった。
リーマンはサブプライムローンの高いリスクを背負うことで事業を拡大させたが、それに潜在していたリスクは、最終的にはリーマンを消滅させる原因ともなった。
住宅バブルが崩壊し、住宅ローンの焦げつきが深刻化した。
2008年3月に、大手証券会社で財務基盤に問題はないと繰り返し発表してきた大手証券会社
ベアー・スターンズ
が、JPモルガン・チェースによる救済買収されたが、事実上破綻した際に、株価が2日間で一時54パーセント以上暴落した。財務基盤が盤石であったはずのリーマン・ブラザーズの流動性も心配される事態とまでなった。
その後、FRBによる証券会社への窓口貸出アクセスなどの報道により、株価は落ち着きを取り戻した。
サブプライムローン(サブプライム住宅ローン危機)問題での損失処理を要因として、同年9月には6 - 8月期の純損失が39億ドルに上り、赤字決算となる見通しを公表した直後に株価は4ドル台にまで急落した。
最終的にリーマンは負債総額にして約64兆円という史上最大の倒産となり
「リーマン・ショック」
として、世界的な金融危機を招いた。
リーマン破綻直前、アメリカ合衆国財務省やFRBの仲介のもとで
HSBCホールディングス
や韓国産業銀行など複数の金融機関と売却の交渉を行っていた。
日本のメガバンク数行も参加したが巨額で不透明な損失が見込まれるため見送ったと言われている。