デヴィッド・ローレンス・ゲフィン
(David Lawrence Geffen)
1943年2月21日 生まれ
米国のレコード会社経営者、映画プロデューサー。アサイラム・レコード、ゲフィン・レコードの創設者
ニューヨーク、ブルックリンのバラ・パーク(Borough Park)で生まれた。
父親はリトアニア出身、母親はモルドバ出身で、ユダヤ系であった。
1960年代半ばにニューヨークにあるウィリアム・モリス・エージェンシーの社員としてキャリアをスタートした。
独立後にローラ・ニーロを発掘し、そのマネージャーとなった。
彼女の楽曲をフィフス・ディメンションやスリー・ドッグ・ナイトに売り込んだことでロサンゼルスの音楽界に人脈を作り、1968年頃に同地に拠点を移した。
ウィリアム・モリス・エージェンシーの後輩であるエリオット・ロバーツと共に
ゲフィン・ロバーツ・カンパニー
を設立した。
また、1969年2月1日にマネージメント会社の
デヴィッド・ゲフィン・エンタープライズ
を設立し、クロスビー・スティルス&ナッシュのビジネスに関わる一切合切を引き受けた。
ゲフィンの初仕事は彼らのレコーディング契約の獲得だった。
スティーヴン・スティルスは『スーパー・セッション』(1968年)でコロムビア・レコードからそこそこの金をもらい、グレアム・ナッシュはコロムビア傘下のエピック・レコードとすでに契約を交わしていた。
バーズとしてコロムビアと契約していたデヴィッド・クロスビーは、グループ脱退後、同社から関係を解消されていた。
ゲフィンはスティルスをアトランティック・レコードの契約から解放するために、同社に接触し、プロデューサー兼共同会長の
ジェリー・ウェクスラー
との面会を設定した。
しかし、この打ち合わせでゲフィンはウェクスラーのオフィスから文字どおりつまみ出された。
翌日、ゲフィンの元へ同社の創設者
アーメット・アーティガン
から電話がかかった。
アーティガンは反対にゲフィンを説得し、アトランティックとクロスビー・スティルス&ナッシュとの契約を成立させた。
これによりレーベル間で交換がなされ、バッファロー・スプリングフィールドの元メンバーふたり、リッチー・フューレイとジム・メッシーナはコロムビアに行き、ポコを結成した。
1970年に新人としてジャクソン・ブラウンをアトランティック・レコードと契約する際に、アトランティック・レコードはゲフィンにレーベルを設立することを勧めてその資金を半分出した。
これがアサイラム・レコードの設立である。
アサイラム・レコードはジャクソン・ブラウンの他、イーグルス、J.D.サウザーなどの新人を送り出した。
また、リンダ・ロンシュタットやジョニ・ミッチェルを他レーベルから移籍させ、大成功を得た。
一時的だがボブ・ディランと契約していたこともある。
1973年にアサイラム・レコードはエレクトラ・レコードと合併し、ゲフィンは新会社エレクトラ/アサイラムの社長となった。
1975年にはグループ企業のワーナー・ブラザースに転出した。
ただ、間もなく病気療養の為に一時引退した。
1980年に業界に復帰したゲフィンは、ゲフィン・レコードを設立した。
長らく引退状態にあったジョン・レノンの『ダブル・ファンタジー』を送り出し、再び華々しい成功を収めた。
その後も、エルトン・ジョンやエアロスミスといった大御所を他社から引き抜いた。
また、ニルヴァーナ、ガンズ・アンド・ローゼズ、ベックといった若手をブレイクさせた。
ゲフィン・レコードに続いてゲフィン・フィルムズを旗揚げした。
この会社からは『ビートルジュース』『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ』などの映画を送り出した。
なお、ブロードウェイ・ミュージカル『キャッツ』のプロデューサーの一人でもある。
1990年にゲフィン・レコードをMCAに売却した。
業界紙が選ぶエンターテイメント業界の実力者(power101)の10位にランキングされた1994年にはスティーヴン・スピルバーグ(4位)、ジェフリー・カッツェンバーグ(9位)と共にドリームワークスSKGを設立した。
その後、2008年に同社を離脱している。
1996年にロサンゼルス現代美術館(MOCA)に500万ドルを寄付し、新館「テンポラリー・コンテンポラリー」の改装に寄与した。
その新館は「ゲフィン・コンテンポラリー・アット・MOCA」と改称された。