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2024年03月23日

ロスチャイルド家(Rothschild ロスチャイルド ロートシルト ロチルド) 

ロスチャイルド家(一族)
 フランクフルト出身のユダヤ人富豪で、神聖ローマ帝国フランクフルト自由都市
   ヘッセン=カッセル方伯領
の宮廷ユダヤ人商人・銀行家
が1760年代に銀行業を確立したことで隆盛を極めた。
 それまでの宮廷関係者では宮廷で用いられている間は資産を所有できたが、亡くなるとすべての資産が君主等により没収された。
 (トルコ・ドラマ「新・オスマン帝国外伝 〜影の女帝キョセム」などでも一部描かれているが、オスマン・トルコ帝国のイエニチェリや宦官、女奴隷なども同じ)
 こうした慣習とは異なり、ロスチャイルドは子孫等に富を遺すことに成功した。

 ロンドン、パリ、フランクフルト、ウィーン、ナポリに事業を設立した5人の息子(家)を通じて国際的な銀行家網を確立した。
 一族は神聖ローマ帝国やイギリスの貴族階級にまで昇格した。

 ロスチャイルド家の歴史は16世紀のフランクフルトに始まり、その名は1567年に
   イサク・エルチャナン・バカラック
がフランクフルトに建てた家「ロスチャイルド」に由来しているとされる。
 19世紀のロスチャイルド家は、近代世界史においても世界最大の私有財産を有していた。
 (ロスチャイルド家の資金が地下資源や植民地開発、武器開発等など汎ゆる分野に投資され現在も環境保護等の分野でも行われている。)

 20世紀に入ると、一族の資産は名目上減少し、多くの子孫に分割され拡大し続けている。
 現在、彼らの権益は、金融、不動産、鉱業、エネルギー、農業、ワイン醸造、非営利団体など、多岐にわたることが知られている。

 ロスチャイルド家(ロートシルト家)の紋章は1822年にオーストリア政府(ハプスブルク家)より、男爵の称号とともに授けられたもの。
 盾の中には5本の矢を持った手が描かれ、創始者の5人の息子が築いた5つの家系を象徴している。

 盾の下には、ロスチャイルド家の家訓であるConcordia, Integritas, Industria(調和、誠実、勤勉)という銘が刻まれている。 

 18世紀後半にフランクフルトのゲットー(ユダヤ人隔離居住区)出身の
が銀行家として成功し資金運用や資金貸付を行っていた宮廷ユダヤ人となったことから運が大きく開けた。

 彼の5人の息子がフランクフルト(長男:アムシェル)、ウィーン(二男:ザロモン)、ロンドン(三男:ネイサン)、ナポリ(四男:カール)、パリ(五男:ジェームス)の5か国に分かれて銀行業を拡大させた。

 二男と五男は鉄道事業へ出資をして創設に関わった。
 この他、一家はスペインの
   MZA鉄道(マドリード・サラゴサ・アリカンテ鉄道)
   上部イタリア鉄道(Società per le Ferrovie dell'Alta Italia)
へも資金を貸し付けた。
 また、近代化しつつあった郵便事業にも関わた。

 オスマン債務管理局をめぐり債権国同士が対立し利益相反となり、ロスチャイルド家の国際協調に限界が出た。
 1901年にフランクフルト家とナポリ家は閉鎖した。
 前者の銀行は同年ドイツの金融機関
   ディスコント・ゲゼルシャフト
に吸収された。

 欧州列強各国の投資が東欧で入組み、そのまま第一次世界大戦が起こった。
 ウィーン家はサン=ジェルマン条約により延命されたもののドーズ案の出るころ財政が危機的となった。
 ウィーン家のクレディト・アンシュタルトは
   アングロ・オーストリアン・バンク
を買収して、内側から外資を誘導して、クレディト・アンシュタルトが世界恐慌で破綻したときに
   独墺関税同盟
を破棄させている。

 1934年、オーストリアではイタリアのムッソリーニの圧力を受け2月内乱が起こった。
 この動きがチェコスロバキアに飛び火したため1938年に事業が立ち行かなくなったウィーン家も閉鎖した。
 ロンドン家とパリ家は現在まで残っている。

 両家は
   日露戦争
のころ日本政府へ間接的に戦時国債を安価で購入し、巨額を貸し付けた歴史をもつ。
 普仏戦争の賠償シンジケートに比べると微々たる金額であった。
 なお、ロンドン家の対日シンジケートは関東大震災後の復興融資を通して日本経済に深く浸透していった。
 また、両家はそれぞれイングランド銀行とフランス銀行に対して一定の影響力をもった。

 ロンドン家はベンジャミン・ディズレーリ内閣のときに
   スエズ運河
を買収するため400万ポンドを年利3.5%満期36年で貸しつけており、国家事業である
   ケーブル・アンド・ワイヤレス
の経営に助言した。

 また、パリ家は総合水道会社(現:ヴィヴェンディ、ヴェオリア・エンバイロメント)を設立したうえ、5000株を引受けて大株主となった。
 大手金融機関に成長する
   ソシエテ・ジェネラル
を設立し、江戸幕府が設置した
   横須賀造船所
とロシア帝国の中国清王朝における権益を代表するために設立されたフランスの銀行
   露清銀行
へ資金を提供した。
 また、観光事業の地中海クラブを所有するなど、1961-62年にフランス国内全民間資産の6.0%を保有するまで資産を増やした。

 金融機関への投資の割合としては、パリバが7.7%、ラザードが5.5%、ユニオン・パリジェンヌが4.1%、商工信用銀行(スエズ運河会社も参照されたい)が3.7%、ヴァンデル家(Groupe Lorrain)が3.5%、フランス商業信用銀行(現:HSBCホールディングス)が2.7%、シュネーデルが2.1%、インドシナ銀行が2.0%、クレディ・デュ・ノル(現:ソシエテ・ジェネラル)が1.8%であった。

 縁戚のウォルムズ銀行ではウニベイル(現:ウニベイル・ロダムコ・ウェストフィールドの前身の一つ)を設立した。

 現在はイギリスの投資銀行
が、M&Aのアドバイスを中心とした投資銀行業務と富裕層の資産運用を受託するプライベート・バンキングを行っている。
 一方、資源会社大手のリオ・ティントやイメリーズという大規模な鉱山・工業事業も支配した。
 鉱産資源は19世紀末ごろから本格的に開発したが、イメリーズは2014年現在グループ・ブリュッセル・ランバートの支配下にある。

 ロンドン家の跡継ぎ
   ナサニエル・フィリップ・ロスチャイルド
は、ジョン・マケインやオレグ・デリパスカを人脈にもっている。
 
 英国病が指摘されるようになってからはロンドン家の活動があまり目立たない。
 また、パリ家はシャルル・ド・ゴールと癒着して戦後復興を遂げている。

 1960年代、投資信託販売会社
   インベスターズ・オーバーシーズ・サービス(IOS)
を創業した
   バーナード・コーンフェルド(Bernard Cornfeld)
が1967年にフランスにミューチュアル・ファンド設立を申請して却下された。
 その後、1969年1月ファンド・オブ・ファンズ(IOS)をパリ家と共同経営する合意に達した。
 5月に当局へ申請、7月にあっさりと認可を得た。

 なお、合意条件は対等で、募集・販売の両面で損益を折半するものとされていた。
 合意内容には、ジュネーヴのスイス・イスラエル貿易銀行(Swiss-Israel Trade Bank)を4500万フランで買収し、IOSフランス支店にする計画もふくまれていた。

 ネイチャートラスト「1001クラブ」にアルフレッド・ハルトマン博士(Dr. Alfred Hartmann)がいるが、元はスイス軍の諜報部でキャリアをスタートさせ、1952年にスイスの大手金融機関UBSに入社し20余年勤めた。
 1978年にHoffmann-La Roche のCEO となった。

 1980年、ロシア系ユダヤ人で米国の石油会社オクシデンタルの創業者
は、スイス代表団を率いてソ連と交渉し輸出を促した。
 ソ連のゴルバチョフが実行したペレストロイカより早く1983年、ハルトマン博士は
   エリー・ロチルド
に指名されて、ロチルド銀行チューリッヒ支店のジェネラル・マネージャーになった。
 この翌年にハルトマン博士はホフマン-ラ・ロシュを辞めて、ロスチャイルドに尽くした。

 1986年、Charles Keating をパートナーとして
を設立し、その後、国立労働銀行スイス支店長となった。
 支店では国際商業信用銀行とイラク政府所有イラク銀行間の取引に関わった。
 イラクゲート事件が起きたためハルトマンは支店長を1991年で辞めさせられた。

 ハルトマンは退任後、Bruce Rappaport が代表するBank of New York-Inter Maritime Bank of Geneva で副社長となった。
 この銀行は1999年、ロシアでの資金洗浄について捜査線上に名前が浮上したことが報じられている。

 2002年、米国の大手資産管理会社
はロスチャイルド・オーストラリアと戦略的提携関係を結ぶことを表明した。

 2005年、エドモン・ドゥ・ロスチャイルド・ヨーロッパ・プライベートバンクと
   日興コーディアル証券(現SMBC日興証券)が
プライベートバンキングサービスを提携するようになった。
 また、マレーシアの1MDB をめぐる汚職事件に加えパナマ文書とも関連して問題となったBPERE(Banque Privee Edmond de Rothschild Europe)の
   ルクセンブルク支店
について簡単な紹介がなされている。

 2009年、ロスチャイルドはベラルーシ国営の
   BPS銀行
ズベルバンクに買収させた。
 2010年2月、モスクワ・タイムズによると
   アレクサンドル・ルカシェンコ大統領
がロスチャイルドを招いて公企業の資産価値を査定させたと伝えた。
 ロスチャイルドはJPモルガン・チェースから
   エドワール(Edouard Veber)
を確保したうえ、シャドー・バンキング業界で人材を探し回った。

 1MDB問題は急展開を見せた。2016年4月時点でマレーシアの公的資金がスイスとルクセンブルクで運用されていることが分かっていた。
 7月時点で、実業家のKhadem al-Qubaisi がパナマ文書に書かれたオフショア会社を経由してBPERE で口座を開設したことが分かった。
 8月、このBPERE に90人以上の警官とマスコミ陣が雪崩れ込み
   アリアンヌ・ド・ロチルドCEO
が活写される事態となった。
 また、イギリスの大手金融機関バークレイズがIPIC(International Petroleum Investment Company)から救済融資を受けていたことも明らかになっていた。
 在地の新聞社(Luxemburger Wort)は、大公国ルクセンブルクで発覚した
   史上最大の資金洗浄
となるかもしれないとの記事を出した。

 10月には同紙がスイスでの捜査における進捗を報じた。
 BPEREへの立入捜査のあった2016年8月には、ロスチャイルドがCFAフラン圏であるセネガルで
   資金洗浄スキームの構築
に関わったことを示す、2008年5月付の電報が
   ウィキリークス
によって公開されている。

 2016年11月、劉特佐(Jho Low)と1MDBを顧客とするマレーシアの銀行家
   Yak Yew Chee
が18週間の禁固と罰金24,000ドルを言い渡された。

 2017年6月22日ルクセンブルク当局が、1MDBに関係するファンドを扱うとき
   不正防止措置
を怠ったとしてBPEREに899万ユーロの罰金を課した。

 2018年、ロスチャイルドは、ロンドン家・パリ家がオーストリア・ニーダーエスターライヒ州において所有する森林を、地元の包装材メーカーであるプリンツホルン・ホールディングスに売却することで合意した。

 もともと、ロートシルト家は、神聖ローマ帝国帝国自由都市フランクフルトのユダヤ人居住区(ゲットー)で暮らすユダヤ人の家系であった。
 フランクフルト・ユダヤ人は囲い込み政策で1462年以来ゲットーに押し込められてきた。
 また、法律・社会的に様々な制約を受け、職業は制限されていたという。

 ロートシルト家も代々商売していた家柄だが、マイアーの代までは小規模に過ぎず、生活も貧しかった。
 ファミリーネームはもともと「バウアー」もしくは「ハーン」と呼ばれていたと伝わる。
 「ロートシルト(赤い表札)」の付いた家で暮らすようになってからロートシルトと呼ばれ、名乗るようになった。
 そこから引っ越した後もそのファミリーネームで呼ばれ続けた。

 ただ、フランクフルト・ユダヤ人が法的にファミリーネームを得たのはナポレオン・ボナパルトによるフリートラントの戦いでの勝利により獲得したフランス占領下の1807年のことであった。それ以前のものはあくまで通称として用いられていた。

 そもそもが、ロスチャイルド家を勃興させたのは
   マイアー・ロートシルト(1744-1812年)
の成功によるところが大きい。
 彼は1760年代からフランクフルトで
   古銭商
を始め、やがてフランクフルト近くのハーナウの宮殿の主
   ヘッセン=カッセル方伯家嫡男ヴィルヘルム
を顧客として獲得し、1769年にはその宮廷御用商に任じられ大きな縁故を獲得している。
 ヴィルヘルムは閨閥の広さによる資金力を活かして他の王侯ならびに軍人・官吏・各種産業に貸し付けていた。
 また、領内の若者を傭兵として鍛え上げ、植民地戦争の兵員を求めるイギリスに貸し出す
   傭兵業
を営んでおり、その傭兵業の儲けでヨーロッパ随一の資産家になっていた。
 ヴィルヘルムがイギリスへ傭兵を貸し付けた植民地戦争にはアメリカ独立戦争もあった。
 貸し付けた傭兵が死亡したり、負傷したりしたときには、ヴィルヘルムは高額な補償金を手に入れている。

 小規模ながら両替商を兼業するようになっていたマイアーはヴィルヘルムの傭兵業に関わらせてもらい、イギリスで振り出された
   為替手形
の一部を割引(現金化)する仕事を任されるようになった。
 ただ、従前の御用商人には新人として出入りし始めたマイアーの担当額はわずかであった。
 ヴィルヘルムとしては交換比率が下がらないようなるべく多くの業者に自分の外国為替手形を扱わせており、その一人がマイアーだっただけの関係だ。
 そのため、マイアーは基本的にナポレオンがフランス革命の大混乱を収束させる前の1780年代末まで注目されるような人物ではなかった。
 ヴィルヘルムにとっても列位は低く、フランクフルト・ゲットーの中においてもあまり有名人ではなかった。

 1785年にはヴィルヘルムがヘッセン・カッセル方伯位を継承してヴィルヘルム9世となり、フランクフルトから離れたカッセルのヴィルヘルムスヘーエ城に移ってしまった。
 このため、一時マイアーにとっては重大事であるヴィルヘルム9世の関係が疎遠になるという危機が起こった。

 物品商の仕事の方はフランクフルトがイギリスの植民地産品や工業製品を集める一大集散地であったことから順調に推移した。
 1780年代にはマイアーはかなりの成功を収めていた。

 やがてマイアーの息子たちが成長して父の仕事を手伝うようになった。
 長男のアムシェルと二男のザロモンがヴィルヘルムスヘーエ城に頻繁に出入りするようになった。
 彼らはヴィルヘルム9世の宮廷の正規の金融機関
   ベートマン家(アムロ銀行の創業者)
やリュッペル・ウント・ハルニエル(Rüppell und Harnier)などの大銀行を回って営業活動を行いながら気難しいヴィルヘルム9世の間の使者の役割を演じた。
 ヴィルヘルム9世からも気に入られるようになった。

 1789年にはロスチャイルド家もヘッセン・カッセル方伯家の正式な金融機関の一つに指名された。
 これにより対外借款の仕事に携われるようになった。
 また、1795年頃からヴィルヘルム9世の大きな投資事業にも参加できる立場に入った。

 ロスチャイルド家は1790年代に急速に躍進した。
 その頃にはロートシルト家の収入は信用供与と貸付が主となり、商人というより銀行家に転じていた。
 その活動範囲もドイツに留まらず、ヨーロッパ中へと広がった。

 1789年にフランスで発生したフランス革命が広がることを恐れたヨーロッパ諸国の君主たちはフランスに宣戦布告した。
 1792年から1815年までフランス革命戦争・ナポレオン戦争が勃発した。
 ただ、フランス軍は自由主義をスローガンに掲げ進軍し、征服地でユダヤ人解放政策を実施した。
 このため、ドイツ・ユダヤ人にとっては封建主義的束縛から解放されるチャンスとなった。

 ロスチャイルド家にとってもヘッセン・カッセル方伯の寵愛だけに依存した不安定な状態から脱却するチャンスとなった。
 戦争の混乱の中、ドイツでは綿製品が不足して価格が高騰した。

 これに目を付けたマイアーの三男ネイサンは1799年からイギリスの繊維業の中心地マンチェスターに常駐し、産業革命で大量生産されていた綿製品を安く買い付けてドイツに送って莫大な利益を上げた。
 その金を元手にネイサンは1804年からロンドンの金融街シティに移り
を創設して金融業を開始した。

 1800年代にはヴィルヘルム9世への影響力も飛躍的に増大した。
 1803年にロスチャイルド家は宮中代理人の称号を得ている。
 1806年にナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍はプロイセン侵攻したうえ、ヘッセンにも侵攻してきた。
 ヘッセン選帝侯ヴィルヘルム1世(ヘッセン・カッセル方伯ヴィルヘルム9世。1803年にヘッセン選帝侯に叙された)は国外亡命を余儀なくされた。
 この際に選帝侯の巨額の財産の管理権・事業権がロスチャイルド家に委託された。
 これ以降、ロスチャイルド家はフランス当局の監視を巧みにかわし、大陸中を駆け回って選帝侯の代わりに
   選帝侯の債権の回収
にあたり、回収した金は選帝侯の許しを得て投資事業に転用して莫大な利益を上げた。

 フランス当局やフランス傀儡国家ライン同盟盟主
   カール・テオドール・フォン・ダールベルク大公
やフランクフルトの郵便制度を独占している
   カール・アレクサンダー・フォン・トゥルン・ウント・タクシス侯
などと親密な関係を深めて
   独自の通商路
を確保し、また情報面で優位に立ち、大きな成功に繋げた。

 ナポレオンは1806年に
   大陸封鎖令
を出して支配下の国々に敵国イギリスとの貿易を禁じた。
 これが逆にロスチャイルド家にとっては更なるチャンスとなった。
 この大陸封鎖令により大陸諸国ではコーヒー、砂糖、煙草、綿製品などイギリスやその植民地からの輸入に頼っていた商品の価格が高騰した。
 また逆にイギリスではこれらの商品の価格が市場の喪失により暴落した。

 そこで、ロンドンのネイサンはイギリスでこれらの商品を安く買って大陸へ密輸した。
 それを父や兄弟たちが大陸内で確立している通商ルートを使って大陸各国で売りさばいた。

 これによってロスチャイルド家は莫大な利益を上げられた上、物資不足にあえいでいた現地民からも大変に感謝されたという。
 この独自の密輸ルートはイギリス政府からも頼りにされた。
 イギリス政府は反フランス同盟国に送る軍資金の輸送をネイサンに任せた。

 パリに派遣された末弟ジェームズと連携して
   イギリスの金塊
を公然とフランス経由でイベリア半島で戦うイギリス軍司令官ウェリントン公爵のもとに送り届けた。
 この時期にロスチャイルド家はフランクフルト・ユダヤ人の解放を推進する役割も果たした。

 ナポレオン法典「あらゆる人民の法の前での平等と宗教的信仰の自由な実践」を謳ったこともあり、一般市民法としてフランクフルトに導入する際にフランクフルト大公ダールベルクはフランクフルト・ユダヤ人団体に44万グルデンを要求した。
 そのほとんどをロスチャイルド家が建て替えて実現に漕ぎつけた。

 しかし、ナポレオンは1808年5月に
   ユダヤ人同権化法の例外
として時限立法を作って、ユダヤ民族の人権を商業・職業選択・住居移転に限ること決めた。
 そして1815年にフランクフルトが自由都市の地位を取り戻したため、ユダヤ人の市民権自体を取り消した。
 
 1812年にマイアーは死去し、遺言の中で5つの訓令を残した。
 1つはロートシルト銀行の重役は一族で占めること。
 1つは事業への参加は男子相続人のみにすること。
 1つは一族に過半数の反対がない限り宗家も分家も長男が継ぐこと。
 1つは婚姻はロートシルト一族内で行うこと
 1つは事業内容の秘密厳守
というもので、何よりも一族の団結を望んでいた。

 この父の遺訓に従ってフランクフルトの事業は長男アムシェルが全て継承した。
 他の4兄弟はそれぞれ別の国々で事業を開始することになり、ウィーンには二男ザロモンが1820年に移住した。
 ロンドンではすでに三男ネイサンが移住していた。
 また、ナポリは四男カールが1821年に移住した。パリは五男ジェームズがすでに移住していた。

 五家は相互連絡を迅速に行えるよう情報伝達体制の強化に努め、「独自の駅伝網」を確保した。
 伝書鳩も飼育して緊急時にはこれを活用した。
 また、その手紙は機密保持のため
   ヘブライ語
を織り交ぜて暗号化していた。

 こうした素早い情報収集が可能となる体制作りがロスチャイルド家が他の銀行や商人に対して優位に立つことを可能とした。
 現在有名な話として、ワーテルローの戦いの際にもロンドン家当主ネイサンがいち早く
   ナポレオンの敗戦
を知った。
 しかし、自分たちの情報収集の早さが他の投資家にも知られ、その動向が注目されていることを利用して、逆にイギリス公債を売って
   公債を暴落
させた後、買いに転じてイギリス勝利のニュースがイギリス本国に伝わるとともに巨額の利益を上げることができた。

 ナポレオン敗退後、フランス革命以前の旧体制が復古し、フランスに領地を奪われた君主や貴族たちが領地を回復させた。
 銀行業でも旧勢力が復古し、1815年11月のパリ条約に定められた
   フランスの賠償金の調達
からロスチャイルド家は弾き出されてしまった。
 1818年10月の同盟軍のフランス撤兵と賠償金分配を話し合う
   アーヘン会議
でもロスチャイルド家は弾き出されかけたが、この時にジェームスが
   フランス公債
を大量に買って一気に売り払うという圧力をかけたことで、オーストリア帝国宰相
   クレメンス・フォン・メッテルニヒ
から会議に招かれ、ザーロモンとカルマンが名声を高めたという。

 これ以降メッテルニヒとの関係が強まり、1822年にはロスチャイルド一族全員がハプスブルク家より男爵位を与えられた。
 また五兄弟の団結を象徴する五本の矢を握るデザインの紋章も与えられている。
 以降ロスチャイルド家はその名前に貴族を示す「von(フォン)」や「de(ド)」を入れることになった。

 イギリスでは南海泡沫事件を受けて制定された泡沫法(Bubble Act)が、イギリスの海上保険業を
   ロンドン保険会社(London Assurance)
   ロイヤル・エクスチェンジ保険会社(Royal Exchange Assurance, 現:アクサ)
に独占させていた。

 これらの会社に計数係として入社を試みた、ネイサンの甥
   ベンジャミン・ゴムペルツ(Benjamin Gompertz)
がユダヤ人ゆえに採用されなかった。
 そこでネイサンが対抗して
   アライアンス火災・生命保険会社
を資本金500万ポンドで設立し、アライアンス株は発行前からプレミアムつきで取引された。
 設立趣意書公表の直後、アライアンス理事団は議会に対して泡沫法の廃止を要求した。
 1824年に廃止法案が議会に提出され、採決と裁可を得た。

 しかしロイズが身内の生活を理由に、協会員の一人にアライアンス株を15株買わせて株主総会へ送り込んだ。
 アライアンス理事が会社の業務へ海上保険を加えようと提案したとき、ロイズの総会屋は定款の不変性を理由に反対した。

 この時はアライアンス火災はとりあえず引き下がった。
 その後、ロスチャイルド家は資本金500万ポンドで新たに
   アライアンス海上保険会社
をつくり、ゴムペルツを支配人としたうえ、これはいつのまにかアライアンス火災と合併させた。
 翌1825年の恐慌で
   イングランド銀行の救済
に貢献し、ロスチャイルド家は後に公認の鋳造所を持つほどに同行との関わりを深めた。

 1834年、ロスチャイルド家は大規模にアメリカ公債を引受けた。
 ヨーロッパでは鉄道事業に積極的な投資を展開した。

 1835年、ウィーン家のザロモンは皇帝の認可を得て鉄道会社を創設し、中欧の鉄道網整備に尽くした。
 また、フランクフルト家のアムシェルも中部ドイツ鉄道、バイエルン東鉄道、ライン川鉄道などの整備に尽くした。
 パリ家のジェームズもフランスや独立したばかりのベルギーの鉄道敷設に尽力した。

 しかし、同じユダヤ系財閥のペレール兄弟と競争になった。
 ペレール兄弟の経営する
   クレディ・モビリエ
は、会社型クローズドエンド会計の投資信託であったが、1860年代末にクレディ・モビリエは単なる貯蓄銀行となった。
 その後フランス・ドイツで同じような投資銀行が次々と設立された。

 1841年から1854年まで、パリの庶民に届く水は1日4リットル程度であった。
 パリ家は1853年にオタンゲルなどをともない、総合水道会社
   ジェネラル・デゾー
を設立し5000株を引受けて大株主となった。

 会社は資本金2000万フラン8万株でスタートした。
 1860年9月、パリ市への営業譲渡に合意したが、5つの骨子からなる内容はジェネラル・デゾーに有利であった。
 具体的には総合水道会社が、セーヌ県の市町村と交わした給水契約の全てをパリ市は承継する。あわせ同社が所有する全水利施設をパリ市に譲渡する。また、パリ市が給水管理権を有する。

 総合水道会社が個人契約者に給水するに足るだけの水量をパリ市は確保しなければならない。
 総合水道会社は水の配分と販売、枝管の建設、契約金の徴収、商業的給水泉の管理義務を負い、その収入を毎週パリ市の金庫に振り込まなくてはならない。
 損害賠償として、1860年12月の時点で、総合水道会社の年間利益に相当する116万フランの年賦金を総合水道会社は受け取る。
 管理費として、総合水道会社は年間35万フランを受け取る。
 また、総額360万フランを超えた収入分については、総合水道会社が超過分の1/4を受け取る。
 契約期間は50年間というものであった。
 このあいだ、総合水道会社はセーヌ県の市町村と新たな給水事業契約を交わすことができない。それはパリ市が担う。
 会社は設備の整備と人口の増加などで毎年40万フランの割合で収入を増やした。

 1880年代の大不況期に市議などは会社の事業買戻しを主張した。
 これは損害賠償の金額算定で争い疲れたことや、水道利用契約義務化政策を円滑に進めたいという思惑が働き、総合会社の天引きは続いた。
 なお、買戻された場合の埋め合わせは近郊の水道事業にたくさん用意されていたという。

 ロスチャイルド家はユダヤ人迫害を推進するロシア帝国とは敵対的立場を取っていた。
 1854年のクリミア戦争ではロシアと敵対するイギリス・フランス・トルコ陣営を金銭面から支援した。
 英仏軍の軍事費を調達し、トルコにも巨額の借款を与えた。

 こうしてオスマン債務管理局の債権者たる英仏と債務者トルコ双方が、ロスチャイルド家に財政の詳細を掌握されていった。
 ロシアはクリミア戦争に敗れて、1867年にロシア領アメリカを米国に売却した。
 しかし、オスマン債務管理局が設立された1881年の翌々年に再び財政困窮に陥った。

 このときパリ家当主アルフォンスはロシア政府の公債発行に協力し、その見返りとして
の中でも最大級のバニト油田をロシア政府より与えられた。
 ここでは、すでにアルフレッド・ノーベルがバクーを開発していた。
 アルフォンスは彼と協力することにしたがノーベル系企業はドイツ銀行から監査役を受け入れながらドイツにも進出していた。
 1897年サンクトペテルブルクのロシア国立銀行が中央銀行となるとき、ロスチャイルド家は代理人の
   アレクサンドル・スティグリッツ
を初代総裁にした。

 1901年にフランクフルト家が閉鎖したため、膠州湾租借地をあえて孤立させ、南下政策を阻止するとともに
   露清銀行
におけるパリバの主導権奪還を支援した。
 1904年の日露戦争でもロスチャイルド家は軍事費をロシアに提供した。
 初代ロスチャイルド男爵
   ナサニエル・ロスチャイルド
は、ユダヤ人銀行家ジェイコブ・シフから「日本の勝利がユダヤ人同胞を迫害するツァーリ体制打倒のきっかけとなる」との誘いを受けた。
 そこで日本政府が戦時国債を発行する便宜を図り、3回目と4回目の起債はロンドンとパリの両家がそろって引き受けに参加した。

 南アフリカや北米西岸でもロスチャイルド家は鉱産資源を開発した。
 1880年には
に融資して、ダイヤモンド寡占企業の
   デビアス
を設立させた。
 1924年にデビアスはノーベル資本を爆薬部門として吸収した。
 1895年10月にはロンドン・パリの両家が
   アナコンダ銅鉱山会社
の株1/4を750万ドルで買収して、世界銅供給の4割以上を支配した。
 このアナコンダは1977年にARCO(現:BP)に吸収されて、ホームステッド法の延命に成功しアラスカの
   プルドーベイ油田
を開発した。
 この油田は1968年に発見されたが、翌々年に
   ラファージュ
がマックス・エイトケンのカナダセメントを吸収してパイプラインの建材を提供した。

 1914年にはロイヤル・ダッチ・シェル石油に油田を売却したうえ、同社の大株主に転じた。
 自らの油田を売ってでもヨーロッパ石油産業の再編を進めたことで、ロックフェラーの
   スタンダード石油
がヨーロッパ進出を阻止するという狙いがあった。

 英仏露土4か国の資本が融けあうようにしてコーカサスの利権を得ることに成功した。
 アルメニア人の石油商の息子
   グルベンキアン
はバルカン半島の出身でり利権が複雑に入り組んだ列強資本の溶剤として活躍した。
 る欧州経済において、ロックフェラーは下積みを欠いていた。
 ロスチャイルド家は英仏露土各国ばかりか、ロックフェラーが台頭した合衆国に対しても債権者として暗躍していた。

 1917年にロシア革命が起こってツァーリ体制が崩壊し、ボルシェヴィキ政権が外国資産を全て接収した。
 しかし、ロスチャイルド家はこの時にはロシア帝国内の資産を全て売却しておいたおかげでロシア革命による打撃を受けずにすんだ。
 
 戦争と各国での国家主義の高揚により、栄枯盛衰が強まったがロンドン家とパリ家は繁栄していた。
 しかし、フランクフルトの本家は発祥の地であるフランクフルトに固執してしまい新しい金融の中心地ベルリンに移ろうとしなかった。
 このために衰退し、ウィーン家もハプスブルク家と運命をともに没落した。
 また、ナポリ家に至っては、国家主義の高揚で危機的状況に陥っていた。
 1901年にフランクフルトの本家が断絶すると家内の協力関係はいよいよ希薄となった。

 1914年に勃発した第一次世界大戦でロスチャイルド家は敵味方に引き裂かれた。 
 兵役年齢の者はそれぞれの祖国の軍隊に入隊して祖国のために戦った。

 ロンドン家はエヴェリン・アシル・ド・ロスチャイルドをパレスチナ戦線で失った。
 ロスチャイルド家の中で最も栄えていたロンドン家は、第一次世界大戦中の税制変更期に初代ロスチャイルド男爵ナサニエルとその弟二人が相次いで死去する不幸があった。
 その財産には莫大な相続税をかけられて衰退しはじめた。

 そもそも、ロスチャイルド家の銀行は株式形態ではなく個人所有だったため相続税増税の直撃を被った。
 19世紀に手に入れた豪邸を次々と手放すことを余儀なくされたうえ、ロスチャイルド銀行の業務の大きな部分を占める公債発行が戦争の影響から危険な投資になって資産をすり減らした。
 第一次世界大戦後のロスチャイルド家はこれまで投資した事業を守るだけで精一杯という状況にまで陥った。

 19世紀に栄華を誇ったロスチャイルド家も20世紀には衰退の一途をたどった。
 実際の財力より名前の威光ばかりが先行するイメージの存在と化したが「国際ユダヤ資本」を陰謀の元凶とするユダヤ陰謀論に影響されたナチス・ドイツにとってはそのイメージは
   反ユダヤ主義プロパガンダ
の格好の材料となった。
 ドイツ国内のロスチャイルド家に由来する記念碑や名称もナチス政権誕生とともに取り払われた。

 ドイツ国内にあったロスチャイルド家所有の財団法人や慈善施設も経済や銀行業の
   アーリア化
により財産放棄か二束三文で買い取られていった。
 フランクフルト家の最後の当主ヴィルヘルムの娘婿だった
   マクシミリアン・フォン・ゴールドシュミット=ロートシルト
の財産も政府に没収されたが、ナチスの目標であったヴィートコヴィツェ製鉄所は守られた。
 この製鉄所は1843年、ザロモンが北部鉄道などの事業へ供するため、チェコの
   ヴィートコヴィツェ
に独占所有した資源である。
 ネイサン創始のアライアンス保険が1936年に法的な鉱山所有者となった。
 前年から株式の名義をスイスなどに変えてあったため、ヒトラーに察知さず接収は免れた。

    
posted by まねきねこ at 11:31 | 愛知 ☔ | Comment(0) | TrackBack(0) | よもやまばなし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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