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2024年04月10日

アジア通貨危機直後のロシア財政危機(または、ロシア金融危機) 

 ロシア財政危機(または、ロシア金融危機)はこれまで繰り返し起きていが「1998年の危機」ではロシアの財政が悪化したところへ
   アジア通貨危機
の余波を受けて債務不履行(デフォルト)が発生したもの。
 2008年には世界金融危機の影響で危機が発生し、2014年、2022年にも危機または危機的状況が発生した。
 
 1998年8月17日にキリエンコ政府並びにロシア中央銀行の行った
   対外債務の90日間支払停止
と、これに起因するルーブル下落、キャピタル・フライトなどの経済危機が起こった。
 それ以前から各種の要因でロシアの財政が逼迫し、債務支払い停止を経て資本の流出、ルーブルの下落を見たロシア国内の経済混乱、並びに、金融不安に伴う株価下落、投資方針を量から質へ転換した資本の移動、ヘッジファンドの倒産など、世界経済も影響を受けた。
 
 当時、ロシアの貿易は、輸出の80%を
   天然資源(石油・天然ガス・金属・木材)
に依存していたため、世界経済の状況に影響されやすく、世界的デフレで
当時物価が下落しつつあった状況下で財政は悪化していった。
 さらに、原油価格の下落に伴い、輸出原油からもたらされる税収が減少したため、ロシア政府の財政を極度に悪化させることになった。

 経済状況の悪化を反映してルーブルも下落したうえ、脱税が蔓延して政府の収入が減った。
 一方で、賃金、年金、各種サービスへの支払いなどに充てる財源はなく、結局これらの支払いを一時停止したり、ルーブルではなく現物支給を行う等を行いロシア国民の不満が強まらないよう対処していた。

 財政が逼迫していたところに、アジア通貨危機の余波を受けて
   世界景気
が後退し、主要輸出産品の価格が下がったことで経済の悪化に輪をかけた。
 同じくアジア通貨危機を経て投資家の安全指向が高まったため、金利は高いがリスクも高いロシア関連株よりも、安全な米国債等への資金の移動が起こっっため事態を悪化させた。

 ロシアが一時的な混乱からすぐに回復すると見たファンドの予想は大きく裏切らて、事態が悪化して行ったことから、多大な損失を被ったファンドが倒産の危機に陥り、これも金融危機を拡大させた。
 賃金支払いを受けられず困窮した炭鉱労働者は、1997年夏にシベリア鉄道を実力行使で封鎖し、ロシアの広大な領土は数週間にわたって二分された。
 彼らは賃上げ要求に加えて
   ボリス・エリツィン大統領
らの辞任も要求した。
 こうした騒乱を受け、エリツィン大統領は1998年3月23日に、チェルノムイルジン首相とその閣僚を突然罷免し、政治危機が高まった。
 エリツィン大統領は、それまであまり知られていなかった 35歳の技術官僚
   セルゲイ・キリエンコ
を首相代行に指名したものの、その若さと乏しい実績から、ロシア議会は2度にわたり拒絶した。
 エリツィンが議会解散をちらつかせつつ承認を求める対立状況が1ヶ月続いたが、4月24日にようやく議会はキリエンコを承認した。
 キリエンコはルーブルの下落を防ぐべく強力な内閣を組織し
   新興財閥(オリガルヒ)
も為替レート維持の姿勢を見せるキリエンコを支持した。
 そして、資本の流出を止め、投資家を引きつけて国債を消化させるため、150%の超高金利政策を打ち出した。
 しかし、アジア通貨危機を経験した投資家の指向は既に「質への逃避」を起こし、また、原油価格の低迷からロシア財政改善の兆しも見えず、結局資本の流出は止められなかった。

 この状況では、1998年中頃には、ルーブルを買い支える手持ちの外貨がなくなり、為替レートを維持する資金(主としてドル)を国際通貨基金(IMF)から借りるよりほかになくなることは誰の目から見ても明らがであった。

 この様なロシアの財政危機は西側諸国にとっても不安の種となった。
 なお、長期的に資金を注入することは事態の解決にならないことは承知していたもののIMFの援助なしではもはやエリツィン政権がもたないものと思われた。
 アメリカ合衆国の主要なファンドであり、ノーベル経済学賞受賞者が設立に関与した1,000億ドル規模の巨大ヘッジファンド「ロングターム・キャピタル・マネジメント (LTCM)」 が余波を被って倒産していた。

 (このLTCMの救済措置はグリーンスパンFRB議長がニューヨーク地区連銀に対して特別融資(低金利融資)を指示したことで、その後のサブプライムローンを組み込んだ金融派生商品の暴落で最終的にリーマン・ブラザーズが救済措置なく倒産したリーマンショックが発生する芽を作ったとも言われている。)

  LTCMは市場中立型ファンドと呼ばれ、市況が一時的に変動しても、いずれ(数時間〜数日の範囲で)元の水準に戻るという性質を利用して短期で売買を繰り返し金を稼ぐ手法であった。
 ロシア危機に際して、一時的にロシア関連の株が下落しても、いずれは元に戻るとしてポジションを取ったが、アジア通貨危機とロシア財政危機を経験した投資家は、一種の正常判断を失ったパニックにより
   安全な米国債等
を指向して、ロシア市場に回帰することはなかった。
 また、LTCM がポジションを取っていた中南米の株等もリスクが大きいとして下落し、結果長期間にわたって損失が拡大し、結局破綻に追い込まれた。
 LTCMは、経営危機に陥るまでは、年利40%前後の好成績を挙げていたことから、他のファンドも多くが同じ手法をとり、やはり同様に窮地に陥った。
 また市場中立型ファンドは、個々の取引では利益が微々たるもので、それを補うために
   レバレッジ
を効かせたえう、大量の注文を行うことで利益を膨らませていた。
 リスクはそれが反対方向に動き、かつ通常よりも長期間にわたり大幅な変動を見せたことで発生した。
 なお、これらヘッジファンドは、世界各国の金融機関と多額(100兆円単位)の金融取引契約を結んでいたため、破綻に伴い世界経済に恐慌へもつながりかねない深刻な影響を与え通貨危機を起こした。

 アメリカや日本など、諸国においては短期金利の急速引下げ(日本ではゼロ金利政策にもつながった)と中央銀行などからの資金貸し出し(銀行への公的資金注入も含む)を行い、この危機を乗り切った。(この成果が今のウスノロとも言える日銀の異次元の金融政策を継続させたまま何もせず放置し、リスクの存在を隠蔽している姿そのものだ。)

 ビル・クリントン大統領の財務長官でゴールドマン・サックスの共同会長であった
   ロバート・ルービン氏
は、ロシアの崩壊から世界金融市場へ波及し恐慌に陥ることを恐れ、結局、7月13日に226 億ドルの緊急支援を承認した。
 この救済処置をもってしても事態は好転しなかった。
 1 か月当たりの債務利払いが同じ月の歳入を上回ることが明らかになり、IMFの援助があったにもかかわらず資本流出は続いた。数週間後には再びルーブルの下落が始まり、財政危機に陥った。
 結局、ロシア政府は砂漠に水をまくごとく借金の悪循環に陥った。
 負債の利子を返すために新たに借金を繰り返し、また、危機的状況にあるロシアに資金を貸し付けるにあたって貸し手は債務不履行を回避するため「更に高い金利」を要求するようになった。

 8月17日に、キリエンコ政府とロシア中央銀行は対外債務を
   90日間支払い停止
すると発表せざるをえなくなった。
 これと同時に債務を整理し、ルーブルを引き下げた。
 ロシア国民が価値が低下するルーブルをUSドルに替えようとする動きが加速したため、ルーブルはなおも下落を続けて暴落した。
 ロシアが資本主義体制へ移行して間もなく、まだ経験の浅い銀行の大部分は、海外から
   USドル建ての資金
を調達したため、ルーブルの暴落と共に破綻した。
 一方で、西側の債権者も大きな損失を被った。
 この危機によりキャピタル・フライトが発生し、資本はロシアより加速度的に流出した。


 キリエンコの後任にロシア議会は
   エフゲニー・プリマコフ
を選び、プリマコフの下でロシアはこの危機から急速に回復することに成功した。

 1998年の危機のあと、1999年から 2000年にかけて状況は急速に改善した。
 その主な理由は、ロシアが保有する石油価格の回復であった。

 経済混乱のあおりを受けて 1バレル13USドル台まで下落していた原油価格は、1999年3月にロシア経済をプラスに持ち直し、2000年10月には高値32USドル台まで回復した。
 これにより、ガスプロムを筆頭とした旧国営エネルギー会社はロシアの財政収入を支えた。
 ロシア犯罪組織と違法取引の疑惑があったシリアの銀行家
   エドモンド・サフラ
は暗殺された。
 当時、ルーブルのレートは対ドル 1/6 に低下し依然として不安定であり財政的には問題があった。
 産業は構造を維持して自立的に回復し、特に平価切り下げにより輸入品価格が上昇したので、食品産業などの国内産業の雇用が回復し財政危機を乗り越えた。

   
posted by まねきねこ at 06:40 | 愛知 | Comment(0) | TrackBack(0) | onemile stone | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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