ポール・バージェス・フェイ・ジュニア
(Paul Burgess Fay Jr.)
1918年7月8日ー2009年9月23日
1963年11月にアメリカ合衆国海軍長官代行を務め、ジョン・F・ケネディ大統領の側近であった。
ポール・B・フェイ・ジュニアは1918年7月8日、カリフォルニア州サンフランシスコで生まれ、カリフォルニア州オーハイのサッチャー・スクールに通い、後にスタンフォード大学に進学した。
1941年にスタンフォード大学を卒業した後、フェイは父親の経営するベイエリアの舗装工事会社
フェイ・インプルーブメント社
で働き、 1941年12月の真珠湾攻撃後に米海軍に入隊した。
フェイは士官候補生学校に通い、ロードアイランド州メルヴィルで
PTボート(哨戒魚雷艇の略)
の訓練に配属された。
そこでは
ジョン・F・ケネディ
が教官を務めていた。
ただ、彼らは同じボートに乗っていなかったが、南太平洋の同じ基地に配属された。
フェイはPT167の副司令官として従軍中にブロンズスターを受賞した。
その際、ボートは日本軍のゼロ式戦闘機が投下した魚雷によって動けなくなり、水面下で船体を貫通したものの不発に終わった。
終戦で任務を終えた後、フェイは米国本土に戻り、父の会社に復帰した。
1946年10月5日、カリフォルニア州ミルバレーの
アニタ・マーカス
と結婚した。
二人の間にはキャサリン・フェイ、ポール・フェイ3世、サリー・フェイ・コッティンガムの3人の子供が生まれた。
ポール・フェイとケネディは親しい友人となり、フェイはケネディの米国議会下院および上院選挙の初期の選挙運動、また米国大統領選挙の選挙運動にも協力した。
また、ポール・フェイはJFKの結婚式で案内係を務めた。
ケネディが大統領に選出されると、フェイは
ロバート・マクナマラ国防長官
の反対を押し切って海軍次官に指名され、その職に就いた。
その後、ケネディが大統領だった1963年11月に海軍長官代行に就任した。
1963年11月22日の
ケネディ暗殺
に伴い、フェイは11月28日付けで辞表を提出したが、1965年まで海軍次官を務めた。
1966年に彼はケネディについてのベストセラー『The Pleasure of His Company』を執筆した。
フェイはフェイ・インプルーブメント・カンパニーは1967年に売却して、投資調査会社
ウィリアム・ハッチンソン・アンド・カンパニー
を設立した。
また、ベスタウア・セキュリティーズとファースト・アメリカン・ファイナンシャルの取締役を務めた。
また、サンフランシスコの海軍戦争大学財団とマウント・セント・ジョセフ・セント・エリザベスの理事でもあった。
ポール・バージェス・フェイ・ジュニアは、長年アルツハイマー病に患い苦しんだ後、 2009年9月23日にカリフォルニア州ウッドサイドの自宅で亡くなった。