トーマス・ロバート・バード
(Thomas Robert Bard)
1841年12月8日 - 1915年3月5日
カリフォルニア州の米国の政治指導者であり、ベンチュラ郡の組織化を支援し、1900年から1905年まで共和党員として米国上院で同州を代表した。
彼は、都市の建設と拡張、およびこの地域で最初で唯一の深水港の建設に尽力したことから、 「ポート・ヒューニーメの父」として知られている。彼はUNOCAL社の創設者の一人である。
バードは1841年12月8日にペンシルバニア州チェンバーズバーグで生まれ、公立学校に通い、1858年に
チェンバーズバーグ・アカデミー
を卒業した。学校では法律を学び、卒業前に
ペンシルバニア鉄道
に就職した。
その後、カンバーランド・バレー鉄道の監督補佐となった。
また、メリーランド州ヘイガーズタウンでの穀物事業などに従事した。
南北戦争の初期、バードはメリーランド州とペンシルベニア州への南軍の侵攻中、志願兵として
北軍の斥候
として従軍した。
1865年、バードはカリフォルニア州ベンチュラ郡に着任し、叔父の
トーマス・A・スコット
が所有するオハイの土地で原油掘削作業を開始した。
1867年、掘削井戸から石油が噴出させたことで、バードはカリフォルニアで初めて採掘した人物となった。
1903年の公式議会名簿には、バードが「港湾・倉庫業、銀行業、石油採掘、羊の放牧、不動産取引に従事した」との記述がある。
トーマス・R・バードは、1868年から1873年までサンタバーバラ郡の監督委員会のメンバーを務めた。
1871年、彼はベンチュラ郡を組織する委員に任命された。
この間、彼はランチョ・エル・リオ・デ・サンタクララ・オ・ラ・コロニアを購入して分割し、将来のベリルウッド地所の敷地となるカリフォルニア州ポート・ヒューニーメの計画を立てた。
バードは1884年の共和党全国大会のカリフォルニア州代表であり、後に1886年から1887年まで
カリフォルニア州農業委員会
の理事を務めた。
1887年、バードは
オクシデンタル大学
の創設理事となった。
1900年2月6日、スティーブン・M・ホワイト上院議員の死去により、共和党員として米国上院議員に選出された。
1905年3月3日までその職を務めた。
バードは1904年の再選を目指したものの落選した。
在任中、バードは水産委員会の委員長(第57回議会)を務め、灌漑委員会(第58回議会)にも参加した。
バードの在任中の注目すべき行為の1つは、
ジョージ・S・パットン
をウェストポイントに任命したことである。
なお、パットンは後に米陸軍の将軍となり、第二次世界大戦の地中海戦域では第7軍を指揮した。
また、1944年6月の連合軍によるノルマンディー上陸作戦後はフランスとドイツで第3軍を指揮した軍人である。
トーマス・R・バードは成功した実業家となり、いくつかの石油会社で利益を上げた。
バードと彼の兄弟である
セファス・リトル・バード博士
は、母親を記念して
ベンチュラにエリザベス・バード記念病院
を設立しました。
彼の息子のアーチボルド・フィリップ・バードは著名な生理学者となり、
ジョンズ・ホプキンス大学医学部の学部長
になった。
彼は1915年3月5日にカリフォルニア州ポートヒューニーメのベリルウッドの自宅で亡くなりった。