IG Farbenindustrie AG
一般にIG Farbenとして知られ、ドイツの化学および製薬 コングロマリットであった。
1925年に
Agfa
BASF
Bayer
Chemische Fabrik Griesheim-Elektron
Hoechst
Weiler-ter-Meer
の6つの化学会社が合併して設立された。
第二次世界大戦後、連合国に接収され、構成会社に分割され、東ドイツにあった施設などの一部は国有化された。
IGファルベンはかつてヨーロッパ最大の企業であり、世界最大の化学薬品・製薬会社でもあった。
IGファルベンの科学者は化学と製薬業界のあらゆる分野に根本的な貢献をした。
オットー・バイエルは1937年に
ポリウレタン合成
のための重付加反応を発見した。
同社の科学者3人がノーベル賞を受賞した。
1931年に「化学的高圧法の発明と開発への貢献」により、
カール・ボッシュ
フリードリヒ・ベルギウス
が1939年に「プロントシルの抗菌効果の発見」により
ゲルハルト・ドーマク
がそれぞれノーベル賞を受賞した。
1920年代、この会社は自由主義国家主義の
ドイツ人民党
とつながりがあり、ナチスから「国際資本主義のユダヤ人企業」であると非難された。
10年後、この会社はナチ党の寄付者となり、 1933年にナチスがドイツを支配した後は、ドイツの戦争努力に重要な物資を提供する主要な政府請負業者となった。
この10年間で、この会社はユダヤ人従業員を一掃し、残った従業員は1938年に会社を去った。
戦後のニュールンベルク裁判では「第三帝国における最も悪名高いドイツ工業企業」と評された。
1940年代には、アウシュビッツからの3万人を含む強制収容所の奴隷労働に依存していた。
アウシュビッツとマウトハウゼンの両方で囚人に対する医学実験にも関与した。
同社の子会社の一つは、ホロコーストの際にガス室で百万人以上を殺害した毒ガスである
チクロンB
を供給していた。
連合国は1945年の戦争の終わりに同社を接収し、米国当局は取締役を裁判にかけた。
その後のニュルンベルク裁判の一つとして1947年から1948年にかけて行われた
IGファルベン裁判
では、23人のIGファルベン取締役が戦争犯罪で裁かれ、13人が有罪となった。
しかし、米軍が
戦争犯罪プログラム
で減刑制度を導入したため、1951年までに全員が早期釈放された。
西側に残っていたIGファルベンは1951年に6つの構成企業に分割された。
その後さらに
BASF
バイエル
ヘキスト
の3つに分割された。
これらの企業は非公式のカルテルとして運営を続け、西ドイツの経済恐慌において大きな役割を果たした。
その後の数回の合併を経て、主な後継企業は
アグファ
BASF
バイエル
サノフィ
である。
2004年、フランクフルト大学は、IGファルベンの旧本社に収容された、強制労働者とチクロンBで殺害された人々のための
ノルベルト・ヴォルハイム 記念碑
という常設展示場をキャンパス内に設置した。
20世紀初頭、ドイツの化学産業は
合成染料
の世界市場を独占していた。
BASF 、バイエル、ヘキストの3大企業は、数百種類の染料を生産していた。
アグファ、カッセラ、カール&カンパニー、グリースハイム・エレクトロン化学工業、ヴァイラー・テル・メール化学工業の5つの小規模企業は、高品質の特殊 染料に集中していた。
1913年には、これら8社が世界の染料供給量のほぼ90%を生産し、生産量の約80%を海外で販売していた。
3大企業は、必須原材料の生産の上流にも統合し、医薬品、写真フィルム、農薬、電気化学など、化学の他の分野にも進出し始めた。
他の産業とは対照的に、ドイツの大手化学企業では、トップレベルの意思決定は専門の給与所得者層の管理者に委ねられていた。
また、創業者とその家族はそれにほとんど影響力を及ぼさなかった。
この特異な状況から、経済史家
アルフレッド・チャンドラー
はドイツの染料会社を「世界初の真に経営的な工業企業」と呼んだ。
合成染料やその他の化学製品の世界市場はドイツの産業が独占した。
このめ、ドイツ企業は互いに市場シェアをめぐって
激しい価格競争
を繰り広げ、利益を削ぎ体力の蓄積を顧みない国益を無視した動きを行った。
また、利益を確保するためのカルテルも試みられたが、長くても数年しか続かなかった。
利益プールやインターエッセン・ゲマインシャフト(略称IG、文字通り「利益共同体」)の形成を主張した者もいた。
これとは対照的に、バイエルの会長
カール・デュイスベルク
は1904年にドイツの染料会社と製薬会社の合併を主張した。
1903年春の米国旅行中、彼は
USスチール
インターナショナル・ペーパー
アルコア
など、米国で特定産業における独占的な地位にあった大手企業数社を訪問した。
1904年、ドイツに帰国後、彼は
ヘキスト
の上級管理職
グスタフ・フォン・ブリューニング
に宛てた覚書の中で、染料と医薬品の生産者の全国的な合併を提案した。
ただ、ヘキストといくつかの製薬会社は参加を拒否した。
その代わりに、ヘキストと
カッセラ
は1904年に相互株式に基づく同盟を結んだ。
これがきっかけとなりデュイスベルクとBASF会長の
ハインリッヒ・フォン・ブルンク
は交渉を加速させた。
1904年10月、バイエル、BASF、アグファの間で
インターエッセン・ゲマインシャフト
が結成された。
これはドライブントまたはリトルIGとしても知られていた。
3社の利益はプールされ、BASFとバイエルがそれぞれ43%、アグファが全利益の14%を獲得した。
2つの同盟は、BASFとヘキストの間で
ホイマン・プフレガー
の藍合成に関する特許を共同で利用するという合意を通じて緩く結びついていた。
ドライブント内では、バイエルとBASFが
染料に集中
し、アグファは
写真フィル
ムへの集中を強めていった。
両社の生産と経理の技術スタッフの間では多少の協力があった。
ただ、他の分野では両社間の協力はほとんど行われなかった。
また、生産施設や流通施設の統合は行われず、営業スタッフの協力もなかった。
1908年にヘキストとカッセラは
ケミシェ・ファブリク・カッレ
の株式の88パーセントを取得した。
ヘキスト、カッセラ、カッレは相互株式で結びついており、フランクフルト地域で互いに近い場所にあったため、ドライブントよりもうまく協力することができたが、生産施設の合理化や統合は行わなかった。
1930年に完成したフランクフルトの
IGファルベンビル
は、第2次世界大戦に敗戦した後連合国のアメリカに接収された。
その後、1996年にドイツ政府に譲渡され、2001年にフランクフルト大学に譲渡された。
IGファルベンは1925年12月に6社
BASF (自己資本の27.4%)
バイエル(27.4%)
ヘキスト(27.4%)
(カッセラとケミシェ・ファブリク・カレを含む)
アグファ(9%)
グリースハイム・エレクトロン化学工場(6.9%)
ヴァイラー・テル・メール化学工場(1.9%)
の合併により設立された。
査役会メンバーは「神々の会議」( Rat der Götter )として広く知られるようになり、冗談で自らをそう呼んでいたと言われている。
この呼称は戦後、東ドイツ映画『神々の会議』 (1950年) のタイトルとして使われた。
1926年、IGファルベンの時価総額は14億 ℛ︁ℳ︁(2021年の価値で60億ユーロに相当)で、従業員数は10万人、そのうち2.6%が大学卒、18.2%が給与所得者、79.2%が労働者であった。
BASFが名目上の存続会社となり、全株式がBASFの株式と交換された。
同様の合併が他の国でも行われた。
イギリスでは、1926年9月に
ブルンナー・モンド
ノーベル・インダストリーズ
ユナイテッド・アルカリ・カンパニー
ブリティッシュ・ダイエスタフス
が合併して
インペリアル・ケミカル・インダストリーズ
が設立された。
フランスでは
エタブリスマン・プーランク・フレール
ソシエテ・チミック・デ・ユジン・デュ・ローヌ
が1928年に合併し
ローヌ・プーランク
が設立された。
ドイツのフランクフルト・アム・マインの複合企業の本社であるIGファルベンビルは1931年に完成した。
1938年、同社の従業員数は218,090人であった。
1930年代を通じて、IGファルベンは
アーリア化計画
の過程を経て、1933年のナチスの選挙運動の成功に対する「最大の単一寄付」となった。
1931年と1932年には党への「秘密の寄付」の証拠もニュールンベルグ軍事裁判で明らかになっている。
1938年までに、取締役会のユダヤ人は辞任し、残りのユダヤ人従業員は、
ヘルマン・ゲーリング
がナチスの4カ年計画(1936年発表)の一環として、一定の条件が満たされた場合に限り、ドイツ政府が
海外での建設や購入の資金
としてドイツ企業に
外貨を提供するという法令
を発布した後、解雇された。
その条件には、同社がユダヤ人を雇用しないことも含まれていた。
IGファルベンの製品には、合成染料、ニトリルゴム、ポリウレタン、プロントシル、クロロキンなどがあった。
神経ガスの
サリン
は、IGファルベンによって初めて発見された。
IGファルベンは、毒ガスの チクロンBの製造での役割で最もよく知られている。
ドイツ国防軍の活動に不可欠な製品の1つは、石炭液化プロセスを使用して褐炭から作られた合成燃料であった。
IGファルベンの科学者は化学のあらゆる分野に基礎的な貢献をした。
1937年にポリウレタン合成のための重付加反応を
オットー・バイエル
が発見した。
IGファルベンの科学者
カール・ボッシュ
フリードリヒ・ベルギウス
は1931年に「化学的高圧法の発明と開発への貢献が認められて」ノーベル化学賞を受賞した。
また、ゲルハルト・ドーマクは1939年に「プロントシルの抗菌効果の発見」によりノーベル生理学・医学賞を受賞した。
IGファルベンは「第三帝国時代の最も悪名高いドイツ工業企業」と敗戦後のニュールンベルグ軍事裁判などで評されている。
第二次世界大戦が始まったとき、同社は世界で4番目に大きい企業となっていた。
また、ヨーロッパでは最大の企業であった。
1941年2月、SS国家指導者
ハインリヒ・ヒムラー
は、ドイツ占領下のポーランドにあるアウシュビッツ強制収容所複合施設の一部であるモノヴィッツ強制収容所の近くに、IGファルベンの
ブナN(合成ゴム)工場(モノヴィッツ・ブナ・ヴェルケ( またはブナ)
の建設を支援する命令に署名した。
モノヴィッツはアウシュビッツIIIとして知られるようになり、アウシュビッツIは管理センター、アウシュビッツII-ビルケナウは絶滅収容所であった。
IGファルベン工場の労働力は、SSが安い日当で同社に貸し出したアウシュビッツからの奴隷労働者で構成されていた。
IGファルベンの子会社の一つは、ガス室で100万人以上を殺害した毒ガス、チクロンBを供給していた。
IGファルベンの幹部は戦後、収容所内で何が起こっていたのか知らなかったと述べた
歴史家ピーター・ヘイズは、「殺害はファルベン社内でも公然の秘密として取り扱われており、人々は知っていることについて反省しないように努めた。」と記述している。
1978年、米国司法省の弁護士として同社を調査した
ジョセフ・ボルキン
は、アメリカの報告書を引用して「IG社の膨大な生産設備、広範囲にわたる研究、多様な技術的専門知識、そして経済力の全体的な集中がなければ、ドイツは1939年9月に戦争を開始する立場にはなかっただろう。」と述べている。
同社はその資源、技術的能力、海外とのつながりをドイツ政府に提供した。
1937年9月10日の商業委員会の会議の議事録には「ドイツ労働戦線のメンバーでなく、新時代に対する前向きな姿勢が疑う余地なく確立されていない人物を、いかなる状況下でも海外の代理店に配属してはならないことは、一般的に認められている。海外に派遣される紳士は、国家社会主義ドイツを代表することが彼らの特別な義務であることを認識すべきである。…販売連合はまた、代理店に国家社会主義の文献が十分に供給されるようにするよう要求される。」と記述されている。
なお、このメッセージは、1938年2月16日のバイエル部門の取締役会の議長を務め、以前の会議で
「ドイツ国家誕生の奇跡」
に言及していた
ヴィルヘルム・ルドルフ・マン
によって繰り返された。
なお、「議長は、バイエルの医薬品と殺虫剤のすべてが国家社会主義の姿勢と一致していることを指摘する。さらに、彼は海外事務所の責任者に、党の幹部、DAF (ドイツ労働者戦線)などと良好かつ理解ある方法で協力することを自明の義務とみなすよう要請する。その旨の命令をドイツの指導者たちに再度与え、彼らの実行に誤解が生じないようにする。」と続けた。
1943年までにIGファルベンは占領下のヨーロッパの334の施設で 30億マルク相当の製品を製造していた。
33万人の従業員のうちほぼ半数は奴隷労働者または徴集兵であった。
また、その中にはアウシュビッツの囚人3万人も含まれていた。
合計すると年間純利益は約5億ℛ︁ℳ︁(2021年の価値で20億ユーロに相当)だった。
レイモンド・G・ストークスによると、1945年にはドイツの合成ゴムとメタノールのすべて、プラスチックと「有機中間体」の90%、爆薬の84%、窒素と溶剤の75% 、医薬品の約50%、合成燃料の約33%を同社が製造していた。
IGファルベンの
バイエルグループ
のスタッフは、アウシュビッツとマウトハウゼン強制収容所の収容者に対して医学実験を行った。
アウシュビッツでは、バイエルの従業員でアウシュビッツ収容所の医師でSS大尉のヘ
ルムート・フェッター
アウシュビッツの医師
フリードリヒ・エントレ
エドゥアルト・ヴィルト
が人体実験を指揮した。
この実験のほとんどはビルケナウの女性収容所病院であるブロック20で行われた。
患者は腸チフス、結核、ジフテリアなどの病気にかかっており、多くの場合は故意に感染させられたうえ、ルテノール、ペリストン、B-1012、B-1034、B-1036、3582、P-111という製剤が投与された。
実験を目撃した囚人医師によると、薬を投与された女性たちは循環障害、血の混じった嘔吐、そして「粘膜の破片を含む」痛みを伴う下痢を経験したという。
3852を投与された50人のチフス患者のうち15人が死亡し、ルテノールを投与された75人の結核患者のうち40人が死亡した。
麻酔薬をテストする実験のために、バイエルはアウシュビッツから自社の施設に150人の女性を派遣した。
バイエルは女性1人当たり150リンギットを支払ったものの研究の結果、全員が死亡した。
収容所は1人当たり200リンギットを要求したが、バイエルは高すぎると主張した。
バイエルの従業員はアウシュビッツの司令官
ルドルフ・ヘス
に対して「150人の女性の輸送は無事に到着しました。しかし、実験中に死亡したため、決定的な結果は得られませんでした。同じ人数、同じ料金で、別の女性グループを送ってくださるようお願いいたします。」と報告した。
1942年から1945年にかけて、シアン化物ベースの殺虫剤である
チクロンB
が、ドイツ占領下のポーランドにあるアウシュビッツ第2収容所やマイダネク絶滅収容所を含むヨーロッパのガス室で100万人以上の人々(ほとんどがユダヤ人)を殺害するために使用された。
]この毒ガスはIGファルベンの子会社
デゲシュ(ドイツ害虫駆除会社)
によって供給された。
デゲシュはもともと、チフスを媒介するシラミがはびこった衣類を燻蒸するためにアウシュビッツにガスを供給していた。
燻蒸は密室で行われたが、時間がかかる作業だったため、デゲシュはガスを30℃以上に加熱して1時間以内にシラミを死滅させる小型のガス室の建設を推奨した。
その目的は、衣服を燻蒸している間に囚人のひげを剃り、シャワーを浴びさせることだった。
このガスは1941年9月にアウシュビッツで初めて人間(ソ連捕虜650人とその他200人)に使用された。
ピーター・ヘイズは、アウシュビッツが発注したチクロンBの増加量を示す効果表を作成した。
1トンのツィクロンBは約312,500人を殺すのに十分であった。
IGファルベンの幹部数名は、アウシュビッツへのチクロンBの売上が増加していたにもかかわらず、ガス処刑については知らなかったと戦後に述べている。
IGファルベンはデゲシュ株の42.5%を所有した。
また、デゲシュの11人で構成される取締役会のうち、
ヴィルヘルム・ルドルフ・マン
ハインリヒ・ヘルライン
カール・ヴルスター
の3人がIGファルベンの取締役を務めていた。
元SA突撃隊長のマンは、デゲシュの取締役会長を務めていた。
ピーター・ヘイズは、取締役会は1940年以降開かれておらず、マンは「デゲシュの月間売上高を検討し続けていたが、アウシュビッツ収容所が製品をどのように使用していたかをそこから必ずしも推測することはできなかった」と書いている。
IGファルベン社の幹部はアウシュビッツを訪問したが、ガス室があったアウシュビッツ第2ビルケナウは訪問しなかった。
IGファルベンの他の社員も知っていた。
IGファルベン取締役会の秘書だった
エルンスト・シュトラス
は、アウシュビッツの主任技師から
ガス処刑
について聞かされたと戦後に証言した。
デゲシュのゼネラルマネージャーはSSの
クルト・ゲルシュタイン
からガス処刑について聞いたと言われている。
アウシュビッツの司令官ルドルフ・ヘスの戦後の証言によると、IGファルベンのアウシュビッツ工場の技術マネージャーである
ヴァルター・デュルフェルト
ら、アウシュビッツでユダヤ人が火葬されていたというのは本当かどうか尋ねられた。
ヘスはそれについては話せないと答え、それ以降は
デュルフェルト
が知っているものと推測した。
なお、ヘスの友人だったデュルフェルトはそれを知らなかったと否定した。
ヘイズは、IGファルベンに奴隷労働力を提供したアウシュビッツIIIの囚人たちは、アウシュビッツIIの焼却炉からの悪臭のせいで、また、収容所のIGファルベンの監督者が、囚人たちにもっと過酷な労働をさせるためにガス室の脅しを使うなど、ガス室について語っていたせいで、ガス室のことをよく知っていたと書いている。
アウシュビッツIIIに収監されていたイギリス人捕虜の
チャールズ・カワード
は、IGファルベンの裁判で「アウシュビッツの住民は、人々がガスで殺され、焼かれているのをよく知っていた。ある時、彼らは焼死体の悪臭について苦情を言った。もちろん、ファルベン社の人々は皆、何が起こっているか知っていた。誰もが知っていることを知らずに、アウシュビッツに住み、工場で働くこと、あるいは工場に来ることさえできなかった。」と証言している。
マン、ヘルライン、ヴルスター(IGファルベンとデゲシュ両社の取締役)は、 1948年のIGファルベン裁判で、
大量絶滅の目的でチクロンBを供給した罪
では無罪となった。
裁判官は、検察側は被告や取締役会が「デゲシュの経営方針に説得力のある影響力を持っていた、またはその製品がどのような用途に使用されているかについて重要な知識を持っていた」ことを証明していないと裁定した。
1949年、マンはバイエルの医薬品販売部門の責任者になった。
ヘルラインはバイエルの監査役会の議長になった。
ヴルスターはIGファルベンの取締役会長になり、BASFを独立した会社として再建するのを手伝った。
その後、ハイデルベルク大学の名誉教授になった。
デュルフェルトは懲役8年の刑を宣告されたが、ドイツの米国高等弁務官
ジョン・マクロイ
の強い政治的圧力により、1951年に服役した刑期に減刑され、その後、いくつかの化学会社の経営陣や監査役会に加わった。
1945 年ドイツが戦争に負けつつあることが明らかになると、IGファルベンはほとんどの記録を破棄した。
1944年9月、 IGファルベンの監査役会メンバーで後にバイエルの取締役会会長となる
フリッツ・テル・メール
と、IGファルベンの取締役会書記長
エルンスト・シュトラス
は、アメリカ軍の侵攻に備えてフランクフルトにある会社のファイルを破棄する計画を立てていたと言われている。
また、1945年1月、赤軍がアウシュビッツ解放のために接近すると、IGファルベンは収容所内の会社の記録を破棄したと伝えられている。
そして1945年春、同社はフランクフルトで15トンの書類を焼却し、シュレッダーにかけた。
アメリカ軍は1945年7月2日の「軍政法第52号に基づく一般命令第2号」に基づいて同社の資産を押収した。
この命令により、アメリカは「本命令に基づいて押収された工場および設備のうち、譲渡または破壊されていないものの所有権および管理権」を分散させることができた。
また、フランス軍も支配地域でこれに倣った。
1945年11月30日、連合国管理会議法律第9号「IGファルベンインダストリー所有の資産の押収およびその管理」により、押収の理由が「故意に、かつ顕著に…ドイツの戦力増強および維持」と定められた。
資産の分割は、ドイツがアメリカ、イギリス、フランス、ソ連の4つの地域に分割されたことに従った。
なお、西側占領地域では、非ナチ化政策が進むにつれて、同社を解体するという考えは放棄された。
その理由の一部は、復興を支える産業の必要性と、同社がアメリカ企業、特に
スタンダード・オイル
の後継企業と関わっていたため、米国企業の権益を確保するためである。
1951年、同社は元々の構成企業に分割された。
最大手の4社が速やかに小規模企業を買収した。
1955年1月、連合国高等弁務官事務所はIG清算終結法を公布した。
IGファルベンの法的後継企業をIGファルベン工業会社(IGiA)(「IGファルベン工業会社清算」)と名付けた。
1947年、アメリカ政府はIGファルベンの取締役を裁判にかけた。
アメリカ合衆国対カール・クラウチ他(1947年〜1948年)はIGファルベン裁判としても知られるものだ。
アメリカ当局がドイツ占領地域(ニュルンベルク)でナチスドイツの有力実業家らに対して行った
戦争犯罪裁判12件のうち6件目
であった。
なお、IGファルベンの取締役に対する罪状は
・「他国に対する侵略戦争および侵入の計画、準備、開始および遂行」
・「ドイツの占領下にあった国や地域における公的および私的財産の略奪と強奪を通じて戦争犯罪と人道に対する罪を犯したこと」
・「ドイツ占領地域の民間人およびドイツ国民の奴隷化および強制労働のための移送に参加することにより、戦争犯罪および人道に対する罪を犯した」
・「被告人クリスチャン・シュナイダー、ハインリヒ・ビューテフィッシュ、エーリヒ・フォン・デア・ハイデが、最近犯罪組織として認定されたSSに参加したこと、および
・「平和に対する罪を犯すための共通の計画または陰謀への参加」
という5件であった。
24人の被告のうち1人が病に倒れ、その者の事件は取り下げられた。
起訴状は1947年5月3日に提出され、裁判は1947年8月27日から1948年7月30日まで続いた。
判事はカーティス・グローバー・シェイク(裁判長)、ジェームズ・モリス、ポール・M・ヘバート、クラレンス・F・メレル(補充判事)であった。
テルフォード・テイラーが検察側の主任弁護士であった。
裁判では、13人の被告が有罪となり、18ヶ月から8年の刑を言い渡された。
なお、全員が戦争遂行の最初の罪については無罪となった。
最も重い刑罰はアウシュビッツに関わった者たちでIGファルベンの上ライングループに下された。
アンブロス、ビューテフィッシュ、デュルフェルト、クラウフ、テル・メーアは「奴隷化と奴隷労働のための移送に参加した」として有罪判決を受けた。
懲役刑を宣告された被告人は全員早期釈放された。
大半は戦後の企業で取締役やその他の役職にすぐに復帰し、中には連邦功労十字章を授与された者もいた。
懲役刑に服した者には以下の者が含まれていた。
Agfa、BASF、Bayerは事業を継続した。
Hoechstは1999年に化学事業をCelanese AGとして分社化し、その後Rhône-Poulencと合併してAventisを設立した。
その後Sanofi-Synthélaboと合併してSanofiとなった。
その2年前の1997年、Hoechstの別の部分がSandozの化学分社化であるMuttenz(スイス)を拠点とするClariantに売却された。
後継企業は今でも世界最大の化学・製薬会社の一部である。
IGファルベンは1952年に正式に清算されたが、これによって会社の法的存在が終わることはなかった。
会社が「清算中」で存続する目的は、秩序ある業務の終了を確実にすることである。
ほぼすべての資産とすべての活動が元の構成会社に移管されたため、IGファルベンは1952年以降、実質的に活動のないダミー会社として存続した。
2001年、IGファルベンは2003年に正式に解散すると発表した。
同社は長年にわたり、元労働者への補償金を支払っていないとして批判され続けてきた。
1952年以降も存続している理由は、債権を管理し、負債を支払うためだとされていた。
同社は、法的に解散できず、残余資産を賠償金として分配できないのは、元捕虜労働者との継続中の法的紛争のせいだと主張した。
2003年11月10日、同社の清算人は破産を申請した。
ただ、これは同社の法人としての存続には影響しなかった。
同社は2001年に被害者への支払いのために設立された国家補償基金には参加しなかった。
ナチス政権下で元捕虜労働者のための財団に50万ドイツマルク(16万ポンドまたは25万5,646ユーロ)を寄付した。
残りの資産2,100万ドイツマルク(670万ポンドまたは1,070万ユーロ)は買い手に渡った。
毎年、フランクフルトで開催される同社の年次総会では、何百人もの抗議者がデモを行った。
同社の株式(ライヒスマルク建て)は、2012年初めまでドイツ市場で取引されていた。
2012年時点で、同社はまだ清算中の法人として存在していた。