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2025年09月06日

ジョセフ・D・ピストーネ(Joseph D. Pistone)FBI職員でドニー・ブラスコ(Donnie Brasco)と言う名前を使って犯罪組織への潜入捜査で活躍した。

ジョセフ・ドミニク・ピストーネ(Joseph Dominick Pistone)
   1939年9月17日生まれ
 米国の元FBI特別捜査官
 1976年9月から1981年7月までの間、
   ドニー・ブラスコ(Donnie Brasco)
と言う名前を使って犯罪組織への潜入捜査を行っていた。
 ニューヨークニューヨーク市のマフィアの五大ファミリー小規模な
への潜入捜査から開始し、その後、ボナンノ・ファミリーのカポレッジム
   アンソニー・ミラ(Anthony Mirra)
との関係を構築した後に幹部
   ドミニク・ナポリターノ(Dominick Napolitano)
の配下となった。
 主にボナンノ一家から収集した証拠によって、200件を超える起訴状と100件を超えるマフィア構成員の有罪判決がもたらされた。
 ピストーネは1969年から1986年に辞職するまでの17年間FBI捜査官を務めた。
 ピストーネの潜入捜査に関わったが終了後、犯罪組織の規律を破ったとして何人かは他のマフィアの構成員によって殺害された。
 ピストーネは長期にわたる潜入捜査の先駆者として知られる。
 1972年に亡くなったFBI元長官、
は、FBI捜査官の腐敗の危険性を理由に、潜入捜査を重視しなかった。
  ピストーネの活動は後に、情報提供者に頼るだけでなく潜入捜査官を活用することが法執行において重要な手段であるとFBIに確信させるきっかけとなった。
 ピストーネは1988年に出版した著書『ドニー・ブラスコ:マフィア潜入捜査官人生』の中で、潜入捜査の経験を詳しく述べています。
 この本は、1997年に公開された彼の半生を描いた映画の原作となっています。
 ピストーネは1939年、ペンシルベニア州エリーで生まれた。
 イタリア系で、父親はカラブリア、母親はシチリア出身である。
 ニュージャージー州パターソンで育ち、イーストサイド高校に通った。
 パターソン州立大学(現ウィリアム・パターソン大学)に進学し、1965年に人類学の学位を取得した。
 パターソン第10学校で1年間教師を務めた後、海軍情報局で3年間勤務した。
 その後、1969年7月7日にFBIに入隊し、フロリダ州ジャクソンビルに配属された。
 1974年、ニューヨークに転勤し、
   トラック・ハイジャック班
に配属された。
 18輪トラックとブルドーザーを運転する能力があったため、彼は最終的に
   車両盗難組織
に潜入する潜入捜査の仕事を与えられ、その任務で30人以上が逮捕され、法執行機関内でピストーネの知名度が上がった。
 1976年春、ピストーネはボナンノ一家への潜入を志願した。
 イタリア語とシチリア語に堪能なだけでなく、パターソン出身で培った
   マフィアの特異な習性
に関する知識も、この任務に大いに役立った。
 この潜入捜査のために、
   ドナルド「ドニー」ブラスコ
という偽の身元が作られ、
   下級宝石泥棒
として働いていた犯歴が与えられた。
 FBIの宝石学講座の受講など、綿密な準備を経て、彼は宝石泥棒として潜入捜査を開始した。
 この捜査は、同時進行で行われた2つの捜査の場所、マイアミ(「サニー・マイアミ」)とニューヨーク市(「ビッグ・アップル」)にちなんで、
   「サン・アップル」
というコードネームが付けられた。
 数ヶ月にわたる計画の後、1976年9月、ピストーネは潜入捜査を開始した。
 当初は6ヶ月程度の予定だった捜査が、数年にわたるものとなった。
 FBIは内部情報の流出などを警戒して、ピストーネの名前を勤務名簿と人事ファイルから削除した。
 彼を尋ねる電話をかけた者は、「その名前の者はそこにはいない」と言われるだけだった。
 彼の同僚、友人、情報提供者たちは、「彼に何が起こったのか」全く知らなかった。
 当初の作戦の目的は、マフィアにつながる大規模な盗掘所やトラックのハイジャックに潜入することであった。
 ピストーネは潜入捜査中に、組織犯罪の中でも
   最も不安定な権力闘争
の最中にマフィアの活動を密告した。
 ピストーネは、主にハイジャックや強盗に関与していたコロンボファミリーの末端組織員の兵士
   ジリー・グレカ
の仲間へと身を落とした。
 約6ヶ月後、ピストーネは
との関係を深め、ボナンノ・ファミリーに籍を移した。
 ミラが刑務所に送られると、ピストーネはボナンノの兵士で
がキャプテンを務める
   ベンジャミン・「レフティ」・ルッジェーロ(Benjamin "Lefty" Ruggiero)
からマフィアの構成員として規律の遵守等を含めた手ほどきを受けた。
 ピストーネは、ミルウォーキー犯罪ファミリーの
と自動販売機の取引もしていた。
 1979年のカルマイン・ガランテ殺害後、ピストーネはキャプテンの
に報告した。
 ピストーネはフロリダ州ホリデーで
   キングス・コート・ボトル・クラブ
を開業・運営し、利益を生む事業を手がけていた。
 フロリダでは、ピストーネは
   トニー・ロッシ
という名で潜入捜査を行う別のFBI捜査官と情報交換等の協力をした。
 ナポリターノは後に、ピストーネをコーザ・ノストラの正式な構成員
   「メイドマン
に仕立て上げようとした。
の殺害を依頼した。
 インデリカートは1981年5月の会合に欠席し、
の3人を殺害したが、死を免れていた。
 その後、FBIはピストーネの捜査終了を命じた。
 彼は12月に「メイドマン」になるまで捜査を続けたいと考えていた。
 ナポリターノは忠誠心を証明するため、「骨を折った(マフィアの命令で殺害を命じられた)」と嘘をついた。
 しかし、ピストーネの上司は作戦の継続が危険になりすぎていると判断し、1981年7月26日に終了日を設定した。
 ピストーネが去った後、FBI捜査官の
   ダグ・フェンケル(Doug Fencl)
   ジム・キニー(Jim Kinne)
   ジェリー・ロア(Jerry Loar)
ナポリターノに、彼の長年の仲間がFBI捜査官であることを知らせた。
 ピストーネは作戦終了時に500ドルのボーナスを受け取った。
 その後まもなく、1981年8月17日、ナポリターノはFBI捜査官の潜入を許したとして組織から暗殺命令が出されて射殺され、両手を切断された。
 ルッジェーロは1981年8月29日にFBIに逮捕された。
 ミラも後に1982年2月18日に殺害された。
 ナポリターノの運命について、ピストーネは「この件における私の意図は、人々を刑務所に入れることであり、殺すことではなかった」と述べている。
 1982年11月、ルッジェーロ
と共に、6週間の陪審裁判で組織犯罪共謀罪で有罪判決を受け、懲役15年の刑を言い渡された。
 マフィアはピストーネ暗殺に50万ドルの契約を結び、ボナンノ一家を全国委員会から追放した。
 FBI捜査官はニューヨークのマフィアのボスたちを訪問し、ピストーネを殺害しないよう助言した。
 委員会の委員長である
は、連邦捜査官の殺害は「注目を集めすぎる」と考え、この暗殺契約を破棄した。
 ピストーネは1982年8月2日に初めて公の場で証言した。
 ピストーネが収集した証拠は、200件以上の起訴と100件以上のマフィア構成員の有罪判決につながった。
 ピストーネは1986年にFBIを辞任したが、ピザ・コネクション裁判など、要請があれば証言を続けた。
 ピストーネの潜入はボナンノ・ファミリーを壊滅させただけでなく、マフィア委員会からの追放にもつながった。
 その結果、ボナンノ一家は捜査の標的とならず、
   「五大ファミリー」の幹部
が投獄されることになるマフィア委員会裁判の対象となることはなかった。
 これを回避することで、ファミリーは指導力を維持し、再び権力を強化することができたという。
 この復活を主導したボス
は、ピストーネをファミリーに迎え入れたナポリターノの殺害を命じたとして、2004年に有罪判決を受けた。
 ピストーネは、妻のマギー(2025年に死去)と3人の娘と共に、偽名で非公開の場所に住んでいる。
 ピストーネは、スコットランドヤードを含む世界中の法執行機関のコンサルタントとして活躍している。
 また、組織犯罪の専門家として米国上院で証言に召喚された。
 2012年9月、ピストーネ氏はケベック州モントリオールで行われた
   シャルボノー委員会
による汚職に関する公開調査において専門家証人として証言した。 
 ピストーネは1988年に出版した著書『ドニー・ブラスコ:マフィア潜入捜査官人生』の中で、潜入捜査の経験を詳しく述べている。
 この本は1997年の映画『ドニー・ブラスコ』の原作となり、ピストーネは同作品の技術顧問を務めた。
 この映画では、ジョニー・デップがピストーネ役、アル・パチーノが「レフティ」・ルッジェーロ役を演じた。
  ピストーネは、著書『ワイズガイの道』(2004年)と『ドニー・ブラスコ:未完の仕事』(2007年、チャールズ・ブラントとの共著)の中で、ドニー・ブラスコ役の経験を振り返っている。
 ピストーネは、ジョセフ・ボナンノの息子
と共著した小説『善良な男たち』(2005年)を執筆した。
 また、『ディープ・カバー』、『モブド・アップ』、『スネーク・アイズ』といったフィクション作品も数多く執筆している。
 「シークレット・オブ・ザ・デッド」のエピソード「ギャングの墓場」では、マッシーノによるマフィアのボス3人の殺害に関する長期にわたる捜査の一環として、ピストーネと彼のマフィアへの潜入が取り上げられている。
 ピストーネは、2013年のミニシリーズ『インサイド・ザ・アメリカン・モブ』で重要な役割を担った。
 エピソード1「Stayin' Alive in the '70s」では重要な役割を担い、エピソード2「Operation Donnie Brasco」では中心的な役割を担っています。
   
      
posted by まねきねこ at 17:00 | 愛知 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | バイオグラフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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