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2025年08月31日

ジミー・フラティアーノ(Jimmy Fratianno)「ジミー・ザ・ウィーゼル("Jimmy the Weasel)」としても知られるロサンゼルス・マフィア・ファミリーのボス

アラデナ・ジェームズ・フラティアーノ(Aladena James Fratianno)
   1913年11月14日 - 1993年6月29日
 イタリア生まれの米国人ギャングで、ロサンゼルス・マフィア・ファミリーのボスを務めていた。
 本名アラデナ・フラティアーノ(Aladena Fratianno)「ジミー・ザ・ウィーゼル("Jimmy the Weasel)」としても知られる。
 1977年に逮捕された後、フラティアーノは政府への
   情報提供者
となり、1980年に
   証人保護プログラム
の適用を受けている。
 彼は5人の殺害を認め、その後、作家になった。
 フラティアーノは1913年にイタリアのナポリで生まれ、後に家族と共にアメリカ合衆国に移住した。
 オハイオ州クリーブランド近郊に定住し、19歳の時に強姦の容疑で初めて逮捕されたものの、起訴されなかった。
 2年後、彼は強盗罪で無罪となった。
 1937年に強盗罪で有罪判決を受け、オハイオ州立刑務所で7年以上服役した。
 フラティアーノは少年時代、クリーブランドのリトルイタリー地区で警察から逃走中に
   「ウィーゼル(ウィーゼル)」
というあだ名を付けられた。
 追跡中の目撃者が「あのウィーゼルの逃走を見て!」と叫んだ。
 このため、警察はすぐに「ウィーゼル」が彼の偽名だと思い込み、このあだ名を彼の犯罪歴に付け加えた。
 彼は1945年に仮釈放され、カリフォルニア州ロサンゼルスに移り、そこで裏社会のボス
と交際するようになった。
 1951年、フラティアーノはコーエン暗殺を企てたとされるギャング2人をギャングのように殺害した容疑で逮捕された。
 ただ、証拠不十分なため、後に釈放された。
 1954年、フラティアーノは恐喝未遂で有罪判決を受けた。
 主にサン・クエンティン州立刑務所で6年3ヶ月服役した。
 1968年、自身が所有するトラック運送会社の
   運転手との偽装賃金契約に関する容疑
で有罪を認めた。
 1971年には恐喝罪で再び有罪を認めた。
 フラティアーノは1966年に空港で出会ったジーンと1975年に結婚した。
 フラティアーノは世界的なつながりを持つことで知られていた。
 そのつながりの一つがオーストラリアの組織犯罪関係者とのつながりだった。
 1976年、オーストラリアの犯罪者
   マレー・ライリー
はサンフランシスコでフラティアーノと会い、
   麻薬の密輸
を計画したとされている。
 同年、シドニーのビジネスマン
   ベラ・チデイ
はサンフランシスコでフラティアーノと会談した。
 なお、FBIはこの会談時の写真を撮影して手に入れている。
 シスコ・チームスターズのリーダーである
   ルディ・サム
との人脈を活かし、アベレスは自身の会社を利用して米国への麻薬密輸を行ったうえ、取締機関による港湾労働者への緊張を緩和することに成功した。
   ドミニク・ブルックリアー
が刑務所に送られたため、
   ルイ・トム・ドラグナ
がボス代理に就任した。
 彼はフラティアーノと共にファミリーを運営するという条件で、この地位を受け入れていた。
 フラティアーノは、責任の大部分を負うという条件でこの提案を受け入れた。
 フランク・ボンペンシエロと親しい関係にあった
   ドミニク・ブルックリアー
は、フラティアーノが簡単に罠を仕掛けてボンペンシエロを殺害できると考えていた。
 その後まもなく、フラティアーノはドラグナから
   フランク・ボンペンシエロ殺害
の件で接触を受けた。
 ボンペンシエロは旧友であり、フラティアーノが信頼する数少ない有力者の一人であった。
 そのため、彼はロサンゼルス・ファミリーが自分にそのような「契約」を与えたことに激怒した。
 この時点でフラティアーノは、
   ルイ・ドラグナ
のボス代理に仕立て上げられたと感じていた。
 この地位を得るには、
からロサンゼルス・ファミリーへの転属が必要だった。
 フラティアーノは殺人依頼を数ヶ月間先延ばしにし、最終的にその依頼はロサンゼルスのマフィアの仲間に渡された。
 ドミニク・ブルックリアーは16ヶ月の刑期を終え、1976年10月に釈放された。
 移行期間を経て、1977年2月11日以前にフラティアーノを会合に招集した。
 会合でジミーと他のロサンゼルス・マフィアの構成員に対し、ロサンゼルス・マフィアのボスとしての地位に
   ブルックリアー
が復帰する準備が整ったと発表した。
 ジミー・フラティアーノは再びロサンゼルス・マフィアの兵士となった。
 フラティアーノは、ニューヨークの
の構成員や関係者と共に、ニューヨーク州タリータウンの
   ウエストチェスター・プレミア・シアター
の収益を着服する詐欺行為に関与した。
 この詐欺計画では最終的に劇場を破産に追い込んだ。
 1976年4月11日、フラティアーノは、ウエストチェスター・プレミア・シアターの舞台裏で、
   フランク・シナトラ
のほか、
   グレゴリー・デ・パルマ
を含む数人のギャングスターと共に、シナトラの公演後に撮影され確認されている。
 1977年2月11日から5月16日の間に、ブルックリアーはロサンゼルス地区で別の「一味」を率いていたフラティアーノを呼び出したうえ「ジミー、お前は(ボンペンシエロ)みたいに口が悪いな…」と罵倒して非難した。
 1977年、ブルックリアーはフラティアーノがボス代理などではなく、事実を偽っていると主張し始めた。
 ジミー・フラティアーノは、ブルックリアーがマフィアの評判を落とすことで、殺害の布石を打とうとしているのではないかと疑い始めた。
 その後、トニー・デルサンターの通夜で、フラティアーノはクリーブランド・ファミリーのボス
   ジェームズ・リカヴォリ
がFBIに女性事務員を潜入させ、ファミリーに文書を渡していたことを知った。
 リカヴォリはまた、ファミリーが2人の
   情報提供者のコード番号
を握っており、FBI事務員が彼らの名前を入手しようとしていることもフラティアーノに伝えた。
 1977年10月6日、FBIの秘密情報提供者であり
の宿敵でもあったアイルランド系マフィアのボス、
   ダニー・グリーン
が、オハイオ州郊外リンドハーストにある歯科医院の外で
   自動車爆弾テロ
に巻き込まれ殺害された。
 その後まもなく、目撃者の詳細なスケッチに基づき、クリーブランド・マフィア・ファミリーロサンゼルス・マフィア・ファミリーの兵士
   レイ・フェリット
が殺人容疑で逮捕された。
 警察がフェリットの自宅を捜索した際に発見された証拠は、フェリットが殺人に関与していたことをさらに裏付けるものとなった。
 フェリットが逮捕されたことを知ると、、クリーブランド・マフィアのボス、ジェームズ・リカヴォリは直ちに
   フェリットの暗殺
を命じた。
 このことを知らされたフェリットは協力証人となった。
 1978年の裁判で共犯者に対し証言を行った。
 カイヤホガ郡地方検事局は、
   リカヴォリ
   アンジェロ・ロナルド
   フェリット
   ロナルド・カラビア
そしてクリーブランド一家の他の15名を、
   ダニー・グリーン殺害の共謀罪
で起訴した。
 フェリットはまた、フラティアーノが
   グリーン殺害計画
に関与したと捜査機関に明かし、フラティアーノは爆破事件関連の罪で起訴された。
 同様に自身の身の危険を感じたフラティアーノも、マフィアに対する政府の証人となることに同意した。
 証言の見返りとして、彼は
・フランク・ニッコリ(Frank Niccoli 1949年)
 ニッコリは当時、マフィアのボス
のボディガード兼取り立て屋だった。
 ジャック・ドラグナの命令を受け、フラティアーノはニッコリにコーエンを離れドラグナのマフィアに加わるよう説得しようとした。
 これに対して、ニッコリは拒否した。
 数分後、フラティアーノとジョセフ・ディッポリトはニッコリを絞殺した。
・フランク・ボルジア(Frank Borgia 1951年)
 フラティアーノによると、ボルジアはロサンゼルスのワイン醸造家であった。
 また、かつては密造酒業者で、ロサンゼルスの犯罪組織の一員だった。
 ボルジアはガスパレ・マトランガとドラグナによる恐喝に抵抗していた。
 ボンペンシエロとフラティアーノは、ボルジアの友人に彼をある家に連れて行かせた。
 そして、フラティアーノとボンペンシエロはロープでボルジアを絞殺し、他のマフィアの仲間たちによって埋められた。
・アンソニー・ブランカト(Anthony Brancato 1951年8月6日)
 ブランカトとその犯罪仲間の
   トニー・トロンビーノ
は、ロサンゼルス・ファミリーの許可を得ずにロサンゼルスとラスベガスで強盗を働いていた2人の若いギャングスターであった。
 ジャック・ドラグナはジミー・フラティアーノに、2人を「切り刻む」必要があると告げ、「何か仕掛けろ」と指示した。
 数日後、フラティアーノは2人のトニーを罠にかけ、車の中で殺害した。
・アンソニー・トロンビーノ(Anthony Trombino  1951年8月6日)
・ルイス・ストラウス(Louis Strauss 1953年)
 ルイ(ロシアン・ルイ)・ストラウスは、レイク・タホの元カジノ経営者で、マフィアと繋がりがあった。
 彼はドラグナの友人であるラスベガスのカジノ経営者
   ベニー・ビニオン
から金をゆすろうとしていた。
 フラティアーノはラスベガスでストラウスに接近し、親しくなった。
 彼にロサンゼルスに1万ドルの現金があると貸しており、脅して回収するから手伝ってくれと明かしストラウスを罠にかけた。
 フラティアーノと共にロサンゼルスへ車で向かったストラウスは、ある家に入り込み、ボンペンシエロとフラティアーノにロープで奇襲され、絞殺された。
という5件を自白し、殺人罪で有罪を認め、懲役5年の判決を受け、そのうち21ヶ月間服役した。
 1980年、彼の証言により、マフィアの幹部と目される5人が組織犯罪で有罪判決を受けた。
 その後、フラティアーノは
   連邦証人保護プログラム(Witness Protection Program)
に登録された。
 フラティアーノは、マフィアが彼の命を狙って10万ドルの契約を結んだと主張した。
 1987年、オヴィッド・デマリスとの共著『最後のマフィア』(The Last Mafioso)(1980年)、マイケル・J・ザッカーマンとの共著『復讐は我にあり』(Vengeance is Mine)(1987年)という2冊の伝記を出版した。
 その後、司法省が10年間でフラティアーノ一家に約100万ドルを費やしたと指摘したことを受け、フラティアーノは証人保護プログラムから除名された。
 1993年6月29日、フラティアーノはアメリカの非公開都市にある自宅で老衰のため死亡した。
 この都市はオクラホマシティとみられている。
 妻のジーンによると、彼はアルツハイマー病と度重なる脳卒中を患っていたと明かしている。
 マーティン・スコセッシ監督の犯罪映画『アイリッシュマン』(2019年)では、ジョセフ・リコベーネがフラティアーノを演じた。
    
   
posted by まねきねこ at 19:20 | 愛知 | Comment(0) | TrackBack(0) | バイオグラフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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