サント・ヴォルペ(Santo Volpe)
1879年10月20日- 1958年12月2日
米国ペンシルベニア州北東部のピッツトン一帯のマフィアファミリー
通称ピッツトン・ファミリー
を率いたシチリア島出身のマフィアのボスである。
後期はペンシルベニア州の石炭政策アドバイザー、政治フィクサーとして活動した。
ニックネームは、夜の帝王(キング・オブ・ザ・ナイト)という。
1879年、シチリア島モンテドーロ生まれ。
モンテドーロ含むシチリアのカルタニセッタ地方は硫黄鉱山で知られ、1890年代より同地の鉱山労働者が家族ぐるみでアメリカへ移住した。
イタリア移民の多くがペンシルベニア州北東部の炭鉱地帯ワイオミング・バレー(Wyoming Valley)、ピッツトン、スクラントン、キングストン、ウィルクスバリなどに住み着いて石炭採掘に従事した。
1910年までにモンテドーロ出身の移民家族は100を超えた。
ブファリーノ(Bufalino), シャンドラ(Sciandra)、ラトーレ(LaTorre)、モンレアル(Morreale)、ヴォルペ (Volpe), アライモ(Alaimo)等の姓が目立った。
1900年代、これらの鉱山移民の中からマフィアサークルが形成された。
当時、イタリア移民を食い物にしたブラックハンド犯罪(恐喝や強請)に関わり金を稼ぐものが増えた。
ヴォルペは1906年に渡米し、先に渡米していた親戚の
ステファノ・ラトーレ
の資金援助を得てピッツトンに定住した。
モンテドーロにいる頃からマフィア活動をしていたとみられる。
そのため、渡米後にマフィアのリーダー的存在になった。
石炭会社の炭鉱夫として働く一方で、同郷仲間とブラックハンド稼業をしていた。
1907年2月、炭鉱労働者への恐喝・強請で
ヴォルペ
ラッセル・ブファリーノの叔父
カロゲロ・ブファリーノ
ら総勢12人が有罪となり、郡刑務所に1年服役した。
1920年までに小さな炭鉱会社を立ち上げ、生産オペレーターから採掘サービスなどを請け負う炭鉱コントラクターになった。
過去働いていた会社の採掘現場から抜き出し盗んだ鉱石を転売するなどして会社を軌道に乗せた。
ラトーレやブファリーノは同社のパートナーで、同郷仲間を雇い入れた。
ヴォルペの関心は労働者や組合幹部と親しくして採掘費を下げ利益を最大化することにあった。
そのため、組合の規律にルーズで進んでキックバックをしてくれる都合のいい労働者のみ雇った。
1920年代、石炭産業組合UMW(United Mine Workers)の利権を巡って政敵と覇権争いを展開した。
スト破りから、爆弾投下、暗殺まで数々の暴力的な措置に関わった。
1920年代後半、組合の指導権を巡る争いが激化し、血の報復合戦と化した。
1928年1月、対立陣営の有力活動家が路上で5発の銃弾を浴びて殺された。
これを皮切りに、ヴォルペがバックアップした組合オーガナイザー、続いて対立候補も凶弾に倒れるなど、2か月の間に組合有力者5人が次々に殺された。
北ニューヨークのエンディコットを拠点とし、バッファローやピッツトンのマフィアと繋がりの深かった
が1930年前後のピッツトンの殺傷事件に関わったと信じられている。
酒の密輸ビジネスは1920年代を通じてピッツトンエリアにも波及し、大量の密造酒が街に溢れた。
ヴォルペは密輸ビジネスに関わったが、炭鉱や組合ビジネスの「本業」を上回ることはなかった。
カルタニセッタの移民はニューヨーク州バッファローにも定着し、マフィアの親族も多く住んでいた。
ただ、1920年代、炭鉱需要とアパレル産業の伸長でバッファローからワイオミング・バレーへ移民が大量に流入した。
マフィア組織(ファミリー)のオペレーションはヴォルペ、ラトーレの2人が中心となって活動し、ブファリーノは幹部でありながら個人的な金稼ぎに執着して組織運営には消極的だった。
1929年、ニューヨークのウォール街を起点に大恐慌が発生した。
ラトーレが致命的な金融損失を蒙ったことがきっかけで、3人の炭鉱会社は解散した。
前年に起こった組合リーダー暗殺事件で、ファミリー執行部は外様のギャングに暗殺を依頼した。
ただ、その殺人報酬の負担を巡って、ラトーレが応分の支払を拒否し、2人と言い争いになった。
これ以後ラトーレはマフィアファミリーには残ったが組織の運営から退いた。
1932年8月、ピッツバーグのカラブリア系ギャングボス
ジョン・バッザーノ
への殺害に関与した疑いで部下である
アンジェロ・ポリッツィ
と共に警察に逮捕されたが、程なく放免された。
1930年代、ヴォルペもファミリー運営より自分の名を冠した石炭会社を所有するなど個人のビジネスを優先するようになった。
そのため、同郷で後進の
ジョン(ジョバンニ)・シャンドラ
にファミリーの運営を託すに至った。
シャンドラは1908年家族と共に渡米後バッファローに住んでいたが、1922年結婚と同時にピッツトンに移住し、組織の仕事をしていた。
1940年代、ヴォルペは「暗黒街の顔役」から「表の顔」に変貌した。
石炭協会や州の石炭政策に積極的に関わるようになった。
州知事により州議会の
石炭復興委員会の理事職
を与えられ、炭鉱オペレーター代表3人のうちの1人として、斜陽化する石炭産業の復興ミッションに携わった。
第二次世界大戦中は石炭操業交渉委員会の理事を交代で務めた。
戦時中の石炭労働者のストライキで鉄鋼生産や鉄道輸送が減った。
このため、時の
は強権を使って合衆国東部の全石炭鉱山を接収し、「職を持たない炭鉱夫は戦時徴兵する」と脅かして、職場復帰を命じた。
石炭産業組合UMWは賃上げを求めてストを続けた。
しかし、戦時特別法により賃上げが禁じられた。
1930年代から第二次世界大戦を通じて、石油や天然ガスなど安価な燃料が社会に普及し、石炭産業は衰退の一途を辿った。
ピッツトン一帯には1900年代に既にシチリアルーツのマフィアファミリーが存在し
「メン・オブ・モンテドーロ」(モンテドーロの男たち)
と呼ばれるようになった。
ヴォルペがファミリーのボスになった時期は、渡米後間もない頃と考えられている。
組織のオペレーションはヴォルペやラトーレが中心となり活動していった。
ただ、、初期メンバーの
カロゲロ・ブファリーノ
ヴォルペ
らはそれぞれ別の事情で組織から次第に距離をおいていった。
ヴォルペから
シャンドラ
へのボス交代が1933年とする説と、ラトーレ息子の証言などに基づき1940年頃とする説がある。
なお、ボスの地位はシャンドラからジョゼフ・バーバラを経て現ブファリーノ・ファミリーを率いる
に継がれた。
1933年2月14日、セントバレンタインデーの日に小物密輸ギャングの
サミュエル・ウィチナー
がヴォルペの密輸酒を強奪した。
エンディコットでの
の調停会議に呼ばれたウィチナーは、バーバラを調停者に、同席したヴォルペ本人や部下
アンジェロ・ポリッツィ
と密輸ベンチャーの計画について話し合った。
ウィチナーは、また翌日の晩に誰にも行先を言わずに来るように言われた。
2月16日夜、スクラントンの路上駐車した車のトランクから首と膝にロープが巻きつけられたウィチナーの遺体で見つかった。
ロープをほどこうとすると首が絞めつけられる仕掛けで、縊死したとみられた。
警察はウィチナーの妻への事情聴取で会議の件を知った。
捜査の結果バーバラとポリッツィを逮捕したが、3人の男が遺体発見現場のストリートからセダンに乗って走り去るのを見たという証言者はその2人が犯人と特定できず、その後、2人は放免された。
1943年5月、打開策を討議するため主要石炭企業代表が大統領官邸に呼ばれたが、ヴォルペは代表の1人として出席した。
1946年6月24日、マンハッタンのホテルディプロマットで行われた、
のアメリカ復帰祝いパーティに、全米からマフィアの大物が駆けつけた。
このパーティではヴォルペがホスト役を務め、ジェノヴェーゼをテーブルに案内した。
ヴォルペが石炭産業の
政治フィクサー
に転じた後もマフィア界に隠然たる影響力を持っていた。
全米のマフィアネットワークの存在が知れ渡った
全米のマフィアネットワークの存在が知れ渡った
アパラチン会議の発覚
から数か月後の1958年初め、ピッツトンのマフィアに関する最初の記事
「この地のマフィアはペンシルベニアと北ニューヨークに勢力を保ち、1900年代
シャンドラ
ヴォルペ
ブファリーノ
ら複数の家族によって組織された。
ブランデー・パッチ(Brandy Patch、ピッツトン南東部の炭鉱村)に定住した
モンテドーロ移民
の第一世代だ。
炭鉱オペレーターとして影響力を広げ富裕化した。
炭鉱で働きながら給与単価を自分らで操った」
がまとまめられ全米に配信された。
1950年代、ヴォルペはある鉱山会社の副社長に就任した。
州知事に当選した民主党系の
ジョン・ファイン
は、この鉱山会社の社長
ローレンス・ビスコンティーニ
やヴォルペと謀って人件費を水増しして脱税する仕掛けを導入した。
キックバックを得るなど汚職の温床となった。
ヴォルペは長年病気を患い、1958年12月2日、ウエスト・ピッツトンの自宅で死去(享年79歳)した。
彼の葬式には州の政界要人や石炭業界の大物が集まった。地元のデニソン墓地に埋葬された。
1959年1月にピッツトンで起きた大規模な炭鉱事故により、ワイオミング・バレーの炭鉱産業は、奇しくもヴォルペの死と共に終焉を迎えた。


