アーサー・グレイ(Arthur Gray)
1713年頃 - 1748年
1735年から1750年までイングランド南海岸沿いのケント州を拠点に活動した
ホークハースト・ギャング
のリーダーのとして活動していた。
紳士的で「お調子者」と評されたカリスマ的なリーダーであったと伝わっている。
自身は密輸に関与したことを否定しましたが、ホークハーストの活動の首謀者として活動していた。
アーサー・グレイは1713年頃、
ウィリアム・グレイ氏
とその妻
メアリー・グレイ
の13人の子供のうち11番目として生まれた。
彼の兄弟の一人、ウィリアム・グレイもギャングに関わっていた。
グレイはメイドストーン近郊のマーデンで肉屋の徒弟として7年間働いた。
その後ホークハーストに戻り、そこで約3年間肉屋として働き続けた。
その後、密輸業者と過ごす時間が増えていったと自ら認めているが、自身は密輸を行っていないと否定している。
ただ、彼がホークハースト・ギャングのリーダーの一人になったことは知られている。
グレイはホークハースト郊外の大きな屋敷に住んでいたと言われており、ギャングの名前の由来となっている。
グレイはオールド・ベイリーで裁判にかけられ、有罪判決を受けた。
1748年5月11日、ロンドンのタイバーンで処刑された。
その後、ハックニーのスタンフォード・ヒルで絞首台にかけられた。
ただ、処刑後に死体を絞首台にかけることは密輸業者にとっては異例のことだった。
当時、殺人などの凶悪犯罪を犯した犯罪者に対してのみ行われる刑罰だった。
グレイに対するこの処刑は、当局が南海岸の密輸業者を処罰し、他の密輸業者の密輸を抑止したいという見せしめで恫喝する側面を持っていた。
グレイの遺体は、以前にも使われていた二重の絞首台に、殺人犯の遺体の隣に吊るされた。
グレイは1752年に最終的に解体されるまで、この絞首台に4年間晒された。
グレイの処刑の翌年、ギャング団の新しいリーダーである
フェアオール
もタイバーンで絞首刑に処された。


