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2026年02月08日

マンネルヘイム(Mannerheim)フィンランドの軍人、大統領であり、ソ連の軍事侵攻等をかわした。

カール・グスタフ・“クスター”・エミール・マンネルヘイム(Carl Gustaf "Guster" Emil Mannerheim)
   1867年6月4日 - 1951年1月27日
 フィンランドの軍人、大統領。
 フィンランド軍の最高司令官として
   フィンランド内戦
   冬戦争
   継続戦争
   ラップランド戦争
を指揮した。
 士官候補生としてロシア帝国陸軍に入隊し、
   日露戦争
などで実績を積み将軍となった。
 第一次世界大戦中にロシア帝国の崩壊を機にフィンランドが独立すると、その後のイデオロギー対立の混乱から起こった
   フィンランド内戦
で、白衛軍の司令官として闘った。
 独立早期、フィンランドが君主制を目指した際には摂政として連合国に独立承認を求めた。
 その後、一時は公職を離れたが、第二次大戦突入前の情勢不安の中で先の実績を買われて
   国防委員長
となり、軍の装備の更新などに力を入れた。
 その後のソ連との戦争である
   冬戦争
   継続戦争
においては最高指揮官としてフィンランドの防衛を行った。
 継続戦争の戦況悪化と
   ナチス・ドイツとの同盟の責任
から大統領を辞した
   リスト・リュティ
を継いで、1944年から1946年にかけて第6代大統領となり、
   ラップランド戦争
でナチス・ドイツと戦い、ソ連との難しい講和を成し遂げ、独立を保った。
 2000年のフィンランド国内の調査においてフィンランドで最も偉大な人物として選ばれている。
 リベラルで急進的な思想を持つ劇作家である一方、製紙会社を起業していた
   カール・ロベルト・マンネルヘイム(Carl Robert Mannerheim)
を父に、有名メーカー・フィスカースの経営者
   ヨハン・ヤコブ・フォン・ユーリン(Johan Jacob von Julin)
の娘
   ヘドウィグ・シャルロッタ・ヘレネ・フォン・ユーリン(Hedvig Charlotta Helena von Julin)
を母にし、第3子としてフィンランド南西部にあるトゥルクのアスカイネン村のロウヒサーリで生まれた。
 母方の祖先はスウェーデンのセーデルマンランド地方の出身とされる。
 マンネルヘイム家はドイツ人の実務家でハンブルクの工場の経営者
   ハインリヒ・マールハイン(Heinrich Marhein, 1618年 – 1667年)
が元とされている。
 マールハインはスウェーデンのイェヴレへ移住し
   ヘンリーク・アウグスティン・マールヘイン(Henrik Augustin Marhein)
と改名した。
 マールヘイン家の出身は当時はオランダとされていたが、現代ではそれは覆されている。
 マンネルヘイムの父方の祖先にはスコットランド人がいたとされ、その先祖とされる
   ジョージ・ライト(George Wright)
は17世紀にダンディーからスウェーデンに移住してフィンランド貴族
   フォン・ライト一族
の創始者となった。
 ヘンリーク・アウグスティンの息子の
   アウグスティン・マールヘイン
は1693年に苗字の響きの良さをあげるために苗字を
   マンネルヘイム
と変えた。
 アウグスティンの息子
   ヨハン・アウグスティン・マンネルヘイム
は大佐で工場監督となり、兄弟とともに1768年に男爵の地位まで上がった。
 マンネルヘイム家がフィンランドに移ったのは18世紀のことである。
 カール・グスタフ・マンネルヘイムの曽祖父である
   カール・エリック・マンネルヘイム(Carl Erik Mannerheim)
はスウェーデンからフィンランドへ移住した。
 ロシア帝国に半分自治を認められていた
   フィンランド大公国
で市民軍の将校になり、議会議員になった。
 1825年にエリックは更に伯爵の称号を得た。
 エリックの息子の
   カール・グスタフ・マンネルヘイム
は昆虫学者として有名になり、
   ヴィープリ王宮
で首相を務めた。
 彼の孫がカール・グスタフ・エミール・マンネルヘイムである。
 マンネルヘイムはスウェーデン語で育ったが7歳になるとヘルシンキの学校へ進み、フィンランド語で教育を受けた。
 父は金融取引に楽観的過ぎる障害に苦しんだと伝わっている。
 1870年代から会社の経営が悪化すると
   賭け事
にのめり込んでしまい経済状況をさらに悪化させて1880年に破産した。
 負債の支払いの為にロウヒサーリの荘園を含む土地や美術品を手放した。
 妻を置いて愛人とパリへ逃走した。
 母のヘレネはこの破綻と夫に捨て去られたショックで精神を弱めてしまい1881年に心臓発作で死去した。
 母の死によってマンネルヘイム家の7人の子供たちは親類の手によって別れて育てられた。
 母方の叔父アルベルト・フォン・ユーリンと叔母ルーイスが法定後見人となりこの夫妻の住んでいたサールヴィクに居を移した。
 叔父アルベルトの家の家計が悪化していたことと、
   学校での素行の問題
からアルベルトは自己規律と専門知識を習得させるためにマンネルヘイムを軍に入れる決心をした。
 13歳の時にハミナの学校に移り、1882年にフィンランド幼年学校へ入学した。
 マンネルヘイムは母語であるスウェーデン語のほかに、フィンランド語、ロシア語、フランス語、ドイツ語、英語を覚えた。
 1887年から1917年のロシア軍での兵役の中で、子供時代に覚えたフィンランド語の多くを忘れてしまい、後年再びフィンランド語を学習しなければならなかったと伝わっている。
 マンネルヘイムは困窮した家計状態のため会計と経済を学んでいた。
 どんな小さな支出も叔父に確認されて屈辱を感じた。
 また、叔父や親戚によって
   質素さと善行
についての文章を読むことを強要されていた。
 ただ、素行は改まらず、マンネルヘイムは学生生活とハミナの狭い社会でのつながりを嫌った。
 1886年には無許可の外出が発覚して幼年学校を退学させられた。
 フィンランド軍での栄達が望めなくなり、出世のための唯一の選択肢は
   ロシア帝国陸軍
の軍人となった。
 ロシア軍ではフィンランド出身でも認められれば将軍になることが可能であった。
 マンネルヘイムはこの考え方に反感は覚えていなかった。
 フィンランド幼年学校在籍中に、サンクトペテルブルクの
   ロシア帝国騎士見習学校
の入学を試みたが、
   学校での問題行動の多さ
から阻まれることとなった。
 ウクライナのハリコフに住み、ロシア風の教育を受けていた叔父の義兄弟
   エドワルド・ベルゲンヘイム(Edvard Bergenheim)
によってヘルシンキ私立講堂へ出席するようになった。
 1887年6月、高校卒業資格試験に合格した。
 マンネルヘイムは近衛騎兵連隊を目指すため
   ニコラエフスク騎兵見習学校
に入ることを望んでいたものの、
   必要な費用の負担の問題
があった。
 そこで伯爵夫人である代母の
   アルフヒルト・スキャロン・デ・コリニー(Alfhild Scalon de Coligny)
に、ニコラエフスク騎兵見習学校入学の助力を求める手紙を書いた。
 伯爵夫人は1887年の夏にマンネルヘイムを夫の実家に招いた。
 ロシアにいる間、ハルキウ州のチュグエフ軍事キャンプで過ごしたことで、軍の将校になる決意を強くしていった。
 1887年7月、ニコラエフ騎兵学校の入学試験に参加できるという報を受け取った。
 1887年春に入学試験に合格し、1887年9月16日に兵士の誓いを立てた。
 1889年に次席の好成績で卒業し、騎兵少尉の位に進級した。
 卒業後はドイツ国境線近くのカリシュの
   第15アレクサンドリスキー竜騎兵隊
に配属された。
 カリシュで2年勤務した後、1891年1月にサンクトペテルブルクで
   マリア・フョードロヴナ皇后
の近衛騎兵として異動した。
 マンネルヘイムは187cmと長身であり、そのことが宮廷行事の際に有利に働いた。
 1896年にはニコライ2世の戴冠式において目立つ場所の警護を任されることになった。
 マンネルヘイムはサンクトペテルブルクの社交界に受け入れられたが、支出が多くなり経済的な負荷がかかった。
 1892年、伯爵夫人の仲介でマンネルヘイムは
   アナスタシア・アラフォヴァ(Анастасия Арапова)
と結婚した。
 アナスタシアはロシア軍の
   ニコライ・アラポフ少将
の遺児で、農園を所有した裕福な貴族であり、結婚により家計の問題は無くなった。
 1893年に長女アナスタシエ、1895年に次女ソフィーが生まれ、3人目は男児であったが死産であった。
 娘のアナスタシエは後にカトリックに改宗した。
 ロンドンでカルメル会の修道女となった。
 マンネルヘイムとアナスタシアの結婚生活は1902年には別居という形で非公式に終わりを迎えた。
 1919年に正式に民事離婚した。
 1904年まで近衛騎兵を勤めたが、1897年から1903年にかけては王室厩舎に出向していた。
 王室厩舎は馬に関する帝国全体の管理を行う部門であり、マンネルヘイムはより専門的な馬の知識を習得した。
 他国から優れた種馬や特別な軍馬を調達した。
 1903年に展覧騎兵中隊に任じられ、騎兵連隊の装甲訓練委員の一員となった。
 ただ、妻と別れてから経済的状況は再び悪化し、ギャンブルの負けによってさらに加速した。
 マンネルヘイムは環境を変えることで解決を図り、
   日露戦争
が勃発すると前線勤務を志願して受理された]。
 1904年の10月、満州の独立ザカスピ・コサック旅団長
   パーヴェル・ミシチェンコ
の指揮下の第52ネージン竜騎兵連隊へ中佐昇進と共に配属された。
 マンネルヘイムは
   奉天会戦
において騎兵2個隊と軽装歩兵を指揮してロシア軍右翼で警戒と偵察を行った。
 乃木希典の第3軍の行動を捉えるなどの功績を挙げ、終戦後の12月に大佐へと昇進した。
 次の任務として、内モンゴルの長期間の偵察を任され、計画と準備を行ったが実行されなかった。
 ロシア第一革命のストライキでシベリア鉄道の輸送が遅れた。
 1906年1月にサンクトペテルブルクに戻ると
   私的な長期休暇
が認められ、親類の住むフィンランドやスウェーデンを訪れた。
 その間にマンネルヘイムは男爵分家の代表として
   フィンランド議会
に参加した。
 マンネルヘイムは1906年3月、サンクトペテルブルクの
   ロシア軍参謀本部
に呼び出されフランスの
   ポール・ペリオ
が行う、中央アジアからトルキスタン、チベットを経由して北京までを横断する
   考古学調査隊
へ参加することになった。
 表向きのペリオの目的は研究だが、マンネルヘイムの役目は
   清の地域事情と軍事情勢
を調査する諜報活動であった。
 華北はロシア、清、そして時にイギリスの間の勢力争いが度々起きており、潜在的な危機を持った一帯だった。
 なお、マンネルヘイム自身も、異国の文化をフィンランドに紹介できることに魅力を感じ、参加を決めた。
 出発前には、後に現地で実際に会う事になる
   オーレル・スタイン
が著述した清への遠征報告書などを読んでいる。
 サンクトペテルブルクを列車で出立し、タシュケントで情報を収集した。
 ウズベキスタンのアンディジャンで馬と人夫を手配した。
 現在のキルギス南部に位置する中央アジア最古級の都市
   オシ(Osh)
でペリオの調査隊と合流した。
 ペリオ側はロシアの物資・資金の援助を期待しており、それが叶わないことを知るとマンネルヘイムを調査隊の一員ではなく単なる同行者として扱った。
 一行は8月11日に出発し、8月24日にカシュガルに到着した。
 1か月間滞在した後ペリオの調査隊と別れ、10月にカシュガルを出て南東方向の
   ヤルカンド、ホータン
を巡り12月末にカシュガルへ戻った。
 1月27日に再出発し、今度は北東へ向かい天山山脈の地形を調査しながらグルジャを経由して7月24日に新疆省の中心地であるウルムチへ到着した。
 8月にウルムチから東へ進み、トルファン、バルクル、ハミ、敦煌を訪れた。
 1908年1月29日に蘭州へ入り、4月28日に西安、5月30日に開封と清の西部の要所となる都市を調べながら東へ進んだ。
 開封から列車で山西省へ向かった。
 五台山の寺院でイギリスによってチベットを追われた
   ダライ・ラマ13世
と謁見した。
 ダライ・ラマはロシアの援助を望んでいた。
 マンネルヘイムはロシア皇帝への贈物として白色の絹地を受け取った。
 マンネルヘイムは自身のピストルを献上品として捧げた後、馬車と鉄道で北へ向かい内モンゴルの首都フフホトではモンゴル人の牧草地に植民し、開拓する中国人を見た。
 1908年7月25日にマンネルヘイムは北京へ辿り着いた。
 総行程は14,000キロメートルにおよび、そのうち10,000キロメートルは馬で移動した。
 この間自分の他には数人の地元民を荷物運搬等のクーリー(苦力)として雇っていただけで、ほとんど単独行に近い状態であった。
 この旅を通じて、マンネルヘイムは1,200点の蒐集品、1,370枚の写真、2,000点の古文書やその一部を集めた。
 この中には学術的に価値の高いものも含まれた。
 1911年に72ページの論文を発表した。
 同時代のスウェーデンの地理学者・探検家である
   スヴェン・ヘディン
はマンネルヘイムの調査を評価した。
 北京に6週間滞在した後、天津から長崎に向かい、日本で8日間を過ごした。
 その後、舞鶴からウラジオストクを経由して10月8日にサンクトペテルブルクへ戻った。
 この諜報活動の成果は報告書としてまとめられ、清の遅い近代化、教育、軍の改革、異民族地方の漢人の殖民地化、工業、産業、鉄道建設、日本の影響、アヘンの喫煙などが詳細に記録されていた。
 そのほかに非公開で、新疆省への兵力展開の可能性などについて報告した。
 この旅を終えた1909年、マンネルヘイムは
   ミンスク・マゾヴィエツキ
の第13ウラジミール・ウーラン連隊の指揮官となった。
 翌年に少将へ格上げされワルシャワで皇帝を護衛する近衛長槍騎兵連隊の指揮官を任された。
 1912年にニコライ2世から側近の将校のみに与えられる
   ア・ラ・スーツ
の称号をうけた。
 1914年には近衛騎兵旅団の司令官となり、元々指揮していた騎兵連隊の他に騎兵連隊1つと騎砲兵中隊1つを指揮することになった。
 1914年7月28日、
   オーストリア=ハンガリー帝国
がセルビアへ宣戦を布告し、第一次世界大戦が勃発した。
 セルビア独立を支持するロシアは動員を開始した。
 マンネルヘイムの近衛騎兵旅団はロシア第4軍に配備されオーストリア=ハンガリーに対する緒戦と、続く10月の戦いで名を上げた。
 12月に聖ゲオルグ十字章4級を受け「今、心安らかに死ねる」と語ったと伝わっている。
 1915年3月、マンネルヘイムは第12騎兵師団の司令官となり、東ガリツィアへ移動した。
 この方面ではプロシア陸軍の敵将
   アウグスト・フォン・マッケンゼン
の攻撃によってロシア軍は徐々に後退していた。
 なお、司令官に
   アレクセイ・ブルシーロフ
が着任し、1916年6月に「ブルシーロフ攻勢」が開始された。
 この攻勢でロシア軍が成功を収めると、様子見をしていたルーマニアが8月に連合国側として参戦した。
 マンネルヘイムの第12騎兵師団はルーマニアを支援するためカルパティア山脈へ移った。
 1916年冬に中央同盟が攻勢を行い、12月にブカレストが陥落すると、大部分を失ったルーマニア軍はモルダヴィアへ後退した。
 マンネルヘイムを含むロシア軍はシレト川で防衛にまわり、大きな戦闘は発生しなかった。
 後にドイツ元帥として有名になる
   エルヴィン・ロンメル
が率いるヴュルテンベルク山岳猟兵大隊が第12騎兵師団の守備する山岳に対して攻撃を行っている。
 マンネルヘイムはこれらの戦いによって前線指揮官から司令官へと変わり、有利な地形を活かした拠点防衛を学んだ。
 1917年1月に第12騎兵師団が後備に回されると、マンネルヘイムは休暇をとった。
 ペトログラードでニコライ2世に謁見した後にヘルシンキで2週間を過ごした。
 3月9日にペトログラードに戻り、
   2月革命の蜂起
に遭遇すると、義弟の
   ミカエル・グリッペンベルク
の助力で前線のモルダヴィアへ戻った。
 6月に中将へ昇進し、3個の師団で構成された第6騎兵軍団の指揮官となった。
 2月革命後の臨時政府は戦争を継続した。
 軍事大臣となった社会革命党右派(トルドヴィキ派)の指導者
   アレクサンドル・フョードロヴィチ・ケレンスキー
による1917年6月(新暦7月)にルーマニアを援護するため行われた
   ケレンスキー攻勢
が失敗すると支持は低下した。
 8月に最高総司令官の
   ラーヴル・コルニーロフ
が臨時政府からソビエトの排除を求めて反乱を起こしたが失敗した。
 9月にマンネルヘイムが膝の古傷の療養を理由としてオデッサで病気休暇をとっている間に、謀総長
   ニコライ・ドゥホーニン
により思想の不一致から予備役へ入れられた。
 これはフィンランドで独立の気運が高まると同時に、左派勢力によってフィンランドが社会主義化されることを危惧する
  マンネルヘイム
を考えた対処であった。
 この年の12月3日にオデッサを出発し、12月18日にヘルシンキへ戻っている。
 1917年11月のフィンランドの選挙で保守系の
   ペール・スヴィンヒュー
が首相になり、ボリシェヴィキの指導を受けた社会民主党による革命は阻止された。
 12月6日、フィンランド独立宣言が採択され、フィンランドはロシアから独立した。
 フィンランドの軍隊は1905年に
   ニコライ2世
の勅令により廃止されており、スヴィンヒューは12月に帰国したマンネルヘイムに軍隊の創設を委託した。
 ロシアは十月革命によってボリシェヴィキによる新政府が成立した。
 第一次世界大戦から離脱するため中央同盟と休戦交渉を行っていた。
 対ドイツのためのロシア軍10万がフィンランドに駐留した。
 フィンランドの社会主義革命を目指す
   赤衛軍
の武装を支援していた。
 ロシアが独立宣言を承認したあとも4万以上の兵力がフィンランドに残っていた。
 スヴィンヒューを支持する白衛軍は赤衛軍と対立し、武力衝突が発生した。
 白衛軍は1918年1月13日に国軍として認められ、マンネルヘイムの提案で政府は首都機能を赤衛軍の勢力が強いヘルシンキから保守勢力の強い北部のヴァーサへ移すことを決めた。
 1月27日、ヘルシンキでボリシェビキの指示を受けた赤衛軍によるクーデターが発生し、フィンランド内戦が始まった。
 白衛軍は兵数の不足を補うため2月に徴兵制を施行し、兵士の動員が行われた。
 白衛軍はマンネルヘイムを始めとするロシアから帰国した
   将校
や第一次世界大戦中にドイツで軍事訓練を受けた
   フィンランド人義勇兵部隊(イェーガー運動)
ならびに、スウェーデンからの
   義勇兵
を含めて約7万の兵力で構成された。
 赤衛軍は緒戦においてタンペレ、ヘルシンキ、ヴィープリなど重要都市を押さえたことで、工業力に富んでいた。
 駐留ロシア軍から訓練を受け、武装を供給された赤衛軍は3月上旬まで軍事攻勢を行った。
 しかし、白衛軍は徐々に拠点防御で勝利するようになった。
 ロシアは3月3日に
   ブレスト=リトフスク条約
に調印してドイツなどと停戦した。
しかし、この条約に含まれていたフィンランドからの撤退は怠慢ですぐには実行しなかった。
 フィンランド政府はドイツに援軍を求めた。
 ただ、マンネルヘイムは大国の力に依存して戦うことの危険性を説き、反対した。
 マンネルヘイムは、ドイツ軍は赤衛軍とは戦わず他国の軍を対象とすることと、指揮権をマンネルヘイムに委ねる条件を政府に認めさせた。
 政府はマンネルヘイムを
   騎兵大将(Ratsuväenkenraali)
へと昇進させ、序列を示した。
 ドイツ軍の到着前の3月上旬から白衛軍はタンペレを目標に
   反抗作戦
を行った4月3日に陥落させた。
 同日、リュディガー・フォン・デア・ゴルツが率いるドイツ軍約1万が海上からヘルシンキの西にあるハンコ岬とヘルシンキの東、ロヴィーサに無血上陸した。
 白衛軍が東国境のヴィープリを攻略し、別働隊で西部のポリを解放する間にドイツ軍はヘルシンキをほぼ無抵抗で落とした。
 内戦は終結し、5月16日に白衛軍はヘルシンキで勝利パレードを行った。
 内戦で勝利を収めると、フィンランド政府は
   親ドイツの勢力
が強まった。
 ただ、マンネルヘイムは連合国側の優勢を認識しており、スカンディナヴィア諸国と協調した武装中立を訴えた。
 しかし、ドイツ軍参謀将校によるフィンランドの軍政への介入をフィンランド政府が承認した。
 このため1918年6月にスウェーデンへ亡命した。
 亡命したマンネルヘイムはストックホルムに駐在する連合国の外交官と会談した。
 マンネルヘイムはフィンランド政府の親独的傾向に反対していること、フィンランドはドイツに頼らずに独立するべきとの方針を表明した。
 フィンランド議会は
   フリードリヒ・カール
をフィンランド王に決めた。
 ただ、西部戦線でドイツ軍の戦況が悪化すると、
   連合国との関係改善
   飢餓回避の食糧輸入
のため、マンネルヘイムにフィンランドを代表してフランスとイギリスに行くことを求めた。
 マンネルヘイムはヘルシンキに戻り摂政のスヴィンヒュー、首相のパーシキヴィと会談した上でロンドン、パリを訪れた。
 フランスはフィンランド国会議員の選挙実施を求めたため、1918年の5月に行うことを約束した。
 イギリスは選挙実施後に独立の承認を決定することとした。
 マンネルヘイムは食糧の輸入許可を成功させ、ノルウェーとスウェーデンから小麦を借りて輸入した。
 交渉中の12月、パリにいたマンネルヘイムはフィンランドに呼び戻されて摂政になった。
 彼をフィンランド王にしようと考えていた君主主義者すらいたという。
 摂政としてマンネルヘイムは、しばしばクスター(カルル・クスター・エミール・マンネルヘイム、kustaa)の文字でサインをした。
 これは彼のクリスチャン・ネームであるグスタフのフィンランド表記である。
 なお、これまで長い間ロシアに仕えてきたマンネルヘイムを疑わしく思うフィンランド人がいたため、フィンランド人であることを強調するための措置であった。
 クリスチャン・ネームのエミールの部分が嫌いでありC.G.マンネルヘイム、または単にマンネルヘイムとして署名した。
 彼の親類や友人には、グスタフと呼ばれていた。
 1918年12月にフリードリヒ・カールは王位を辞退した。
 1919年5月には国会議員選挙が行われ、新しい議会はフィンランドを大統領制の共和国とする決議を7月に採択した。
 その間マンネルヘイムは国内では融和のため革命側に対する恩赦を行った。
 また、国防のために1919年2月に
   新しい徴兵法
を制定し、士官学校を設立した。
 外交においては北欧諸国との協調を目指した。
 ただ、スウェーデンとは
   オーランド諸島の帰属を巡る問題
は解決されず対立が続いた。
 ロシアではロシア内戦が続き白衛軍がボリシェヴィキ政権に抵抗していた。
 マンネルヘイムは自国を含むヨーロッパの安全とロシア自身の為にロシアの共和国化を望んだ。
 白衛軍に応じてロシアへ進軍することを提言した。
 ただ、フィンランド国内でこの考えに同調する者は少なく、議会が反対した上、ロシア側の白衛軍の指導者の中にはフィンランドの独立を認めないものも存在した。
 マンネルヘイムは7月の初代大統領選挙に立候補した。
 マンネルヘイムを支持したのは
   国民連合党
   スウェーデン人民党
のみで、政権を運営していた保守連合は
   カールロ・ユホ・ストールベリ
を候補とした。
 恩赦によって社会主義者の勢力が戻り、5月の選挙で200議席中80議席を獲得した社会民主党もストールベリを支持した。
 マンネルヘイムは大統領選挙で143対50で敗れた。
 当時フィンランドはエストニアに義勇兵を派遣しており、またイギリスからフィンランド軍の
   ペトログラード攻撃
を要請されていた。
 マンネルヘイムはフィンランドの独立が確保されることとフィンランド東部のペツァモ、東カレリア周辺領土のフィンランドへの帰属を条件にこの要請に応えようとしていた。
 東方積極的外交はこのときは認められなかったため、マンネルヘイムはこれを機に公職から身を引いた。
 1919年10月にロシア白衛軍の
   ニコライ・ユデーニチ
はエストニアからペトログラード近郊まで攻め込んだが援護が取られず撤退した。
 マンネルヘイムはユデーニチを支援することをストールベリに求めたものの、実現しなかった。
 ロシア内戦は赤軍の勝利で終わり、1920年にソビエト・ロシアとフィンランドは
   タルトゥ条約
を結び国境が確定した。
 ボリシェヴィキに反対する発言から、マンネルヘイムは中道から左派にかけての多くの政治家から問題人物と見られていた。
 フィンランドの社会主義者はマンネルヘイムを「ブルジョワジー」や「白い将軍」と認識し、ロシア内戦におけるフィンランドの積極策について反感を抱いていた。
 もともと、マンネルヘイムは主義主張に基く現代の政党政治がよい指導者を生み出せるかどうか疑問に思っていた。
 マンネルヘイムの悲観的な認識としては、国益は党利党略のために「民主的な政治家」によって頻繁に犠牲にされていた。
 マンネルヘイムは1925年の大統領選挙に出馬を要請されたが拒否し、慈善活動を行った。
 姉のソフィエが作った戦争被害を受けた子供に対する病院を参考にした
   マンネルヘイム児童福祉連盟
を1920年に設立した。
 1921年にフィンランド赤十字社の会長になり積極的に活動した。
 マンネルヘイムは狩りや旅行を好んだ。
 1927年の旅ではソビエトを避けてロンドンを経由してカルカッタへと向かった。
 陸行でビルマへ向かい、ラングーン、ガントク、シッキムで1か月を費やした。
 さらに自動車と飛行機でバスラ、バグダッド、カイロ、ベニスを経由して帰還した。
 1935年に日本から贈呈刀を贈られている。
 1936年の旅ではアデンを経由してボンベイへ向かった。
 マンネルヘイムはインド滞在中ヨーロッパから来ていた多くの旧友や知人と会った。
 旅行と狩りの間、マドラス、デリー、ネパールを訪ねた。
 ネパールではマンネルヘイムは国王に虎狩りに招かれた。
 そこで測定された中でも最大級の大きさであり、2人の人間を殺したとされる2.23メートルの虎を狩った。
 その毛皮は現在ヘルシンキ、カイヴォプイストの
   マンネルハイム博物館
に飾られている。

 1929年、フィンランドの農民が左翼政党に反対した
   ラプア運動
が広まり、フィンランド共産党が非合法化された。
 マンネルヘイムは当初はラプア運動を認めていたが、事実上の軍事独裁者になって欲しいとの申し立てを拒んだ。
 ラプア運動は
   ストールベリの誘拐
などの暴力手段をとり、マンネルヘイムを含む多数の支持を失った。
 1931年にペール・スヴィンヒューが大統領となり、マンネルヘイムをフィンランド国防委員会の議長に指名した。
 そして戦争になった場合は、マンネルヘイムがフィンランド軍の最高司令官となることが決められた。
 スヴィンヒューのあとを継いだ
   キュオスティ・カッリオ
もまた1937年にこの約束を更新した。
 1933年、スヴィンヒューによってマンネルヘイムは
   陸軍元帥(sotamarsalkka, fältmarskalk)
に昇進した。
 マンネルヘイムはフィンランドの軍需産業を支援し、叶わなかったもののスウェーデンとの軍事同盟を得ようとした。
 フィンランド軍の近代化と軍組織の刷新に取り組み、カレリアの防御線の作成や空軍の導入を実施した。
 1934年に動員の仕組みを改めることで
   常備軍の対応速度
を早め、有事には最大で人口の8.6%にあたる31万5000人を動員する計画が策定された。
 国民に対して防衛力の必要性について理解を深める活動も行った。
 ただ、不況と防衛に対する閣僚との意見の食い違いで予算は不足した。
 防衛予算の増強を求める彼の意見は内閣と様々な点で折り合わず、何度も辞表にサインした。
 1939年8月、ソビエト連邦はドイツとの間に
   モロトフ=リッベントロップ協定
を結び勢力圏の確認をすると、フィンランドに対して東カレリアとの交換でカレリア地峡の割譲を要求した。
 ソ連の要求は主にレニングラードを攻撃することのできる範囲をフィンランドが保有していることに対して
   安全保障のための領域
を獲得するものだった。
 しかし、カレリア地峡はフィンランドの人口のおおよそ10%が居住し、工場も多く建設されておりフィンランドとしてはこれを割譲することはできなかった。
 マンネルヘイムやソ連との交渉を担当した
   パーシキヴィ
は要求の受け入れを進言した]が内閣は拒否し、交渉は決裂した。
 マンネルヘイムは10月17日再度辞任を撤回し、フィンランド軍の最高司令官を引き受けた。
 公式にはソビエトの攻撃があった後の11月30日に最高司令官職についている。
 この攻撃によって
   冬戦争
が開始された。
 マンネルヘイムの気持ちは娘ソフィーへの手紙で「歳と健康を考えれば私は最高司令官の重責など引き受けたくなかった。しかし私は政府と大統領の懇願に膝を折らねばならなかった。私は今4度目の戦争の中だ。」と書かれている。
 戦争が始まるとその日のうちにマンネルヘイムは最高司令官として国防軍にその日の最初に命令
 大統領は1939年11月30日をもって私をフィンランド軍の最高司令官に任命した。
 勇敢なるフィンランドの兵士諸君!私がこの職に就いた今、我々の不倶戴天の敵が再びわが国を侵している。
 まずは自らの司令官を信頼せよ。
 諸君は私を知っているし私も諸君を知っている。
 また、階級を問わず皆がその本分の達成のためであれば死を厭わないことも知っている。
 この戦争は我々の独立の継続のため以外の何者でもない。
 我々は我々の家を、信念を、国を守るために戦うのだ。」を出した。
 マンネルヘイムは急いで自らの司令部をミッケリに再編成し
   アクセル・アイロ中将
   カール・ルドルフ・ワルデン大将
が補佐した。
 アクセル・アイロはマンネルヘイムの親しい友人であり、ルドルフ・ワルデンは1939年12月から1940年3月27日まで司令部の代理人として内閣に送られ、戦後に防衛相となった。
 マンネルヘイム自身は冬戦争と継続戦争の大半でミッケリの司令部を使ったうえ、何度も前線へ足を運んだ。
 1940年3月12日に締結された
   モスクワ平和条約
によって冬戦争は終結した。
 憲法上は戦争が終結すれば最高司令官は大統領である
   キュオスティ・カッリオ
や後を継いだ
   リスト・リュティ
に戻さねばならなかった。
 しかし、カッリオもリュティもマンネルヘイムを留任させた。
 冬戦争の後、デンマークとノルウェーは
   ヴェーザー演習作戦
でドイツの侵攻を受けた。
 ソ連はバルト三国を軍事侵攻して占領した(バルト諸国占領)。
 1940年7月、ドイツからの密使がリュティとマンネルヘイムを訪れた。
 ドイツはフィンランドの独立を認めることを伝えた。
 8月にドイツはノルウェーに進駐している軍人の往復のためにフィンランドを通過する許可を得た。
 マンネルヘイムはスウェーデンと共同した中立化を画策した。
 しかし、ドイツはフィンランドが中立になることを認めなかった。
 独ソ関係が険悪化する中、ドイツ軍はフィンランドに駐留し
   ドイツ軍80,000人の指揮権の譲渡
をマンネルヘイムに対して提案した。
 マンネルヘイムはフィンランドをドイツの戦争目的に結び付けるりスクがあったためこの提案を断った。
 マンネルヘイムはナチス・ドイツの政府との関係を可能な限り形式的なものに保ち、同盟のための条約の拒否に成功した。
 6月22日、ドイツがソ連に対して
   バルバロッサ作戦
を開始するとフィンランド領からドイツ軍が攻撃をはじめた。
 これに対してソ連はフィンランドにソ連軍が空爆を行った。
 こうしてフィンランドとソ連間でも戦争が始まり、マンネルヘイムの発案でフィンランドはこの戦争を
   継続戦争
と呼称した。
 フィンランド国内からドイツ軍がソ連領土に軍事侵攻したが、マンネルヘイムはドイツへの支援は控えた。
 フィンランド軍に
   レニングラード包囲戦
の手伝いをさせることは堅く拒否した。
 マンネルヘイムの75歳の誕生日である1942年6月4日に、政府は
   フィンランド元帥(Suomen Marsalkka)
の称号を与えた。
 彼はこの称号を得た唯一の人間である。
 この日、マンネルヘイムの誕生日を祝して
   アドルフ・ヒトラー
が急遽訪問したが、これはあまり嬉しくない出来事であり、マンネルヘイムを困惑させた。
 ヒトラーのフィンランド訪問は前日の夕方に知らされたマンネルヘイムは、より公式的な訪問のように見える
   ミッケリ
   ヘルシンキ
の司令部で会うことは避けた。
 この会談はフィンランド南東部のイマトラで、ごく秘密裏にセッティングされた。
 イマトラ空港からリュティ大統領同伴のもと、ヒトラーは車でマンネルヘイムの待つ鉄道線の近くまで移動した。
 ヒトラーのスピーチのあと、誕生日の食事を行いヒトラーとマンネルヘイムは会談した。
 リュティとその他フィンランド、ドイツの高官もこれに参加していた。
 ヒトラーはフィンランドで5時間を過ごしてドイツへ戻った。
 ヒトラーはソ連反抗作戦を促進するように求めるつもりであったとされるが、特に具体的な要求はしなかった。
 フィンランド国営放送・Yleの技術者
   ソール・ダメン(Thor Damen)
はヒトラーとマンネルヘイムの非公式な会話を録音することに成功した。
 ヒトラーは、自分の非公式な会話を録音することを許さなかった。
 このため、この録音は密かに行われた。
 この録音は、ヒトラーの非公式的な会話を録音した唯一のものである。
 ヒトラーとの会談の間にマンネルヘイムが自分の葉巻に火をつけたという話がある。
 マンネルヘイムはヒトラーがフィンランドに対ソ連の手伝いを求めると考えており、マンネルヘイムにとってはこれは不本意だった。
 マンネルヘイムが葉巻に火をつけた時、ヒトラーが
   嫌煙家
であることはよく知られていたので他の出席者は息をのんだという。
 ただ、ヒトラーは葉巻についてコメントせず、冷静に会話を続けた。
 ヒトラーが自分が優位だとして話をしているならばマンネルヘイムに対して喫煙をやめるように言ただろう。
 マンネルヘイムはヒトラーが自分の立ち位置を強者と弱者のどちらと考えているかを判断できた。
 ヒトラーが強く指図できないと判断しているため、ヒトラーの申し出を断ることができたという逸話だ。
 1944年6月、フィンランドはソ連からの大規模な攻勢を受けていた。
 ドイツのラップランド軍司令である
   エデュアルト・ディートル上級大将
はフィンランド支援に動き、本国からの増援をとりつけた。
 しかし、飛行機での移動中に墜落死した。
 ドイツ外相のリッベントロップは、援助と引き換えにフィンランドが公式に継戦する誓約を求め、ソ連は正式な降伏を求めた。
 リュティはソ連の要求を議会に知らせず、ドイツの要求の検討を行った。
 マンネルヘイムは議会の正式な承認でドイツと協定を結ぶことに懸念を示した。
 首相のエドウィン・リンコミエス)はソ連が降伏を求めていることを公開しなければ議会はドイツの要求を承認しないと判断した。
 リュティは個人として約束し、その後のロシアとの単独講和の際は大統領を辞めることでドイツとの協定を反故にすることを法律学者に検討させて可能であるという判断を得た。
 リュティは議会の承認を得ずに協定へサインした。
 ドイツと共に戦うことを誓う
   リュティ=リッベントロップ協定
を結んだ。
 この協定でフィンランドはドイツから大量の支援物資を得た。
 マンネルヘイムはソ連の攻勢に対応して侵攻を停止させた。
 その後主戦場はフィンランドから欧州へと向かい、7月にソ連から降伏を含まない和平の打診を得た。
 リュティ・リッベントロップ協定に背いて
   単独講和
を行うため、リュティは辞任した。
 8月4日、議会の特別立法で、マンネルヘイムは第6代大統領となった。
 マンネルヘイムは国内的にも国際的にも、フィンランドを戦争から解放するために十分な威信を持つ唯一の人間であることが明らかであった。
 彼はフィンランド人の多くの信任を受け、また、戦争から平和へとフィンランドを導くことのできる事実上ただひとりの権威であった。
 ドイツとフィンランドの間の条約はリュティ個人の結んだものとして破棄した。
 ソ連との継続戦争は厳しい条件で終結した。
 ただ、ソ連が国境を越えたほかの国に比べれば、領土の大半も、主権も、議会制民主主義も、経済の自由も維持されるなど、幸運なものであった。
 カレリア全土とペッツァモを失い、
   数多くのカレリア難民
が発生し、フィンランド国内に安住の地を求めた。
 賠償金として3億ドル相当の物資を支払うことになった。
 さらにフィンランドは12月までに動員を解除して常備軍のみに縮小すると同時に北部からドイツ軍を撤退させるために
   ラップランド戦争
を戦った。
 ソ連優位の連合国管理委員会を受け入れながら戦後の復興を受け入れなければならなかった。
 この難しい時期を通してフィンランドを導けたのはマンネルヘイムただ1人であったことは広く認められている。
 1946年3月4日、マンネルヘイムは大統領を辞職した。
 1918年には政敵であったフィンランドの共産党員でさえ、難しい時期に国家の結束を維持するためにはらわれた努力とその役割に感謝した。
 首相である保守派のユホ・クスティ・パーシキヴィが後任として第7代大統領となった。
 1946年6月、消化性潰瘍で手術を行い、10月には十二指腸潰瘍と診断された。
 1947年にスイスでさらに手術を受けた。
 1951年1月に胃の発作が起きた時、マンネルヘイムの回想録はまだ完成してはいなかった。
 彼らはマンネルヘイムの死後に発行している。
 1951年1月27日(フィンランド時間1月28日)、マンネルヘイムはスイス、ローザンヌの州立病院で永眠した。
 2月4日には全ての軍関係者の出揃う中、ヘルシンキのヒエタニエミ墓地に国葬された。 
   
  
posted by まねきねこ at 13:28 | 愛知 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | バイオグラフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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