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2026年01月19日

第三次フィラデルフィア・マフィア抗争 (Third Philadelphia Mafia War 1990–1996)

第三次フィラデルフィア・マフィア抗争 (Third Philadelphia Mafia War)は1990年代(主に1990年〜1996年頃)にフィラデルフィアを舞台に起きた、マフィア内部の激しい権力闘争(抗争)である。
   ニコデモ「リトル・ニッキー」スカルフォ("Little Nicky" Scarfo)が
が逮捕・収監されえ没落後、、組織が弱体化・分裂した時期に
   ジョン・スタファ(John Stanfa)
が率いる勢力と、
   ジョー・マーリノ(Joe Merlino)
が率いる若手ギャング(後のジョー・メリノ・ギャング)の間で勃発した血生臭い抗争を指す。
 スタファが「フロントボス」として組織を率いようとした。
 ただ、マーリノら新世代のギャングがこれに反発し、激しい抗争に発展した。
 この抗争は非常に残忍で、多くの殺人が発生し、マフィアの「汚い」側面が露呈した。
 数々の銃撃事件や爆破事件が起こり、フィラデルフィア市民に大きな影響を与えた。
 この抗争を鎮圧し、マフィア組織を壊滅させるためにFBIが大規模な捜査を行い、多くの幹部やメンバーが逮捕・起訴された。
 1990年代半ばにはマーリノ側が勝利し、スカーフォ時代の残党は一掃され、新たな組織体制へと移行した。
 この時期の抗争は、フィラデルフィア・マフィアの歴史における重要な転換点とされている。
 ジョン・スタンファ(John Stanfa)は、
   ジョーイ・マーリーノ(Joey Merlino)
との抗争中に、
   ジョン・ヴィージー(John Veasey
を執行官として採用した。
 ヴィージーは後に政府に寝返り、スタンファの裁判で検察側の証人となった。
 スカルフォの支持者の多くが長期の刑期に服していた。
 このため、スカルフォが刑務所から犯罪一家を長く支配し続けることはもはや不可能になった。
 フィラデルフィア・マフィアにおける完全な権力の空白を避けるため、
 1990年、ニューヨークの有力な
   ガンビーノ・ファミリー
   ジェノベーゼ・ファミリー
の支援と承認を得たシチリア生まれのギャング
   ジョヴァンニ・「ジョン」・スタンファ(Giovanni "John" Stanfa)
がフィラデルフィア・ファミリーのボスに任命された。
 1990年10月、投獄されていたスカルフォに連絡が入り、スカルフォは自分がもはやボスではなく、スタンファがボスに就任したことを知らされた。
 ただ、スタンファが正式にボスに就任したのは1991年だった。
 ニューヨーク・マフィアによるフィラデルフィア・マフィアへの介入は、同ファミリーの多くの若いフィラデルフィア生まれのギャングスターたちには不評だった。
 その中には、元アンダーボスの
   サルバトーレ・メルリーノ
の息子、ジョセフ・「スキニー・ジョーイ」・メルリーノも含まれていた。
 メルリーノは、スタンファをスカルフォ時代を通して投獄されていたため組織内で出世できていない部外者と見なしていた。
 1990年、共に服役中だったメルリーノは
   ラルフ・ナターレ(Ralph Natale)
と出会った。
 ナターレによると、彼とメルリーノはこの時期にフィラデルフィア・ファミリーの乗っ取りを企て始めたという。
 ナターレは、
   マイケル・チャンカグリーニ(Michael Ciancaglini
   スティーブン・マッツォーネ(Steven Mazzone
   ジョージ・ボルジェシ(George Borgesi
   ガエターノ「トミー・ホースヘッド」スカフィディ
        (Gaetano "Tommy Horsehead" Scafidi
   マーティン「マーティ」アンジェリーナ
            (Martin "Marty" Angelina
をメルリーノの主要仲間および計画の共謀者として名指しした。
 スタンファはファミリー内の不和を認識しており、
   平和的な解決策
を模索した。
 彼はマイケルの兄である
   ジョセフ・ジュニア
を新たな副ボスに任命した。
 スタンファは、これによりメルリーノ派を宥め、自分の傘下に入れることを期待した。
 しかし、緊張は高まり、1991年にはフィラデルフィア・ファミリーの支配権をめぐる新たな争いが勃発した。
 メルリーノ一派の支持者たちは
   ジョセフ・チャンカグリーニ・ジュニア
を射殺し、無力化した。
 一方、スタンファ一派は
   マイケル・チャンカグリーニ
を殺害した。
 両者は数ヶ月にわたり互いに攻撃を続けた。
 スタンファは高速道路での待ち伏せ攻撃を生き延びたが、メルリーノの暗殺未遂も複数回行われた。
 スタンファ一派は依然として一家への支配力を強めており、この戦いのために多くの外部の殺し屋を雇い入れた。
 1994年3月17日、スタンファとその部下23人が組織犯罪関連の容疑で逮捕された。
 これは7年間で二度目の大規模な起訴であり、この連邦裁判はフィラデルフィア史上最大の組織犯罪グループに対する訴追となった。
 重要な証拠の一つは、スタンファが弁護士事務所と診療所でギャングと交わしていた2年間の会話の録音であった。
 スタンファは、弁護士・依頼者間の秘匿特権と医師・患者の守秘義務が自分を守ってくれると信じていたため、部下とマフィアの重要な取引について公然と話していた。
 ただ、FBIは両事務所が犯罪陰謀に利用されていることを突き止め、令状を取得して盗聴器を設置することに成功した。
 スタンファは異例の戦術で、
   ヴィージー兄弟
を含む、イタリア系移民の血を引く男たちを数人採用した。
 ペンシルベニア州犯罪委員会の元事務局長
   フレデリック・T・マーテンズ
によると、「スタンファはヴィージー兄弟のように、マフィアでの経験はないが、足を折って引き金を引く覚悟のある人間を雇った」という。
 ジョン・ヴィージーは、1994年に証人保護プログラムに参加恐喝と殺人の罪で有罪を認めた。
 ジョン・ヴィージーの弟
   ウィリアム・ヴィージー
は、報復として1995年10月5日に殺害された。
 この日は、彼が裁判でスタンファに不利な証言をする予定だったまさにその日だった。
 スタンファは1995年に有罪判決を受け[74]、1996年に終身刑を宣告された。
 スタンファの支持者の大半も逮捕・有罪判決を受けた。
 このため、メルリーノは1994年11月に釈放され、同じく仮釈放されていたナターレを新たなボスに任命した。
 メルリーノはナターレの副ボスとしての地位を確立した。
 ナターレが支配していた時代、ナターレがボスの座に就くことで、法執行機関の監視を自身から逸らすことができたため、メルリーノはファミリーの実権を握った。
   
   
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2026年01月10日

第二次フィラデルフィア・マフィア抗争(Second Philadelphia Mafia Wa 1980年〜1984年)

第二次フィラデルフィア・マフィア抗争(Second Philadelphia Mafia Wa 1980年〜1984年)は1980年にフィラデルフィア一家のボス
   アンジェロ・ブルーノ(Angelo Bruno)
の殺害、そしてそれに続く
   カポニグロ(Antonio "Tony Bananas" Caponigro)
とその共謀者たちの殺害を皮切りに、フィラデルフィア・マフィア内で激しい権力闘争が勃発した。
 ブルーノの後継者で、かつてのアンダーボスである
   フィリップ・テスタPhilip Testa
は、1年弱でファミリーのボスの座に就いた。
 1981年3月15日、自宅の玄関ポーチの下に仕掛けられた釘爆弾によって殺害された。
 テスタの殺害は、
           (Frank "Chickie" Narducci
がファミリーの支配権を握ろうと画策したものだった。
 テスタのアンダーボスである
    ピーター・カセラ(Peter Casella
とコンシリエーレである
は、共にファミリーの乗っ取りを競い合っており両派閥間の抗争が勃発した。
 スカルフォはジェノヴェーゼ家の顧問弁護士
   ルイス・「ボビー」・マンナ
と親しく、ナルドゥッチとカゼッラがテスタ殺害を企てたという疑念をジェノヴェーゼ一家の幹部に持ちかけた。
 ジェノヴェーゼ一家スカルフォとカゼッラとの会合をセッティングした。
 カゼッラはナルドゥッチがテスタを殺害したのは自分たちが一家を乗っ取るためだと告白した。
 ナルドゥッチは殺害され、カゼッラはマフィアから追放されてフロリダに逃亡した。
 このため、スカルフォが一家のボスの有力候補となった。
 しかし、スカルフォがボスに指名されたにもかかわらず、あるいは指名されたために、抗争は続いた。
 ニコデモ・スカルフォはブルーノ家の有力なマフィア幹部で、ボスに就任する前は主にアトランティックシティで活動していた。
 1970年代後半にカジノ賭博を解禁する法案が成立した後、アトランティックシティは経済成長を遂げた。
 スカルフォは、アトランティックシティの発展途上の建設業やサービス業に浸透することで、勢力基盤を拡大した。
 アトランティックシティはフィラデルフィア・マフィアの縄張りであったにもかかわらず、スカルフォはボスとしての支援と引き換えに、委員会とニューヨークの犯罪組織にアトランティックシティでの活動を自身の裁量で許可した。
 スカルフォは副ボスに
   サルヴァトーレ「チャッキー」メルリーノ
 顧問に
   フランク・モンテ
を任命した。
 スカルフォブルーノのマフィアのボスたちを降格させ、
   「クレイジー・フィル」レオネッティ
   ローレンス「ヨギ」メルリーノ
   ジョセフ「チッキー」チャンカグリーニ・シニア
を後任に任命した。
 これにより、ブルーノテスタの支配下では有利な立場にあったが、新たなボスのスカルフォに見放され不満を持つファミリーの兵士たち、そしてスカルフォがニューヨークのマフィアに媚を売りアトランティックシティでの活動を許していることに憤慨した南ニュージャージーのフィラデルフィア・マフィア兵士たちの間で、マフィア間の抗争が激化した。
 激しい抵抗と数々の殺人事件が増加し消耗戦となったが、スカルフォは最終的に勝利を収めた。
 スカルフォの前に最後に立ちはだかったのは、長年フィラデルフィアの犯罪組織のボスとして名を馳せ、尊敬を集めていた
   ハリー・リコベーネ
だった。
 スカルフォはボスとして不適格で強欲だと考え、リコベーネはスカルフォへの貢物の支払いを拒否した。
 アンジェロ・ブルーノはリコベーネに不正な利益の定期的な、あるいは法外な分配を求めたことはなかった。
 スカルフォは典型的な「上納金」による貢物を要求した。
 リコベーネはスカルフォをボスの地位にふさわしい正当かつ適切な後継者とは考えていなかった。
 このため、これに激怒した。
 スカルフォが路上を離れ、テキサス州で短期間服役した。
 その後、1980年代に勃発した第二次フィラデルフィア・マフィア戦争の一環として、1982年から1984年にかけて
   リコベーネ戦争
が勃発し、スカルフォ派はリコベーネの部下3人を殺害した。
 リッコベーネ派はスカルフォの顧問
を殺害することに成功し、リッコベーネ自身も二度の暗殺未遂を生き延びた。
 1984年、モンテ殺害に関与した二人の銃撃犯とリッコベーネの兄弟は逮捕され、当局への協力に同意した。
 彼らは裁判で、リッコベーネがモンテの殺害を命じたと証言した。
 リッコベーネは有罪判決を受け、終身刑を宣告され、戦争は終結した。

    
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2025年12月17日

イタリアの組織犯罪

イタリアの組織犯罪
 イタリア、特に南部では外国による侵略を受け、抵抗組織が変化して何世紀にもわたって犯罪組織として蔓延している。
 多くのイタリア地域の社会経済生活に影響を及ぼしてきた。
 イタリアには、活発に活動している大規模な土着のマフィアのような組織がある。
 これらの組織の中で最も強力なのは、
   カンパニア州のカモッラ
   カラブリア州のンドランゲタ
   シチリア島のコーザ・ノストラ
である。
 これら3つの長い歴史を持つ伝統的な犯罪組織に加えて、イタリアには20世紀に設立されて、活発に活動している組織犯罪シンジケートが他にも存在している。
 プーリア州のサクラ・コロナ・ウニタやソチェタ・フォッジャナ、バーリ犯罪グループ、シチリア島のスティッダ、ラツィオ州のカサモニカ、スパダ、ファッシャーニ一族などのシンティ犯罪グループである。
 また、他の4つの組織犯罪グループとしてローマの
ヴェネトの
   マーラ・デル・ブレンタ
ミラノを拠点とする
   バンダ・デッラ・コマシーナ
   トゥラテッロ一味
は、最盛期には大きな影響力を持っていたものの、現在ではイタリアの法執行機関によって大幅に弱体化された。
 あるいは、解散または非活動とさえみなされている。
 もう1つのグループ、バジリカータ州の
   バジリスキ
は現在も活動しているが、より大規模で強力な
   ンドランゲタ
の影響下におかれたとみられている。
 イタリアの組織犯罪 (IOC) の最新の組織で
   バンダ・デッラ・マリアーナ
の後継または継続で、多くの元バンダ・デッラ・マリアーナのメンバーや関係者が関与していた
   マフィア・キャピターレ
は、2014年に警察によってほぼ解散した。
 最もよく知られているイタリアの組織犯罪グループは
   マフィアまたはシチリアマフィア
と呼ばれる組織である。
 なお、メンバーからはコーザ・ノストラと呼ばれている。
 この「マフィア」という名の元のグループとして、シチリアマフィアは組織犯罪グループを指す用語の基礎でもある。
 シチリアマフィアはナポリのカモッラやカラブリアのンドランゲタとともにイタリア全土で活動し、組織の拡大から他の国にも侵食して存在している。
 イタリアの組織犯罪グループの収入は、イタリアのGDPの7〜9%に達すると推定されている。
 2009年の報告書では、マフィアの存在が強い610の
   コム​​ーニ
が特定されており、1,300万人のイタリア人がそこに住み、イタリアのGDPの14.6%を生み出している。
 なお、組織犯罪が国のほとんどの地域で蔓延しているが、イタリアの殺人率は61か国中47番目に高く、1,000人あたり0.013です。
 また、1,000人あたりの強姦件数は世界64か国中43番目に多く、いずれも先進国の中では比較的低い数値となっている。
 マフィアという言葉はシチリア島に由来する。
 シチリア語の名詞「マフィウス」(イタリア語では「マフィオーソ」)は、おおよそ「闊歩」を意味する。
 また、「大胆さ、虚勢」とも訳される。
 学者のディエゴ・ガンベッタによると、19世紀のシチリア島で男性を指す「マフィウス」は曖昧で、
   横暴で傲慢
であると同時に、
   恐れ知らず
   進取の気性に富む
   誇り高い人
を意味していたとは述べている。
 ただ、女性を指す場合、女性形の「マフィウサ」は美しい、または魅力的な女性を意味する。
 シチリア語の「マフィエ」は、トラパニとマルサーラ付近の洞窟を指している、
 難民や犯罪者の隠れ場所としてよく使われていた。
 シチリアのマフィアの起源を辿るのは困難である。
 そもそも、マフィアは非常に秘密主義で、自分たちの歴史の記録を取っていないためだ。
 彼らは自分たちの過去について故意に嘘を広め、時には自分たちの作り話を信じるようになることで知られている。
 マフィアの起源は、シチリアが封建制から資本主義に移行し、イタリア本土と統一された結果として19世紀に始まった。
 封建制下では、貴族が土地の大半を所有した。
 また、私兵や荘園裁判所を通じて法律を執行していた。
 1812年以降、封建領主たちは着実に土地を民間人に売却または賃貸した。
 長子相続は廃止され、借金返済のために土地を差し押さえることはできなくなった。
 土地の5分の1が農民の私有財産となった。
 1860年にイタリアがシチリア島を併合した後、公有地と教会所有地の大部分を民間人に再分配した。
 その結果、地主の数は1812年の2,000人から1861年には20,000人にまで大幅に増加した。 
 初期のマフィアは
   柑橘類の栽培者
   牛の牧場主
と深く関わっていた。
 これらの産業は特に窃盗や破壊行為に遭いやすく、保護が強く求められていたためだ。
 柑橘類農園は生産システムが脆弱で、破壊行為に対して非常に脆弱だった。
 これと同様に、牛は簡単に盗まれる。
 マフィアは警察よりも盗まれた牛の回収に効果的だった。
 1920年代には、マフィアが盗まれた牛を回収する成功率は95%だった。
 これに対し、警察はわずか10%だったと記録されている。
 1950年代、シチリア島では大規模な建設ブームが起こった。
 この機会を利用して、シチリアマフィアは建設契約を掌握し、何百万ドルもの利益を上げた。
 シチリアマフィアは、イタリアとヨーロッパの両方で、また米国と関係のある密売で、成長する大規模なヘロイン密売ビジネスに関与した。有名な例としては、コルシカ島の犯罪者とイタリア系アメリカ人マフィアによる
の密輸がある。
 シチリアマフィアは国際的な組織犯罪グループへと進化し
   ヘロインの密売
   政治腐敗
   軍事兵器の密売
を専門としており、米国で最も強力で活発なイタリアの組織犯罪グループである。
 なお、米国には2,500以上の関連組織があると推定される。
 シチリアマフィアは放火、詐欺、偽造、その他の恐喝犯罪にも関与していることで知られている。
 3,500〜4,000人の中核メンバーと100の氏族がいると推定されており、パレルモ市だけで約50の氏族がある。
 コーザ・ノストラは、1950年代から1990年代初頭にかけて、
   特に腐敗したキリスト教民主党政権下
では、「合法的な」権力にも影響力を持っていた。
 その影響力は、多くの著名な弁護士、金融家、専門家に及び、政治家、裁判官、行政官に賄賂を贈ったり圧力をかけて権力を行使した。
 最高裁判、ジョヴァンニ・ファルコーネ判事とパオロ・ボルセリーノ判事によるキャンペーン、腐敗した政治家や裁判官に対するその他の行動の直後に影響力を失ったが、それでも一定の影響力は保持している。
 シチリアのマフィアは、
   サルヴァトーレ・リーナ(別名「トト・リーナ」)
の統治時代に、イタリアの法執行官に対する攻撃的な攻撃で悪名を馳せた。
 シチリアでは、「優れた死体」という言葉が、マフィアによって殺害された一般の犯罪者や一般市民と、著名な政府高官の暗殺を区別するために使われている。
 マフィアの犠牲者の中には、警察長官、市長、裁判官、警察大佐や将軍、国会議員など、高官たちも含まれている。
 1992年5月23日、シチリアのマフィアがイタリアの法執行機関を襲撃した。
 午後6時頃、イタリアの治安判事
とその妻、および警察のボディーガード3人が巨大な爆弾で死亡した。
 パレルモ裁判所の検察局長(大まかに言えば地方検事)であり、特別対マフィア捜査班長であったファルコーネは、組織の最も手強い敵となっていた。
 彼のチームは、マフィア幹部のほとんどに対する訴訟の準備を進めていた。
 爆弾は、ファルコーネのキャラバンが通っていた道路に直径10メートル(33フィート)のクレーターを作った。
 これは
   カパチ爆破事件
として知られるようになった。
 それから2か月も経たない1992年7月19日、マフィアはファルコーネの後任である
をシチリア島パレルモで襲撃した。
 ボルセリーノ判事が母親のアパートの玄関に近づいた際、爆発物を積んだ車が遠隔操作で爆発した。
 ボルセリーノ判事と5人のボディーガードが母親のアパートの外で死亡した。
 1993年、当局はサルヴァトーレ・リーナを逮捕した。
 リーナは当時、すべての首謀者(capo di tutti capi)とされ、数十(数百ではないにしても)の殺人に直接的または間接的に関与していると考えられていた。
 リーナの逮捕は数年に及ぶ捜査の末に行われたが、捜査が遅れたのはカラビニエリ内のマフィアの影響による。
 その後、組織の支配権は
に移った。
 プロヴェンツァーノは、当局に対するリーナのハードな
   戦争戦略
を拒否して、賄賂、汚職、影響力行使というソフトなアプローチを選んだ。
 その結果、マフィアによる殺人率は急激に低下した。
 ただ、国際的な麻薬取引や奴隷取引、そしてシチリア島の建設や公共契約における地元での影響力は続いた。
 プロヴェンツァー自身は43年間指名手配された後、2006年に逮捕された。
 2013年7月、イタリア警察はマフィアの犯罪組織のボスたちを標的とした大規模な捜索を行った。
 首都近郊の沿岸都市オスティア(ローマ)では、警察がイタリアのシチリアマフィアに関連する犯罪容疑で51人の容疑者を逮捕した。容疑には恐喝、殺人、国際麻薬密売、スロットマシン市場の違法な支配などが含まれていた。
 カモッラの起源ははっきりしていない。
 17世紀に遡る可能性もあるが、カモッラという言葉が初めて公式に使われたのは1735年になってからで、王の勅令によりナポリに
   賭博場8軒の設立
が認可された。
 カモッラの主なビジネスは麻薬密売、恐喝、偽造、マネーロンダリングである。
 カモッラの一族がそれぞれの地域の政治に浸透することも珍しいことではない。
 カモッラはタバコの密輸も専門としており、イタリアを経由する
   タバコの取引
に対して他の犯罪グループから報酬を受け取っている。
 1970 年代、シチリア マフィアはカモッラにタバコの密輸ルートを
   麻薬の密輸ルート
に転換するよう説得した。
 しかし、カモッラのリーダー全員が同意したわけではなく、2 つの派閥の間で戦争が勃発した。
 この抗争により400 人近くの男性が殺害され、麻薬密輸に反対した側は戦争に敗れた。
 カモッラ・マフィアはヨーロッパの麻薬取引を支配しており、
   特定の管理原則のシステム
に基づいて組織されている。
 2000年代初頭、ディ・ラウロ一族はセコンディリアーノを拠点に当時ヨーロッパ最大の露天市場を運営していた。
 このシステムを設計した一族の元リーダー
   パオロ・ディ・ラウロ
は2005年から投獄されている。
 ただ、彼の組織は麻薬密売ビジネスだけで年間約2億ユーロを稼いでいた。
 ディ・ラウロ一族とセコンディリアーノの分裂主義者との戦争は、現在イタリアで放送されている
   テレビシリーズ「ゴモラ」
の題材となった。
 イタリア国外では、カモッラはスペインで強い存在感を示し、 同組織はそこで麻薬密売とマネーロンダリングを中心とした大規模な事業を展開している。
 同組織は利益を再投資して、国内各地でホテル、ナイトクラブ、レストラン、企業の設立を行って合法的な事業にも勢力を拡大している。
 ナポリ検察官
   ジョヴァンニ・メリッロ
は、2023年の反マフィア委員会の演説で、現在カモッラで最も勢力のあるグループは
であると述べた。
の同盟である。
 ギリシア語の「アンドラガティア」(勇気や忠誠心を意味する)に由来するンドランゲタは、 1890年代にカラブリアで結成された。
 ンドランゲタは160の細胞と約6,000人の構成員から構成されている。
 なお、世界規模での推定では中核構成員は約10,000人である。
 このグループは政治腐敗とコカイン密売を専門としている。
 ンドランゲタは、血縁関係と結婚に基づいて緩く結びついた家族グループで結束力が強い。
 1950年代以降、この組織の影響力は北イタリアや世界中に広がっている。
 ユーロポールおよびグアルディア・ディ・フィナンツァによる2013年の「イタリア組織犯罪の脅威評価」によると、ンドランゲタは世界で最も裕福(2008年の収入は約550億ドル)かつ最も強力な組織犯罪グループの一つである。
 ンドランゲタはヨーロッパに流通するコカインの最大80%を支配し、ヘロインの密売、殺人、爆破、偽造、違法賭博、詐欺、窃盗、労働搾取、高利貸し、不法移民、稀に誘拐なども行っていることで知られている。
 サクラ・コロナ・ウニタ(SCU)、別名ユナイテッド・セイクリッド・クラウンは、イタリア南部のプーリア州)のマフィアのような犯罪組織で、一般に信じられているように地域全体で活動しているわけではない。
 特にブリンディジとレッチェの地域で活動している。
 SCUは、プーリア州に活動範囲を広げたいと考えていたカモッラのメンバー
によって、フォッジャに拠点を置く
   ヌオーヴァ・グランデ・カモッラ・プーリアーゼ
として1970年代後半に設立された。
 このグループの一部はンドランゲタから派生したとも言われている。
 ただ、ンドランゲタからの離脱か、あるいはンドランゲタの一族との間接的な協力の結果なのかは不明である。
 SCU創設から数年後、クトゥーロの失脚後、組織は
   ジュゼッペ・ロゴリ
の指揮の下、カモッラから独立して活動し始めた。
 彼の指揮下で、SCUはアプリアの利益と機会をンドランゲタとカモッラの伝統と融合させた。
 当初、この地域の大規模な
   ワイン産業
   オリーブオイル産業
を餌食にしていたこのグループは、詐欺、銃器密売、麻薬密売にも手を広げた。
 ロシアやアルバニアのマフィア、コロンビアの麻薬カルテル、いくつかのアジアの組織などの国際犯罪組織と同盟を結んだ。
 サクラ・コロナ・ウニタは約50の氏族で構成され、約2,000人の中核メンバーを擁している。
 また、タバコ、麻薬、武器、人の密輸を専門としている。
 米国で特定されている SCUのメンバーはごくわずかで、イリノイ州、フロリダ州、ニューヨーク州の個人とのつながりがいくつかあるとの情報が把握されている。
 サクラ・コロナ・ウニタはマネーロンダリング、恐喝、政治腐敗にも関与しているとの報告がある。
 なお、イタリア南東海岸への上陸権と引き換えに他の犯罪グループから賄賂を受け取っている。
 この地域は、クロアチア、モンテネグロ、アルバニアなどの旧共産主義国との間の密輸の玄関口となっている。
 バルカン半島地域の正常化に伴い
   アドリア海回廊の密輸ルート
としての重要性が低下した。
 また、近年の一連の警察および司法による同回廊に対する作戦が成功した。
 こうした当局の成果等により、サクラ・コロナ・ウニタは、実際には敗北していないとしても、1990年代半ば頃にピークを迎えた以前の勢力のほんの一部にまで縮小したと考えられている。
 SCUの内部の勢力の縮小に伴い敵対的な犯罪グループの誕生を助長した。
・レモ・レッチェ・リベラ: レッチェ出身の有力な犯罪者によって結成され、ンドランゲタ以外のいかなる犯罪グループからも独立していると主張している。
 レモという用語は、外部からの干渉に反対したためにカンパニア地方の犯罪者によって殺害されたサレント地方の犯罪者
   レモ・モレロ
を指している。
・Nuova Famiglia Salentinaはレッチェ出身の
   De Matteis Pantaleo
によって 1986 年に結成された。
 1980 年代初頭にサレント地域の自主的な犯罪運動として誕生した
   Famiglia Salentina Libera
から派生し、地域外のマフィア表現とのつながりはない独立系犯罪組織である。
・Rosa dei VentiはSCUの内部分裂の後、1990 年にレッチェ刑務所で
   デ・トンマシ
によって結成された。
・ソシエタ・フォッジャナは、
   マフィア・フォッジャナ(フォッジャ・マフィア)
   第五マフィア
としても知られており、マフィア型の犯罪組織である。
 フォッジャ市自体を含むフォッジャ県の大部分で活動しており、イタリアの他の地域にも勢力を伸ばし大きく浸透している。
 現在、このグループはイタリアの組織犯罪グループの中で最も残忍で血なまぐさいものの一つと考えられている。
 2017年と2018年には、フォッジャ県で週に約1件の殺人、1日に1件の強盗、48時間に1件の恐喝未遂があった。
 これらは、フォッジャ県の新しい独立したマフィアを知らない報道機関によって、
   サクラ・コロナ・ウニタ(第4のマフィア)の仕業
であると裏付けの取材もなく誤った推測情報で報道した。
 バーリの検察官で反マフィア責任者の
   ジュゼッペ・ヴォルペ
はサクラ・コロナ・ウニタから独立した、いわゆる第五のマフィアを目撃しているのです」と述べている。
 ソシエタ・フォッジャナは、バルカン半島の犯罪組織、特にアルバニア人と数多くの同盟関係にある。
・ストリッシウリオ一族の長である
   ドメニコ・ストリッシウリオ
は、バーリで活動する最も強力な一族と考えられている。
 バーリ犯罪グループは「バレージ一族」としても知られる。
 バーリ市とその首都圏の周辺地域で活動する組織犯罪グループで主に一族間の連合体で、麻薬密売、密輸、恐喝を主な活動としている。
 これらの一族は1980年代から1990年代に結成され、現在バーリ市とその首都圏の違法行為で主導権を握っており、地域の政治にも浸透している。
 なお、バーリ市には3つの主要な氏族がある。
 ストリッシウリオ氏族はボスの
   ドメニコ・ストリッシウリオ
が率いている犯罪組織で主に北部地域で活動している。
 また、パリシ氏族を率いる
   サヴィーノ・パリシ
をボスとする犯罪組織は主にジャピジャ地区で活動している。
 トニーノとして知られる
   アントニオ・カプリアーティ
をボスとする
   カプリアーティ氏族
は主にボルゴ・アンティーコで活動している。
 さらに、市内に存在する他の一族としては、リベルタ、カラッシ、サン・パスクワーレ地区の
   ロルッソ一族
やカルボナーラ、チェリエ・デル・カンポ、ロセト地区で活動する
   ディ・コソラ一族
 ポッジョフランコで活動する
   アネモロ一族
 サン・パオロ地区で活動する
   ミッセオ一族
 ポッジョ・フランコとサン・パスクワーレ地区の
   フィオーレ・リソーリ一族
 カラッシ、リベルタ、ポッジョフランコ、サン パオロ、サン パスクアーレ地区で
   Mercante-Diomede 氏族
が活動し、カラッシ、ピコーネ、サン パスクアーレでは
   ヴェルット氏族
が活動している。
 また、マドンネッラでは
   ラファスキエーリ氏族
が活動している。
・ラ・スティッダ(シチリア語で星の意味)は、シチリア島アグリジェント県パルマ・ディ・モンテキアーロ出身の犯罪者
   ジュゼッペ・クローチェ・ベンヴェヌート
   サルヴァトーレ・カラファト
によって設立されたシチリアの組織に付けられた名前である。
 スティッダの勢力基盤は、カルタニッセッタ県とアグリジェント県のジェーラ市とファヴァーラ市に集中している。
 この組織のグループと活動は、シチリア島南部と東部の海岸沿いに位置する、同名の県のアグリジェント市、カターニア市、シラクーサ市、エンナ市、カルタニッセッタ県のニシェミ市とリージ市、ラグーザ県のヴィットーリア市で盛んに行われている。
 このグループはマルタにもメンバーがおり、活動している。
 スティッダは、イタリア本土のミラノ、ジェノバ、トリノの各州に勢力と影響力を広げた。
 この組織のメンバーは、カルタニッセッタ州では
   スティッダリ
と呼ばれ、アグリジェント州では
   スティッダローリ
と呼ばれている。
 スティッダのメンバーは、円形に並んだ 5 つの緑色のマークのタトゥーで識別される。
 時にはお互いに紹介されるという。
 このタトゥーは「i punti della malavita」または「犯罪生活のポイント」と呼ばれる星を形成している。 
 1970 年代後半から 1980 年代前半にかけての
   コーザ ノストラ戦争
により、コルレオーネシ一族とその残忍で冷酷なリーダーである
が権力を握った。
 これにより、伝統的なコーザ ノストラ
   権力基盤
   価値観
のシステム内で混乱と幻滅が起こった。
 成長を続けるスティッダ組織が、シチリア南部と東部におけるコーザ ノストラの権力、影響力、拡大に対抗するようになった。
 スティッダの会員は、コルレオーネシ一族の血に飢えた統治中にコーザ ノストラの隊列から離脱した、殺害されたリージのカポ
   ジュゼッペ ディ クリスティーナ
に忠誠を誓う者など、コーザ ノストラの名誉ある人々によって強化された。
 この組織は、組織犯罪の末端で活動していた地元のチンピラや犯罪者 (ピチョッティ) を吸収することで、メンバーも増やしました。
 これにより、スティッダはイタリアの裏社会でさらに権力と信頼を得ることができた。
 1978 年から 1990 年にかけて、元コルレオーネシ一族のリーダーで、コーザ ノストラの「カポ ディ トゥッティ カピ」の称号を狙っていた
は、コーザ ノストラ内とスティッダに対して戦争を起こした。
 この戦争により、マフィアと一般市民の間に死と恐怖が広がり、コーザ ノストラでは 500 人以上、スティッダでは 1,000 人以上が死亡した。
 この中には、スティッダの隊長
   カロジェロ ラウリア
   ヴィンチェンツォ スピナ
も含まれている。
 1993 年のサルヴァトーレ・リーナの逮捕と 2006 年のベルナルド プロヴェンツァーノの投獄により、犯罪活動に対してより暴力的でなく控えめな新しいアプローチをとる新しいパックス・マフィアが誕生した。
 その結果、スティッダはイタリアおよび世界中のより長い歴史を持つ犯罪組織の中でその権力、影響力、信頼性を固め、骨太の裏社会の担い手となった。
・バジリスキはバジリカータ地方で活動するマフィア型の犯罪組織である。
 1994年にンドランゲタの承認を得てポテンツァで設立された。
 マフィア集団としての地位が認められたのは2007年12月21日で、ポテンツァ裁判所は被告26人に合計242年の懲役刑を言い渡した。
この名前は大プリニウスの時代から、当時の致死的な爬虫類を指すために使われてきた古代の言葉で、
   リナ・ウェットミュラー
の映画「バジリスク」(1963年)によって、一般にも知られるようになった。
 この名前には二重の意味があり、大きくて怠惰なトカゲ人間とバジリカータの住人の両方を表している。
 この名前は、ハリー・ポッターシリーズの第2章でバジリスクが巨大で恐ろしい神話上の蛇として登場したことで、再び有名になった。
 バジリスク族は、自分たちの起源と危険な性質の象徴としてこの名前を採用した。
・ヌオーヴァ・マーラ・デル・ブレンタ(NMB)は、
   ニュー・ブレンタ・マフィア
とも呼ばれている。
 イタリアのヴェネト州を拠点とする犯罪組織で、グループは、1970年代から1980年代にかけてこの地域で活動していたオリジナルの
   マーラ・デル・ブレンタ
の後継として、1990年代後半に出現したと考えられている。
元祖マーラ デル ブレンタは、1970 年代から 1980 年代にかけてヴェネト地方で活動していた強力な犯罪組織であった。
 このグループは、麻薬密売、恐喝、マネーロンダリングなど、幅広い犯罪行為に関与した。
 このグループの名前は、密輸品の輸送に使用されていたブレンタ運河に由来している。
 グループでは、メンバーの多くが逮捕され有罪判決を受けた後、1990年代にほぼ解体された。
 ただ、1990年代後半にこの地域で新しい犯罪組織である
   ヌオーヴァ・マーラ・デル・ブレンタ
が出現した。
 このグループは元のマーラ・デル・ブレンタとつながりがあると考えられ、麻薬密売、マネーロンダリング、その他の犯罪活動に関与していると言われている。
・ヌオーヴァ・マーラ・デル・ブレンタは、麻薬密売、マネーロンダリング、恐喝など、さまざまな犯罪行為に関与した。
 また、このグループはイタリア国内外の他の犯罪組織とつながりがあると考えられる。
 近年、いくつかの注目度の高い犯罪に関与していることが情報として当局に捕捉されている。
 2018年、イタリア当局は麻薬密売とマネーロンダリングの容疑で
   ヌオーヴァ・マーラ・デル・ブレンタのメンバー数名を逮捕した。
 同グループは南米からイタリアに大量のコカインを密輸し、
   高度なマネーロンダリング技術
を使って利益を隠蔽したと告発されていた。
 2021年、このグループはヴェネト州の著名な実業家の殺害に関与していたことがわかった。
 複数の合法的な事業に関わっていたこの実業家は、恐喝金の支払いを拒否した。
 このため、ヌオーヴァ・マーラ・デル・ブレンタの標的になったと報じられている。
 ヌオーヴァ・マーラ・デル・ブレンタの正確な組織構造は不明。
 ただ、トップにリーダーがいる階層構造の組織であると考えられている。
 また、このグループには犯罪活動を支援する仲間のネットワークがあると考えられている。
・バンダ・デッラ・マリアーナ(マリアーナ・ギャング)は、ローマを拠点とし、主に1970年代後半から1990年代前半にかけて活動していたイタリアの犯罪組織である。
 ギャングの名前は、メンバーのほとんどが出身地である ローマのマリアーナ地区に由来している。
 マリアーナ ギャングは、イタリアの
   「鉛の年」(またはアンニ ディ ピオンボ)
の間に犯罪活動に関与していた。
 この組織は、コーザ ノストラカモッランドランゲタなどの他のイタリアの犯罪組織と結びついていた。
 なお、最も顕著なのは、1980 年のボローニャ虐殺の責任を負ったグループである
   核武装革命軍(NAR)
を含む、ネオファシストの 準軍事組織およびテロ組織とのつながりであった。
 伝統的な組織犯罪組織への関与に加え、バンダ・デッラ・マリアーナは、
   ネオファシスト
   極右過激派準軍事組織
とつながりがあるとされる
   プロパガンダ・ドゥエ(P2)
として知られる非合法の地下フリーメーソン・ロッジのグランドマスター
   リチョ・ジェッリ
などのイタリアの政治家のために働いていたとも考えられている。
・マフィア・カピターレは、ラツィオ州とその首都ローマに起源を持つマフィア型の犯罪組織、または秘密結社である。
 2000年代初頭に
   マッシモ・カルミナティ
によってバンダ・デッラ・マリアーナの残骸から 設立された。
・バンダ・デッラ・コマシナとトゥラテッロ・クルー 
 バンダ・デッラ・コマシーナ(コマシーナ・ギャング)は、1970年代から1980年代にかけて、主にミラノ、ミラノ首都圏、ロンバルディアで活動していた組織犯罪グループである。
 その名前は、組織設立の地であるミラノのコマシーナ地区に由来している。
 このグループは、1970年代のミラノ裏社会の有力者であったミラノの犯罪ボス
   レナート・ヴァッランザスカ
が率いていた。
 このグループは小規模な強盗・誘拐ギャングとして始まり、武装強盗、誘拐、カージャック、トラックのハイジャックを専門とし、勢力を拡大して組織犯罪の他のより微妙な分野に手を広げ続けた。
 このギャングは、大胆にも道路にバリケードを設置し、ミラノ警察隊員を強盗することで悪名を馳せた。
 バンダ・デッラ・コマシーナの勢力が強まるにつれ、彼らは武器密売、違法賭博、麻薬密売、殺人、恐喝、組織犯罪、酒類密造、汚職など、他の組織犯罪分野にも手を広げていった。
 グループの没落の原因の一部は、巧妙さと権威の両方を軽視する厚かましさ、そして金儲けのために誘拐や武装強盗に頼り続けたことにある。ギャング団のリーダー、レナート・ヴァランザスカは警察の拘束から何度も逃走した。
 ままた、逃亡生活を送りながらも裕福で権力のある人々の強盗や誘拐を続けた。
 1976年、グループはベルガモの著名な実業家の誘拐を含む約70件の強盗と複数の誘拐を犯した。
 なお、誘拐の多くは警察に通報されなかった。
 強盗のいくつかは、強盗の被害者と、警官4人、医師1人、銀行員1人を含む出動した警官の殺害につながった。
 同年、ヴァッランツァスカ(この時点ではまだ逃亡中)と彼のギャングは、ミラノのビジネスマンの娘である16歳の
   エマヌエラ・トラパニ
を誘拐し、1976年12月から1977年1月までの1ヶ月半以上監禁した。
 彼らは、イタリア通貨で10億の身代金を支払って初めて少女を解放した。
 その後すぐに、ギャングは
   ヴァッランツァスカ
とギャングのメンバーを乗せた車を止めた高速道路警察官2人を殺害した。
 バンダ・デッラ・コマシーナの他の2人のメンバー
   カルロ・カルッチオ
   アントニオ・フリアト
は、それぞれミラノのヴェトラ広場とアウトストラーダA4高速道路で警官との銃撃戦で死亡した。
 ヴァッランツァスカは最終的に捕まり、獄中でかつてのライバルでミラノの有力な犯罪ボスである
   フランシス・トゥラテッロ
と同盟を組み、友情を深めた。
 トゥラテッロも最近投獄されたばかりのミラノの犯罪ボスで、シチリアマフィア、カモッラ、イタリア系アメリカ人の ガンビーノ一家と強いつながりがある。
 さらにバンダ・デッラ・マリアーナやイタリアの政治テロリスト集団ともつながりがある可能性もある。
 いわゆるトゥラテッロ一味のリーダーとして、
   フランシス・トゥラテッロ
はシチリアマフィアの弟子であり、ミラノでは
   シチリアマフィア
の両方にとって重要な同盟者だった。
 トゥラテッロ一味はシチリアマフィアとカモッラの支援を受けてミラノの裏社会でさまざまな違法組織を掌握した。
 ミラノの売春を支配し、
   バンダ・デッラ・コマジーナ
のように強盗や誘拐にも関与していた。
 トゥラテッロ一味とバンダ デッラ コマシーナは、リーダーの
   ヴァランツァスカ
   トゥラテッロ
が同じ刑務所に収監されていた当時、互いにギャング抗争を繰り広げていた。
 しかし、そこで和解し、絆を深めた。
 2 つの犯罪グループの間で新たに築かれた同盟は、ミラノの裏社会における彼らの影響力と権力を増大させるばかりで、リーダーが収監されている間も、ミラノの組織犯罪の多くを支配できるようになった。
 1981年、トゥラテッロはカモッラのボス
の命令により獄中で暗殺された。
 この暗殺でトゥラテッロ一味は崩壊、コマジーナ一味は重要な仲間を失った。
 トゥラテッロ暗殺の直後、まだ投獄されていた
   ヴァランツァスカ
は獄中反乱を組織して参加し、2人のペンティティ(イタリア政府に協力する元ギャング)が惨殺された。
 ヴァランツァスカは度重なる脱獄を試みたものの、依然獄中で4回連続の終身刑と290年の刑に服しており、彼の不在中にコマジーナ一味は崩壊し、1980年代初頭に解散した。
◯他の国におけるイタリアの犯罪グループ
 イタリアの組織犯罪グループ、特にシチリアマフィアとカモッラは、何十年にもわたってヘロインの密売に関わってきた。
 1970年代と80年代に彼らの麻薬密売計画をターゲットにした2つの主要な捜査は、
という裁判として知られている。
 これらの捜査と他の捜査により、他の主要な麻薬密売組織との協力関係が徹底的に文書化されている。
 イタリアの犯罪グループはまた、違法賭博、政治腐敗、恐喝、誘拐、詐欺、偽造、合法的なビジネスへの侵入、殺人、爆破、武器密売にも関与している。
 イタリアの業界専門家は、彼らの世界的な犯罪活動の価値は年間1000億ドル以上であると推定している。
 イタリアの犯罪グループ(特にシチリアのマフィア)はコルシカのギャングともつながりがある。
 こうした連携はフレンチ・コネクション時代に特に重要だった。
 1990年代には、コルシカのマフィアとシチリアのマフィアのつながりによって、ラヴェッツィ諸島にシチリアのギャングが設立された。
 現在アメリカで活動しているのは、
   シチリア・マフィア
   カモッラ
   サクラ・コロナ・ウニタ(「聖なる王冠連合」)
である。
 連邦捜査局(FBI)はこれらを「イタリア組織犯罪」(IOC)と呼んでいる。
 これらのイタリアの犯罪グループは、シチリア・マフィアの分派であるイタリア系アメリカ人マフィアと頻繁に協力している。
 世界的な麻薬取引における優位性により、ンドランゲタは世界のすべての大陸に存在する最初で唯一のイタリアの犯罪組織となった。
 オランダ、ベルギー、ドイツ、オーストラリア、カナダなどの国々で強い存在感を示している。
 特にンドランゲタとカモッラは、ロンドンに多額の投資をしながら、金融会社やビジネス活動を利用して英国をマネーロンダリングの関心地域とみなしている。
 イタリア国外では、カモッラは特にスペインで活動しており、1980年代から同国で強い存在感を確立している。
 スペインで活動している最も重要な一族には、ポルベリーノ一族、アマート・パガーノ一族、コンティーニ一族などがある。
 しかし、カモッラ一族は他のヨーロッパ諸国でも活動しており、その存在感はさまざまである。
 これらの国での活動は、主に麻薬密売とマネーロンダリングに関連している。
 ンドランゲタは、コロンビア、ブラジル、アルゼンチンなどのラテンアメリカ諸国で縄張りを築き、組織犯罪グループと密接な関係を築いてきた。
 カモッラも1980年代から南米からの重要な麻薬輸入ルートを維持している。
 また、シチリアのマフィアはベネズエラに存在し、特に
   クントレラ・カルアナ・マフィア一族
は強力な拠点を築いていた。
◯イタリアの非イタリア人犯罪グループ
 イタリアでは数多くの犯罪組織が活動している。
 その多くはイタリア在住の非イタリア人で、アルバニア、ルーマニア、ウクライナ、モロッコのマフィア、中国の三合会、ロシアやナイジェリアのギャングなどである。
 また、ロンバルディア州で最も頻繁に活動している
   ラテンキングス
など、中南米出身の犯罪グループの数も増えている。
 アルバニアのギャングは歴史的にローマ、ミラノ、プーリア州を中心に活動しているが、エミリア=ロマーニャ州やモリーゼ州など他の地域にも活動を拡大している。
 これらの組織のほとんどは、イタリアの組織犯罪グループの管理と許可のもと、売春と麻薬密売にその野望を集中させている。
・アルバニアのマフィア
 地理的な近さ、イタリアを通じたEUへのアクセス、そしてカラブリア州とプーリア州の犯罪とのつながりはすべて、イタリアのシナリオにおけるアルバニア人の犯罪の拡大に寄与している。
 経済に関連する更なる要因がアルバニアの犯罪をさらに競争的にしている。
 実際、1990年代初頭にイタリアに到達したいくつかの組織は、ンドランゲタが運営するロンバルディアの麻薬密売ネットワークに潜入した。
 アルバニアのマフィアのリーダーたちは、イタリアの犯罪組織、そしてマフィアとも安定した協定を結んだ。
 このため、多くの違法なサーキットで正当性を獲得し、同様のホスト組織との衝突を避けるため活動を多様化してきた。
 そのため、アルバニアの麻薬密売はプーリア、シチリア、カラブリア、カンパニアで発生し、ラツィオ、ロンバルディア、エミリア・ロマーニャにも麻薬密売活動を拡大している。
 アルバニアのマフィアはローマの麻薬密売に深く関わっており、捜査当局はイタリアの首都で活動する最も重要な組織の一つとみなしている。
 ローマ郊外の町、特にヴェッレトリでは、アルバニア人が一時期、麻薬密売の主要組織であると考えられていた。
 ローマとその周辺で活動するアルバニア人マフィアの最も悪名高く重要な犯罪者の一人は
   エルビス・デムセ
で、2022年に逮捕され、懲役18年の判決を受けた。
 アルバニアのマフィアはバーリ 市で麻薬ビジネスに非常に積極的で、市の犯罪グループ、特に
   ストリスチュリオ一族
と同盟を結んでいる。
 アルバニアの犯罪グループはまた、バーリとその州への戦争兵器の密輸にも関与している。
 バーリで活動するアルバニアのマフィアの人物の中には、アルバニアとバーリ市の間の大量のヘロイン密売を担当している
   アレクサンドル・ホダイ
がいる。
◯ナイジェリアマフィア
 ナイジェリアマフィアはイタリア全土で強い存在感を示している。
 カンパニア州のカステル・ヴォルトゥルノは、ヨーロッパにおけるナイジェリアマフィアの拠点とみなされている。
 ナイジェリアマフィアは、
   南米のコカイン
   アジアのヘロイン
   アフリカの女性
の密売拠点としてこの国を利用している。
 ナイジェリアのギャングは、土着の組織犯罪グループと提携し、イタリアの犯罪シンジケートの構造と運営方法を採用している。
 ナイジェリアマフィアは、カモッラマフィアとシチリアマフィアに貢物(犯罪組織からの利益の一部)を支払っている。
 パレルモでは、
   ネオブラック運動
とつながりのある麻薬の売人のグループが、2018年に「マフィアのような組織」のメンバーとして有罪判決を受けた。 
 2025年1月、イタリア警察はプーリア州バーリ市で ナイジェリアの犯罪グループと歴史ある
   カプリアーティ一族
の間の麻薬密売計画を解体した。
 両組織の同盟は、一族の勢力圏のナイトクラブで麻薬を販売するカプリアーティの関連者に麻薬を供給することを目的としていた。
◯ルーマニアのマフィア
 イタリアでは、ルーマニア人の犯罪者のほとんどが窃盗やポン引きに関わっている。
 なお、トリノでは地元コミュニティ内にイタリア風のマフィアを形成し、売春婦を経営するルーマニアのナイトクラブから金をゆすり取ったり、結婚式に自分たちの商売や歌手を強制的に押し付けたりしていた。
 また、トリノでは、ルーマニアの犯罪者が恐喝、強盗、麻薬密売を専門とする
   「ブリガダ・オアルザ」
というグループを結成した。
 2014年、ブリガダ・オアルザのメンバー15人がマフィアとのつながりで有罪判決を受け、最高15年の懲役刑を言い渡された。
 これは、ルーマニア人のグループがマフィアのような犯罪組織に関与したとして有罪判決を受けたイタリア初の判決だった。
 ブリガダ・オアルザのリーダーは、元プロボクサーのヴィオレル・ロブであるとされている。
◯中国の三合会
 テロ組織とマフィア型組織犯罪の専門家
   アントニオ・デ・ボニス
によれば、三合会とカモッラは密接な関係にあり、ナポリ港はカモッラと協力する中国人グループが運営する活動の最も重要な上陸地点である。
 この2つの犯罪組織が協力して行う違法行為には、イタリア領土での中国人の性的・労働搾取を目的とした人身売買や不法移民、麻薬密売、不動産、商業施設、事業の買収による違法資金のロンダリングなどがある。
 2017年、捜査官はカモッラ一族と中国のギャング団の間の計画を暴露した。
 このギャング団はイタリアから中国へ産業廃棄物を輸出し、両組織に数百万ユーロの収益を保証していた。
 産業廃棄物はプラートを出発し、香港に到着した。
 この同盟に関与していた一族には、カザレージ一族、 ファッブロチーノ一族、アシオーネ一族などが含まれていた。
◯イタリアにおける組織犯罪との戦い
・マキシ裁判の公聴会
 この現象とより効果的に闘うため、1980年代から、マフィアのような結社や政治マフィアの選挙交換に対する犯罪の導入、特別な刑務所制度の導入、イタリアの刑務所制度に関する法律の第41条の2の導入、国際司法協力、マフィア犯罪撲滅のための高等弁務官(後に廃止)などの特別機関の設置など、この問題に関するいくつかの立法措置が作られ始めた。
 1990年代には、
   ジョヴァンニ・ファルコーネ
   パオロ・ボルセリーノ、
   アントニーノ・カポネット
などのイタリアの裁判官の働きにより、反マフィア捜査局と反マフィア・反テロリズム国家局が設立された。
 この問題に関する規定の多くは、法律第 1933年法律第 101号にまとめられた。
 反マフィア・プールは、シチリア島パレルモ検察庁の捜査判事のグループであり、情報を共有し、シチリア・マフィアに対する新しい捜査・起訴戦略を練りながら緊密に協力していた。
 この非公式のプールは、1970年代の北イタリアの反テロ裁判官の例に倣い、1980年代初頭に
   ロッコ・チンニッチ裁判官
によって設立された。
 最も重要なことは、彼らがマフィアの起訴を進めるための集団責任を負っていたことである。
 プールの全メンバーは、
   ガエターノ・コスタ裁判官
の命を奪ったような特定のリスクに誰かをさらすことを避けるために、起訴命令に署名した。
 コスタは、スパトーラ=インゼリーロ=ガンビーノ一族のヘロイン密売ネットワークに対する起訴状55号に署名していた。
ただ、彼の事務所の他の検察官のほとんどが署名を拒否していた。
 このため、この事実が事務所から漏れ、最終的に彼の命を奪った。
 彼は1980年8月6日、
   サルヴァトーレ・インゼリーロ
の命令で殺害された。
 1983年7月、ロッコ・チンニッチ判事がマフィアに殺害された。
 パレルモ検察庁の捜査部門である「指導局」(Ufficio istruzione)の責任者としての彼の地位は、
   アントニーノ・カポネット
が引き継ぎ、グループを正式化した。
   パオロ・ボルセリーノ
   ジュゼッペ・ディ・レロ
   レオナルド・グアルノッタ
がグループに所属していた。
 その後、このグループはマフィアに関するいくつかの調査を統合した。
 1986年2月にマフィアに対する マキシ裁判が始まり、1987年12月まで続いた。
 マキシ裁判(イタリア語:Maxiprocesso )は、シチリア島パレルモで行われたシチリア・マフィアに対する刑事裁判である。
 この裁判は1986年2月10日(アッシーゼ法廷初日)から1992年1月30日(最高裁判所最終日)まで続いた。
 ウッチャルドーネ刑務所の壁の中にこの目的のために特別に建設さあおれたバンカー式の法廷で行われた。
 シチリア検察は、主に情報提供者となった元マフィアのボス、特に
   トマーゾ・ブシェッタ
マフィアの活動に関連する多数の犯罪で475人のマフィアを起訴した。
 大半の338人が有罪判決を受け、19人のボスに言い渡された終身刑を除いて合計2,665年の刑を宣告された。
 この有罪判決は、控訴の最終段階を経て、 1992年1月30日にイタリア最高裁判所によって支持された。
 この裁判の重要性は、コーザ・ノストラの存在が最終的に司法によって確認されたことである。
 これはシチリア・マフィアに対する史上最も重要な裁判であると同時に、世界史上最大の裁判であると考えられている。
 裁判中および裁判後に、
   ジョヴァンニ・ファルコーネ
   パオロ・ボルセリーノ
の2人をリーダーとする裁判官や治安判事数名がマフィアによって殺害された。
 スパルタクス裁判(Processo Spartacus )は、カモッラの強力な
   カザレージ一族
の活動をそれぞれ具体的に対象とした一連の刑事裁判であった。
 裁判はカゼルタのサンタ・マリア・カプア・ヴェーテレのコルテ・ダッシーゼで開かれた。
 この裁判は、古代カプアで始まった古代ローマ帝国に対する奴隷の反乱を率いた歴史上の剣闘士、スパルタクスにちなんで名付けられた。
 裁判は1998年7月1日に
   カテッロ・マラーノ裁判長
によって最初に主宰された。
 裁判は2008年6月19日に最終判決が読み上げられるまで、ちょうど10年余り続いた。
 この10年間の法廷裁判で、36人の一族のメンバーが一連の殺人やその他の犯罪で起訴された。
 カザレシ一族は、廃棄物処理から建設まで、あらゆる事業と経済的機会を搾取し、強奪し、セメント市場で自分たちの建設事業から資材の流通まで独占状態を築いていた。
 建設会社は契約料を支払い、一族から資材を購入し、警護料を支払い続けなければならなかった。
 一族は選挙も支配していた。
 裁判では1,300人以上が捜査され、508人の証人が証言し、626人が事情聴取され、合計700年の懲役という組織犯罪としては史上最も重い刑罰が下された。
 最初の裁判と控訴の過程で、法廷通訳を含む事件関係者5人が殺害された。
 裁判官1人とジャーナリスト2人が殺害の脅迫を受けた。
 合計で115人が起訴され、被告には27人の終身刑と750年の懲役が言い渡された。
 2010年1月15日、イタリアの最高裁判所は判決を確定した。

  
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2025年12月11日

スカンピア抗争(Scampia feud)第一スカンピア抗争(Prima faida di Scampia)とも呼ばれるイタリア・ナポリのスカンピア地区で2004年から2005年にかけて勃発した抗争

スカンピア抗争(Scampia feud)
 第一スカンピア抗争(Prima faida di Scampia)とも呼ばれる。
 イタリア・ナポリのスカンピア地区で2004年から2005年にかけて勃発した、
   カモッラ・ギャング
の間の抗争である。
 この抗争は、セコンディリアーノ出身の
   ディ・ラウロ一族
と、ナポリ北部郊外で麻薬と売春組織の支配権を確立しようとしたいわゆる
   「分離派」(Scissionisti di Secondigliano)
との間で起こった。
 北部郊外を支配するカモッラ一族の長
   パオロ・ディ・ラウロ
は、コカインとヘロインを輸入し、多数の売春業者を通じて流通させる、
 厳格に管理された麻薬帝国を率いていた。
 ディ・ラウロは、独占権と収益の分配と引き換えに、近隣の首謀者たちに一定の自治権を与えていた。
 当局の追及が強まる中、2002年9月23日、彼は身を潜めた。
 彼は10人の息子の一人
   ヴィンチェンツォ・ディ・ラウロ
に事業を託した。
 2004年4月1日にヴィンチェンツォが初めて逮捕された後、
   コジモ・ディ・ラウロ
が事業を引き継いだ。
 コジモ・ディ・ラウロは、フランチャイズ方式で運営されていた麻薬取引事業を中央集権化しようと考えていた。
 フランチャイズ方式では、売人はディ・ラウロ一家に取引手数料を支払い、利用可能なあらゆる供給元から麻薬を購入することが認められていました。
 若いディ・ラウロは、古参のギャングを排除し、代わりにこの業界に馴染みのない若い犯罪者を配属した。
 2004年10月、現在「分離派」として知られる一派がディ・ラウロ一家に反乱を起こした。
 地元の売人の一人、ラファエレ・アマートは新しい規則に異議を唱え、スペインに逃亡した。
 ここで、かつてのボスたちに対する反乱を組織した。
 スカンピアでは、彼らは「スペイン人」として知られている。
 2004年10月28日、ラファエレ・アマートは、コジモ・ディ・ラウロに熱烈な忠誠を誓っていた
   フルヴィオ・モンタニーノ
   クラウディオ・サリエルノ
の殺害を命じた。
 3日後の葬儀の最中、警察は葬列への発砲を計画していた機関銃で武装した2人の男を逮捕した。
 両組織は、屈強なカラビニエリでさえも驚愕させるほどの残忍な抗争を繰り広げた。
 2004年11月21日、21歳の
   ジェルソミーナ・ヴェルデ
が誘拐され元恋人でシシオニスティ一族の一員である
   ジェンナーロ・ノットゥルノ
の居場所を明かさせようとする意図からか残忍な拷問を受けた。
 ただ、二人は誘拐の数週間前に別れていた。
 彼女は首を3発撃たれ、遺体は車に乗せられ、放火された。
 彼女の死は広く国民の反発を招き、当局による大規模な取り締まりにつながった。
 カンパニア州(州都ナポリ)の知事
   アントニオ・バッソリーノ
は、「この課題に立ち向かう必要があり、政府は注意を払わなければならない」と述べた。
 2日後、ジュゼッペ・ピサヌ内務大臣は、人口に対する警察の比率が国内最多のナポリに325人の警察官を増員した。
 2004年12月7日夜、1,500人の警察官が動員された捜査により、
   チーロ・ディ・ラウロ
を含む52人のギャング容疑者が逮捕された。
弟のコジモ・ディ・ラウロは2005年1月21日に逮捕された。
 対立組織のリーダーであるラファエレ・アマートは2005年2月26日に逮捕された。
 2005年9月16日、警察はパオロ・ディ・ラウロを、市の北部郊外にある貧しいセコンディリアーノの質素なアパートで逮捕した。
 彼は麻薬密売の罪で懲役30年の判決を受けた。
 2週間後、パオロ・ディ・ラウロは法廷で「分離派」のボスの一人である
   ヴィンチェンツォ・パリアンテ
に公然とキスをした。
 捜査官はこの仕草を抗争終結の合図と解釈した。
 しかし、殺人事件は2008年まで続いた。
 いわゆるセコンディリアーノ同盟のボスと目されていた
   ヴィンチェンツォ・リッチャルディ
は、2008年2月に逮捕された。
 彼は2004年7月からイタリアの最重要指名手配リストに載っていた。
 第二次スカンピア抗争(Seconda faida di Scampia)は、犯罪組織「シシオニスト・ディ・セコンディリアーノ」における内部抗争であり、2012年8月から同年12月まで続いた。
 この抗争に関連した殺人事件は2013年から2014年にかけて発生した。

   
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2025年12月10日

法の泥棒(Thief in law)

ソビエト連邦、旧ソ連諸国、そしてそれぞれのディアスポラにおいて、
   法の泥棒(thief in law あるいはthief with code)
は、「犯罪権力」の正式かつ特別な地位であり、特定の犯罪的伝統に従い、
   組織犯罪
   矯正施設内の構成員
の中でエリート的地位を享受し、より地位の低い構成員に対して非公式な権力を持つ職業犯罪者を指すことば。
 「法の泥棒」という語句は、ロシア語の俗語vor v zakoneの派生語である。
 直訳すると「法の地位にある泥棒」となる。
 この語句はロシア語で
   「合法化された泥棒
   法そのものである泥棒
という2つの異なる意味を持つ。
 「Vor」(вор)が「泥棒」を意味するようになったのは18世紀以降である。
 それ以前は「犯罪者」を意味していた。 
 この言葉は、職業犯罪者の隠語としてこの意味を保っている。
 新たな泥棒は、複数のヴォーリ(воры)の合意によって、文字通り「王冠を戴いた」男として選出され、審査を受ける。
 それぞれの儀式と入れ墨が施された。
 ヴォーリ文化は刑務所の組織犯罪と切り離せないもので、ヴォーリの地位を得るには、繰り返し投獄された受刑者のみが必要とされる。
 法律上の泥棒は、ソ連崩壊後の多くの国々から、様々な国籍の人々が集まっている。
 ロシア、ウクライナ、ジョージア、アルメニアには長らく犯罪者や盗賊の集団が存在していた。
 ただ、1917年のロシア革命の混乱期に
   武装集団
が急増し、社会を支配する非常に重要な要素となった。
 独自のスラング、文化、法律を持つこの犯罪文化は、
   ヴォーロフスコイ・ミール(воровской мир、「泥棒の世界」)
として知られるようになった。
 1917年の革命後まもなく、ソ連では警察と司法制度が再建された。
 NKVDの秘密警察は犯罪組織をほぼ壊滅させた。
 また、スターリン政権下では、強制労働収容所は
   政治犯
   犯罪者
で溢れかえり、新たな組織化された犯罪組織「ヴォルィ・フ・ザコーネ」(「法の泥棒」)が誕生した。
 「法の泥棒」は、収容所内の犯罪組織を支配するための組織として形成された。
 「KGBの手が届かないソ連生活の暗部を支配する」存在であった。
 彼らは集団責任制度を採用し、「犯罪者の理想を支持する義務、労働活動や政治活動の拒否を含む、犯罪生活の法に完全に従う」という規範を誓いた。
 例えば、収監中はヴォルィはあらゆる労働を拒否しなければならず、所長や矯正官をいかなる形でも支援することは許されません。「法の泥棒」の規範には、「自らの刑務所を作ってはならない」と記されている。
 囚人が看守の前を通りかかり、看守から夕食のベルを鳴らすよう求められた場合、囚人は拒否しなければならない。
 拒否した場合、他の囚人によって裁かれ、
   看守を幇助した罪
で有罪となる。
 ヴォーリーは独自の裁判所を組織し、「泥棒の名誉と伝統」の規範に基づいて裁判を行った。
 グループへの加入は、特定のタトゥーによって示されることが多く、犯罪界のすべての構成員が「法の泥棒」を即座に認識できるようにしている。
 ほとんどの囚人は、犯罪界における地位、注目すべき犯罪歴、以前の収監場所を示すために、(他の囚人によって)タトゥーを入れられている。
 例えば、猫が1匹のタトゥーは、その犯罪者が単独で強盗を行っていることを示している。
 また、複数の猫のタトゥーは、強盗の際に共犯者がいることを表している。
 伝えられるところによると、「共産党が政府と社会を確固たる支配下に置いていた一方で、ヴォーリは犯罪をほぼ独占していた」とのことである。
 第二次世界大戦後、
   グラーグ(強制収容所)
におけるヴォーリは、いわゆる「ビッチ戦争」によって弱体化した。
 これは、純粋なヴォーリと、いわゆる「スキ」(суки、「雌犬」)との間の刑務所ギャング抗争である。
 スキとは、かつて犯罪組織の元構成員であり、刑務所や労働収容所、そして政府への協力に同意し、主に武器を手に取り(泥棒には許されない行為)、ソビエト軍に入隊することで、泥棒の掟を破った者たちのことである。
 「ビッチ戦争」は数十年にわたって続いた。
 スキの数が多かったため、ほとんどのグラーグは2つのゾーンに分けられ、1つはスキ用、もう1つはヴォーリ用であった。
 1990年代初頭のソ連崩壊後、ヴォーリはロシアの犯罪組織において主導的な役割を担うようになった。
 このグループは旧ソ連諸国に蔓延する急成長中の犯罪ネットワークを掌握しながら、政治・経済のトップ層に浸透する能力を持っていた。
 「法の泥棒」は他の「ヴォリー」から称号を与えられ、認められるためには、卓越したリーダーシップ、個人能力、知性、カリスマ性に加え、十分な証拠に基づいた犯罪歴を示さなければならない。
 認められた後は、彼らは「泥棒の掟」に従って生きなければならない。
 この掟に違反した場合の罰は、多くの場合、身体の切断または死刑である。
 伝えられるところによると、「今日、ヴォリーは世界中に広がり、マドリード、ベルリン、ニューヨークにまで広がり」、彼らは「軽窃盗から数十億ドル規模のマネーロンダリングまで、あらゆる犯罪に関与し、対立するロシアの犯罪組織の調停役も務めている」。
 ロシアで資本主義が定着し始めると、大学教育を受けた犯罪者がより利益の高い事業を掌握するケースが増えたと伝えられている。
 これらの新たな犯罪組織は1990年代に初めてヴォーリと協力した。
 2000年代には大企業や政府との結びつきが強まった。
 その結果、「ヴォーリは依然として賭博や小売業で強い勢力を持っているものの、ロシア経済と社会における彼らの重要性は低下している。」とされている。
 ただ、犯罪者の大半は最終的に逮捕され投獄されるため、いずれはロシアの刑事司法制度における犯罪界の階層構造の頂点に立つヴォーリと接触することになる動きだ。
 2011年、オバマ政権は「ブラザーズ・サークル」と呼ばれる組織に対して制裁を発動した。
 この組織には、法律に反する窃盗犯が数人含まれている。
 ポニャティヤ(понятия、「概念」または「理解」)とは、
   囚人間の行動規範(あるいは慣習法、名誉規範)
であり、ヴォーリはこれらの規範に従って敬意を払う指導者であり、裁判官である。
 ヴォーリは刑務所を真の故郷と考えており、「天使の故郷は天国であり、ヴォーの故郷は刑務所である」という格言を作り出している。
 ソ連内務省とGRUの組織犯罪対策部隊を率いたヴォーリの専門家、アレクサンドル・グロフ氏によると、「コーザ・ノストラとは異なり、ヴォーリは『規則は少ないが、より厳格な』規則を定めており、メンバーは政府との繋がりを一切持たないことが求められる。
 つまり、軍務に就くことも、刑務所にいる間は政府関係者に協力することもできないということである。
 また、メンバーとして認められるには、複数の刑期を終えていることも必要です。結婚も認められていない。
 さらに、ミヒャエル・シュヴィルツ氏によると、「民族性によってクラブへの入会資格が決まるケースはほとんどなく、今日では、ロシア国内で活動しているメンバーでさえ、アルメニアやジョージアといった旧ソ連圏諸国出身者が多く、ロシア系ではない。
 『収容所群島』の著者
   アレクサンドル・ソルジェニーツィン
は、個人的な犯罪的欲求と矛盾する規範を遵守する泥棒を見たことがないと述べている。
 ヴォーリがリーダーを務める刑務所の受刑者サブカルチャーは、象徴的なタトゥーを持つことでよく知られている。
 タトゥーは通常、刑務所内で原始的な道具を用いて入れられる。
◯法の泥棒に関連するタトゥー
 ・八芒星
   ヴォーリ・ミールの主要なタトゥーであり、通常は肩に施される。
 ・聖母子像
   幼い頃から犯罪に手を染めてきたことを示している。
 ・蜘蛛のタトゥー
   上向きにすると現役の犯罪者、下向きにすると犯罪から脱却した者を表します。
 ・丸で囲まれたA(指輪のような形)
   アナーキストを表す。
 ・指輪に点が入った円
   「丸石」と呼ばれる。
   孤児、あるいは「頼れるのは自分のみ」の証である。
 ・指輪に四角形の中に頭蓋骨が入っているもの
   強盗罪の有罪判決を意味する。
 ・指輪に正教会の十字架が入った菱形
   義理の泥棒を意味する。
 ・指輪に左半分が黒で右半分が白い円
   義理の泥棒の周りを動き回るが、自身は泥棒ではないことを意味する。
 ・vorov、「泥棒の輪の中にいる」)。
 ・КОТ(KOT、直訳すると「雄猫」)の文字
   ロシア生まれの囚人を表す。
   猫はロシアの囚人の間で非常に尊敬されており、「警察犬」とみなされる犬とは異なる。
   もし囚人が幸運にも猫を飼い慣らすことができれば、猫は最高の待遇を受ける。
 ・手の甲にあるОМУТ(OMUT、直訳すると「深い水たまり」)
   「私から逃げるのは難しい」(от меня уйти трудно, ot menya uyti trudno)を表す。
 ・手の甲にあるМИР(MIR、文字通り「世界」または「平和」)の文字
   決して更生も再教育もされない人(、「銃撃で更生できる」)を表す。
 ・手の甲にあるСЕВЕР(SEVER、文字通り「北」)という言葉
   北の刑務所(シベリアまたはマガダン)で刑期を務めたことを示す。
 ・手の甲にある帽子をかぶった猫(長靴をはいた猫)
   法律上の泥棒のシンボルであり、まさに泥棒を意味する。
 ・手の甲にある悪魔の頭(оскал, oskal、「むき出しの歯」、голова дьявола、golova diavola)
   政府に対して怒りを抱いている人を表す。
 ・手首にある五の目印
   長期の懲役刑に服した人を表す。
   「4つの監視塔と私」(четыре вышки и я, chetyre vyshki i ya)という諺に由来する。
   ロシア系住民は依然として多くいるが、旧ソ連の他の民族集団出身者も多く活動している。

   
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2025年11月25日

米国内国歳入庁(Internal Revenue Service IRS)

米国内国歳入庁(Internal Revenue Service IRS)
◯機関概要
 1862年7月1日設立 
 従業員数 90,516人(常勤換算74,299人)(2025年)
 年間予算 143億ドル(2022年)
 親機関 米国財務省 
 アメリカ合衆国連邦政府の歳入庁であり、
   連邦税の徴収
と、連邦法定税法の本体である
   内国歳入法の施行
を担当している財務省傘下の機関。
 内国歳入長官が長官を務めている。
 長官はアメリカ合衆国大統領によって5年の任期で任命される。
 IRSの任務には、
   納税者への税務支援の提供
   誤りまたは不正な税務申告の追及と解決
そして医療費負担適正化法(Affordable Care Act)を含む
   様々な給付プログラムの監督
が含まれている。
 IRSは、1862年に
   南北戦争の資金調達
のためにアメリカ初の所得税を課税するために設立された連邦機関
   内国歳入長官事務所
に由来している。
 この暫定措置は、10年後に失効するまでに、北軍の戦費の5分の1以上を賄った。
 1913年、アメリカ合衆国憲法修正第16条が批准され、議会に所得税を課す権限を与え
   内国歳入庁(IRS)
が設立された。
 1953年、IRSは内国歳入庁(IRS)に改称され、その後数十年間にわたり数々の改革と再編が行われ、最も顕著な改革と再編は1990年代に行われた。
 設立以来、IRSは主に米国連邦政府の財政に必要な歳入の徴収を担っている。
 残りの歳入は米国税関・国境警備局(関税の徴収)または連邦準備制度(米国債の購入)を通じて賄われている。
 IRSは、その手法、合憲性、そして課税原則全般について、定期的に論争や反対に直面している。
 近年、IRSは
   予算削減
   人員不足
   技術の老朽化
   士気の低下
といった問題に悩まされている。
 また、高所得者や大企業に対する
   税法の不適切な執行
   税収の減少
   財政赤字の増大
   重要優先分野への支出の減少
あるいは歳入の減少を補うために
   従順な納税者への増税
といった事態を招いている。
 調査によると、IRSの監査は、初回の監査を通じて、また間接的に将来の脱税を抑止することで歳入を増加させることが明らかになっている。 
 2024年の調査によると、「所得の90%を超える納税者を監査するために
   1ドル追加で支出
すると
   12ドル以上の歳入
が得られるが、中間所得以下の納税者を監査すると
   5ドルの歳入
が得られる」という。
 2018年時点で、職員数は15%削減され、執行職員の25%以上がいなくなった。
 2023年度には、IRSは2億7,140万件以上の
   納税申告書
を処理し、そのうち
   個人所得税申告書
は1億6,310万件以上であった。
 2023会計年度において、IRSは約4兆7,000億ドルを徴収した。
 これは連邦政府の運営資金の約96%に相当し、教育や医療から国防やインフラ整備に至るまで、アメリカ社会の様々な分野に広く資金を提供している。
 2024年12月4日、ドナルド・トランプ次期大統領は、
   ビリー・ロング氏
を内国歳入庁長官に指名する意向を発表した。
 2025年9月現在、ドナルド・トランプ第2期大統領就任以来、7人の職員が長官代行を務めており、これは歴史上前例のないことである。
 ジョージ・S・バウトウェルは、
   エイブラハム・リンカーン大統領
の下で初代内国歳入長官を務めた。
 南北戦争中の1862年7月、エイブラハム・リンカーン大統領と議会は
   戦時中の緊急かつ臨時の税
として1862年歳入法を可決し、内国歳入長官の職を創設した。
 戦費を賄うための臨時所得税を制定した。
 この法律は、貿易税や財産税ではなく、比較的新しいイギリスの所得税制度を模倣したものであった。
 最初の所得税は1862年に制定されました。
 当初の税率は800ドルを超える所得に対して3%で、ほとんどの賃金労働者は免除されていた。
 1862年の税率は、600ドルから10,000ドルまでの所得に対して3%、10,000ドルを超える所得に対して5%でした。
終戦までに、北軍世帯の10%が何らかの所得税を納めていた。
 北軍は戦時歳入の21%を所得税で賄っていた。
 南北戦争後、レコンストラクション、鉄道建設、そして南北戦争体制の平時への転換には公的資金が必要となった。
 ただ、戦後7年目の1872年、議会は南北戦争時の暫定所得税の失効を認めた。
 所得税はその後も発展したが、1894年、最高裁判所は
   ポロック対ファーマーズ・ローン・アンド・トラスト社事件
において1894年所得税を違憲と判断した。
 この判決は
   ヒルトン対合衆国事件
の判決と矛盾し 連邦政府は資金調達に奔走した。
 1906年、セオドア・ルーズベルト大統領、そして後に後継者
   ウィリアム・ハワード・タフト
が選出されると、アメリカ合衆国では税制改革を求める
   ポピュリスト運動
が起きた。
 この運動は、当時大統領候補だった
   ウッドロウ・ウィルソン
の1912年の大統領選挙で最高潮に達した。
 1913年2月には合衆国憲法修正第16条が批准された。
 連邦議会は、その所得の源泉を問わず、各州への配分をすることなく、また、いかなる国勢調査や戸別調査にも関わらず、所得税を課し、徴収する権限を有する。
 この修正により、連邦議会は、人口に基づく各州への配分を考慮せずに所得税を課すという明確な権限を付与された。
 1913年2月までに、36州が憲法改正を批准した。
 さらに3月までに6州が批准した。
 当時48州だった州のうち、42州が批准している。
 コネチカット州、ロードアイランド州、ユタ州は修正案を拒否した。
 また、ペンシルベニア州、バージニア州、フロリダ州はこの問題を取り上げなかった。
 連邦政府による所得税の徴収を認める憲法修正案は1909年にタフト大統領によって提案された。
 ただ、修正第16条は
   第一次世界大戦
の勃発直前の1913年まで批准されなかった。
 同年、1040フォームの初版が導入された。
 1913年のフォームのコピーはオンラインで閲覧可能で、所得税申告書の提出が指示されていたのは、年間所得が3,000ドル以上(2024年の95,400ドルに相当)の人のみであった。
 修正第16条の批准後1年間は、税金は一切徴収されなかった。
 納税者はフォームに記入するだけで、IRS(内国歳入庁)がフォームの正確性を確認していなかった。
 IRSの業務量は10倍に増加し、大規模な組織再編が引き起こされた。
 専門の徴税官が、従来の
   「パトロン」制度
に取って代わり始め、IRSは職員数を倍増させた。
 1919年になっても1917年の納税申告書の処理を続けている状況に陥った。
 所得税は戦時中の軍事資金の調達に必要な資金の大部分を賄った。
 1918年には新たな歳入法により最高税率が77%に定められた。
 1919年、IRSは
   アルコールの販売と製造の禁止に関する法律
の執行を任務としていた。
 この法律は1930年に司法省の管轄下に移管された。
 1933年の廃止後、IRSは
   飲料アルコールに対する税金
の徴収を再開した。
 1972年、IRSのアルコール、タバコ、銃器に関する業務は、
   アルコール・タバコ・火器及び爆発物取締局
に分離された。
 アメリカ合衆国が第二次世界大戦に参戦した1942年、新たな税法を可決した。
 この法律には、戦時中の
   特別追加課税
が含まれていた。
 所得税を納税するアメリカ国民の数は、1939年の約400万人から1945年には4,200万人以上に増加した。
 1952年、職員による脱税や賄賂といった政治的に痛手となる一連の事件の後、
   トルーマン大統領
が提案し議会の承認を得た計画に基づき、内国歳入庁を再編した。
 この再編により、多くの機能が徴税官事務所に代わる新しい地区事務所に分散された。
 内国歳入庁の政治的に任命された徴税官に代わり、公務員の長官が任命された。
 1954年、申告期限は3月15日から4月15日に変更された。
 1969年の税制改革法により、代替最低税を創設した。
 1969年、共和党の
はIRSに対し、
   政敵
だけでなく
   ベトナム戦争への米国の介入に反対する者
も監査するよう指示した。
 IRSの
   活動家組織委員会(後に特別サービススタッフと改名)
は、1,000以上の組織と4,000人以上の個人を対象とするリストを作成した。
 ホワイトハウスのメモには、「法廷で刑事訴追によってこれらの団体の活動を抑制することができないことは、IRSは
   行政措置
によって行うことができる」と記されていた。
 当時の長官ランドルフ・W・スローワーは、ニクソンの
   政敵監査要請
に抵抗したため、後に解任された。
 スローワーの後任であるジョニー・マック・ウォルターズは、
   ウォーターゲート事件
の勃発後、リストを金庫にしまい、議会に提出することを選択した。
 1998年内国歳入庁再編・改革法(「RRA 98」)により、組織は地域別組織から4つの業務部署に基づく組織へと変更された。
 また、特定の不正行為を行ったIRS職員を即時解雇することを義務付ける「10の致命的罪」が追加された。
 執行活動は減少した。
 IRS監督委員会は、執行活動の減少により「納税義務の遵守と、すべての税金を納めている大多数の国民に対する公平性について疑問が生じている」と指摘した。
 2012年6月、IRS監督委員会は財務省に対し、2014年度のIRS予算として130億7,400万ドルを勧告した。
ました。
 2017年12月20日、議会は2017年減税・雇用法案を可決した。
 この法案は、2017年12月22日に
   トランプ大統領
によって署名され、法律として発効した。
 1991年以降の30年間で、IRS(内国歳入庁)の住民100万人あたりの職員数は大幅に減少した。
 1991年の451人から2021年の237人に減少し、47.5%の減少幅であった。
 1950年代から1970年代にかけて、IRS(内国歳入庁)は
   記録の保管と整理
にマイクロフィルムなどの技術を使い始めた。
 リチャード・ニクソン大統領の納税申告書が漏洩した際、この情報へのアクセスは物議を醸した。
 ニクソン大統領の税務顧問
   エドワード・L・モーガン
は、ウォーターゲート事件で起訴された4人目の法執行官となった。
 ニクソン大統領の納税申告書を漏洩したとして告発された
   ジョン・リカード・ジュニア
は、ワシントンのスラム街で滞納税を徴収していた。
 彼は「私たちは5セント、10セントを狙って人々を追い詰めました。その多くは貧困層で、多くの場合、政府機関とのやり取りを知らない文盲の人々でした。」と述べている。
 ただ、リカードは申告書を見たことを認めたが、漏洩は否定した。
 プロビデンス・ジャーナル紙の記者
   ジャック・ホワイト
は、ニクソン大統領の納税申告書に関する報道で
   ピューリッツァー賞
を受賞した。
 ニクソンは年俸20万ドルで、1970年には792.81ドル、1971年には878.03ドルの連邦所得税を納めた。
 さらに、「副大統領文書」の
   寄付による控除
として57万1000ドルが課された。
 これが、ニクソンの有名な発言「私は詐欺師ではない。私が持っているものは
   すべて自分で稼いだ
ものだ」の理由の一つである。
 この漏洩は非常に物議を醸し、その後のほとんどのアメリカ大統領が納税申告書を公開した
 ただし、一部しか公開されていない場合もある。
 これらの申告書は、Tax History Projectでオンラインで閲覧できる。
 第二次世界大戦終結までに、IRSは機械式卓上計算機、会計機器、そして鉛筆と紙の申告書を組み合わせて、年間6000万件の納税申告書を処理していた。
 1948年にはパンチカード式の機器が使用された。
 所得税処理のためのコンピュータシステムの最初の導入は1955年で、カンザスシティに設置されたIBM 650が110万件の申告書を処理した。
 IRS(内国歳入庁)は1959年にコンピュータ化を進めることを承認された。
 地方および地域のデータ処理センター向けにIBM 1401およびIBM 7070システムを購入した。
 1965年からは社会保障番号が納税者の識別に使用された。
 1967年までにすべての申告書がコンピュータで処理された。
 パンチカードによるデータ入力は段階的に廃止された。
 1960年代後半のIRSシステムの情報処理はバッチモードで行われ、マイクロフィルム記録は毎週更新され、税務調査に対応するために各地域のセンターに配布されていた。
 対話型のリアルタイムシステム「税務管理システム」を導入するプロジェクトが開始された。
 IRS事務所に数千台の対話型端末が設置された。
 しかし、会計検査院(GAO)が税務管理システム(TAS)の
   プライバシー保護の欠如
を批判する報告書を作成し、このプロジェクトは1978年に中止された。
 1995年、IRS(内国歳入庁)は電子申告にインターネットを利用し始めた。
 電子申告の導入以来、自分のペースで利用できる
   オンライン税務サービス
が盛んに利用され、
   税理士の業務を補完
するようになり、税理士が時として代替されることもあった。
 2002年までに、全納税申告書の3分の1以上が電子申告で提出されるようになった。
 これにより、毎年処理される紙の申告書の件数は減少した。
 その結果、IRSは紙の納税申告書処理センターの統合計画を実施した。
 2003年から2011年の間に10か所あった処理センターのうち5か所を閉鎖した。
 電子申告の利用が拡大し続ける中、IRSはさらに2か所のセンターを閉鎖している。
 1か所は2019年に、もう1か所は2021年に閉鎖された。
 2021年の申告期間中に提出された全申告書の90%は、電子申告によるものであった。
 2003年、IRSは税務ソフトウェアベンダーと契約を締結した。
 IRSはオンライン申告ソフトウェアを開発せず、その代わりにソフトウェアベンダーはほとんどのアメリカ人に無料の電子申告を提供するというものであった。
 2009年には、申告者の70%が連邦税の電子申告を無料で利用できる資格を得た。
 2013年11月に発表された監察官の報告書によると、2012年のIRSによる
   40億ドル相当の不正な税金還付
は、米国における
   個人情報窃盗が原因
とされている。
 不正な請求は、盗まれた納税者番号と社会保障番号を用いて行われた。
 還付金は米国内および海外の住所に送付されていた。
 調査結果の発表後、IRSは2013年の
   個人情報窃盗事件
の大半を120日以内に解決したと発表した。
 一方、2011/2012年度の事件解決の平均期間は312日だった。
 2014年9月、IRS(内国歳入庁)の
   ジョン・コスキネン長官
は、オバマケアへの対応能力と、
   医療保険制度改革法
に基づく保険取引所で医療保険の保険料支払いを支援する
   保険料税額控除の運用能力
について懸念を表明した。
 また、ほとんどのアメリカ人に
   医療保険加入
を義務付ける同法の個人加入義務も施行した。
 2015年1月、フォックス・ニュースは、
   複数の面で混乱した納税シーズン
を予測する電子メールを入手した。
 この電子メールはIRSのコスキネン長官が職員に送ったものだった。
 コスキネン長官は、IRSが年末に2日間業務を停止し、
   職員の無給休暇
   納税者へのサービス削減
につながると予測した。
 また、2億ドルを超えるIT投資の遅延により、
   新たな納税者保護策の導入が遅れる可能性
があると述べた。
 同じく2015年1月、ニューヨーク・タイムズの編集委員会は、
   IRSの予算削減
を「一銭を惜しんで千金を失う」と評した。
(予算削減1ドルごとに税収が6ドルも失われている)
 2020年の財務省監査では、IRSは納税者向けの本人確認システムを改善した。
 ただ、デジタルID要件の完全な遵守には依然として遅れていることが明らかになった。
 翌年、IRSは一般アカウントへのアクセス、ID保護(IP)PINの設定、支払いプランの申請など、複数のオンラインツールにおいて、新しいログインおよびID確認プロセスを発表した。
  IRSのID、資格情報、アクセス管理(ICAM)イニシアチブの一環として、このプロセスには、納税者の​​本人確認にサードパーティ製の顔認識技術の使用が含まれていた。
 政府関係者や国民からのプライバシーに関する懸念を受けて、
   顔認識の要件
は2022年に廃止された。
 その後、IRSのオンラインツールをより多くの人々が利用できるようにすることを目的として、
   代替的なID確認オプション
が導入された。
 1930年代に
   フランクリン・ルーズベルト大統領
がIRSを使って政敵への攻撃をしていたと言われる。
 息子のエリオット・ルーズベルトもその事を証言しており、ルーズベルトがIRSを使った
   政治スキャンダルの先駆者
だとされている。
 1950年代から1960年代にはFBIがIRSを使い、公民権運動の
   マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師
とキング牧師を支持する
   南部キリスト教指導者会議(SCLC)
を警戒し、何度も監査を行った。
 1960年代には
   ジョン・F・ケネディ大統領
と司法長官を務めた弟の
   ロバート・ケネディ
の間で
   右翼団体
   保守派団体
   共産主義団体
   キリスト教団体
   ジョン・バーチ・ソサエティ
などなどを標的に免税の状態を調査し脅迫を行う
   「イデオロギーの組織プロジェクト」
      (Ideological Organizations Project)
と言う計画を行った。
 ケネディ大統領暗殺後、
   リンドン・ジョンソン大統領
が後を引き継ぎ、「イデオロギーの組織プロジェクト」も引き継いで行われた。
 ケネディ政権からジョンソン政権まで、この
   IRSスキャンダルの計画
は世間に知られずに隠蔽が継続された。
   特別な「サービス・スタッフ」(Special Services Staff)
と呼ぶ、秘密のIRS プログラムを行い、
   ニクソンの政敵を調査
して厳しい監査を行い、相手を悩ませたと言われている。
 こうした行為がウォーターゲート事件へと発展し、ニクソン大統領はそれで辞任に追い込まれ醜態をさらした。
 1990年代にはビル・クリントン大統領が大統領任期後半に保守派団体の
   ジュディシャルウオッチ
   全米ライフル協会
などを標的に厳しい監査を行った。
   全米黒人地位向上協会(NAACP)
の大会での演説招待をキャンセルした。
 NAACPは2000年の大統領選挙の時、
   ブッシュ候補を批判する広告募金
を展開し、NAACPの議長だった
   ジュリアン・ボンド
が2001年にブッシュが大統領に就任した時からブッシュ政権批判を展開してた。
 2004年の大統領選の時にブッシュ政権がIRSを使い、NAACPの監査を行っていたとされることからNAACPと民主党がブッシュ批判していた。
 2013年5月にはバラク・オバマ大統領に近いIRSの職員が医療保険制度改革に反対する
   ティーパーティー運動
など保守系の政治団体だけを対象に、
   税審査を厳格化
していたIRSのスキャンダル問題が発覚した。
 IRSの職員が2012年アメリカ合衆国大統領選挙期間中、医療保険制度改革を推進しようとするオバマ大統領を再選させる為、保守系団体の影響力がある共和党側が不利になるように、この様な事が行われていたとされている。
 このスキャンダル事件が発覚した後、IRSの免税部門のディレクターである
   ロイス・ラーナー
はティーパーティー運動ら保守派団体から批難され、辞任に追い込まれた。
 ティーパーティー運動ら共和党側はオバマ政権のホワイトハウスがIRSのスキャンダルに関与していると疑って批判している。
   
   
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2025年11月03日

カメラ・ディ・コントロロ(統制委員会 Camera di Controllo)

カメラ・ディ・コントロロ(統制委員会 Camera di Controllo)
 イタリア南部カラブリア州に拠点を置くマフィア組織
の合議制機関で
   ラ・プロヴィンチャ(州)
   カメラ・ディ・コンペンサツィオーネ(補償委員会)
としても知られている。
 ンドランゲタの主要メンバーで構成され、組織に関する重要な問題の決定や紛争の解決を行いる。
 ンドランゲタ組織には、
   クリミーネ
のような中央集権的な組織が存在し、様々なンドランゲタの活動を弱体化させていた。
 1985年から1991年にかけて激化した
まで、より強力で中央集権的な組織である
   プロヴィンチャ(またはカメラ)
が設立されなかった。
 コンデッロ=イメルティ=セライーノ=ロスミニ一族とデ・ステファノ=テガノ=リブリ=ラテッラ一族の間で6年間続いた血なまぐさい戦争は、600人以上の死者を出した。
 シチリア・マフィアは紛争の終結に貢献し、その後の内紛を避けるため、シチリア・マフィア委員会に類似した上位機関の設立を提案したとみられる。
 シチリアの委員会にちなんで「委員会」とも呼ばれるこの機関は、
   マンダメント(mandamenti)
と呼ばれる3つの下位機関から構成されている。
 1つはカラブリアのイオニア側(アスプロモンテ山脈とロクリデ)の氏族、もう1つはティレニア側(ジョイア・タウロ平野)の氏族、そしてレッジョ・カラブリア市を管轄する中央マンダメントである。
 パスクアーレ・バレッカのペンティート(記録)によれば、プロヴィンシアは「真の階層的上位権力としての権威」を有していた。
 その主な機能は、家族間の紛争の解決であり、様々な氏族間の争いは、暴力を用いる前に委員会に報告されなければならなかった。
 同じンドランゲタ集団内の小規模な紛争は、依然として地元の一族の長の管轄に委ねられている。
 委員会の決定が無視された場合、特定の町や領土内のすべてのンドランゲタ(ロカリ)が、決定に違反した者に対して立ち上がることが期待されている。
 しかしながら、委員会はロクリにおけるコルディ氏族とカタルド氏族間の紛争のような、全ての暴力的な紛争を終結させることに成功していない。
 第二次ンドランゲタ戦争終結以降、レッジョ・カラブリア州における殺人事件の急激な減少は、
   プロヴィンシア
が果たしてきた平和維持活動がある程度機能していることを示唆している。
 2010年7月、「イル・クリミネ」と呼ばれる大規模な警察作戦で、犯罪の首謀者
   ドメニコ・オッペディサーノ
が逮捕された。捜査の過程で、カポ犯罪者は名目上の州長官であることも判明した。
 オペディサーノはティレニア側を代表し、彼のナンバー2であるカポ・ソシエタの
   アントニーノ・ラテッラ
は中央(レッジョ・カラブリア市)を、そして総帥のブルーノ・ジョッフレはイオニア側を代表していた。
 プロヴィンチャの存在は、2010年3月、警察が
   アントニオ・ペッレ
の息子で、
   別名ントーニ・ガンバッツァ
としても知られる
   ジュゼッペ・ペッレ
の自宅に盗聴器を仕掛けたことで確認された。
 わずか1ヶ月余りの間に、マフィア、政治家、起業家、専門家、ビジネスマン、あらゆる種類の仲介人、さらには諜報機関とつながりのある人物との数百件の会合が録音された。
 また、ロッコ・モラビトとジュゼッペ・ペッレが父祖の跡を継ぎ、カラブリアのイオニア側でンドランゲタ一族の統制を担当していたことも確認された。
 2010年4月、レアーレ作戦(王立作戦)の結果、両名が逮捕された。
 ロベルト・モイオ一族のペンティートは2011年4月、メリクッコ出身のロッコ・フィリッポーネがティレニア側を、プラティ出身のアントニオ・バルバロがイオニア側を、そしてパスクアーレ・コンデッロがレッジョ・カラブリアを代表していたと述べている。
 カラブリア以外の地域におけるンドランゲタを統制するために、いわゆる「カメラ・ディ・コントロール」が設立されている。
 調査により、ロンバルディア州とリグーリア州にもカメラ・ディ・コントロールの存在が確認された。
 警察の「機密情報」によると、カナダにもカメラ・ディ・コントロールが存在するとのことで、警察はそれを「信頼できる」と考えている。
 この組織はトロント地域の6〜7人の男で構成され、オンタリオ州南部の
   シデルノ・グループ内の活動
を調整し、紛争を解決している。
 1962年、ミケーレ・ラッコ、ジャコモ・ルッピーノ、ロッコ・ジートはカナダでクリミニ、すなわち
   カメラ・ディ・コントロロ
を設立した。
 トロント地域のシデルノ・グループには、
   コルッチョ
   タヴェルネーゼ
   デマリア
   フィリオメーニ
   ルソ
   コミッソ
といった犯罪一家、そして生前の
   カルミネ・ヴェルドゥーチ
そして生前の
   コジモ・スタルテリ
が含まれていた。
 2018年3月にカナダのグレーター・トロント地域のンドランゲタ構成員が裁判にかけられた際、合意された事実陳述書には、「カラブリア州外のロカリ(地域組織)はカラブリア州の組織構造を模倣しており、カラブリア州の母体ロカリと繋がっている。
 カラブリア州外のロカリを設立する権限は、カラブリア州の同組織の統括機関から与えられている。
 カラブリア州外のロカリは、カラブリア州と同じンドランゲタ組織に属しており、構成員の出身地であるロカリと密接な関係を維持している」と記されていた。
 証人の証言によると、グレーター・トロント地域における同グループの活動は、「カメラ・ディ・コントロール」(陳述書によるとラ・プロビンシアとも呼ばれる)と呼ばれるグループによって統制されており、同グループが「すべての最終決定を下している」とのことである。
 2019年半ばまでに、イタリアとカナダの警察は、「ンドランゲタのカナダにおける存在は非常に強力で影響力を増しており、トロント北部の委員会はカナダの裏社会だけでなく、シデルノにまで及ぶ海外での決定権を持っている」と確信していた。
◯最初の州委員会(Provincia)の構成員
 (ンドランゲタの裏切り者(ペンティティ)の証言によって異なる。)
 ・ドメニコ・アルバロ(Domenico Alvaro)
   またはコジモ・アルバロ (Cosimo Alvaro シノーポリ)
 ・サルバトーレ・アキノ (Salvatore Aquino)
   マリーナ・ディ・ジョイオサ・イオニカ
 ・サント アラニティ (Santo Araniti )
   レッジョ カラブリア
 ・フランチェスコ・バルバロ(Francesco Barbaro)
   プラティ
 ・ウンベルト・ベロッコ(Umberto Bellocco)
  または弟のカルメロ・ベロッコ(Carmelo Bellocco)
   ロザルノ
 ・ジュゼッペ・カタルド(Giuseppe Cataldo)
   ロクリ
 ・フランチェスコ・コミッソ(Francesco Commisso )
  またはジュゼッペ・コミッソ (Giuseppe Commisso)
   シデルノ
 ・パスクワーレ・コンデッロ (Pasquale Condello)
   レッジョ・カラブリア
 ・ナターレ・イアモンテ (Natale Iamonte)
   メリト・ディ・ポルト・サルボ
 ・ドメニコ・リブリ (Domenico Libri)
   レッジョ ディ カラブリア
 ・アントニオ・マンモリティ (Antonio Mammoliti)
   カステッラーチェ
 ・ジュゼッペ・モラビト (Giuseppe Morabito)
   アフリカ
 ・フランチェスコ・マッツァフェロ(Francesco Mazzaferro)
   ジョイオサ・イオニカ
 ・アントニオ・ニルタ「イル」ヴェッキオ」(Antonio Nirta "Il vecchio")
   サン・ルーカ
 ・ロッコ・パパリア (Rocco Papalia)
   プラティ
 ・アントニオ・ペッレ「ガンバッツァ」(Antonio Pelle "Gambazza")
   サン・ルカ
 ・ジュゼッペ ピロマーリ(Giuseppe Piromalli)
  および/またはジョアッキーノ ピロマーリ(Gioacchino Piromalli )
   ジョイア タウロ
 ・セバスティアーノ・ロメオ(Sebastiano Romeo)
   サン・ルカ
 ・ドメニコ・セライノ(Domenico Serraino)
   と弟のパオロ・セライノ(Paolo Serraino)
   レッジョ・カラブリア
 ・ジョバンニ・テガーノ (Giovanni Tegano)
   レッジョ・カラブリア
 ・イージ・ウルシーノ(Luigi Ursino)
   ジョイオサ・イオニカ
    
   
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2025年10月15日

カルリング(Carlingue) 第二次世界大戦中のドイツ占領下のフランスでゲシュタポ(秘密警察)等に協力していた組織

カルリング(Carlingue)は、第二次世界大戦中のドイツ占領下のフランスで
   ゲシュタポ(秘密警察)
   保安局
   防衛警察(ゲハイム・フェルドポリツァイ)
に協力していたフランスの補助組織である。
 この組織は、1941年から1944年までパリ16区ローリストン通り93番地を拠点として活動していた。
 設立者は元警察官の
   ピエール・ボニー(1895-1944)
である。後に、戦前にフランスの裏社会で活動していた二人の犯罪者、
   アンリ・ラフォン(Henri Lafont)
   ピエール・ルートレル(Pierre Loutrel)
によって共同で運営されるようになった。
 部隊は、組織力と強さを備えた組織であることを示す婉曲的な愛称とし
   カルリング(フランス語で「カァルランジュ」)
を用いており、機体を意味している。
 このグループは、ピエール・ボニーとアンリ・ラフォンにちなんで、対外的には
   ボニー=ラフォン・ギャング
としても知られていました。
 国家保安本部(RSHA)は、カルリングを「設立に尽力した」SS将校にちなんで、正式には「ヘッセン活動集団」と呼んでいた。
 また、ローリストン通りのゲシュタポ・フランセーズ、またはボニー=ラフォン一味としても知られていた。
 この部隊は1941年にドイツ占領下およびヴィシー政権下のフランスにおける
   マキ抵抗勢力
に対する対反乱作戦の実行のため、ハインリヒ・ヒムラーがドイツ警察長官(Chef der Deutschen Polizei)とナチ党親衛隊(SS)長官(Reichsführer-SS)を兼任していた組織
    Reich Security Main Office (国家保安本部 RSHA)
によって結成された。
 カルリングは、創設者たちと同じ犯罪組織の出身者からメンバーを募った。
 アンリ・ラフォンとピエール・ルートレル(通称「狂人ピエロ」)は、戦前パリの裏社会で犯罪者であった。
 もう一人の元警察官ピエール・ボニーは、
   セズネツ事件
   スタヴィスキー事件
における資金横領と影響力売却の容疑でフランス当局から指名手配されていた。
 カルリングの他の多くのメンバーは、解散した
   北アフリカ旅団
の出身者で、組織の一部が犯罪組織であったため、
   情報提供者
   汚職官僚
や悪名高い実業家
のような人々との繋がりのほか、メンバーは闇市場でも活動していた。
 退職警察官の
   アンリ・ロンショー
によると、「「カルリング団の構成員として]時折引用される3万人から3万2千人という数字には、憤慨する人もいるかもしれない。パリでは、ドイツ軍が2千人の補助警察官の募集を開始した際、6千人もの志願者が集まった。」と述べている。
 また、戦時中、悪名高いフランス人医師で連続殺人犯
   マルセル・プティオ
は、カルリング団と関係があったとされている。
 彼の家はカルリング団の本部と同じ通りにあり、時には犠牲者の遺体の処理を手伝っていたとされている。
 1944年1月から2月にかけて、カルリング団は準軍事組織である
   北アフリカ軍団(Légion nord-Africaine)
の出身者が構成員として、カルリング団の活動に加わった。
 アレクサンドル・ヴィラプランの指揮下でカルリング連隊(LNA)は、フランス中部のチュール周辺地域で
   フランスレジスタンス
に対する包囲戦作戦(Bandenbekämpfung)に参加した際、ドイツ軍の制服を着用していた。
 連合国による1944年のフランス解放後、カルリング連隊のメンバーは潜伏した。
 ただ、多くは逮捕され、裁判にかけられ、死刑を宣告されたが、中には逮捕を逃れた者もいた。
 1967年にモロッコで亡くなった元カルリング連隊の工作員
   ジョルジュ・ブーシュセイシュ
は、戦後のフランスの対外情報機関である
   対外情報記録・諜報対策局
  (Service de Documentation Extérieure et de Contre-Espionnage)
に勤務していた。
 2014年8月、パリ政府はローリストン通り93番地の現在の所有者に対し、カルリング連隊の旧本部に記念碑を修復するよう命じた。
◯著名なメンバー
 ・ジョルジュ・プジョール(Georges Pujol)
   元レジスタンス運動家
   ゲシュタポの二重スパイ
   1944年8月に逮捕され、銃殺された。
 ・アンリ・ラフォン(Henri Lafont)
   1944年12月26日、フォート・モンルージュで処刑された。
 ・アレクサンドル・ヴィラプラン(Alexandre Villaplane)
   1944年12月27日、フォート・モンルージュで処刑された。
 ・クレール(Clairé)
   1944年12月27日、フォート・モンルージュで処刑された。
 ・エンゲル(Engel)
   1944年12月27日、フォート・モンルージュで処刑された。
 ・ヘア(Hare)
   1944年12月27日、フォート・モンルージュで処刑された。
 ・ルイ・「エディ」・パニョン(Louis "Eddy" Pagnon)
   北アフリカ旅団所属
   1944年12月27日、フォート・モンルージュで処刑された。
   死刑判決を受け、1944年12月29日に銃殺された。
 ・ピエール・ボニー(Pierre Bonny)
   死刑判決を受け、1944年12月29日に銃殺された。
 ・シャルル・デルヴァル(Charles Delval)
   1945年2月、フレスヌ刑務所の中庭で処刑された。
 ・ガニオール(Ganioles)
   1946年6月24日、フォール・モンルージュで処刑された。
 ・ジュールダン(Jourdan)
   1946年7月13日、フォール・モンルージュで処刑された。
 ・マルセル・ブア(Marcel Buat)
   1946年6月に死刑判決
   1946年8月12日にヴェルサイユで処刑された。
 ・ピエール・ルートレル(Pierre Loutre)
   パリのクレベール通りの
     宝石店で強盗
   をしたところ、店主に下腹部を撃たれ1946年11月6日に死亡した。
 ・ベルナール・ファロ(Bernard Fallot)
   1947年10月1日、フォール・モンルージュで処刑された。
 ・モーリス・ベイ(Maurice Bay)
   1950年5月5日に処刑された。
 ・アベル・ダノス(Abel Danos)
   1952年3月13日に銃殺された。
 ・レイモンド・モナンジュ(Raymond Monange)
   北アフリカ旅団の将校
   1952年3月13日にフォート・モンルージュで銃殺された。
 ・オーギュスト・リコード(Auguste Ricord 1911年〜1985年)
   戦後、協力罪で欠席裁判にかけられた。
   1972年から1982年まで米国で
     麻薬密輸の罪
   で10年の刑に服した。
   ただ、戦争犯罪で再審は行われなかった。
   
   
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2025年10月04日

マンダメント(Mandamento  Sicilian Mafia)

マンダメント(シチリア・マフィア)
 コーザ・ノストラにおいてシチリア島における単一の土地封建制、または市区を支配する一族に対して使用される
 伝統的に地理的に連続した3つの
   マフィア・コシェ
からなる地区を指しており、カポマンダメントは、マンダメントと呼ばれる領土の長を代表しており、通常、州のマフィア委員会に参加する資格を有してる。
マンダメント一覧
 ◯パレルモ
  ・ポルタ ヌオーヴァ
  ・ブランカッチョ
  ・ボッカディファルコ
  ・パッソ ディ リガーノ
  ・サンタ マリア ディ ジェズ
  ・ノーチェ
  ・パリアレッリ
  ・レスッターナ
  ・サン ロレンツォ
   の 8 つの地方自治体に分かれている。
 ◯パレルモ県
  ・カンポレアーレ(パルティニコとサン・ジュゼッペ・ジャトーの委任統治領が合併して誕生)
  ・コルレオーネ
  ・チーニジ
  ・バゲリーア
  ・トラビア
  ・ベルモンテ
  ・メッツァニョ
  ・サン・マウロ・カステルベルデ
  の7つの委任統治領に分かれています。
 ◯アグリジェント県 
  ・アグリジェント
  ・サンタ エリザベッタ
  ・ポルト エンペドクレ
  ・カニカッティ
  ・シアンチャーナ
  ・リベラ
  ・サンブーカ ディ シシリア
  ・カステルテルミニ
  ・パルマ ディ モンテキアーロ
  ・カンポベッロ ディ リカータ
  の 10 の行政区で構成されています。
 ◯トラーパニ県
  ・カステルヴェトラーノ
  ・トラーパニ
  ・マザーラ デル ヴァッロ
  ・アルカモ
  の 4 つの行政区で構成されています。
 ◯カルタニッセッタ県
  ・ジェラ
  ・ヴァッレルンガ プラタメノ
  ・リーシ
  ・ムッソメリ
  の 4 つの行政区で構成されています。
(他県)
 ◯カターニア県 (カターニア県には権限がない。)
  ・カターニア
  ・カルタジローネ
  ・ラマッカ
  という 3 つのマフィアファミリーによって支配されている。
 ◯エンナ県 (エンナ県には権限がない。)
  ・バラフランカ
  ・カラシベッタ
  ・エンナ
  ・ピエトラペルツィア
  ・ヴィラローザ
  の 5 つのマフィアファミリーによって支配されている。
    
    
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2025年10月01日

ラツィオ通り虐殺事件(Viale Lazio massacre )シチリア・マフィアにおける決着の一つ

ヴィアーレ・ラツィオ虐殺事件(Viale Lazio massacre )は、シチリア・マフィアにおける決着の一つで1969年12月10日に起きた。
 マフィアのボス、
   ミケーレ・カヴァタイオ(Michele Cavataio)
と3人の男が、シチリア島パレルモのヴィアーレ・ラツィオで、マフィアの殺し屋部隊に奇襲され暗殺された。
 この虐殺は、チャクッリ虐殺以来、コーザ・ノストラに対する114人裁判の終結まで君臨していた平和マフィアの終焉を象徴するものであった。
 カヴァタイオは、1962年から63年にかけての第一次マフィア抗争の主役の一人だった。
 政府側の証人(ペンティート)である
によると、異なる派閥間の争いを意図的にエスカレートさせたのはカヴァタイオだった。
 彼は、サルヴァトーレ「チャスキテッドゥ」グレコに対する爆弾攻撃であるチャクリ虐殺の責任者とされた。
 彼はその後も爆弾攻撃や殺人を繰り返し、抗争を煽り続けた。
 もう一人のペンティートである
ブシェッタの証言を裏付けた。
 第一次マフィア抗争に関する114人裁判が1968年12月に終結した後、ベネズエラからやって来た
の扇動により、マフィアの幹部数名がチューリッヒでの会合でカヴァタイオを排除することを決定した。
 グレコブシェッタの第一次マフィア抗争の発端に関する理論に賛同するようになった。
 カヴァタイオは、警察に入手されれば危険を伴う
   パレルモ・マフィア
のファミリー全員の名前を記した地図を作成し、脅迫して窮地から逃れようとしたと主張した。
 マフィアの殺し屋部隊には、
 トト・リーナの義理の弟であるレオルカ・バガレッラの兄である
   カロジェロ・バガレッラ
 ステファノ・ボンターデのサンタ・マリア・ディ・ジェズー家の
   エマヌエーレ・ダゴスティーノ
 そしてマフィアのボス
の兵士である
   ダミアーノ・カルーソ
が含まれていた。
 ブシェッタグラードによると、暗殺部隊の構成は、この殺害がシチリアの
   主要マフィア・ファミリー全員による共同の承認
を得たものであることを明確に示していた。
 コルレオーネの
   カロジェロ・バガレッラ
 パレルモの
だけでなく、シチリア島の反対側、リージに住む
の兵士も含まれていたためだ。
 午後7時30分、警察の制服に12ゲージのショットガン、サブマシンガン、ピストルを携えた暗殺部隊は、パレルモ北部の洗練された新興地区にある近代的な通り、ヴィアーレ・ラツィオにある
   ジローラモ・モンカーダ建設会社
の事務所に侵入した。
 トト・リーナは車に1台乗り込み、作戦を指揮した。
 建設業者、その息子たち、会社の会計士、そしてカヴァタイオは、他の男たちと夜遅くまで会議を開いていた。
 なお、全員がいつものように武装していた。
 プロヴェンツァーノとバガレッラが攻撃を先導し、カルーソがそれに続いた。
 ただ、記録によると、カルーソの発砲はタイミングが悪すぎたため、奇襲の優位性が失われたと伝えられている。
 ミカヴァタイオはバガレッラを射殺し、カルーソとプロヴェンツァーノにも負傷を負わせた。
 その後、机の下に潜り込み死んだふりをした。
 プロヴェンツァーノはマフィアの組織図を手に入れようとカヴァタイオの足首を引っ張り始めた。
 噂によると、カヴァタイオはそれを靴下に隠していたという。
 カヴァタイオプロヴェンツァーノを撃とうとしたが、弾切れだった。
 プロヴェンツァーノは機関銃で発砲しようとしたが、弾詰まりを起こしたため起動せず、銃床でカヴァタイオを殴り倒し、意識を失わせた。
 片手が自由になると、拳銃を掴みカヴァタイオを射殺した。
 銃撃戦は数分間続き、カヴァタイオ、マフィアの
   フランチェスコ・トゥミネッロ
のほか会計士
   サルヴァトーレ・ベヴィラックア
 警備員の
   ジョヴァンニ・ドメ
そして襲撃者の一人
   バガレッラ
の5人が死亡した。
 なお、オフィスにおいて108発の銃弾が発射されたと見られる。
 バガレッラの遺体は待機していた車に運ばれ、故郷コルレオーネの墓地で密かに積み重ねられて埋葬された。
 プロヴェンツァーノ
   ベレッタ38/Aサブマシンガン
を使用し、この襲撃でマフィアの殺し屋としての名声を高めた。
 この襲撃によってプロヴェンツァーノの名声は高まり、ペンティート(襲撃犯)が「彼が通った場所には草が生えなくなった」と表現したことから、「ウ・トラットリ(トラクター)」というあだ名がついた。
 1999年に政府の証人となった襲撃犯の一人、
によると、襲撃を失敗させたのはプロヴェンツァーノであり、発砲が早すぎたという。
 グラードは襲撃計画に協力し、殺害を直接目撃したと述べている。「誰もがカヴァタイオを恐れていた」と、ペンティート(襲撃犯)
のいとこであるグラードは語っている。
 カヴァタイオ殺害に派遣されたマフィアの兵士は皆「ベテランだった」「我々は皆、既に少なくとも10人を殺害していた」とグラードは続けた。
 1972年9月、ヴィアーレ・ラツィオ虐殺事件の裁判が開かれ、24人の被告が一斉に逮捕された。
 建設業者の息子である
   フィリッポ・モンカーダ
   アンジェロ・モンカーダ
は、当初、陰謀に関与した疑いで投獄された。
 銃撃で負傷し入院していた病院で、フィリッポは父親が悪名高いマフィアと会っていたことを語り始めた。
 カヴァタイオがモンカーダの会社の真のボスへと徐々に成長していった経緯を説明した。
 モンカーダ兄弟が「話した」ことはシチリアでは大きなニュースとなった。
 彼らは釈放されたが、父親は兄弟の証言に基づいて一斉に逮捕された
   ヴィアーレ・ラツィオ虐殺事件
の容疑者24人と共に拘留された。
 第一審の陪審員の最終評決は、24人の被告のうちの誰かがヴィアーレ・ラツィオ虐殺に直接関与していたことを証明する証拠は提示できなかったというものであった。
 その後、多くの控訴が続いた。
   ヴィアーレ・ラツィオ虐殺
への関与を問われ、裁判にかけられた。
 リーナは虐殺を指示した罪、プロヴェンツァーノは虐殺に参加した罪で起訴された。
 この事件から約40年後の2009年4月、二人は終身刑を宣告された。
  
      
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コスカ(Cosca)シチリアマフィアの一族の呼称

シチリア島におけるコスカ(Cosca 複数形はcosche シチリア語ではcoschi)は、カポ(ボス)が率いるシチリアマフィアの一族の呼称、または犯罪一家を指す。
 カラブリアの犯罪組織であるンドランゲタにおけるコスカに相当するのはンドリーナである。
 語源としてのスカとは、アーティチョークやアザミなどの植物に見られる、棘のある密集した葉の冠のこと。
 この言葉はマフィア間の緊密な関係を象徴している。

   
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2025年09月30日

ジップス(Zips)20世紀半ばにシチリアから移住してきたばかりのマフィアを蔑称した言葉

ジップス(Zips)
 アメリカ合衆国で特に20世紀半ばにイタリア系アメリカ人のギャングスターが、シチリアから移住してきたばかりのマフィアを蔑称として使う際によく使われた俗語で
   シギーズ(Siggies)
   ギープス(Geeps)
とも呼ばれる。
 米国のギャングスターたちは、新移民の
   シチリア方言
を理解するのに苦労したと言われており、彼らの方言では、言葉が「ジップ」のように聞こえたという。
 他の説としては、シチリア人がの身近な部品など簡易な設計で自作(手製)した銃器、いわゆる
   ジップガン
を好むなど、蔑称として使われているという説がある。
 また、この語はシチリア語で「田舎者」や「原始人」を意味する俗語が短縮されたという説もある。
 イタリアにおける暴力と政府の影響力が増大する中、20世紀半ば、シチリア人はニューヨーク市の
の拡大する麻薬密売市場でポジションを見つけた。
 ボナンノ一家のボス
   サルヴァトーレ・カタラーノ
とシチリアのマフィア
が関与したヘロイン密売組織
は、主にジップスによって組織されていた。
 ジップスはアメリカ国内では無名で、警察記録もなかったことから、主にニッカーボッカー・アベニュー周辺に集まって効果的に活動していたがかった。
 シチリアの若いマフィアたちは、
   無謀で規律のない行動
で知られるようになり、ニューヨークの地産地消の犯罪ファミリーにとって世間からの注目を浴びることとなり、望ましくない注目を集めることになった。
 ジップは、警察官、裁判官、女性、子供など、アメリカンマフィアが手出しを禁じていた人々を躊躇なく殺害した。
 また、彼らは標的を殺害するために爆弾を使用することでも知られていた。
 シチリアのマフィアは爆弾を頻繁に使用していた。 
 なお、アメリカンマフィアは罪のない人々を危険にさらす可能性を懸念し、爆弾の使用を躊躇していた。
 ジップはまた、既に死期が近い敵を殺害したことでも知られている。
 シチリアのマフィアでは、組織から死刑を宣告された人物が自然死することを許していない。
 このグループは、特に
に数百万ドルもの利益をもたらしていたため、容認されていた。
 ボスのカルミネ・ガランテカルロ・ガンビーノはともに、麻薬密売と契約殺人にジップを利用していた。
 ガランテの二人のボディガード
はジップスの出身であった。
 多くのイタリア系アメリカ人ギャングはジップスを信用していなかった。
 ボナンノの兵士
は、FBI潜入捜査官
との会話の中で「ガランテを憎む者は多い…親しいのはほんの数人だけだ。それも主にジップスだ…奴らはいつもガランテと一緒にいる。シチリアから連れてきて、様々な仕事や麻薬の売買に利用している。ガランテと同じくらい意地悪だ。あの忌々しいジップスを信用することはできない。誰も信用できない。あの老人を除いては。」と説明した。
 別の機会には、
ピストーネに「奴らはアメリカ国民を憎んでいる。アメリカのお偉方を憎んでいる。」と言った。
 ボナンノの兵士
ピストーネに「ジップスは仲間意識が強く、秘密主義だ。業界で最も卑劣な殺し屋だ。」と言った。

     
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2025年08月22日

冬戦争(Winter War)ソ連とフィンランドの間の戦争

冬戦争(Winter War)
 ソ連とフィンランドの間の戦争である。
 第二次世界大戦勃発から3か月後の1939年11月30日、ソ連によるフィンランド侵攻に端を発した。
 3か月半後の1940年3月13日にモスクワ講和条約が締結されて終結した。
 ソ連は、特に戦車と航空機において優れた軍事力を有していた。
 軍事侵攻により、ソ連は甚大な損害を被り、当初はほとんど進展がなかった。
 国際連盟はこの攻撃を違法とみなし、ソ連を国際連盟から除名し。
 ソ連は、安全保障上の理由、特にフィンランド国境から32km(20マイル)離れた
   レニングラードの防衛
を理由として、フィンランドに対し、
   国境沿いの広大な領土を割譲
させする代わりに他の荒涼とした不毛の地域に土地を移転させることなど、いくつかのソ連位のみ有利な要求を行った。
 フィンランドがこれを拒否したため、ソ連は思惑通りにフィンランド軍を殲滅させるべく侵攻を開始した。
 ほとんどの資料でも、ソ連がフィンランド全土を征服しようとしていたと結論付けており、
   傀儡フィンランド共産党政府の樹立
とモロトフ・リッベントロップ協定の秘密議定書をその証拠として挙げている。
 一方、ソ連によるフィンランド全土征服の考えに反対する資料もある。
 フィンランドは2ヶ月以上にわたりソ連の攻撃を撃退した。
 摂氏マイナス43度(華氏マイナス45度)という極寒の寒さの中でソ連侵略軍に多大な損害を与えた。
 戦闘は主にカレリア地峡沿いのタイパレ、ラドガ・カレリアのコッラ、カイヌーのラーテ・ロードで行われた。
 また、ラップランドや北カレリアでも戦闘が行われた。
 当初の挫折の後、ソ連は戦略目標を縮小した。
 1940年1月下旬に傀儡フィンランド共産党政府に終止符を打ち、正統なフィンランド政府に和平交渉の意思を伝えた。
 ソ連軍は再編と戦術変更を経て侵略軍の将兵の配置や装備の充足、兵站線の確保を整えた後、1940年2月に再び攻勢を再開した。
 カレリア地峡におけるフィンランド軍が構築した防衛線を突破した。
 これにより、フィンランド軍は戦況の限界点に近づき、撤退は避けられなくなったため、フィンランド軍総司令官
   カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム
は、フィンランドが依然として交渉力を保持している間に、ソ連との和平交渉を強く求めた。
 1940年3月、
   モスクワ講和条約
の調印により戦闘は終結し、フィンランドは領土の9%をソ連に強制譲渡された。
 なお、ソ連の軍事的な損害は大きく、同国の国際的評判は傷ついた。
 ソ連の獲得領土は戦前の要求を超えたうえ、ソ連はラドガ湖沿岸およびその北方に広大な領土を獲得した。
 フィンランドは主権を維持し、国際的評判を高めた。
 なお、赤軍の貧弱な戦いぶりから、ドイツ首相
   アドルフ・ヒトラー
はソ連攻撃は成功するだろうと確信した。
 ただ、ソ連軍に対する西側諸国の否定的な見方を強めた。
 15ヶ月の暫定講和の後、1941年6月、ドイツは
   バルバロッサ作戦
を開始し、フィンランドとソ連の継続戦争が始まった。
 19世紀初頭まで、フィンランドはスウェーデン王国の東部に属していた。
 1808年2月21日から1809年9月17日まで、ロシア帝国はロシアの首都サンクトペテルブルクを守るためという名目で、スウェーデン王国に対してフィンランド戦争を仕掛けた。
 最終的にロシアはフィンランドを征服・併合し、自治権を持つ緩衝国としている。
 こうして誕生したフィンランド大公国は、19世紀末までロシア国内で広範な自治権を享受していた。
 その後、ロシアは中央政府を強化し、ロシア化によって帝国を統一するという政策の一環として、フィンランドの同化を試み始めた。
 この試みはロシアの内紛によって頓挫した。
 ただ、ロシアとフィンランドの関係を悪化させてしまったうえ、フィンランドでは
   民族自決運動への支持
が高まった。
 第一次世界大戦は、1917年の
   ロシア革命
   ロシア内戦
の勃発によりロシア帝国の崩壊を招いた。
 1917年11月15日、ボルシェビキ政権下のロシア政府は、少数民族が分離独立して独立国家を形成する権利を含む自決権を有すると宣言した。
 これにより、フィンランドに好機が訪れた。
 1917年12月6日、フィンランド上院は独立を宣言した。
 ソビエト・ロシア(後のソ連)は、宣言からわずか3週間後にフィンランドの新政府を承認した。
 フィンランドは4ヶ月に及ぶ内戦の後、ドイツ帝国軍、親ドイツ派の猟兵、そして一部のスウェーデン軍の支援を受け、
   保守派の白軍
が社会主義派の赤軍を破り、さらにボルシェビキ軍も駆逐された。
 その後、1918年5月に完全な主権を獲得した。
 フィンランドは1920年に国際連盟に加盟し、安全保障を求めた。
 フィンランドの主目的はスカンジナビア諸国、特にスウェーデンとの協力であり、軍事演習や物資の備蓄・配備よりも、情報交換や防衛計画(例えばオーランド諸島の共同防衛)に重点を置いていた。
 ただ、スウェーデンはフィンランドの外交政策への関与を慎重に避けていた。
 フィンランドの軍事政策には、エストニアとの秘密裏の防衛協力も含まれていた。
 フィンランド内戦後から1930年代初頭にかけては、保守派と社会主義者の対立が続き、政治的に不安定な時期であった。
 1931年にはフィンランド共産党が非合法と宣言された。
 民族主義的なラプア運動は反共産主義的な暴力行為を組織した。
 こうした動きが、1932年にクーデター未遂に至っている。
 ラプア運動の後継組織である愛国人民運動は、国政における存在感が小さく、フィンランド議会200議席中14議席以上を獲得することはなかった。
 1930年代後半には、輸出志向のフィンランド経済が成長し、国内の過激な政治運動は衰退した。
 1918年にソ連がフィンランド内戦に介入した後、正式な平和条約は締結されなかった。
 1918年と1919年、フィンランド義勇軍はソ連国境を越えて、大フィンランド構想に基づきバルト海沿岸のフィン系民族を単一国家に統合するカレリア地方の併合を目指した。
 ウィーン遠征とアウヌス遠征という二度の軍事侵攻を敢行した。
 ただ、いずれも失敗に終わった。
 1920年、ソ連に拠点を置くフィンランド共産主義者は、元フィンランド白衛軍総司令官
   カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム元帥
の暗殺を企てた。
 1920年10月14日、フィンランドとソ連はタルトゥ条約に調印し、フィンランド大公国(当時)と帝政ロシア本土との間の旧国境をフィンランド・ソ連間の新たな国境として確定させた。
 フィンランドはまた、北極海の不凍港を有するペツァモ州を獲得した。
 条約の調印にもかかわらず、両国の関係は緊張したままであった。
 フィンランド政府は、1921年にロシアで発生した
   東カレリア蜂起
を支援するため、義勇兵の越境を許可した。
 ソ連に駐留していたフィンランド共産主義者は報復の準備を続けた。
 1922年にはフィンランドへの越境襲撃(豚肉反乱)を起こした。
 1932年にはソ連・フィンランド不可侵条約が両国間で締結された。
 1934年には10年間の延長が再確認された。
 フィンランドの貿易は活況を呈していたが、ソ連との貿易は1%にも満たなかった。
 1934年、ソ連は国際連盟にも加盟した。
 ソ連のヨシフ・スターリン書記長は、ソ連が
   フィンランド革命
を阻止できなかったことを残念に思っており、カレリアにおける
   親フィンランド運動
がレニングラードにとって直接的な脅威であり、フィンランドの地域と防衛線がソ連侵攻や艦隊の航行制限に利用できると考えていた。
 ソ連のプロパガンダは、フィンランド指導部を「悪意に満ちた反動的なファシスト徒党」と描写した。
 特にマンネルヘイム元帥とフィンランド社会民主党の
   ヴァイノ・タナー
は非難の対象となった。
 スターリンが1938年の大粛清によって絶対的な権力を握ると、ソ連はフィンランドに対する外交政策を転換した。
 1917年の十月革命とほぼ20年前のロシア内戦の混乱の中で失われた帝政ロシアの諸州の奪還を目指し始めた。
 ソ連の指導者たちは、旧帝国の広大な国境が領土の安全保障を保証していると信じ、フィンランド国境からわずか32km(20マイル)の距離にあるレニングラードにも、台頭するナチス・ドイツに対する同様のレベルの安全保障を保障することを望んでいた。
 1938年4月、NKVDの工作員
   ボリス・ヤルツェフ
はフィンランド外務大臣
   ルドルフ・ホルスティ
と首相アイモ・カヤンデルに連絡を取った。
 ソ連はドイツを信用しておらず、両国間の戦争は起こり得ると伝えた。
 赤軍は国境で受動的に待機するのではなく、「敵と対峙するために前進する」つもりだった。
 フィンランド代表はヤルツェフに対し、フィンランドは中立政策を堅持し、いかなる武力侵攻にも抵抗することを保証した。
 ヤルツェフは、レニングラードへの海路沿いにあるフィンランド湾のいくつかの島をフィンランドに割譲または租借することを提案した。
 しかし、フィンランドはこの案を拒否した。
 交渉は1938年を通して継続されたが、成果は得られなかった。
 スターリンのソ連における
   暴力的な集団化と粛清
によってフィンランドに対する評判が悪化していた。
 このため、フィンランドはソ連の要請を明らかに冷淡に受け止めた。
 ソ連におけるフィンランド共産主義エリートの大半はスターリンによる大粛清の際に処刑されており、フィンランドにおけるソ連のイメージはさらに悪化させた。
 一方、フィンランドは
   スウェーデンとの軍事協力計画
の交渉を試みており、オーランド諸島の共同防衛を望んでいた。
 ソ連とナチス・ドイツは1939年8月に
   モロトフ・リッベントロップ協定
に調印した。
 これは公的には不可侵条約であったが、中央および東ヨーロッパ諸国を勢力圏に分割する秘密議定書が含まれていた。
 フィンランドはソ連の勢力圏に入った。
 1939年9月1日、ドイツは電撃作戦でポーランド侵攻を開始した。
 2日後、イギリスとフランスがドイツに宣戦布告した。
 9月17日、ソ連のポーランド侵攻が始まった。
 ポーランド陥落後、ドイツとソ連はモロトフ・リッベントロップ協定の条項に従い、占領していたポーランドの領土を交換して新たな国境を確定した。
 エストニア、ラトビア、リトアニアはまもなく、ソ連が自国領土に軍事基地を設置することを認める条約を受け入れることを余儀なくされた。
 エストニアは9月28日に協定に署名することでソ連の最後通牒を受け入れた。
 また、ラトビアとリトアニアも10月に続いた。
 バルト三国とは異なり、フィンランドは「追加の再訓練」を装って段階的な動員を開始した。
 ソ連はすでに1938年から1939年にかけてフィンランド国境付近で集中的な動員を開始していた。
 侵攻に必要と考えられていた突撃部隊は1939年10月まで展開を開始しなかった。
 9月に作成された作戦計画では、侵攻は11月に開始されることになっていた。
 1939年10月5日、ソ連はフィンランド代表団をモスクワに招き、交渉を行った。
 駐スウェーデンフィンランド特使の
   ユホ・クスティ・パーシキヴィ
がフィンランド政府を代表してモスクワに派遣された。
 さらに、交渉にはスターリン自らが出席し、交渉の真剣さを示した。
 パーシキヴィは後に、代表団が歓迎された友好的な雰囲気に驚き、スターリンが彼らに対して示した好意的な態度について語っている。
 会談は10月12日に始まり、モロトフは相互援助協定の締結を提案した。
 フィンランド側は即座にこれを拒否した。
 フィンランド側が驚いたことに、モロトフは提案を取り下げ、代わりに領土交換を提案した。
 この提案は、カレリア地峡におけるフィンランドとソ連の国境をヴィイプリ(ヴィボルグ)の東わずか30キロ(19マイル)の地点まで西に移動すること、そしてフィンランドがカレリア地峡の既存の要塞をすべて破壊することを条件としていた。
 これと同様に、代表団はフィンランド湾の島々とルィバチ半島(カラスタヤサーレント)の割譲を要求した。
 フィンランドはまた、ハンコ半島を30年間租借し、ソ連がそこに軍事基地を設置することを認める必要もあった。
 引き換えに、ソ連は東カレリア(2120平方マイル)からレポラとポラヤルヴィを割譲することになった。
 これはフィンランドに要求した領土(1000平方マイル)の2倍の広さであった。
 ソ連の提案はフィンランド政府を二分した。
 グスタフ・マンネルヘイムは、ソ連との戦争におけるフィンランドの将来に悲観的な見方をし、合意を主張した。
 しかし、フィンランド政府はスターリンへの不信感から合意に消極的だった。
 スターリンからの要求が繰り返されれば、フィンランドの主権の将来が危険にさらされる恐れがあった。
 また、エルヤス・エルコ外相やアイモ・カヤンデル首相、そしてフィンランド諜報機関全体など、ソ連の要求と軍備増強をスターリンの単なるブラフと誤解した者もおり、合意に消極的だった。
 フィンランドは、テリヨキ地域をソ連に割譲するという2つの提案を行った。
 これにより、レニングラードとフィンランド国境の距離は倍になった。
 ただ、ソ連の要求額よりはるかに短かった。
 フィンランドはフィンランド湾の島々も割譲したが、ソ連に軍事目的で領土を貸し出すことには同意しなかった。
 10月23日の次の会談で、スターリンは要求を
   カレリアにおける土地の要求量の削減
   ハンコ駐屯軍の兵力を5000人から4000人に削減
   そして租借期間を30年から、進行中の(第二次世界大戦)ヨーロッパ戦争の終結日まで短縮すること
などに緩和した。
 しかし、ソ連の要求は最小限であり、したがって変更不可能であるとの以前の声明に反して、この突然の変化はフィンランド政府を驚かせ、さらなる譲歩が得られるかもしれないと思わせた。
 こうして、パーシキヴィが提案した、ソ連にユッサロ島とイノ要塞を提供することで何らかの妥協点を見出そうという案は、ヘルシンキによって拒否された。
 10月31日、モロトフはソ連の要求を最高会議に公表した。
 このことはフィンランドを驚かせ、ソ連の要求は最小限であり変更不可能であるというソ連の主張に信憑性を与えた。
 なぜなら、一度要求を公表してしまったら、威信を失うことなく要求を縮小することは不可能だった事情があった。
 ただ、ソ連の提案は最終的に国民と議会の意見を考慮して拒否された。
 11月9日の会談で、パーシキヴィは出席していたスターリンとモロトフに対し、フィンランドが要求水準の緩和さえも受け入れないと通告した。
 ソ連は明らかに驚いたという。
 フィンランド外相ヴァイノ・タナーは後に「相手方の目は大きく見開かれた」と記している。
 スターリンは「イノさえも提案しないのか?」と尋ねたという。
 これが最後の会談となった。
 ソ連はフィンランドからの書簡に一切返答せず、11月13日にフィンランド代表団がモスクワから召還された際も、ソ連当局者は見送りに来なかった。
 フィンランド側は交渉が継続されることを期待して会談を終えた。
 しかし、ソ連は軍備を強化した。
 双方とも要求を大幅に引き下げる意思がなく、また相手を完全に信頼することもできなかったため交渉は失敗に終わった。
 フィンランドは主権侵害を恐れ、ソ連はレニングラードに近接するフィンランドが国際敵の足掛かりとなることを(恐れていると主張していたが)恐れていた。
 いかなる反論も相手を説得することはできなかった。
 さらに、双方とも相手の立場を誤解していた。
 フィンランドはソ連が最大限の要求を掲げ、より小さな要求に妥協する用意があると想定していた。
 ソ連はむしろ自らの要求が最小限であることを強調し、フィンランドが同意に消極的であることに憤慨した。
 最後に、フィンランドによる領土譲歩はフィンランド議会で5分の4以上の多数決がなければ不可能であったという事実を、スターリンが受け入れる気がなかった、あるいは受け入れることができなかったという事情もあった。
 彼はそのような要求を嘲笑し、自分とモロトフの票も数えるよう提案した。
 1939年11月26日、フィンランド国境付近のソ連軍マイニラ村近郊で事件が発生したと報じられた。
 ソ連国境警備隊の駐屯地が正体不明の集団による砲撃を受け、ソ連の報告によると、国境警備隊員4名が死亡、9名が負傷した。
 その後にフィンランドとロシアの歴史家数名による調査で、この砲撃は偽旗作戦であったと結論付けられた。
 なぜなら、当該部隊には砲兵部隊は配置されておらず、ソ連側に開戦の口実と不可侵条約離脱の口実を与える目的で、NKVD部隊が国境のソ連側から実行したからである。
 1938年3月と1939年3月に行われたソ連の軍事演習は、マイニラ村で発生した国境紛争が戦争の引き金となるというシナリオに基づいていた。
 モロトフは、この事件はフィンランドの砲撃によるものだと主張した。
 彼はフィンランドに対し、事件について謝罪し、国境から20〜25km(12〜16マイル)の境界線を越えて部隊を移動させるよう要求した。
 フィンランドは攻撃への責任を否定し、要求を拒否し、事件を調査するためのフィンランド・ソ連合同委員会の設置を要請した。
 一方、ソ連はフィンランドの対応は敵対的だったと主張し、不可侵条約を破棄し、11月28日にフィンランドとの外交関係を断絶した。
 その後数年間、ソ連の歴史学は、この事件をフィンランドの挑発行為と記述した。
 ソ連の公式見解に疑問が投げかけられたのは、1980年代後半のグラスノスチ政策が施行された時期になってからである。
 この問題は、1991年のソ連崩壊後も、ロシアの歴史学を二分し続けている。
 2013年、ロシアの
   ウラジーミル・プーチン大統領
は軍事歴史家との会合で、ソ連が冬戦争を開始したのは、1917年以降にフィンランドとの国境を決定した際の「誤りを正すため」だと述べた。
 ソ連による当初の侵攻決定の規模については意見が分かれている。
 傀儡フィンランド共産党政府と
   モロトフ・リッベントロップ協定
の秘密議定書は、ソ連がフィンランド全土を征服する意図を持っていた証拠として挙げられている。
 1939年12月1日、ソ連はフィンランド征服後のフィンランドを統治するため、フィンランド民主共和国という傀儡政権を樹立した。
 タス通信が伝えた声明には「現在の構成の人民政府は、自らを暫定政府とみなしている。首都ヘルシンキに到着次第、直ちに組織が再編され、勤労人民戦線に参加する様々な政党や団体の代表者も加わり、組織が拡大される。」と記されていた。
 開戦初日にヘルシンキ上空に撒かれたソ連のビラには、「フィンランドの同志諸君!我々は征服者としてではなく、資本家と地主の抑圧からフィンランド国民を解放する者として諸君のもとに来たのだ」と書かれていた。
 1939年、ソ連軍指導部はフィンランド占領のための現実的かつ包括的な計画を策定した。
 しかし、ヨシフ・スターリンは作戦遂行の保守的なペースに不満を抱き、新たな計画の策定を要求した。
 新たな計画では、フィンランド降伏の主要期限は12月21日のスターリンの60歳の誕生日とされた。
 侵攻の成功を確信していたソ連最高議会の議長
   アンドレイ・ジダーノフ
は、ドミトリ・ショスタコーヴィチに祝賀曲「フィンランドの主題による組曲」を委嘱し、赤軍の行進楽団がヘルシンキを行進する際に演奏することを意図していた。
 ソ連は西側諸国がフィンランドを援助しないと確信していた。
 駐英ソ連大使イヴァン・マイスキーは「誰が助けてくれるというのか?スウェーデン?イギリス?アメリカ?絶対に無理だ。報道機関は騒ぎ立てるだろうし、士気も上がるだろうし、不満や愚痴も聞こえるだろう。だが、軍隊、航空機、大砲、機関銃といったものは、全く役に立たない。」と述べた。
 ハンガリーの歴史家イシュトヴァーン・ラヴァスは、ソ連中央委員会が1939年にフィンランドを含む帝政ロシアの旧国境を回復することを決定したと記している。
 アメリカの政治学者
   ダン・ライター
は、ソ連は「政権交代を強行し」、それによって「絶対的な勝利を収めようとした」と述べた。
 ライターは、モロトフが1939年11月にソ連大使に対し、政権交代計画について「新政府はソビエトではなく、民主共和国の政府となるだろう。誰もソビエトを樹立することはないだろうが、レニングラードの安全を確保するために、我々が合意できる政府となることを期待している」と述べたことを引用している。
 ロシアの歴史家
   ユーリ・キリン
によると、ソ連の条件がフィンランド防衛線の最も強固な要塞化されたアプローチを包含していたのには理由がある。
 キリンは、スターリンがそのような合意にほとんど期待していなかったが、進行中の動員のための時間を稼ごうとしていたと主張した。
 彼は、その目的は、政権交代によってフィンランドが足掛かりとして利用されることを防ぐことだと述べた。
 ソ連による完全征服という説に反対する者もいる。
 アメリカの歴史家
   ウィリアム・R・トロッター
は、スターリンの目的は、フィンランドを経由してドイツ軍が侵攻してきた場合にレニングラードの側面を守ることだったと主張した。
 彼は、ソ連が完全征服を意図していたという「最も有力な反論」は、スターリンが「比較的容易にそうできたはず」であるにもかかわらず、1939年にも1944年の継続戦争にもそれが実現しなかったことだと述べた。
 ブラッドリー・ライトボディは、「ソ連の唯一の目的はソ連国境の安全を強化することだった」と記している。
 2002年、ロシアの歴史家
   A・チュバリャン
は、ロシアの公文書館にはソ連のフィンランド併合計画を裏付ける文書は発見されていないと述べた。
 むしろ、ソ連の目的はフィンランド領土を獲得し、この地域におけるソ連の影響力を強化することだった。
 もう一人のアメリカ人歴史家
   スティーブン・コトキン
も、ソ連は併合を目指していなかったという立場を共有している。
 彼は、フィンランドがバルト諸国と比べて異なる待遇を受けていたことを指摘する。
 バルト諸国は相互援助協定を締結させられ、完全なソビエト化を招いたのに対し、ソ連はフィンランドに限定的な領土譲歩を要求し、見返りに領土を提供することさえした。
 これは、完全なソビエト化を意図していたならば、意味をなさないことだった。
 また、コトキンによると、スターリンは交渉において合意に達することに真剣に関心を示していたようで、フィンランドとの7回の会談のうち6回に自ら出席し、要求を何度も緩和したという。
 しかし、相互不信と誤解が交渉を阻害し、膠着状態に陥った。
 開戦前、ソ連指導部は数週間以内に完全勝利を期待していた。
 ドイツ軍が西からポーランドを攻撃した後、赤軍は4,000人未満の損害でポーランド東部への侵攻を完了したばかりだった。
 スターリンのソ連の早期勝利への期待は、政治家のアンドレイ・ジダーノフと軍事戦略家のクリメント・ヴォロシロフによって支持されたが、他の将軍たちはより慎重だった。
 赤軍参謀総長ボリス・シャポシニコフは、カレリア地峡への狭隘な正面攻撃を提唱した。
 さらにシャポシニコフは、より徹底した兵力増強、広範な火力支援と兵站準備、合理的な戦闘序列、そして軍の精鋭部隊の配置を主張した。
 ジダーノフの軍司令官キリル・メレツコフは、「今後の作戦地域は湖、河川、沼地によって分断され、ほぼ全域が森林に覆われている…我が軍の適切な運用は困難だろう」と報告した。
 こうした疑念はメレツコフの部隊配置には反映されず、彼はフィンランド作戦は最大2週間で完了すると公表した。
 ソ連兵には、誤ってスウェーデン国境を越えて侵入しないよう警告さえ発せられていた。
 1930年代のスターリンによる粛清は、赤軍将校団を壊滅させた。
 粛清されたのは5人の元帥のうち3人、264人の師団長以上の指揮官のうち220人、そして全階級の将校3万6761人だった。
 残った将校は全体の半数以下だった。
 将校たちは、能力は劣るものの上司への忠誠心は高い兵士に交代するのが通例だった。
 部隊指揮官は政治委員の監督下にあり、軍事決定の承認・批准には政治委員の承認が必要だった。
 政治委員は軍事決定を政治的功績に基づいて評価した。
 この二重体制はソ連の指揮系統をさらに複雑化し、指揮官の独立性を失わせた。
 ソ連東部国境におけるノアリン・ゴルの戦いでソ連が日本軍に勝利した後、ソ連最高司令部は二つの派閥に分裂した。
 一方は、スペイン内戦のベテランであるソ連空軍の
   パベル・リチャゴフ将軍
戦車の専門家である
   ドミトリー・パブロフ将軍
そしてスターリンの寵愛を受けていた将軍で砲兵隊長の
   グリゴリー・クーリク元帥
が代表を務めた。
 もう一方は、ノアリン・ゴルの戦いのベテランである赤軍の
   ゲオルギー・ジューコフ将軍
とソ連空軍の
   グリゴリー・クラフチェンコ将軍
が率いた。
 この分裂した指揮系統の下では、ノアリン・ゴルの戦いにおけるソ連にとっての「戦車、砲兵、航空機を用いた最初の本格的な大規模戦争」の教訓は無視された。
 その結果、ロシアのBT戦車は冬戦争でそれほど成果を上げられず、ジューコフがハルハ河で10日間で成し遂げたことをソ連が達成するのに、3ヶ月と100万人以上の兵士を要した(状況は全く異なるが)。
 ソ連軍の将軍たちはドイツの電撃戦戦術の成功に感銘を受けたが、それは中央ヨーロッパの地形、つまり舗装道路網が緻密に整備された地形に合わせて調整されたものだった。
 そこで戦う軍は補給・通信拠点を認識しており、装甲車連隊は容易にそれらを攻撃目標とすることが可能だった。
 対照的に、フィンランド軍の拠点は内陸部に位置していた。
 舗装道路はなく、砂利道や未舗装道路さえほとんどなかった。地形の大部分は人里離れた森林と沼地だった。
 従軍記者ジョン・ラングドン=デイヴィスは、その地形を 「その土地のあらゆる部分が、攻撃してくる軍隊にとっての絶望の地となるように作られていた」と描写した。
 フィンランドで電撃戦を遂行することは極めて困難な課題であり、トロッターによれば、赤軍はフィンランドでそのような戦術を実行するために必要な戦術的連携と地域主導の取り組みのレベルに達していなかったという。
 レニングラード軍管区司令官キリル・メレツコフは、当初フィンランド軍に対する作戦全体を指揮した。
 1939年12月9日、指揮権は参謀本部最高司令部(後にスタフカとして知られる)に移譲され、クリメント・ヴォロシロフ(議長)、ニコライ・クズネツォフ、スターリン、ボリス・シャポシニコフが直属となった。
 12月28日、スターリンが軍司令官の職を志願する者を募ると、セミョン・ティモシェンコが、シャポシニコフの当初の計画であるカレリア地峡への集中攻撃によるマンネルヘイム線の突破という作戦の実行を許可するという条件で志願し、受け入れられた。
 1940年1月、レニングラード軍管区は再編され、「北西戦線」と改名された。
 ソ連軍は編成された。
 第7軍は9個師団、1個戦車軍団、3個戦車旅団から構成され、カレリア地峡に駐屯していた。
 その目的は、カレリア地峡におけるフィンランド軍の防衛線を速やかに制圧し、ヴィープリを占領することだった。
 そこから第7軍はラッペーンランタへ進撃を続け、その後西へラハティへ進軍し、首都ヘルシンキへの最終攻勢に出ることになった。
 この部隊は後に第7軍と第13軍に分割された。
 第8軍は6個師団と1個戦車旅団から構成され、ラドガ湖の北に位置していた。
 その任務は、ラドガ湖北岸を迂回する側面攻撃を行い、マンネルハイム線の後方を攻撃することだった。
 第9軍は、カイヌー地方を通ってフィンランド中部へ侵攻する配置に就いていた。
 3個師団で構成され、さらに1個師団が進撃中だった。
 その任務は西方への進撃を行い、フィンランドを二分することだった。
 3個師団からなる第14軍はムルマンスクに拠点を置き、北極圏の港町ペツァモを占領し、その後ロヴァニエミへ進軍することを目指した。
フィンランドの戦略は地理的条件によって決定づけられた。
 ソ連との1,340キロメートル(830マイル)[F 12]の国境は、少数の未舗装道路を除いてほとんど通行不能だった。
 戦前の試算では、ミッケリに戦時司令部を置いていたフィンランド国防軍司令部は、カレリア地峡にソ連軍7個師団、ラドガ湖北側の国境全域にソ連軍が最大5個師団を配置すると見積もっていた。
 この試算では、兵力比は攻撃側が3対1で有利だった。
 しかし、実際の比率ははるかに高く、例えばラドガ湖北側には12個師団が配置されていた
 フィンランドには大規模な予備兵力があり、彼らは通常の機動訓練を受けており、その中には直近のフィンランド内戦の経験を持つ者もいた。
 また、兵士たちはほぼ全員がスキーなどの基本的なサバイバル技術の訓練も受けていた。
 フィンランド軍は開戦時にすべての兵士に正式な制服を支給することができなかったが、予備兵は暖かい民間服を着用していた。
 しかし、人口がまばらで農業が盛んなフィンランドは、労働者を大量に徴兵せざるを得なかったため、労働力不足によってフィンランド経済は深刻な打撃を受けた。
 兵士不足よりもさらに深刻な問題は、外国からの対戦車兵器や航空機の輸送が少量しか届かず、物資が不足していたことだった。
 弾薬事情は深刻で、備蓄されている弾薬、砲弾、燃料はわずか19日から60日分しかなかった。
 弾薬不足のため、フィンランド軍は対砲兵射撃や飽和射撃を行うことがほとんどできなかった。
 フィンランドの戦車部隊は作戦上存在しなかった。
 弾薬事情は、フィンランド軍が主にフィンランド内戦時代のモシン・ナガン銃を装備していたため、いくらか緩和された。
 この銃弾はソ連軍が使用したのと同じ7.62×54mmR弾を使用するものだった。
 状況は非常に深刻で、フィンランド兵はソ連兵の遺体を略奪することで弾薬を確保しなければならないこともあった。
 フィンランド軍の配置は以下の通りであった。
 地峡軍は、フーゴ・エステルマン指揮下の6個師団で構成されていた。
 第2軍団は右翼に、第3軍団は左翼に配置された。
第4軍団はラドガ湖の北に位置していた。
 第4軍団は、ユホ・ヘイスカネン指揮下の2個師団で構成されていたが、間もなくヴォルデマール・ヘグルンドに交代した。
 北フィンランド集団は、ウィルヨ・トゥオンポの指揮下にある白衛軍、国境警備隊、および徴兵された予備部隊の集合体であった。
 スオムッサルミ・ラーテ戦役は二重作戦であり、後に軍事学者によって、より強力な敵に対して、統率の取れた部隊と革新的な戦術がどのような効果を発揮するかを示す典型的な例として取り上げられることになる。
 1939年当時、スオムッサルミは人口4,000人の自治体で、長い湖と荒涼とした森林が広がり、道路はほとんどなかった。
 フィンランド軍司令部はソ連軍の攻撃はないと予想していたが、赤軍は2個師団をカイヌー地域に派遣し、荒野を横断してオウル市を占領し、フィンランドを事実上二分するよう命じた。国境からスオムッサルミへ通じる道路は、北のユントゥスランタ街道と南のラーテ街道の2本あった。
 ラーテ街道の戦いは、1ヶ月に及ぶスオムッサルミの戦いの最中に発生し、冬戦争におけるソ連軍最大の損失の一つとなった。
 ソ連軍第44狙撃師団と第163狙撃師団の一部、約14,000人の兵士は、森林道路を進軍中にフィンランド軍の待ち伏せ攻撃を受け、ほぼ壊滅した。
 小規模な部隊がソ連軍の進撃を阻止する一方、フィンランド軍のヒャルマル・シーラスヴオ大佐率いる第9師団は退路を遮断し、敵軍を小部隊に分割、退却する残党を逐一殲滅した。
 ソ連軍の損害は7,000〜9,000人、フィンランド軍は400人であった。
 フィンランド軍は、数十両の戦車、大砲、対戦車砲、数百台のトラック、約2,000頭の馬、数千丁のライフル、そして切望されていた弾薬と医療物資を鹵獲した。
 ソ連軍は勝利を確信していたため、楽器、旗、楽譜を携えた軍楽隊が第44師団と共に勝利記念パレードに参加した。フィンランド軍は、鹵獲した物資の中に楽器を発見した。

   
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2025年08月14日

マーサー・ファミリー財団(Mercer Family Foundation)米国の民間助成金提供財団

マーサー・ファミリー財団(Mercer Family Foundation)は、アメリカ合衆国の民間助成金提供財団である。
 2013年時点で、資産は3,700万ドルであった。
 この財団は、コンピューター科学者でヘッジファンドマネージャーの
の娘である
   レベッカ・マーサー氏
によって運営されている。
 レベッカ氏のリーダーシップの下、このファミリー財団は2009年から2014年の間に約7,000万ドルを保守的な活動に投資した。
 また、気候変動活動に批判的な団体にも寄付を行っている。
 この財団の主な関心分野は、公共政策、高等教育、科学である。
 この財団は、ヘリテージ財団、イリノイ政策研究所、ハートランド研究所、ニューヨーク州立大学ストーニーブルック校などの組織や機関に寄付を行っている。
 マーサー財団は、「米国退役軍人とその家族の住居と生活の向上」を使命とするホーム・デポ財団に資金を提供している。
 マーサー・ファミリー財団は、
   内国歳入庁(IRS)
への資金提供を全面的に阻止しようとする動きに
   反対するロビー活動
を行ってきた。
 この組織は、ドナルド・トランプ氏をはじめとする
   米国の極右団体への資金提供に
関与していたとされている。
 また、ブレグジット(Brexit)において英国政府関係者とのつながりについても同様の疑惑がかけられている。

    
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2025年07月19日

JDAM(Joint Direct Attack Munition)無誘導爆弾(いわゆる「ダム爆弾」)を全天候型精密誘導弾(PGM)に変換する誘導キット

統合直接攻撃弾(JDAM)
 無誘導爆弾(いわゆる「ダム爆弾」)を全天候型精密誘導弾(PGM)に変換する誘導キットである。
 JDAMを搭載した爆弾は、
   全地球測位システム(GPS)受信機
と連動した一体型慣性誘導システムによって誘導され、公表射程は最大15海里(28 km)である。
 JDAMを搭載した爆弾の重量は500ポンドから2,000ポンド(230 kgから910 kg)である。
 DAMの誘導システムはアメリカ空軍とアメリカ海軍が共同で開発した。
 このため、JDAMキットを爆弾に装着すると、装着する爆弾のMark 80またはBLU(実弾爆弾)の名称に代わるGBU(誘導爆弾ユニット)の識別番号が付与される。
 JDAMは単独の兵器ではなく、無誘導重力爆弾をPGMに変換する「ボルトオン」誘導パッケージである。
 このシステムの主要構成要素は、空力制御面を備えた尾部、(胴体)ストレーキキット、そして
   複合慣性誘導システム
   GPS誘導制御装置
である。
 JDAMは、悪天候や地表条件によって性能が低下する可能性のある
   レーザー誘導爆弾
及び赤外線画像化技術の改良を目的としていた。
 現在、一部のJDAMにはレーザーシーカーが搭載されている。
 ボーイング社は1998年から2016年11月までに30万個以上のJDAM誘導キットを完成させた。
 2017年には1日あたり130個以上のキットを製造した。
 2024年1月時点で、55万個のキットが生産されており、ロシア軍のウクライナへの侵攻に伴う戦闘で、ウクライナ軍にも提供されている。
 湾岸戦争におけるアメリカ空軍の爆撃作戦は、当初報告されたほど効果的な成果がなかった。
 その理由の一つは、
   あらゆる天候下
で精度の高い精密爆弾を保有していなかったことに由来している。
 爆弾に搭載されたレーザー誘導装置は、晴天時には極めて正確であることが証明された。
 ただ、空中の塵、煙、霧、雲に覆われた状況では、レーザーの目標を「ロック」し続けることが困難であった。
 また、高高度では誤差が大きく投下が出来なかった。
 「悪天候精密誘導兵器」の研究、開発、試験、評価(RDT&E)は1992年に開始された。
 GPSを使用する革新的な構想を含む、いくつかの提案が検討された。
 当時、GPS衛星は少なく、リアルタイム兵器誘導に衛星航法を用いるというアイデアは未検証で、議論の的となった。
 INS/GPS誘導兵器に伴う技術的リスクを特定するため、空軍は1992年初頭、エグリン空軍基地で「JDAM運用概念実証」(OCD)と呼ばれる迅速対応型ハイギア・プログラムを立ち上げた。
 ハネウェル、インターステート・エレクトロニクス・コーポレーション、スベルドラップ・テクノロジー、ジェネラル・ダイナミクスが雇用され、米空軍第46試験航空団は1年以内にGPS兵器の実現可能性を実証した。
 OCDプログラムは、GBU-15誘導爆弾にINS/GPS誘導キットを装備した。
 1993年2月10日にF-16戦闘機から88,000フィート(27km)の目標に最初のINS/GPS兵器を投下した。
 さらに5回の試験が、様々な気象条件、高度、距離で実施された。
 OCD プログラムは、36 フィート (11 メートル) の円形誤差確率 (CEP) を実証した。
 ノースロップ・グラマン社では、レーザー照準装置を搭載していなかった
   B-2スピリットステルス爆撃機
に、JDAMが配備される前に暫定的な精密誘導通常弾を装備することを熱望した。
 「GPS支援弾」またはGAMと呼ばれるプログラムを立ち上げた。
 これは、慣性航法とGPSを組み合わせてドリフトを修正し、GPSが利用できない環境でも戦闘機能を維持しながら優れた精度を実現するものであった。
 GAM弾は主に2,000ポンドMk 84爆弾で構成され、
   尾部誘導キット
が追加され、GBU-36/B GAMと命名された。
 これらの弾薬はJDAMの直接の前身と考えられている。
 GAM弾はB-2のGPS支援標的システム(GATS)と組み合わせられ、AN/APQ-181合成開口レーダーとインターフェースして、20フィートのCEPで極めて高い精度を可能にした。
 これはGATS/レーダー支援のないJDAMの約半分であった。
 GAMは常にJDAMに置き換えられるまでの暫定的な解決策として意図され
   マクドネル・ダグラス(後のボーイング)
が1995年10月にJDAMプログラムに選定されていた。
 最初のJDAMキットは1997年に納入された。
 1998年と1999年に運用試験が実施された。
 試験では450発以上のJDAMが投下され、33フィート(10メートル)CEP(高度10メートル)における精度が公表されており、システム信頼性は95%を超えた。
 制御されたパラメータによる投下に加え、JDAMの試験と評価には、晴天時の試験から精度が低下することなく、雲、雨、雪の中での投下を含む「運用上代表的な試験」も含まれていた。
 さらに、各兵器を個別に標的とする複数の兵器投下試験も実施された。
 JDAMとB-2スピリットステルス爆撃機は、
   アライド・フォース作戦中に実戦デビュー
を果たした。
 ミズーリ州ホワイトマン空軍基地から30時間ノンストップの往復飛行を行ったB-2は、アライド・フォース作戦中に650発以上のJDAMを投下しした。
 これは、開戦当初わずか600発だった米軍のGBU-31(全機がB-2スピリット用に確保されていた)の大半を使用したため、さらに224発のGAMが投入された。
 2002年にAcquisition Review Journalに掲載された記事には、「アライド・フォース作戦中、B-2は96%の信頼性で651発のJDAMを発射し、標的の87%に命中した」と記されている。
 オリジナルのJDAMの運用上の成功により、プログラムは500ポンド(230 kg)のMark 82と1,000ポンド(450 kg)のMark 83へと拡大され、1999年後半に開発が開始された。
 不朽の自由作戦とイラクの自由作戦からの教訓を受けて、米海軍と米空軍はともに、移動標的に対する使用として、GPS精度の向上やターミナル誘導用の精密シーカーなど、キットの改良を追求した。
 JDAM爆弾は巡航ミサイルなどの代替兵器に比べて安価である。
 当初の見積では尾部キット1個あたり4万ドルであったが、競争入札の結果、マクドネル・ダグラス社(後のボーイング社)と1個あたり1万8000ドルで納入する契約が締結された。
 その後、現在のドル換算で単価は2004年に2万1000ドル、2011年には2万7000ドルに上昇した。
 尾部キットの費用に加えて、Mk80シリーズの鉄爆弾、信管、近接センサーの費用を加えると、兵器全体の費用は約3万ドルになる。
 ただ、最新のトマホーク巡航ミサイル(タクティカル・トマホーク)の費用は約73万ドル(2006年度)で対費用効果は高い。

   
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2025年06月29日

フリム2(Hrim-2)ウクライナの短距離弾道ミサイル システム

フリム2(Hrim-2)
 グロム(Grom)またはOTRKサプサン(OTRK Sapsan ウクライナ語のОТРК "Сапсан"、文字通り 「ハヤブサ」)
 作戦戦術ミサイルシステム・フリム(Оперативно-тактичний ракетний "雷") は、
   KB ピヴデンネ
   PA ピヴデンマシュ
によって開発されているウクライナの
   短距離弾道ミサイル システム
であり、
   戦術ミサイル システム
   多連装ロケットランチャー
の機能を組み合わせるように設計されている。
 ウクライナ国内での使用を想定した当初のサプサン型ミサイルの射程は500キロメートルだった。
 後に輸出用に開発されたHrim-2型は、
   ミサイル技術管理レジーム(MTCR)
で定められた300キロメートルの射程制限内に収めるため、射程が280キロメートルに制限されている。
 MTCRは、ミサイルおよびミサイル技術の拡散を抑制することを目指している。
 2006年、ウクライナ国家安全保障・国防会議は、最大射程距離120kmで、
   ロシア企業
によるオーバーホールとアップグレードしかできなかった旧式の
   旧ソ連製トーチカU
よりも優れたミサイルシステムの必要性を認識した。
 KBピヴデンネ社は、「サプサン」と名付けられた新型ミサイルの開発を任された。
 国防省とピヴデンネ社は2007年9月に運用要件について合意した。
 このプロジェクトへの資金提供は、2008年の金融危機を受けて2009年から2010年にかけて中断された。
 なお、2011年11月に再開されたが、金額は少額であった。
 その後、2013年に終了した。
 2011年、武器商人は「フリム」と呼ばれる新型ミサイルシステムを外国の顧客に提供し始めた。
 そして2年後、ピヴデンネ社は非公開の国からフリム2の開発を委託された。
 2014年、露露戦争勃発後、ピヴデンネ社は、フリム2の開発経験を活かし、サプサン計画を再開した。
 2018年までにサプサンの評価準備を整えることを提案した。
 政府はこれに同意した。
 Hrim-2の開発は、2014年にキエフで開催された武器と安全保障の展示会で発表された。
 2016年には、サウジアラビアが研究開発に4000万ドルを提供したと報じられた。
 Hrim-2輸送起立発射台の車体の写真は2017年5月に公開された。
 各車両は2発のミサイルを搭載し発射することができる。
 2019年4月には、Hrim-2の試作機2機が製造された。
 1機はサウジアラビアによる試験用、もう1機はウクライナ軍による試験用であることが発表された。
 サウジアラビアは2019年後半に1機の試験を行う予定で、このシステムは2022年に配備される予定である。
 2020年10月には、ウクライナの試作機の試験を完了するために3億ドルが必要であると発表された。
 2021年2月、政府は輸送起立発射台2台、装填機2台、制御装置2台(砲兵隊長用と師団長用)で構成される試験用砲兵隊の製造に資金を提供する契約を締結することを決定した。
 契約は2021年4月までにはまだ締結されていなかったが、防衛省は2〜3か月以内に締結したいとしている。
 2023年6月、当時のウクライナ国防大臣
   オレクシイ・レズニコフ
は、計画完了に必要な資金が承認され、割り当てられたと述べた。
 2024年8月、ウクライナは初の国産弾道ミサイルの試験に成功したと主張した。
 具体的なミサイルの種類は明らかにされていない。
 一部の評論家は、ここで言及されているミサイルはフリム-2ではないかと推測している。
 2024年10月22日、ウクライナNATO代表団長の
   イェホル・チェルニエフ
は、ウクライナ製弾道ミサイルの使用からまもなく「具体的な成果」が得られるだろうと述べた。
 これはおそらくフリム-2を指していると見られる。
 2024年11月9日、ゼレンスキー大統領は定例演説の中で、ウクライナの兵器国産化について言及した。
 具体的には「最初の100発のミサイル」を製造したと述べた。
 ミサイルの種類については詳細を明かさなかった。
 「ロシアの奥深くを攻撃する」という発言から、彼はHrim-2に言及していたと考えられている。
 ロング・ネプチューンのような他のミサイルについても言及していた可能性がある。
 実戦試験と量産は、ドイツが提供した「50億ユーロの防衛パッケージ」によって資金提供された。
 2022年8月9日、ロシア占領下のクリミア半島、ノヴォフェドリウカの
   サキー空軍基地(前線から220km離れた)
で、複数の大規模爆発が発生した。
 爆発原因は不明だが、複数のメディアはフリム2による可能性を報じた。
 2023年5月6日、ロシア当局は、自国の防空システムがクリミア上空でフリム2ミサイル2発を撃墜した。
 なお、死傷者や損害はなかったと主張した。
 ワシントンに拠点を置くシンクタンク、戦争研究研究所は、当局がフリム2の標的を特定しておらず、ロシアの情報筋が野原に残されたとされるフリム2の残骸の映像を詳細に報じたと指摘した。
 2025年6月、ウクライナはフリム2の最初の実戦試験を300kmの距離で実施したと主張した。
 ウクライナ政府によると、このミサイルは量産段階に入ったという。
 射程は300km(190マイル)、速度はマッハ5.2(1.1マイル/秒、1.8km/秒)、弾頭重量は480kgである。
 これはATACMS弾道ミサイルの性能を上回り、9K720イスカンデルに迫る。
 また、フリム2には正式名称がないことも明らかにされている。

    
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2025年04月23日

ウーラン(Uhlan)ポーランド軽騎兵を指す言葉

ウーラン(Uhlan)
 ランス(騎槍)、サーベルや小銃などを装備したポーランド軽騎兵を指す言葉。
 ポーランド語ではウワンまたはウーワンと呼ぶ。
 18世紀になると、プロイセンをはじめヨーロッパ諸国で編成されるようになる。
 日本では英語の訳語である
   槍騎兵(ランサー)
としてよく知られている。
 近代から現代にかけての各国の槍騎兵はこのウーランが基本型となっている。
 彼らの着用する四角形の板がついた帽子をチャプカ(Tschapka :Rogatywka)と呼ぶ。
 これはポーランド語におい帽子をさす一般名詞である。
 フランス語のシャポー(chapeau)と同語源で、「帽子」を意味するラテン語のカッパ(cappa)からきている。
 現代のフロックコートなど、ダブルブレスト(前合わせがダブル)の上着はこのウーランの制服をもとにしたもの。
 また、ウーランは独特の紺青色を用いた制服を纏うのが伝統で、紺青色の一種である「プルシアンブルー」(プロイセンの青)はプロイセン王国軍のポーランド人ウーラン隊の制服の色に由来する。
 もともと、名前はモンゴル、タタール語の
   勇敢なる戦士 (Oglan、Uhuanとも)
が語源とされ、オスマン帝国の青年隊 (Oghlan) からなる説もある。
 14世紀にかけて、モンゴル、タタール系の軍事集団がポーランド、リトアニア、アレン辺りを占領し居住すると、地元となる
   ポーランド貴族
は彼らの
   豊富な実戦経験
   伝統的な戦法
を積極的に取り入れようとした。
 16世紀にかけて、偵察及び重騎兵の先遣、小隊突撃作戦などを主な任務とした軽騎兵隊が出現している。
 火器の発達によって各国で重装甲が徐々に時代遅れになるにつれ、機動性を重視した騎兵が主流となった。
 ただし、火器に対応して誕生し常に発展をしていたポーランドの
   有翼重騎兵団「フサリア」
の衰退は火器の発達による戦闘能力が弱体化したのはなく、当時のポーランドの国家経済や国庫の疲弊であった。
 ポーランド最後の国王スタニスワフ2世は、騎兵連隊にランス、サーベルやピストルなどを装備させた。
 また、鮮やかな制服で飾って、ウーラン連隊(槍騎兵連隊)と名づけして国王護衛隊として編成した。
 ポーランド分割の後、プロイセン、オーストリア、ロシアの国土となったいくつかの州でもまもなくウーラン連隊が編成される。
 オーストリアにおいて、槍騎兵連隊は1784年初めて編成され、隊員のほとんどがポーランド人であることをちなんで
   ウーランプルク (Ulan-Pulk)
と呼ばれていた。
 ドイツウーラン 1914年、19個槍騎兵連隊がドイツ帝国陸軍に編入された。1919年に解散されている。
 マンフレート・フォン・リヒトホーフェンは1911年の4月に士官学校を卒業後槍騎兵連隊に配属されたが活躍の場が少なくなったことや、勤務中に操縦士を目撃したこともあり、航空隊への転属願いを師団長に出し1915年5月に飛行訓練所への入所が認められた。
 ユゼフ・コワルスキーは第22軽騎兵連隊に所属しポーランド・ソヴィエト戦争に従軍していた。
 第二次世界大戦時代の1939年の戦役におけるポーランドの騎兵連隊が地上最後の実戦的ウーランであった。
 現在でもポーランドをはじめ各国にウーラン連隊が存在するが、完全に機械化されている。

     
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2025年04月17日

中国コンソーシアム(China Consortium) 20 世紀初頭に中国政府への融資を調整するために、政府の指示の下で外国銀行によって形成された2 つの連続した協力協定のこと。

 中国コンソーシアムは、文脈に応じて
   銀行コンソーシアム
   金融コンソーシアム
または 4 国、5 国、または 6 国コンソーシアムとも呼ばれる。
 20 世紀初頭に中国政府への融資を調整するために、それぞれの政府の指示の下で外国銀行によって形成された
   2 つの連続した協力協定
を指している。
 これらの取り組みは、西洋諸国と日本による植民地主義の手段として、中国の
   国民主義者
から反発を受け、後に中国共産党からも同様に批判された。
 1909年から1910年にかけての
   「旧」中国コンソーシアム
の出現は、清朝中国が1895年の
   下関条約(2億両)
と1901年の
   義和団議定書(4億5000万両)
に基づく戦争賠償金の支払い、そして19世紀後半から20世紀初頭にかけての
   鉄道利権獲得
をめぐる争いによって、外部からの資金調達を必要としていた状況を背景に起こった。
 この状況は、1904年4月に締結された英仏協商と、1904年から1905年の日露戦争における日本の勝利によってさらに形成され、中国における民族主義的感情を刺激した。
 コンソーシアムの起源は、1904年に中国中部の鉄道路線の共同出資を目指した
   英仏共同事業
にまで遡る。
 当時、漢口(現在の中国本土中心部に近い武漢市の一部)は、ベルギーとフランスの投資家の資金援助により、北部の首都北京と結ばれていました。
 漢口と南部の広東省、西部の四川省との結びつきを強化するため、
   英国中国企業(HSBCとジャーディン・マセソンの合弁企業)
   ペキン・シンジケート(多くのフランス人投資家を抱える英国企業)
そしてインドシナ銀行を含むフランス企業が
   共同投資会社「中国中央鉄道有限公司」
を設立した。
 1904年の英仏協定は、当時確約したアメリカの参加者はいないものの、将来的にはアメリカとベルギーの参加も明示的に認められていた。
 その後数年間、中国高官の
   張之洞
は、より良い借入条件を確保するために西側諸国を対立させた。
 当時は湖広鉄道(揚子江と中国南部の海岸線の間の地域の大部分を指す古称)と呼ばれていた中国中部の鉄道網への融資をドイツの金融業者に提供した。
 張の行動は、イギリスとフランスの銀行家たちに、ドイツの銀行家たちに対してより包括的なアプローチをとるよう促した。
 1909年春、イギリス、フランス、ドイツの銀行家たちの間で合意が具体化した。
 アメリカの銀行家たちから、1904年に自分たちもこの取引に参加するという約束について注意喚起があった。
 にもかかわらず、彼らは取引を進めることを決定した。
 1909年6月6日、北京でHSBC、ドイツ・アジア銀行、インドシナ銀行の間で、中国政府の承認を条件に550万ポンドの融資を受けるという3カ国銀行コンソーシアム設立の正式契約が締結された。
 しかし、イギリス政府はすぐに、1904年の取り決めは拘束力を持つというアメリカの見解を再び採用した。
 アメリカのパートナーの参加を主張した。
 当時、ウィリアム・ハワード・タフト大統領が率いるアメリカ政権は、従来の門戸開放政策を新たな解釈へと転換しており、
   商業投資
をより重視する「ドル外交」という名称を確立していた。
 この方針転換により、J.P.モルガン社が率いるアメリカの銀行家たちも参加する長期にわたる交渉が始まった。
 最終的に、1910年5月23日、パリのインドシナ銀行本店での会議で合意が成立した。
 契約当事者は、英国側は英国中国企業と
   中国中央鉄道有限公司(カール・マイヤー、C・S・アディス、G・ジェイムソンが署名)
ドイツ側は
   ドイツ・アジア銀行(フランツ・ウルビッヒ、エミール・レーダースが署名)
フランス側は
   インドシナ銀行(政治家ジョゼフ・カイヨー、スタニスラス・シモン、モーリス・カゼナーヴ(インドシナ銀行)、エミール・ウルマン(パリ国立高等弁務官事務所)が署名)
米国側はモルガンの英国関連会社である
   モルガン・グレンフェル・アンド・カンパニー(エドワード・グレンフェル、ヘンリー・P・デイヴィソン、マックス・ウォーバーグ、ヘンリー・H・ハージェス、ウィラード・D・ストレートが署名)
であった。
 その後、連合銀行は中国当局と融資条件について協議を開始したが。
 ただ、中国当局は厳しい条件の受け入れに難色を示した。(これは後の展開が示す通り、正当な懸念であった)
 最終的に、1911年5月20日、4カ国連合は
   湖広鉄道
の建設資金として600万ポンドの融資を承認した。
 湖広鉄道は当時、広東省の北境から漢口、そしてそこから四川省の東境までを結ぶ路線と定義されていた。
 1911年4月には、連合は別途、
   中国の通貨改革
のために1,000万ポンドの融資を行っており、鉄道投資への融資という当初の目的を超えた意義を確立した。
 中国当局が恐れていた通り、中国に課された条件は
   鉄道保護運動
へと発展する抗議運動を巻き起こし、1911年の辛亥革命と1912年初頭の清帝国の崩壊の一因となった。
 鉄道協会は革命の混乱の間中立の立場を選び、その時期に
   満州政府
からの緊急資金の切実な要請を拒否した。
 革命により成立した共和制政権の事実上の実権者
   袁世凱
は、1912年1月に
   北洋政府
のために国内資金を調達する努力に失敗した。
 そのため外国列強国からさらなる融資を求めなければならなかった。
 1912年2月28日には、イギリス資本の
   香港上海銀行(HSBCの源流金融機関のひとつ)
が鉄道協会に代わって200万両を袁に前払いした。
 1912年5月2日、タンはイギリスとベルギーの協定を正式にキャンセルしなければならなくなり、コンソーシアムの立場はさらに強固なものとなった。
 当初コンソーシアムのアプローチ全体に懐疑的だったイギリスの外交官
   ジョン・ジョーダン
は、融資交渉の一環として、中国側の支出を統制する厳格な制度を確立した。
 また、中国海関庁の外国人委員によって監督されるようにした。
 その後、日本とロシアはコンソーシアムへの参加を要請し、コンソーシアムは拡大して「六カ国コンソーシアム」として知られるようになった。
 これは1912年6月18日の合意により成立し、5年後の1917年6月に期限を迎えた。
 こうしてコンソーシアムは6つの国別グループから構成された。
 香港上海銀行を筆頭とする英国グループに、1912年後半に
   ロンドン・カウンティ・アンド・ウェストミンスター銀行
   パーズ銀行
   シュローダーズ
が加わった。
 ドイツ・アジア銀行が主導し、他の 14 の金融機関が参加するドイツのグループで、その中には
が含まれた。
 インドシナ銀行(Banque de l'Indochine)が主導するフランスのグループ
   パリ国立コントワール(Comptoir National d’Escompte de Paris)
   産業信用商業(Crédit Industriel et Commercial)
   パリ・ペイバ銀行(Banque de Paris et des Pays-Bas)
   ソシエテ・ジェネラル(Société Générale)
   商業・産業銀行フランス統一銀行(Banque Française pour le Commerce et l'Industrie)   
   パリジェンヌ銀行(Banque de l'Union Parisienne,)
   クレディ・リヨン(Crédit Lyonnais;)
 また、JPモルガンが率いるアメリカのグループで、クーン・ローブ・アンド・カンパニー、国際銀行公社(ニューヨーク・ナショナル・シティ銀行が国際投資のために設立した会社)、ファースト・ナショナル銀行も参加していた。
 ロシアが率いるグループでは、ロシア・アジア銀行が参加していたが、
   ソシエテ・ジェネラル・ド・ベルギー
などのロシア以外の銀行も参加していた。
 なお、日本のグループで、横浜正金銀行のみで構成されていた。
 一方、このコンソーシアムの不人気により、共和党政権は代替の資金調達方法を模索することになった。
 その後、1912年には
   中国産業銀行
のスポンサーになることに同意し、金融家
   バーチ・クリスプ
が結成したイギリスのシンジケートや、ベルギーとフランスの投資家(ソシエテ・ジェネラル・ド・ベルギー、アンパン・グループ、中国ベルジュ銀行とそのフランス人パートナーを含む)から中国西部の鉄道建設資金を調達した。
 しかし、これは中国の資金需要を満たすには不十分であり、コンソーシアムの重要性を損なうものではなかった。
 1912年末までに、北洋政府とコンソーシアムの間で、
   中国の塩税収入を担保
とする2,500万ドルの融資に関する原則合意が成立した。
 しかし、融資の統治体制をめぐる諸外国間の紛争により、融資の完了はさらに遅れた。
 1913年初頭、新たに選出されたウッドロウ・ウィルソン大統領が率いるアメリカ政権は、タフトの
   ドル外交を放棄
する新たな対外開放政策の策定を目指した。
 1913年3月19日、中国政府はアメリカのコンソーシアムへの参加を終了させることを決定した。
 これにより参加国と銀行は5カ国に縮小された。
 アメリカの撤退は中国で人気を博し、コンソーシアムと借款は物議を醸した。
 アメリカ撤退の2日後、中華民国臨時政府で国民党を結成。党首として1913年2月の総選挙で圧勝し、議院内閣制に基づいた法による統治、大総統の権限を制限することが、中国を安定させると考えた
   宋教仁
が、専制政治を目論む袁世凱(または孫文)により放たれた刺客により上海駅頭で射殺された。
 この暗殺事件に北京の政治的緊張が劇的に高まった。
 袁世凱は新たな資金を迅速に調達するため、5カ国となったコンソーシアムとの交渉において要求を緩和した。
 袁は銀行家たちを説得し、国民議会による借款の承認を省略させた。
 1913年4月26日、孫文が上海での演説でこの借款を非難した翌日、北京公使館地区のHSBCビルで借款契約が速やかに調印された。
 退職したアメリカ人銀行家への返済を含む2,500万ポンドのこの借款は、「再編借款」、あるいは中国の歴史学では「中華民国二年大借款」として知られるようになった。
 この借款は、袁世凱に彼の統治に対する反対勢力(しばしば「第二中国革命」と呼ばれる)を打ち破る手段を与えたとして、広く批判された。
 再編借款は、1900年の
   義和団の乱
への対応として八カ国同盟が結成されたことで始まり、その後まもなく
   1914年七月恐慌
とそれに続く第一次世界大戦によって終焉を迎えた、
 中国における諸外国の広範な協調行動の13年間の頂点を成した。
 第一次世界大戦中、中国連合はドイツが他の加盟国と戦争状態となり、他のヨーロッパの交戦国も財政難に陥っていた。
 このため、融資には足かせをはめられた。
 日本は中国への二国間融資を強化し、当時の対外資金の大部分を日本が担っていた。
 アメリカ合衆国では、ウィルソン政権が、1915年初頭に大日本帝国政府が策定した
   21ヶ条要求
を含む、日本の動きに対抗し、第一次世界大戦による欧州勢力の動きが停止した間隙を利用して新生中華民国に米国の権益を広げるため目論見から、徐々に姿勢を変えていった。
 しかし、ウィルソンは最初の任期を通して、政府保証なしの米国銀行による
   中国での民間融資のみを奨励すること
を好んだ。
 ただ、高いリスクと、特に戦時中のヨーロッパなど、他の地域での米国銀行による融資の方が魅力的な機会があったため、これは実現しなかった。
 1916年後半、ウィルソンが再選された。
 10月には寺内清輝が率いる新しい日本政府が誕生し、「中国に対する強制は行わない」政策が採用されたことで状況が変わった。
 1917年1月30日、ドイツ以外の連合国メンバーであるフランス、日本、ロシア、イギリスの代表がロンドンで会合した。
 なお、アメリカ各国の代表に対し、
   再建借款の追加発行への参加
を検討するよう嘆願したが、国務省はこの計画を承認することに消極的だった。
 これにより、五カ国協定は1917年6月に失効していたため第一中国連合の活動は事実上終結した。
 1917年8月、横浜正金銀行は中国政府に対し、第二回再建借款と称する1,000万円の二国間融資を行った。
 1917年11月下旬までに、ウィルソンは、財政的に脆弱であったフランスとイギリス、日本、そして拡大したアメリカの銀行グループにもかかわらず、新しいコンソーシアムを組織すべきだと説得された。
 ロシアは十月革命後に中国から撤退していが、1918年の最初の数か月間、米国は決定を遅らせた。
 日本は北京の政府だけでなく他の中国の交戦国にも融資することになった。
 最終的に、1918年6月21日、ウィルソンは
   ロバート・ランシング国務長官
による新しいコンソーシアムの交渉開始の提案を承認した。
 米国国務省は、中国における外国の勢力圏を排除しないまでも制限することと、アメリカ資本の中国市場への平等なアクセスを確保することの両方を目的としていた。
 その後、米国はフランス、日本、イギリスに新しい協定の交渉を招請し、4か国の代表は最終的に5月12日に協定案を採択した。
 1919年9月1日、パリ講和会議に出席していた両国は、この協定案を受諾した。
 日本政府は1919年9月1日に協定案を受諾したが、当時は南満州と呼ばれていた
   遼東半島
とモンゴルについては留保事項が付されていた。
 その後、英国と日本の外交官の間で、中国側の異議を無視し、この件に関する妥協案が合意された。
 新しいコンソーシアムに関する協定は、最終的に4カ国の交渉担当者によって締結された。
 1920年10月15日に香港上海銀行、インドシナ銀行、横浜正金銀行、そして参加したアメリカの銀行(JPモルガン、クーン・ローブ、ニューヨーク・ナショナル・シティ銀行、ニューヨーク・ギャランティ・トラスト・カンパニー、シカゴ・コンチネンタル・アンド・コマーシャル・トラスト・アンド・セービングス銀行、チェース・ナショナル銀行、リー・ヒギンソン・アンド・カンパニー)の代表者によって署名された。
 この協定は1921年1月18日に北京の中国政府に通知された。
 その後まもなく、ベルギーがコンソーシアムに加盟した。
 ただ、中国国内の
   政治的混乱
と加盟国の
   利害の相違
により、新しいコンソーシアムは融資を行うことができなかったが、正式には1939年まで存続した。
 なお、1925年まで銀行家たちの定期的な会合がその評議会を構成していた。
 1922年3月までに、その英国のメンバーにはHSBC、ベアリングス銀行、ロンドン・カウンティ・アンド・ウェストミンスター銀行、シュローダー、インド・オーストラリア・アンド・チャイナ・チャータード銀行、N.M.ロスチャイルド・アンド・サンズ、英国貿易公社が含まれていた。
 1934年、駐中国日本大使
   須磨弥吉郎
は1920年10月の合弁協定に言及し、中国開発金融公司の設立に反対したが、アメリカ当局は彼の主張を却下した。

   
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2025年02月24日

デラノ家(Delano family)

アメリカ合衆国のデラノ家(Delano family)の一員には
   ユリシーズ・グラント
   カルビン・クーリッジ各大統領
   宇宙飛行士のアラン・B・シェパード
   作家のローラ・インガルス・ワイルダー
がいる。
 彼らの先祖は、 1620年代初頭にマサチューセッツ州プリマスに到着したワロン人のプリマス植民地開拓人の
   ピルグリム=ファーザーズ(Pilgrim Fathers)
   フィリップ・ド・ラノワ(1602年 - 1681年)
である。
 (なお、ワロン人はベルギーのワロン地域で暮らすフランス語を母語とする人々でベルギー全人口の約3分の1を占めている。)
 彼の子孫には、インディアンの歴史で重要な役割を果たした
   ユースタキウス・ド・ラノワ
   フレデリック・エイドリアン・デラノ
   ロバート・レッドフィールド
   ポール・デラノ
がいる。デラノ家の先祖には、メイフラワー号をチャーターしたピルグリム、7人の乗客、メイフラワー誓約の署名者3人がいる。
ヨーロッパのデ・ラノワ家
ウォーレン・デラノ・シニア大尉
 フィリップ・ド・ラノワは、1602年12月7日にライデンで洗礼を受けた。
 彼の両親は、現在北フランスに住む宗教難民で1575年にトゥールコワンでジャン・ド・ラノワとして生まれた
   ヤン・ラノ
と、スペイン領ネーデルラントのリール出身の
   マリー・マヒュー
である。
 両親は1596年1月13日にライデンのワロン教会で婚約した。
 父親は1604年にライデンで亡くなった。
 フィリップの祖父、トゥールコアンの
   ギルベール・ド・ラノワ
はローマカトリック教徒として生まれたが、初期にプロテスタントになった。
 彼はおそらく1570年代後半に家族とともにイギリスへ渡り、その後1591年に
   宗教的異端者の安全な避難所
であったライデンへ移住した。
 マヒュー一家もそれと同時期にライデンに到着しており、それ以前はリール近郊のアルマンティエールに住んでいた。
 ド・ラノワという姓は、リール近郊にあるラノワという町の膠着語で、ピカール方言の異形であり、現代フランス語のaulnaie「ハンノキの農園」に相当)に由来している可能性があるという。
 デラノ家が貴族 ラノワ家の子孫であることを示唆する証拠がある。
 イングランドから到着したフィリップ・ド・ラノワの先祖は、フランス語で礼拝を行っていたライデン・ワロン教会に所属していたことから、彼らはおそらくフランス語かピカルディ語を話していたと思われる。彼がライデンでジョン・ロビンソン 巡礼者の会衆と接触した時期や程度は不明であるが、フィリップは最終的にロビンソンが組織したアメリカ大陸への航海に参加した。
 ライデン巡礼者は、航海のためにスピードウェル号を購入した。
 彼の名前は乗客名簿に載っていないが、メイフラワー号の研究者
   ジェレミー・バングス
によると、フィリップは、母方の叔父
   フランシス・クック(母の姉妹ヘスター・マヒューの夫)
と若い従兄弟
   ジョン・クック
とともに、デルフスハーフェンからサウサンプトンへの
   スピードウェル号
の航海に同行し、メイフラワー号に会ったと考えられている。
 ただ、フィリップがスピードウェル号に乗らずに別々にイングランドに行った可能性もある。
 彼らはイングランドで他の巡礼者や雇われ植民者と集合し、2隻の船で次の航海に出た。
 スピードウェル号は航海に耐えられないことが判明し、乗客のうち11人がメイフラワー号に乗船した。
 メイフラワー号に乗れなかった20人(ロバート・カッシュマンとフィリップ・ド・ラノワを含む)がライデンに戻ったか、イギリスに残ったかは不明である。
 メイフラワー号は103人の乗組員を乗せて単独で航海し、1620年9月6日にサウサンプトンを出発した。
 1620年11月11日にケープコッド港に到着した。
 フォーチュン号は最終的にスピードウェル号に代わり、1621年7月初旬にプリマス植民地に向けて出航した。
 1621年11月9日に到着した。フィリップも乗客の1人だった。
 フィリップ・ド・ラノワは、前年にメイフラワー号で到着していた叔父のフランシス・クックと従弟のジョンと合流し、一緒に暮らした。
 1623年、彼はプリマスで
   土地の特許
を受けたが、1627年にこの土地を売却し、ダックスバラに移住した。
 1634年、マサチューセッツ州プリマスで、彼は
   ヘスター・デューズベリー
と結婚した。
 彼らの子供は、
   メアリー・デラノ(1635年頃生)
  フィリップ・デラノ(1637年頃生)
  ヘスターまたはエスター・デラノ(1640年頃生)
  トーマス・デラノ(1642年3月21日生)
  ジョン・デラノ(1644年生)
  ジョナサン・デラノ(1647年 - 1648年生)
がおり、おそらくマサチューセッツ州ダックスベリー出身となり、デラノは繁栄し、村の周囲に高速道路や橋の建設を組織するグループの一員となった。
 ヘスターは1648年以降に亡くなった。
 1653年までに、彼は未亡人となった
   メアリー・ポンタス・グラス(1625年生まれ)
と結婚し、
   ジェーン・デラノ
   ベッカ・デラノ
   サミュエル・デラノ
という3人の子供をもうけた。
 デラノは1637年の
   ピクォート戦争
に志願兵として従軍した。
 ピクォート戦争は1636年から1637年アメリカ東部ニューイングランド地方のコネチカット州で生じた、原住民のピクォート族インディアンとイギリス白人入植者との紛争のこと。
 1652年、彼は35人の他の入植者と合流し、当時ダートマス・タウンシップと呼ばれていた地域で、境界線を引いたワンパノアグ族の指導者マサソイトから交易品を購入した。
 そこは清教徒の厳格な宗教法の外で暮らすことを望んだクエーカー教徒の友の会に売却された。
 フィリップは獲得した土地のうちの自分の取り分800エーカー(3.2 km 2)を息子の
   ジョナサン・デラノ
に与えた。
 彼は1681年8月22日、マサチューセッツ州ブリッジウォーターで亡くなった。
 彼の子孫の多くは著名な船乗り、捕鯨者、造船業者になった。
 デラノ家の一部の人々は後に商業的に成功し、マサチューセッツ貴族の一員となり、
   ボストン・バラモン(「ボストンの第一家系」)
の1つと呼ばれることもあった。
 フィリップ・ド・ラノワの6番目の息子ジョナサン(1648年頃 - 1720年)は、メイフラワー号の乗客リチャード・ウォーレンの孫娘マーシー・ウォーレンと結婚した。
 彼らの直系の子孫には
   作家ローラ・インガルス・ワイルダー
   ユリシーズ・グラント大統領
   カルビン・クーリッジ大統領
   人類学者ロバート・レッドフィールド
   宇宙飛行士アラン・B・シェパード
   ジャーナリストハンター・S・トンプソン
   芸能人マルティナ・マクブライド
   詩人コンラッド・ポッター・エイキン
がいる。
 家族はペンシルバニア州、ユタ州、ジョージア州、ミシガン州、メイン州、ニューヨーク州、オハイオ州、オクラホマ州、バージニア州、バーモント州、そして遠くはチリにまで移住した。
 今日ではポール・デラノ大尉の子孫は数多く著名な人物となっている。
 ニューヨーク一族のサラ・デラノはジェームズ・ルーズベルトと結婚し、彼らの唯一の子供である
はアメリカ合衆国大統領になった。
 アマサ・デラノ(1763–1823)は19世紀のアメリカの船長で貿易商であり、後に有名な中編小説の元となった難破した奴隷のグループとの遭遇など、いくつかの海上冒険での役割で最もよく知られている。
 アマサ・デラノは1763年2月22日、米国マサチューセッツ州ダックスベリーで生まれた。
 彼は船乗りの家族に生まれ、海洋の世界と強いつながりを持って育った。
 デラノは船員として海事のキャリアを開始し、最終的には船長にまで昇進した。
 彼は様々な貿易航海に従事し、南太平洋や南アメリカなどの遠隔地で貴重な毛皮と油のためにアザラシを狩る、儲かる
   アザラシ産業
に関わっていた。
 デラノの生涯で最も注目すべき出来事の 1 つは、1805 年にチリの海岸近くでスペインのスクーナー船トライアル号に遭遇したときの出来事である。
 デラノの船、パーセベランス号は、遭難しているように見えるトライアル号に遭遇しました。
 デラノは、援助を提供するためにスペイン船に乗り込んだ。
 彼が目にしたのは、悲惨な光景であった。
 トライアル号は奴隷船であり、乗船していた奴隷たちは捕虜の主に対して反乱を起こしていた。
 デラノと彼の乗組員は、当初この事実を知らなかった。
 デラノと彼の乗組員の何人かは、最終的に反乱を起こした奴隷たちに捕らえられたが、なんとか逃げることができた。
 デラノは後に援軍を連れて戻り、反乱を鎮圧した。
 この事件とデラノの記述は、1855 年に出版されたハーマン メルヴィルの中編小説「ベニート セレノ」の基盤となった。
 海上冒険の後、アマサ デラノは米国に戻った。
 彼は引き続き海運業と貿易業に携わった。
 アマサ・デラノは1823年5月13日にマサチューセッツ州フェアヘブンで亡くなった。
 ポール・デラノ(1775-1842)、チリ海軍司令官である。
 コロンバス・デラノ(1809–1896) は、政治家、弁護士、牧場主、銀行家、オハイオ州選出の米国下院議員、ホイッグ党/共和党員である。
 連邦政府による南部占領下で、アフリカ系アメリカ人の連邦権利と保護を主張した。
 グラント政権下では米国内務長官を務めた。
 1874 年、イエローストーンを連邦政府が保護することを要求した。
 1875 年、在任中に汚職の疑いがかけられた。
 従兄弟のグラント大統領は、デラノの辞任を要求した。
 デラノはオハイオ州に戻り、農民と弁護士となった。
 後にカリフォルニア州の町がデラノにちなんで名付けられた。 ウォーレン・デラノ・ジュニア(1809年 - 1898年)は、フランクリン・D・ルーズベルト大統領の祖父である。
 中国清朝における広州での
   アヘン貿易
も手掛けていた
   ラッセル・アンド・カンパニー
の事業部長であった。 フランクリン・ヒューズ・デラノ(1813年 - 1893年は商人、外交官(ローラ・アスターの夫、ジョン・ジェイコブ・アスターの愛孫娘)である。
 フランシス・ラルフ・デラノ(1842年 - 1892年)は銀行家、鉄道経営者である。
 ウォーレン・デラノ4世(1852年 - 1920年)は石炭王、騎手である。
 サラ・アン・デラノ(1854–1941)はランクリン・デラノ・ルーズベルトの母である。
 ジェーン・アルミンダ・デラノ(1862-1919)は、アメリカ赤十字看護サービスの創設者で、1919 年にフランスのリールでインフルエンザにより亡くなった。(彼女は、豚インフルエンザの大流行を阻止する任務中に亡くなった。)
 フレデリック・エイドリアン・デラノ2世(1863年 - 1953年)は土木技師、シカゴ商業クラブ会員、サラ・デラノの兄弟である。
 ウィリアム・アダムス・デラノ(1874-1960)は建築家である。
 フランクリン・デラノ・ルーズベルト(1882年 - 1945年)はアメリカ合衆国第32代大統領である。
 ウォーレン・デラノ・ロビンズ(1885-1935)は外交官である。
 プレストン・デラノ(1886年 - 1961年)は米国会計監査官(1938年 - 1953年)である。
 原子核物理学者デビッド・デラノ・クラーク(1924-1997)
 ダイアン・デラノ(1957-2024)は女優である。
 ジェームズ・ウィットロー・デラノ(1960年生まれ)は写真家である。
 メアリー・グレイ・リーブス(フローレンス・デラノ・グレイの娘)(1962年生まれ)はカリフォルニア州で聖公会の司教となった最初の女性である。

   
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2025年02月17日

聖バレンタインデーの虐殺(Saint Valentine's Day Massacre)

聖バレンタインデーの虐殺(Saint Valentine's Day Massacre)
 1929年の聖バレンタインデーにシカゴのノースサイド・ギャングのメンバーと仲間7人が殺害された事件でのこと。
 1929年2月14日の朝、男たちはシカゴのリンカーンパークのガレージに集められた。
 彼らは壁際に並べられ、4人の正体不明の襲撃者(うち2人は警察官に変装していた)に射殺された。
 この殺人事件は、禁酒法時代に
が率いる主にアイルランド系であるノースサイドの犯罪組織と、
が率いる主にイタリア系であるライバルのシカゴ・アウトフィットとの間で、シカゴの組織犯罪の支配権をめぐる争いから生じたものである。  犯人は最終的に特定されたことはない。
 ただ、カポネの下で働いていた
の元メンバーが関与している疑いがあるとされている。
 また、警察官の息子が殺害されたことへの復讐を望んでいた シカゴ市警のメンバーが関与したと語る者もいる。
 1929年2月14日木曜日、バレンタインデーの午前10時30分、 シカゴ北側のリンカーンパーク地区にあるノースクラークストリート2122番地のガレージで7人の男性が殺害された。
 彼らは2丁のトンプソンサブマシンガンを含む武器を使った4人の男によって撃たれた。
 射殺犯のうち2人は警察の制服を着ており、他の射殺犯はスーツ、ネクタイ、オーバーコート、帽子を身につけていた。
 目撃者は、銃撃後、警察の制服を着ていた男たちが銃を突きつけて他の男たちをガレージから連れ出すのを目撃した。
 犠牲者には、ジョージ・「バグズ」・モランノースサイド・ギャングのメンバー5人が含まれていた。
 モランの副指揮官で義理の兄弟の
   アルバート・カチェレク(別名ジェームズ・クラーク)
モランギャングの簿記係兼ビジネスマネージャー
   アダム・ヘイヤー
とモランのためにいくつかの清掃と染色作業を管理していた
   アルバート・ウェインシャンク
ギャングの取り締まり役の
   フランク・グーゼンバーグ
モラン組織の最前線執行官
とともに殺害された。
 また、競馬賭博とギャングとの付き合いのために診療所を放棄した眼科医でギャンブラーでギャング仲間の
   ラインハルト・H・シュワイマー
と、モラン・ギャングで時々整備工をしていた
   ジョン・メイ
の2人の仲間も射殺された。
 シカゴ警察が現場に到着すると、被害者の
   フランク・グーゼンバーグ
は14発の銃弾を受けていたにもかかわらず、まだ生きていた。
 彼は病院に運ばれ、医師がしばらく容態を安定させ、警察は尋問を試みた。
 警察が犯人を尋ねると、彼は「話さない。頼むから病院に連れてってくれ」と答えたと伝えられている。
 彼は3時間後に死亡した。
 この虐殺はノースサイド・ギャングのボス、バッグス・モランを抹殺しようとする試みだった。
 当時フロリダの自宅にいたアル・カポネが虐殺を命じたと広く考えられている。
 この計画のきっかけは、カポネのギャングがカナダからデトロイト川を渡って密輸していた
   高価なウイスキー
ノースサイド・ギャングが略奪したことも背景にあった。
 モランはノースサイドのガンマンたちの最後の生き残りであり、同様に攻撃的な前任者である
が、最初のリーダーである
の殺害に続く暴動で殺害されたため、彼の後継者となった。
 モラン殺害計画のタイミングには、いくつかの要因が関係しており、モランカポネは、シカゴの儲かる
   密造酒貿易の支配権
を争っていた。
 モランはシカゴ郊外のカポネ経営の
   ドッグレース
にも力ずくで乗り込んでおり、カポネが経営する酒場数軒を乗っ取って、自分の縄張りだと主張していた。
 その年の初めには、ノースサイドの
   フランク・グーゼンバーグ
とその弟ピーター
   ジャック・マクガーン
を殺害しようとしたが、失敗に終わった。
   アントニオ「ザ・スカージ」ロンバルド
の殺害にも加担していた。
 2人はともに地元マフィアの
の会長で、カポネの側近だった。
 計画は、1929年2月14日にモランをノース クラーク ストリートのSMC カーテージ倉庫に誘い込み、彼とおそらく2、3人の部下を殺害することだった。
 ノース サイドの住人たちは、カポネと関係のあるデトロイトの
から盗んだ格安のウィスキーを届けるという約束でガレージに誘い込まれたと一般に考えられている。
 グーゼンバーグ兄弟はその日、2台の空のトラックを運転してデトロイトに行き、盗んだカナダ産ウィスキーを2台受け取ること になっていた。
 ジョン・メイを除く犠牲者全員が、当時のノースサイドのギャングや他のギャングたちの慣例通り、一番良い服を着ていた。
 モラン ギャングの大半は、午前 10 時 30 分頃までに倉庫に到着した。
 ただ、パークウェイ ホテルのアパートを出発するのが遅かったため、モランはそこにいなかった。
 彼と仲間のギャング メンバーの
   テッド ニューベリー
は、脇道から倉庫の裏に近づいていたところ、パトカーが建物に近づいてくるのを見た。
 彼らはすぐに引き返して来た道を戻り、近くのコーヒー ショップに向かった。
 彼らは路上でギャング メンバーの
   ヘンリー グーゼンバーグ
に遭遇し、警告したため、彼も引き返した。
 ノースサイド・ギャングのメンバーである
   ウィリー マークス
も、ガレージに向かう途中でパトカーを見つけ、戸口に身をかがめて、その地域を去る前にナンバー プレートの番号を書き留めた。
 カポネの見張りは、モランの部下の一人、おそらく同じ身長と体格の
   アルバート・ワインシャンク
モラン本人と間違えた可能性が高いと考えられている。
 二人の容姿の類似性は、その朝の服装によってさらに強調された。
 二人とも偶然同じ色のオーバーコートと帽子をかぶっていた。
 ガレージの外にいた目撃者は、ガレージの前にキャデラックのセダンが止まるのを見た。
 4人の男が現れ、中に入っていった。
 そのうち2人は警官の制服を着てた。
 2人の偽警察官はショットガンを持ってガレージの奥に入り、そこでモランのギャングのメンバーで仲間の
   ラインハルト・シュワイマー
と、トラックの1台を修理していた
   ジョン・メイ
を見つけた。
 偽警察官は男たちに壁際に並ぶよう命じ、一緒にいた私服の2人に合図した。
 殺人者のうち2人がトンプソンサブマシンガンで発砲し、1丁は20発入りの箱型マガジン、もう1丁は50発入りドラムマガジンだった。
 彼らは徹底的で、犠牲者の左から右へと銃弾を浴びせ、7発すべてが床に落ちた後も発砲を続けた。
 検死官の報告によると、その後2発のショットガンの発砲で、ジョン・メイとジェームズ・クラークの顔は破壊され人相が判別不明になったという。
 すべてが制御されているように見せるため、私服の男たちは、制服警官2人に促されながら、両手を挙げて出てきた。
 ガレージ内では、14発の銃弾を受けていたにもかかわらず、メイの愛犬「ハイボール」とフランク・グーゼンバーグの2人だけが生き残っていた。
 彼は意識があったが、犯人を特定することを拒否し、3時間後に死亡した。
 バレンタインデーの虐殺は世論の激しい抗議となり、
   全米犯罪シンジケート
のボス全員に問題を引き起こした。
 数日後、カポネは連邦禁酒法違反の罪でシカゴ大陪審に証言するよう召喚状を受け取ったが、体調が悪すぎて出席できないと述べた。
 モランがデトロイトを拠点とするカポネの酒類輸送を強奪していたことは周知の事実であり、警察はデトロイトのユダヤ人が大部分を占める
に注意を向けた。
 大家のドゥーディー夫人とオービッドソン夫人は虐殺の10日前に3人の男を下宿人として受け入れており、彼らの下宿先はノース・クラーク・ストリートのガレージの真向かいにあった。
 彼女たちはパープル・ギャングのメンバーである
   ジョージ・ルイス
   エディ・フレッチャー
   フィル・キーウェル
そして弟のハリーの顔写真を見つけたが、後に身元確認が揺らいだ。
 警察はフレッチャー、ルイス、ハリー・キーウェルを尋問し、容疑を晴らした。
 しかし、キーウェル兄弟はその後も犯罪に関与し続けた。
 また、警察が関与していたと考える者も多く、それが殺人犯の意図があったのかもしれない。
 2月22日、ウッドストリートのガレージ火災現場に警察が呼ばれ、そこで分解され一部が焼けた1927年製キャデラックセダンが発見された。
 犯人がその車を使用したと断定し、警察がエンジン番号をたどって、ミシガンアベニューのディーラーに行き着いた。
 そのディーラーはロサンゼルスの
   ジェームズ・モートン
に車を売っていた。
 ガレージはフランク・ロジャースと名乗る男が借りており、住所はウェストノースアベニュー1859番地だった。
 これは、セントルイスの元ギャングで、カポネギャング、パープルギャング、セントルイスのギャング、イーガンズ・ラッツとつながりのある
   クロード・マドックス
が経営するサーカスカフェの住所だった。
 警察ではジェームズ・モートンやフランク・ロジャースという人物に関する情報を何も見つけられなかった。
 ただ、殺人犯の一人については確かな手掛かりがあった。
 殺人事件のわずか数分前、
   エルマー・ルイス
という名のトラック運転手がノース・クラーク2122番地から1ブロック離れたところで角を曲がり、パトカーに側面衝突していた。
 ルイスは警察に、すぐに停止したが、前歯が1本欠けていた制服を着た運転手に手を振られて追い払われたと話した。
 教育委員会の会長
   H・ウォレス・コールドウェル
がこの事故を目撃しており、運転手の特徴を同じように述べていた。
 警察は、イーガンズ・ラッツの元メンバーである
   フレッド・バーク
について述べていると確信していた。
 バークと親友のジェームズ・レイは、強盗をするときはいつも警察の制服を着ていることで知られていたためだ。
 なお、バークはオハイオ州で強盗と殺人の罪で起訴されている逃亡犯でもあった。
 警察ではその後、カポネのガンマンである
とカポネのボディガードである
   フランク・リオ
を容疑者と発表した。
 警察は最終的にマクガーンとスカリスを虐殺の容疑で起訴した。
   ジョセフ・「ホップ・トード」・ジュンタ
の殺害計画を知った後、1929年5月に3人を殺害した。
 警察は証拠不十分を理由にジャック・マクガーンに対する殺人容疑を取り下げた。
 マン法違反(恋人のルイーズ・ロルフを州境を越えて結婚のため連れ出した)のみで起訴した。
 事件は1929年12月14日まで停滞していたが、この日、ミシガン州ベリエン郡保安局は、ミシガン州セントジョセフにある「フレデリック・デーンのバンガロー」を家宅捜索した。
 デーンは、
   フレッド・「キラー」・バーク
が運転していた車の登録所有者だった。
 バークはその晩酒を飲んでいた後、別の車に追突して逃走した。
 パトロール警官のチャールズ・スケリーが追跡し、ついに彼を道路から追い出した。
 スケリーはバークの車のステップに飛び乗ったが、3発撃たれ、その晩に負傷により死亡した。
 車はセントジョセフのすぐ外で破壊され放置された状態で発見された。
 フレッド・デーンの所持品であることが突き止められた。この時までに、警察の写真により、デーンは実際にはセントバレンタインデーの虐殺に関与したとしてシカゴ警察に指名手配されていた
   フレッド・バーク
であることが確認された。
 警察はバークのバンガローを捜索し、防弾チョッキ、ウィスコンシンの銀行から最近盗まれた約 32 万ドルの債券、トンプソン サブマシン ガン 2 丁、ピストル、ショットガン 2 丁、弾丸数千発の入った大きなトランクを発見した。
 セント ジョセフ警察はすぐにシカゴ警察に通報し、シカゴ警察は両方のマシン ガンの引き渡しを要求した。
 警察は新しい科学である法医学弾道学を使用して、両方の武器が虐殺に使用されたものであることを確認した。
 また、そのうちの 1 つは1 年半前に ニューヨークの ギャングの
を殺害した際にも使用されたことが判明した。
 残念ながら、虐殺事件に関するそれ以上の具体的な証拠は浮上しなかった。
 バークは1年以上後にミズーリ州の農場で逮捕された。
 彼に対する告訴はスケリー警官殺害との関連が最も強かったため、ミシガン州で裁判にかけられた。
 その後終身刑を宣告され、1940年に獄死した。
 1935年1月8日、FBI捜査官はシカゴのノース・パイン・グローブ3920番地のアパートを包囲し、
   バーカー・ギャング
の残りのメンバーを探した。
 短い銃撃戦が勃発し、銀行強盗の
   ラッセル・ギブソン
が死亡した。
 拘束されたのは
   ドク・バーカー
   バイロン・ボルトン
および2人の女性だった。
 ボルトンは海軍の機関銃手でイーガンズ・ラッツの仲間であった。
 また、シカゴの殺し屋
   フレッド・ゴーツ
の従者でもあった。
 ボルトンはバーカー・ギャングの犯罪の多くに通じており、
   マ・バーカー
   フレディ・バーカー
のフロリダの隠れ家を正確に突き止めた。
 2人は1週間後、FBIとの銃撃戦で死亡した。
 ボルトンは、ゴーツ、フレッド・バーク、その他数名と共に聖バレンタインデーの虐殺に参加したと述べた。
 FBI は州の殺人事件には管轄権がなかったため、ボルトン氏の告白を秘密にしていた。
 シカゴ・アメリカン紙がボルトン氏の告白の間接的な内容を報じた。
 同紙は、虐殺事件に一切関わりたくない
と FBI の妨害にもかかわらず、事件は「解決」したと宣言した。
 ボルトン氏の話の歪曲版が全国紙に流れた。
 ボルトン氏は、バグズ・モラン殺害計画は 1928年10月か11月にウィスコンシン州クーデレーの
   フレッド・ゴーツ氏
が所有するリゾートで計画されたと述べたと報じられた。
 この会合には、ゴーツ氏、アル・カポネ氏、フランク・ニッティ氏、フレッド・バーク氏、ガス・ウィンクラー氏、ルイ・カンパーニャ氏、ダニエル・セリテラ氏、ウィリアム・パチェッリ氏、そしてボルトン氏が出席していた。
 彼らは 2、3 週間滞在し、敵の殺害を計画していないときは狩りや釣りをしていた。
 ボルトン氏は、自分と
   ジミー・モラン
は、SMC カーテージのガレージを監視し、バグズ・モランが会合に到着したときにサーカス カフェの殺人犯に合図を送る任務を負っていたと述べた。
 警察は監視所でボルトン宛の手紙 (およびおそらく処方薬の小瓶) を発見した。
 ボルトン氏は、実際の殺人犯は
   バーク
   ウィンケラー
   ゴーツ
   ボブ・ケアリー
   レイモンド「クレーン ネック」ニュージェント
   クロード・マドックス
という4 人の射手と 2 人の逃走ドライバーだったと推測した。
 ボルトン氏は、歴史家が一般的に語る虐殺とは異なる説明をした。
 彼は、キャデラックから降りてガレージに入るのは「私服」の男たちだけだったと述べた。
 これは、殺人犯が 2 台目の車を使ったことを示している。
 ジョージ・ブリシェット氏は、少なくとも 2 人の制服を着た男が路地で車から降りて、後部ドアからガレージに入るのを見たと述べた。
 虐殺の数日後、ピアレス・モーター社のセダンが
   クロード・マドックス
が所有のメイウッドの家の近くで発見された。
 ポケットの1つに被害者
   アルバート・ウェインシャンク
の住所録が入っていた。
 ボルトンは、モランの部下の1人をモランと間違え、サーカス・カフェに合図を送ったと述べた。
 殺人犯たちはモランと彼の部下2、3人を殺害するつもりだったが、予想外に7人の男たちと対峙し、全員を殺して急いで逃げようと決めた。
 ボルトンによると、カポネは彼のミスとその結果生じた警察の圧力に激怒した。
 また、彼を殺すと脅したが、
   フレッド・ゲッツ
に思いとどまらせたという。
 彼の主張は、ガス・ウィンケラーの未亡人ジョーゼットのFBI公式声明と、1935年から1936年の冬に探偵雑誌に4回シリーズで掲載された回想録によって裏付けられた。
 彼女は、夫とその友人がカポネがハイリスクな仕事に使う特別なチームを結成していたことを明かした。
 マフィアのボスは彼らを絶対的に信頼し、「アメリカン・ボーイズ」というあだ名をつけていたと言われている。
 ボルトンの主張は、他の全員が諦めた後もずっと虐殺事件を追っていたシカゴの刑事
   ウィリアム・ドゥルーリー
によっても裏付けられた。
 銀行強盗のアルヴィン・カーピスは後に、
   レイ・ニュージェント
から虐殺について間接的に聞いたと語り、「アメリカン・ボーイズ」には週給2,000ドルとボーナスが支払われていたと語った。
 カーピスはまた、一緒にアルカトラズにいたときにカポネが、虐殺の実際の計画者はゲッツだったと彼に語ったと述べた。
 バイロン・ボルトンの供述にもかかわらず、FBI は何も行動を起こさなかった。
 ボルトンが名指しした男たちは、バークとマドックスを除いて、1935 年までに全員死亡していた。
 銀行強盗の
   ハーヴェイ・ベイリー
は、1973 年の自伝で、虐殺当時、イリノイ州カルメット シティで
   フレッド・バーク
とビールを飲んでいたが、暑さで銀行強盗を断念せざるを得なかったと述べている。
 歴史家の間では、セント・バレンタインデーの虐殺を「アメリカン・ボーイズ」が実行したかどうかについて、いまだに意見が分かれている。
   
    
posted by まねきねこ at 19:29 | 愛知 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 格言・ことわざ・用語解説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする