市場散歩   注目銘柄   One Milestone   証券会社

2024年09月08日

ボストン ブラミン(Boston Brahmin) 

ボストン ブラミン(Boston Brahmins)またはボストン・エリート(Boston elite)は、ボストンの歴史的な上流階級のメンバーのこと。
 19世紀後半から20世紀半ばにかけて、彼らは洗練されたニューイングランド訛り、ハーバード大学、英国国教会、伝統的なイギリス系アメリカ人の習慣や服装としばしば関連付けられてきた。
 最も初期のイギリス人入植者の子孫は、通常、ボストン・ブラミンの最も代表的な人々であると考えられている。
 彼らは白人アングロサクソン・プロテスタント(WASP)として米国の基軸として金融、政治、慈善活動において中心的な役割を果たし続けている集団でもある。

 オリバー・ウェンデル・ホームズ・シニアは、1860年1月にアトランティック・マンスリー誌に寄稿した記事の中で「ブラミン」という語句を作り出した。
 「ニューイングランドのバラモンカースト」という表現は、医師で作家の
   オリバー・ウェンデル・ホームズ・シニア
が、1860年1月のアトランティック・マンスリー誌の記事で初めて使った。
 このバラモンという用語は、ヒンズー教のカースト制度における4つのカーストのうち、特権階級の聖職者カーストを指す。
 拡大解釈すると、この用語は米国で、米国の制度や文化の発展に影響力を持つようになった、

 英国プロテスタント系の
   古い裕福なニューイングランドの家族
を指すようになった。
 現代では古い米国紳士階級の影響は表面的には弱まっているが、全盛期に彼らが擁護した制度や理想を中心とした仕組みは健在である。

 ビーコンヒルは、ボストンのマサチューセッツ州議事堂の近くにあるボストン・ブラミンの著名な地区である。
 ブラミンの性質は、ホーリークロスの卒業生
   ジョン・コリンズ・ボシディ
の駄詩「ボストン・トースト」の中で言及されている。
 19 世紀の大富豪ブラミンに属する一家の多くは庶民の出身で、貴族出身の家族は少数であった。
 新しい家族は、イギリスの典型的なやり方で、社会的地位を高めて確固たる特権階級とするために、イギリスの地主の子孫であるニューイングランドの古い貴族家と適切な婚姻関係を結ぶことを最初に模索し、英国貴族等との婚姻を使って洗練化していった。
 ウィンスロップ家、ダドリー家、ソルトンストール家、ウィンスロー家、ライマン家 (イギリスの政務官、ジェントリ、貴族の子孫) は、概してこの取り決めに満足した。
 したがって、ボストンの「ブラミン エリート」は全員、紳士と自由人、淑女と女性の区別を維持すると彼らが
   想像した個人の卓越性
を培うことを含め、古いイギリスのジェントリの受け継がれた文化を維持しようと習慣や風習を生活に組み込んでいった。
 また、彼らは、卓越性、義務、自制心という自分たちが定義したものを維持することを義務と考えるようになった。
教養があり、上品で、威厳のあるボストンのブラミンは、啓蒙された貴族階級の真髄そのものに近づいていった。
 また、理想的なブラミンは裕福であるだけでなく、適切な個人的な美徳と性格特性を備えていると考えられた。

 ブラミンは服装、物腰、立ち居振る舞いにおいてイギリス風の控えめな態度を保ち、芸術を磨き、病院や大学などの慈善事業を支援し、地域社会のリーダーの役割を果たすことが求められた。
 なお、理想としては、ありふれたビジネスの価値を超えることが求められていた。

 しかし、実際には、経済的成功のスリルに非常に魅力を感じる者が多かった。
 ブラミンたちは、貪欲にならないよう互いに警告し合い、個人の責任を主張した。
 また、スキャンダルや離婚は受け入れられなかった。

 こうした文化は、ボストン社会に存在する強い大家族の絆によって支えられた。
 若い男性は同じ予備校、大学、私立クラブに通い、相続人は相続人の女性と結婚した。
 家族は経済的資産としてだけでなく、道徳的抑制の手段としても機能した。

 ブラミンの大半はユニテリアン派または聖公会に属していた。
 ただ、一部は会衆派またはメソジスト派であった。

 政治的には、彼らは連邦党員、ホイッグ党員、共和党員となった。
 彼らは、独特の物腰と、かつては独特の話し方で特徴づけられ生活習慣が区別化されていった。

 彼らの独特なアングロ・アメリカン風の服装は、多くの模倣を受け、現在非公式にプレッピーとして知られるスタイルの基礎となっている。
 ブラミン家系の多くは、その祖先を17世紀と18世紀の元々の植民地支配階級にまで遡ることができる。
 この階級はマサチューセッツ州の知事や治安判事、ハーバード大学の学長、著名な聖職者、主要な科学団体であるロンドン王立協会の会員で構成されていた。
 一方、その他の者は、19世紀に商業や貿易で得た利益を携えてニューイングランドの貴族社会に入り、確立したブラミン家系と結婚することによりメンバーとなっていった。
  
    
posted by まねきねこ at 22:17 | 愛知 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 格言・ことわざ・用語解説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年08月13日

スペイン内戦(Guerra Civil Española)

スペイン内戦(Guerra Civil Española)
 1936年から1939年にかけて共和党と国民党の間で戦われた軍事紛争のこと。
 共和党は第二共和政の左派人民戦線政府に忠誠を誓い、様々な社会主義、共産主義、分離主義、無政府主義、共和党の政党で構成されていた。
 そのうちのいくつかは戦前からスペイン政府に反対していた。
 共和党に対立する国民党は、ファランヘ党、君主主義者、保守主義者、伝統主義者の同盟として
   フランシスコ・フランコ将軍
がすぐに優勢な役割を担うようになった軍事政権が率いた。

 当時の国際政治情勢により、戦争は多くの側面を持ち、階級闘争、宗教闘争、独裁政権と共和制民主主義の闘争、革命と反革命の闘争、ファシズムと共産主義の闘争など様々な利害の対立が内部に見られた。

 スペイン内戦中にスペイン駐在の米国大使を務めた
   クロード・バウワーズ
によると、それは第二次世界大戦の「リハーサル」であり、ナショナリストは1939年初頭に終わった戦争に勝利し、1975年11月にフランコが死去するまでスペインを支配したと述べた。

 スペイン内戦は、 1936年7月にスペイン共和軍の将軍らが共和政府に対して起こした
   クーデター
が部分的に失敗した後に始まった。
 クーデターの主たる立案者および指導者である
   エミリオ・モラ将軍
と名目上の指導者
   ホセ・サンフュルホ将軍
だった。
 当時の政府は共和主義者の連合体で、議会では共産党と社会党が支持したうえ、中道左派の
   マヌエル・アサーニャ大統領
が指導していた。

 ナショナリスト派は、CEDA、対立するアルフォンス派と宗教保守派のカルリスタを含む君主主義者、ファシスト政党のファランヘ・エスパニョーラ・デ・ラス・ホンスなど、いくつかの保守派グループの支持を受けていた。
 サンフュルホ、エミリオ・モラ、マヌエル・ゴデッド・リョピスの死後がナショナリスト側の残った指導者として
   フランシスコ・フランコ将軍
が浮上した。
 このクーデターは、モロッコ、パンプローナ、ブルゴス、サラゴサ、バリャドリッド、カディス、コルドバ、マラガ、セビリアの軍部隊の支援を受けたものの、マドリード、バルセロナ、バレンシア、ビルバオ、ムルシア、アルメリアなど、ほぼすべての主要都市の反乱部隊は制圧できなかった。
 これらの都市は政府の手中に留まり、スペインは軍事的にも政治的にも分裂し国民党政府と共和政政府が国の支配権をめぐって戦闘が継続拡大した。

 国民党軍はファシストイタリア、ナチスドイツ、ポルトガルから弾薬、兵士、航空支援を受けた。
 一方の共和政政府はソ連とメキシコから支援を受けた。

 イギリス、フランス、アメリカなど他の国々は共和政政府を承認し続けた。
 ただ、公式には不干渉政策をとったが、非介入主義諸国の数万人の国民が直接紛争に参加した。
 彼らは主に共和国インターナショナル旅団の一員として戦った。
 その中には親民族主義政権からの亡命者数千人も含まれていた。

 ナショナリスト軍は南部と西部の拠点から進軍し、1937年にスペイン北部の海岸線の大半を占領した。
 また、戦争の大半の間、マドリードとその南西部の地域を包囲した。

 1938年と1939年にカタルーニャの大部分が占領され、マドリードがバルセロナから切り離された。
 その後、共和国軍の立場は絶望的になった。

 1939年1月に抵抗を受けることなくバルセロナが陥落した。
 その後、1939年2月にフランコ政権がフランスとイギリスに承認された。
 1939年3月5日、共和国政府における共産主義の優位性が高まり、軍事情勢が悪化しているという疑惑に反応して
   セギスムンド・カサド大佐
は共和国政府に対して軍事クーデターを起こして、ナショナリスト軍との和平を模索した。
 この和平提案はフランコに拒否された。
 同月、マドリードで共和党派閥間の内紛が起きた隙を狙い、フランコは首都に入り、1939年4月1日に勝利を宣言した。
 共和党派を支持する数十万人のスペイン人が南フランスの難民キャンプに逃れた。

 敗北した共和党と関係のあった残留者は、勝利した国民党から迫害された。
 フランコは独裁政権を樹立し、すべての右派政党が政権の構造に融合された。

 この戦争は、世界中で激情と政治的分裂を引き起こし、多くの残虐行為が行われたことで有名になった。
 フランコ軍が占領した領土では、将来の政権を​​固めるために組織的な粛清が行われた。
 共和党が支配する地域でも小規模な大量処刑が行われ、地方当局の関与は場所によって異なった。 

 19世紀はスペインにとって権力と利権をを巡る闘争が錯綜する激動の時代であった。
 スペイン政府の改革を支持する人々は、そのような改革の実施を阻止しようとする保守派と政権を争った。

 1812年のスペイン憲法に始まる伝統に従い、多くの自由主義者はスペイン王室の権威を縮小し、自分たちの信じるイデオロギーと哲学の下で国民国家を樹立しようとした。
 1812年の改革は、フェルナンド7世が前述の憲法を解散したときにほぼ即座に覆された。
 このため、長続きしなかった。これにより、トリエニオ自由党政権は終焉した。
 1814年から1874年の間に12回のクーデターが成功した。
 1850年代まで、スペインの経済は主に農業に基づいていた。ブルジョア工業階級や商業階級はほとんど発展していなかった。
 土地を基盤とする寡頭政治は依然として強力であり、少数の人々がラティフンディアと呼ばれる大地所と、政府のすべての重要な地位を占めていた。
 これらの体制の変化と階層構造に加えて、18世紀中頃を通してスペインでは
   カルリスタ戦争
として知られる一連の内戦が発生した。
 1868年、民衆の蜂起によりブルボン家のイサベル2世女王が廃位された。
 王政復古後、カルリスタや無政府主義者が王政に反対して現れた。
 スペインの政治家で急進共和党の指導者であったアレハンドロ・レルルーは、カタルーニャで共和主義を前面に押し出すことに貢献した。
 カタルーニャは独自の文化的、社会的アイデンティティを持ち、当時貧困が特に深刻だったスペインの地域である。
 徴兵は物議を醸した政策であったが、最終的にはスペイン政府によって実施された。
 1909年の悲劇の週が示すように、恨みと抵抗は20世紀に入ってもずっと続いた。

 1931年4月12日、共和党が選挙に勝利し、 2日後に第二スペイン共和国が宣言された。
 この後、アルフォンソ13世は亡命した。
 スペインは第一次世界大戦では中立を保っていた。
 戦後、軍隊を含むスペイン社会の幅広い層が団結し、マドリードの腐敗した中央政府を排除しようとしたが、結局失敗に終わった。
 この時期に共産主義が大きな脅威であるという国民の認識は大幅に高まった。
 
 1923年、軍事クーデターによりミゲル・プリモ・デ・リベラが権力を握り、スペインは軍事独裁政権に移行した。
 リベラ政権への支持は徐々に薄れ、彼は1930年1月に辞任した。リベラに代わってダマソ・ベレンゲル将軍が就任し、ベレンゲル将軍もフアン・バウティスタ・アスナール・カバーニャス提督に交代し、両者ともに法令による統治政策を継続した。
 主要都市では王政への支持がほとんどなかった結果、スペイン国王アルフォンソ13世は民衆の圧力に屈し、1931年4月12日に市議会選挙を実施した。
 社会党や自由共和党などの左派勢力がほぼすべての州都で勝利し、アスナール政権の辞任後、アルフォンソ13世は国外に逃亡した。
 このとき、第二スペイン共和国が成立した。この共和国は5年後の内戦開始まで権力を握っていた。
 
 ニセト・アルカラ・サモラ率いる革命委員会が暫定政府となり、アルカラ・サモラ自身が大統領および国家元首となった。
 共和国は社会のあらゆる階層から幅広い支持を得た。
 1931年5月、タクシー運転手が王政主義者のクラブの外で襲撃される事件が、マドリードと国南西部全域で反聖職者暴動を引き起こした。
 政府の対応の遅さは右派を幻滅させ、共和国は教会を迫害する決意をしているとの見方を強めた。

 6月と7月、スペイン労働者連盟(CNT)は数回のストライキを呼びかけ、CNTメンバーと治安部隊の間で暴力事件が発生した。
 セビリアでは治安部隊と軍がCNTを容赦なく弾圧した。
 これにより多くの労働者が第二スペイン共和国は王政と同じくらい抑圧的であると信じるようになり、CNTは革命によって王政を打倒する意向を表明した。
 
 1931年6月の選挙では、共和党と社会党が大多数を占め、大恐慌の始まりとともに、政府は8時間労働を導入し、農場労働者に土地の所有権を再分配することで、スペインの農村部を支援しようとした。
 当時のヨーロッパで最も貧困な農村部労働者の生活は、政府にとって厳しいものとなっている。
 そのため、政府は賃金を引き上げ、労働条件を改善しようとした。
 その結果、雇用労働者として働いていた中小の地主が疎外された。市町村境界法は、地主が地域外の労働者を雇うことを禁じていた。

 一部の地域で労働力不足が発生すると、この法律は、収穫作業員として追加収入を求める労働者を締め出した。
 新たに設立された労働仲裁委員会は、給与、契約、労働時間を規制した。
 これは、雇用者よりも労働者に有利なものだった。

 1931年7月の法令は残業代を引き上げ、1931年後半のいくつかの法律は、地主が雇用できる人を制限した。
 その他の取り組みとしては、機械の使用を制限する法令、雇用の独占を作ろうとする取り組み、ストライキ、組合員の労働独占を維持するために女性の雇用を制限しようとする労働組合の取り組みなどがあった。
 地主が反革命組織や地元の寡頭政治家に頼るようになり、階級闘争は激化した。
 ストライキ、職場での窃盗、放火、強盗、店舗、スト破り、雇用主、機械への襲撃がますます頻繁に行われるようになった。
 結局、共和社会主義政府の改革は、望むだけ多くの人々を疎外した。

 教会は共和国時代も戦争時代も革命左派の頻繁な攻撃対象であった。
 内戦中、革命家たちは約2万の教会を破壊または焼き払ったうえ教会の美術品や墓、書籍、文書、宮殿も破壊した。
 この影響を受けた建物の多くは現在では使用されていない。
 1931年10月、共和党のマヌエル・アサーニャが少数派政府の首相に就任した。
 ファシズムは反動的な脅威であり続け、軍に対する物議を醸す改革によってそれが促進された。
 12月、改革主義的で自由主義的、民主的な新しい憲法が宣言された。

 それはカトリック国家の広範な世俗化を強制する強力な条項を含んでおり、カトリックの学校と慈善団体の廃止も含まれていた。
 しかし、この動きは反対に遭った。
 この時点で、制憲議会が新憲法を承認するという任務を果たしたものの、国民の反対が強まることを恐れた急進派と社会党の多数派は定期選挙を延期し、政権の座をさらに2年間延長した。

 ディアスの共和党政府は、彼らの見解では国を近代化するための多くの改革を開始した。
 1932年、イエズス会は禁止され、その財産は没収された。
 また、軍隊は縮小され、地主は没収された。

 カタルーニャには地方議会と独自の大統領による自治が認められた。
 1933年6月、教皇ピウス11世は回勅「スペイン教会の弾圧について」を発布した。
 スペインにおけるカトリック教会の迫害に反対の声を上げた。
 
 1933年11月、右派政党が総選挙に勝利した。
 スタンレー・G・ペインとヘスス・パラシオス・タピアスによると、左派共和党はニセト・アルカラ・サモラに選挙結果の取り消しを依頼したが、成功しなかった。
 CEDAは選挙で勝利したが、アルカラ・サモラ大統領はCEDAの君主主義的共感と憲法改正案を恐れて、同党のリーダーであるジル・ロブレスに政府を樹立するよう要請することを断った。
 この代わりに、彼は急進共和党のアレハンドロ・レルルーにそうするよう依頼した。
 最多票を獲得したにもかかわらず、CEDAはほぼ1年間閣僚ポストを拒否された。

 1933年11月以降の「黒い2年間」と呼ばれる期間の出来事は、内戦の可能性を高めたように思われた。
 急進共和党(RRP)のアレハンドロ・レルーが政権を樹立し、前政権による変更を覆した。
  1932年8月のホセ・サンフルホ将軍による蜂起の失敗に終わった協力者に恩赦を与えた。
 一部の君主主義者は、当時のファシスト民族主義者であるファランヘ・エスパニョーラ・イ・デ・ラス・ホンス(「ファランヘ」)と合流し、目的の達成を支援した。

 スペインの都市の路上では公然とした暴力が発生し、闘争心は高まり続けた。
 これは、解決策として平和的な民主的手段ではなく、急進的な激動に向かう動きを反映していた。
 1933年12月、CEDAの勝利に反応して無政府主義者による小規模な反乱が起こり、約100人が死亡した。

 1年間の激しい圧力の後、議会で最多の議席を持つ政党であるCEDAは、ついに3つの内閣の受け入れを強制することに成功した。
 社会党(PSOE)と共産党は、9か月間準備していた反乱でこれに反応した。
 この反乱は、1934年の革命として知られる血なまぐさい蜂起に発展した。

 かなり武装した革命家たちは、アストゥリアス州全体を制圧し、多数の警察官、聖職者、民間人を殺害し、教会、修道院、オビエド大学の一部を含む宗教施設を破壊した。
 占領地域の反乱者は労働者のための革命を宣言し、既存の通貨を廃止した。
 反乱はスペイン海軍とスペイン共和国軍によって2週間で鎮圧された。
 後者は主にスペイン領モロッコのムーア 人植民地軍を使用していた。

 反乱を巻き起こすことで、非アナキスト社会主義者はアナキストと同様に、既存の政治秩序が非合法であるという確信を表明した。
 アサーニャの支持者であり、亡命中の
   フランシスコ・フランコ
の熱心な反対者であったスペインの歴史家
   サルバドール・デ・マダリアガ
は、反乱への左派の参加について鋭い批判を書いた。
 1934年の反乱で、スペインの左派は1936年の反乱を非難する道徳的権威の影さえ失った。

 1935年、土地改革の逆行により、中央部と南部の田舎では追放、解雇、労働条件の恣意的な変更が起こり、地主の行動は時として「真の残酷さ」に達し、農場労働者や社会主義者に対する暴力で数人の死者が出た。 
 1935年、急進共和党率いる政府は一連の危機を経験した。
 数々の汚職スキャンダルの後、この政府に敵対していたニセト・アルカラ・サモラ大統領は再選挙を呼びかけた。
 
 人民戦線は1936年の総選挙で僅差で勝利した。
 革命的な左翼の民衆は街頭に出て囚人を解放した。
 選挙後36時間以内に16人が殺害され(ほとんどは治安維持や暴力的な衝突への介入を試みた警官によるもの)、39人が重傷を負った。
 また、50の教会と70の保守派の政治センターが襲撃または放火された。
 マヌエル・アサーニャは選挙プロセスが終了する前に政府を樹立するよう求められた。
 彼はすぐに憲法の抜け穴を利用してサモラに代わって大統領に就任した。

 左翼はもはや法の支配に従う意思がなく、スペインに対する彼らのビジョンが脅かされていると確信した右翼は議会の選択肢を放棄した。
 共和国を統制するのではなく転覆する計画を立て始めた。

 フリオ・アルバレス・デル・バヨは「スペインはソ連と連携して社会主義共和国に転換される」と語った。 
 ライア・バルセルズは、クーデター直前のスペインの分極化が激しかったため、ほとんどの地域で左派と右派の物理的な衝突が日常的に発生していたと指摘した。
 クーデターの6日前には、テルエル県で両者の間で暴動が起きた。
  
 1936年の選挙で人民戦線が勝利した直後、現役および退役将校のグループが集まり、クーデターについて協議した。
 4月末までに、エミリオ・モラ将軍が全国的な陰謀ネットワークのリーダーとして浮上した。
 共和政府は、疑わしい将軍を影響力のある地位から排除する行動をとった。
 フランコは参謀長を解任され、カナリア諸島の司令官に異動になった。

 マヌエル・ゴデッド・ロピスは監察総監を解任され、バレアレス諸島の将軍になった。
 モラはアフリカ軍の司令官からパンプローナの司令官に異動になった。
 しかし、これによりモラは本土の蜂起を指揮することができた。

 ホセ・サンフールホ将軍が作戦の代表となり、カルリスタとの合意形成に貢献した。
 モラは主任計画者で、副司令官だった。
 しかし、政府の行動は十分に徹底されておらず、治安局長やその他の人物による警告は実行されなかった。

 反乱にはイデオロギーがなく、その目的は無政府主義的混乱に終止符を打つことだった。
 モラの新体制の計画は、サラザールのポルトガルをモデルにした「共和制独裁」であった。
 ファシスト的全体主義ではなく、半多元主義的権威主義であった。

 最初の政府は、軍人だけの「総督」で、「強くて規律ある国家」を創設する。サンフジョは軍内で好かれ尊敬されていた。
 このため、この新体制の指導者となるが、政治的才能がないため、その地位は象徴的なものとなった。1

 著名な保守派国会議員ホセ・カルボ・ソテロの暗殺が クーデターの大きなきっかけとなった。
 1936年7月12日、マドリードのファランヘ党員が突撃警備隊の警察官ホセ・カスティージョ中尉を殺害した。
 カスティージョは社会党員で、UGTの若者に軍事訓練を行っていた。
 カスティージョは突撃警備隊を率い、グアルディア・シビルのアナスタシオ・デ・ロス・レイエス中尉の葬儀後の暴動を暴力的に鎮圧した。
 突撃警備隊大尉フェルナンド・コンデスはカスティージョの友人だった。
 翌日、彼は内務大臣から国会議員の違法逮捕の承認を得た後、カスティージョ殺害の報復として、部隊を率いてCEDA創設者ホセ・マリア・ヒル・ロブレス・イ・キニョネスを逮捕した。
 しかし彼は家にいなかったため、彼らはスペインの王政主義者で著名な保守派議会議員のホセ・カルボ・ソテロの家を訪れた。
 逮捕グループのメンバーであり、社会党党首インダレシオ・プリエトのボディーガードとして知られる社会主義者のルイス・クエンカがソテロを即決処刑した。
 蜂起の日時は7月17日17時1分と定められ、カルリスタの指導者マヌエル・ファル・コンデの同意を得た。 
 しかし、日時は変更され、モロッコ保護領の兵士は7月18日午前5時に蜂起し、スペイン本土の兵士は翌日に蜂起することとなった。これにより、スペイン領モロッコの制圧が達成され、蜂起に合わせて軍隊がイベリア半島に送り返されることになった。
 蜂起は迅速なクーデターとなる予定だったが、政府は国土の大半を掌握し続けた。

 スペイン領モロッコの制圧はほぼ確実だったが]計画は7月17日にモロッコで発見され、陰謀家たちは直ちに計画を実行した。
 抵抗はほとんどなかった。
 反乱軍は189人を射殺し、ゴデドとフランコは直ちに配属された島々を制圧した。

 7月18日、カサレス・キロガはCNTと労働者総連合(UGT)からの援助の申し出を拒否し、両グループは事実上の動員であるゼネストを宣言した。彼らは1934年の蜂起以来埋められていた武器庫を開け、民兵を結成した。

 準軍事組織の治安部隊は、反乱に加わるか鎮圧するかを決める前に、民兵の行動の結果を待つことが多かった。
 反乱軍または無政府主義者の民兵の迅速な行動は、しばしば町の運命を決めるのに十分であった。
 ゴンサロ・ケイポ・デ・リャノ将軍は反乱軍のためにセビリアを確保し、他の将校数名を逮捕した。

 反乱軍は、 1936年7月のセビリアでの軍事蜂起(フランコのアフリカ軍の上陸地点となった)と、旧カスティーリャ・レオン州の保守派とカトリック教徒が多数を占める地域(すぐに陥落)を除いて、主要都市を占領できなかった。
 彼らは、アフリカからの最初の部隊の支援を受けてカディスを占領した。

 スペイン政府はマラガ、ハエン、アルメリアの支配を維持した。
 マドリードでは反乱軍がクアルテル・デ・ラ・モンターニャ包囲戦に包囲され、かなりの流血を伴って陥落した。

 共和派指導者カサレス・キロガに代わりホセ・ヒラルが指導者となり、民間人への武器の配布を命じた。
 これにより、マドリード、バルセロナ、バレンシアなどの主要な工業中心地での軍の反乱の敗北が容易になった。
 そのため、アナキストがバルセロナ、アラゴン、カタルーニャの広い範囲を掌握することができた。

 ゴデド将軍はバルセロナで降伏し、後に死刑を宣告された。
 ]共和派政府は最終的に、マドリード周辺の東海岸と中央部のほぼ全域、およびアストゥリアス、カンタブリア、北部のバスク地方の一部を掌握した。

 ヒュー・トーマスは、最初のクーデター中に特定の決定が下されていれば、内戦はどちらの側にとってもほぼ即座に終結していた可能性があると示唆している。
 トーマスは、政府が労働者に武器を与える措置を講じていれば、おそらくクーデターを非常に迅速に鎮圧できただろうと論じている。
 逆に、クーデターが遅れるのではなく、18日にスペイン全土で起こっていたら、22日までに勝利していたかもしれないと続けた。
 なお、反乱軍に対抗するために立ち上がった民兵は、訓練を受けておらず、武装も貧弱だった。
 武器としてはピストル、ショットガン、ダイナマイトを少ししか持っていなかった。

 ただ、反乱が広範囲に及んでいなかったという事実によって、これは相殺された。
 なお、十分な数の将校と兵士がクーデターに参加していたため、すぐに鎮圧されることはなかった。

 反乱軍は自らをナシオナレスと名乗った。これは通常「国民主義者」と訳されるが、前者は国民主義的な大義というよりは「真のスペイン人」を意味する。
 クーデターの結果、スペインの人口2500万人のうち1100万人が国民支配地域に居住することになった。
 国民主義者はスペイン領土軍の約半数、約6万人の支持を確保し、これにアフリカ軍の3万5000人が加わり、スペインの軍国主義的な警察部隊のほぼ半数、突撃衛隊、治安衛隊、カラビニアが加わった。

 共和派はライフル銃の半分以下と機関銃と大砲の約3分の1を掌握していた。

 スペイン共和国軍は十分に近代的な設計の戦車を18両しか持たず、国民党軍は10両を掌握した。
 海軍力は不均衡で、共和国軍は数的優位を維持していたが、海軍の最高司令官と最新鋭の艦艇2隻、フェロル造船所で捕獲した重巡洋艦カナリアスとバレアレスを国民党軍が掌握していた。
 スペイン共和国海軍も陸軍と同じ問題を抱えていた。多くの士官が亡命するか、亡命を試みて殺害された。
 航空戦力の3分の2は政府が保持していたが、共和国空軍は全体的に非常に時代遅れであった。
  
 クーデターにより正規軍はほぼ均等に分割された。
 1936年7月に実際に武装していた軍人約66,000人(アフリカ軍と海軍を含む、クーデター中に任務中だったが休暇中の兵士は除く)のうち、約52%(34,000人)が共和国軍に、48%(32,000人)が国民党軍にいた。
 その他の軍隊(治安部隊、治安部隊、カラビネロス)の約66,000人のうち、約59%(39,000人)が政府支持派に、約41%(27,000人)が反乱軍に加わった。
 実際に勤務していた武装制服兵士約13万2千人のうち、約55%(7万3千人)が王党派に、約45%(5万9千人)が反乱軍に配属されたとみられる。
 最初の数か月で、両軍には多数の志願兵が加わり、国民党軍は約10万人、共和派軍は約12万人だった。
 8月からは両軍とも同様の規模の徴兵制度を導入し、軍のさらなる大規模増強につながった。
 そして1936年の最後の数か月には外国軍が到着し、共和派には国際旅団が、国民党にはイタリア義勇軍団(CTV)、ドイツ軍団コンドル、ポルトガル軍が加わった。
 その結果、1937年4月には共和派軍に約36万人、国民党軍に約29万人の兵士がいたことになる。


 ナチスドイツの行動には、1936年7月から1939年3月までドイツ空軍とドイツ陸軍(Heer )からの志願兵で構成された
   マルチタスク部隊
であるコンドル軍団の編成が含まれていた。
 コンドル軍団は1936年のトレドの戦いで特に有用であることが証明された。
 ドイツは戦争の初期段階でアフリカ軍をスペイン本土に移動させた。
 ドイツの作戦は徐々に攻撃目標を含むように拡大し、最も有名で物議を醸したのが1937年4月26日のゲルニカ爆撃で、200人から300人の民間人が死亡した。
 ドイツはまた、この戦争を利用して、ドイツ空軍のユンカース Ju 87シュトゥーカやユンカース Ju 52輸送三発機銃(爆撃機としても使用)などの新しい兵器をテストし、それらが効果的であることを証明した。

 ドイツの関与は、Uボート作戦であるウルスラ作戦やドイツ海軍の貢献などを通じてさらに明らかになった。
 ドイツ軍団は、特に空中戦において、国民党軍の多くの勝利の先頭に立った。
 ​​ 一方で、スペインはドイツの戦車戦術の実験場となった。

 ドイツ軍部隊が国民党軍に提供した訓練は、価値あるものとなった。
 戦争の終わりまでに、歩兵、砲兵、航空、海軍を含むおよそ56,000人の国民党軍兵士が、ドイツ軍派遣隊によって訓練を受けていた。

 ヒトラーのスペイン政策は抜け目なく、実際的だった。
 ヒトラーは、フランコの感謝を得てソ連の支援を受けた側が勝利するのを防ぐ程度にフランコを支援したいと考えていた。
 しかし、カウディーリョに早急な勝利をもたらすほどの支援は望んでいなかった。
 合計で約16,000人のドイツ国民が戦争に参加し、約300人が死亡したものの、一度に参加した人数は10,000人以下だった。
 ナショナリストに対するドイツの援助は、1939年の価格で約43,000,000ポンド(2億1500万ドル)に上ったが、そのうち15.5%は給与と経費に、21.9%はスペインへの物資の直接配達に使用された。
 また、62.6%はドイツの派遣したコンドル軍団に費やされた。
 合計で、ドイツはナショナリストに600機の飛行機と200両の戦車を提供した。  

 志願兵の大半はカトリック教徒であり、オダフィーによれば、共産主義と戦う国民党を支援するために志願したという。
スペインの統計によると、1,052人のユーゴスラビア人が志願兵として記録されており、そのうち48%がクロアチア人、23%がスロベニア人、18%がセルビア人、2.3%がモンテネグロ人、1.5%がマケドニア人であった。

 また、約150人から170人の白系ロシア人がフランコのために戦い、そのうち19人が死亡し、さらに多くの人が負傷した。
 なお、彼らが独立した部隊を作ろうとした試みはフランコ政権によって拒否された。
    
   
posted by まねきねこ at 09:00 | 愛知 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 格言・ことわざ・用語解説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年07月23日

総会屋影響汚職組織法( The Racketeer Influenced and Corrupt Organizations RICO )

総会屋影響汚職組織法
 (The Racketeer Influenced and Corrupt Organizations RICO )
 米国連邦法で進行中の犯罪組織の一部として行われた行為に対する
   刑事罰の拡大と民事上の訴訟原因を規定
するもの。

 RICOは、1970年の組織犯罪規制法第 IX 編によって制定された。
 米国上院政府運営委員会の顧問
   G. ロバート ブレイキー
は、委員会の委員長
   ジョン L. マクレラン上院議員の
厳重な監督の下でこの法律を起草した。
 この法律は
   リチャード・ニクソン米国大統領
によって署名された。

 1970年代の検察は、マフィアや組織犯罪に積極的に関与した他の人々を訴追するためにこの制度を利用した。
 後年、検察はこの法律をより広範囲に適用するようになった。
 1972 年以来、33 の州が州の RICO 法を採用した。
 
 RICO の下では、10 年以内に 35 の犯罪 (27 の連邦犯罪と 8 の州犯罪)のリストから抽出された
   「少なくとも 2 つの恐喝行為」
を犯した者は、その行為が国家犯罪に関連している場合、恐喝の罪で起訴される可能性がある。

 恐喝で有罪判決を受けた者には、恐喝罪ごとに最高 25,000 ドルの罰金と 20 年の懲役刑が科される可能性がある。
 さらに、恐喝者は、「恐喝活動」のパターンを通じて得た
   すべての不正な利益とビジネスの利益
を没収された。

 RICO に基づいて誰かを起訴する米国の弁護士は、被告の資産を一時的に差し押さえ、没収される可能性のある財産の譲渡を阻止するとともに、被告に履行保証金の支払いを要求する公判前の接近禁止命令または差し止め命令を求める選択肢を有した。
 差し止め命令または履行保証金は、有罪判決が下された場合に何かを差し押さえることを保証する。

 この規定により、マフィア関連のペーパーカンパニーの所有者が資産を持ち逃げすることが防止された。
 多くの場合、資産差し押さえにより弁護人への支払いが難しくなることもあった。
 RICO による起訴の脅しにより、被告は軽い罪状で有罪を認めざるを得なくなる可能性がある。

 厳格な規定にもかかわらず、RICO 関連の容疑は、犯罪行為ではなく
   行動パターンに焦点を当て
ているため、法廷での立証が容易であると考えられている。

 RICO はまた、「総会屋」によって「事業や財産に被害を受けた」個人が民事訴訟を起こすことも認めた。
 法律の主な目的は組織犯罪に対処することであった。

 議会はそれを単に暴徒に適用することだけを意図したものではないとブレイキー氏は語った。
 かつてタイム誌に、「首輪が青い人や名前が母音で終わる人たちに1つのルールを設定し、首輪が白いアイビーリーグの卒業証書を持つ人たちに別のルールを設定することは望ましくない」と話している。

 1977年12月1日、ルイジアナ州東部地区の連邦大陪審は、共謀とゆすり行為の罪で
   ロバート J. ロステ & カンパニー社
の 13人の被告を起訴した。
 被告らが範囲の広さと曖昧さを理由に起訴を却下しようと動いた。
 その後、大陪審は1978年2月27日に、同様の罪を告発し、控訴人を含む11人の被告を指名し、それに代わる起訴状を差し戻した。
 地方裁判所は、これに代わる起訴状の却下を求める申し立てを却下し、最初のRICO裁判は1978年3月13日に始まった。陪審は、共謀罪と恐喝罪の両方で控訴人4名と別の法人に有罪判決を下した。

 1979年5月、カリフォルニア北部地区の検察官
   マーク・L・ウェッブ
はRICO裁判、米国対
   サム・ベイリー・ギャング
を実施した。
 勝訴した訴追はRICO法を利用して、郵便強盗の一団とネバダ州のフェンスが組織犯罪的に共謀したと主張した。
 この事件にはマフィアの犯罪家族は関与しなかった。
 その後、アーカンソー州東部地区連邦検察局は 1978 年 10 月 2 日に RICO 法を利用して、北米国際労働組合の地方 1292 の役員を起訴した。

 米国特別検事
   サミュエル・A・ペローニ
は、1979年6月5日に始まった最初の労働組合公式裁判を起訴した。
 ペローニの訴追は成功し、RICOを利用して共謀、嘱託殺人、偽証、組合財産横領の罪で被告らに有罪判決を下した。

 ニューヨーク州南部地区の米国検察局は、1979 年 9 月 18 日の米国対
   スコット事件
で RICO 法を採用しました。
 スコット氏は恐喝、不法労働賃金の受領、所得税脱税の罪で有罪判決を受け、国際港湾労働者協会の会長を務めた。

 1980 年代から 1990 年代にかけて、連邦検察はこの法律を利用して複数のマフィアの人物を起訴した。
 1985年、米国検事
は、マフィア委員会裁判としても知られる
   米国対アンソニー・サレルノ
らの裁判で11人の組織犯罪関係者を起訴した。
 ジュリアーニは、RICO法を利用して、ニューヨークのいわゆる「五大家族」のトップたちを恐喝、労働恐喝、および嘱託殺人の罪で告発した。
 3人の米国検事補が裁判を支援した。

 マイケル・チャートフ氏は、最終的に第2代米国土安全保障長官となり、愛国者法の共同執筆者となった。
 ジョン・サバレーズ、後にワクテル・リプトン・ローゼン&カッツのパートナーとなった。
 ギル・チルダースは、後にニューヨーク市南部地区の刑事部門副部長となった。
 その後にゴールドマン・サックスの法務部門常務取締役となった。

 タイム誌は、「事件の事件」はおそらく「1943年にシカゴ・マフィアの最高司令部が一掃されて以来、組織犯罪のインフラに対する最も重大な攻撃」であると呼んだ。
  
 1987年1月13日、五大家族の3人の当主は懲役100年の判決を受けた。
 ジェノベーゼとコロンボの指導者
   トニー・サレルノ
   カーマイン・ペルシコ
は、別々の裁判で追加の懲役70年と懲役39年を言い渡された。
 ガンビーノ犯罪一家のボス
と彼の副ボス
   トーマス・ビロッティ
は、 1985年12月16日にマンハッタンのミッドタウンの路上で殺害された。
 
 2014年の時点で、33の州とプエルトリコおよび米国領バージン諸島が、同様の制度の下で州犯罪をカバーするRICO州法を採用している。
  
 ルケーゼ犯罪一家は、ニューヨーク市の組織犯罪活動を支配していた「五大家族」の 1 つでした。
 検察側のグレゴリー・オコーネル弁護士とチャールズ・ローズ弁護士は、RICOの告訴を利用して18カ月にわたって家族を引き離した。
 ラテン・キングスのメンバー数人がRICO違反で有罪判決を受けた。

 1978年、RICO は、テキサス、テネシー、フロリダの
   カウボーイ マフィア
のメンバーの起訴に貢献した。
 1977 年から 1978 年にかけて、このグループは 106 トンを超えるマリファナを輸入した。
 エビボート「アグネス・ポーリン」、「モンキー」、「ジュビリー」、「バイユー・ブルース」を使って、グループはコロンビアからテキサスまで6回の旅をした。
 このグループは、テキサス州ポートアーサーで荷物を降ろしていた
   アグネス・ポーリン号
を連邦政府が押収した後、1978年に逮捕され、1979 年に密輸組織のメンバー 26 人が有罪判決を受けた。
 牧場長であり運営責任者でもあったチャールズ・“マッスル”・フォスターは心神喪失を理由に無罪を主張し、1980年に無罪となった。

 1981年8月、政府が彼が財政的支援者であると信じていた密輸業者
   レックス・コーブレ
が大陪審によって起訴された。
 フォスターは牧場の監督を務めており、麻薬はテキサス中のコーブルの牧場に運ばれた。
 カウブルは大富豪で、テキサス航空委員会の元委員長であり、名誉テキサスレンジャーでもあった。
 カウブルは 1982 年 1 月に 10 件の罪状で有罪判決を受けた。
 内訳は恐喝者影響下および腐敗組織防止法 (RICO) 違反の 2 件、RICO 違反の共謀、州際通商旅行法違反 3件、および銀行資金の不正使用の 4 件である。 5 年の懲役刑が言い渡された。彼は刑期を終えて1987年9月に釈放され、2003年に亡くなった。

 RICOの有罪判決の結果、カウブルは、カッター・ビル・ウェスタン・ワールドの2店舗、3つのテキサス銀行(デントンのウェスタン・ステート銀行、ダラス・インターナショナル銀行、ヒューストンのサウス・メイン・バンク)、6つの牧場を含むカウブル・エンタープライズに対する31%の権益を剥奪された。石油およびガスの保有会社の価値は8000万ドルと推定された。
 政府はその権益を他のパートナー(カブレ氏の妻と息子)に推定1,200万ドルで売却した。
 
 1979年、米国連邦政府はRICOを利用して
   ソニー・バーガー
とヘルズ・エンジェルスのオークランド支部の数人のメンバーと関係者を追及した。
 米国対バーガー事件では、検察チームはバーガーとRICOクラブの他のメンバーを銃と違法薬物に関連した罪で有罪判決するための行動パターンを実証しようとした。
 陪審では、述語行為については陪審員がハングアップした状態で、RICOの告訴についてバージャー氏を無罪とした。「
 
 1980年、ルイジアナ州農林省長官
   ギル・ドージャー
はホッブズ法とRICO法の両方に違反した罪で起訴された。
 バトンルージュに本拠を置くルイジアナ州中地区連邦地方裁判所は、同局と取引のある企業に対し、同氏に代わって選挙活動への寄付を行うよう強要したとしてドジャー氏を告発した。
 1980 年 9 月 23 日、陪審はドージャーに 5 件の恐喝とゆすりの罪で有罪判決を下した。
 裁判官はドジャー氏に懲役10年の判決を下したうえ、後に他の犯罪が判明した際には懲役18年に引き上げた。
 25,000 ドルの罰金は控訴保留中保留され、ドジャーは保釈金のまま保釈された。
 ニューオーリンズの第5巡回区連邦控訴裁判所はドジャーの有罪判決を支持した。
 彼は最終的に1986 年に大統領の減刑により釈放されるまで、ほぼ 4 年間収監された。
 
 1984 年 6 月頃、フロリダ州モンロー郡にあるキーウェスト警察署は、米国司法省の長期にわたる捜査の結果、連邦RICO 法に基づく犯罪企業と認定された。
 レイモンド・カサマヨール副警察署長を含む同署の高官数名が、不法コカイン密輸業者に対する
   みかじめ料
を徴収した連邦容疑で逮捕された。
 この公判では、証人は定期的に市役所の副署長室にコカインの入った袋を届けていたと証言した。
 
 1986年、クリスティック研究所は、イラン・コントラ事件に関与した被告30人を、ラ・ペンカ爆撃の背後にある陰謀にも加わっていたとして名指ししてRICO民事訴訟を起こした。
 「アビルガン対ハル」と題されたこの訴訟では、中央情報局の関係者数名が指名され、彼らが違法な政治的暗殺や武器や麻薬の密売に関与したとして告発されている。
 この訴訟は最終的に1989年に却下された。
 主任弁護士ダニエル・シーハンは、イラン・コントラ企業のメンバーが却下を覆すと期待されていた
   ロバート・ヴァンス判事暗殺
の背後にいると主張した。

 G.ロバート・ブレイキーは、これは彼が見た中で最も起訴されたRICO訴訟であり、この訴訟は全国的な資金集めの取り組みを引き起こしたと述べた。
 1990年、ブルース・スプリングスティーンとボニー・レイットは訴訟を支援するために慈善コンサートを開催した。
 1986年12月に提出された500ページの宣誓供述書も「影の政府」として出版された。
 
 1989 年 3 月 29 日、米国の投資家
は、インサイダー取引およびその他の犯罪容疑の捜査に関連した恐喝および詐欺の 98 件の罪で起訴された。
 ミルケン氏は株価や債券の価格を操作するために幅広い人脈を利用した疑いで告発された。組織犯罪と無関係の個人に対してRICOが起訴されたのはこれが初めてのことだった。ミルケンは残りの人生を刑務所で過ごすリスクを冒すよりも、証券詐欺と脱税という軽罪6件で有罪を認め、最終的に22か月の懲役刑に服することになった。
 ミルケン氏には証券業界からの永久追放も命じられた。

 1988年9月7日、ミルケンの雇用主
は、企業が従業員の犯罪に対して責任を負うという法理である、上位者対応に基づくRICO告発で脅迫された。
 ドレクセルは、在庫駐車と在庫操作の軽罪に対するアルフォードの嘆願書を提出することで、RICO の告訴を回避した。

 ドレクセル氏は慎重な言葉での嘆願の中で、政府の「申し立てに異議を唱える立場にはない」と述べた。
 もしドレクセルがRICO法に基づいて起訴されていたら、資産凍結を避けるために最大10億ドルの
   履行保証金
を差し入れる必要があった。
 そうすれば、資本基盤の96%を提供した融資など、同社の他のすべての義務よりも優先されることになる。
 もし社債を支払わなければ、その株主は事実上全滅していた。

 銀行はRICOに基づいて起訴された企業に信用を供与しないため、起訴されればドレクセルは廃業する可能性が高かった。
 ある推定によれば、RICO が起訴されれば 1 か月以内に会社は潰れることになっていた。
 数年後、ドレクセルの社長兼最高経営責任者(CEO)のフレッド・ジョセフは、「金融機関はRICOの起訴に耐えられない」ため、ドレクセルには有罪を認める以外に選択肢はなかったと述べた。
 
 ジョン・ゴッティとフランク・ロカシオは1992年4月2日にRICO法に基づいて有罪判決を受け、後に終身刑を宣告された。
 
 1998年のタンザニアとケニアの米国大使館同時爆破事件の後、米国司法省はRICO法に基づき欠席で
   オサマ・ビンラディン
を告訴した。
 BBCの映画製作者 アダム・カーティスによる2004年のドキュメンタリー「悪夢の力」では、ビンラディンを欠席で起訴するには米国検察当局がビンラディンが爆破事件に関与した犯罪組織のトップであることを証明する必要があると主張し、物議を醸した。彼らはビン・ラディンの元仲間であるジャマル・アル・ファドルを見つけ出し、ビン・ラディンが「アルカイダ」と呼ばれる大規模テロ組織のトップであると証言するよう金を払って、RICO法の要件を満たしていたが、実際にはそうではなかった。 、「アルカイダ」という正式なテロ組織は存在しませんでした。
 
 1999年、ロサンゼルス警察で
   ランパート事件
が勃発し、クラッシュと呼ばれる同署の対ギャング部隊内での広範な犯罪行為が暴露された。
 当初、70人の警察官が証拠隠滅、麻薬取引、銀行強盗、不法殺人や暴行に関与したとされた。
 2000年、連邦地裁のウィリアム・レア判事は、警察の残虐行為や不法行為をめぐって訴訟を起こした個人に対し、RICO法がLAPD全体を犯罪組織として名指しするのに利用できるとの判決を下した。
 140件を超えるRICO民事訴訟が同省に対して起こされた。
 2001年7月、連邦地方判事ゲイリー・A・フィースは、原告らは
   経済的損害
   物的損害
ではなく人身傷害を主張しているため、RICOに基づいてLAPDを訴える資格はないと述べた。
 
 2001 年、メジャー リーグ ベースボールのチームのオーナーは、おそらくミネソタ ツインズとモントリオール エクスポズの2 チームを排除する投票を行った。
 2002年、エクスポズの元マイノリティオーナーらは、MLBコミッショナーのバド・セリグとエクスポズの元オーナー
   ジェフリー・ロリア
に対し、セリグとロリアが移転の準備で個人的な利益のために意図的にチームの価値を下げることを共謀したとして、RICO法に基づいて告訴した。
 責任があると認められた場合、メジャーリーグベースボールは最大3億ドルの懲罰的損害賠償責任を負う可能性があった。
 この訴訟は2年間続き、その間エクスポのワシントンへの移転や縮小を阻止することに成功した。
 最終的には仲裁に送られ、仲裁人はメジャーリーグベースボールに有利な裁定を下し[た、ワシントンへの移転が許可された。
 
 ボナーノ犯罪一家のボス
   ジョセフ・マッシーノ
の裁判は2004年5月24日に始まり、ニコラス・ガラウフィス判事が裁判長を務めた。
 また、グレッグ・D・アンドレスとロバート・ヘノッホが検察長を務めた。
 マッシーノは、7件の殺人(検察官がボナーノ・カポレジームの ジェルランド・シャシア殺害に対して死刑を求刑する見通しのため、この事件は別個に審理される予定であるため)、放火、恐喝、高利貸し、違法賭博、および資金洗浄であった。
 5日間の審議の後、陪審は2004年7月30日、マッシーノが11件の罪状すべてで有罪であるとの判決を下した。
 彼の量刑は当初10月12日に予定されており、仮釈放の可能性のない終身刑が言い渡されると予想されていた。
 陪審はまた、評決当日にボナーノのボスとしての統治期間の収益の1,000万ドルの没収を検察が勧告したことを承認した。

 7月30日の有罪判決直後、法廷が閉廷される中、マッシーノはガラウフィス判事との面会を要請し、そこで初めて協力を申し出た。
 彼は自分の命を救いたいと願って行動した。
 シャシア殺害の罪で有罪となれば死刑の可能性もあったためだ。
 実際、ジョン・アシュクロフトの司法長官としての最後の行為の一つは、連邦検察に対しマッシーノの死刑を求刑するよう命令することであった。
 マッシーノは、 1944年に
   レプケ・ブカルター
が処刑されて以来、犯罪で処刑された最初のマフィアのボスであり、死刑に直面した最初の暴徒のボスとなったマッシーノは、ニューヨーク市の最初の現職ボスである。
 組織犯罪の一家が国家の証拠を提出したのは米国のマフィア史上2人目である。
 なお、フィラデルフィアの犯罪一家のボス、ラルフ・ナターレは1999年に麻薬容疑で告発された際にひっくり返った。
 
 2005年、米国司法省の「家族の秘密作戦」 は、 RICOの規定に基づいて
のメンバーおよび関係者14人を起訴した。
 5人の被告がRICO違反およびその他の犯罪で有罪判決を受けた。
 6人が有罪を認め、2人が裁判前に死亡、1人は病気のため裁判を受けることができなかった。
 
 2005年、連邦陪審はファサーノに対し、破産事件で顧客の資産隠しを不法に幇助したとして、RICOに基づき50万ドルの支払いを命じた。

 第 11 巡回区控訴裁判所は、ウィリアムズ対モホーク インダストリーズ社No. 05-465 , 547 U.S. 516 (2006) において、企業は「組織された実質的な企業の業務を不法に遂行した」として責任を問われる可能性があるとの判決を下した。
 モホーク・インダストリーズはRICOに違反して不法外国人を雇用したとされる。
 最高裁判所は控訴審で、モホーク・インダストリーズと人材紹介会社がRICOのもとで訴追される可能性のある「企業」に該当するかどうかの判断を求められた。
 裁判所は、RICO の責任を認めた第 11 巡回区の判決を取り消した。

 2006 年 10 月 16 日、タンパでガンビーノ犯罪一家の 4 人(カポ ・ロナルド・トゥルッキオ、テリー・スカリオーネ、スティーブン・カタローノ、アンソニー・ムチャローネとその仲間のケビン・マクマホン) が RICO 法に基づいて裁判を受け、有罪判決を受け、終身刑を宣告された。

 2009年、スコット・W・ロススタインは、資格剥奪された弁護士であり、現在は廃止されたロススタイン・ローゼンフェルト・アドラー法律事務所の元管理株主、会長、最高経営責任者である。
 彼は慈善活動、政治献金、法律事務所の給与、そして贅沢な生活を12億ドルもの巨額の
   ポンジスキーム
で賄ったとして告発された。
 2009年12月1日、ロススタインは連邦当局に出頭し、その後RICOに関連した容疑で逮捕された。
 彼の罪状認否の申し立ては無罪であったが、ロススタインは政府に協力し、2010年1月27日に5つの連邦犯罪について有罪とする彼の申し立てを取り消した。
 ボンドは、彼の能力を理由にその主張を却下した。
 書類を偽造した場合、逃亡の危険があるとみなされた。2010年6月9日、ロススタインはフォートローダーデールの連邦裁判所での審理の結果、懲役50年の判決を受けた。

 ペンシルベニア州中地区の連邦大陪審は、元ルザーン郡民事裁判所判事マイケル・コナハン氏とマーク・シアバレラ氏に対する48件の起訴状を下した。
 裁判官らは、郵便および電信詐欺、脱税、マネーロンダリング、誠実なサービス詐欺の行為を行った疑いでRICOで起訴された。
 裁判官らは、主に軽犯罪で有罪判決を受けた少年を私立拘置所に収容し、リベートを受け取っていたとして告発された。
 この事件は、多くの地方紙や全国紙によって「キッズ・フォー・キャッシュ・スキャンダル」と呼ばれた。

 2011年2月18日、連邦陪審はマーク・シアバレラがPAチャイルドケアの開発者ロバート・メリクルと同施設の共同所有者ロバート・パウエル弁護士から違法な支払いを受け取ることに関与したとして恐喝罪で有罪とした。
 シアバレラさんは連邦裁判所で他の38件の訴追を受けている。

 アート・コーエン対ドナルド・J・トランプ訴訟は、2013年10月18日に提起された
   民事RICO集団訴訟
でドナルド・トランプはトランプ大学に「数千万ドル儲かる」と虚偽の説明をしたが、「ドナルド・トランプも利益も何も得られなかった」と非難した。
 この訴訟はサンディエゴのカリフォルニア州南部地区連邦地方裁判所で、2016年11月28日から弁論が始まる予定
だった。
 しかし、11月18日、トランプが大統領選挙に勝った直後、この訴訟と他の2つの訴訟は原告に
   総額2,500万ドル
を支払うことで和解した。
 ただ、この和解ではトランプ大統領の不正行為は一切認めていない。 
 
 2015年、ドラモンド社はテレンス・P・コリングスワース弁護士とウィリアム・R・シェーラー弁護士、権利擁護団体国際権利擁護団体(IRAdvocates)、およびリャノス石油所有者の一人であるオランダ人実業家
   アルバート・ファン・ビルダーベーク氏
をドラモンドはコロンビアアウトディフェンサス・ウニダス・デ・コロンビアと協力して、コロンビアの炭鉱の近くで労働組合指導者らを殺害したと主張してRICOに違反したとして告訴した。
 しかし、ドラモンドは否定している。

 「2015 FIFA汚職事件」ではFIFAに所属する14人の被告がRICO法に基づき、「国際サッカー連盟の汚職を通じて富を得るという24年間にわたる計画に被告が参加したことに関連し、とりわけ恐喝、電信詐欺、マネーロンダリング陰謀」などの47件の罪状で起訴された。
 被告には、FIFAとその関連団体CONCACAFの現職および元高官の多くが含まれている。
 被告らはこの企業を盾に数百万ドルの賄賂を集めたとされており、それがそれぞれ2018年と2022年のFIFAワールドカップ開催地におけるロシアとカタールの落札に影響を与えた可能性がある。 
 
 2023年8月、ジョージア州フルトン郡の地方検事
   ファニー・ウィリス
は、ジョージア州RICO法に基づき
   ドナルド・トランプ
   ルディ・ジュリアーニ
を含む関係者を告訴した。
 ジョージア州法には、「恐喝計画」として分類できる 40 の州犯罪または行為のリストが含まれている。
 この法律は、他人に何らかの犯罪行為を試みたり、教唆したり、強要したり、脅迫したりする行為も
   組織犯罪
とみなされる可能性があるという点で、連邦法よりも広範。
 
 RICO の述語行為には恐喝や恐喝も含まれますが、RICO 法の最も成功した適用例の 1 つは
   報復や協力に対する報復の疑い
で証人や被害者に対して犯した行為や行為に対して個人を起訴したり制裁したりできること。
 RICO 法の違反は、民事訴訟または刑事告訴で申し立てられる可能性がある。
 このような場合、法執行機関と協力している個人または法人への報復として、個人または法人に対して告発が行われる可能性があります。さらに、被告に対して訴訟を起こしたり、刑事告発を行ったりした個人や法人に対しても告訴することができる。

 反SLAPP(国民参加に対する戦略的訴訟)法は、内部告発者や被害者に報復したり他人の言論を封じたりするための武器として法廷を利用する個人や企業による
   法制度の濫用疑惑を抑制する目的
で適用される場合がある。
 弁護士またはその依頼者が、法廷に持ち込まれた自分たちへの報復と報復のためだけに
   架空の法的告訴
をでっち上げるために共謀・協力したことが証明できれば、RICOは告発される可能性がある。

 RICO 法は、恐喝、脅迫、ゆすり行為などの他の伝統的な RICO の述語行為に加えて、麻薬密売犯罪も対象としていますが、大規模で組織された麻薬ネットワークは現在、「継続刑事事業法」としても知られる継続刑事事業法「キングピン法」」に基づいて起訴されるのが一般的。
 CCE法は長期にわたる綿密な陰謀に責任のある人身売買業者のみを対象としている。
 しかし、RICO法はさまざまな組織的犯罪行為を対象としている。 

   
posted by まねきねこ at 20:00 | 愛知 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 格言・ことわざ・用語解説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年07月07日

クレフツ(Klephts クレフト、クレフテス、山岳党とも)

クレフツ(Klephts クレフト、クレフテス、山岳党とも)
 「泥棒」を意味し元々は単に「山賊」を意味する言葉。
 盗賊から自称武装勢力、反オスマン反乱者などの意味に派生。
 ギリシャがオスマン帝国領であった時代、田園地方に存在した山賊、もしくは反オスマン帝国活動を行なった人々のこと。
 彼らは15世紀にギリシャがオスマン帝国に征服された際、オスマン帝国の抑圧を避けるため山岳地帯へ逃亡したギリシャ人の子孫。
 19世紀後半まで山賊として活発な活動を行なった。
 彼らは山岳地帯で自由に生活しており、オスマン帝国の支配に対して戦いを続けた。
 トルコ・ギリシャ関係の発展に伴い、意味自体は「泥棒」を意味しているものの、オスマン帝国支配時代に屈しなかったギリシャ人として、現在のギリシャ人らにとって特別な意味を与えられた。
 オスマン帝国支配下でのクレフテスは、通常、オスマン帝国当局からの復讐、税の納付、債務の返済、軍事的報復を避けていた人々であった。彼らは旅行者を襲撃したり、村落を孤立化させたりしながら険しい山岳地帯や僻地に居住していた。
 クレフツの一団にはアルバニア系民族も多く含まれ、オスマン帝国の支配に対して継続的な戦争を続け、19世紀まで山賊として活動を続けた。

 1453年のビザンチン帝国の首都コンスタンティノープルがオスマン・トルコの侵攻を受け陥落、続いてモレア専制公国のミストラ陥落の後、現在のギリシャの平原の大部分はオスマン帝国の支配下となった。
 ギリシャの山脈(ギリシャ人が住み、オスマン・トルコはアクセスできない)と、ヴェネツィアの支配下にあったいくつかの島と沿岸領土は攻略されずに残り、この状況は1821年まで続いた。 
 オスマン帝国の領土は、エヤレットとも呼ばれるパシャリク(村)に分割された。
 ギリシャではモレアとルーメリアと呼ばれた。
 パシャリクはさらにサンジャクに分割され、サンジャクはしばしば封建的なチフリック(農場 τσιφλίκι tsifliki)に分割された。
 生き残ったギリシャ軍(ビザンチン軍、地元の民兵、傭兵など)は奴隷として歩兵戦闘員
   イェニチェリ
として、オスマン帝国軍に加わるか、地元のオスマン帝国の名士の私兵に仕えるか、自活するかのいずれかを選ばされた。
 ギリシャ人将兵は、多くが自由な盗賊生活を選び盗賊団となり勢力を拡大した。

 オスマン帝国支配下のクレフトは、オスマン帝国の役人からの
   復讐や税金、負債、報復
から逃れてきた男たちで。旅行者や孤立した集落を襲撃し金品等を強奪し、険しい山岳地帯や奥地に住んでいた。
 クレフトの集団のほとんどは、ギリシャ独立戦争(1821年ー1830年)に何らかの形で参加した。
 ギリシャ独立戦争中、クレフトはアルマトロイ(民兵、自警団)とともにギリシャの戦闘部隊の中核を形成した。
 戦争中は重要な役割を果たした。
 軍事統制が取れず、非効率的であったが、彼らは1821年から1827年までの臨時政府にとって唯一の実行可能な軍事力であった。
 クレフトやアルマトーレの多くは、彼ら自身の軍事的パトロン・クライアントの条件に従ってギリシャ独立戦争に参加した。
 もともと、彼らは戦争を、活動地域を拡大するための経済的、政治的な機会とみなして活動した。
 クレフトやアルマトーレのようなバルカン半島の盗賊は、民族主義的な歴史学では綺麗事で
   国民的英雄
として称賛されている。
 しかし、実際には経済的利益に動かされ、国家的なプロジェクトなどは知らず、オスマン帝国と同盟を結び、イスラム教徒と同様にキリスト教徒からも略奪していた。

 有名なクレフト
 ・アントニス・カトサントニス(Antonis Katsantonis)
 ・ジョルガキス・オリンピオス(Giorgakis Olympios)
 ・オデュッセウス・アンドルーツォス(Odysseas Androutsos)
 ・アタナシオス・ディアコス(Athanasios Diakos)
 ・ゲオルギオス・カライスカキス(Geórgios Karaïskákis)
 ・テオドロス・コロコトロニス(Theodoros Kolokotronis)
 ・ディミトリオス・マクリス(Dimitrios Makris)
 ・ニキタス・スタマテロプロス(Nikitas Stamatelopoulos)

   
posted by まねきねこ at 07:24 | 愛知 | Comment(0) | TrackBack(0) | 格言・ことわざ・用語解説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年06月30日

甲州財閥(こうしゅうざいばつ)

甲州財閥(こうしゅうざいばつ)
 明治期の東京や埼玉、横浜で顕著な経済活動を行っていた甲州(山梨県)出身の実業家たちの総称で、郷土意識で緩やかな資本連合を持っていた。
 明治中期から昭和初期にかけて鉄道会社や電力会社・証券金融会社を設立または買収し、各方面へ幅広く展開した。
「財閥」とは、本来は三井財閥や住友財閥など異種の業種が
   同族的支配関係
により組織された独占資本を意味したものだが、実業家集団の結団を指すものとしての総称で江州財閥(近江商人)、佐賀財閥、中京財閥などと同様の総称である。
 ただし、関西で成功した阪急東宝グループの創始者の一人である小林一三は山梨県出身者であるが、甲州財閥とは別の財閥とみなされている。

 甲斐国では江戸時代甲府城下町が発達し、甲州街道や富士川舟運をはじめとする諸街道・物流網が成立し商業が展開された。
 甲府城下町(新府中)では八日町(甲府市中央)を中心に大店を構える有力商人が出現した一方で在方においても
   養蚕や煙草、果樹栽培 など
商品作物の栽培が行われ、農間余業として行商を行う商人が出現した。
 また、富士川舟運では
   廻米輸送
を行う下げ荷として塩などの物産を移入しており、これに携わる有力商人が存在していた。
 安政6年(1859年)横浜港が開港されると、甲州屋忠右衛門(篠原忠右衛門)、川手五郎右衛門、若尾逸平ら投機商が出現した。
 彼らは横浜に店を構え蚕糸や果樹など甲州物産を輸出して財をなした。
 忠右衛門らはその後養蚕恐慌により没落したが、若尾逸平らは新興町人として生き残って成長し、彼らはいずれも甲府町方の商人に対して在方に出自をもっている。
 明治中期には若尾逸平、雨宮敬次郎、根津嘉一郎らの先駆者に続き小野金六、小池国三、古屋徳兵衛、堀内良平らが出現した。
 彼ら養蚕・生糸事業で得た資本を当時有望性のあった鉄道や電力などの新事業に投資して事業拡大した。
 中央線の敷設に際しては利害で対立するものの、1896年(明治29年)には山梨県内の豪商農層を総動員して
   東京電燈
の株式過半数を買い占め、電気やガスなどの公共事業や株式投資で産業界における存在感を強めた。
 明治後期・大正時代には山梨県政や東京市政にも参画した。

 昭和初期の金融恐慌で総帥的立場にあった若尾家が没落してしまい、世代交代により郷土意識が希薄化すると影響力は弱体化した。
 戦後は財閥解体などにより規模が縮小した。
 ロッキード事件などの汚職に甲州系資本が関与したなどによるイメージダウンや、平成不況などにより廃業・合併する企業が増えるなど現在では甲州系資本の影響力は低下した。
 山梨県立博物館では若尾家など甲州財閥に関係する展示を行っている。

著名な甲州財閥系譜
・甲州屋忠右衛門
根津嘉一郎 (初代)(東武鉄道や南海電気鉄道に関与し、根津財閥を形成)
雨宮敬次郎(雨宮製作所や日本製粉などの創業者)
若尾逸平(東京電燈などの創業者)
若尾民造 (若尾銀行頭取、東京電燈会長)
・小野金六(富士身延鉄道社長)
小池国三(山一證券創業者、前述の若尾に師事した後、独立)
・古屋徳兵衛 (初代)(松屋百貨店創業者)
・堀内良平(富士急行創業者、衆議院議員の堀内光雄は孫)
・神戸挙一(東京電燈などの社長)
・穴水熊雄(京王電気軌道社長)
・穴水清彦(相模鉄道)
・穴水要七(相場師、衆議院議員、富士製紙(後の王子製紙)および北海道電燈(現北海道電力))
・小佐野賢治(国際興業創業者)
小林一三(阪急電鉄)
早川徳次(東京地下鉄道(旧))
・中田大三(神戸電鉄)
・佐藤晴雄(京浜急行電鉄)
・古屋哲男(富国生命)
・小林宏治(日本電気)
・小林中(日本開発銀行)
・三神良三(東京會舘)
田邊七六(日本軽金属)
  
  
   
posted by まねきねこ at 19:32 | 愛知 ☔ | Comment(0) | TrackBack(0) | 格言・ことわざ・用語解説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年06月29日

「シェブロン法理」とは

「シェブロン法理」は米国最高裁が1984年、米石油大手シェブロン天然資源保護協会(NRDC)が争った裁判で示した法律の考え方。
 連邦法に明記されていなかったり曖昧だったりする問題については政府が解釈し、その解釈が合理的であれば司法は従うという原則のこと。

   

   
posted by まねきねこ at 05:35 | 愛知 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 格言・ことわざ・用語解説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年06月13日

スイス諜報機関(The Swiss intelligence community  Federal Intelligence Service  FIS)

  (The Swiss intelligence community  Federal Intelligence Service  FIS)
 スイス連邦情報局はスイスの利益とインフラを保護する責任を負う機関
 従業員 303人
 国の主要な諜報機関である連邦情報局( FIS )は、情報局法によって統治されている。
 スイスの最初の連邦軍秘密諜報機関は、第二次世界大戦勃発の数年前
   ハンス・ハウザマン
によって1937年から1939年にかけて
   Büro Ha
として設立された。
 その時点まで、情報収集の責任は片手間の仕事として警察に委ねられていた。
 
 スイスの諜報機関についてはあまり知られていない。
 スイス連邦警察の事件記録が最近発見され、スイスの諜報機関が
   中華人民共和国
と取引していたことが示されている。
 およそ 1960 年から 1980 年にかけての時期、スイスの諜報活動の主な目的はスイス国内の
   共産主義の脅威
に対処することであった。
 事件記録で発見された共産主義と戦う方法の 1 つは
   フィッシュ システム
でスイス国内で行われたあらゆる「反愛国的行為」を追跡する
   索引カード システム
のことである。

 このシステムは成功を収め、冷戦中に 90 万枚のカードが作られた。
 中国、韓国、ベトナム系の人々を対象とした約 25,000 枚のカードが作られたと記録されている。
 フィッシュの究極の目的としては、スイスに危害を及ぼす可能性のある共産主義の脅威を阻止することであった。

 2010年1月1日より、スイスには新たな安全保障政策手段である
   分析・予防サービス (DAP)
   戦略情報サービス (SND)
を統合して連邦情報局( FIS ) が創設された。
 相乗効果を活用し、サービス受領者のニーズに常に適応することで、現代の要件を満たすように調整され、将来的には連邦および各州のあらゆるレベルの窓口となる強力な情報サービスが誕生した。
 
 FIS のパートナーおよびサービス受領者は、政治および軍事指導者、連邦政府で
   連邦国防・民間防衛・スポーツ省(DDPS)
   連邦司法警察省 (FDJP)
   連邦外務省 (FDFA)
   連邦経済省(FDEA)。
のほか、連邦が雇用する 84 名の国家安全保障エージェントを含む州も重要なパートナーとなった。
 FIS は海外において、世界中の 100 を超える諜報機関、警察機関、治安機関と連絡を取り合っている。
 これらの二国間および多国間の連絡はすべて連邦評議会によって承認されている。
  
 連邦民間情報法によればFISはテロリズム、違法な情報、暴力的過激主義、核拡散に関連する危険を認識し、それと闘ことや、重要な情報インフラストラクチャに対する攻撃を識別している。
 スイス情報機関として関心のあるテーマと地理的領域は、テロリズムや暴力的過激主義、拡散、重要インフラに対する攻撃、違法な諜報活動などがある。
 また、海外においては、FIS のテーマ領域は引き続き、拡散、テロリズム、軍事力開発、海外における我が国の軍隊の作戦領域、ならびに兵器技術と武器取引がある。
 関心のある地理的領域は、引き続き、ヨーロッパ、ロシアおよび CIS 諸国、近東および北アフリカ、中東、アジア、米国、およびアフリカのホットスポットとなっている。 
 2017年のFISの予算は7,560万スイスフランということが公表されている。

 その他のスイス諜報機関としては軍事情報局がある。
 また、郵便および電気通信監視局は、連邦司法警察省内のサービスであり(2008年1月1日以降)、犯罪捜査当局の盗聴要請を調整する任務を負っている。
 これで問題となった行為には2012年、上級IT技術者が重要な諜報文書を盗んだことがある。
 また、2014年、連邦情報局の捜査官が、スイスのワインメーカー
   ドミニク・ジルー
の代理としてジャーナリストに対するハッキング事件に関与したことがある。
  
   
posted by まねきねこ at 17:07 | 愛知 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 格言・ことわざ・用語解説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年06月09日

サットン・フー(Sutton Hoo) アングロサクソン時代の船葬墓

サットン・フー(Sutton Hoo)
 イングランド東部イースト・アングリアのサフォーク州ウッドブリッジ近くで発見された7世紀の
   アングロサクソン時代の船葬墓
のこと。
 1939年に発掘され、豊かな副葬品が出土したことで知られる。
 中世初期のイングランドを知るうえで極めて重要な考古学的資料で、最も著名なイギリスの考古遺跡のひとつ。
 サットン・フーはデベン川左岸の絶壁上にあり、海から7マイル(約11km)離れている。
 一帯は中世
   イースト・アングリア王国
の墓地となっており、多数の古墳が散在し、のうち1号墓地と呼ばれる地域から出土した船葬墓が、特にサットン・フーと呼ばれている。
 この土地の所有者だった
   エディス・プリティ
が敷地の塚群に興味を持ち、アマチュア発掘家
   バジル・ブラウン
によって発掘が行われた。
 発掘調査で出土した多数の副葬品は現在、ロンドンの大英博物館に展示され、豪華な金銀の装飾品や武具、武器などがある。
 また西暦625年の銘をもつ金貨が出土していることから年代も絞られ、624年に死去した
   イースト・アングリア王レドワルド(Rædwald)
の墓ではないかと推定されている。
 なお、この墓域は1998年からナショナル・トラストが管理している。

    
posted by まねきねこ at 15:00 | 愛知 ☔ | Comment(0) | TrackBack(0) | 格言・ことわざ・用語解説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年05月04日

バーミンガム暴動 (「プリーストリー暴動」とも呼ばれる)

1791年のバーミンガム暴動 (「プリーストリー暴動」とも呼ばれる)
 1791年の7月14日から17日にかけてバーミンガムで起こった暴動のこと。
 暴徒らの主な標的はプロテスタントに属さない
   非国教徒 (Dissenters)
で、とりわけ神学的・政治的にもその中心的存在である
   ジョゼフ・プリーストリー
であった。
 公共図書の購入をめぐる論争から、非国教徒による
   市民権獲得運動
   フランス革命支持
に対する反発などから、地方レベルおよび国家レベルでの時事問題が暴動の引き金になった。
  
 この暴動では
   フランス革命の共鳴者
らによる晩餐会が行われていたバーミンガムの
   ロイヤル・ホテル (Royal Hotel)
への襲撃から始まった。

 暴徒らはその後、プリーストリーの教会と自宅を皮切りに、4つの非国教徒の教会、27の家屋、複数の店舗を次々と襲撃した。
 暴徒の多くはアルコールで泥酔していたものの、それは略奪したものであったり、暴動をやめるよう買収される際に渡されたものであった。
 しかし、少数の中心メンバーは買収されることなく、冷静さを保っていたという。

 暴徒らは非国教徒の家や教会だけでなく
   ルナー・ソサエティ
のメンバーらなど、非国教徒と付き合いのあった人々の家も襲撃していった。
 なお、当時の首相ウィリアム・ピット はこの暴動に直接関与したわけではなかったが、政府は非国教徒らからの
   救済の訴え
には反応が鈍かったという。
 また、バーミンガムの一部の役人が暴動の計画に加担していたとされ、彼らは後に首謀者らを裁く際にも消極的な姿勢を見せていた。

 実業家のジェームズ・ワットは、この暴動はバーミンガムを「二分してしまい、お互いに心底憎み合うことになった」と後に述べている。
 被害を受けた人々はバーミンガムを去り、18世紀の間産業革命の中心地の一つとして栄えたこの都市は、以前よりも保守化した。
 
 もともと、18世紀の間のバーミンガムは、様々な要因で暴動がたびたび起こる都市であった。
 1714年と1715年にも国教会の権益を守るために政府を批判したかどで逮捕された
   ヘンリー・サシェヴェラル (Henry Sacheverell)
の裁判の際、王党派の群集が暴徒化し非国教徒を襲撃している。
 1751年と1759年にはクエーカー教徒とメソジストが襲撃された。

 1780年の反カトリックの
   ゴードン暴動 (Gordon Riots)
では大量の群集がバーミンガムに押し寄せている。
 また、1766年、1782年、1795年、1800年には食料高騰への抗議運動も起こっている。

 1780年代までは宗教的対立はバーミンガムのエリート層の分断を生むことはなく非国教徒とイギリス国教会信徒は折り合いをつけてうまく生活していた。
 彼らは同じ民生推進委員会 (promotional committee) に参加し、ルナー・ソサエティを足場に科学的関心を共有するなど、地域の政治や経済の維持発展に関して協力的関係にあった。

 ただ、プリーストリーを襲った暴動の後、文房具業者でバーミンガムの歴史家であるウィリアム・ハットン (William Hutton) はNarrative of the Riots in Birmingham (1816) において、5つの出来事が宗教的対立の火をつけたとしている。
 出来事として、地元図書館にプリーストリーの著作を所蔵するかどうかの議論、非国教徒らによる審査法 (Test and Corporation Acts) 撤回の運動、プリーストリーを中心とした神学論争、扇動的なビラ、そしてフランス革命勃発を祝う晩餐会などを例示した。

 審査法では非国教徒がオックスフォード大学やケンブリッジ大学に入学したり公職に就くことを認めないなど、彼らの市民権を制限するものであった。
 バーミンガムの非国教徒がこの審査法の撤回を求めて運動を起こした。
 とりわけ1787年あたりからこうした運動のためだけに結成された非国教徒団体が登場し、地域のエリート層が先導していた表面上の連帯が崩れ出した。
 プリーストリーのようなユニテリアンは撤回運動の第一線に立ったため、イギリス国教会の信徒らは神経を尖らせるようになった。
 ただし、こうした運動は1787年、1789年、1790年に起こったものについては失敗している。

 暴動の1か月前、プリーストリーは普通選挙と短期議会の開催を実現させるための改革運動団体 Warwickshire Constitutional Societyにジェームズ・ワットやマシュー・ボールトンらルナー・ソサエティのメンバーを入れようとしたが、この試み自体は失敗した。
 そのため、こうした動きはバーミンガム内の緊張を高めていった。

 こうした対立には政治的・宗教的背景に加え、経済的要因も関係し、下層階級の労働者と上流階級の国教会エリート層はともに
   中産階級の非国教徒実業家
たちの経済的成功とそれに伴う権力の増大を妬むようになっていた。
 実業家たちは有力者の庇護下で功利的な産業・商業活動に勤しんでいた。

 プリーストリーも匿名で出版したAn Account of a Society for Encouraging the Industrious Poor, with A Table for Their Use (1787) において、犯罪や不道徳の温床になる貧困層を保険制度によって救済する必要性を説きながら、同時に最少の費用でいかに彼らから最大の労働力を引き出すことができるかを論じていた。

 その論考で借金回収の重要性が強調されていたことは、明らかに労働者を敵に回すものとなった。

 イギリス国内のフランス革命をめぐる論争 (Revolution Controversy) は1789年から1795年まで続いていた。
 当初は、英仏どちらの論陣も、フランスは100年前のイギリスでの
   名誉革命
と同じ道を辿る (すなわち絶対王政がより民主的な統治形態に変わる) だろうと考えていた。
 そのため、1789年のバスティーユ襲撃は多くのイギリス国民に好意的に受け止められていた。

 また、イギリスでも選挙権が拡張されたり、議会の憲法上の区分の再配置によっていわゆる腐敗選挙区がなくなるなど、さらなる政治体制の変革が起こるだろうというのが、フランス革命支持者らの展望であった。

 しかし 恐怖政治やナポレオン戦争開始の後には、フランス革命の大義を支持したり、改革がイギリスにも及ぶことを信じている人はごくわずかとなり、急進派と疑われる人々は役人や世間からの疑いの標的となった。

 バーミンガム暴動の引き金となった諸々の出来事は、フランス王家の逃亡と逮捕 (ヴァレンヌ事件) から1ヶ月も経たないうちに起こった。
 その時点ではフランス革命に対する当初の見通しがすでに暗くなってしまっていた。

 1791年7月11日、バーミンガムの新聞において、バスティーユ襲撃の2周年目にあたる7月14日に、ロイヤル・ホテル (Royal Hotel) で革命勃発の祝賀会が開かれることが告知された。
 この告知では「自由の友であればだれでも」参加できるとされた。
 同日、ジェームズ・ホブソン (James Hobson) という人物 が書いた
   「過激な革命派の (ultra-revolutionary) 」ビラ
が出回ったため、バーミンガムの役人がビラの出版とその筆者についての情報提供を100ギニーで呼びかけたが、効果はなかった。

 非国教徒らは自分たちの立場を守るために無実を主張し、そのビラが煽る急進的な考えを非難する必要に迫られた。
 7月12日には晩餐会で問題が起こる下地ができてしまった。

 7月14日の朝、「長老派に破滅を」「国教会と国王よ永遠に」といった落書きが町中に見られた。
 この時点でプリーストリーの友人らはプリーストリーの身を案じ、晩餐会に参加しないよう彼を説得した。

 14日はおよそ90名のフランス革命支持者らが集まった。
 晩餐会は国教徒の実業家でルナー・ソサエティのメンバー
   ジェームズ・キア
が取り仕切った。
 午後2時から3時頃にゲストがホテルに到着すると、60-70人からの抗議で迎えられた。
 参加者が食事を終える午後7時から8時頃には何百人もの群衆が集まった。

 暴徒らは、帰宅しようとする祝賀会ゲストらに石を投げつけ、ホテルを占拠・略奪した。
 群集は次にクエーカー教徒の会館に移動したが、誰かがクエーカー教徒は「どんな論争にもどちらの側にも首を突っ込まない」と叫び、代わりにプリーストリーが牧師を務めているニュー・ミーティング・チャペルに向かうよう促した。
 効果なく、その教会が燃やされて全壊した後、別の非国教徒の教会であるオールド・ミーティング・チャペルが襲撃された。

 暴徒はそれからバーミンガム南東のスパーブルック (Sparkbrook) のプリーストリーの自宅Fairhillに向かった。
 プリーストリーはかろうじて難を逃れ、暴動の間は妻とともに非国教徒の友人らのもとに身を隠した。
  
 この騒動の裏にバーミンガムの国教徒エリート層による連携が推測され、おそらく地元の牧師ベンジャミン・スペンサー (Benjamin Spencer) 、治安判事で地主のジョゼフ・カールズ (Joseph Carles) 、弁護士で検視官であったジョン・ブルック (John Brooke) が中心的役割を果たしていたと見られる。
 カールズとスペンサーは暴動が勃発した際にそこに居合わせていたにもかかわらず、暴徒を止めようとしなかった。
 また、ブルックは暴徒らをニュー・ミーティング・チャペルへと誘導したとされる。

 証言者は口をそろえて「治安判事らは暴徒に対して、人や財産に手をかけず集会所のみ襲撃する限りにおいて身の安全を保障する約束をしていた」と述べている。
 判事はまた、暴徒の誰も逮捕しようとせず、逮捕された者も釈放した。
 こうした役人らは、政府から扇動者を裁判にかけるよう指示されていたものの、すぐに対応することはなかった。
 ようやく首謀者の裁判をせざるをえない状況になると、彼らは証言者を脅して、裁判手続きを軽視した[。
 そのため、告発された50人の暴徒のうち、17人だけが裁判にかけられ、4人が有罪判決を受けた。
 そのうちの1人は放免され、2人は絞首刑となり、1人はオーストラリアのボタニー湾に流刑された。

    
posted by まねきねこ at 06:22 | 愛知 | Comment(0) | TrackBack(0) | 格言・ことわざ・用語解説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年04月30日

ブラック・スワン・ファンド(A Black Swan fund) 

ブラック・スワン・ファンド(A Black Swan fund)はブラック・スワン理論に基づいた投資ファンドであり
   市場の急激な下落
から大きな利益を得ようとする投資活動のこと。

 彼らは2007 年から 2008 年の金融危機後にさらに知られるようになった。
「ブラック・スワン」基金の一例は
   マーク・スピッツナーゲル(Mark Spitznagel)
によって設立され、ニコラス・タレブ(Nicholas Taleb)によって助言されたユニバーサのこと。
 2007年から2008年の金融危機の間、このファンドは 100%を超える収益を記録した。
 2015年8月、Universa Investments は1 週間で 10億ドル以上の利益を上げ、年初来利益の 20% に相当する。

      
   
posted by まねきねこ at 14:55 | 愛知 ☔ | Comment(0) | TrackBack(0) | 格言・ことわざ・用語解説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年04月25日

第二次ボーア戦争(Second Boer War)

第二次ボーア戦争(Second Boer War)
 イギリス軍 :347,000人
 植民地軍 103,000 – 153,000人
 アフリカの補助部隊: 100,000人
     合計: 550,000 – 600,000人

   死傷者と損失
    死者26,092人
    病気または負傷して帰国した人75,430人
    負傷者22,828人 
    行方不明者934人
     合計 ~125,284人
 
・ボーア特殊部隊
  トランスバールボーア人 25,000人
  自由国ボーア人 15,000人
  ケープボーア人 6,000〜7,000
  アフリカの補助部隊 10,000人
  外国人ボランティア 5,400+人
     合計: 60,000 – 61,000+人

   死者 6,189人
   捕虜 24,000人(海外に送られた)79人 
     合計 30,189人
 
 民間人の死傷者:
   死者 46,370人
   ボーア人の女性と子供26,370人が強制収容所で死亡
     115,000人中20,000人以上。
 
 第二次ボーア戦争(Tweede Vryheidsoorlog 1899年10月11日 – 1902年5月31日) は、ボーア戦争、アングロ・ボーア戦争、または南アフリカ戦争としても知られ、南部アフリカにおける帝国の影響力をめぐる大英帝国とボーアの2 つの共和国(南アフリカ共和国とオレンジ自由国)との間で行われた戦争 。 

 ウィットウォータースランドで発見されたゴールドラッシュにより、南アフリカ共和国への「外国人」の大量流入が起こった。
 そのほとんどがケープ植民地から勝手に移動したイギリス人であった。
 
 彼らは投票することを許可されておらず、「歓迎されない訪問者」とみなされていた。
 このため、権限を求めてケープの英国当局に抗議したが 1899年6月の
   ブルームフォンテーン会議
で交渉は失敗に終わった。
 この紛争は10月にボーア人の非正規兵と民兵がイギリス植民地から勝手気ままに入り込んで作り上げた入植地を攻撃したことで勃発した。
 なお、ボーア人とはオランダ東インド会社の喜望峰への最初の入植者の子孫のこと。
 
 ボーア人はレディスミス、キンバリー、マフェキングを包囲し、コレンソ、マージャースフォンテン、ストームバーグで勝利を収めた。
 英国陸軍兵士を増加して南部アフリカに投入したが、ボーア人に対する攻撃を開始したもののの反撃に遭遇し失敗に終わった。

 イギリスは司令官レッドヴァース・ブラー将軍の代わりに
   ロバーツ卿
   キッチナー卿
の両名が軍司令官に就任した。
 1900年初めに18万人規模の遠征軍を率いて包囲された都市を救援したのち
   ボーア共和国
に軍事侵攻したことで戦況が変わった。
 ボーア人はそのような大軍に抵抗できないことを認識していた。
 このため、激しい戦闘を控え、イギリス軍が両共和国とその首都であるプレトリアとブルームフォンテーンを占領することを許可した。 
 
 南アフリカ共和国の
   ポール・クルーガー大統領
を含むボーア人の政治家は逃亡するか身を隠した。
 大英帝国は 1900 年にこの 2 つの共和国(ボーア共和国と南アフリカ共和国)を正式に併合した。
 
 英国では、ソールズベリー卿が率いる保守省が、当時の観察者によって「カーキ選挙」と呼ばれる早期総選挙を実施することで、英国の軍事的成功を利用しようとした。
 
 ボーア戦闘員は丘陵に進出して
   ゲリラ作戦
を開始し、ビターレインダーとして知られるようになった。
 
 ルイ・ボタ、ヤン・スマッツ、クリスティアン・デ・ウェット、クース・デ・ラ・レイなどの将軍に率いられたボーア人ゲリラは、2年間にわたりイギリス軍に対して
   ひき逃げ攻撃
   待ち伏せ攻撃
を繰り返した。

 ゲリラ戦術に不慣れであったことと民間人のゲリラへの広範な支援から、イギリス軍がゲリラ作戦を破るのは困難であることが判明した。
 
 ゲリラの敗北に失敗したことを受けて、イギリス軍最高司令部は大規模かつ多方面にわたる反乱鎮圧作戦の一環として
   焦土政策
を命じた。
 網、ブロックハウス、要塞、有刺鉄線のネットワークが構築され、占領された共和国を実質的に分割した。
 10万人以上のボーア人民間人(大部分が女性と子供)が強制収容所に強制移送され、そこで2万6千人が主に飢えと病気で死亡した。
 
 また、アフリカ黒人はボーア人への物資供給を防ぐために強制収容所に収容され、同じく2万人が死亡した。 
 
 ゲリラ追跡のために
   英国騎馬歩兵
が配備され、小規模な小競り合いが発生した。
 なお、どちらの側にも戦死した戦闘員はほとんどおらず、死傷者のほとんどは病気で死亡した。
 
 キッチナーは紛争を終わらせるためにボーア人の残りの指導者たちに寛大な降伏条件を提示した。
 
 同胞のボーア人を強制収容所から確実に解放したいと考えていたボーア人の指揮官の多くはフェーレニギング条約のイギリスの条件を受け入れ、1902年5月に降伏した。 
 かつての共和国はトランスバール川とオレンジ川のイギリス植民地となった。
 
 1910年にナタール植民地とケープ植民地と合併して、大英帝国内の自治領である南アフリカ連合を形成した。

 イギリスの遠征活動は、ケープ植民地、ナタール、ローデシアの植民地軍と世界中、特に大英帝国の構成メンバーであるオーストラリア、カナダ、インド、ニュージーランドからの多くの志願兵に受けた。
 
 黒人アフリカ人の新兵はイギリスの戦争で貢献した。
 
 ただ、国際世論はボーア人に同情的で、イギリス人には敵対的であった。
 また、英国国内でも戦争に対する大きな反対が存在した結果、ボーア人の大義には、ドイツ帝国、米国、ロシア、さらにはオーストラリアやアイルランドなどの大英帝国の一部を含む中立国から数千人の志願兵が集まった。
 この戦争が驚くほど長かく、義勇兵の混成軍隊との戦闘でイギリス軍が被った死者数5対1という予期せぬ不釣り合いな損失が生じた。
 ボーア人の民間人や捕虜の殺害を含む、戦争中に犯された英国の戦争犯罪に対する裁判は1901年1月に開廷された。

 この戦争には 3 つの段階があった。
 第一段階では、ボーア人はナタールとケープ植民地のイギリス占領地に先制攻撃を仕掛け、レディスミス、マフェキング、キンバリーのイギリス守備隊を包囲したの後、ボーア人はストームベルグ、マジャースフォンテン、コレンソ、スピオンコップで一連の戦術的勝利を収めた。

 第 2 段階では、ロバーツ卿の指揮のもとイギリス軍の数が大幅に増加した。
 その後、イギリス軍は 1900 年に包囲を解くために再度攻撃を開始し、今度はイギリスが成功を収め、ナタールとケープ植民地の安全が確保された後、イギリス軍はトランスバールへの侵攻に成功し、共和国の首都であるプレトリアがは最終的に 1900 年 6 月に占領された。

 1900 年 3 月に始まりさらに 2 年間続いた第 3 段階および最終段階では、ボーア人はイギリス軍の部隊、電信所、鉄道、倉庫を攻撃して激しいゲリラ戦争を実施した。
 これに対し、ボーア人ゲリラへの物資供給を遮断するため、キッチナー卿の指導下にあったイギリス軍は焦土政策を採用した。
 イギリス軍は広大な地域を戦域としてボーア人の農場を破壊し、民間人を強制収容所に押し込めた。

 英国の報道機関や英国政府の一部はこの作戦が数カ月以内に終わると予想した。
 特に強制収容所の状況(26,000人ものアフリカーナ人の女性と子供が栄養失調による病気や飢餓で死亡した)の実態が暴露されてからは、長引く戦争は徐々にイギリス国民の間で人気がなくなってた。
 ボーア軍は最終的に1902年5月31日土曜日に降伏し、トランスバール州とオレンジ自由国の代表60名のうち54名が和平条約の条件を受け入れることに投票した。 
  これはフェレーニギング条約として知られ、その条項に基づいて、2 つの共和国は将来の自治を約束して大英帝国に吸収された。
 なお、この約束は、1910 年の南アフリカ連合の創設まで自治権はないまま抑圧され続けた。

 この戦争は、この地域とイギリスの国内政治に長期的な影響を及ぼした。
 英国にとって、第二次ボーア戦争は最も長く、最も高額な費用が費やされた戦争であり(2億1,100万ポンド、2022年の価格で199億ポンド)、1815年から1914年にかけての最も血なまぐさい紛争であった。
 クリミア戦争(1853 〜 1856 年)よりも戦闘による死傷者数が多い。 (クリミア戦争では病気による被害がさらに大きくなり、英国人17,580人が命を落としたが第二次ボーア戦争では26000人が亡くなった。)

   
posted by まねきねこ at 18:49 | 愛知 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 格言・ことわざ・用語解説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年04月05日

ブレークイーブンインフレ率 (Break Even Inflation rate BEI)

ブレークイーブンインフレ率 (Break Even Inflation rate BEI)とは市場が予想する期待インフレ率のこと。
 一般的に10年利付債の流通利回りから10年物価連動債の
   流通利回り
を差し引いた値を指す。
 ブレークイーブンインフレ率がプラスで推移しているときは、市場は物価が上昇すると予測しており、マイナスで推移しているときは物価が低下すると予測していることを示す。
 
    
posted by まねきねこ at 14:49 | 愛知 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 格言・ことわざ・用語解説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ゴルディロックスの原理(Goldilocks principle)

 『三匹の熊』(ゴルディロックスと3匹のくま(Goldilocks and the Three Bears))の童話の喩えを借りて名付けられた
経済理論のこと。
 この物語の中に
   ゴルディロックス
という名前の少女が登場し、三種のお粥を味見したところ、熱すぎるのも冷たすぎるのも嫌で、ちょうどよい温度のものを選ぶ[1]。この童話が世界中でよく知られていることから、この名前を使うことで
   「ちょうどよい程度」
という概念の理解が容易になり、発達心理学や生物学、 経済学、工学など、他の幅広い領域にも適用されるようになった。

 経済学においてはゴルディロックスの原理とは経済の緩やかな持続的成長と低インフレ率を言う。
 この場合、市場親和的な金融政策が可能になるり、ゴルディロックス市場では、
   消費財の価格
がベア市場 とブル市場の価格の間にあるときに可能になる。
 ゴルディロックス価格とはマーケティング戦略の1つで、これ自体はゴルディロックスの原理と直接の関係がない。
 ただ、他の競合商品を追いやるために、3種類用意して製品の差別化を図ることで最大の利益を得ることを目的として、ハイエンド版とミッドレンジ版、ローエンド版を同時に用意するが、量や数で無駄がないようにすることも重要である。

 日本では「松竹梅の法則」として知られている業界用語も同じ主旨。 

   
posted by まねきねこ at 06:45 | 愛知 | Comment(0) | TrackBack(0) | 格言・ことわざ・用語解説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年04月01日

ルイス軽機関銃( Lewis Gun)

ルイス軽機関銃( Lewis Gun)
 主に第一次世界大戦期にイギリスで生産された軽機関銃のこと。
 連合国側で広く使用されたほか、第二次世界大戦でも一部で使用された。
 標準弾薬は.303ブリティッシュ弾(7.7mm)だが、他の弾薬を使用するバリエーションもある。
 
 軽機関銃の原型は1911年にアメリカ人
   サミュエル・マクリーンに
より設計され、米陸軍の退役大佐
   アイザック・ニュートン・ルイス
の手により改良され完成した。
 ただ、当時の米国内でこの銃のパテントを購入し生産しようというメーカーは無く、陸軍にも採用されなかった。
 その後ルイスにより海外への売り込みが図られ、1913年にベルギー陸軍が採用した。
 翌年にはイギリス陸軍にも採用され、イギリスの
   バーミンガム・スモール・アームズ(BSA)
によりLewis Gun Mk.1の名で量産された。

 リブ付きの47発または厚みのある97発型のパンマガジン(皿形弾倉)は上・側面のみカバーされ、下から見ると先端を弾倉中心に向けて装填された銃弾が螺旋状に入っているのが露出して見える。
 97発マガジンは四層で47発は二層になる。
 弾丸を発射してボルトが後退するたびに、弾倉全体が時計回りに回転する(銃側に回転止めがあり、弾倉のリブに噛み合う形で給弾を保持する)。
 排莢口は弾倉下の機関部右側面にあり、空薬莢は下右へ排莢される。
 標準タイプには二脚架が用意されており、伏射による安定した射撃をサポートした。

 対空用及び艦艇搭載用に、単脚架や三脚架も存在している。
 空冷式であり、外見上の特徴になっている水冷機銃の冷却水タンクのように見えるものは放熱用のアルミ製冷却筒である。銃身と冷却筒の間には放熱用のリブが挿入されていた。

 ただ、複雑な送弾機構や、弾丸が露出して埃に弱い弾倉の影響から故障が多く、
後発の軽機関銃に比較すると信頼性は低い。
 当時としては軽量な機関銃であることも評価され、第一次世界大戦中にはイギリス陸軍で使用された。
 このほか、フランス陸軍やアメリカ陸軍でも採用され、アメリカでは弾薬を30-06スプリングフィールドとした仕様が生産された。ロシア帝国軍も6,000挺近くを購入したことが記録されている。

 地上用の軽機関銃としてだけでなく、航空機搭載用としても用いられて史上初の航空機銃となった。
  
 第一世界大戦時の日本は連合国側であったので、英仏からの軍用機輸入に伴って連合国側の
   標準的航空機銃
であったルイス機銃もヴィッカース機銃と同時に導入された。
 陸、海軍航空隊とも大正時代から運用を開始した。
 なお、日本陸軍では1915年に、ルイス軽機関銃と外見のよく似た試製軽量機関銃甲号を開発している。
 これは口径6.5mmで、三年式機関銃をもとに小型化した機関部に
   ルイス式の放熱筒と皿型弾倉
を付けたもので、二脚ではなく小型の三脚を用いていた。
  
   
posted by まねきねこ at 21:47 | 愛知 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 格言・ことわざ・用語解説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年03月18日

国際決済銀行(Bank for International Settlements、略称: BIS)

国際決済銀行(Bank for International Settlements、略称: BIS)
 1930年に設立された、中央銀行相互の決済を行う組織のこと。
 中央銀行の中央銀行とも呼ばれ
  ・通貨価値
  ・金融システム
の安定を目的として中央銀行の政策と国際協力を支援している。

 通常業務として各国中銀の
   外貨準備
を運用する機関投資家でもある。
 2017年4月に同行のグローバル金融システム委員会は「レポ市場の機能」という報告書を公表した。
 各中銀の量的金融緩和政策が世界各国の市場から
   手堅い債券を買い占め
た影響が、一般機関投資家のレポ市場が担保の供給を受けられず機能不全に陥っているという見解を示した。

 もともとは、ドイツの第一次世界大戦にかかる
   賠償金支払い
の行き詰まりを打開するためにヤング案(1930年)が提案され、この案では「国際決済銀行に関する条約」と「国際決済銀行定款」が採択され、これらいわゆるハーグ条約により賠償金の支払いを円滑化させるための機関としてBIS が設立された。

 日本は、ウォール街大暴落 (1929年)のさなかでクレジットを設定し、1930年のBIS創設時には株主となっていた。
 世界恐慌をきっかけとするハイパーインフレに襲われたドイツではナチス党が権力を掌握により、賠償金支払いを拒否させたため、BIS は賠償金の取扱機関として活動できなくなり、かわりに中央銀行間の協力を推進するようになった。
  
 第二次世界大戦の拡大によりBIS は金塊をニューヨークへ現送するなどして資産をアメリカへ避難させた。
 その資産を米財務省が「敵性資産」として差し押さえた。
 1940年6月25日ニューヨーク地区連邦準備銀行が発した
   暗号電報
でこの凍結をBIS が知るところとなった。
 米国政府はそもそも、ハーグ条約に調印しておらず、BIS 株の引受も連邦準備制度ではなく
   JPモルガン など
の民間銀行団が行うなど不規則な対応をしていた。
 これはヘンリー・スティムソンが1929年にFRB 職員にBIS メンバーとなることを声明で禁じたことが背景にある。

 戦後、ドイツのライヒスバンクよりBIS に供託された略奪金 3.74トンは、「某中央銀行」が先行してBIS に返還していた額を控除の上、3.366トンがイングランド銀行へ預託される措置が取られた。
 戦勝国として連合国、とりわけアメリカがBIS に被害国へ金塊の返還を強く要求したがBIS は金の大部分はアメリカに現送してあるので、返還に応ずるためには、BIS に対する敵性資産としての凍結を解除してもらわなければならない」と応答した。

 1947年10月に米政府代表の
   アンドリュー・オーヴァビー(Andrew Overby)
が、在米スイス銀行資産の凍結解除を調整しにスイスへやってくるとBIS は機会に捉えた。
 BIS の当時に発行済み株式におき敵性資産にあたる日独のシェアは22.8%であった。
 ここへ預け入れ最低限度預金を加えると33.8%に達した。

 また、ヤング案によるBIS の対独資産は2億9116万スイス金フランであった。
 これは1945年度のBIS 総資産額の64.5%にのぼった。

 1948年2月、ジョン・スナイダーが上院外交委員長に向けて、欧州側の民間資本も
   凍結解除
して復興に振り向けさせるべきと書き送っている。
BIS が復活するとマーシャル・プランがドイツの支払い能力を徐々に立て直した。
 1950年10月と11月イングランド銀行が
   日本保有のBIS 株式の没収
を提案した。
 結果として日本は1951年のサンフランシスコ講和条約によって株式を放棄した。 
 その後、国際金融界への復帰を粘り強く働きかけた関係者の努力の結果、1964年以降、BISで開催される中央銀行の会合への定期的な参加が認められ、1970年には増資により日本銀行が株主として復帰した。
 なお、この年には英国連邦の一員であるカナダも加盟している。

 この増資目的はグローバル金融システム委員会の設置と支払決済事業の開発である。

 1961年11月に金プールを運営しはじめた。BIS は1932年11月以来ロンドンやベルンといったヨーロッパの金市場を管理していた。これをベースとして1961年ヤコブソンの構想どおり、ポンド・スターリングを中心とする決済機構ができた。
 運営の実態は、一時に英国のロ
   金の二重価格制
がしかれた事実に見え、ブレトンウッズ体制とは一定の距離を置いていた。
 ポンド危機では大恐慌のときのように、中央銀行はBIS への預金を引き出して金塊に換え、
   BIS 名義の使途指図金
として別の機関へ預託した。
 1975年7月8日にBIS は定款を改正しており、現行のものとなった。

 BISは、世界各国の中央銀行が出資する法人組織であり、2011年現在58か国の中央銀行が株主となっている。
 最高意思決定機関は株主中央銀行の代表が出席する総会(General Meeting)で、組織規定の改正、決算の承認などの権限を有する。年1回、6月末から7月初に開催されている。また、臨時総会の開催も可能となっている。
 BISの組織としての運営方針の決定などは理事会が行っている。
 この理事会は、2011年現在議長と19名の理事によって構成され、少なくとも年6回開催される。
  
   
posted by まねきねこ at 06:39 | 愛知 | Comment(0) | TrackBack(0) | 格言・ことわざ・用語解説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年03月12日

全米不動産業者協会(National Association of Realtors  NAR )) 米国最大の業界団体として活動

    (National Association of Realtors  NAR )
 不動産業界で働く人のための米国の業界団体[で会員数は 150 万人を超えている。
 NAR の研究所、協会、評議会を含む米国最大の業界団体として活動し、住宅および商業用不動産産業のあらゆる側面に関与している。
 この組織は、「Realtor」という用語に関する米国の商標を保持している。

 また、NAR は不動産仲介の自主規制機関としても機能、組織の本部はシカゴにある。

 National Association of Realtors は、1908年5月12日にイリノイ州シカゴで
   National Association of Real Estate Exchanges
として設立された。
 1916年、全米不動産取引所協会はその名前を全米不動産委員会協会に変更した。
 なお、現在の名前は 1972 年に採用された。

 NAR の会員は、住宅用および商業用不動産仲介業者、不動産販売員、不動産管理者、鑑定士、カウンセラーなど、不動産 (不動産) 業界のあらゆる側面に従事する者であり
   国家資格
が必要となる。
 メンバーは、約 1,600 ある地元の不動産業者委員会または協会の 1 つまたは複数に所属している。
 彼らは 1913 年に採択された倫理規定と実践基準を遵守することを誓約している。

 National Association of Realtors は、ワシントン DC のロビー団体
   The Real Estate Roundtableの
メンバーでもある。

 NARでは、全国の不動産仲介業者が使用する情報交換サービスである数百もの
   現地複数掲載サービス(MLS)
を管理している。

 1990 年代後半、インターネットの成長に伴い、NAR は
   インターネット データ エクスチェンジ(IDX)
を許可する規制を発展させ、ブローカーがデータの一部を公開することを許可した。
 仲介業者や代理店の Web サイトや仮想オフィス Web サイト(VOW)を介してインターネット上で閲覧できる。
 このため、情報を入手するために潜在的な購入者は登録する必要があった。

 これらのポリシーにより、参加者は、個々の個人ブローカーであっても、地域の大企業であっても、個々のブローカー(インターネット上のみで運営するブローカーであるか地元の競合会社であるかにかかわらず)による MLS データの一部またはすべてへの
   アクセスを制限すること
ができた。
 2005年、このことが司法省にNARに対する反トラスト法訴訟を起こすきっかけとなった。
 データの表示に関するこの種の制限に関するMLS規則は、NARに対して独占禁止法訴訟を起こした。
 この事件を受けて、NARは、参加者が個々のブローカー(実店舗型かインターネットのみベースか)を排除することはできないが、表示を全面的にオプトアウトする必要がある、単一のインターネット物件表示システムを設定することを提案した。

 このシステムはIDXシステムとなりました。IDX では、一般の人々が MLS のリスティングを閲覧することを許可している。
 ただ、リスティング情報の虚偽表示を防止するため、リスティングの仲介業者情報を掲載するすべての場所にリスティングに掲載することが求められている。

 なお、この独占禁止法訴訟は 2008 年 5 月に和解した。  

 NAR はロビー活動団体として大きな力を持っており、1999 年以来、NAR は 9,938 万 4,108 ドル以上を支出している。
 また、2011 年だけでも 2,235 万 5,463 ドルを支出した。 

 2019年3月には、複数物件掲載サービス(MLS)に住宅を掲載する際に
   すべての会員ブローカー
に対し、買い手側に交渉の余地のない
   包括的な手数料
を要求するというNARの報酬方針に異議を唱え、別の訴訟が起こされた。
  
 2023年10月31日、連邦民事陪審は、NARが住宅購入者の不動産業者に支払う手数料を水増しする共謀を行ったと認定した。
 NARとその共同被告が約18億ドルの損害賠償を負っているとの判決を下した 。

 この訴訟、バーネットら対全国不動産業者協会らは、カンザスシティのミズーリ州西部地区連邦地方裁判所で審理され、連邦および州の反トラスト法違反の申し立てが含まれていた。
 評決の発表時、最終判決が下される前に、NARとHomeServicesは控訴する意向を表明した。
 2024年3月、NARは損害賠償額を4億1,800万米ドルに減額し 、手数料に関する規則を撤廃した。
 なお、上訴する権利を放棄することで和解することに同意した。

 この和解により、不動産手数料が減額され、一部の代理店が業界から撤退し、NARの会員数の減少につながることが予想される。 
   
    
posted by まねきねこ at 17:47 | 愛知 | Comment(0) | TrackBack(0) | 格言・ことわざ・用語解説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年03月11日

アサクサノリ(浅草海苔 学名: Neopyropia tenera)

アサクサノリ(浅草海苔 学名: Neopyropia tenera)
 紅藻のウシケノリ綱に属するアマノリ類(狭義の海苔)の1種。
 内湾や河口の潮間帯において、ヨシなどの茎、杭、貝殻などに着生している。

 江戸時代以来、主要な食用海苔とされていたが、1970年頃より養殖には用いられなくなった。
 また内湾環境の変化によって野生個体群も減少し、2020年現在日本では絶滅危惧I類に指定されている。

 浅草で採取、製造または販売されていたため、浅草海苔とよばれるようになったとされる。

 東アジアの一部(北海道南部から九州南部、朝鮮半島、中国大陸沿岸の一部)に分布する。
 分布南限は九州南部。
 ただし日本では古くから各地で養殖されており、自然の分布域は不明瞭。
 内湾や河口周辺の干潟で見られ、潮間帯上部のヨシなど抽水植物の茎、杭、貝殻などに着生している
 塩分濃度変化に強いものの沿岸水質の悪化や埋め立て、河口部の環境変化により減少した。
   
    
posted by まねきねこ at 06:50 | 愛知 | Comment(0) | TrackBack(0) | 格言・ことわざ・用語解説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年03月09日

アルトコイン(altcoin オルトコイン)

アルトコイン(altcoin オルトコイン)
 ビットコインの後に登場した暗号資産(仮想通貨)の総称で、ビットコインの「代替のコイン」という意味があるAlternative Coinを略して
   アルトコイン(altcoin)
と呼ぶ。
 ほとんどのアルトコインの基本的な仕組みはビットコインを元に作られている。
 そのため、ビットコインで使われている基盤技術やコードベースを参考にして開発されたコインで、ビットコインの欠点や機能性を改善した特徴的なアルトコインが市場規模を拡大して年々発行数が増えており、アルトコインや、ビットコインにはない特徴を備えたものもあるためビットコイン2.0とも呼ばれる。

 一方で、ビットコインに比べると流動性や時価総額が低く、信頼性や安全性に問題があるものも多い。

 ICO(Initial coin offering)で立ち上がったオルトコインは、イーサリアム上で作られたトークンの形になっているものがかなり存在している
 ライトコインやイーサリアム、モナコイン、リップル、ビットコインキャッシュなど全世界で約1,500以上の種類があるが日本国内で購入できるものはそれほど多くない。
  
長所としてはビットコインの欠点の
   混雑時の送金が遅くなる点を解決
している種類がある。
 また、ビットコインにはない
   独自の仕組み
を持っていて、その仕組みにより
   中間業者
がいなくても自動で契約することができたり、匿名性が高かったりというようなことができる。
 また、通貨としての機能以外の用途を持つ「機能性コイン」もある。
 なお、利益の観点から考えると、ビットコインよりも変動が激しく、大きな利益を得るチャンスがあるものもあるが、逆に大きなリスクもある。

短所としては、知名度がないため流動性や時価総額が低く
   信頼性や安全性に問題
があるものも多い。また、取引手数料がやや高いことを利益を手にすることが難しい。

保管方法としてはウォレットという仮想通貨の財布のようなものを使用する方法がある。
 購入したコインをそのまま取引所や販売所に保管しておくよりも
   セキュリティー面
での堅牢性が高く、安心してアルトコインを管理出来るというメリットがある。
 そのウォレットの種類としては、オフラインで保管でき、無料でいくつでも作れる
   ペーパーウォレット
やインターネット上に保管する
   オンラインウォレット
専用の端末で保管し、PINコードで2重のセキュリティがある
   ハードウェアウォレット
パソコンにインストールして使う、無料で簡単に作れるソフトウェアウォレットなどがあるが、不正アクセスを遮断するセキュリティ管理が適切にでき維持されることが必要だ。
    
     
posted by まねきねこ at 06:59 | 愛知 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 格言・ことわざ・用語解説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年03月04日

タウルス(巡航ステルス)ミサイル KEPD 350 

KEPD 350
 タウルス・システムズ(TAURUS Systems GmbH TSG)が製造したスウェーデン・ドイツの
   空中発射巡航ミサイル
のことでドイツ、スペイン、韓国で使用されている。
 タウルス・システムズ GmbHは、1998年にドイツの
   MBDA Deutschland GmbH
とスウェーデンの
   Saab Dynamics AB
が共同で設立した会社である。

 このミサイルにはステルス性があり、公式の射程は500km(300マイル)を超えておりマッハ1のターボファンエンジンを搭載し、トーネード、ユーロファイター タイフーン、グリペン、F/A-18、F-15Kなどに搭載が可能だ。
 500キログラム (1,100 lb) 弾頭は、Mephisto(Multi-Effect Penetrator HIghly Sophisticated and Target Optimised)という2段構えで、地上の敵兵や火器兵器類の除去や、強化地下バンカーに侵入するための事前装薬と初期貫通装填を持っている。
 その後、主弾頭の爆発を制御するための可変遅延導火線を備えるという特徴がある。
 ミサイルの重さは約1,400キログラム (3,100 lb) で、最大径は1メートル (3.3 ft) である。

 対象となる標的は、強化されたバンカー、司令部、管制部、通信施設、飛行場や港湾施設、AMS[要説明]や弾薬庫、港湾・海上の船舶、橋梁など。
 また、ミサイルには、自衛機構や電子妨害手段としてのカウンター対策も備えている。
 ミッションプランナーは、目標、防空位置、計画された地上経路でミサイルをプログラムした後、ミサイルは、INS、IBN、TRN、GPSによって誘導された低い地形に沿った飛行経路を使用して目標の近くまで飛行する。
 また、GPSの支援無しで非常に長い距離を誘導することができる。

 一旦そこに到達すると、ミサイルはバント(上昇)飛行を開始し、目標の捕捉と貫通に関して
   最高の確率
を達成するための高度まで上昇する。
 巡航飛行中は、高解像度サーモグラフィ(赤外線誘導)がIBNを使用して誘導を支援。
 また、GPSを使用しない目標攻撃にも使用出来る方式てある。

 ミサイルはカメラ画像と計画した3D目標モデル(DSMAC)とのマッチングを試み、それができない場合は、他の誘導システムに設定するか、巻き添え被害のリスクが高い場合は、望ましくない結果を伴う不正確な攻撃のリスクを冒す代わりに、あらかじめ指定された墜落地点に舵を取る事ができる。

 スペイン軍は45基のミサイルを購入した。
 韓国は、米国からロッキード・マーティンのAGM-158 JASSMの提供を拒否された後、F-15Kスラムイーグルに統合するために200発のミサイルの注文を計画。
 2013年11月に韓国の防衛事業庁(DAPA)が契約に署名しタウルス・システムズを導入した。
 KEPD350は韓国の戦闘機に組み込まれた最初の欧州製ミサイルとなる。
 2016年10月、韓国は北朝鮮の核・ミサイル挑発に対応するため、これまで発注していた170基に加え、さらに90基のタウルスミサイルの取得を発表している。
 2016年12月12日、最初の40機のタウルスKEPD 350Kミサイルが韓国空軍に納入さ戦闘用として配備が開始された。

 なお、韓国空軍用のタウルス KEPD 350K派生型は、ロックウェル・コリンズ製GPSレシーバーに、ジャミングを防ぐためのSAASM(選択可能型対スプーフィング攻撃モジュール)を搭載している点が基本モデルとは異なる。

 2015年10月、タウルス・システムズは、350K-2と呼ばれるタウルス・ミサイルの小型版を、軽戦闘機用で使用するために開発していることを明らかにした。
 射程は400km(250マイル)に短縮され、巡航速度はマッハ0.6から0.9と高速になる。
  
 重量 1,400 kg (3,100 lb)
 全長 5 m (16 ft 5 in)
 直径 1.015 m (40.0 in)
 最大高度 40–50 m (130–160 ft)
 弾頭 481 kg (1,060 lb)Mephisto (Multi-Effect Penetrator HIghly Sophisticated and Target Optimised)
 エンジン ウィリアムズ WJ38-15 ターボファン
 翼幅 2.065 m (6 ft 9.3 in)  

   
posted by まねきねこ at 08:52 | 愛知 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 格言・ことわざ・用語解説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年03月01日

バンク・ターム・ファンディング・プログラム(BTFP)

 バンク・ターム・ファンディング・プログラム
    (Bank Term Funding Program 銀行定期融資プログラム BTFP )
 米国連邦準備制度が2023年から運営する
   銀行向け融資プログラム
のことで、]連邦準備制度は、適格な資産を担保にしている
   適格な預金金融機関
に最長 1 年間の融資を提供するため、2023 年の米国銀行危機後の銀行業界の安定化への対応としてBTFP を設立した。

 このプログラムは 2023 年 3 月 12 日に導入され、2024年3月に終了する予定。

 2023年3月に米国の銀行の複数の破綻を伴う2023年米国銀行危機に対応し、米国政府は2023年、銀行セクター全体への影響を軽減するための異例の措置を講じた。 
 このプログラムは、シリコンバレー銀行やその他の銀行の破綻を受けて、金融機関に流動性を提供することを目的として設計された。
 また、プログラム開始時に総額 6,000 億ドルを超えていた米国の銀行システムの含み損に関連するリスクを軽減するためにも創設された。

 預金保険基金を通じて資金提供されているこのプログラムは、米国債、政府機関債、住宅ローン担保証券などの特定の種類の証券を担保として差し入れる適格な借り手に最長 1 年間の融資を提供するもの。
 担保は公開市場価格ではなく額面で評価されることになっている。
 このため、銀行は2022年以降の一連の利上げによって損なわれていない資産価値に基づいて借り入れることができる。

 FRB はまた、割引窓口の条件を緩和しまし、財務省では、このプログラムのバックストップとして為替安定基金から最大250億ドルを利用できると発表した。 

 2023年3月下旬の3月12日に実施された後、1週間で537億ドルがこのプログラムから借り入れられ、前週の119億ドルから大幅に増加した。

    
posted by まねきねこ at 03:11 | 愛知 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 格言・ことわざ・用語解説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする