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2024年06月13日

スイス諜報機関(The Swiss intelligence community  Federal Intelligence Service  FIS)

  (The Swiss intelligence community  Federal Intelligence Service  FIS)
 スイス連邦情報局はスイスの利益とインフラを保護する責任を負う機関
 従業員 303人
 国の主要な諜報機関である連邦情報局( FIS )は、情報局法によって統治されている。
 スイスの最初の連邦軍秘密諜報機関は、第二次世界大戦勃発の数年前
   ハンス・ハウザマン
によって1937年から1939年にかけて
   Büro Ha
として設立された。
 その時点まで、情報収集の責任は片手間の仕事として警察に委ねられていた。
 
 スイスの諜報機関についてはあまり知られていない。
 スイス連邦警察の事件記録が最近発見され、スイスの諜報機関が
   中華人民共和国
と取引していたことが示されている。
 およそ 1960 年から 1980 年にかけての時期、スイスの諜報活動の主な目的はスイス国内の
   共産主義の脅威
に対処することであった。
 事件記録で発見された共産主義と戦う方法の 1 つは
   フィッシュ システム
でスイス国内で行われたあらゆる「反愛国的行為」を追跡する
   索引カード システム
のことである。

 このシステムは成功を収め、冷戦中に 90 万枚のカードが作られた。
 中国、韓国、ベトナム系の人々を対象とした約 25,000 枚のカードが作られたと記録されている。
 フィッシュの究極の目的としては、スイスに危害を及ぼす可能性のある共産主義の脅威を阻止することであった。

 2010年1月1日より、スイスには新たな安全保障政策手段である
   分析・予防サービス (DAP)
   戦略情報サービス (SND)
を統合して連邦情報局( FIS ) が創設された。
 相乗効果を活用し、サービス受領者のニーズに常に適応することで、現代の要件を満たすように調整され、将来的には連邦および各州のあらゆるレベルの窓口となる強力な情報サービスが誕生した。
 
 FIS のパートナーおよびサービス受領者は、政治および軍事指導者、連邦政府で
   連邦国防・民間防衛・スポーツ省(DDPS)
   連邦司法警察省 (FDJP)
   連邦外務省 (FDFA)
   連邦経済省(FDEA)。
のほか、連邦が雇用する 84 名の国家安全保障エージェントを含む州も重要なパートナーとなった。
 FIS は海外において、世界中の 100 を超える諜報機関、警察機関、治安機関と連絡を取り合っている。
 これらの二国間および多国間の連絡はすべて連邦評議会によって承認されている。
  
 連邦民間情報法によればFISはテロリズム、違法な情報、暴力的過激主義、核拡散に関連する危険を認識し、それと闘ことや、重要な情報インフラストラクチャに対する攻撃を識別している。
 スイス情報機関として関心のあるテーマと地理的領域は、テロリズムや暴力的過激主義、拡散、重要インフラに対する攻撃、違法な諜報活動などがある。
 また、海外においては、FIS のテーマ領域は引き続き、拡散、テロリズム、軍事力開発、海外における我が国の軍隊の作戦領域、ならびに兵器技術と武器取引がある。
 関心のある地理的領域は、引き続き、ヨーロッパ、ロシアおよび CIS 諸国、近東および北アフリカ、中東、アジア、米国、およびアフリカのホットスポットとなっている。 
 2017年のFISの予算は7,560万スイスフランということが公表されている。

 その他のスイス諜報機関としては軍事情報局がある。
 また、郵便および電気通信監視局は、連邦司法警察省内のサービスであり(2008年1月1日以降)、犯罪捜査当局の盗聴要請を調整する任務を負っている。
 これで問題となった行為には2012年、上級IT技術者が重要な諜報文書を盗んだことがある。
 また、2014年、連邦情報局の捜査官が、スイスのワインメーカー
   ドミニク・ジルー
の代理としてジャーナリストに対するハッキング事件に関与したことがある。
  
   
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2024年06月09日

サットン・フー(Sutton Hoo) アングロサクソン時代の船葬墓

サットン・フー(Sutton Hoo)
 イングランド東部イースト・アングリアのサフォーク州ウッドブリッジ近くで発見された7世紀の
   アングロサクソン時代の船葬墓
のこと。
 1939年に発掘され、豊かな副葬品が出土したことで知られる。
 中世初期のイングランドを知るうえで極めて重要な考古学的資料で、最も著名なイギリスの考古遺跡のひとつ。
 サットン・フーはデベン川左岸の絶壁上にあり、海から7マイル(約11km)離れている。
 一帯は中世
   イースト・アングリア王国
の墓地となっており、多数の古墳が散在し、のうち1号墓地と呼ばれる地域から出土した船葬墓が、特にサットン・フーと呼ばれている。
 この土地の所有者だった
   エディス・プリティ
が敷地の塚群に興味を持ち、アマチュア発掘家
   バジル・ブラウン
によって発掘が行われた。
 発掘調査で出土した多数の副葬品は現在、ロンドンの大英博物館に展示され、豪華な金銀の装飾品や武具、武器などがある。
 また西暦625年の銘をもつ金貨が出土していることから年代も絞られ、624年に死去した
   イースト・アングリア王レドワルド(Rædwald)
の墓ではないかと推定されている。
 なお、この墓域は1998年からナショナル・トラストが管理している。

    
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2024年05月04日

バーミンガム暴動 (「プリーストリー暴動」とも呼ばれる)

1791年のバーミンガム暴動 (「プリーストリー暴動」とも呼ばれる)
 1791年の7月14日から17日にかけてバーミンガムで起こった暴動のこと。
 暴徒らの主な標的はプロテスタントに属さない
   非国教徒 (Dissenters)
で、とりわけ神学的・政治的にもその中心的存在である
   ジョゼフ・プリーストリー
であった。
 公共図書の購入をめぐる論争から、非国教徒による
   市民権獲得運動
   フランス革命支持
に対する反発などから、地方レベルおよび国家レベルでの時事問題が暴動の引き金になった。
  
 この暴動では
   フランス革命の共鳴者
らによる晩餐会が行われていたバーミンガムの
   ロイヤル・ホテル (Royal Hotel)
への襲撃から始まった。

 暴徒らはその後、プリーストリーの教会と自宅を皮切りに、4つの非国教徒の教会、27の家屋、複数の店舗を次々と襲撃した。
 暴徒の多くはアルコールで泥酔していたものの、それは略奪したものであったり、暴動をやめるよう買収される際に渡されたものであった。
 しかし、少数の中心メンバーは買収されることなく、冷静さを保っていたという。

 暴徒らは非国教徒の家や教会だけでなく
   ルナー・ソサエティ
のメンバーらなど、非国教徒と付き合いのあった人々の家も襲撃していった。
 なお、当時の首相ウィリアム・ピット はこの暴動に直接関与したわけではなかったが、政府は非国教徒らからの
   救済の訴え
には反応が鈍かったという。
 また、バーミンガムの一部の役人が暴動の計画に加担していたとされ、彼らは後に首謀者らを裁く際にも消極的な姿勢を見せていた。

 実業家のジェームズ・ワットは、この暴動はバーミンガムを「二分してしまい、お互いに心底憎み合うことになった」と後に述べている。
 被害を受けた人々はバーミンガムを去り、18世紀の間産業革命の中心地の一つとして栄えたこの都市は、以前よりも保守化した。
 
 もともと、18世紀の間のバーミンガムは、様々な要因で暴動がたびたび起こる都市であった。
 1714年と1715年にも国教会の権益を守るために政府を批判したかどで逮捕された
   ヘンリー・サシェヴェラル (Henry Sacheverell)
の裁判の際、王党派の群集が暴徒化し非国教徒を襲撃している。
 1751年と1759年にはクエーカー教徒とメソジストが襲撃された。

 1780年の反カトリックの
   ゴードン暴動 (Gordon Riots)
では大量の群集がバーミンガムに押し寄せている。
 また、1766年、1782年、1795年、1800年には食料高騰への抗議運動も起こっている。

 1780年代までは宗教的対立はバーミンガムのエリート層の分断を生むことはなく非国教徒とイギリス国教会信徒は折り合いをつけてうまく生活していた。
 彼らは同じ民生推進委員会 (promotional committee) に参加し、ルナー・ソサエティを足場に科学的関心を共有するなど、地域の政治や経済の維持発展に関して協力的関係にあった。

 ただ、プリーストリーを襲った暴動の後、文房具業者でバーミンガムの歴史家であるウィリアム・ハットン (William Hutton) はNarrative of the Riots in Birmingham (1816) において、5つの出来事が宗教的対立の火をつけたとしている。
 出来事として、地元図書館にプリーストリーの著作を所蔵するかどうかの議論、非国教徒らによる審査法 (Test and Corporation Acts) 撤回の運動、プリーストリーを中心とした神学論争、扇動的なビラ、そしてフランス革命勃発を祝う晩餐会などを例示した。

 審査法では非国教徒がオックスフォード大学やケンブリッジ大学に入学したり公職に就くことを認めないなど、彼らの市民権を制限するものであった。
 バーミンガムの非国教徒がこの審査法の撤回を求めて運動を起こした。
 とりわけ1787年あたりからこうした運動のためだけに結成された非国教徒団体が登場し、地域のエリート層が先導していた表面上の連帯が崩れ出した。
 プリーストリーのようなユニテリアンは撤回運動の第一線に立ったため、イギリス国教会の信徒らは神経を尖らせるようになった。
 ただし、こうした運動は1787年、1789年、1790年に起こったものについては失敗している。

 暴動の1か月前、プリーストリーは普通選挙と短期議会の開催を実現させるための改革運動団体 Warwickshire Constitutional Societyにジェームズ・ワットやマシュー・ボールトンらルナー・ソサエティのメンバーを入れようとしたが、この試み自体は失敗した。
 そのため、こうした動きはバーミンガム内の緊張を高めていった。

 こうした対立には政治的・宗教的背景に加え、経済的要因も関係し、下層階級の労働者と上流階級の国教会エリート層はともに
   中産階級の非国教徒実業家
たちの経済的成功とそれに伴う権力の増大を妬むようになっていた。
 実業家たちは有力者の庇護下で功利的な産業・商業活動に勤しんでいた。

 プリーストリーも匿名で出版したAn Account of a Society for Encouraging the Industrious Poor, with A Table for Their Use (1787) において、犯罪や不道徳の温床になる貧困層を保険制度によって救済する必要性を説きながら、同時に最少の費用でいかに彼らから最大の労働力を引き出すことができるかを論じていた。

 その論考で借金回収の重要性が強調されていたことは、明らかに労働者を敵に回すものとなった。

 イギリス国内のフランス革命をめぐる論争 (Revolution Controversy) は1789年から1795年まで続いていた。
 当初は、英仏どちらの論陣も、フランスは100年前のイギリスでの
   名誉革命
と同じ道を辿る (すなわち絶対王政がより民主的な統治形態に変わる) だろうと考えていた。
 そのため、1789年のバスティーユ襲撃は多くのイギリス国民に好意的に受け止められていた。

 また、イギリスでも選挙権が拡張されたり、議会の憲法上の区分の再配置によっていわゆる腐敗選挙区がなくなるなど、さらなる政治体制の変革が起こるだろうというのが、フランス革命支持者らの展望であった。

 しかし 恐怖政治やナポレオン戦争開始の後には、フランス革命の大義を支持したり、改革がイギリスにも及ぶことを信じている人はごくわずかとなり、急進派と疑われる人々は役人や世間からの疑いの標的となった。

 バーミンガム暴動の引き金となった諸々の出来事は、フランス王家の逃亡と逮捕 (ヴァレンヌ事件) から1ヶ月も経たないうちに起こった。
 その時点ではフランス革命に対する当初の見通しがすでに暗くなってしまっていた。

 1791年7月11日、バーミンガムの新聞において、バスティーユ襲撃の2周年目にあたる7月14日に、ロイヤル・ホテル (Royal Hotel) で革命勃発の祝賀会が開かれることが告知された。
 この告知では「自由の友であればだれでも」参加できるとされた。
 同日、ジェームズ・ホブソン (James Hobson) という人物 が書いた
   「過激な革命派の (ultra-revolutionary) 」ビラ
が出回ったため、バーミンガムの役人がビラの出版とその筆者についての情報提供を100ギニーで呼びかけたが、効果はなかった。

 非国教徒らは自分たちの立場を守るために無実を主張し、そのビラが煽る急進的な考えを非難する必要に迫られた。
 7月12日には晩餐会で問題が起こる下地ができてしまった。

 7月14日の朝、「長老派に破滅を」「国教会と国王よ永遠に」といった落書きが町中に見られた。
 この時点でプリーストリーの友人らはプリーストリーの身を案じ、晩餐会に参加しないよう彼を説得した。

 14日はおよそ90名のフランス革命支持者らが集まった。
 晩餐会は国教徒の実業家でルナー・ソサエティのメンバー
   ジェームズ・キア
が取り仕切った。
 午後2時から3時頃にゲストがホテルに到着すると、60-70人からの抗議で迎えられた。
 参加者が食事を終える午後7時から8時頃には何百人もの群衆が集まった。

 暴徒らは、帰宅しようとする祝賀会ゲストらに石を投げつけ、ホテルを占拠・略奪した。
 群集は次にクエーカー教徒の会館に移動したが、誰かがクエーカー教徒は「どんな論争にもどちらの側にも首を突っ込まない」と叫び、代わりにプリーストリーが牧師を務めているニュー・ミーティング・チャペルに向かうよう促した。
 効果なく、その教会が燃やされて全壊した後、別の非国教徒の教会であるオールド・ミーティング・チャペルが襲撃された。

 暴徒はそれからバーミンガム南東のスパーブルック (Sparkbrook) のプリーストリーの自宅Fairhillに向かった。
 プリーストリーはかろうじて難を逃れ、暴動の間は妻とともに非国教徒の友人らのもとに身を隠した。
  
 この騒動の裏にバーミンガムの国教徒エリート層による連携が推測され、おそらく地元の牧師ベンジャミン・スペンサー (Benjamin Spencer) 、治安判事で地主のジョゼフ・カールズ (Joseph Carles) 、弁護士で検視官であったジョン・ブルック (John Brooke) が中心的役割を果たしていたと見られる。
 カールズとスペンサーは暴動が勃発した際にそこに居合わせていたにもかかわらず、暴徒を止めようとしなかった。
 また、ブルックは暴徒らをニュー・ミーティング・チャペルへと誘導したとされる。

 証言者は口をそろえて「治安判事らは暴徒に対して、人や財産に手をかけず集会所のみ襲撃する限りにおいて身の安全を保障する約束をしていた」と述べている。
 判事はまた、暴徒の誰も逮捕しようとせず、逮捕された者も釈放した。
 こうした役人らは、政府から扇動者を裁判にかけるよう指示されていたものの、すぐに対応することはなかった。
 ようやく首謀者の裁判をせざるをえない状況になると、彼らは証言者を脅して、裁判手続きを軽視した[。
 そのため、告発された50人の暴徒のうち、17人だけが裁判にかけられ、4人が有罪判決を受けた。
 そのうちの1人は放免され、2人は絞首刑となり、1人はオーストラリアのボタニー湾に流刑された。

    
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2024年04月30日

ブラック・スワン・ファンド(A Black Swan fund) 

ブラック・スワン・ファンド(A Black Swan fund)はブラック・スワン理論に基づいた投資ファンドであり
   市場の急激な下落
から大きな利益を得ようとする投資活動のこと。

 彼らは2007 年から 2008 年の金融危機後にさらに知られるようになった。
「ブラック・スワン」基金の一例は
   マーク・スピッツナーゲル(Mark Spitznagel)
によって設立され、ニコラス・タレブ(Nicholas Taleb)によって助言されたユニバーサのこと。
 2007年から2008年の金融危機の間、このファンドは 100%を超える収益を記録した。
 2015年8月、Universa Investments は1 週間で 10億ドル以上の利益を上げ、年初来利益の 20% に相当する。

      
   
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2024年04月25日

第二次ボーア戦争(Second Boer War)

第二次ボーア戦争(Second Boer War)
 イギリス軍 :347,000人
 植民地軍 103,000 – 153,000人
 アフリカの補助部隊: 100,000人
     合計: 550,000 – 600,000人

   死傷者と損失
    死者26,092人
    病気または負傷して帰国した人75,430人
    負傷者22,828人 
    行方不明者934人
     合計 ~125,284人
 
・ボーア特殊部隊
  トランスバールボーア人 25,000人
  自由国ボーア人 15,000人
  ケープボーア人 6,000〜7,000
  アフリカの補助部隊 10,000人
  外国人ボランティア 5,400+人
     合計: 60,000 – 61,000+人

   死者 6,189人
   捕虜 24,000人(海外に送られた)79人 
     合計 30,189人
 
 民間人の死傷者:
   死者 46,370人
   ボーア人の女性と子供26,370人が強制収容所で死亡
     115,000人中20,000人以上。
 
 第二次ボーア戦争(Tweede Vryheidsoorlog 1899年10月11日 – 1902年5月31日) は、ボーア戦争、アングロ・ボーア戦争、または南アフリカ戦争としても知られ、南部アフリカにおける帝国の影響力をめぐる大英帝国とボーアの2 つの共和国(南アフリカ共和国とオレンジ自由国)との間で行われた戦争 。 

 ウィットウォータースランドで発見されたゴールドラッシュにより、南アフリカ共和国への「外国人」の大量流入が起こった。
 そのほとんどがケープ植民地から勝手に移動したイギリス人であった。
 
 彼らは投票することを許可されておらず、「歓迎されない訪問者」とみなされていた。
 このため、権限を求めてケープの英国当局に抗議したが 1899年6月の
   ブルームフォンテーン会議
で交渉は失敗に終わった。
 この紛争は10月にボーア人の非正規兵と民兵がイギリス植民地から勝手気ままに入り込んで作り上げた入植地を攻撃したことで勃発した。
 なお、ボーア人とはオランダ東インド会社の喜望峰への最初の入植者の子孫のこと。
 
 ボーア人はレディスミス、キンバリー、マフェキングを包囲し、コレンソ、マージャースフォンテン、ストームバーグで勝利を収めた。
 英国陸軍兵士を増加して南部アフリカに投入したが、ボーア人に対する攻撃を開始したもののの反撃に遭遇し失敗に終わった。

 イギリスは司令官レッドヴァース・ブラー将軍の代わりに
   ロバーツ卿
   キッチナー卿
の両名が軍司令官に就任した。
 1900年初めに18万人規模の遠征軍を率いて包囲された都市を救援したのち
   ボーア共和国
に軍事侵攻したことで戦況が変わった。
 ボーア人はそのような大軍に抵抗できないことを認識していた。
 このため、激しい戦闘を控え、イギリス軍が両共和国とその首都であるプレトリアとブルームフォンテーンを占領することを許可した。 
 
 南アフリカ共和国の
   ポール・クルーガー大統領
を含むボーア人の政治家は逃亡するか身を隠した。
 大英帝国は 1900 年にこの 2 つの共和国(ボーア共和国と南アフリカ共和国)を正式に併合した。
 
 英国では、ソールズベリー卿が率いる保守省が、当時の観察者によって「カーキ選挙」と呼ばれる早期総選挙を実施することで、英国の軍事的成功を利用しようとした。
 
 ボーア戦闘員は丘陵に進出して
   ゲリラ作戦
を開始し、ビターレインダーとして知られるようになった。
 
 ルイ・ボタ、ヤン・スマッツ、クリスティアン・デ・ウェット、クース・デ・ラ・レイなどの将軍に率いられたボーア人ゲリラは、2年間にわたりイギリス軍に対して
   ひき逃げ攻撃
   待ち伏せ攻撃
を繰り返した。

 ゲリラ戦術に不慣れであったことと民間人のゲリラへの広範な支援から、イギリス軍がゲリラ作戦を破るのは困難であることが判明した。
 
 ゲリラの敗北に失敗したことを受けて、イギリス軍最高司令部は大規模かつ多方面にわたる反乱鎮圧作戦の一環として
   焦土政策
を命じた。
 網、ブロックハウス、要塞、有刺鉄線のネットワークが構築され、占領された共和国を実質的に分割した。
 10万人以上のボーア人民間人(大部分が女性と子供)が強制収容所に強制移送され、そこで2万6千人が主に飢えと病気で死亡した。
 
 また、アフリカ黒人はボーア人への物資供給を防ぐために強制収容所に収容され、同じく2万人が死亡した。 
 
 ゲリラ追跡のために
   英国騎馬歩兵
が配備され、小規模な小競り合いが発生した。
 なお、どちらの側にも戦死した戦闘員はほとんどおらず、死傷者のほとんどは病気で死亡した。
 
 キッチナーは紛争を終わらせるためにボーア人の残りの指導者たちに寛大な降伏条件を提示した。
 
 同胞のボーア人を強制収容所から確実に解放したいと考えていたボーア人の指揮官の多くはフェーレニギング条約のイギリスの条件を受け入れ、1902年5月に降伏した。 
 かつての共和国はトランスバール川とオレンジ川のイギリス植民地となった。
 
 1910年にナタール植民地とケープ植民地と合併して、大英帝国内の自治領である南アフリカ連合を形成した。

 イギリスの遠征活動は、ケープ植民地、ナタール、ローデシアの植民地軍と世界中、特に大英帝国の構成メンバーであるオーストラリア、カナダ、インド、ニュージーランドからの多くの志願兵に受けた。
 
 黒人アフリカ人の新兵はイギリスの戦争で貢献した。
 
 ただ、国際世論はボーア人に同情的で、イギリス人には敵対的であった。
 また、英国国内でも戦争に対する大きな反対が存在した結果、ボーア人の大義には、ドイツ帝国、米国、ロシア、さらにはオーストラリアやアイルランドなどの大英帝国の一部を含む中立国から数千人の志願兵が集まった。
 この戦争が驚くほど長かく、義勇兵の混成軍隊との戦闘でイギリス軍が被った死者数5対1という予期せぬ不釣り合いな損失が生じた。
 ボーア人の民間人や捕虜の殺害を含む、戦争中に犯された英国の戦争犯罪に対する裁判は1901年1月に開廷された。

 この戦争には 3 つの段階があった。
 第一段階では、ボーア人はナタールとケープ植民地のイギリス占領地に先制攻撃を仕掛け、レディスミス、マフェキング、キンバリーのイギリス守備隊を包囲したの後、ボーア人はストームベルグ、マジャースフォンテン、コレンソ、スピオンコップで一連の戦術的勝利を収めた。

 第 2 段階では、ロバーツ卿の指揮のもとイギリス軍の数が大幅に増加した。
 その後、イギリス軍は 1900 年に包囲を解くために再度攻撃を開始し、今度はイギリスが成功を収め、ナタールとケープ植民地の安全が確保された後、イギリス軍はトランスバールへの侵攻に成功し、共和国の首都であるプレトリアがは最終的に 1900 年 6 月に占領された。

 1900 年 3 月に始まりさらに 2 年間続いた第 3 段階および最終段階では、ボーア人はイギリス軍の部隊、電信所、鉄道、倉庫を攻撃して激しいゲリラ戦争を実施した。
 これに対し、ボーア人ゲリラへの物資供給を遮断するため、キッチナー卿の指導下にあったイギリス軍は焦土政策を採用した。
 イギリス軍は広大な地域を戦域としてボーア人の農場を破壊し、民間人を強制収容所に押し込めた。

 英国の報道機関や英国政府の一部はこの作戦が数カ月以内に終わると予想した。
 特に強制収容所の状況(26,000人ものアフリカーナ人の女性と子供が栄養失調による病気や飢餓で死亡した)の実態が暴露されてからは、長引く戦争は徐々にイギリス国民の間で人気がなくなってた。
 ボーア軍は最終的に1902年5月31日土曜日に降伏し、トランスバール州とオレンジ自由国の代表60名のうち54名が和平条約の条件を受け入れることに投票した。 
  これはフェレーニギング条約として知られ、その条項に基づいて、2 つの共和国は将来の自治を約束して大英帝国に吸収された。
 なお、この約束は、1910 年の南アフリカ連合の創設まで自治権はないまま抑圧され続けた。

 この戦争は、この地域とイギリスの国内政治に長期的な影響を及ぼした。
 英国にとって、第二次ボーア戦争は最も長く、最も高額な費用が費やされた戦争であり(2億1,100万ポンド、2022年の価格で199億ポンド)、1815年から1914年にかけての最も血なまぐさい紛争であった。
 クリミア戦争(1853 〜 1856 年)よりも戦闘による死傷者数が多い。 (クリミア戦争では病気による被害がさらに大きくなり、英国人17,580人が命を落としたが第二次ボーア戦争では26000人が亡くなった。)

   
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2024年04月05日

ブレークイーブンインフレ率 (Break Even Inflation rate BEI)

ブレークイーブンインフレ率 (Break Even Inflation rate BEI)とは市場が予想する期待インフレ率のこと。
 一般的に10年利付債の流通利回りから10年物価連動債の
   流通利回り
を差し引いた値を指す。
 ブレークイーブンインフレ率がプラスで推移しているときは、市場は物価が上昇すると予測しており、マイナスで推移しているときは物価が低下すると予測していることを示す。
 
    
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ゴルディロックスの原理(Goldilocks principle)

 『三匹の熊』(ゴルディロックスと3匹のくま(Goldilocks and the Three Bears))の童話の喩えを借りて名付けられた
経済理論のこと。
 この物語の中に
   ゴルディロックス
という名前の少女が登場し、三種のお粥を味見したところ、熱すぎるのも冷たすぎるのも嫌で、ちょうどよい温度のものを選ぶ[1]。この童話が世界中でよく知られていることから、この名前を使うことで
   「ちょうどよい程度」
という概念の理解が容易になり、発達心理学や生物学、 経済学、工学など、他の幅広い領域にも適用されるようになった。

 経済学においてはゴルディロックスの原理とは経済の緩やかな持続的成長と低インフレ率を言う。
 この場合、市場親和的な金融政策が可能になるり、ゴルディロックス市場では、
   消費財の価格
がベア市場 とブル市場の価格の間にあるときに可能になる。
 ゴルディロックス価格とはマーケティング戦略の1つで、これ自体はゴルディロックスの原理と直接の関係がない。
 ただ、他の競合商品を追いやるために、3種類用意して製品の差別化を図ることで最大の利益を得ることを目的として、ハイエンド版とミッドレンジ版、ローエンド版を同時に用意するが、量や数で無駄がないようにすることも重要である。

 日本では「松竹梅の法則」として知られている業界用語も同じ主旨。 

   
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2024年04月01日

ルイス軽機関銃( Lewis Gun)

ルイス軽機関銃( Lewis Gun)
 主に第一次世界大戦期にイギリスで生産された軽機関銃のこと。
 連合国側で広く使用されたほか、第二次世界大戦でも一部で使用された。
 標準弾薬は.303ブリティッシュ弾(7.7mm)だが、他の弾薬を使用するバリエーションもある。
 
 軽機関銃の原型は1911年にアメリカ人
   サミュエル・マクリーンに
より設計され、米陸軍の退役大佐
   アイザック・ニュートン・ルイス
の手により改良され完成した。
 ただ、当時の米国内でこの銃のパテントを購入し生産しようというメーカーは無く、陸軍にも採用されなかった。
 その後ルイスにより海外への売り込みが図られ、1913年にベルギー陸軍が採用した。
 翌年にはイギリス陸軍にも採用され、イギリスの
   バーミンガム・スモール・アームズ(BSA)
によりLewis Gun Mk.1の名で量産された。

 リブ付きの47発または厚みのある97発型のパンマガジン(皿形弾倉)は上・側面のみカバーされ、下から見ると先端を弾倉中心に向けて装填された銃弾が螺旋状に入っているのが露出して見える。
 97発マガジンは四層で47発は二層になる。
 弾丸を発射してボルトが後退するたびに、弾倉全体が時計回りに回転する(銃側に回転止めがあり、弾倉のリブに噛み合う形で給弾を保持する)。
 排莢口は弾倉下の機関部右側面にあり、空薬莢は下右へ排莢される。
 標準タイプには二脚架が用意されており、伏射による安定した射撃をサポートした。

 対空用及び艦艇搭載用に、単脚架や三脚架も存在している。
 空冷式であり、外見上の特徴になっている水冷機銃の冷却水タンクのように見えるものは放熱用のアルミ製冷却筒である。銃身と冷却筒の間には放熱用のリブが挿入されていた。

 ただ、複雑な送弾機構や、弾丸が露出して埃に弱い弾倉の影響から故障が多く、
後発の軽機関銃に比較すると信頼性は低い。
 当時としては軽量な機関銃であることも評価され、第一次世界大戦中にはイギリス陸軍で使用された。
 このほか、フランス陸軍やアメリカ陸軍でも採用され、アメリカでは弾薬を30-06スプリングフィールドとした仕様が生産された。ロシア帝国軍も6,000挺近くを購入したことが記録されている。

 地上用の軽機関銃としてだけでなく、航空機搭載用としても用いられて史上初の航空機銃となった。
  
 第一世界大戦時の日本は連合国側であったので、英仏からの軍用機輸入に伴って連合国側の
   標準的航空機銃
であったルイス機銃もヴィッカース機銃と同時に導入された。
 陸、海軍航空隊とも大正時代から運用を開始した。
 なお、日本陸軍では1915年に、ルイス軽機関銃と外見のよく似た試製軽量機関銃甲号を開発している。
 これは口径6.5mmで、三年式機関銃をもとに小型化した機関部に
   ルイス式の放熱筒と皿型弾倉
を付けたもので、二脚ではなく小型の三脚を用いていた。
  
   
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2024年03月23日

ロスチャイルド家(Rothschild ロスチャイルド ロートシルト ロチルド) 

ロスチャイルド家(一族)
 フランクフルト出身のユダヤ人富豪で、神聖ローマ帝国フランクフルト自由都市
   ヘッセン=カッセル方伯領
の宮廷ユダヤ人商人・銀行家
が1760年代に銀行業を確立したことで隆盛を極めた。
 それまでの宮廷関係者では宮廷で用いられている間は資産を所有できたが、亡くなるとすべての資産が君主等により没収された。
 (トルコ・ドラマ「新・オスマン帝国外伝 〜影の女帝キョセム」などでも一部描かれているが、オスマン・トルコ帝国のイエニチェリや宦官、女奴隷なども同じ)
 こうした慣習とは異なり、ロスチャイルドは子孫等に富を遺すことに成功した。

 ロンドン、パリ、フランクフルト、ウィーン、ナポリに事業を設立した5人の息子(家)を通じて国際的な銀行家網を確立した。
 一族は神聖ローマ帝国やイギリスの貴族階級にまで昇格した。

 ロスチャイルド家の歴史は16世紀のフランクフルトに始まり、その名は1567年に
   イサク・エルチャナン・バカラック
がフランクフルトに建てた家「ロスチャイルド」に由来しているとされる。
 19世紀のロスチャイルド家は、近代世界史においても世界最大の私有財産を有していた。
 (ロスチャイルド家の資金が地下資源や植民地開発、武器開発等など汎ゆる分野に投資され現在も環境保護等の分野でも行われている。)

 20世紀に入ると、一族の資産は名目上減少し、多くの子孫に分割され拡大し続けている。
 現在、彼らの権益は、金融、不動産、鉱業、エネルギー、農業、ワイン醸造、非営利団体など、多岐にわたることが知られている。

 ロスチャイルド家(ロートシルト家)の紋章は1822年にオーストリア政府(ハプスブルク家)より、男爵の称号とともに授けられたもの。
 盾の中には5本の矢を持った手が描かれ、創始者の5人の息子が築いた5つの家系を象徴している。

 盾の下には、ロスチャイルド家の家訓であるConcordia, Integritas, Industria(調和、誠実、勤勉)という銘が刻まれている。 

 18世紀後半にフランクフルトのゲットー(ユダヤ人隔離居住区)出身の
が銀行家として成功し資金運用や資金貸付を行っていた宮廷ユダヤ人となったことから運が大きく開けた。
 彼の5人の息子がフランクフルト(長男:アムシェル)、ウィーン(二男:ザロモン)、ロンドン(三男:ネイサン)、ナポリ(四男:カール)、パリ(五男:ジェームス)の5か国に分かれて銀行業を拡大させた。

 二男と五男は鉄道事業へ出資をして創設に関わった。
 この他、一家はスペインのMZA鉄道(マドリード・サラゴサ・アリカンテ鉄道)と上部イタリア鉄道(Società per le Ferrovie dell'Alta Italia)も資金を貸し付けた。
 また、近代化しつつあった郵便事業にも関わた。

 オスマン債務管理局をめぐり債権国同士が対立し利益相反となり、ロスチャイルド家の国際協調に限界が出た。
 1901年にフランクフルト家とナポリ家は閉鎖した。
 前者の銀行は同年ドイツの金融機関
   ディスコント・ゲゼルシャフト
に吸収された。
 欧州列強各国の投資が東欧で入組み、そのまま第一次世界大戦が起こった。
 ウィーン家はサン=ジェルマン条約により延命されたもののドーズ案の出るころ財政が危機的となった。
 ウィーン家のクレディト・アンシュタルトは
   アングロ・オーストリアン・バンク
を買収して、内側から外資を誘導して、クレディト・アンシュタルトが世界恐慌で破綻したときに
   独墺関税同盟
を破棄させている。

 1934年、オーストリアではイタリアのムッソリーニの圧力を受け2月内乱が起こった。
 この動きがチェコスロバキアに飛び火したため1938年に事業が立ち行かなくなったウィーン家も閉鎖した。
 ロンドン家とパリ家は現在まで残っている。

 両家は日露戦争のころ日本政府へ間接的に戦時国債を安価で購入し、巨額を貸し付けた歴史をもつ。
 普仏戦争の賠償シンジケートに比べると微々たる金額であった。
 なお、ロンドン家の対日シンジケートは関東大震災後の復興融資を通して日本経済に深く浸透していった。
 また、両家はそれぞれイングランド銀行とフランス銀行に対して一定の影響力をもった。

 ロンドン家はベンジャミン・ディズレーリ内閣のときに
   スエズ運河
を買収するため400万ポンドを年利3.5%満期36年で貸しつけており、国家事業である
   ケーブル・アンド・ワイヤレス
の経営に助言した。

 また、パリ家は総合水道会社(現:ヴィヴェンディ、ヴェオリア・エンバイロメント)を設立したうえ、5000株を引受けて大株主となった。
 大手金融機関に成長する
   ソシエテ・ジェネラル
を設立し、江戸幕府が設置した
   横須賀造船所
とロシア帝国の中国清王朝における権益を代表するために設立されたフランスの銀行
   露清銀行
へ資金を提供した。
 また、観光事業の地中海クラブを所有するなど、1961-62年にフランス国内全民間資産の6.0%を保有するまで資産を増やした。

 金融機関への投資の割合としては、パリバが7.7%、ラザードが5.5%、ユニオン・パリジェンヌが4.1%、商工信用銀行(スエズ運河会社も参照されたい)が3.7%、ヴァンデル家(Groupe Lorrain)が3.5%、フランス商業信用銀行(現:HSBCホールディングス)が2.7%、シュネーデルが2.1%、インドシナ銀行が2.0%、クレディ・デュ・ノル(現:ソシエテ・ジェネラル)が1.8%であった。

 縁戚のウォルムズ銀行ではウニベイル(現:ウニベイル・ロダムコ・ウェストフィールドの前身の一つ)を設立した。

 現在はイギリスの投資銀行
が、M&Aのアドバイスを中心とした投資銀行業務と富裕層の資産運用を受託するプライベート・バンキングを行っている。
 一方、資源会社大手のリオ・ティントやイメリーズという大規模な鉱山・工業事業も支配した。
 鉱産資源は19世紀末ごろから本格的に開発したが、イメリーズは2014年現在グループ・ブリュッセル・ランバートの支配下にある。

 ロンドン家の跡継ぎ
   ナサニエル・フィリップ・ロスチャイルド
は、ジョン・マケインやオレグ・デリパスカを人脈にもっている。
 
 英国病が指摘されるようになってからはロンドン家の活動があまり目立たない。
 また、パリ家はシャルル・ド・ゴールと癒着して戦後復興を遂げている。

 1960年代、投資信託販売会社
   インベスターズ・オーバーシーズ・サービス(IOS)
を創業したバーナード・コーンフェルド(Bernard Cornfeld)が1967年にフランスにミューチュアル・ファンド設立を申請して却下された。
 その後、1969年1月ファンド・オブ・ファンズ(IOS)をパリ家と共同経営する合意に達した。
 5月に当局へ申請、7月にあっさりと認可を得た。

 なお、合意条件は対等で、募集・販売の両面で損益を折半するものとされていた。
 合意内容には、ジュネーヴのスイス・イスラエル貿易銀行(Swiss-Israel Trade Bank)を4500万フランで買収し、IOSフランス支店にする計画もふくまれていた。

 ネイチャートラスト「1001クラブ」にアルフレッド・ハルトマン博士(Dr. Alfred Hartmann)がいるが、元はスイス軍の諜報部でキャリアをスタートさせ、1952年にスイスの大手金融機関UBSに入社し20余年勤めた。
 1978年にHoffmann-La Roche のCEO となった。

 1980年、ロシア系ユダヤ人で米国の石油会社オクシデンタルの創業者
は、スイス代表団を率いてソ連と交渉し輸出を促した。
 ソ連のゴルバチョフが実行したペレストロイカより早く1983年、ハルトマン博士は
   エリー・ロチルド
に指名されて、ロチルド銀行チューリッヒ支店のジェネラル・マネージャーになった。
 この翌年にハルトマン博士はホフマン-ラ・ロシュを辞めて、ロスチャイルドに尽くした。

 1986年、Charles Keating をパートナーとして
   トレンドインベスト
を設立し、その後、国立労働銀行スイス支店長となった。
 支店では国際商業信用銀行とイラク政府所有イラク銀行間の取引に関わった。
 イラクゲート事件が起きたためハルトマンは支店長を1991年で辞めさせられた。

 ハルトマンは退任後、Bruce Rappaport が代表するBank of New York-Inter Maritime Bank of Geneva で副社長となった。
 この銀行は1999年、ロシアでの資金洗浄について捜査線上に名前が浮上したことが報じられている。

 2002年、米国の大手資産管理会社
はロスチャイルド・オーストラリアと戦略的提携関係を結ぶことを表明した。

 2005年、エドモン・ドゥ・ロスチャイルド・ヨーロッパ・プライベートバンクと
   日興コーディアル証券(現SMBC日興証券)が
プライベートバンキングサービスを提携するようになった。
 また、マレーシアの1MDB をめぐる汚職事件に加えパナマ文書とも関連して問題となったBPERE(Banque Privee Edmond de Rothschild Europe)の
   ルクセンブルク支店
について簡単な紹介がなされている。

 2009年、ロスチャイルドはベラルーシ国営の
   BPS銀行
ズベルバンクに買収させた。
 2010年2月、モスクワ・タイムズによると
   アレクサンドル・ルカシェンコ大統領
がロスチャイルドを招いて公企業の資産価値を査定させたと伝えた。
 ロスチャイルドはJPモルガン・チェースから
   エドワール(Edouard Veber)
を確保したうえ、シャドー・バンキング業界で人材を探し回った。

 1MDB問題は急展開を見せた。2016年4月時点でマレーシアの公的資金がスイスとルクセンブルクで運用されていることが分かっていた。
 7月時点で、実業家のKhadem al-Qubaisi がパナマ文書に書かれたオフショア会社を経由してBPERE で口座を開設したことが分かった。
 8月、このBPERE に90人以上の警官とマスコミ陣が雪崩れ込み
   アリアンヌ・ド・ロチルドCEO
が活写される事態となった。
 また、イギリスの大手金融機関バークレイズがIPIC(International Petroleum Investment Company)から救済融資を受けていたことも明らかになっていた。
 在地の新聞社(Luxemburger Wort)は、大公国ルクセンブルクで発覚した
   史上最大の資金洗浄
となるかもしれないとの記事を出した。

 10月には同紙がスイスでの捜査における進捗を報じた。
 BPEREへの立入捜査のあった2016年8月には、ロスチャイルドがCFAフラン圏であるセネガルで
   資金洗浄スキームの構築
に関わったことを示す、2008年5月付の電報が
   ウィキリークス
によって公開されている。

 2016年11月、劉特佐(Jho Low)と1MDBを顧客とするマレーシアの銀行家
   Yak Yew Chee
が18週間の禁固と罰金24,000ドルを言い渡された。

 2017年6月22日ルクセンブルク当局が、1MDBに関係するファンドを扱うとき
   不正防止措置
を怠ったとしてBPEREに899万ユーロの罰金を課した。

 2018年、ロスチャイルドは、ロンドン家・パリ家がオーストリア・ニーダーエスターライヒ州において所有する森林を、地元の包装材メーカーであるプリンツホルン・ホールディングスに売却することで合意した。

 もともと、ロートシルト家は、神聖ローマ帝国帝国自由都市フランクフルトのユダヤ人居住区(ゲットー)で暮らすユダヤ人の家系であった。
 フランクフルト・ユダヤ人は囲い込み政策で1462年以来ゲットーに押し込められてきた。
 また、法律・社会的に様々な制約を受け、職業は制限されていたという。

 ロートシルト家も代々商売していた家柄だが、マイアーの代までは小規模に過ぎず、生活も貧しかった。
 ファミリーネームはもともと「バウアー」もしくは「ハーン」と呼ばれていたと伝わる。
 「ロートシルト(赤い表札)」の付いた家で暮らすようになってからロートシルトと呼ばれ、名乗るようになった。
 そこから引っ越した後もそのファミリーネームで呼ばれ続けた。

 ただ、フランクフルト・ユダヤ人が法的にファミリーネームを得たのはナポレオン・ボナパルトによるフリートラントの戦いでの勝利により獲得したフランス占領下の1807年のことであった。それ以前のものはあくまで通称として用いられていた。

 そもそもが、ロスチャイルド家を勃興させたのは
   マイアー・ロートシルト(1744-1812年)
の成功によるところが大きい。
 彼は1760年代からフランクフルトで
   古銭商
を始め、やがてフランクフルト近くのハーナウの宮殿の主
   ヘッセン=カッセル方伯家嫡男ヴィルヘルム
を顧客として獲得し、1769年にはその宮廷御用商に任じられ大きな縁故を獲得している。
 ヴィルヘルムは閨閥の広さによる資金力を活かして他の王侯ならびに軍人・官吏・各種産業に貸し付けていた。
 また、領内の若者を傭兵として鍛え上げ、植民地戦争の兵員を求めるイギリスに貸し出す
   傭兵業
を営んでおり、その傭兵業の儲けでヨーロッパ随一の資産家になっていた。
 ヴィルヘルムがイギリスへ傭兵を貸し付けた植民地戦争にはアメリカ独立戦争もあった。
 貸し付けた傭兵が死亡したり、負傷したりしたときには、ヴィルヘルムは高額な補償金を手に入れている。

 小規模ながら両替商を兼業するようになっていたマイアーはヴィルヘルムの傭兵業に関わらせてもらい、イギリスで振り出された
   為替手形
の一部を割引(現金化)する仕事を任されるようになった。
 ただ、従前の御用商人には新人として出入りし始めたマイアーの担当額はわずかであった。
 ヴィルヘルムとしては交換比率が下がらないようなるべく多くの業者に自分の外国為替手形を扱わせており、その一人がマイアーだっただけの関係だ。
 そのため、マイアーは基本的にナポレオンがフランス革命の大混乱を収束させる前の1780年代末まで注目されるような人物ではなかった。
 ヴィルヘルムにとっても列位は低く、フランクフルト・ゲットーの中においてもあまり有名人ではなかった。

 1785年にはヴィルヘルムがヘッセン・カッセル方伯位を継承してヴィルヘルム9世となり、フランクフルトから離れたカッセルのヴィルヘルムスヘーエ城に移ってしまった。
 このため、一時マイアーにとっては重大事であるヴィルヘルム9世の関係が疎遠になるという危機が起こった。

 物品商の仕事の方はフランクフルトがイギリスの植民地産品や工業製品を集める一大集散地であったことから順調に推移した。
 1780年代にはマイアーはかなりの成功を収めていた。

 やがてマイアーの息子たちが成長して父の仕事を手伝うようになった。
 長男のアムシェルと二男のザロモンがヴィルヘルムスヘーエ城に頻繁に出入りするようになった。
 彼らはヴィルヘルム9世の宮廷の正規の金融機関
   ベートマン家(アムロ銀行の創業者)
やリュッペル・ウント・ハルニエル(Rüppell und Harnier)などの大銀行を回って営業活動を行いながら気難しいヴィルヘルム9世の間の使者の役割を演じた。
 ヴィルヘルム9世からも気に入られるようになった。

 1789年にはロスチャイルド家もヘッセン・カッセル方伯家の正式な金融機関の一つに指名された。
 これにより対外借款の仕事に携われるようになった。
 また、1795年頃からヴィルヘルム9世の大きな投資事業にも参加できる立場に入った。

 ロスチャイルド家は1790年代に急速に躍進した。
 その頃にはロートシルト家の収入は信用供与と貸付が主となり、商人というより銀行家に転じていた。
 その活動範囲もドイツに留まらず、ヨーロッパ中へと広がった。

 1789年にフランスで発生したフランス革命が広がることを恐れたヨーロッパ諸国の君主たちはフランスに宣戦布告した。
 1792年から1815年までフランス革命戦争・ナポレオン戦争が勃発した。
 ただ、フランス軍は自由主義をスローガンに掲げ進軍し、征服地でユダヤ人解放政策を実施した。
 このため、ドイツ・ユダヤ人にとっては封建主義的束縛から解放されるチャンスとなった。

 ロスチャイルド家にとってもヘッセン・カッセル方伯の寵愛だけに依存した不安定な状態から脱却するチャンスとなった。
 戦争の混乱の中、ドイツでは綿製品が不足して価格が高騰した。

 これに目を付けたマイアーの三男ネイサンは1799年からイギリスの繊維業の中心地マンチェスターに常駐し、産業革命で大量生産されていた綿製品を安く買い付けてドイツに送って莫大な利益を上げた。
 その金を元手にネイサンは1804年からロンドンの金融街シティに移り
   N・M・ロスチャイルド&サンズ
を創設して金融業を開始した。

 1800年代にはヴィルヘルム9世への影響力も飛躍的に増大した。
 1803年にロスチャイルド家は宮中代理人の称号を得ている。
 1806年にナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍はプロイセン侵攻したうえ、ヘッセンにも侵攻してきた。
 ヘッセン選帝侯ヴィルヘルム1世(ヘッセン・カッセル方伯ヴィルヘルム9世。1803年にヘッセン選帝侯に叙された)は国外亡命を余儀なくされた。
 この際に選帝侯の巨額の財産の管理権・事業権がロスチャイルド家に委託された。
 これ以降、ロスチャイルド家はフランス当局の監視を巧みにかわし、大陸中を駆け回って選帝侯の代わりに
   選帝侯の債権の回収
にあたり、回収した金は選帝侯の許しを得て投資事業に転用して莫大な利益を上げた。

 フランス当局やフランス傀儡国家ライン同盟盟主
   カール・テオドール・フォン・ダールベルク大公
やフランクフルトの郵便制度を独占している
   カール・アレクサンダー・フォン・トゥルン・ウント・タクシス侯
などと親密な関係を深めて
   独自の通商路
を確保し、また情報面で優位に立ち、大きな成功に繋げた。

 ナポレオンは1806年に
   大陸封鎖令
を出して支配下の国々に敵国イギリスとの貿易を禁じた。
 これが逆にロスチャイルド家にとっては更なるチャンスとなった。
 この大陸封鎖令により大陸諸国ではコーヒー、砂糖、煙草、綿製品などイギリスやその植民地からの輸入に頼っていた商品の価格が高騰した。
 また逆にイギリスではこれらの商品の価格が市場の喪失により暴落した。

 そこで、ロンドンのネイサンはイギリスでこれらの商品を安く買って大陸へ密輸した。
 それを父や兄弟たちが大陸内で確立している通商ルートを使って大陸各国で売りさばいた。

 これによってロスチャイルド家は莫大な利益を上げられた上、物資不足にあえいでいた現地民からも大変に感謝されたという。
 この独自の密輸ルートはイギリス政府からも頼りにされた。
 イギリス政府は反フランス同盟国に送る軍資金の輸送をネイサンに任せた。

 パリに派遣された末弟ジェームズと連携して
   イギリスの金塊
を公然とフランス経由でイベリア半島で戦うイギリス軍司令官ウェリントン公爵のもとに送り届けた。
 この時期にロスチャイルド家はフランクフルト・ユダヤ人の解放を推進する役割も果たした。

 ナポレオン法典「あらゆる人民の法の前での平等と宗教的信仰の自由な実践」を謳ったこともあり、一般市民法としてフランクフルトに導入する際にフランクフルト大公ダールベルクはフランクフルト・ユダヤ人団体に44万グルデンを要求した。
 そのほとんどをロスチャイルド家が建て替えて実現に漕ぎつけた。

 しかし、ナポレオンは1808年5月に
   ユダヤ人同権化法の例外
として時限立法を作って、ユダヤ民族の人権を商業・職業選択・住居移転に限ること決めた。
 そして1815年にフランクフルトが自由都市の地位を取り戻したため、ユダヤ人の市民権自体を取り消した。
 
 1812年にマイアーは死去し、遺言の中で5つの訓令を残した。
 1つはロートシルト銀行の重役は一族で占めること。
 1つは事業への参加は男子相続人のみにすること。
 1つは一族に過半数の反対がない限り宗家も分家も長男が継ぐこと。
 1つは婚姻はロートシルト一族内で行うこと
 1つは事業内容の秘密厳守
というもので、何よりも一族の団結を望んでいた。

 この父の遺訓に従ってフランクフルトの事業は長男アムシェルが全て継承した。
 他の4兄弟はそれぞれ別の国々で事業を開始することになり、ウィーンには二男ザロモンが1820年に移住した。
 ロンドンではすでに三男ネイサンが移住していた。
 また、ナポリは四男カールが1821年に移住した。パリは五男ジェームズがすでに移住していた。

 五家は相互連絡を迅速に行えるよう情報伝達体制の強化に努め、「独自の駅伝網」を確保した。
 伝書鳩も飼育して緊急時にはこれを活用した。
 また、その手紙は機密保持のため
   ヘブライ語
を織り交ぜて暗号化していた。

 こうした素早い情報収集が可能となる体制作りがロスチャイルド家が他の銀行や商人に対して優位に立つことを可能とした。
 現在有名な話として、ワーテルローの戦いの際にもロンドン家当主ネイサンがいち早く
   ナポレオンの敗戦
を知った。
 しかし、自分たちの情報収集の早さが他の投資家にも知られ、その動向が注目されていることを利用して、逆にイギリス公債を売って
   公債を暴落
させた後、買いに転じてイギリス勝利のニュースがイギリス本国に伝わるとともに巨額の利益を上げることができた。

 ナポレオン敗退後、フランス革命以前の旧体制が復古し、フランスに領地を奪われた君主や貴族たちが領地を回復させた。
 銀行業でも旧勢力が復古し、1815年11月のパリ条約に定められた
   フランスの賠償金の調達
からロスチャイルド家は弾き出されてしまった。
 1818年10月の同盟軍のフランス撤兵と賠償金分配を話し合う
   アーヘン会議
でもロスチャイルド家は弾き出されかけたが、この時にジェームスが
   フランス公債を
大量に買って一気に売り払うという圧力をかけたことで、オーストリア帝国宰相
   クレメンス・フォン・メッテルニヒ
から会議に招かれ、ザーロモンとカルマンが名声を高めたという。

 これ以降メッテルニヒとの関係が強まり、1822年にはロスチャイルド一族全員がハプスブルク家より男爵位を与えられた。
 また五兄弟の団結を象徴する五本の矢を握るデザインの紋章も与えられている。
 以降ロスチャイルド家はその名前に貴族を示す「von(フォン)」や「de(ド)」を入れることになった。

 イギリスでは南海泡沫事件を受けて制定された泡沫法(Bubble Act)が、イギリスの海上保険業を
   ロンドン保険会社(London Assurance)
   ロイヤル・エクスチェンジ保険会社(Royal Exchange Assurance, 現:アクサ)
に独占させていた。

 これらの会社に計数係として入社を試みた、ネイサンの甥
   ベンジャミン・ゴムペルツ(Benjamin Gompertz)
がユダヤ人ゆえに採用されなかった。
 そこでネイサンが対抗して
   アライアンス火災・生命保険会社
を資本金500万ポンドで設立し、アライアンス株は発行前からプレミアムつきで取引された。
 設立趣意書公表の直後、アライアンス理事団は議会に対して泡沫法の廃止を要求した。
 1824年に廃止法案が議会に提出され、採決と裁可を得た。

 しかしロイズが身内の生活を理由に、協会員の一人にアライアンス株を15株買わせて株主総会へ送り込んだ。
 アライアンス理事が会社の業務へ海上保険を加えようと提案したとき、ロイズの総会屋は定款の不変性を理由に反対した。

 この時はアライアンス火災はとりあえず引き下がった。
 その後、ロスチャイルド家は資本金500万ポンドで新たに
   アライアンス海上保険会社
をつくり、ゴムペルツを支配人としたうえ、これはいつのまにかアライアンス火災と合併させた。
 翌1825年の恐慌で
   イングランド銀行の救済
に貢献し、ロスチャイルド家は後に公認の鋳造所を持つほどに同行との関わりを深めた。

 1834年、ロスチャイルド家は大規模にアメリカ公債を引受けた。
 ヨーロッパでは鉄道事業に積極的な投資を展開した。

 1835年、ウィーン家のザロモンは皇帝の認可を得て鉄道会社を創設し、中欧の鉄道網整備に尽くした。
 また、フランクフルト家のアムシェルも中部ドイツ鉄道、バイエルン東鉄道、ライン川鉄道などの整備に尽くした。
 パリ家のジェームズもフランスや独立したばかりのベルギーの鉄道敷設に尽力した。

 しかし、同じユダヤ系財閥のペレール兄弟と競争になった。
 ペレール兄弟の経営する
   クレディ・モビリエ
は、会社型クローズドエンド会計の投資信託であったが、1860年代末にクレディ・モビリエは単なる貯蓄銀行となった。
 その後フランス・ドイツで同じような投資銀行が次々と設立された。

 1841年から1854年まで、パリの庶民に届く水は1日4リットル程度であった。
 パリ家は1853年にオタンゲルなどをともない、総合水道会社
   ジェネラル・デゾー
を設立し5000株を引受けて大株主となった。

 会社は資本金2000万フラン8万株でスタートした。
 1860年9月、パリ市への営業譲渡に合意したが、5つの骨子からなる内容はジェネラル・デゾーに有利であった。
 具体的には総合水道会社が、セーヌ県の市町村と交わした給水契約の全てをパリ市は承継する。あわせ同社が所有する全水利施設をパリ市に譲渡する。また、パリ市が給水管理権を有する。

 総合水道会社が個人契約者に給水するに足るだけの水量をパリ市は確保しなければならない。
 総合水道会社は水の配分と販売、枝管の建設、契約金の徴収、商業的給水泉の管理義務を負い、その収入を毎週パリ市の金庫に振り込まなくてはならない。
 損害賠償として、1860年12月の時点で、総合水道会社の年間利益に相当する116万フランの年賦金を総合水道会社は受け取る。
 管理費として、総合水道会社は年間35万フランを受け取る。
 また、総額360万フランを超えた収入分については、総合水道会社が超過分の1/4を受け取る。
 契約期間は50年間というものであった。
 このあいだ、総合水道会社はセーヌ県の市町村と新たな給水事業契約を交わすことができない。それはパリ市が担う。
 会社は設備の整備と人口の増加などで毎年40万フランの割合で収入を増やした。

 1880年代の大不況期に市議などは会社の事業買戻しを主張した。
 これは損害賠償の金額算定で争い疲れたことや、水道利用契約義務化政策を円滑に進めたいという思惑が働き、総合会社の天引きは続いた。
 なお、買戻された場合の埋め合わせは近郊の水道事業にたくさん用意されていたという。

 ロスチャイルド家はユダヤ人迫害を推進するロシア帝国とは敵対的立場を取っていた。
 1854年のクリミア戦争ではロシアと敵対するイギリス・フランス・トルコ陣営を金銭面から支援した。
 英仏軍の軍事費を調達し、トルコにも巨額の借款を与えた。

 こうしてオスマン債務管理局の債権者たる英仏と債務者トルコ双方が、ロスチャイルド家に財政の詳細を掌握されていった。
 ロシアはクリミア戦争に敗れて、1867年にロシア領アメリカを米国に売却した。
 しかし、オスマン債務管理局が設立された1881年の翌々年に再び財政困窮に陥った。

 このときパリ家当主アルフォンスはロシア政府の公債発行に協力し、その見返りとして
   バクー油田
の中でも最大級のバニト油田をロシア政府より与えられた。
 ここでは、すでにアルフレッド・ノーベルがバクーを開発していた。
 アルフォンスは彼と協力することにしたがノーベル系企業はドイツ銀行から監査役を受け入れながらドイツにも進出していた。
 1897年サンクトペテルブルクのロシア国立銀行が中央銀行となるとき、ロスチャイルド家は代理人の
   アレクサンドル・スティグリッツ
を初代総裁にした。

 1901年にフランクフルト家が閉鎖したため、膠州湾租借地をあえて孤立させ、南下政策を阻止するとともに
   露清銀行
におけるパリバの主導権奪還を支援した。
 1904年の日露戦争でもロスチャイルド家は軍事費をロシアに提供した。
 初代ロスチャイルド男爵
   ナサニエル・ロスチャイルド
は、ユダヤ人銀行家ジェイコブ・シフから「日本の勝利がユダヤ人同胞を迫害するツァーリ体制打倒のきっかけとなる」との誘いを受けた。
 そこで日本政府が戦時国債を発行する便宜を図り、3回目と4回目の起債はロンドンとパリの両家がそろって引き受けに参加した。

 南アフリカや北米西岸でもロスチャイルド家は鉱産資源を開発した。
 1880年には
   セシル・ローズ
に融資して、ダイヤモンド寡占企業の
   デビアス
を設立させた。
 1924年にデビアスはノーベル資本を爆薬部門として吸収した。
 1895年10月にはロンドン・パリの両家が
   アナコンダ銅鉱山会社
の株1/4を750万ドルで買収して、世界銅供給の4割以上を支配した。
 このアナコンダは1977年にARCO(現:BP)に吸収されて、ホームステッド法の延命に成功しアラスカの
   プルドーベイ油田
を開発した。
 この油田は1968年に発見されたが、翌々年に
   ラファージュ
がマックス・エイトケンのカナダセメントを吸収してパイプラインの建材を提供した。

 1914年にはロイヤル・ダッチ・シェル石油に油田を売却したうえ、同社の大株主に転じた。
 自らの油田を売ってでもヨーロッパ石油産業の再編を進めたことで、ロックフェラーの
   スタンダード石油
がヨーロッパ進出を阻止するという狙いがあった。

 英仏露土4か国の資本が融けあうようにしてコーカサスの利権を得ることに成功した。
 アルメニア人の石油商の息子
   グルベンキアン
はバルカン半島の出身でり利権が複雑に入り組んだ列強資本の溶剤として活躍した。
 る欧州経済において、ロックフェラーは下積みを欠いていた。
 ロスチャイルド家は英仏露土各国ばかりか、ロックフェラーが台頭した合衆国に対しても債権者として暗躍していた。

 1917年にロシア革命が起こってツァーリ体制が崩壊し、ボルシェヴィキ政権が外国資産を全て接収した。
 しかし、ロスチャイルド家はこの時にはロシア帝国内の資産を全て売却しておいたおかげでロシア革命による打撃を受けずにすんだ。
 
 戦争と各国での国家主義の高揚により、栄枯盛衰が強まったがロンドン家とパリ家は繁栄していた。
 しかし、フランクフルトの本家は発祥の地であるフランクフルトに固執してしまい新しい金融の中心地ベルリンに移ろうとしなかった。
 このために衰退し、ウィーン家もハプスブルク家と運命をともに没落した。
 また、ナポリ家に至っては、国家主義の高揚で危機的状況に陥っていた。
 1901年にフランクフルトの本家が断絶すると家内の協力関係はいよいよ希薄となった。

 1914年に勃発した第一次世界大戦でロスチャイルド家は敵味方に引き裂かれた。 
 兵役年齢の者はそれぞれの祖国の軍隊に入隊して祖国のために戦った。

 ロンドン家はエヴェリン・アシル・ド・ロスチャイルドをパレスチナ戦線で失った。
 ロスチャイルド家の中で最も栄えていたロンドン家は、第一次世界大戦中の税制変更期に初代ロスチャイルド男爵ナサニエルとその弟二人が相次いで死去する不幸があった。
 その財産には莫大な相続税をかけられて衰退しはじめた。

 そもそも、ロスチャイルド家の銀行は株式形態ではなく個人所有だったため相続税増税の直撃を被った。
 19世紀に手に入れた豪邸を次々と手放すことを余儀なくされたうえ、ロスチャイルド銀行の業務の大きな部分を占める公債発行が戦争の影響から危険な投資になって資産をすり減らした。
 第一次世界大戦後のロスチャイルド家はこれまで投資した事業を守るだけで精一杯という状況にまで陥った。

 19世紀に栄華を誇ったロスチャイルド家も20世紀には衰退の一途をたどった。
 実際の財力より名前の威光ばかりが先行するイメージの存在と化したが「国際ユダヤ資本」を陰謀の元凶とするユダヤ陰謀論に影響されたナチス・ドイツにとってはそのイメージは
   反ユダヤ主義プロパガンダ
の格好の材料となった。
 ドイツ国内のロスチャイルド家に由来する記念碑や名称もナチス政権誕生とともに取り払われた。
 ドイツ国内にあったロスチャイルド家所有の財団法人や慈善施設も経済や銀行業の
   アーリア化
により財産放棄か二束三文で買い取られていった。
 フランクフルト家の最後の当主ヴィルヘルムの娘婿だった
   マクシミリアン・フォン・ゴールドシュミット=ロートシルト
の財産も政府に没収されたが、ナチスの目標であったヴィートコヴィツェ製鉄所は守られた。
 この製鉄所は1843年、ザロモンが北部鉄道などの事業へ供するため、チェコの
   ヴィートコヴィツェ
に独占所有した資源である。
 ネイサン創始のアライアンス保険が1936年に法的な鉱山所有者となった。
 前年から株式の名義をスイスなどに変えてあったため、ヒトラーに察知さず接収は免れた。

    
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2024年03月18日

国際決済銀行(Bank for International Settlements、略称: BIS)

国際決済銀行(Bank for International Settlements、略称: BIS)
 1930年に設立された、中央銀行相互の決済を行う組織のこと。
 中央銀行の中央銀行とも呼ばれ
  ・通貨価値
  ・金融システム
の安定を目的として中央銀行の政策と国際協力を支援している。

 通常業務として各国中銀の
   外貨準備
を運用する機関投資家でもある。
 2017年4月に同行のグローバル金融システム委員会は「レポ市場の機能」という報告書を公表した。
 各中銀の量的金融緩和政策が世界各国の市場から
   手堅い債券を買い占め
た影響が、一般機関投資家のレポ市場が担保の供給を受けられず機能不全に陥っているという見解を示した。

 もともとは、ドイツの第一次世界大戦にかかる
   賠償金支払い
の行き詰まりを打開するためにヤング案(1930年)が提案され、この案では「国際決済銀行に関する条約」と「国際決済銀行定款」が採択され、これらいわゆるハーグ条約により賠償金の支払いを円滑化させるための機関としてBIS が設立された。

 日本は、ウォール街大暴落 (1929年)のさなかでクレジットを設定し、1930年のBIS創設時には株主となっていた。
 世界恐慌をきっかけとするハイパーインフレに襲われたドイツではナチス党が権力を掌握により、賠償金支払いを拒否させたため、BIS は賠償金の取扱機関として活動できなくなり、かわりに中央銀行間の協力を推進するようになった。
  
 第二次世界大戦の拡大によりBIS は金塊をニューヨークへ現送するなどして資産をアメリカへ避難させた。
 その資産を米財務省が「敵性資産」として差し押さえた。
 1940年6月25日ニューヨーク地区連邦準備銀行が発した
   暗号電報
でこの凍結をBIS が知るところとなった。
 米国政府はそもそも、ハーグ条約に調印しておらず、BIS 株の引受も連邦準備制度ではなく
   JPモルガン など
の民間銀行団が行うなど不規則な対応をしていた。
 これはヘンリー・スティムソンが1929年にFRB 職員にBIS メンバーとなることを声明で禁じたことが背景にある。

 戦後、ドイツのライヒスバンクよりBIS に供託された略奪金 3.74トンは、「某中央銀行」が先行してBIS に返還していた額を控除の上、3.366トンがイングランド銀行へ預託される措置が取られた。
 戦勝国として連合国、とりわけアメリカがBIS に被害国へ金塊の返還を強く要求したがBIS は金の大部分はアメリカに現送してあるので、返還に応ずるためには、BIS に対する敵性資産としての凍結を解除してもらわなければならない」と応答した。

 1947年10月に米政府代表の
   アンドリュー・オーヴァビー(Andrew Overby)
が、在米スイス銀行資産の凍結解除を調整しにスイスへやってくるとBIS は機会に捉えた。
 BIS の当時に発行済み株式におき敵性資産にあたる日独のシェアは22.8%であった。
 ここへ預け入れ最低限度預金を加えると33.8%に達した。

 また、ヤング案によるBIS の対独資産は2億9116万スイス金フランであった。
 これは1945年度のBIS 総資産額の64.5%にのぼった。

 1948年2月、ジョン・スナイダーが上院外交委員長に向けて、欧州側の民間資本も
   凍結解除
して復興に振り向けさせるべきと書き送っている。
BIS が復活するとマーシャル・プランがドイツの支払い能力を徐々に立て直した。
 1950年10月と11月イングランド銀行が
   日本保有のBIS 株式の没収
を提案した。
 結果として日本は1951年のサンフランシスコ講和条約によって株式を放棄した。 
 その後、国際金融界への復帰を粘り強く働きかけた関係者の努力の結果、1964年以降、BISで開催される中央銀行の会合への定期的な参加が認められ、1970年には増資により日本銀行が株主として復帰した。
 なお、この年には英国連邦の一員であるカナダも加盟している。

 この増資目的はグローバル金融システム委員会の設置と支払決済事業の開発である。

 1961年11月に金プールを運営しはじめた。BIS は1932年11月以来ロンドンやベルンといったヨーロッパの金市場を管理していた。これをベースとして1961年ヤコブソンの構想どおり、ポンド・スターリングを中心とする決済機構ができた。
 運営の実態は、一時に英国のロ
   金の二重価格制
がしかれた事実に見え、ブレトンウッズ体制とは一定の距離を置いていた。
 ポンド危機では大恐慌のときのように、中央銀行はBIS への預金を引き出して金塊に換え、
   BIS 名義の使途指図金
として別の機関へ預託した。
 1975年7月8日にBIS は定款を改正しており、現行のものとなった。

 BISは、世界各国の中央銀行が出資する法人組織であり、2011年現在58か国の中央銀行が株主となっている。
 最高意思決定機関は株主中央銀行の代表が出席する総会(General Meeting)で、組織規定の改正、決算の承認などの権限を有する。年1回、6月末から7月初に開催されている。また、臨時総会の開催も可能となっている。
 BISの組織としての運営方針の決定などは理事会が行っている。
 この理事会は、2011年現在議長と19名の理事によって構成され、少なくとも年6回開催される。
  
   
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2024年03月12日

全米不動産業者協会(National Association of Realtors  NAR )) 米国最大の業界団体として活動

    (National Association of Realtors  NAR )
 不動産業界で働く人のための米国の業界団体[で会員数は 150 万人を超えている。
 NAR の研究所、協会、評議会を含む米国最大の業界団体として活動し、住宅および商業用不動産産業のあらゆる側面に関与している。
 この組織は、「Realtor」という用語に関する米国の商標を保持している。

 また、NAR は不動産仲介の自主規制機関としても機能、組織の本部はシカゴにある。

 National Association of Realtors は、1908年5月12日にイリノイ州シカゴで
   National Association of Real Estate Exchanges
として設立された。
 1916年、全米不動産取引所協会はその名前を全米不動産委員会協会に変更した。
 なお、現在の名前は 1972 年に採用された。

 NAR の会員は、住宅用および商業用不動産仲介業者、不動産販売員、不動産管理者、鑑定士、カウンセラーなど、不動産 (不動産) 業界のあらゆる側面に従事する者であり
   国家資格
が必要となる。
 メンバーは、約 1,600 ある地元の不動産業者委員会または協会の 1 つまたは複数に所属している。
 彼らは 1913 年に採択された倫理規定と実践基準を遵守することを誓約している。

 National Association of Realtors は、ワシントン DC のロビー団体
   The Real Estate Roundtableの
メンバーでもある。

 NARでは、全国の不動産仲介業者が使用する情報交換サービスである数百もの
   現地複数掲載サービス(MLS)
を管理している。

 1990 年代後半、インターネットの成長に伴い、NAR は
   インターネット データ エクスチェンジ(IDX)
を許可する規制を発展させ、ブローカーがデータの一部を公開することを許可した。
 仲介業者や代理店の Web サイトや仮想オフィス Web サイト(VOW)を介してインターネット上で閲覧できる。
 このため、情報を入手するために潜在的な購入者は登録する必要があった。

 これらのポリシーにより、参加者は、個々の個人ブローカーであっても、地域の大企業であっても、個々のブローカー(インターネット上のみで運営するブローカーであるか地元の競合会社であるかにかかわらず)による MLS データの一部またはすべてへの
   アクセスを制限すること
ができた。
 2005年、このことが司法省にNARに対する反トラスト法訴訟を起こすきっかけとなった。
 データの表示に関するこの種の制限に関するMLS規則は、NARに対して独占禁止法訴訟を起こした。
 この事件を受けて、NARは、参加者が個々のブローカー(実店舗型かインターネットのみベースか)を排除することはできないが、表示を全面的にオプトアウトする必要がある、単一のインターネット物件表示システムを設定することを提案した。

 このシステムはIDXシステムとなりました。IDX では、一般の人々が MLS のリスティングを閲覧することを許可している。
 ただ、リスティング情報の虚偽表示を防止するため、リスティングの仲介業者情報を掲載するすべての場所にリスティングに掲載することが求められている。

 なお、この独占禁止法訴訟は 2008 年 5 月に和解した。  

 NAR はロビー活動団体として大きな力を持っており、1999 年以来、NAR は 9,938 万 4,108 ドル以上を支出している。
 また、2011 年だけでも 2,235 万 5,463 ドルを支出した。 

 2019年3月には、複数物件掲載サービス(MLS)に住宅を掲載する際に
   すべての会員ブローカー
に対し、買い手側に交渉の余地のない
   包括的な手数料
を要求するというNARの報酬方針に異議を唱え、別の訴訟が起こされた。
  
 2023年10月31日、連邦民事陪審は、NARが住宅購入者の不動産業者に支払う手数料を水増しする共謀を行ったと認定した。
 NARとその共同被告が約18億ドルの損害賠償を負っているとの判決を下した 。

 この訴訟、バーネットら対全国不動産業者協会らは、カンザスシティのミズーリ州西部地区連邦地方裁判所で審理され、連邦および州の反トラスト法違反の申し立てが含まれていた。
 評決の発表時、最終判決が下される前に、NARとHomeServicesは控訴する意向を表明した。
 2024年3月、NARは損害賠償額を4億1,800万米ドルに減額し 、手数料に関する規則を撤廃した。
 なお、上訴する権利を放棄することで和解することに同意した。

 この和解により、不動産手数料が減額され、一部の代理店が業界から撤退し、NARの会員数の減少につながることが予想される。 
   
    
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2024年03月11日

アサクサノリ(浅草海苔 学名: Neopyropia tenera)

アサクサノリ(浅草海苔 学名: Neopyropia tenera)
 紅藻のウシケノリ綱に属するアマノリ類(狭義の海苔)の1種。
 内湾や河口の潮間帯において、ヨシなどの茎、杭、貝殻などに着生している。

 江戸時代以来、主要な食用海苔とされていたが、1970年頃より養殖には用いられなくなった。
 また内湾環境の変化によって野生個体群も減少し、2020年現在日本では絶滅危惧I類に指定されている。

 浅草で採取、製造または販売されていたため、浅草海苔とよばれるようになったとされる。

 東アジアの一部(北海道南部から九州南部、朝鮮半島、中国大陸沿岸の一部)に分布する。
 分布南限は九州南部。
 ただし日本では古くから各地で養殖されており、自然の分布域は不明瞭。
 内湾や河口周辺の干潟で見られ、潮間帯上部のヨシなど抽水植物の茎、杭、貝殻などに着生している
 塩分濃度変化に強いものの沿岸水質の悪化や埋め立て、河口部の環境変化により減少した。
   
    
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2024年03月09日

アルトコイン(altcoin オルトコイン)

アルトコイン(altcoin オルトコイン)
 ビットコインの後に登場した暗号資産(仮想通貨)の総称で、ビットコインの「代替のコイン」という意味があるAlternative Coinを略して
   アルトコイン(altcoin)
と呼ぶ。
 ほとんどのアルトコインの基本的な仕組みはビットコインを元に作られている。
 そのため、ビットコインで使われている基盤技術やコードベースを参考にして開発されたコインで、ビットコインの欠点や機能性を改善した特徴的なアルトコインが市場規模を拡大して年々発行数が増えており、アルトコインや、ビットコインにはない特徴を備えたものもあるためビットコイン2.0とも呼ばれる。

 一方で、ビットコインに比べると流動性や時価総額が低く、信頼性や安全性に問題があるものも多い。

 ICO(Initial coin offering)で立ち上がったオルトコインは、イーサリアム上で作られたトークンの形になっているものがかなり存在している
 ライトコインやイーサリアム、モナコイン、リップル、ビットコインキャッシュなど全世界で約1,500以上の種類があるが日本国内で購入できるものはそれほど多くない。
  
長所としてはビットコインの欠点の
   混雑時の送金が遅くなる点を解決
している種類がある。
 また、ビットコインにはない
   独自の仕組み
を持っていて、その仕組みにより
   中間業者
がいなくても自動で契約することができたり、匿名性が高かったりというようなことができる。
 また、通貨としての機能以外の用途を持つ「機能性コイン」もある。
 なお、利益の観点から考えると、ビットコインよりも変動が激しく、大きな利益を得るチャンスがあるものもあるが、逆に大きなリスクもある。

短所としては、知名度がないため流動性や時価総額が低く
   信頼性や安全性に問題
があるものも多い。また、取引手数料がやや高いことを利益を手にすることが難しい。

保管方法としてはウォレットという仮想通貨の財布のようなものを使用する方法がある。
 購入したコインをそのまま取引所や販売所に保管しておくよりも
   セキュリティー面
での堅牢性が高く、安心してアルトコインを管理出来るというメリットがある。
 そのウォレットの種類としては、オフラインで保管でき、無料でいくつでも作れる
   ペーパーウォレット
やインターネット上に保管する
   オンラインウォレット
専用の端末で保管し、PINコードで2重のセキュリティがある
   ハードウェアウォレット
パソコンにインストールして使う、無料で簡単に作れるソフトウェアウォレットなどがあるが、不正アクセスを遮断するセキュリティ管理が適切にでき維持されることが必要だ。
    
     
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2024年03月04日

タウルス(巡航ステルス)ミサイル KEPD 350 

KEPD 350
 タウルス・システムズ(TAURUS Systems GmbH TSG)が製造したスウェーデン・ドイツの
   空中発射巡航ミサイル
のことでドイツ、スペイン、韓国で使用されている。
 タウルス・システムズ GmbHは、1998年にドイツの
   MBDA Deutschland GmbH
とスウェーデンの
   Saab Dynamics AB
が共同で設立した会社である。

 このミサイルにはステルス性があり、公式の射程は500km(300マイル)を超えておりマッハ1のターボファンエンジンを搭載し、トーネード、ユーロファイター タイフーン、グリペン、F/A-18、F-15Kなどに搭載が可能だ。
 500キログラム (1,100 lb) 弾頭は、Mephisto(Multi-Effect Penetrator HIghly Sophisticated and Target Optimised)という2段構えで、地上の敵兵や火器兵器類の除去や、強化地下バンカーに侵入するための事前装薬と初期貫通装填を持っている。
 その後、主弾頭の爆発を制御するための可変遅延導火線を備えるという特徴がある。
 ミサイルの重さは約1,400キログラム (3,100 lb) で、最大径は1メートル (3.3 ft) である。

 対象となる標的は、強化されたバンカー、司令部、管制部、通信施設、飛行場や港湾施設、AMS[要説明]や弾薬庫、港湾・海上の船舶、橋梁など。
 また、ミサイルには、自衛機構や電子妨害手段としてのカウンター対策も備えている。
 ミッションプランナーは、目標、防空位置、計画された地上経路でミサイルをプログラムした後、ミサイルは、INS、IBN、TRN、GPSによって誘導された低い地形に沿った飛行経路を使用して目標の近くまで飛行する。
 また、GPSの支援無しで非常に長い距離を誘導することができる。

 一旦そこに到達すると、ミサイルはバント(上昇)飛行を開始し、目標の捕捉と貫通に関して
   最高の確率
を達成するための高度まで上昇する。
 巡航飛行中は、高解像度サーモグラフィ(赤外線誘導)がIBNを使用して誘導を支援。
 また、GPSを使用しない目標攻撃にも使用出来る方式てある。

 ミサイルはカメラ画像と計画した3D目標モデル(DSMAC)とのマッチングを試み、それができない場合は、他の誘導システムに設定するか、巻き添え被害のリスクが高い場合は、望ましくない結果を伴う不正確な攻撃のリスクを冒す代わりに、あらかじめ指定された墜落地点に舵を取る事ができる。

 スペイン軍は45基のミサイルを購入した。
 韓国は、米国からロッキード・マーティンのAGM-158 JASSMの提供を拒否された後、F-15Kスラムイーグルに統合するために200発のミサイルの注文を計画。
 2013年11月に韓国の防衛事業庁(DAPA)が契約に署名しタウルス・システムズを導入した。
 KEPD350は韓国の戦闘機に組み込まれた最初の欧州製ミサイルとなる。
 2016年10月、韓国は北朝鮮の核・ミサイル挑発に対応するため、これまで発注していた170基に加え、さらに90基のタウルスミサイルの取得を発表している。
 2016年12月12日、最初の40機のタウルスKEPD 350Kミサイルが韓国空軍に納入さ戦闘用として配備が開始された。

 なお、韓国空軍用のタウルス KEPD 350K派生型は、ロックウェル・コリンズ製GPSレシーバーに、ジャミングを防ぐためのSAASM(選択可能型対スプーフィング攻撃モジュール)を搭載している点が基本モデルとは異なる。

 2015年10月、タウルス・システムズは、350K-2と呼ばれるタウルス・ミサイルの小型版を、軽戦闘機用で使用するために開発していることを明らかにした。
 射程は400km(250マイル)に短縮され、巡航速度はマッハ0.6から0.9と高速になる。
  
 重量 1,400 kg (3,100 lb)
 全長 5 m (16 ft 5 in)
 直径 1.015 m (40.0 in)
 最大高度 40–50 m (130–160 ft)
 弾頭 481 kg (1,060 lb)Mephisto (Multi-Effect Penetrator HIghly Sophisticated and Target Optimised)
 エンジン ウィリアムズ WJ38-15 ターボファン
 翼幅 2.065 m (6 ft 9.3 in)  

   
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2024年03月01日

バンク・ターム・ファンディング・プログラム(BTFP)

 バンク・ターム・ファンディング・プログラム
    (Bank Term Funding Program 銀行定期融資プログラム BTFP )
 米国連邦準備制度が2023年から運営する
   銀行向け融資プログラム
のことで、]連邦準備制度は、適格な資産を担保にしている
   適格な預金金融機関
に最長 1 年間の融資を提供するため、2023 年の米国銀行危機後の銀行業界の安定化への対応としてBTFP を設立した。

 このプログラムは 2023 年 3 月 12 日に導入され、2024年3月に終了する予定。

 2023年3月に米国の銀行の複数の破綻を伴う2023年米国銀行危機に対応し、米国政府は2023年、銀行セクター全体への影響を軽減するための異例の措置を講じた。 
 このプログラムは、シリコンバレー銀行やその他の銀行の破綻を受けて、金融機関に流動性を提供することを目的として設計された。
 また、プログラム開始時に総額 6,000 億ドルを超えていた米国の銀行システムの含み損に関連するリスクを軽減するためにも創設された。

 預金保険基金を通じて資金提供されているこのプログラムは、米国債、政府機関債、住宅ローン担保証券などの特定の種類の証券を担保として差し入れる適格な借り手に最長 1 年間の融資を提供するもの。
 担保は公開市場価格ではなく額面で評価されることになっている。
 このため、銀行は2022年以降の一連の利上げによって損なわれていない資産価値に基づいて借り入れることができる。

 FRB はまた、割引窓口の条件を緩和しまし、財務省では、このプログラムのバックストップとして為替安定基金から最大250億ドルを利用できると発表した。 

 2023年3月下旬の3月12日に実施された後、1週間で537億ドルがこのプログラムから借り入れられ、前週の119億ドルから大幅に増加した。

    
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2024年02月27日

ポンジ・スキーム( Ponzi scheme)

ポンジ・スキーム(Ponzi scheme)
 投資詐欺の一種で詐欺師チャールズ・ポンジ(Charles Ponzi)の名に由来する。
 出資してもらった資金を運用し、その利益を「出資者に配当金などとして還元する」などと嘘を言葉巧みに語り、実際には
   資金運用
を行わず、遊興費などに流用したり、後から参加する出資者から新たに集めたお金の大半を、以前からの出資者に向け見せ金として“配当金”などと偽って渡すことで更に出資を増やさせる詐欺行為のこと。
  
 あたかも資金運用での利益を出資者に配当しているかのように装い、破綻することを前提に騙し取る手法で、ねずみ講なども含まれる。

    
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2024年02月02日

パーセンタイル(percentile)

 計測値の分布(ばらつき)を小さい数字から大きい数字に並べ変え、パーセント表示すること。
 この分布により、小さい数字から大きな数字に並べ変えた計測値においてどこに位置するのかを測定する単位のこと。

 例えば、計測値として100個ある場合、5パーセンタイルであれば小さい数字から数えて5番目に位置する。
 また、50パーセンタイルであれば小さい数字から数えて50番目に位置する。
 95パーセンタイルであれば小さい方から数えて95番目に位置するといった具合だ。

 このようにパーセンタイルは全体における自分の位置を測定する単位として用いられる。
 なお、企業年金においては年金ALMにおいて計算された数値を説明するのに用いられることがある。

   
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2024年01月23日

ブラックストーン・グループ(The Blackstone Group) 運用資産8809億1500万ドルの投資会社


ブラックストーン・グループ(The Blackstone Group)

 米国に本拠を置く大手の投資ファンド運用会社として知られ、バイアウト・ファンドビジネスを中心に、オルタナティブ投資を主軸としている。

 リーマン・ブラザーズを退職した
   ピーター・G・ピーターソン
の両名によって1985年に設立された。

 最も大きな上場株投資会社の一つで本社は、ニューヨークの51丁目パークアベニューのリバーハウスにある。
 支社は、アトランタ、ボストン、ロンドン、ハンブルク、パリ、ムンバイ、香港、東京にある。

 ブラックストーンのビジネスは
   バイアウト・ファンド
から拡大し、不動産ファンド部門、ヘッジファンドなどを含む市場性 オルタナティブ投資ファンド部門、財務アドバイザリー部門の4つのセグメントからなっており
   運用資産8809億1500万ドル
に及ぶ総合 オルタナティブ投資会社となっている。

 2007年の上場時には中国投資有限責任公司が30億ドル相当の非議決権株式を取得した。
 ブラックストーンが保有する資産には
   軍事・衛星技術関連の会社
が含まれると指摘され、この技術が中華人民共和国政府に渡らないように米国政府は懸念している。

 なお、CEOのスティーブ・シュワルツマンは中華人民共和国の清華大学に3億ドルを寄付して中国の
   経済管理学院顧問委員会
に名を連ねて自らの名のついたカレッジも設立している親中家である。

 シュワルツマンはドナルド・トランプ米大統領の古くからの友人で顧問であり
   大統領戦略政策フォーラム議長
に選ばれるなど米政府の対中外交に一定の影響力を有している。

 CEOのシュワルツマンの個人資産は2020年には、210億ドル(約2兆1700億円)まで拡大した。

 なお、名前の類似する資産運用会社ブラックロックはブラックストーンの債券運用部門として設立されたが、1995年に売却されている。
 
 ブラックストーンの名称は、創設者の姓シュワルツマンのSchwarzがドイツ語で「黒」(ブラック)、ピーター・G・ピーターソンのPeterがギリシャ語で「石」(ストーン)を意味し、ここから名付けられた。

 2021年4月、ブラックストーンは不動産投資信託会社
   Extended Stay America
を61億ドルで買収した。
  
 2021年9月には工業不動産の
   WPT Industrial Real Estate Investment Trust
を30億ドルで買収し、工業物流領域での影響力を強化した。

 2022年2月には商業不動産に特化したREIT会社
   PS Business Parks
を80億ドルで買収した。

 2022年6月には地球温暖化に関する利益拡大のため、再生可能エネルギー分野に関心を示し、アエネルギー企業
   Invenergy Renewables
の一部株式を43億ドルで取得した。

 2022年11月にはオーストラリアのカジノ運営大手
   Crown Resorts
を約100億ドルで買収した。
 これはアジア太平洋地域での大規模な投資となった。

   
  ブラックストーン・グループ(The Blackstone Group)  ホームページ


          
posted by まねきねこ at 22:27 | 愛知 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 格言・ことわざ・用語解説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

サノフィ


サノフィ(Sanofi S.A.)

 フランス・パリを本拠とする製薬・バイオテクノロジー企業

 1999年、サノフィ社とサンテラボ社の合併によってパリで設立された。
 サノフィ社はフランスのエネルギー大手、トタル社の子会社であった。
 また、サンテラボ社は化粧品大手、ロレアル社の子会社であった。

 医薬品(処方箋医薬品)販売では世界有数の規模を持っており、ユーロネクスト・パリ、フランクフルト証券取引所、ロンドン証券取引所、ニューヨーク証券取引所に株式を上場している。
 ユーロネクスト・パリではCAC 40の採用銘柄。

 スペシャルティケア(希少疾患、希少血液疾患、オンコロジー、免疫領域)、ワクチン、糖尿病および循環器疾患の各領域で医薬品の開発・提供に取り組んでいる。
 2017年1月からコンシューマー・ヘルスケア事業の
が同じサノフィ・ジャパングループの一員に入った。

 2019年5月には米国バイオべラティブ社を統合し、希少血液疾患フランチャイズを立ち上げた。 


  サノフィ  ホームページ

    
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2024年01月21日

USスチール(United States Steel Corporation) 米国第2位の鉄鋼会社

USスチール(United States Steel Corporation)
 米国ペンシルベニア州ピッツバーグに本社を置き、米国と中央ヨーロッパに大きな生産拠点を持つ総合製鉄会社
 2022年の粗鋼生産は世界24位、米国第2位のシェアを占めている。
 1901年に米国で設立された大手鉄鋼製造企業である。

 モルガン財閥の創始者で「金融王」と称えられた銀行家
と1898年に製鋼会社フェデラルの設立に際し社長に就任しその後実業家となった製鉄業界の大物
   エルバート・ヘンリー・ゲーリー
によって、アンドリュー・カーネギー、チャールズ・M・シュワブが結集し、USスチールの合併設立の主要な創設者となった。
 設立当時の時価総額が10億ドルを超える、当時としては前例のない規模の企業であった。

 その後、1903年より代表取締役社長となった。

 USスチールの設立は、米国の鉄鋼業界における巨大な合併の結果であり、この会社は初期に米国の鉄鋼生産の約3分の2を占めるほどの影響力を持っていた。
 その後、国内外での競争が激化し、会社の市場シェアは減少したものの、依然として鉄鋼業界の主要なプレイヤーとしては残っている。
  
 J・P・モルガンとエルバート・ヘンリー・ゲーリーは
   連邦鉄鋼会社
の株式を保有し、アンドリュー・カーネギーが保有していたカーネギー鉄鋼会社との合併により、1901年2月25日、ペンシルベニア州ピッツバーグにUSスチールが設立された。

 1901年には、USスチールが米国内の鉄鋼生産の3分の2を支配する規模となった。
 1911年に連邦政府は、USスチールを解体するために連邦法の
   反トラスト法
を適用することを試みたものの、その努力は結局失敗した。
 その後、USスチールは元初代社長の
   チャールズ・M・シュワブ
によって運営されるベスレヘム・スチールのような競争業者に技術革新で先んじられ、USスチールの市場シェアは1911年までに50%まで減少した。

 ただ、ベスレヘムにもロックフェラーやモルガンの系列会社から役員などが出ており、両者とも資本の根っこは同じであった。

 USスチールの生産量は1953年に3500万トン以上でピークに達した。
 当時340,000人を超える従業員がおり、その雇用者数は1943年の第二次世界大戦中でも最大であった。

 2000年の時点ではおよそ52,500人を雇用している。

 1951年にハリー・S・トルーマン大統領は、米鉄鋼労働組合による危機を解決するために、
その製鋼工場を引き継ぐことを試みた。

 連邦最高裁判所は大統領に憲法上の権限が無いと裁決し、買収を無効とした。
 ジョン・F・ケネディ大統領はインフレに危機感を抱き、価格上昇を抑制するよう鉄鋼業界に圧力を加えた。

 連邦政府は、USスチールが1984年には
   ナショナル・スチール
を買収するのを妨げた。
 また、連邦議会からの政治的圧力により、USスチールは
   ブリティッシュ・スチール
からスラブを輸入する計画を放棄するよう強いられた。

 USスチールは、テキサス・オイル・アンド・ガスを買収した。
 1982年にマラソン・オイルを買収した。

 20世紀末には、そのエネルギー事業からその収益と純益の多くを得ていた。
 2001年10月に、トランスター以外の非鉄鋼資産は売却した。
 なお、石油開発事業で使用する鋼管などの鉄鋼は今も収益源となっている。

 2003年に旧NKKの傘下にあった
   ナショナル・スチール
が破産した後、同社の資産を買収した。
 2023年12月、日本製鉄がUSスチールを買収することを発表した。
 
 現在米国では主力のゲーリー製鉄所などで12基の高炉を操業している。
 年間の鋼材生産能力は1940万トンとされる。

 中央ヨーロッパではスロバキアのUSスチールコシツェ、USスチールセルビア(スメテレボ)の2つを運営し、欧州事業での生産能力は約500万トンとされる。
 2000年には神戸製鋼と自動車用鋼板の技術提携を結び、合弁会社・プロテックを展開している。
 
   
posted by まねきねこ at 00:00 | 愛知 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 格言・ことわざ・用語解説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする