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2025年04月23日

ウーラン(Uhlan)ポーランド軽騎兵を指す言葉

ウーラン(Uhlan)
 ランス(騎槍)、サーベルや小銃などを装備したポーランド軽騎兵を指す言葉。
 ポーランド語ではウワンまたはウーワンと呼ぶ。
 18世紀になると、プロイセンをはじめヨーロッパ諸国で編成されるようになる。
 日本では英語の訳語である
   槍騎兵(ランサー)
としてよく知られている。
 近代から現代にかけての各国の槍騎兵はこのウーランが基本型となっている。
 彼らの着用する四角形の板がついた帽子をチャプカ(Tschapka :Rogatywka)と呼ぶ。
 これはポーランド語におい帽子をさす一般名詞である。
 フランス語のシャポー(chapeau)と同語源で、「帽子」を意味するラテン語のカッパ(cappa)からきている。
 現代のフロックコートなど、ダブルブレスト(前合わせがダブル)の上着はこのウーランの制服をもとにしたもの。
 また、ウーランは独特の紺青色を用いた制服を纏うのが伝統で、紺青色の一種である「プルシアンブルー」(プロイセンの青)はプロイセン王国軍のポーランド人ウーラン隊の制服の色に由来する。
 もともと、名前はモンゴル、タタール語の
   勇敢なる戦士 (Oglan、Uhuanとも)
が語源とされ、オスマン帝国の青年隊 (Oghlan) からなる説もある。
 14世紀にかけて、モンゴル、タタール系の軍事集団がポーランド、リトアニア、アレン辺りを占領し居住すると、地元となる
   ポーランド貴族
は彼らの
   豊富な実戦経験
   伝統的な戦法
を積極的に取り入れようとした。
 16世紀にかけて、偵察及び重騎兵の先遣、小隊突撃作戦などを主な任務とした軽騎兵隊が出現している。
 火器の発達によって各国で重装甲が徐々に時代遅れになるにつれ、機動性を重視した騎兵が主流となった。
 ただし、火器に対応して誕生し常に発展をしていたポーランドの
   有翼重騎兵団「フサリア」
の衰退は火器の発達による戦闘能力が弱体化したのはなく、当時のポーランドの国家経済や国庫の疲弊であった。
 ポーランド最後の国王スタニスワフ2世は、騎兵連隊にランス、サーベルやピストルなどを装備させた。
 また、鮮やかな制服で飾って、ウーラン連隊(槍騎兵連隊)と名づけして国王護衛隊として編成した。
 ポーランド分割の後、プロイセン、オーストリア、ロシアの国土となったいくつかの州でもまもなくウーラン連隊が編成される。
 オーストリアにおいて、槍騎兵連隊は1784年初めて編成され、隊員のほとんどがポーランド人であることをちなんで
   ウーランプルク (Ulan-Pulk)
と呼ばれていた。
 ドイツウーラン 1914年、19個槍騎兵連隊がドイツ帝国陸軍に編入された。1919年に解散されている。
 マンフレート・フォン・リヒトホーフェンは1911年の4月に士官学校を卒業後槍騎兵連隊に配属されたが活躍の場が少なくなったことや、勤務中に操縦士を目撃したこともあり、航空隊への転属願いを師団長に出し1915年5月に飛行訓練所への入所が認められた。
 ユゼフ・コワルスキーは第22軽騎兵連隊に所属しポーランド・ソヴィエト戦争に従軍していた。
 第二次世界大戦時代の1939年の戦役におけるポーランドの騎兵連隊が地上最後の実戦的ウーランであった。
 現在でもポーランドをはじめ各国にウーラン連隊が存在するが、完全に機械化されている。

     
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2025年04月17日

中国コンソーシアム(China Consortium) 20 世紀初頭に中国政府への融資を調整するために、政府の指示の下で外国銀行によって形成された2 つの連続した協力協定のこと。

 中国コンソーシアムは、文脈に応じて
   銀行コンソーシアム
   金融コンソーシアム
または 4 国、5 国、または 6 国コンソーシアムとも呼ばれる。
 20 世紀初頭に中国政府への融資を調整するために、それぞれの政府の指示の下で外国銀行によって形成された
   2 つの連続した協力協定
を指している。
 これらの取り組みは、西洋諸国と日本による植民地主義の手段として、中国の
   国民主義者
から反発を受け、後に中国共産党からも同様に批判された。
 1909年から1910年にかけての
   「旧」中国コンソーシアム
の出現は、清朝中国が1895年の
   下関条約(2億両)
と1901年の
   義和団議定書(4億5000万両)
に基づく戦争賠償金の支払い、そして19世紀後半から20世紀初頭にかけての
   鉄道利権獲得
をめぐる争いによって、外部からの資金調達を必要としていた状況を背景に起こった。
 この状況は、1904年4月に締結された英仏協商と、1904年から1905年の日露戦争における日本の勝利によってさらに形成され、中国における民族主義的感情を刺激した。
 コンソーシアムの起源は、1904年に中国中部の鉄道路線の共同出資を目指した
   英仏共同事業
にまで遡る。
 当時、漢口(現在の中国本土中心部に近い武漢市の一部)は、ベルギーとフランスの投資家の資金援助により、北部の首都北京と結ばれていました。
 漢口と南部の広東省、西部の四川省との結びつきを強化するため、
   英国中国企業(HSBCとジャーディン・マセソンの合弁企業)
   ペキン・シンジケート(多くのフランス人投資家を抱える英国企業)
そしてインドシナ銀行を含むフランス企業が
   共同投資会社「中国中央鉄道有限公司」
を設立した。
 1904年の英仏協定は、当時確約したアメリカの参加者はいないものの、将来的にはアメリカとベルギーの参加も明示的に認められていた。
 その後数年間、中国高官の
   張之洞
は、より良い借入条件を確保するために西側諸国を対立させた。
 当時は湖広鉄道(揚子江と中国南部の海岸線の間の地域の大部分を指す古称)と呼ばれていた中国中部の鉄道網への融資をドイツの金融業者に提供した。
 張の行動は、イギリスとフランスの銀行家たちに、ドイツの銀行家たちに対してより包括的なアプローチをとるよう促した。
 1909年春、イギリス、フランス、ドイツの銀行家たちの間で合意が具体化した。
 アメリカの銀行家たちから、1904年に自分たちもこの取引に参加するという約束について注意喚起があった。
 にもかかわらず、彼らは取引を進めることを決定した。
 1909年6月6日、北京でHSBC、ドイツ・アジア銀行、インドシナ銀行の間で、中国政府の承認を条件に550万ポンドの融資を受けるという3カ国銀行コンソーシアム設立の正式契約が締結された。
 しかし、イギリス政府はすぐに、1904年の取り決めは拘束力を持つというアメリカの見解を再び採用した。
 アメリカのパートナーの参加を主張した。
 当時、ウィリアム・ハワード・タフト大統領が率いるアメリカ政権は、従来の門戸開放政策を新たな解釈へと転換しており、
   商業投資
をより重視する「ドル外交」という名称を確立していた。
 この方針転換により、J.P.モルガン社が率いるアメリカの銀行家たちも参加する長期にわたる交渉が始まった。
 最終的に、1910年5月23日、パリのインドシナ銀行本店での会議で合意が成立した。
 契約当事者は、英国側は英国中国企業と
   中国中央鉄道有限公司(カール・マイヤー、C・S・アディス、G・ジェイムソンが署名)
ドイツ側は
   ドイツ・アジア銀行(フランツ・ウルビッヒ、エミール・レーダースが署名)
フランス側は
   インドシナ銀行(政治家ジョゼフ・カイヨー、スタニスラス・シモン、モーリス・カゼナーヴ(インドシナ銀行)、エミール・ウルマン(パリ国立高等弁務官事務所)が署名)
米国側はモルガンの英国関連会社である
   モルガン・グレンフェル・アンド・カンパニー(エドワード・グレンフェル、ヘンリー・P・デイヴィソン、マックス・ウォーバーグ、ヘンリー・H・ハージェス、ウィラード・D・ストレートが署名)
であった。
 その後、連合銀行は中国当局と融資条件について協議を開始したが。
 ただ、中国当局は厳しい条件の受け入れに難色を示した。(これは後の展開が示す通り、正当な懸念であった)
 最終的に、1911年5月20日、4カ国連合は
   湖広鉄道
の建設資金として600万ポンドの融資を承認した。
 湖広鉄道は当時、広東省の北境から漢口、そしてそこから四川省の東境までを結ぶ路線と定義されていた。
 1911年4月には、連合は別途、
   中国の通貨改革
のために1,000万ポンドの融資を行っており、鉄道投資への融資という当初の目的を超えた意義を確立した。
 中国当局が恐れていた通り、中国に課された条件は
   鉄道保護運動
へと発展する抗議運動を巻き起こし、1911年の辛亥革命と1912年初頭の清帝国の崩壊の一因となった。
 鉄道協会は革命の混乱の間中立の立場を選び、その時期に
   満州政府
からの緊急資金の切実な要請を拒否した。
 革命により成立した共和制政権の事実上の実権者
   袁世凱
は、1912年1月に
   北洋政府
のために国内資金を調達する努力に失敗した。
 そのため外国列強国からさらなる融資を求めなければならなかった。
 1912年2月28日には、イギリス資本の
   香港上海銀行(HSBCの源流金融機関のひとつ)
が鉄道協会に代わって200万両を袁に前払いした。
 1912年5月2日、タンはイギリスとベルギーの協定を正式にキャンセルしなければならなくなり、コンソーシアムの立場はさらに強固なものとなった。
 当初コンソーシアムのアプローチ全体に懐疑的だったイギリスの外交官
   ジョン・ジョーダン
は、融資交渉の一環として、中国側の支出を統制する厳格な制度を確立した。
 また、中国海関庁の外国人委員によって監督されるようにした。
 その後、日本とロシアはコンソーシアムへの参加を要請し、コンソーシアムは拡大して「六カ国コンソーシアム」として知られるようになった。
 これは1912年6月18日の合意により成立し、5年後の1917年6月に期限を迎えた。
 こうしてコンソーシアムは6つの国別グループから構成された。
 香港上海銀行を筆頭とする英国グループに、1912年後半に
   ロンドン・カウンティ・アンド・ウェストミンスター銀行
   パーズ銀行
   シュローダーズ
が加わった。
 ドイツ・アジア銀行が主導し、他の 14 の金融機関が参加するドイツのグループで、その中には
が含まれた。
 インドシナ銀行(Banque de l'Indochine)が主導するフランスのグループ
   パリ国立コントワール(Comptoir National d’Escompte de Paris)
   産業信用商業(Crédit Industriel et Commercial)
   パリ・ペイバ銀行(Banque de Paris et des Pays-Bas)
   ソシエテ・ジェネラル(Société Générale)
   商業・産業銀行フランス統一銀行(Banque Française pour le Commerce et l'Industrie)   
   パリジェンヌ銀行(Banque de l'Union Parisienne,)
   クレディ・リヨン(Crédit Lyonnais;)
 また、JPモルガンが率いるアメリカのグループで、クーン・ローブ・アンド・カンパニー、国際銀行公社(ニューヨーク・ナショナル・シティ銀行が国際投資のために設立した会社)、ファースト・ナショナル銀行も参加していた。
 ロシアが率いるグループでは、ロシア・アジア銀行が参加していたが、
   ソシエテ・ジェネラル・ド・ベルギー
などのロシア以外の銀行も参加していた。
 なお、日本のグループで、横浜正金銀行のみで構成されていた。
 一方、このコンソーシアムの不人気により、共和党政権は代替の資金調達方法を模索することになった。
 その後、1912年には
   中国産業銀行
のスポンサーになることに同意し、金融家
   バーチ・クリスプ
が結成したイギリスのシンジケートや、ベルギーとフランスの投資家(ソシエテ・ジェネラル・ド・ベルギー、アンパン・グループ、中国ベルジュ銀行とそのフランス人パートナーを含む)から中国西部の鉄道建設資金を調達した。
 しかし、これは中国の資金需要を満たすには不十分であり、コンソーシアムの重要性を損なうものではなかった。
 1912年末までに、北洋政府とコンソーシアムの間で、
   中国の塩税収入を担保
とする2,500万ドルの融資に関する原則合意が成立した。
 しかし、融資の統治体制をめぐる諸外国間の紛争により、融資の完了はさらに遅れた。
 1913年初頭、新たに選出されたウッドロウ・ウィルソン大統領が率いるアメリカ政権は、タフトの
   ドル外交を放棄
する新たな対外開放政策の策定を目指した。
 1913年3月19日、中国政府はアメリカのコンソーシアムへの参加を終了させることを決定した。
 これにより参加国と銀行は5カ国に縮小された。
 アメリカの撤退は中国で人気を博し、コンソーシアムと借款は物議を醸した。
 アメリカ撤退の2日後、中華民国臨時政府で国民党を結成。党首として1913年2月の総選挙で圧勝し、議院内閣制に基づいた法による統治、大総統の権限を制限することが、中国を安定させると考えた
   宋教仁
が、専制政治を目論む袁世凱(または孫文)により放たれた刺客により上海駅頭で射殺された。
 この暗殺事件に北京の政治的緊張が劇的に高まった。
 袁世凱は新たな資金を迅速に調達するため、5カ国となったコンソーシアムとの交渉において要求を緩和した。
 袁は銀行家たちを説得し、国民議会による借款の承認を省略させた。
 1913年4月26日、孫文が上海での演説でこの借款を非難した翌日、北京公使館地区のHSBCビルで借款契約が速やかに調印された。
 退職したアメリカ人銀行家への返済を含む2,500万ポンドのこの借款は、「再編借款」、あるいは中国の歴史学では「中華民国二年大借款」として知られるようになった。
 この借款は、袁世凱に彼の統治に対する反対勢力(しばしば「第二中国革命」と呼ばれる)を打ち破る手段を与えたとして、広く批判された。
 再編借款は、1900年の
   義和団の乱
への対応として八カ国同盟が結成されたことで始まり、その後まもなく
   1914年七月恐慌
とそれに続く第一次世界大戦によって終焉を迎えた、
 中国における諸外国の広範な協調行動の13年間の頂点を成した。
 第一次世界大戦中、中国連合はドイツが他の加盟国と戦争状態となり、他のヨーロッパの交戦国も財政難に陥っていた。
 このため、融資には足かせをはめられた。
 日本は中国への二国間融資を強化し、当時の対外資金の大部分を日本が担っていた。
 アメリカ合衆国では、ウィルソン政権が、1915年初頭に大日本帝国政府が策定した
   21ヶ条要求
を含む、日本の動きに対抗し、第一次世界大戦による欧州勢力の動きが停止した間隙を利用して新生中華民国に米国の権益を広げるため目論見から、徐々に姿勢を変えていった。
 しかし、ウィルソンは最初の任期を通して、政府保証なしの米国銀行による
   中国での民間融資のみを奨励すること
を好んだ。
 ただ、高いリスクと、特に戦時中のヨーロッパなど、他の地域での米国銀行による融資の方が魅力的な機会があったため、これは実現しなかった。
 1916年後半、ウィルソンが再選された。
 10月には寺内清輝が率いる新しい日本政府が誕生し、「中国に対する強制は行わない」政策が採用されたことで状況が変わった。
 1917年1月30日、ドイツ以外の連合国メンバーであるフランス、日本、ロシア、イギリスの代表がロンドンで会合した。
 なお、アメリカ各国の代表に対し、
   再建借款の追加発行への参加
を検討するよう嘆願したが、国務省はこの計画を承認することに消極的だった。
 これにより、五カ国協定は1917年6月に失効していたため第一中国連合の活動は事実上終結した。
 1917年8月、横浜正金銀行は中国政府に対し、第二回再建借款と称する1,000万円の二国間融資を行った。
 1917年11月下旬までに、ウィルソンは、財政的に脆弱であったフランスとイギリス、日本、そして拡大したアメリカの銀行グループにもかかわらず、新しいコンソーシアムを組織すべきだと説得された。
 ロシアは十月革命後に中国から撤退していが、1918年の最初の数か月間、米国は決定を遅らせた。
 日本は北京の政府だけでなく他の中国の交戦国にも融資することになった。
 最終的に、1918年6月21日、ウィルソンは
   ロバート・ランシング国務長官
による新しいコンソーシアムの交渉開始の提案を承認した。
 米国国務省は、中国における外国の勢力圏を排除しないまでも制限することと、アメリカ資本の中国市場への平等なアクセスを確保することの両方を目的としていた。
 その後、米国はフランス、日本、イギリスに新しい協定の交渉を招請し、4か国の代表は最終的に5月12日に協定案を採択した。
 1919年9月1日、パリ講和会議に出席していた両国は、この協定案を受諾した。
 日本政府は1919年9月1日に協定案を受諾したが、当時は南満州と呼ばれていた
   遼東半島
とモンゴルについては留保事項が付されていた。
 その後、英国と日本の外交官の間で、中国側の異議を無視し、この件に関する妥協案が合意された。
 新しいコンソーシアムに関する協定は、最終的に4カ国の交渉担当者によって締結された。
 1920年10月15日に香港上海銀行、インドシナ銀行、横浜正金銀行、そして参加したアメリカの銀行(JPモルガン、クーン・ローブ、ニューヨーク・ナショナル・シティ銀行、ニューヨーク・ギャランティ・トラスト・カンパニー、シカゴ・コンチネンタル・アンド・コマーシャル・トラスト・アンド・セービングス銀行、チェース・ナショナル銀行、リー・ヒギンソン・アンド・カンパニー)の代表者によって署名された。
 この協定は1921年1月18日に北京の中国政府に通知された。
 その後まもなく、ベルギーがコンソーシアムに加盟した。
 ただ、中国国内の
   政治的混乱
と加盟国の
   利害の相違
により、新しいコンソーシアムは融資を行うことができなかったが、正式には1939年まで存続した。
 なお、1925年まで銀行家たちの定期的な会合がその評議会を構成していた。
 1922年3月までに、その英国のメンバーにはHSBC、ベアリングス銀行、ロンドン・カウンティ・アンド・ウェストミンスター銀行、シュローダー、インド・オーストラリア・アンド・チャイナ・チャータード銀行、N.M.ロスチャイルド・アンド・サンズ、英国貿易公社が含まれていた。
 1934年、駐中国日本大使
   須磨弥吉郎
は1920年10月の合弁協定に言及し、中国開発金融公司の設立に反対したが、アメリカ当局は彼の主張を却下した。

   
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2025年03月14日

パナマ侵攻(United States invasion of Panama)

米軍のパナマ侵攻期間
  − 1990年1月
米軍
 駐屯軍13,000人
 本土部隊9,500人
パナマ軍
 国防軍15,400人
 
米軍 23人戦死
 パナマ軍 400人〜2,000人戦死・犠牲
パナマ侵攻(Invasion of Panama)
 米ソ東西冷戦時代末期の1989年12月20日から1990年にかけてアメリカ合衆国とパナマ共和国の間で勃発した戦争のこと。
 軍事的には当時のパナマの事実上の指導者
   マヌエル・ノリエガ司令官の独裁政治
や、パナマがアメリカ米国に対して
   麻薬を密輸
している等の理由を掲げて米軍がパナマに軍事侵攻した事で戦争が始まり、結果的には米国側の圧倒的な軍事力の差で、米軍が勝利に終わりパナマ側は降伏しノリエガの身柄を米軍が確保・拘束した事で終結した。

 ただ、米国が他国の政府を軍事力で一方的に崩壊させる行為は第二次世界大戦後の
   国際法に違反
しており、その事に対して米国の行動を批判する意見も根強い。
  
 軍最高司令官マヌエル・ノリエガは1983年以来、パナマにおける事実上の最高権力者となっていた。
 ただ、ノリエガ体制のパナマは
   非民主的な政治体制
が原因で中南米の中でも孤立していただけでなく、中南米における麻薬ルートの温床となっているとされていた。
 ノリエガは冷戦下の1966年から
   中央情報局(CIA)
のため、中南米における情報収集活動の手先として働いていたことも明らかになっている。

 ノリエガは1971年に中央情報局(CIA)が、ノリエガが
   パナマ情報局長の地位
に就いている間に、ノリエガを給与計算対象に加えており、それ以前にも、米国諜報機関からケースバイケースで給与を受け取っていた。
 ノリエガへの定期的な支払いは
   カーター政権下
で停止されたが、その後再開されたが、ロナルド・レーガン政権下で再び停止された。

 CIA長官の
   ジョージ・H・W・ブッシュ
の時代に、ノリエガがキューバ政府、後にはニカラグアのサンディニスタ政府に関する情報を進んで提供したため、彼を資産とみなし諜報活動の要員として利用し、中南米やカリブ海の
   左派政権の攪乱
に協力していた。
 また、アメリカの麻薬対策にも協力していると考えられており、1978年から1987年まではアメリカの
   麻薬取締局(DEA)
から毎年感謝状が贈られていたことでも知られている。
 ただ、1970年代初頭までに、米国の法執行機関はノリエガが麻薬密売に関与している可能性があるという報告を受けていたが、CIAの諜報活動を行っていたため、利用価値があり、正式な刑事捜査は開始されず、起訴もされなかった。

 なお、1981年から1987年にかけて、ノリエガと米国の関係は大幅に深まっている。
 これは、米国が自国の安全保障上の利益を追求することと、ノリエガがこれを好意を得るための効果的な手段として利用することの両者のメリットが重視されたことで推進された。

 1979年から1981年にかけてニカラグアとエルサルバドルで内戦が発生していた。
 このため、レーガン政権はパナマを含むこの地域で同盟国を探すことになった。
 CIAの諜報員として活動していたノリエガは、ニカラグアの
   コントラ反乱軍
に対する資金や武器を含む米国の支援のパイプ役を務めた。
 彼はCIAがパナマに情報収集拠点を設置することを許可したうえ、米国が支援する
   エルサルバドル政府
が左翼のエルサルバドル反乱軍
   ファラブンド・マルティ民族解放戦線
と戦うのを支援した。
 なお、こうした活動資金は米国に流れ込む麻薬を使ってマネー・ロンダリングした資金が利用された。
 また、米国の諜報船はニカラグア政府に対する作戦で
   パナマの基地
を使用し、これらの船によって収集された情報の多くはパナマの米軍基地で処理された。
 そもそも、ノリエガは、
   パナマ運河条約
で米軍基地の使用が運河の防衛に限定されていたにもかかわらず、これらの活動を許可するなど超法規的な優遇が行われている。
 なお、CIAなどの麻薬資金の利用に関しては、麻薬資金が洗浄され、武器等の提供に使われるなど、後にイラン・コントラ事件として問題視されることになる。

 映画「潜入者」でも描かれたが、1986年に税関主導によって行われた
   「Cチェイス作戦」(Operation C-Chase)
により、ノリエガが米国内への麻薬の輸出ならびに
   マネーロンダリング
に関与しているという疑いが浮上してきた。
 さらに1987年6月には反米ナショナリストとして民衆から広く慕われたパナマの軍人
   オマル・トリホス
の1981年の暗殺にノリエガが関与したという疑惑が持ち上がり、反ノリエガ派がノリエガ排除に動き出すという事態となった。
(トリホスは1981年、「謎の飛行機事故」で死亡したが、事故の原因は米国CIAによる暗殺と言われている。)

 1988年2月にはパナマの
   エリック・アルトロ・デルバイエ大統領
は米国の支援を受けて
   ノリエガ解任
を発表した。
 これに対して、ノリエガ派の国会議員によってデルバイエ大統領が解任され、マヌエル・ソリス教育相が大統領代行となった。
 これを受けて3月には
   クーデター未遂事件
が発生している。
 また、3月には米国マイアミの裁判所がノリエガを起訴し、
   ロナルド・レーガン大統領
は「パナマに民主主義が建設されるまでは制裁を続ける」と述べ、パナマの
   在米資産凍結
   パナマ運河使用料支払い停止
を発表した。

 パナマはこれに対抗して全ての
   在パナマ外国資産凍結
を発表したが、これにより脆弱なパナマの経済システムは大混乱に陥り、産業稼働率が40パーセントに落ち込んだ。

 アメリカは裏面でノリエガの引退によって、司法取引で
   訴追を免除すること
を持ちかけたが、ノリエガ拒否した。
 また、ノリエガとの蜜月関係に合ったCIAの工作も行われたがノリエガの権力は影響を受けなかった。
 このためレーガン政権末期の段階で
   「エラボレート・メイズ」作戦
など、パナマ侵攻作戦が策定された。

 1989年1月に第41代アメリカ合衆国大統領に就任した元CIA長官の
   ジョージ・H・W・ブッシュ
は、麻薬撲滅の為に「麻薬戦争」と呼ばれる
   麻薬撲滅政策
を掲げた。
 ノリエガは1989年5月に行われた大統領選挙に自派の
   カルロス・ドゥケ
を出馬させたものの、当選したのは反ノリエガ派で反米派の
   ギジェルモ・エンダラ
であった。
 ただ、ノリエガは、アメリカ合衆国の干渉があったとして軍を挙げて
   選挙の無効
を宣言し、フランシスコ・ロドリゲス会計院長を大統領に据えて、権力の保持を図った。
 この動きを受けて、5月には暴動が発生したうえ、9月30日には再びクーデター未遂事件が発生した。
 12月15日、ノリエガは議会によって「最高の政治指導者」としての地位を承認させ、独裁体制の継続を誇示した。
 またこの間、ノリエガ派の「尊厳大隊」による反対派への暴行が横行していた。

 ブッシュは5月の大統領選挙直後から、
   特殊部隊のパナマ派遣
を極秘裏に承認した。
 12月16日頃からアメリカ軍人に対する殺害や暴行事件が発生しているという報告が伝えられた。
 リチャード・ブラウン国防次官の報告で米軍施設への武装侵入が数十回、そのうちの一件で2人のアメリカ軍兵士が殺害されたとしている。
 12月20日深夜0時45分にブッシュは
   パナマ在住アメリカ人の保護
   パナマ運河条約の保全
   ノリエガの拘束
を主目的とする「大義名分作戦」(Operation Just Cause)の発動を命令した。
 15分前にはエンダラを大統領として宣誓させた。
 ブッシュはこの侵攻を、ノリエガの煽動に対する
   米国の自衛権発動
であると主張して、軍事侵攻を正当化した。

 「大義名分作戦」は当初「ブルー・スプーン」と名付けられていた。
 これに対し、ジェームズ・L・リンゼイ陸軍大将から「奇妙な作戦名だ」と評されたため作戦名は「大義名分」と改められた。
 ブッシュは12月20日未明にパナマに駐留していたアメリカ南方軍など空軍・海軍・陸軍からなる5万7384人のアメリカ軍をパナマに侵攻させ、ノリエガの率いるパナマ国家防衛軍との間で激しい戦闘が行われた。

 パナマ国家防衛軍は米国製の旧式の武器を中心とした装備に対して、米軍は
   ロッキードF-117型戦闘機
   マクドネル・ダグラスAH-64 アパッチ
などの最新鋭機を中心とした300機を超える航空機を投入するなど、圧倒的な軍事力を使って間も無く首都のパナマ市を占領した。
 なお、ノリエガはアメリカ軍による拘束を逃れて
   バチカン大使館
に逃れた。
 その後、米国は
   ニフティ・パッケージ作戦
によってノリエガを大使館より退去させ、1990年1月3日に米国軍に拘束された。
 ノリエガはその後米国内に身柄を移送され、1992年4月にフロリダ州マイアミにて麻薬密売容疑等により禁錮40年の判決を受けた。
 後に30年に減刑され、さらに模範囚であった為2007年9月9日に釈放されたが、麻薬取引で得た資金のマネーロンダリングをフランスの銀行システムを悪用して行ったとして2010年4月26日に同国に移送された。
 フランスでは禁固7年の有罪判決を下された。
 2011年12月12日に約22年ぶりにパナマに帰国し、
   在任中の政敵殺害に関与した罪
で禁錮20年の刑に服した。
 戦後にパナマ国防軍は解体され、非軍事的性格の国家保安隊(国家警察隊・海上保安隊・航空保安隊で構成される)に再編された。

   
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2025年02月24日

デラノ家(Delano family)

アメリカ合衆国のデラノ家(Delano family)の一員には
   フランクリン・デラノ・ルーズベルト
   ユリシーズ・グラント
   カルビン・クーリッジ各大統領
   宇宙飛行士のアラン・B・シェパード
   作家のローラ・インガルス・ワイルダー
がいる。
 彼らの先祖は、 1620年代初頭にマサチューセッツ州プリマスに到着したワロン人のプリマス植民地開拓人の
   ピルグリム=ファーザーズ(Pilgrim Fathers)
   フィリップ・ド・ラノワ(1602年 - 1681年)
である。
 (なお、ワロン人はベルギーのワロン地域で暮らすフランス語を母語とする人々でベルギー全人口の約3分の1を占めている。)

 彼の子孫には、インディアンの歴史で重要な役割を果たした
   ユースタキウス・ド・ラノワ
   フレデリック・エイドリアン・デラノ
   ロバート・レッドフィールド
   ポール・デラノ
がいる。デラノ家の先祖には、メイフラワー号をチャーターしたピルグリム、7人の乗客、メイフラワー誓約の署名者3人がいる。
ヨーロッパのデ・ラノワ家
ウォーレン・デラノ・シニア大尉
 フィリップ・ド・ラノワは、1602年12月7日にライデンで洗礼を受けた。
 彼の両親は、現在北フランスに住む宗教難民で1575年にトゥールコワンでジャン・ド・ラノワとして生まれた
   ヤン・ラノ
と、スペイン領ネーデルラントのリール出身の
   マリー・マヒュー
である。
 両親は1596年1月13日にライデンのワロン教会で婚約した。
 父親は1604年にライデンで亡くなった。
 フィリップの祖父、トゥールコアンの
   ギルベール・ド・ラノワ
はローマカトリック教徒として生まれたが、初期にプロテスタントになった。
 彼はおそらく1570年代後半に家族とともにイギリスへ渡り、その後1591年に
   宗教的異端者の安全な避難所
であったライデンへ移住した。
 マヒュー一家もそれと同時期にライデンに到着しており、それ以前はリール近郊のアルマンティエールに住んでいた。
 ド・ラノワという姓は、リール近郊にあるラノワという町の膠着語で、ピカール方言の異形であり、現代フランス語のaulnaie「ハンノキの農園」に相当)に由来している可能性があるという。
 デラノ家が貴族 ラノワ家の子孫であることを示唆する証拠がある。
 
 イングランドから到着したフィリップ・ド・ラノワの先祖は、フランス語で礼拝を行っていたライデン・ワロン教会に所属していたことから、彼らはおそらくフランス語かピカルディ語を話していたと思われる。彼がライデンでジョン・ロビンソン 巡礼者の会衆と接触した時期や程度は不明であるが、フィリップは最終的にロビンソンが組織したアメリカ大陸への航海に参加した。
 ライデン巡礼者は、航海のためにスピードウェル号を購入した。
 彼の名前は乗客名簿に載っていないが、メイフラワー号の研究者
   ジェレミー・バングス
によると、フィリップは、母方の叔父
   フランシス・クック(母の姉妹ヘスター・マヒューの夫)
と若い従兄弟
   ジョン・クック
とともに、デルフスハーフェンからサウサンプトンへの
   スピードウェル号
の航海に同行し、メイフラワー号に会ったと考えられている。
 ただ、フィリップがスピードウェル号に乗らずに別々にイングランドに行った可能性もある。
 彼らはイングランドで他の巡礼者や雇われ植民者と集合し、2隻の船で次の航海に出た。
 スピードウェル号は航海に耐えられないことが判明し、乗客のうち11人がメイフラワー号に乗船した。
 メイフラワー号に乗れなかった20人(ロバート・カッシュマンとフィリップ・ド・ラノワを含む)がライデンに戻ったか、イギリスに残ったかは不明である。
 メイフラワー号は103人の乗組員を乗せて単独で航海し、1620年9月6日にサウサンプトンを出発した。
 1620年11月11日にケープコッド港に到着した。
 フォーチュン号は最終的にスピードウェル号に代わり、1621年7月初旬にプリマス植民地に向けて出航した。
 1621年11月9日に到着した。フィリップも乗客の1人だった。

 フィリップ・ド・ラノワは、前年にメイフラワー号で到着していた叔父のフランシス・クックと従弟のジョンと合流し、一緒に暮らした。
 1623年、彼はプリマスで
   土地の特許
を受けたが、1627年にこの土地を売却し、ダックスバラに移住した。
 1634年、マサチューセッツ州プリマスで、彼は
   ヘスター・デューズベリー
と結婚した。
 彼らの子供は、
   メアリー・デラノ(1635年頃生)
  フィリップ・デラノ(1637年頃生)
  ヘスターまたはエスター・デラノ(1640年頃生)
  トーマス・デラノ(1642年3月21日生)
  ジョン・デラノ(1644年生)
  ジョナサン・デラノ(1647年 - 1648年生)
がおり、おそらくマサチューセッツ州ダックスベリー出身となり、デラノは繁栄し、村の周囲に高速道路や橋の建設を組織するグループの一員となった。
 ヘスターは1648年以降に亡くなった。
 1653年までに、彼は未亡人となった
   メアリー・ポンタス・グラス(1625年生まれ)
と結婚し、
   ジェーン・デラノ
   ベッカ・デラノ
   サミュエル・デラノ
という3人の子供をもうけた。
 デラノは1637年の
   ピクォート戦争
に志願兵として従軍した。
 ピクォート戦争は1636年から1637年アメリカ東部ニューイングランド地方のコネチカット州で生じた、原住民のピクォート族インディアンとイギリス白人入植者との紛争のこと。

 1652年、彼は35人の他の入植者と合流し、当時ダートマス・タウンシップと呼ばれていた地域で、境界線を引いたワンパノアグ族の指導者マサソイトから交易品を購入した。
 そこは清教徒の厳格な宗教法の外で暮らすことを望んだクエーカー教徒の友の会に売却された。
 フィリップは獲得した土地のうちの自分の取り分800エーカー(3.2 km 2)を息子の
   ジョナサン・デラノ
に与えた。
 彼は1681年8月22日、マサチューセッツ州ブリッジウォーターで亡くなった。
 彼の子孫の多くは著名な船乗り、捕鯨者、造船業者になった。
 デラノ家の一部の人々は後に商業的に成功し、マサチューセッツ貴族の一員となり、
   ボストン・バラモン(「ボストンの第一家系」)
の1つと呼ばれることもあった。
 
 フィリップ・ド・ラノワの6番目の息子ジョナサン(1648年頃 - 1720年)は、メイフラワー号の乗客リチャード・ウォーレンの孫娘マーシー・ウォーレンと結婚した。
 彼らの直系の子孫には
   作家ローラ・インガルス・ワイルダー
   ユリシーズ・グラント大統領
   カルビン・クーリッジ大統領
   人類学者ロバート・レッドフィールド
   宇宙飛行士アラン・B・シェパード
   ジャーナリストハンター・S・トンプソン
   芸能人マルティナ・マクブライド
   詩人コンラッド・ポッター・エイキン
がいる。
 家族はペンシルバニア州、ユタ州、ジョージア州、ミシガン州、メイン州、ニューヨーク州、オハイオ州、オクラホマ州、バージニア州、バーモント州、そして遠くはチリにまで移住した。
 今日ではポール・デラノ大尉の子孫は数多く著名な人物となっている。
 ニューヨーク一族のサラ・デラノはジェームズ・ルーズベルトと結婚し、彼らの唯一の子供である
   フランクリン・デラノ・ルーズベルト
はアメリカ合衆国大統領になった。
 
 アマサ・デラノ(1763–1823)は19世紀のアメリカの船長で貿易商であり、後に有名な中編小説の元となった難破した奴隷のグループとの遭遇など、いくつかの海上冒険での役割で最もよく知られている。
 アマサ・デラノは1763年2月22日、米国マサチューセッツ州ダックスベリーで生まれた。
 彼は船乗りの家族に生まれ、海洋の世界と強いつながりを持って育った。
 デラノは船員として海事のキャリアを開始し、最終的には船長にまで昇進した。
 彼は様々な貿易航海に従事し、南太平洋や南アメリカなどの遠隔地で貴重な毛皮と油のためにアザラシを狩る、儲かる
   アザラシ産業
に関わっていた。
 デラノの生涯で最も注目すべき出来事の 1 つは、1805 年にチリの海岸近くでスペインのスクーナー船トライアル号に遭遇したときの出来事である。
 デラノの船、パーセベランス号は、遭難しているように見えるトライアル号に遭遇しました。
 デラノは、援助を提供するためにスペイン船に乗り込んだ。
 彼が目にしたのは、悲惨な光景であった。
 トライアル号は奴隷船であり、乗船していた奴隷たちは捕虜の主に対して反乱を起こしていた。
 デラノと彼の乗組員は、当初この事実を知らなかった。
 デラノと彼の乗組員の何人かは、最終的に反乱を起こした奴隷たちに捕らえられたが、なんとか逃げることができた。

 デラノは後に援軍を連れて戻り、反乱を鎮圧した。
 この事件とデラノの記述は、1855 年に出版されたハーマン メルヴィルの中編小説「ベニート セレノ」の基盤となった。
 海上冒険の後、アマサ デラノは米国に戻った。
 彼は引き続き海運業と貿易業に携わった。
 アマサ・デラノは1823年5月13日にマサチューセッツ州フェアヘブンで亡くなった。
 
 ポール・デラノ(1775-1842)、チリ海軍司令官である。
 
 コロンバス・デラノ(1809–1896) は、政治家、弁護士、牧場主、銀行家、オハイオ州選出の米国下院議員、ホイッグ党/共和党員である。
 連邦政府による南部占領下で、アフリカ系アメリカ人の連邦権利と保護を主張した。
 グラント政権下では米国内務長官を務めた。
 1874 年、イエローストーンを連邦政府が保護することを要求した。
 1875 年、在任中に汚職の疑いがかけられた。

 従兄弟のグラント大統領は、デラノの辞任を要求した。
 デラノはオハイオ州に戻り、農民と弁護士となった。
 後にカリフォルニア州の町がデラノにちなんで名付けられた。
 
 ウォーレン・デラノ・ジュニア(1809年 - 1898年)は、フランクリン・D・ルーズベルト大統領の祖父である。
 中国清朝における広州での
   アヘン貿易
も手掛けていた
   ラッセル・アンド・カンパニー
の事業部長であった。
 
 フランクリン・ヒューズ・デラノ(1813年 - 1893年は商人、外交官(ローラ・アスターの夫、ジョン・ジェイコブ・アスターの愛孫娘)である。
 
 フランシス・ラルフ・デラノ(1842年 - 1892年)は銀行家、鉄道経営者である。
 ウォーレン・デラノ4世(1852年 - 1920年)は石炭王、騎手である。
 サラ・アン・デラノ(1854–1941)はランクリン・デラノ・ルーズベルトの母である。
 ジェーン・アルミンダ・デラノ(1862-1919)は、アメリカ赤十字看護サービスの創設者で、1919 年にフランスのリールでインフルエンザにより亡くなった。(彼女は、豚インフルエンザの大流行を阻止する任務中に亡くなった。)
 フレデリック・エイドリアン・デラノ2世(1863年 - 1953年)は土木技師、シカゴ商業クラブ会員、サラ・デラノの兄弟である。
 ウィリアム・アダムス・デラノ(1874-1960)は建築家である。
 フランクリン・デラノ・ルーズベルト(1882年 - 1945年)はアメリカ合衆国第32代大統領である。
 ウォーレン・デラノ・ロビンズ(1885-1935)は外交官である。
 プレストン・デラノ(1886年 - 1961年)は米国会計監査官(1938年 - 1953年)である。
 原子核物理学者デビッド・デラノ・クラーク(1924-1997)
 ダイアン・デラノ(1957-2024)は女優である。
 ジェームズ・ウィットロー・デラノ(1960年生まれ)は写真家である。
 メアリー・グレイ・リーブス(フローレンス・デラノ・グレイの娘)(1962年生まれ)はカリフォルニア州で聖公会の司教となった最初の女性である。

   
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2025年02月17日

聖バレンタインデーの虐殺(Saint Valentine's Day Massacre)

聖バレンタインデーの虐殺(Saint Valentine's Day Massacre)
 1929年の聖バレンタインデーにシカゴのノースサイドギャングのメンバーと仲間7人が殺害された事件でのこと。
 1929年2月14日の朝、男たちはシカゴのリンカーンパークのガレージに集められた。
 彼らは壁際に並べられ、4人の正体不明の襲撃者(うち2人は警察官に変装していた)に射殺された。
 この殺人事件は、禁酒法時代に
が率いる主にアイルランド系であるノースサイドの犯罪組織と、
が率いる主にイタリア系であるライバルのシカゴ・アウトフィットとの間で、シカゴの組織犯罪の支配権をめぐる争いから生じたものである。[ 1  犯人は最終的に特定されたことはない。
 ただ、カポネの下で働いていた
   イーガンズ・ラッツ・ギャング
の元メンバーが関与している疑いがあるとされている。
 また、警察官の息子が殺害されたことへの復讐を望んでいた シカゴ市警のメンバーが関与したと語る者もいる。
 
 1929年2月14日木曜日、バレンタインデーの午前10時30分、 シカゴ北側のリンカーンパーク地区にあるノースクラークストリート2122番地のガレージで7人の男性が殺害された。
 彼らは2丁のトンプソンサブマシンガンを含む武器を使った4人の男によって撃たれた。
 射殺犯のうち2人は警察の制服を着ており、他の射殺犯はスーツ、ネクタイ、オーバーコート、帽子を身につけていた。
 目撃者は、銃撃後、警察の制服を着ていた男たちが銃を突きつけて他の男たちをガレージから連れ出すのを目撃した。

 犠牲者には、ジョージ・「バグズ」・モランのノースサイド・ギャングのメンバー5人が含まれていた。
 モランの副指揮官で義理の兄弟の
   アルバート・カチェレク(別名ジェームズ・クラーク)
モランギャングの簿記係兼ビジネスマネージャー
   アダム・ヘイヤー
とモランのためにいくつかの清掃と染色作業を管理していた
   アルバート・ウェインシャンク
ギャングの取り締まり役の
   フランク・グーゼンバーグ
モラン組織の最前線執行官
   ピーター・グーゼンバーグ
とともに殺害された。
 また、競馬賭博とギャングとの付き合いのために診療所を放棄した眼科医でギャンブラーでギャング仲間の
   ラインハルト・H・シュワイマー
と、モラン・ギャングで時々整備工をしていた
   ジョン・メイ
の2人の仲間も射殺された。

 シカゴ警察が現場に到着すると、被害者の
   フランク・グーゼンバーグ
は14発の銃弾を受けていたにもかかわらず、まだ生きていた。
 彼は病院に運ばれ、医師がしばらく容態を安定させ、警察は尋問を試みた。
 警察が犯人を尋ねると、彼は「話さない。頼むから病院に連れてってくれ」と答えたと伝えられている。
 彼は3時間後に死亡した。
 
 この虐殺はノースサイドギャングのボス、バッグス・モランを抹殺しようとする試みだった。
 当時フロリダの自宅にいたアル・カポネが虐殺を命じたと広く考えられている。
 この計画のきっかけは、カポネのギャングがカナダからデトロイト川を渡って密輸していた
   高価なウイスキー
をノースサイドギャングが略奪したことも背景にあった。

 モランはノースサイドのガンマンたちの最後の生き残りであり、同様に攻撃的な前任者である
   ヴィンセント・ドルッチ
が、最初のリーダーである
   ディーン・オバニオン
の殺害に続く暴動で殺害されたため、彼の後継者となった。
 モラン殺害計画のタイミングには、いくつかの要因が関係しており、モランとカポネは、シカゴの儲かる
   密造酒貿易の支配権
を争っていた。
 モランはシカゴ郊外のカポネ経営の
   ドッグレース
にも力ずくで乗り込んでおり、カポネが経営する酒場数軒を乗っ取って、自分の縄張りだと主張していた。
 その年の初めには、ノースサイドの
   フランク・グーゼンバーグ
とその兄弟ピーターが
   ジャック・マクガーン
を殺害しようとしたが、失敗に終わった。

 ノースサイド・ギャングは、
   パスクアーノ「パッツィー」ロロルド
   アントニオ「ザ・スカージ」ロンバルド
の殺害にも加担していた。
 2人はともに地元マフィアの
   ウニオーネ・シチリアーナ
の会長で、カポネの側近だった。
 計画は、1929年2月14日にモランをノース クラーク ストリートのSMC カーテージ倉庫に誘い込み、彼とおそらく2、3人の部下を殺害することだった。
 ノース サイドの住人たちは、カポネと関係のあるデトロイトの
   パープル ギャング
から盗んだ格安のウィスキーを届けるという約束でガレージに誘い込まれたと一般に考えられている。
 グーゼンバーグ兄弟はその日、2台の空のトラックを運転してデトロイトに行き、盗んだカナダ産ウィスキーを2台受け取ること になっていた。
 ジョン・メイを除く犠牲者全員が、当時のノースサイドのギャングや他のギャングたちの慣例通り、一番良い服を着ていた。

 モラン ギャングの大半は、午前 10 時 30 分頃までに倉庫に到着した。
 ただ、パークウェイ ホテルのアパートを出発するのが遅かったため、モランはそこにいなかった。
 彼と仲間のギャング メンバーの
   テッド ニューベリー
は、脇道から倉庫の裏に近づいていたところ、パトカーが建物に近づいてくるのを見た。
 彼らはすぐに引き返して来た道を戻り、近くのコーヒー ショップに向かった。
 彼らは路上でギャング メンバーの
   ヘンリー グーゼンバーグ
に遭遇し、警告したため、彼も引き返した。
 ノース サイド ギャングのメンバーである
   ウィリー マークス
も、ガレージに向かう途中でパトカーを見つけ、戸口に身をかがめて、その地域を去る前にナンバー プレートの番号を書き留めた。

 カポネの見張りは、モランの部下の一人、おそらく同じ身長と体格の
   アルバート・ワインシャンク
をモラン本人と間違えた可能性が高いと考えられている。
 二人の容姿の類似性は、その朝の服装によってさらに強調された。
 二人とも偶然同じ色のオーバーコートと帽子をかぶっていた。

 ガレージの外にいた目撃者は、ガレージの前にキャデラックのセダンが止まるのを見た。
 4人の男が現れ、中に入っていった。
 そのうち2人は警官の制服を着てた。
 2人の偽警察官はショットガンを持ってガレージの奥に入り、そこでモランのギャングのメンバーで仲間の
   ラインハルト・シュワイマー
と、トラックの1台を修理していた
   ジョン・メイ
を見つけた。
 偽警察官は男たちに壁際に並ぶよう命じ、一緒にいた私服の2人に合図した。
 殺人者のうち2人がトンプソンサブマシンガンで発砲し、1丁は20発入りの箱型マガジン、もう1丁は50発入りドラムマガジンだった。
 彼らは徹底的で、犠牲者の左から右へと銃弾を浴びせ、7発すべてが床に落ちた後も発砲を続けた。
 検死官の報告によると、その後2発のショットガンの発砲で、ジョン・メイとジェームズ・クラークの顔は破壊され人相が判別不明になったという。
 すべてが制御されているように見せるため、私服の男たちは、制服警官2人に促されながら、両手を挙げて出てきた。
 ガレージ内では、14発の銃弾を受けていたにもかかわらず、メイの愛犬「ハイボール」とフランク・グーゼンバーグの2人だけが生き残った。
 彼は意識があったが、犯人を特定することを拒否し、3時間後に死亡した。
 
 バレンタインデーの虐殺は世論の激しい抗議となり、
   全米犯罪シンジケート
のボス全員に問題を引き起こした。
 数日後、カポネは連邦禁酒法違反の罪でシカゴ大陪審に証言するよう召喚状を受け取ったが、体調が悪すぎて出席できないと述べた。
 モランがデトロイトを拠点とするカポネの酒類輸送を強奪していたことは周知の事実であり、警察はデトロイトのユダヤ人が大部分を占める
   パープル・ギャング
に注意を向けた。
 大家のドゥーディー夫人とオービッドソン夫人は虐殺の10日前に3人の男を下宿人として受け入れており、彼らの下宿先はノース・クラーク・ストリートのガレージの真向かいにあった。
 彼女たちはパープル・ギャングのメンバーである
   ジョージ・ルイス
   エディ・フレッチャー
   フィル・キーウェル
そして弟のハリーの顔写真を見つけたが、後に身元確認が揺らいだ。
 警察はフレッチャー、ルイス、ハリー・キーウェルを尋問し、容疑を晴らした。
 しかし、キーウェル兄弟はその後も犯罪に関与し続けた。
 また、警察が関与していたと考える者も多く、それが殺人犯の意図だったのかもしれない。
 2月22日、ウッドストリートのガレージ火災現場に警察が呼ばれ、そこで分解され一部が焼けた1927年製キャデラックセダンが発見された。
 犯人がその車を使用したと断定し、警察がエンジン番号をたどって、ミシガンアベニューのディーラーに行き着いた。
 そのディーラーはロサンゼルスの
   ジェームズ・モートン
に車を売っていた。
 ガレージはフランク・ロジャースと名乗る男が借りており、住所はウェストノースアベニュー1859番地だった。
 これは、セントルイスの元ギャングで、カポネギャング、パープルギャング、セントルイスのギャング、イーガンズラッツとつながりのある
   クロード・マドックス
が経営するサーカスカフェの住所だった。
 警察ではジェームズ・モートンやフランク・ロジャースという人物に関する情報を何も見つけられなかった。
 ただ、殺人犯の一人については確かな手掛かりがあった。
 殺人事件のわずか数分前、
   エルマー・ルイス
という名のトラック運転手がノース・クラーク2122番地から1ブロック離れたところで角を曲がり、パトカーに側面衝突していた。
 ルイスは警察に、すぐに停止したが、前歯が1本欠けていた制服を着た運転手に手を振られて追い払われたと話した。
 教育委員会の会長
   H・ウォレス・コールドウェル
がこの事故を目撃しており、運転手の特徴を同じように述べていた。
 警察は、イーガンズ・ラッツの元メンバーである
   フレッド・バーク
について述べていると確信していた。
 バークと親友のジェームズ・レイは、強盗をするときはいつも警察の制服を着ていることで知られていたためだ。
 なお、バークはオハイオ州で強盗と殺人の罪で起訴されている逃亡犯でもあった。

 警察ではその後、カポネのガンマンである
   ジョン・スカリス
   アルバート・アンセルミ
   ジャック・マクガーン
とカポネのボディガードである
   フランク・リオ
を容疑者と発表した。
 警察は最終的にマクガーンとスカリスを虐殺の容疑で起訴した。
 カポネは
   スカリス
   アンセルミ
   ジョセフ・「ホップ・トード」・ジュンタ
の殺害計画を知った後、1929年5月に3人を殺害した。
 警察は証拠不十分を理由にジャック・マクガーンに対する殺人容疑を取り下げた。
 マン法違反(恋人のルイーズ・ロルフを州境を越えて結婚のため連れ出した)のみで起訴した。

 事件は1929年12月14日まで停滞していたが、この日、ミシガン州ベリエン郡保安局は、ミシガン州セントジョセフにある「フレデリック・デーンのバンガロー」を家宅捜索した。
 デーンは、フレッド・「キラー」・バークが運転していた車の登録所有者だった。
 バークはその晩酒を飲んでいた後、別の車に追突して逃走した。
 パトロール警官のチャールズ・スケリーが追跡し、ついに彼を道路から追い出した。
 スケリーはバークの車のステップに飛び乗ったが、3発撃たれ、その晩に負傷により死亡した。

 車はセントジョセフのすぐ外で破壊され放置された状態で発見された。
 フレッド・デーンの所持品であることが突き止められた。この時までに、警察の写真により、デーンは実際にはセントバレンタインデーの虐殺に関与したとしてシカゴ警察に指名手配されていた
   フレッド・バーク
であることが確認された。
 警察はバークのバンガローを捜索し、防弾チョッキ、ウィスコンシンの銀行から最近盗まれた約 32 万ドルの債券、トンプソン サブマシン ガン 2 丁、ピストル、ショットガン 2 丁、弾丸数千発の入った大きなトランクを発見した。
 セント ジョセフ警察はすぐにシカゴ警察に通報し、シカゴ警察は両方のマシン ガンの引き渡しを要求した。
 警察は新しい科学である法医学弾道学を使用して、両方の武器が虐殺に使用されたものであることを確認した。
 また、そのうちの 1 つは1 年半前に ニューヨークの ギャングの
を殺害した際にも使用されたことが判明した。
 残念ながら、虐殺事件に関するそれ以上の具体的な証拠は浮上しなかった。

 バークは1年以上後にミズーリ州の農場で逮捕された。
 彼に対する告訴はスケリー警官殺害との関連が最も強かったため、ミシガン州で裁判にかけられた。
 その後終身刑を宣告され、1940年に獄死した。
 
 1935年1月8日、FBI捜査官はシカゴのノース・パイン・グローブ3920番地のアパートを包囲し、
   バーカー・ギャング
の残りのメンバーを探した。
 短い銃撃戦が勃発し、銀行強盗の
   ラッセル・ギブソン
が死亡した。
 拘束されたのは
   ドク・バーカー
   バイロン・ボルトン
および2人の女性だった。
 ボルトンは海軍の機関銃手でイーガンズ・ラッツの仲間であった。
 また、シカゴの殺し屋
   フレッド・ゴーツ
の従者でもあった。
 ボルトンはバーカー・ギャングの犯罪の多くに通じており、
   マ・バーカー
   フレディ・バーカー
のフロリダの隠れ家を正確に突き止めた。
 2人は1週間後、FBIとの銃撃戦で死亡した。
 ボルトンは、ゴーツ、フレッド・バーク、その他数名と共に聖バレンタインデーの虐殺に参加したと述べた。

 FBI は州の殺人事件には管轄権がなかったため、ボルトン氏の告白を秘密にしていた。
 シカゴ・アメリカン紙がボルトン氏の告白の間接的な内容を報じた。
 同紙は、虐殺事件に一切関わりたくない
   J・エドガー・フーバー氏
と FBI の妨害にもかかわらず、事件は「解決」したと宣言した。
 ボルトン氏の話の歪曲版が全国紙に流れた。

 ボルトン氏は、バグズ・モラン殺害計画は 1928年10月か11月にウィスコンシン州クーデレーの
   フレッド・ゴーツ氏
が所有するリゾートで計画されたと述べたと報じられた。
 この会合には、ゴーツ氏、アル・カポネ氏、フランク・ニッティ氏、フレッド・バーク氏、ガス・ウィンクラー氏、ルイ・カンパーニャ氏、ダニエル・セリテラ氏、ウィリアム・パチェッリ氏、そしてボルトン氏が出席していた。
 彼らは 2、3 週間滞在し、敵の殺害を計画していないときは狩りや釣りをしていた。

 ボルトン氏は、自分とジミー・モランは、SMC カーテージのガレージを監視し、バグズ・モランが会合に到着したときにサーカス カフェの殺人犯に合図を送る任務を負っていたと述べた。
 警察は監視所でボルトン宛の手紙 (およびおそらく処方薬の小瓶) を発見した。
 ボルトン氏は、実際の殺人犯は
   バーク
   ウィンケラー
   ゴーツ
   ボブ・ケアリー
   レイモンド「クレーン ネック」ニュージェント
   クロード・マドックス
という4 人の射手と 2 人の逃走ドライバー)だったと推測した。

 ボルトン氏は、歴史家が一般的に語る虐殺とは異なる説明をした。
 彼は、キャデラックから降りてガレージに入るのは「私服」の男たちだけだったと述べた。
 これは、殺人犯が 2 台目の車を使ったことを示している。

 ジョージ・ブリシェット氏は、少なくとも 2 人の制服を着た男が路地で車から降りて、後部ドアからガレージに入るのを見たと述べた。
 虐殺の数日後、ピアレス・モーター社のセダンが
   クロード・マドックス
が所有のメイウッドの家の近くで発見された。
 ポケットの1つに被害者
   アルバート・ウェインシャンク
の住所録が入っていた。
 ボルトンは、モランの部下の1人をモランと間違え、サーカス・カフェに合図を送ったと述べた。
 殺人犯たちはモランと彼の部下2、3人を殺害するつもりだったが、予想外に7人の男たちと対峙し、全員を殺して急いで逃げようと決めた。

 ボルトンによると、カポネは彼のミスとその結果生じた警察の圧力に激怒した。
 また、彼を殺すと脅したが、
   フレッド・ゲッツ
に思いとどまらせたという。
 彼の主張は、ガス・ウィンケラーの未亡人ジョーゼットのFBI公式声明と、1935年から1936年の冬に探偵雑誌に4回シリーズで掲載された回想録によって裏付けられた。

 彼女は、夫とその友人がカポネがハイリスクな仕事に使う特別なチームを結成していたことを明かした。
 マフィアのボスは彼らを絶対的に信頼し、「アメリカン・ボーイズ」というあだ名をつけていたと言われている。
 ボルトンの主張は、他の全員が諦めた後もずっと虐殺事件を追っていたシカゴの刑事
   ウィリアム・ドゥルーリー
によっても裏付けられた。
 銀行強盗のアルヴィン・カーピスは後に、
   レイ・ニュージェント
から虐殺について間接的に聞いたと語り、「アメリカン・ボーイズ」には週給2,000ドルとボーナスが支払われていたと語った。
 カーピスはまた、一緒にアルカトラズにいたときにカポネが、虐殺の実際の計画者はゲッツだったと彼に語ったと述べた。

 バイロン・ボルトンの供述にもかかわらず、FBI は何も行動を起こさなかった。
 ボルトンが名指しした男たちは、バークとマドックスを除いて、1935 年までに全員死亡していた。
 銀行強盗のハーヴェイ・ベイリーは、1973 年の自伝で、虐殺当時、イリノイ州カルメット シティでフレッド・バークとビールを飲んでいたが、暑さで銀行強盗を断念せざるを得なかったと述べている。
 歴史家の間では、セント・バレンタインデーの虐殺を「アメリカン・ボーイズ」が実行したかどうかについて、いまだに意見が分かれている。
   
   
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2025年02月10日

チャクリ虐殺(Ciaculli massacre)パレルモ郊外のチャクリで1963年6月30日に起きた自動車爆弾による事件

チャクリ虐殺(Ciaculli massacre)
 パレルモ郊外のチャクリで1963年6月30日に起きた自動車爆弾による事件で、匿名の電話を受けて爆弾処理に向かった警察官と軍人
   マリオ・マラウサ
   シルヴィオ・コッラオ
   カロジェロ・ヴァッカロ
   エウジェニオ・アルトマーレ
   マリオ・ファーベッリ
   パスカーレ・ヌッチョ(陸軍)
   ジョルジョ・チャッチ(陸軍)
の7 名が死亡したもの。
 爆弾は、シチリア マフィア委員会の長でチャクリマフィア一家のボス
   サルヴァトーレ「チャスキテッドゥ」グレコ
を暗殺しようとして狙ったものだった。
 パレルモのアックアサンタ地区のマフィアのボスである
   ピエトロ トレッタ
が、当初は爆弾攻撃の首謀者とみなされていた。
 チャクリ虐殺は、1960年代初頭にパレルモで敵対する組織暴力一族の間で起こった血なまぐさい抗争の頂点であった。
 この抗争は現在では第一次マフィア抗争として知られており、第二次抗争は1980年代初頭に始まった。

 第一次マフィア抗争の目的は、
   急速な都市化
   北米へのヘロインの違法取引
によってもたらされた利益機会の支配をめぐって起こった。
 この抗争の残忍さは前例のないもので、1961年から1963年にかけて68人の犠牲者を出した。
 
 1950年代、シチリアのマフィアは利権を求めて都市の不動産、土地投機、公共部門の建設、商業輸送、そして急成長するパレルモ市にサービスを提供する果物、野菜、肉、魚の卸売市場に関心を向け始めた。
 パレルモ市の人口は1951年から1961年の間に10万人増加した。

 第二次世界大戦後、マフィアとキリスト教民主党(Democrazia Cristiana )の新世代政治家
   サルボ・リマ
   ヴィト・チアンチミーノ
などとの関係が発展した。
 リマは、アンジェロ・ラ・バルベーラトマソ・ブシェッタ、そして著名な建設会社経営者
   フランチェスコ・ヴァッサッロ
とつながりがあった。
 リマがパレルモ市長を務め、
   チャンチミーノ
が公共事業の査定官を務めた1958年から1964年までの期間は、後に「パレルモ略奪」と呼ばれるようになった。
 この5年間で4,000件の建築許可が交付されたが、その半分以上は建設業界とは何の関係もない
   3人の年金受給者の名前
を使って行われた。
 この期間の建設ブームは街の緑地帯を破壊し、特徴的な別荘はアパートに取って代わられた。
 
 マフィア戦争は、1962年12月に失われた
   ヘロインの積荷をめぐる争い
と、グレコの仲間である
   カルチェドニオ・ディ・ピサ
の殺害から始まった。
 グレコは、アンジェロ
   サルヴァトーレ・ラ・バルベーラ兄弟
がこの襲撃を行ったと疑っていた。

 チャクリ虐殺はマフィア戦争をマフィアに対する戦争へと転換させた。
 戦後イタリアで初めて国家による反マフィア運動を促した。
 10週間の間に1,200人のマフィアが逮捕され、その多くが5年から6年もの間社会から締め出された。
 シチリアマフィア委員会は解散され、逮捕を逃れたマフィアの多くは、
を含め、米国、カナダ、アルゼンチン、ブラジル、ベネズエラに逃亡した。

 サルヴァトーレ・「チッキテッドゥ」・グレコはベネズエラのカラカスに逃亡した。
 この残虐行為をきっかけに、イタリア議会は反マフィア委員会の設立に関する法律を施行した。
 この法律は1962年12月に可決され、委員会は1963年7月6日に初めて会合を開いた。
 最終報告書は1976年に提出された。

 1984年に協力者(密告者)となったトマソ・ブシェッタによると、チャクリ爆弾事件の犯人はパレルモのアックアサンタ地区のボス
   ミケーレ・カヴァタイオ
だったことが供述された。
 カヴァタイオは1950年代半ば、卸売市場の支配権をめぐる
   グレコ・マフィア一族
との戦争に敗れていた。
 カヴァタイオは、グレコ一族が
   ラ・バルベーラ一家
を非難して戦争が起こるだろうと考えて、
   ディ・ピサ
を殺害した。
 そして最終的にはさらなる爆弾攻撃と殺人で戦争を煽り続けた。

 カヴァタイオは、
   シチリアマフィア委員会の統制力
が個々のマフィアファミリーに不利益をもたらすほど強まっていることに憤慨していた他のマフィアファミリーの支援を受けていた。
 カヴァタイオは1963年の事件(チャクリ虐殺等)への報復として1969年12月10日、パレルモのヴィアーレ・ラツィオで殺害された。
 この暗殺を実行したのは、
トト・リーナの義理の兄弟であるレオルーカ・バガレッラの兄
   カロジェロ・バガレッラ
ステファノ・ボンターデのサンタ・マリア・ディ・ジェズー・ファミリーの
   エマヌエーレ・ダゴスティーノ
   ガエターノ・グラード
そしてリージのマフィアボスであるジュゼッペ・ディ・クリスティーナの兵士
   ダミアーノ・カルーゾ
らマフィアの暗殺部隊であった。
 この攻撃はヴィアーレ・ラツィオ虐殺(ラツィオ大通り虐殺)として知られている。

 数人のマフィアのトップボスは、サルヴァトーレ「チャスキテッドゥ」グレコの助言を受けて、カヴァタイオを殺害することを決定した。
 グレコは、第一次マフィア戦争の最初のきっかけに関するブシェッタの理論に同意するようになった。
 ブシェッタによると、殺し屋部隊の構成は、殺害がシチリアの主要マフィアファミリーのすべてによって共同で承認されたことを明確に示しており、コルレオーネの
   カロジェロ・バガレッラ
とパレルモの
の家族の一員だけでなく、シチリアの反対側の組織であるリージの
   ジュゼッペ・ディ・クリスティーナ
の家族の兵士も含まれていた。
 ヴィアーレ・ラツィオの血みどろの虐殺は、チャクッリ虐殺以来支配していた「マフィアの平和」の終焉を告げた。
 
 チャクリ虐殺と同じ日に、ヴィッラバーテで別の自動車爆弾攻撃があり、
   ジュゼッペ・テサウロ
   ピエトロ・カニッツァーロ
の2人の民間人が死亡した。
 
     
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2024年11月29日

スクロール・アンド・キー協会(Scroll and Key Society)

スクロール・アンド・キー協会(Scroll and Key Society)
 1842年にコネチカット州ニューヘブンのイェール大学で設立された秘密結社のこと。
 同協会はイェール大学で最も古い秘密結社の一つであり、最も裕福であるとも言われている。
 この協会は、スカル・アンド・ボーンズ、ウルフズ・ヘッドとともに、イェール大学の「ビッグ3」結社の一つとして知られている。
 毎年春、同協会は15人の上級生をその活動に参加させ、伝統を引き継いでもらう方式である。

 スクロール・アンド・キーは、スカル・アンド・ボーンズ協会の選挙をめぐる論争の後に
   ジョン・アディソン・ポーター
が、1842年卒の
   レナード・ケース・ジュニア
   セオドア・ラニヨン
を含む何人かの会員と1843年卒の会員
   ウィリアム・L・キングスリー
の援助を得て設立した。
 キングスリーは、設立から数年後に設立された同窓会組織
   キングスリー・トラスト協会(KTA)
の名にちなんでいる。

 ライマン・ホッチキス・バッグは「1860年という最近の日付まで、キーズは会員を集めるのに非常に苦労し、選挙の夜に15人全員を確保できることはめったになかった」と書いている。
 しかし、協会は活動資金の提供に加え、スクロール・アンド・キーは長年にわたりイェール大学に多額の寄付を行ってきました。 1872年以来毎年授与されている
   ジョン・アディソン・ポーター賞
や、1917年にイェール大学出版局の設立のために寄付された基金は、「キーズ」からの贈り物である。
 イェール大学出版局は、『イェール・シェイクスピア』の出版資金を提供し、イェール若手詩人シリーズを後援してきた。
 
 木曜と日曜のセッションの最後に、会員は
協会のホールの正面の階段で「トルバドゥール」の歌を歌うことで知られている。
 これはイェール大学での公開歌唱の伝統の名残とされる。
 カル・アンド・ボーンズの「322」、マニュスクリプトの「344」、パンディッツの「TBIYTB」などの秘密の文字や記号を採用する慣習に従って、スクロール・アンド・キーは「CSPとCCJ」の文字を使用することが知られている。
 協会のメンバーは、スカル・アンド・ボーンズの「yours in 322」とは対照的に、お互いに「YiT」と手紙に署名する。
 タップ関連の活動以外にも、この協会は「Zセッション」と呼ばれる2つの大きな年次イベントを開催している。
  
 「墓」と呼ばれたこの協会の建物は、
   リチャード・モリス・ハント
によってムーア復興様式で設計され、1870年に建設された。
 その後の拡張は1901年に完了した。
 建築史家パトリック・ピネルは、1999年に出版したイェール大学キャンパスの歴史書の中で、キーズの建物について詳細に論じ、キーズの建物に関連した当時注目されたコスト超過と、キャンパスの景観におけるその美的重要性について語っている。

 ピネルの歴史書には、この土地がイェール大学の別の秘密結社である
   ベルセリウス(当時はシェフィールド科学学校の協会)
から購入されたという事実も記されている。
 ピネルは、墓の独特な外観について、「19世紀の芸術家のスタジオには、画家が洗練されていて、よく旅をし、神秘的な力に触れていたことを示すために、異国の東洋の品々が置いてあるのが一般的だった。ハントの巻物と鍵は、この比喩が建物に変わった一例である」と述べている。
 その後、学部生はイェール大学の年鑑の付録で、この建物を「縞模様のシマウマのビリヤード場」と表現した。
 なお、最近では、学部生の出版物で「ニューヘイブンで最も素晴らしい建物」と表現されている。
 
 スクロール・アンド・キーは毎年、15人のジュニアクラスの男女からなる代表団を選出し、翌年に奉仕する。
 メンバーは、特に「学業、課外活動、または個人的なあらゆる分野で成果を上げた」ジュニアクラスの多様なグループに提供される。[ 11 ]代表団には、イェール・デイリー・ニュースやその他の出版物の編集者、芸術家や音楽家、社会活動家や政治活動家、著名なスポーツ選手、起業家、優秀な学者などが含まれることが多い。
 マーク・トウェインは、 1859年イェール大学卒業生のジョセフ・トゥイッチェルの後援により名誉会員となった。

◯著名なメンバー
 ・レナード・ケース・ジュニア 1842年
   ケース応用科学学校(後のケース・ウェスタン・リザーブ大学)の創設者 
 ・セオドア・ラニヨン 1842年
   ドイツ特使および大使; ブルランの戦い 
 ・カーター・ヘンリー・ハリソン 1845年
   シカゴ市長および米国下院議員 
 ・ホーマー・スプレイグ 1852年
   ノースダコタ大学学長
 ・ランドール・L・ギブソン 1853年
   米国上院議員、南軍准将、チューレーン大学学長
 ・ジョージ・シラス・ジュニア 1853年
   米国最高裁判所判事 
 ・ジョン・ダルゼル 1865年
   米国議会 
 ・ジョージ・バード・グリネル 1870年
   人類学者、歴史家、博物学者、作家 
 ・エドワード・ソールズベリー・ダナ 1870年
   アメリカの鉱物学者 
 ・フレッド・デュボア 1872年
   米国上院議員
 ・ヘンリー・デフォレスト 1876年
   サザンパシフィック鉄道 
 ・ギルバート・コルゲート 1883年
   コルゲート社の社長兼会長。 
 ・ジョージ・エドガー・ヴィンセント 1885年
   ミネソタ大学学長、ロックフェラー財団会長 
 ・ジェームズ・ギャンブル・ロジャース 1889年
   建築家、イェール大学の多くの建物を設計した 
 ・ハーバート・パーソンズ 1890年
   米国議会
 ・ハーヴェイ・カッシング 1891年
   脳外科の父とされる神経外科医 
 ・ウィリアム・ネルソン・ラニヨン 1892年
   ニュージャージー州知事代行 
 ・フランク・ポルク 1894年
   国務長官デイビス・ポーク・ウォードウェルは第一次世界大戦の終結に尽力した。
 ・アレン・ウォードウェル 1895年
   デイビス・ポーク・アンド・ウォードウェル、ニューヨーク銀行
   アメリカ・ロシア商工会議所副会頭
 ・ルイス・シェルドン 1896年
   パリ講和会議、オリンピックメダリスト 
 ・コーネリアス・ヴァンダービルト3世 1895年
   第一次世界大戦中のアメリカ陸軍准将 
 ・ウィリアム・アダムス・デラノ 1895年
   建築家。イェール大学の多くの建物を設計した。 
 ・ジョセフ・メディル・マコーミック 1900年
   米国上院議員、シカゴ・トリビューンの発行人 
 ・ジョセフ・M・パターソン 1901年
   ニューヨーク・デイリー・ニュースの創刊者、シカゴ・トリビューンの経営者
 ・ロバート・R・マコーミック 1903年
   シカゴ・トリビューン、カークランド&エリス
 ・ジェームズ・C・オーチンクロス 1908年
   米国議会、ニューヨーク証券取引所総裁、米国軍事情報局、第一次世界大戦 
 ・ウィリアム・C・ブリット 1912年
   駐フランス大使、駐ソ連大使 
 ・モーティマー・R・プロクター 1912年
   バーモント州知事 
 ・コール・ポーター 1913年
   エンターテイナー、ソングライター 
 ・ディーン・アチソン 1915年
   第51代国務長官 
 ・ウェイン・チャットフィールド・テイラー 1916年
   輸出入銀行総裁、商務次官、財務次官
 ・ディキンソン・W・リチャーズ 1917年
   ノーベル生理学・医学賞 
 ・イーサン・A・H・シェプリー 1918年
   セントルイス・ワシントン大学学長
 ・ジョン・エンダース 1919年
   ノーベル生理学・医学賞 
 ・ブリュースター・ジェニングス 1920年
   ソコニーモービル石油会社の創設者兼社長スタンダードオイルオブニューヨーク 
 ・シーモア・H・ノックス 1920年
   アメリカの小売業者、FWウールワース社 
 ・リチャードソン・ディルワース 1921年
   フィラデルフィア市長
 ・ウィリアム・ホークス 1923年
   映画プロデューサー 
 ・ジェームズ・スティルマン・ロックフェラー 1924年
   ニューヨーク第一ナショナルシティ銀行頭取兼会長、オリンピック金メダル
 ・ハンティントン・D・シェルドン 1925年
   中央情報局、アメリカ石油公社社長 
 ・ニューボールド・モリス 1925年
   ニューヨークの弁護士、政治家
 ・ベンジャミン・スポック 1925年
   小児科医、作家、オリンピック金メダリスト 
 ・ジョン・ヘイ・ホイットニー 1926年
   駐英国米国大使、ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン発行人
 ・フレデリック・A・ポッツ 1926年
   フィラデルフィア国立銀行会長、ニュージャージー州上院議員
 ・ポール・メロン 1929年
   慈善家
 ・ベンジャミン・ブリュースター 1929年
   ニュージャージー州スタンダード石油会社(後のエクソン)取締役
 ・レイモンド・R・ゲスト 1931年
   駐アイルランド米国大使、国防長官特別補佐官 
 ・ドナルド・R・マクレナン 1931年
   保険仲介会社マーシュ・マクレナンの創設者兼会長 
 ・ロバート F. ワグナー ジュニア 1933年
   ニューヨーク市長 
 ・J.ピーター・グレース 1936年
   WR グレース&Co.
 ・ピーター・H・ドミニク 1937年
   米国上院議員、米国下院議員、スイス駐在米国大使 
 ・サージェント・シュライバー 1938年
   平和部隊、副大統領候補、大統領自由勲章受賞 
 ・サイラス・ヴァンス 1939年
   国務長官、陸軍長官、ニューヨーク地区連邦準備銀行総裁 
 ・ロバート・D・オール 1940年
   インディアナ州知事、シンガポール駐在米国大使 
 ・コード・マイヤー・ジュニア 1943年
   中央情報局、世界連邦主義者連合 
 ・ジョージ・ロイ・ヒル 1943年
   アカデミー賞 『スティング』監督賞
 ・フレデリック・B・デント 1944年
   米国商務長官
 ・ジョン・ヴリエット・リンゼイ 1944年
   ニューヨーク市長、ニューヨーク市選出下院議員
 ・トーマス・エンダース 1953年
   駐スペイン大使、欧州連合大使、駐カナダ大使
 ・フィリップ・B・ヘイマン 1954年
   ウォーターゲート事件特別検察官、米国司法副長官、ハーバード大学ロースクール教授
 ・ウォーレン・ジマーマン 1956年
   駐ユーゴスラビア米国大使、作家 
 ・ロスコー・S・サダース 1956年
   中東研究所所長、ヨルダン駐在米国大使 
 ・カルヴィン・トリリン 1957年
   作家 
 ・A. バートレット ジアマッティ 1960年
   イェール大学学長、ナショナルリーグ会長、MLBコミッショナー 
 ・ピーター・ビアード 1961年
   写真家
 ・ギャリー・トルドー 1970年
   ドゥーンズベリーの漫画家 
 ・ストーン・フィリップス 1977年
   デイトラインNBC
 ・リック・E・ローレンス 1977年
   メイン州最高裁判所判事
 ・ギデオン・ローズ 1985年
   外務 
 ・ファリード・ザカリア 1986年
   ニューズウィーク編集者、CNN番組司会者
 ・デイブ・バセジオ 1989年
   シアトル・クラーケンのプロスカウトディレクター
 ・ダリア・リスウィック 1990年
   ニューズウィークとスレートの編集者 
 ・ジーニー・リー 1994年
   司法妨害調査特別委員会委員
 ・アレクサンドラ・ロビンス 1998年
   ジャーナリスト 
 ・アリ・シャピロ 2000年
   ナショナル・パブリック・ラジオの「オール・シングス・コンシダード」の共同司会者

   
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2024年11月23日

オレシュニク(Орешник)ロシアの実験用移動式地上配備型ミサイルシステム

オレシュニク(Орешник)
 ロシアの実験用移動式地上配備型ミサイルシステムのこと。
 同名の中距離弾道ミサイルの装備品であり、その名称は実験と戦闘の後、2024年11月21日にロシアの
   ウラジーミル・プーチン大統領
によって初めて発表された。
 ロシアのウクライナ侵攻中にこのミサイルが使用された。
 おそらく戦闘条件で使用される
   多弾頭を持つ世界初の中距離ミサイル
であり、軍事専門家によれば、これは
   RS-26「Rubezh」複合体の改良版
であるという。

  

 オレシュニク中距離ミサイルシステムの実験設計作業について、戦略ミサイル軍の
   セルゲイ・カラカエフ司令官
は、、2023年7月のロシア大統領の決定に基づくロシア産業界の協力によって開発されたと明かした。

 プーチン大統領によれば、オレシュニクは「ロシアの最新の中距離ミサイルシステムの一つ」であり、
   非核極超音速ミサイル
を含む様々な装備を備え、インターネット上に公開された夜間攻撃の映像から見ると、個別標的型多弾頭が搭載されている。
  
 このミサイルはソ連の
   RSD-10 パイオニア
   RS-26 ルベジ
と同型に分類されているが、極超音速誘導弾頭システムアバンガルドのため 2027 年まで
   国家兵器計画
には入らなかった。

 ウクライナの専門家や当局者がドニエプル川攻撃前日に警告したのは、
   カプースチン・ヤルミサイル実験場の領土
から「ルベジ」を使用するロシアの意図についてであり、攻撃直後にも使用を認めた。
 攻撃の翌日、国防総省はこの攻撃がRS-26 ルベジをベースとしたミサイルによって行われたと発表した。

 ロシアの核政策の専門家マキシム・スターチャク氏は、ルベジの
   飛行距離は6,000キロメートル
に達する予定であり、それぞれ
   推定積載量0.3メガトンの核弾頭を4発搭載
する予定だったが、ルベジへの攻撃中に言及した。
 ドニエプルのビデオには、弾頭が爆発したのは7発だったが、おそらく8発だったと見られている。

 この軍事専門家はまた、ミサイルの
   速度がマッハ10
であるというプーチン大統領の言葉は
   誇張した可能性
があり、現代のミサイル防衛/防空システムがミサイルを破壊することができないという発言も、
   実際の戦闘による撃墜の試み
がなければ根拠がない可能性を指摘した。
 ロシアのBBCサービスは、記載されているマッハ10は弾道ミサイルブロックの通常の落下速度であると指摘した。
 
 2024年11月21日、ロシアはウクライナのドニエプル市にあるユジマシュ工場で非核極超音速装備の
   オレシュニク・ミサイル
を攻撃で使用した。
 ウラジーミル・プーチン大統領によると、これは
   戦闘条件下での試験発射
であり、ロシア領土内の軍事目標に対して
   ATACMS
   ストームシャドウ・ミサイル
を使用するウクライナ同盟国の許可に応じて実施されたと主張した。
 この発射前、ロシアは米国に対し、
   核紛争のリスク
を軽減するためルートを通ってミサイルを発射することについて警告したと主張した。

 軍事専門家やジャーナリストは、2024 年 11 月 21 日のオレシュニク ミサイル攻撃を
   核による脅迫
であると認識した。
 特に、エコノミスト誌は、ウラジーミル・プーチンが
   核の脅威を増幅
させるために「新型ミサイルを発射」というタイトルの記事を掲載した。
 戦争研究研究所では、ウラジーミル・プーチンが11月21日のオレシュニク攻撃を
   修辞的にロシアの核能力
と結び付けたと考えている。

 西側諸国がウクライナを支援するのを阻止するための攻撃であり、軍備管理協会の事務局長
   ダリル・キンボール氏
は、ロシアは
   定期的に核攻撃が可能な他の兵器
でウクライナを攻撃しているため、新型ミサイルの危険度を誇張しないよう話した。

 ロシアの核政策の専門家マキシム・スターチャクによれば、オレシュニクが本当に
   ルベジの改良型
であるならば、ロシアは
   現行のSTART-3条約に違反
していることになると明かした。

 ウクライナのウラジミール・ゼレンスキー大統領は、今回の攻撃を「この戦争の規模と残虐性の深刻な増大であり、ロシアによる
   国連憲章の皮肉な違反
と批判し、世界は戦争の拡大に対して残酷に反応しなければならないと続けた。
 ロシアによるオレシュニク・ミサイル使用に関連して、ウクライナも11月26日にブリュッセルのNATO本部でウクライナ・NATO理事会内の緊急会議を開始した。

 ドイツのオラフ・ショルツ首相は状況を「ひどいエスカレーション」と述べ、ロシアとNATOの対立激化を避けるため、ドイツは
   トーラス巡航ミサイル
をウクライナに送るつもりはないと続けた。

 ステファン・デュジャリック国連事務総長 報道官は、ロシアによる攻撃を
   「憂慮すべき恐ろしい展開」
と批判、状況の沈静化を求めた。

 2024年11月22日、ウラジーミル・プーチン大統領は国防省指導部、軍産複合体の代表者、ミサイルシステム開発者と会談し、オレシュニク複合施設の運用を受け入れ、量産体制を確立することを決定した。
 また、同じ会談で、ロシア大統領は戦闘条件下でこのミサイルシステムの試験を継続することに同意した

   
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2024年11月04日

ナポレオン戦争(Napoleonic Wars)

ナポレオン戦争(Napoleonic Wars)
 ナポレオンは1799年に権力を掌握し、軍事独裁政権を樹立した。
 ナポレオン戦争の正式な始まりの日付については多くの考え方があるが、1792年から1814年までのイギリスとフランスが唯一の短い平和期間を終えた1803年5月18日がよく使われている。
 ナポレオン戦争(1803年 - 1815年)は、
   ナポレオン・ボナパルト(1804年 - 1815年)
が率いるフランス第一帝政と、変動するヨーロッパの連合軍との間で戦われた一連の紛争のこと。
 この戦争は、フランス革命(1789年 - 1799年)とフランス革命戦争(1792年 - 1802年)から生じた政治勢力に端を発した。
 ヨーロッパ大陸におけるフランスの支配の時代であり、この戦争は7つの紛争に分類される。
 そのうち、5つはナポレオンと戦った連合軍
   第三次対仏大同盟戦争から第七次対仏大同盟戦争
にちなんで名付けられ、さらに2つは
   半島戦争
   フランスのロシア侵攻
とそれぞれの戦域にちなんで名付けられた。 
 戦争の第一段階は、1803年5月18日、第三次対仏大同盟とともにイギリスがフランスに宣戦布告したときに勃発した。
 1805年12月、ナポレオンはアウステルリッツで
   ロシア・オーストリア連合軍
を破り、オーストリアに和平を迫った。

 フランスの勢力拡大を懸念した
   プロイセン
は第四次対仏大同盟の結成を主導した。
 1806年10月に戦争が再開された。ナポレオンはすぐにイエナ・アウエルシュテットでプロイセン軍を、フリートラントでロシア軍を破り、大陸に不安定な平和をもたらした。
 条約は緊張を終わらせることができず、1809年にオーストリア主導の第五次対仏大同盟により再び戦争が勃発した。
 最初、オーストリア軍はアスペルン・エスリンクで大きな勝利を収めたが、すぐにヴァーグラムで敗れた。

 ナポレオンは、大陸封鎖によってイギリスを孤立させ、経済的に弱体化させることを望んだ。
 フランスは、ヨーロッパ大陸で唯一残っていたイギリスの同盟国であるポルトガルへの侵攻を開始した。

 1807年11月にリスボンを占領し、フランス軍の大半がスペインに駐留していた後、ナポレオンはこの機会を利用してかつての同盟国に背き、当時のスペイン王家を廃位した。
 1808年に弟のジョゼ1世をスペイン国王に宣言した。
 こうしてスペインとポルトガルはイギリスの支援を受けて反乱を起こした。
 6年間の戦闘の末、1814年にフランス軍をイベリア半島から追放した。
 同時に、貿易の減少による経済的影響に耐えることを望まなかったロシアは、大陸封鎖を頻繁に破った。

 ナポレオンは1812年にロシアへの大規模な侵攻を開始した。
 その結果生じた作戦はフランスにとって惨事に終わり、ナポレオンの大陸軍は壊滅寸前となった。
 この敗北に勇気づけられたイギリス、オーストリア、プロイセン、スウェーデン、ロシアは第六次対仏大同盟を結成した。
 フランスに対する新たな作戦を開始し、 1813年10月にライプツィヒでナポレオンを決定的に打ち負かした。
 その後、連合軍は東からフランスに侵攻し、半島戦争は南西フランスに波及した。

 連合軍は1814年3月末にパリを占領し、4月にナポレオンの退位を強制してエルバ島に追放し、ブルボン家に権力を回復させた。
 ナポレオンは1815年2月に脱出し、約100日間フランスを再び支配した。連合軍は第七次対仏大同盟を結成した。 
 1815年6月にワーテルローでナポレオンは敗北し、セントヘレナ島に追放された。

 ナポレオンは6年後の1821年にそこで亡くなった。
 これらの戦争は、
   ナショナリズムと自由主義の広がり
   民法の進歩
   世界有数の海軍力と経済大国としてのイギリスの台頭
   スペイン領アメリカにおける独立運動の出現
とそれに続く
   スペイン帝国とポルトガル帝国の衰退
   ドイツとイタリアの領土のより大きな国家への根本的な再編
そして根本的に新しい戦争遂行方法の導入など、世界史に重大な影響を及ぼした。
 ナポレオン戦争の終結後、ウィーン会議はヨーロッパの国境を引き直し、大陸に比較的平和をもたらした。
 これは1848年の革命と1853年のクリミア戦争まで続いた。
 
    
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2024年09月22日

OTR-21 トーチカ(Оперативно-тактический ракетный комплекс OTR-21 Tochka)

OTR-21 トーチカ(Оперативно-тактический ракетный комплекс OTR-21 Tochka)
 ソビエト連邦軍の自走式戦術弾道ミサイルシステムである。
 GRAUインデックスでは9K79、NATOコードネームではSS-21 スカラベと呼ばれる。
 名称の「トーチカ」はロシア語で「点」を、「スカラベ」はタマオシコガネ(いわゆるフンコロガシ)を意味する。
 
 旧ソビエトの 戦術弾道ミサイルとして開発された。
 GRAU指定は9K79。NATO報告名はSS-21 スカラベである。
 9P129車両ごとにミサイル1発を搭載し、慣性誘導システムを使用し発射前に持ち上げられる。
  
 単価 30万ドル[ 1 ]
 質量 2,000 kg (4,400 ポンド) スカラベ A
    2,010 kg (4,430 ポンド) スカラベ B
 長さ 6,400 mm(250インチ)
 直径 650 mm(26インチ)
 最大射程距離 70 km (43 マイル) スカラベ A
        120 km (75 マイル) スカラベ B
 弾頭 化学兵器、100kt 核弾頭、EMP、または破片充填
 正確さ 150m (トーチカ)
     95m (トーチカ-U)
 
 東ドイツへのOTR-21前方配備は1981年に始まり 、以前のルナMシリーズの無誘導砲ロケットに取って代わった。
 このシステムはロシア軍によって2020年に9K720イスカンデルに置き換えられる予定だった。
 2022年のロシアのウクライナ侵攻の際にはウクライナの標的に対して使用されているのが確認されている。
 
 OTR-21 は移動式ミサイル発射システムで、戦場で他の陸上戦闘ユニットとともに配備されるように設計されている。
 9K52ルナ Mは大型で精度が比較的低いのに対し、OTR-21 ははるかに小型で、ミサイル自体は、コントロール ポスト、橋、保管施設、部隊集結地、飛行場などの敵の戦術目標を正確に攻撃するために使用できる。
 破片弾頭は、核弾頭、生物弾頭、化学弾頭に置き換えることが可能である。
 固体推進剤により、ミサイルのメンテナンスと配備が容易になる。

 OTR-21ユニットは通常、旅団構造で管理され、旅団には18台の発射装置がある。
 各発射装置には2発または3発のミサイルが搭載されている。
 車両は水陸両用で、最高速度は路上で時速60km(37mph)、水中では時速8km(5.0mph)である。
 この車両はNBC防護されている。
 
 最初のバージョンであるトーチカ(NATOの報告名はスカラベA)は、1975年にソ連軍に配備された。

・トーチカU
 改良されたトーチカU(NATO報告名スカラベB)は、1989年に導入された。
 新しいモーター推進剤により射程距離は120km(75マイル)に延びた。
 CEPは大幅に改善され、95m(312フィート)となった。
 弾頭の選択肢としては、一体型高性能爆薬弾頭、対人子弾頭ディスペンサー、対レーダー弾頭、EMP弾頭、核弾頭2つの計6つが報告されている。 

運用履歴
・1994年のイエメン内戦中、イエメン政府は南部軍に対してトーチカミサイルを使用した。
・1999年、ロシアは第二次チェチェン戦争でこのミサイルを使用した。
・2008年8月、ロシア軍は2008年の南オセチア戦争中に少なくとも15発のトーチカミサイルを配備した。
・2014年、CNNはドンバス戦争中にドネツク近郊でウクライナ軍かロシアが支援する分離主義勢力によって少なくとも1発が使用されたと報じた。ウクライナ軍は弾道ミサイルの使用を否定する声明を発表した。
・シリア内戦(2011年〜現在)
・イエメン内戦(2014年〜現在)
・2020年ナゴルノ・カラバフ戦争
・ロシア・ウクライナ戦争
 2022年2月24日、ウクライナ軍はロシアのウクライナ侵攻への報復として、またロシア空軍によるウクライナへのさらなる空爆を阻止するために、ロストフ州にあるロシアのミレロヴォ空軍基地に対してトーチカU弾道ミサイル2発によるミサイル攻撃を開始した。
 この攻撃によりSu-30SM1機が地上で破壊された。
 2022年2月24日、ロシア軍が発射した9M79トーチカミサイルがウクライナのドネツク州ヴレダルにある病院の建物の近くに着弾し、民間人4人が死亡、10人が負傷した。
 アムネスティ・インターナショナルの調査により、病院は軍事目標ではなかったことが確認された。
 2022年3月14日、ロシア連邦と分離主義勢力ドネツク人民共和国政府は、ドネツクでトーチカUミサイルを発射し、民間人23人が死亡、28人が負傷したとしてウクライナ軍を非難した。
 この住宅施設は分離主義勢力の兵舎として使用されていたとされている。
 
 2022年3月19日、ロシア軍はベルジャンシク港付近でウクライナが発射したミサイルを撃墜したと主張した。
 2022年3月24日、ウクライナのベルジャンスク港に停泊していたロシア海軍の揚陸艦サラトフが火災を起こし、沈没した。
 7月3日、ロシア当局はソ連時代のタピル級揚陸艦サラトフの沈没を確認した。
 同艦はトーチカUミサイルの攻撃を受けた。
 ロシアは、弾薬の爆発を防ぐために乗組員が艦を自沈させ、その後船は引き揚げられたと主張している。
 
 2022年4月8日、ウクライナの支配下にあるクラマトルスクの鉄道駅がロシアのトーチカU弾道ミサイル2発の攻撃を受けた。
 この攻撃で少なくとも52人の民間人が死亡し、少なくとも87人が負傷した。
 その後、ロシアは誤ってウクライナを攻撃の責任を負わせた。
 ミサイルにはロシア語で「子供たちに代わって」という意味のメッセージが白く書かれていた。
 
 2022年6月16日、占領下のウクライナ都市フルスタリヌイにあるロシアの弾薬倉庫がウクライナのトーチカUミサイルの攻撃を受けたと報告された。
 2023年1月13日、ウクライナは、様々な特殊部隊、大砲、トーチカUミサイルを使用して、ソレダル地域で100人以上のロシア兵を殺害したと主張している。
 2024年5月12日、ロシア政府と国営メディアの報道によると、ウクライナのミサイル攻撃(トーチカUを含むとされる)により、ベルゴロドの10階建ての住宅が損傷し、15人が死亡したと報じられている。

   
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2024年09月08日

ボストン ブラミン(Boston Brahmin) 

ボストン ブラミン(Boston Brahmins)またはボストン・エリート(Boston elite)は、ボストンの歴史的な上流階級のメンバーのこと。
 19世紀後半から20世紀半ばにかけて、彼らは洗練されたニューイングランド訛り、ハーバード大学、英国国教会、伝統的なイギリス系アメリカ人の習慣や服装としばしば関連付けられてきた。
 最も初期のイギリス人入植者の子孫は、通常、ボストン・ブラミンの最も代表的な人々であると考えられている。
 彼らは白人アングロサクソン・プロテスタント(WASP)として米国の基軸として金融、政治、慈善活動において中心的な役割を果たし続けている集団でもある。

 オリバー・ウェンデル・ホームズ・シニアは、1860年1月にアトランティック・マンスリー誌に寄稿した記事の中で「ブラミン」という語句を作り出した。
 「ニューイングランドのバラモンカースト」という表現は、医師で作家の
   オリバー・ウェンデル・ホームズ・シニア
が、1860年1月のアトランティック・マンスリー誌の記事で初めて使った。
 このバラモンという用語は、ヒンズー教のカースト制度における4つのカーストのうち、特権階級の聖職者カーストを指す。
 拡大解釈すると、この用語は米国で、米国の制度や文化の発展に影響力を持つようになった、

 英国プロテスタント系の
   古い裕福なニューイングランドの家族
を指すようになった。
 現代では古い米国紳士階級の影響は表面的には弱まっているが、全盛期に彼らが擁護した制度や理想を中心とした仕組みは健在である。

 ビーコンヒルは、ボストンのマサチューセッツ州議事堂の近くにあるボストン・ブラミンの著名な地区である。
 ブラミンの性質は、ホーリークロスの卒業生
   ジョン・コリンズ・ボシディ
の駄詩「ボストン・トースト」の中で言及されている。
 19 世紀の大富豪ブラミンに属する一家の多くは庶民の出身で、貴族出身の家族は少数であった。
 新しい家族は、イギリスの典型的なやり方で、社会的地位を高めて確固たる特権階級とするために、イギリスの地主の子孫であるニューイングランドの古い貴族家と適切な婚姻関係を結ぶことを最初に模索し、英国貴族等との婚姻を使って洗練化していった。
 ウィンスロップ家、ダドリー家、ソルトンストール家、ウィンスロー家、ライマン家 (イギリスの政務官、ジェントリ、貴族の子孫) は、概してこの取り決めに満足した。
 したがって、ボストンの「ブラミン エリート」は全員、紳士と自由人、淑女と女性の区別を維持すると彼らが
   想像した個人の卓越性
を培うことを含め、古いイギリスのジェントリの受け継がれた文化を維持しようと習慣や風習を生活に組み込んでいった。
 また、彼らは、卓越性、義務、自制心という自分たちが定義したものを維持することを義務と考えるようになった。
教養があり、上品で、威厳のあるボストンのブラミンは、啓蒙された貴族階級の真髄そのものに近づいていった。
 また、理想的なブラミンは裕福であるだけでなく、適切な個人的な美徳と性格特性を備えていると考えられた。

 ブラミンは服装、物腰、立ち居振る舞いにおいてイギリス風の控えめな態度を保ち、芸術を磨き、病院や大学などの慈善事業を支援し、地域社会のリーダーの役割を果たすことが求められた。
 なお、理想としては、ありふれたビジネスの価値を超えることが求められていた。

 しかし、実際には、経済的成功のスリルに非常に魅力を感じる者が多かった。
 ブラミンたちは、貪欲にならないよう互いに警告し合い、個人の責任を主張した。
 また、スキャンダルや離婚は受け入れられなかった。

 こうした文化は、ボストン社会に存在する強い大家族の絆によって支えられた。
 若い男性は同じ予備校、大学、私立クラブに通い、相続人は相続人の女性と結婚した。
 家族は経済的資産としてだけでなく、道徳的抑制の手段としても機能した。

 ブラミンの大半はユニテリアン派または聖公会に属していた。
 ただ、一部は会衆派またはメソジスト派であった。

 政治的には、彼らは連邦党員、ホイッグ党員、共和党員となった。
 彼らは、独特の物腰と、かつては独特の話し方で特徴づけられ生活習慣が区別化されていった。

 彼らの独特なアングロ・アメリカン風の服装は、多くの模倣を受け、現在非公式にプレッピーとして知られるスタイルの基礎となっている。
 ブラミン家系の多くは、その祖先を17世紀と18世紀の元々の植民地支配階級にまで遡ることができる。
 この階級はマサチューセッツ州の知事や治安判事、ハーバード大学の学長、著名な聖職者、主要な科学団体であるロンドン王立協会の会員で構成されていた。
 一方、その他の者は、19世紀に商業や貿易で得た利益を携えてニューイングランドの貴族社会に入り、確立したブラミン家系と結婚することによりメンバーとなっていった。
  
    
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2024年08月13日

スペイン内戦(Guerra Civil Española)

スペイン内戦(Guerra Civil Española)
 1936年から1939年にかけて共和党と国民党の間で戦われた軍事紛争のこと。
 共和党は第二共和政の左派人民戦線政府に忠誠を誓い、様々な社会主義、共産主義、分離主義、無政府主義、共和党の政党で構成されていた。
 そのうちのいくつかは戦前からスペイン政府に反対していた。
 共和党に対立する国民党は、ファランヘ党、君主主義者、保守主義者、伝統主義者の同盟として
   フランシスコ・フランコ将軍
がすぐに優勢な役割を担うようになった軍事政権が率いた。

 当時の国際政治情勢により、戦争は多くの側面を持ち、階級闘争、宗教闘争、独裁政権と共和制民主主義の闘争、革命と反革命の闘争、ファシズムと共産主義の闘争など様々な利害の対立が内部に見られた。

 スペイン内戦中にスペイン駐在の米国大使を務めた
   クロード・バウワーズ
によると、それは第二次世界大戦の「リハーサル」であり、ナショナリストは1939年初頭に終わった戦争に勝利し、1975年11月にフランコが死去するまでスペインを支配したと述べた。

 スペイン内戦は、 1936年7月にスペイン共和軍の将軍らが共和政府に対して起こした
   クーデター
が部分的に失敗した後に始まった。
 クーデターの主たる立案者および指導者である
   エミリオ・モラ将軍
と名目上の指導者
   ホセ・サンフュルホ将軍
だった。
 当時の政府は共和主義者の連合体で、議会では共産党と社会党が支持したうえ、中道左派の
   マヌエル・アサーニャ大統領
が指導していた。

 ナショナリスト派は、CEDA、対立するアルフォンス派と宗教保守派のカルリスタを含む君主主義者、ファシスト政党のファランヘ・エスパニョーラ・デ・ラス・ホンスなど、いくつかの保守派グループの支持を受けていた。
 サンフュルホ、エミリオ・モラ、マヌエル・ゴデッド・リョピスの死後がナショナリスト側の残った指導者として
   フランシスコ・フランコ将軍
が浮上した。
 このクーデターは、モロッコ、パンプローナ、ブルゴス、サラゴサ、バリャドリッド、カディス、コルドバ、マラガ、セビリアの軍部隊の支援を受けたものの、マドリード、バルセロナ、バレンシア、ビルバオ、ムルシア、アルメリアなど、ほぼすべての主要都市の反乱部隊は制圧できなかった。
 これらの都市は政府の手中に留まり、スペインは軍事的にも政治的にも分裂し国民党政府と共和政政府が国の支配権をめぐって戦闘が継続拡大した。

 国民党軍はファシストイタリア、ナチスドイツ、ポルトガルから弾薬、兵士、航空支援を受けた。
 一方の共和政政府はソ連とメキシコから支援を受けた。

 イギリス、フランス、アメリカなど他の国々は共和政政府を承認し続けた。
 ただ、公式には不干渉政策をとったが、非介入主義諸国の数万人の国民が直接紛争に参加した。
 彼らは主に共和国インターナショナル旅団の一員として戦った。
 その中には親民族主義政権からの亡命者数千人も含まれていた。

 ナショナリスト軍は南部と西部の拠点から進軍し、1937年にスペイン北部の海岸線の大半を占領した。
 また、戦争の大半の間、マドリードとその南西部の地域を包囲した。

 1938年と1939年にカタルーニャの大部分が占領され、マドリードがバルセロナから切り離された。
 その後、共和国軍の立場は絶望的になった。

 1939年1月に抵抗を受けることなくバルセロナが陥落した。
 その後、1939年2月にフランコ政権がフランスとイギリスに承認された。
 1939年3月5日、共和国政府における共産主義の優位性が高まり、軍事情勢が悪化しているという疑惑に反応して
   セギスムンド・カサド大佐
は共和国政府に対して軍事クーデターを起こして、ナショナリスト軍との和平を模索した。
 この和平提案はフランコに拒否された。
 同月、マドリードで共和党派閥間の内紛が起きた隙を狙い、フランコは首都に入り、1939年4月1日に勝利を宣言した。
 共和党派を支持する数十万人のスペイン人が南フランスの難民キャンプに逃れた。

 敗北した共和党と関係のあった残留者は、勝利した国民党から迫害された。
 フランコは独裁政権を樹立し、すべての右派政党が政権の構造に融合された。

 この戦争は、世界中で激情と政治的分裂を引き起こし、多くの残虐行為が行われたことで有名になった。
 フランコ軍が占領した領土では、将来の政権を​​固めるために組織的な粛清が行われた。
 共和党が支配する地域でも小規模な大量処刑が行われ、地方当局の関与は場所によって異なった。 

 19世紀はスペインにとって権力と利権をを巡る闘争が錯綜する激動の時代であった。
 スペイン政府の改革を支持する人々は、そのような改革の実施を阻止しようとする保守派と政権を争った。

 1812年のスペイン憲法に始まる伝統に従い、多くの自由主義者はスペイン王室の権威を縮小し、自分たちの信じるイデオロギーと哲学の下で国民国家を樹立しようとした。
 1812年の改革は、フェルナンド7世が前述の憲法を解散したときにほぼ即座に覆された。
 このため、長続きしなかった。これにより、トリエニオ自由党政権は終焉した。
 1814年から1874年の間に12回のクーデターが成功した。
 1850年代まで、スペインの経済は主に農業に基づいていた。ブルジョア工業階級や商業階級はほとんど発展していなかった。
 土地を基盤とする寡頭政治は依然として強力であり、少数の人々がラティフンディアと呼ばれる大地所と、政府のすべての重要な地位を占めていた。
 これらの体制の変化と階層構造に加えて、18世紀中頃を通してスペインでは
   カルリスタ戦争
として知られる一連の内戦が発生した。
 1868年、民衆の蜂起によりブルボン家のイサベル2世女王が廃位された。
 王政復古後、カルリスタや無政府主義者が王政に反対して現れた。
 スペインの政治家で急進共和党の指導者であったアレハンドロ・レルルーは、カタルーニャで共和主義を前面に押し出すことに貢献した。
 カタルーニャは独自の文化的、社会的アイデンティティを持ち、当時貧困が特に深刻だったスペインの地域である。
 徴兵は物議を醸した政策であったが、最終的にはスペイン政府によって実施された。
 1909年の悲劇の週が示すように、恨みと抵抗は20世紀に入ってもずっと続いた。

 1931年4月12日、共和党が選挙に勝利し、 2日後に第二スペイン共和国が宣言された。
 この後、アルフォンソ13世は亡命した。
 スペインは第一次世界大戦では中立を保っていた。
 戦後、軍隊を含むスペイン社会の幅広い層が団結し、マドリードの腐敗した中央政府を排除しようとしたが、結局失敗に終わった。
 この時期に共産主義が大きな脅威であるという国民の認識は大幅に高まった。
 
 1923年、軍事クーデターによりミゲル・プリモ・デ・リベラが権力を握り、スペインは軍事独裁政権に移行した。
 リベラ政権への支持は徐々に薄れ、彼は1930年1月に辞任した。リベラに代わってダマソ・ベレンゲル将軍が就任し、ベレンゲル将軍もフアン・バウティスタ・アスナール・カバーニャス提督に交代し、両者ともに法令による統治政策を継続した。
 主要都市では王政への支持がほとんどなかった結果、スペイン国王アルフォンソ13世は民衆の圧力に屈し、1931年4月12日に市議会選挙を実施した。
 社会党や自由共和党などの左派勢力がほぼすべての州都で勝利し、アスナール政権の辞任後、アルフォンソ13世は国外に逃亡した。
 このとき、第二スペイン共和国が成立した。この共和国は5年後の内戦開始まで権力を握っていた。
 
 ニセト・アルカラ・サモラ率いる革命委員会が暫定政府となり、アルカラ・サモラ自身が大統領および国家元首となった。
 共和国は社会のあらゆる階層から幅広い支持を得た。
 1931年5月、タクシー運転手が王政主義者のクラブの外で襲撃される事件が、マドリードと国南西部全域で反聖職者暴動を引き起こした。
 政府の対応の遅さは右派を幻滅させ、共和国は教会を迫害する決意をしているとの見方を強めた。

 6月と7月、スペイン労働者連盟(CNT)は数回のストライキを呼びかけ、CNTメンバーと治安部隊の間で暴力事件が発生した。
 セビリアでは治安部隊と軍がCNTを容赦なく弾圧した。
 これにより多くの労働者が第二スペイン共和国は王政と同じくらい抑圧的であると信じるようになり、CNTは革命によって王政を打倒する意向を表明した。
 
 1931年6月の選挙では、共和党と社会党が大多数を占め、大恐慌の始まりとともに、政府は8時間労働を導入し、農場労働者に土地の所有権を再分配することで、スペインの農村部を支援しようとした。
 当時のヨーロッパで最も貧困な農村部労働者の生活は、政府にとって厳しいものとなっている。
 そのため、政府は賃金を引き上げ、労働条件を改善しようとした。
 その結果、雇用労働者として働いていた中小の地主が疎外された。市町村境界法は、地主が地域外の労働者を雇うことを禁じていた。

 一部の地域で労働力不足が発生すると、この法律は、収穫作業員として追加収入を求める労働者を締め出した。
 新たに設立された労働仲裁委員会は、給与、契約、労働時間を規制した。
 これは、雇用者よりも労働者に有利なものだった。

 1931年7月の法令は残業代を引き上げ、1931年後半のいくつかの法律は、地主が雇用できる人を制限した。
 その他の取り組みとしては、機械の使用を制限する法令、雇用の独占を作ろうとする取り組み、ストライキ、組合員の労働独占を維持するために女性の雇用を制限しようとする労働組合の取り組みなどがあった。
 地主が反革命組織や地元の寡頭政治家に頼るようになり、階級闘争は激化した。
 ストライキ、職場での窃盗、放火、強盗、店舗、スト破り、雇用主、機械への襲撃がますます頻繁に行われるようになった。
 結局、共和社会主義政府の改革は、望むだけ多くの人々を疎外した。

 教会は共和国時代も戦争時代も革命左派の頻繁な攻撃対象であった。
 内戦中、革命家たちは約2万の教会を破壊または焼き払ったうえ教会の美術品や墓、書籍、文書、宮殿も破壊した。
 この影響を受けた建物の多くは現在では使用されていない。
 1931年10月、共和党のマヌエル・アサーニャが少数派政府の首相に就任した。
 ファシズムは反動的な脅威であり続け、軍に対する物議を醸す改革によってそれが促進された。
 12月、改革主義的で自由主義的、民主的な新しい憲法が宣言された。

 それはカトリック国家の広範な世俗化を強制する強力な条項を含んでおり、カトリックの学校と慈善団体の廃止も含まれていた。
 しかし、この動きは反対に遭った。
 この時点で、制憲議会が新憲法を承認するという任務を果たしたものの、国民の反対が強まることを恐れた急進派と社会党の多数派は定期選挙を延期し、政権の座をさらに2年間延長した。

 ディアスの共和党政府は、彼らの見解では国を近代化するための多くの改革を開始した。
 1932年、イエズス会は禁止され、その財産は没収された。
 また、軍隊は縮小され、地主は没収された。

 カタルーニャには地方議会と独自の大統領による自治が認められた。
 1933年6月、教皇ピウス11世は回勅「スペイン教会の弾圧について」を発布した。
 スペインにおけるカトリック教会の迫害に反対の声を上げた。
 
 1933年11月、右派政党が総選挙に勝利した。
 スタンレー・G・ペインとヘスス・パラシオス・タピアスによると、左派共和党はニセト・アルカラ・サモラに選挙結果の取り消しを依頼したが、成功しなかった。
 CEDAは選挙で勝利したが、アルカラ・サモラ大統領はCEDAの君主主義的共感と憲法改正案を恐れて、同党のリーダーであるジル・ロブレスに政府を樹立するよう要請することを断った。
 この代わりに、彼は急進共和党のアレハンドロ・レルルーにそうするよう依頼した。
 最多票を獲得したにもかかわらず、CEDAはほぼ1年間閣僚ポストを拒否された。

 1933年11月以降の「黒い2年間」と呼ばれる期間の出来事は、内戦の可能性を高めたように思われた。
 急進共和党(RRP)のアレハンドロ・レルーが政権を樹立し、前政権による変更を覆した。
  1932年8月のホセ・サンフルホ将軍による蜂起の失敗に終わった協力者に恩赦を与えた。
 一部の君主主義者は、当時のファシスト民族主義者であるファランヘ・エスパニョーラ・イ・デ・ラス・ホンス(「ファランヘ」)と合流し、目的の達成を支援した。

 スペインの都市の路上では公然とした暴力が発生し、闘争心は高まり続けた。
 これは、解決策として平和的な民主的手段ではなく、急進的な激動に向かう動きを反映していた。
 1933年12月、CEDAの勝利に反応して無政府主義者による小規模な反乱が起こり、約100人が死亡した。

 1年間の激しい圧力の後、議会で最多の議席を持つ政党であるCEDAは、ついに3つの内閣の受け入れを強制することに成功した。
 社会党(PSOE)と共産党は、9か月間準備していた反乱でこれに反応した。
 この反乱は、1934年の革命として知られる血なまぐさい蜂起に発展した。

 かなり武装した革命家たちは、アストゥリアス州全体を制圧し、多数の警察官、聖職者、民間人を殺害し、教会、修道院、オビエド大学の一部を含む宗教施設を破壊した。
 占領地域の反乱者は労働者のための革命を宣言し、既存の通貨を廃止した。
 反乱はスペイン海軍とスペイン共和国軍によって2週間で鎮圧された。
 後者は主にスペイン領モロッコのムーア 人植民地軍を使用していた。

 反乱を巻き起こすことで、非アナキスト社会主義者はアナキストと同様に、既存の政治秩序が非合法であるという確信を表明した。
 アサーニャの支持者であり、亡命中の
   フランシスコ・フランコ
の熱心な反対者であったスペインの歴史家
   サルバドール・デ・マダリアガ
は、反乱への左派の参加について鋭い批判を書いた。
 1934年の反乱で、スペインの左派は1936年の反乱を非難する道徳的権威の影さえ失った。

 1935年、土地改革の逆行により、中央部と南部の田舎では追放、解雇、労働条件の恣意的な変更が起こり、地主の行動は時として「真の残酷さ」に達し、農場労働者や社会主義者に対する暴力で数人の死者が出た。 
 1935年、急進共和党率いる政府は一連の危機を経験した。
 数々の汚職スキャンダルの後、この政府に敵対していたニセト・アルカラ・サモラ大統領は再選挙を呼びかけた。
 
 人民戦線は1936年の総選挙で僅差で勝利した。
 革命的な左翼の民衆は街頭に出て囚人を解放した。
 選挙後36時間以内に16人が殺害され(ほとんどは治安維持や暴力的な衝突への介入を試みた警官によるもの)、39人が重傷を負った。
 また、50の教会と70の保守派の政治センターが襲撃または放火された。
 マヌエル・アサーニャは選挙プロセスが終了する前に政府を樹立するよう求められた。
 彼はすぐに憲法の抜け穴を利用してサモラに代わって大統領に就任した。

 左翼はもはや法の支配に従う意思がなく、スペインに対する彼らのビジョンが脅かされていると確信した右翼は議会の選択肢を放棄した。
 共和国を統制するのではなく転覆する計画を立て始めた。

 フリオ・アルバレス・デル・バヨは「スペインはソ連と連携して社会主義共和国に転換される」と語った。 
 ライア・バルセルズは、クーデター直前のスペインの分極化が激しかったため、ほとんどの地域で左派と右派の物理的な衝突が日常的に発生していたと指摘した。
 クーデターの6日前には、テルエル県で両者の間で暴動が起きた。
  
 1936年の選挙で人民戦線が勝利した直後、現役および退役将校のグループが集まり、クーデターについて協議した。
 4月末までに、エミリオ・モラ将軍が全国的な陰謀ネットワークのリーダーとして浮上した。
 共和政府は、疑わしい将軍を影響力のある地位から排除する行動をとった。
 フランコは参謀長を解任され、カナリア諸島の司令官に異動になった。

 マヌエル・ゴデッド・ロピスは監察総監を解任され、バレアレス諸島の将軍になった。
 モラはアフリカ軍の司令官からパンプローナの司令官に異動になった。
 しかし、これによりモラは本土の蜂起を指揮することができた。

 ホセ・サンフールホ将軍が作戦の代表となり、カルリスタとの合意形成に貢献した。
 モラは主任計画者で、副司令官だった。
 しかし、政府の行動は十分に徹底されておらず、治安局長やその他の人物による警告は実行されなかった。

 反乱にはイデオロギーがなく、その目的は無政府主義的混乱に終止符を打つことだった。
 モラの新体制の計画は、サラザールのポルトガルをモデルにした「共和制独裁」であった。
 ファシスト的全体主義ではなく、半多元主義的権威主義であった。

 最初の政府は、軍人だけの「総督」で、「強くて規律ある国家」を創設する。サンフジョは軍内で好かれ尊敬されていた。
 このため、この新体制の指導者となるが、政治的才能がないため、その地位は象徴的なものとなった。1

 著名な保守派国会議員ホセ・カルボ・ソテロの暗殺が クーデターの大きなきっかけとなった。
 1936年7月12日、マドリードのファランヘ党員が突撃警備隊の警察官ホセ・カスティージョ中尉を殺害した。
 カスティージョは社会党員で、UGTの若者に軍事訓練を行っていた。
 カスティージョは突撃警備隊を率い、グアルディア・シビルのアナスタシオ・デ・ロス・レイエス中尉の葬儀後の暴動を暴力的に鎮圧した。
 突撃警備隊大尉フェルナンド・コンデスはカスティージョの友人だった。
 翌日、彼は内務大臣から国会議員の違法逮捕の承認を得た後、カスティージョ殺害の報復として、部隊を率いてCEDA創設者ホセ・マリア・ヒル・ロブレス・イ・キニョネスを逮捕した。
 しかし彼は家にいなかったため、彼らはスペインの王政主義者で著名な保守派議会議員のホセ・カルボ・ソテロの家を訪れた。
 逮捕グループのメンバーであり、社会党党首インダレシオ・プリエトのボディーガードとして知られる社会主義者のルイス・クエンカがソテロを即決処刑した。
 蜂起の日時は7月17日17時1分と定められ、カルリスタの指導者マヌエル・ファル・コンデの同意を得た。 
 しかし、日時は変更され、モロッコ保護領の兵士は7月18日午前5時に蜂起し、スペイン本土の兵士は翌日に蜂起することとなった。これにより、スペイン領モロッコの制圧が達成され、蜂起に合わせて軍隊がイベリア半島に送り返されることになった。
 蜂起は迅速なクーデターとなる予定だったが、政府は国土の大半を掌握し続けた。

 スペイン領モロッコの制圧はほぼ確実だったが]計画は7月17日にモロッコで発見され、陰謀家たちは直ちに計画を実行した。
 抵抗はほとんどなかった。
 反乱軍は189人を射殺し、ゴデドとフランコは直ちに配属された島々を制圧した。

 7月18日、カサレス・キロガはCNTと労働者総連合(UGT)からの援助の申し出を拒否し、両グループは事実上の動員であるゼネストを宣言した。彼らは1934年の蜂起以来埋められていた武器庫を開け、民兵を結成した。

 準軍事組織の治安部隊は、反乱に加わるか鎮圧するかを決める前に、民兵の行動の結果を待つことが多かった。
 反乱軍または無政府主義者の民兵の迅速な行動は、しばしば町の運命を決めるのに十分であった。
 ゴンサロ・ケイポ・デ・リャノ将軍は反乱軍のためにセビリアを確保し、他の将校数名を逮捕した。

 反乱軍は、 1936年7月のセビリアでの軍事蜂起(フランコのアフリカ軍の上陸地点となった)と、旧カスティーリャ・レオン州の保守派とカトリック教徒が多数を占める地域(すぐに陥落)を除いて、主要都市を占領できなかった。
 彼らは、アフリカからの最初の部隊の支援を受けてカディスを占領した。

 スペイン政府はマラガ、ハエン、アルメリアの支配を維持した。
 マドリードでは反乱軍がクアルテル・デ・ラ・モンターニャ包囲戦に包囲され、かなりの流血を伴って陥落した。

 共和派指導者カサレス・キロガに代わりホセ・ヒラルが指導者となり、民間人への武器の配布を命じた。
 これにより、マドリード、バルセロナ、バレンシアなどの主要な工業中心地での軍の反乱の敗北が容易になった。
 そのため、アナキストがバルセロナ、アラゴン、カタルーニャの広い範囲を掌握することができた。

 ゴデド将軍はバルセロナで降伏し、後に死刑を宣告された。
 ]共和派政府は最終的に、マドリード周辺の東海岸と中央部のほぼ全域、およびアストゥリアス、カンタブリア、北部のバスク地方の一部を掌握した。

 ヒュー・トーマスは、最初のクーデター中に特定の決定が下されていれば、内戦はどちらの側にとってもほぼ即座に終結していた可能性があると示唆している。
 トーマスは、政府が労働者に武器を与える措置を講じていれば、おそらくクーデターを非常に迅速に鎮圧できただろうと論じている。
 逆に、クーデターが遅れるのではなく、18日にスペイン全土で起こっていたら、22日までに勝利していたかもしれないと続けた。
 なお、反乱軍に対抗するために立ち上がった民兵は、訓練を受けておらず、武装も貧弱だった。
 武器としてはピストル、ショットガン、ダイナマイトを少ししか持っていなかった。

 ただ、反乱が広範囲に及んでいなかったという事実によって、これは相殺された。
 なお、十分な数の将校と兵士がクーデターに参加していたため、すぐに鎮圧されることはなかった。

 反乱軍は自らをナシオナレスと名乗った。これは通常「国民主義者」と訳されるが、前者は国民主義的な大義というよりは「真のスペイン人」を意味する。
 クーデターの結果、スペインの人口2500万人のうち1100万人が国民支配地域に居住することになった。
 国民主義者はスペイン領土軍の約半数、約6万人の支持を確保し、これにアフリカ軍の3万5000人が加わり、スペインの軍国主義的な警察部隊のほぼ半数、突撃衛隊、治安衛隊、カラビニアが加わった。

 共和派はライフル銃の半分以下と機関銃と大砲の約3分の1を掌握していた。

 スペイン共和国軍は十分に近代的な設計の戦車を18両しか持たず、国民党軍は10両を掌握した。
 海軍力は不均衡で、共和国軍は数的優位を維持していたが、海軍の最高司令官と最新鋭の艦艇2隻、フェロル造船所で捕獲した重巡洋艦カナリアスとバレアレスを国民党軍が掌握していた。
 スペイン共和国海軍も陸軍と同じ問題を抱えていた。多くの士官が亡命するか、亡命を試みて殺害された。
 航空戦力の3分の2は政府が保持していたが、共和国空軍は全体的に非常に時代遅れであった。
  
 クーデターにより正規軍はほぼ均等に分割された。
 1936年7月に実際に武装していた軍人約66,000人(アフリカ軍と海軍を含む、クーデター中に任務中だったが休暇中の兵士は除く)のうち、約52%(34,000人)が共和国軍に、48%(32,000人)が国民党軍にいた。
 その他の軍隊(治安部隊、治安部隊、カラビネロス)の約66,000人のうち、約59%(39,000人)が政府支持派に、約41%(27,000人)が反乱軍に加わった。
 実際に勤務していた武装制服兵士約13万2千人のうち、約55%(7万3千人)が王党派に、約45%(5万9千人)が反乱軍に配属されたとみられる。
 最初の数か月で、両軍には多数の志願兵が加わり、国民党軍は約10万人、共和派軍は約12万人だった。
 8月からは両軍とも同様の規模の徴兵制度を導入し、軍のさらなる大規模増強につながった。
 そして1936年の最後の数か月には外国軍が到着し、共和派には国際旅団が、国民党にはイタリア義勇軍団(CTV)、ドイツ軍団コンドル、ポルトガル軍が加わった。
 その結果、1937年4月には共和派軍に約36万人、国民党軍に約29万人の兵士がいたことになる。


 ナチスドイツの行動には、1936年7月から1939年3月までドイツ空軍とドイツ陸軍(Heer )からの志願兵で構成された
   マルチタスク部隊
であるコンドル軍団の編成が含まれていた。
 コンドル軍団は1936年のトレドの戦いで特に有用であることが証明された。
 ドイツは戦争の初期段階でアフリカ軍をスペイン本土に移動させた。
 ドイツの作戦は徐々に攻撃目標を含むように拡大し、最も有名で物議を醸したのが1937年4月26日のゲルニカ爆撃で、200人から300人の民間人が死亡した。
 ドイツはまた、この戦争を利用して、ドイツ空軍のユンカース Ju 87シュトゥーカやユンカース Ju 52輸送三発機銃(爆撃機としても使用)などの新しい兵器をテストし、それらが効果的であることを証明した。

 ドイツの関与は、Uボート作戦であるウルスラ作戦やドイツ海軍の貢献などを通じてさらに明らかになった。
 ドイツ軍団は、特に空中戦において、国民党軍の多くの勝利の先頭に立った。
 ​​ 一方で、スペインはドイツの戦車戦術の実験場となった。

 ドイツ軍部隊が国民党軍に提供した訓練は、価値あるものとなった。
 戦争の終わりまでに、歩兵、砲兵、航空、海軍を含むおよそ56,000人の国民党軍兵士が、ドイツ軍派遣隊によって訓練を受けていた。

 ヒトラーのスペイン政策は抜け目なく、実際的だった。
 ヒトラーは、フランコの感謝を得てソ連の支援を受けた側が勝利するのを防ぐ程度にフランコを支援したいと考えていた。
 しかし、カウディーリョに早急な勝利をもたらすほどの支援は望んでいなかった。
 合計で約16,000人のドイツ国民が戦争に参加し、約300人が死亡したものの、一度に参加した人数は10,000人以下だった。
 ナショナリストに対するドイツの援助は、1939年の価格で約43,000,000ポンド(2億1500万ドル)に上ったが、そのうち15.5%は給与と経費に、21.9%はスペインへの物資の直接配達に使用された。
 また、62.6%はドイツの派遣したコンドル軍団に費やされた。
 合計で、ドイツはナショナリストに600機の飛行機と200両の戦車を提供した。  

 志願兵の大半はカトリック教徒であり、オダフィーによれば、共産主義と戦う国民党を支援するために志願したという。
スペインの統計によると、1,052人のユーゴスラビア人が志願兵として記録されており、そのうち48%がクロアチア人、23%がスロベニア人、18%がセルビア人、2.3%がモンテネグロ人、1.5%がマケドニア人であった。

 また、約150人から170人の白系ロシア人がフランコのために戦い、そのうち19人が死亡し、さらに多くの人が負傷した。
 なお、彼らが独立した部隊を作ろうとした試みはフランコ政権によって拒否された。
    
   
posted by まねきねこ at 09:00 | 愛知 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 格言・ことわざ・用語解説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年07月23日

総会屋影響汚職組織法( The Racketeer Influenced and Corrupt Organizations RICO )

総会屋影響汚職組織法
 (The Racketeer Influenced and Corrupt Organizations RICO )
 米国連邦法で進行中の犯罪組織の一部として行われた行為に対する
   刑事罰の拡大と民事上の訴訟原因を規定
するもの。

 RICOは、1970年の組織犯罪規制法第 IX 編によって制定された。
 米国上院政府運営委員会の顧問
   G. ロバート ブレイキー
は、委員会の委員長
   ジョン L. マクレラン上院議員の
厳重な監督の下でこの法律を起草した。
 この法律は
   リチャード・ニクソン米国大統領
によって署名された。

 1970年代の検察は、マフィアや組織犯罪に積極的に関与した他の人々を訴追するためにこの制度を利用した。
 後年、検察はこの法律をより広範囲に適用するようになった。
 1972 年以来、33 の州が州の RICO 法を採用した。
 
 RICO の下では、10 年以内に 35 の犯罪 (27 の連邦犯罪と 8 の州犯罪)のリストから抽出された
   「少なくとも 2 つの恐喝行為」
を犯した者は、その行為が国家犯罪に関連している場合、恐喝の罪で起訴される可能性がある。

 恐喝で有罪判決を受けた者には、恐喝罪ごとに最高 25,000 ドルの罰金と 20 年の懲役刑が科される可能性がある。
 さらに、恐喝者は、「恐喝活動」のパターンを通じて得た
   すべての不正な利益とビジネスの利益
を没収された。

 RICO に基づいて誰かを起訴する米国の弁護士は、被告の資産を一時的に差し押さえ、没収される可能性のある財産の譲渡を阻止するとともに、被告に履行保証金の支払いを要求する公判前の接近禁止命令または差し止め命令を求める選択肢を有した。
 差し止め命令または履行保証金は、有罪判決が下された場合に何かを差し押さえることを保証する。

 この規定により、マフィア関連のペーパーカンパニーの所有者が資産を持ち逃げすることが防止された。
 多くの場合、資産差し押さえにより弁護人への支払いが難しくなることもあった。
 RICO による起訴の脅しにより、被告は軽い罪状で有罪を認めざるを得なくなる可能性がある。

 厳格な規定にもかかわらず、RICO 関連の容疑は、犯罪行為ではなく
   行動パターンに焦点を当て
ているため、法廷での立証が容易であると考えられている。

 RICO はまた、「総会屋」によって「事業や財産に被害を受けた」個人が民事訴訟を起こすことも認めた。
 法律の主な目的は組織犯罪に対処することであった。

 議会はそれを単に暴徒に適用することだけを意図したものではないとブレイキー氏は語った。
 かつてタイム誌に、「首輪が青い人や名前が母音で終わる人たちに1つのルールを設定し、首輪が白いアイビーリーグの卒業証書を持つ人たちに別のルールを設定することは望ましくない」と話している。

 1977年12月1日、ルイジアナ州東部地区の連邦大陪審は、共謀とゆすり行為の罪で
   ロバート J. ロステ & カンパニー社
の 13人の被告を起訴した。
 被告らが範囲の広さと曖昧さを理由に起訴を却下しようと動いた。
 その後、大陪審は1978年2月27日に、同様の罪を告発し、控訴人を含む11人の被告を指名し、それに代わる起訴状を差し戻した。
 地方裁判所は、これに代わる起訴状の却下を求める申し立てを却下し、最初のRICO裁判は1978年3月13日に始まった。陪審は、共謀罪と恐喝罪の両方で控訴人4名と別の法人に有罪判決を下した。

 1979年5月、カリフォルニア北部地区の検察官
   マーク・L・ウェッブ
はRICO裁判、米国対
   サム・ベイリー・ギャング
を実施した。
 勝訴した訴追はRICO法を利用して、郵便強盗の一団とネバダ州のフェンスが組織犯罪的に共謀したと主張した。
 この事件にはマフィアの犯罪家族は関与しなかった。
 その後、アーカンソー州東部地区連邦検察局は 1978 年 10 月 2 日に RICO 法を利用して、北米国際労働組合の地方 1292 の役員を起訴した。

 米国特別検事
   サミュエル・A・ペローニ
は、1979年6月5日に始まった最初の労働組合公式裁判を起訴した。
 ペローニの訴追は成功し、RICOを利用して共謀、嘱託殺人、偽証、組合財産横領の罪で被告らに有罪判決を下した。

 ニューヨーク州南部地区の米国検察局は、1979 年 9 月 18 日の米国対
   スコット事件
で RICO 法を採用しました。
 スコット氏は恐喝、不法労働賃金の受領、所得税脱税の罪で有罪判決を受け、国際港湾労働者協会の会長を務めた。

 1980 年代から 1990 年代にかけて、連邦検察はこの法律を利用して複数のマフィアの人物を起訴した。
 1985年、米国検事
は、マフィア委員会裁判としても知られる
   米国対アンソニー・サレルノ
らの裁判で11人の組織犯罪関係者を起訴した。
 ジュリアーニは、RICO法を利用して、ニューヨークのいわゆる「五大家族」のトップたちを恐喝、労働恐喝、および嘱託殺人の罪で告発した。
 3人の米国検事補が裁判を支援した。

 マイケル・チャートフ氏は、最終的に第2代米国土安全保障長官となり、愛国者法の共同執筆者となった。
 ジョン・サバレーズ、後にワクテル・リプトン・ローゼン&カッツのパートナーとなった。
 ギル・チルダースは、後にニューヨーク市南部地区の刑事部門副部長となった。
 その後にゴールドマン・サックスの法務部門常務取締役となった。

 タイム誌は、「事件の事件」はおそらく「1943年にシカゴ・マフィアの最高司令部が一掃されて以来、組織犯罪のインフラに対する最も重大な攻撃」であると呼んだ。
  
 1987年1月13日、五大家族の3人の当主は懲役100年の判決を受けた。
 ジェノベーゼとコロンボの指導者
   トニー・サレルノ
   カーマイン・ペルシコ
は、別々の裁判で追加の懲役70年と懲役39年を言い渡された。
 ガンビーノ犯罪一家のボス
と彼の副ボス
   トーマス・ビロッティ
は、 1985年12月16日にマンハッタンのミッドタウンの路上で殺害された。
 
 2014年の時点で、33の州とプエルトリコおよび米国領バージン諸島が、同様の制度の下で州犯罪をカバーするRICO州法を採用している。
  
 ルケーゼ犯罪一家は、ニューヨーク市の組織犯罪活動を支配していた「五大家族」の 1 つでした。
 検察側のグレゴリー・オコーネル弁護士とチャールズ・ローズ弁護士は、RICOの告訴を利用して18カ月にわたって家族を引き離した。
 ラテン・キングスのメンバー数人がRICO違反で有罪判決を受けた。

 1978年、RICO は、テキサス、テネシー、フロリダの
   カウボーイ マフィア
のメンバーの起訴に貢献した。
 1977 年から 1978 年にかけて、このグループは 106 トンを超えるマリファナを輸入した。
 エビボート「アグネス・ポーリン」、「モンキー」、「ジュビリー」、「バイユー・ブルース」を使って、グループはコロンビアからテキサスまで6回の旅をした。
 このグループは、テキサス州ポートアーサーで荷物を降ろしていた
   アグネス・ポーリン号
を連邦政府が押収した後、1978年に逮捕され、1979 年に密輸組織のメンバー 26 人が有罪判決を受けた。
 牧場長であり運営責任者でもあったチャールズ・“マッスル”・フォスターは心神喪失を理由に無罪を主張し、1980年に無罪となった。

 1981年8月、政府が彼が財政的支援者であると信じていた密輸業者
   レックス・コーブレ
が大陪審によって起訴された。
 フォスターは牧場の監督を務めており、麻薬はテキサス中のコーブルの牧場に運ばれた。
 カウブルは大富豪で、テキサス航空委員会の元委員長であり、名誉テキサスレンジャーでもあった。
 カウブルは 1982 年 1 月に 10 件の罪状で有罪判決を受けた。
 内訳は恐喝者影響下および腐敗組織防止法 (RICO) 違反の 2 件、RICO 違反の共謀、州際通商旅行法違反 3件、および銀行資金の不正使用の 4 件である。 5 年の懲役刑が言い渡された。彼は刑期を終えて1987年9月に釈放され、2003年に亡くなった。

 RICOの有罪判決の結果、カウブルは、カッター・ビル・ウェスタン・ワールドの2店舗、3つのテキサス銀行(デントンのウェスタン・ステート銀行、ダラス・インターナショナル銀行、ヒューストンのサウス・メイン・バンク)、6つの牧場を含むカウブル・エンタープライズに対する31%の権益を剥奪された。石油およびガスの保有会社の価値は8000万ドルと推定された。
 政府はその権益を他のパートナー(カブレ氏の妻と息子)に推定1,200万ドルで売却した。
 
 1979年、米国連邦政府はRICOを利用して
   ソニー・バーガー
とヘルズ・エンジェルスのオークランド支部の数人のメンバーと関係者を追及した。
 米国対バーガー事件では、検察チームはバーガーとRICOクラブの他のメンバーを銃と違法薬物に関連した罪で有罪判決するための行動パターンを実証しようとした。
 陪審では、述語行為については陪審員がハングアップした状態で、RICOの告訴についてバージャー氏を無罪とした。「
 
 1980年、ルイジアナ州農林省長官
   ギル・ドージャー
はホッブズ法とRICO法の両方に違反した罪で起訴された。
 バトンルージュに本拠を置くルイジアナ州中地区連邦地方裁判所は、同局と取引のある企業に対し、同氏に代わって選挙活動への寄付を行うよう強要したとしてドジャー氏を告発した。
 1980 年 9 月 23 日、陪審はドージャーに 5 件の恐喝とゆすりの罪で有罪判決を下した。
 裁判官はドジャー氏に懲役10年の判決を下したうえ、後に他の犯罪が判明した際には懲役18年に引き上げた。
 25,000 ドルの罰金は控訴保留中保留され、ドジャーは保釈金のまま保釈された。
 ニューオーリンズの第5巡回区連邦控訴裁判所はドジャーの有罪判決を支持した。
 彼は最終的に1986 年に大統領の減刑により釈放されるまで、ほぼ 4 年間収監された。
 
 1984 年 6 月頃、フロリダ州モンロー郡にあるキーウェスト警察署は、米国司法省の長期にわたる捜査の結果、連邦RICO 法に基づく犯罪企業と認定された。
 レイモンド・カサマヨール副警察署長を含む同署の高官数名が、不法コカイン密輸業者に対する
   みかじめ料
を徴収した連邦容疑で逮捕された。
 この公判では、証人は定期的に市役所の副署長室にコカインの入った袋を届けていたと証言した。
 
 1986年、クリスティック研究所は、イラン・コントラ事件に関与した被告30人を、ラ・ペンカ爆撃の背後にある陰謀にも加わっていたとして名指ししてRICO民事訴訟を起こした。
 「アビルガン対ハル」と題されたこの訴訟では、中央情報局の関係者数名が指名され、彼らが違法な政治的暗殺や武器や麻薬の密売に関与したとして告発されている。
 この訴訟は最終的に1989年に却下された。
 主任弁護士ダニエル・シーハンは、イラン・コントラ企業のメンバーが却下を覆すと期待されていた
   ロバート・ヴァンス判事暗殺
の背後にいると主張した。

 G.ロバート・ブレイキーは、これは彼が見た中で最も起訴されたRICO訴訟であり、この訴訟は全国的な資金集めの取り組みを引き起こしたと述べた。
 1990年、ブルース・スプリングスティーンとボニー・レイットは訴訟を支援するために慈善コンサートを開催した。
 1986年12月に提出された500ページの宣誓供述書も「影の政府」として出版された。
 
 1989 年 3 月 29 日、米国の投資家
は、インサイダー取引およびその他の犯罪容疑の捜査に関連した恐喝および詐欺の 98 件の罪で起訴された。
 ミルケン氏は株価や債券の価格を操作するために幅広い人脈を利用した疑いで告発された。組織犯罪と無関係の個人に対してRICOが起訴されたのはこれが初めてのことだった。ミルケンは残りの人生を刑務所で過ごすリスクを冒すよりも、証券詐欺と脱税という軽罪6件で有罪を認め、最終的に22か月の懲役刑に服することになった。
 ミルケン氏には証券業界からの永久追放も命じられた。

 1988年9月7日、ミルケンの雇用主
は、企業が従業員の犯罪に対して責任を負うという法理である、上位者対応に基づくRICO告発で脅迫された。
 ドレクセルは、在庫駐車と在庫操作の軽罪に対するアルフォードの嘆願書を提出することで、RICO の告訴を回避した。

 ドレクセル氏は慎重な言葉での嘆願の中で、政府の「申し立てに異議を唱える立場にはない」と述べた。
 もしドレクセルがRICO法に基づいて起訴されていたら、資産凍結を避けるために最大10億ドルの
   履行保証金
を差し入れる必要があった。
 そうすれば、資本基盤の96%を提供した融資など、同社の他のすべての義務よりも優先されることになる。
 もし社債を支払わなければ、その株主は事実上全滅していた。

 銀行はRICOに基づいて起訴された企業に信用を供与しないため、起訴されればドレクセルは廃業する可能性が高かった。
 ある推定によれば、RICO が起訴されれば 1 か月以内に会社は潰れることになっていた。
 数年後、ドレクセルの社長兼最高経営責任者(CEO)のフレッド・ジョセフは、「金融機関はRICOの起訴に耐えられない」ため、ドレクセルには有罪を認める以外に選択肢はなかったと述べた。
 
 ジョン・ゴッティとフランク・ロカシオは1992年4月2日にRICO法に基づいて有罪判決を受け、後に終身刑を宣告された。
 
 1998年のタンザニアとケニアの米国大使館同時爆破事件の後、米国司法省はRICO法に基づき欠席で
   オサマ・ビンラディン
を告訴した。
 BBCの映画製作者 アダム・カーティスによる2004年のドキュメンタリー「悪夢の力」では、ビンラディンを欠席で起訴するには米国検察当局がビンラディンが爆破事件に関与した犯罪組織のトップであることを証明する必要があると主張し、物議を醸した。彼らはビン・ラディンの元仲間であるジャマル・アル・ファドルを見つけ出し、ビン・ラディンが「アルカイダ」と呼ばれる大規模テロ組織のトップであると証言するよう金を払って、RICO法の要件を満たしていたが、実際にはそうではなかった。 、「アルカイダ」という正式なテロ組織は存在しませんでした。
 
 1999年、ロサンゼルス警察で
   ランパート事件
が勃発し、クラッシュと呼ばれる同署の対ギャング部隊内での広範な犯罪行為が暴露された。
 当初、70人の警察官が証拠隠滅、麻薬取引、銀行強盗、不法殺人や暴行に関与したとされた。
 2000年、連邦地裁のウィリアム・レア判事は、警察の残虐行為や不法行為をめぐって訴訟を起こした個人に対し、RICO法がLAPD全体を犯罪組織として名指しするのに利用できるとの判決を下した。
 140件を超えるRICO民事訴訟が同省に対して起こされた。
 2001年7月、連邦地方判事ゲイリー・A・フィースは、原告らは
   経済的損害
   物的損害
ではなく人身傷害を主張しているため、RICOに基づいてLAPDを訴える資格はないと述べた。
 
 2001 年、メジャー リーグ ベースボールのチームのオーナーは、おそらくミネソタ ツインズとモントリオール エクスポズの2 チームを排除する投票を行った。
 2002年、エクスポズの元マイノリティオーナーらは、MLBコミッショナーのバド・セリグとエクスポズの元オーナー
   ジェフリー・ロリア
に対し、セリグとロリアが移転の準備で個人的な利益のために意図的にチームの価値を下げることを共謀したとして、RICO法に基づいて告訴した。
 責任があると認められた場合、メジャーリーグベースボールは最大3億ドルの懲罰的損害賠償責任を負う可能性があった。
 この訴訟は2年間続き、その間エクスポのワシントンへの移転や縮小を阻止することに成功した。
 最終的には仲裁に送られ、仲裁人はメジャーリーグベースボールに有利な裁定を下し[た、ワシントンへの移転が許可された。
 
 ボナーノ犯罪一家のボス
   ジョセフ・マッシーノ
の裁判は2004年5月24日に始まり、ニコラス・ガラウフィス判事が裁判長を務めた。
 また、グレッグ・D・アンドレスとロバート・ヘノッホが検察長を務めた。
 マッシーノは、7件の殺人(検察官がボナーノ・カポレジームの ジェルランド・シャシア殺害に対して死刑を求刑する見通しのため、この事件は別個に審理される予定であるため)、放火、恐喝、高利貸し、違法賭博、および資金洗浄であった。
 5日間の審議の後、陪審は2004年7月30日、マッシーノが11件の罪状すべてで有罪であるとの判決を下した。
 彼の量刑は当初10月12日に予定されており、仮釈放の可能性のない終身刑が言い渡されると予想されていた。
 陪審はまた、評決当日にボナーノのボスとしての統治期間の収益の1,000万ドルの没収を検察が勧告したことを承認した。

 7月30日の有罪判決直後、法廷が閉廷される中、マッシーノはガラウフィス判事との面会を要請し、そこで初めて協力を申し出た。
 彼は自分の命を救いたいと願って行動した。
 シャシア殺害の罪で有罪となれば死刑の可能性もあったためだ。
 実際、ジョン・アシュクロフトの司法長官としての最後の行為の一つは、連邦検察に対しマッシーノの死刑を求刑するよう命令することであった。
 マッシーノは、 1944年に
   レプケ・ブカルター
が処刑されて以来、犯罪で処刑された最初のマフィアのボスであり、死刑に直面した最初の暴徒のボスとなったマッシーノは、ニューヨーク市の最初の現職ボスである。
 組織犯罪の一家が国家の証拠を提出したのは米国のマフィア史上2人目である。
 なお、フィラデルフィアの犯罪一家のボス、ラルフ・ナターレは1999年に麻薬容疑で告発された際にひっくり返った。
 
 2005年、米国司法省の「家族の秘密作戦」 は、 RICOの規定に基づいて
のメンバーおよび関係者14人を起訴した。
 5人の被告がRICO違反およびその他の犯罪で有罪判決を受けた。
 6人が有罪を認め、2人が裁判前に死亡、1人は病気のため裁判を受けることができなかった。
 
 2005年、連邦陪審はファサーノに対し、破産事件で顧客の資産隠しを不法に幇助したとして、RICOに基づき50万ドルの支払いを命じた。

 第 11 巡回区控訴裁判所は、ウィリアムズ対モホーク インダストリーズ社No. 05-465 , 547 U.S. 516 (2006) において、企業は「組織された実質的な企業の業務を不法に遂行した」として責任を問われる可能性があるとの判決を下した。
 モホーク・インダストリーズはRICOに違反して不法外国人を雇用したとされる。
 最高裁判所は控訴審で、モホーク・インダストリーズと人材紹介会社がRICOのもとで訴追される可能性のある「企業」に該当するかどうかの判断を求められた。
 裁判所は、RICO の責任を認めた第 11 巡回区の判決を取り消した。

 2006 年 10 月 16 日、タンパでガンビーノ犯罪一家の 4 人(カポ ・ロナルド・トゥルッキオ、テリー・スカリオーネ、スティーブン・カタローノ、アンソニー・ムチャローネとその仲間のケビン・マクマホン) が RICO 法に基づいて裁判を受け、有罪判決を受け、終身刑を宣告された。

 2009年、スコット・W・ロススタインは、資格剥奪された弁護士であり、現在は廃止されたロススタイン・ローゼンフェルト・アドラー法律事務所の元管理株主、会長、最高経営責任者である。
 彼は慈善活動、政治献金、法律事務所の給与、そして贅沢な生活を12億ドルもの巨額の
   ポンジスキーム
で賄ったとして告発された。
 2009年12月1日、ロススタインは連邦当局に出頭し、その後RICOに関連した容疑で逮捕された。
 彼の罪状認否の申し立ては無罪であったが、ロススタインは政府に協力し、2010年1月27日に5つの連邦犯罪について有罪とする彼の申し立てを取り消した。
 ボンドは、彼の能力を理由にその主張を却下した。
 書類を偽造した場合、逃亡の危険があるとみなされた。2010年6月9日、ロススタインはフォートローダーデールの連邦裁判所での審理の結果、懲役50年の判決を受けた。

 ペンシルベニア州中地区の連邦大陪審は、元ルザーン郡民事裁判所判事マイケル・コナハン氏とマーク・シアバレラ氏に対する48件の起訴状を下した。
 裁判官らは、郵便および電信詐欺、脱税、マネーロンダリング、誠実なサービス詐欺の行為を行った疑いでRICOで起訴された。
 裁判官らは、主に軽犯罪で有罪判決を受けた少年を私立拘置所に収容し、リベートを受け取っていたとして告発された。
 この事件は、多くの地方紙や全国紙によって「キッズ・フォー・キャッシュ・スキャンダル」と呼ばれた。

 2011年2月18日、連邦陪審はマーク・シアバレラがPAチャイルドケアの開発者ロバート・メリクルと同施設の共同所有者ロバート・パウエル弁護士から違法な支払いを受け取ることに関与したとして恐喝罪で有罪とした。
 シアバレラさんは連邦裁判所で他の38件の訴追を受けている。

 アート・コーエン対ドナルド・J・トランプ訴訟は、2013年10月18日に提起された
   民事RICO集団訴訟
でドナルド・トランプはトランプ大学に「数千万ドル儲かる」と虚偽の説明をしたが、「ドナルド・トランプも利益も何も得られなかった」と非難した。
 この訴訟はサンディエゴのカリフォルニア州南部地区連邦地方裁判所で、2016年11月28日から弁論が始まる予定
だった。
 しかし、11月18日、トランプが大統領選挙に勝った直後、この訴訟と他の2つの訴訟は原告に
   総額2,500万ドル
を支払うことで和解した。
 ただ、この和解ではトランプ大統領の不正行為は一切認めていない。 
 
 2015年、ドラモンド社はテレンス・P・コリングスワース弁護士とウィリアム・R・シェーラー弁護士、権利擁護団体国際権利擁護団体(IRAdvocates)、およびリャノス石油所有者の一人であるオランダ人実業家
   アルバート・ファン・ビルダーベーク氏
をドラモンドはコロンビアアウトディフェンサス・ウニダス・デ・コロンビアと協力して、コロンビアの炭鉱の近くで労働組合指導者らを殺害したと主張してRICOに違反したとして告訴した。
 しかし、ドラモンドは否定している。

 「2015 FIFA汚職事件」ではFIFAに所属する14人の被告がRICO法に基づき、「国際サッカー連盟の汚職を通じて富を得るという24年間にわたる計画に被告が参加したことに関連し、とりわけ恐喝、電信詐欺、マネーロンダリング陰謀」などの47件の罪状で起訴された。
 被告には、FIFAとその関連団体CONCACAFの現職および元高官の多くが含まれている。
 被告らはこの企業を盾に数百万ドルの賄賂を集めたとされており、それがそれぞれ2018年と2022年のFIFAワールドカップ開催地におけるロシアとカタールの落札に影響を与えた可能性がある。 
 
 2023年8月、ジョージア州フルトン郡の地方検事
   ファニー・ウィリス
は、ジョージア州RICO法に基づき
   ドナルド・トランプ
   ルディ・ジュリアーニ
を含む関係者を告訴した。
 ジョージア州法には、「恐喝計画」として分類できる 40 の州犯罪または行為のリストが含まれている。
 この法律は、他人に何らかの犯罪行為を試みたり、教唆したり、強要したり、脅迫したりする行為も
   組織犯罪
とみなされる可能性があるという点で、連邦法よりも広範。
 
 RICO の述語行為には恐喝や恐喝も含まれますが、RICO 法の最も成功した適用例の 1 つは
   報復や協力に対する報復の疑い
で証人や被害者に対して犯した行為や行為に対して個人を起訴したり制裁したりできること。
 RICO 法の違反は、民事訴訟または刑事告訴で申し立てられる可能性がある。
 このような場合、法執行機関と協力している個人または法人への報復として、個人または法人に対して告発が行われる可能性があります。さらに、被告に対して訴訟を起こしたり、刑事告発を行ったりした個人や法人に対しても告訴することができる。

 反SLAPP(国民参加に対する戦略的訴訟)法は、内部告発者や被害者に報復したり他人の言論を封じたりするための武器として法廷を利用する個人や企業による
   法制度の濫用疑惑を抑制する目的
で適用される場合がある。
 弁護士またはその依頼者が、法廷に持ち込まれた自分たちへの報復と報復のためだけに
   架空の法的告訴
をでっち上げるために共謀・協力したことが証明できれば、RICOは告発される可能性がある。

 RICO 法は、恐喝、脅迫、ゆすり行為などの他の伝統的な RICO の述語行為に加えて、麻薬密売犯罪も対象としていますが、大規模で組織された麻薬ネットワークは現在、「継続刑事事業法」としても知られる継続刑事事業法「キングピン法」」に基づいて起訴されるのが一般的。
 CCE法は長期にわたる綿密な陰謀に責任のある人身売買業者のみを対象としている。
 しかし、RICO法はさまざまな組織的犯罪行為を対象としている。 

   
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2024年07月07日

クレフツ(Klephts クレフト、クレフテス、山岳党とも)

クレフツ(Klephts クレフト、クレフテス、山岳党とも)
 「泥棒」を意味し元々は単に「山賊」を意味する言葉。
 盗賊から自称武装勢力、反オスマン反乱者などの意味に派生。
 ギリシャがオスマン帝国領であった時代、田園地方に存在した山賊、もしくは反オスマン帝国活動を行なった人々のこと。
 彼らは15世紀にギリシャがオスマン帝国に征服された際、オスマン帝国の抑圧を避けるため山岳地帯へ逃亡したギリシャ人の子孫。
 19世紀後半まで山賊として活発な活動を行なった。
 彼らは山岳地帯で自由に生活しており、オスマン帝国の支配に対して戦いを続けた。
 トルコ・ギリシャ関係の発展に伴い、意味自体は「泥棒」を意味しているものの、オスマン帝国支配時代に屈しなかったギリシャ人として、現在のギリシャ人らにとって特別な意味を与えられた。
 オスマン帝国支配下でのクレフテスは、通常、オスマン帝国当局からの復讐、税の納付、債務の返済、軍事的報復を避けていた人々であった。彼らは旅行者を襲撃したり、村落を孤立化させたりしながら険しい山岳地帯や僻地に居住していた。
 クレフツの一団にはアルバニア系民族も多く含まれ、オスマン帝国の支配に対して継続的な戦争を続け、19世紀まで山賊として活動を続けた。

 1453年のビザンチン帝国の首都コンスタンティノープルがオスマン・トルコの侵攻を受け陥落、続いてモレア専制公国のミストラ陥落の後、現在のギリシャの平原の大部分はオスマン帝国の支配下となった。
 ギリシャの山脈(ギリシャ人が住み、オスマン・トルコはアクセスできない)と、ヴェネツィアの支配下にあったいくつかの島と沿岸領土は攻略されずに残り、この状況は1821年まで続いた。 
 オスマン帝国の領土は、エヤレットとも呼ばれるパシャリク(村)に分割された。
 ギリシャではモレアとルーメリアと呼ばれた。
 パシャリクはさらにサンジャクに分割され、サンジャクはしばしば封建的なチフリック(農場 τσιφλίκι tsifliki)に分割された。
 生き残ったギリシャ軍(ビザンチン軍、地元の民兵、傭兵など)は奴隷として歩兵戦闘員
   イェニチェリ
として、オスマン帝国軍に加わるか、地元のオスマン帝国の名士の私兵に仕えるか、自活するかのいずれかを選ばされた。
 ギリシャ人将兵は、多くが自由な盗賊生活を選び盗賊団となり勢力を拡大した。

 オスマン帝国支配下のクレフトは、オスマン帝国の役人からの
   復讐や税金、負債、報復
から逃れてきた男たちで。旅行者や孤立した集落を襲撃し金品等を強奪し、険しい山岳地帯や奥地に住んでいた。
 クレフトの集団のほとんどは、ギリシャ独立戦争(1821年ー1830年)に何らかの形で参加した。
 ギリシャ独立戦争中、クレフトはアルマトロイ(民兵、自警団)とともにギリシャの戦闘部隊の中核を形成した。
 戦争中は重要な役割を果たした。
 軍事統制が取れず、非効率的であったが、彼らは1821年から1827年までの臨時政府にとって唯一の実行可能な軍事力であった。
 クレフトやアルマトーレの多くは、彼ら自身の軍事的パトロン・クライアントの条件に従ってギリシャ独立戦争に参加した。
 もともと、彼らは戦争を、活動地域を拡大するための経済的、政治的な機会とみなして活動した。
 クレフトやアルマトーレのようなバルカン半島の盗賊は、民族主義的な歴史学では綺麗事で
   国民的英雄
として称賛されている。
 しかし、実際には経済的利益に動かされ、国家的なプロジェクトなどは知らず、オスマン帝国と同盟を結び、イスラム教徒と同様にキリスト教徒からも略奪していた。

 有名なクレフト
 ・アントニス・カトサントニス(Antonis Katsantonis)
 ・ジョルガキス・オリンピオス(Giorgakis Olympios)
 ・オデュッセウス・アンドルーツォス(Odysseas Androutsos)
 ・アタナシオス・ディアコス(Athanasios Diakos)
 ・ゲオルギオス・カライスカキス(Geórgios Karaïskákis)
 ・テオドロス・コロコトロニス(Theodoros Kolokotronis)
 ・ディミトリオス・マクリス(Dimitrios Makris)
 ・ニキタス・スタマテロプロス(Nikitas Stamatelopoulos)

   
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2024年06月30日

甲州財閥(こうしゅうざいばつ)

甲州財閥(こうしゅうざいばつ)
 明治期の東京や埼玉、横浜で顕著な経済活動を行っていた甲州(山梨県)出身の実業家たちの総称で、郷土意識で緩やかな資本連合を持っていた。
 明治中期から昭和初期にかけて鉄道会社や電力会社・証券金融会社を設立または買収し、各方面へ幅広く展開した。
「財閥」とは、本来は三井財閥や住友財閥など異種の業種が
   同族的支配関係
により組織された独占資本を意味したものだが、実業家集団の結団を指すものとしての総称で江州財閥(近江商人)、佐賀財閥、中京財閥などと同様の総称である。
 ただし、関西で成功した阪急東宝グループの創始者の一人である小林一三は山梨県出身者であるが、甲州財閥とは別の財閥とみなされている。

 甲斐国では江戸時代甲府城下町が発達し、甲州街道や富士川舟運をはじめとする諸街道・物流網が成立し商業が展開された。
 甲府城下町(新府中)では八日町(甲府市中央)を中心に大店を構える有力商人が出現した一方で在方においても
   養蚕や煙草、果樹栽培 など
商品作物の栽培が行われ、農間余業として行商を行う商人が出現した。
 また、富士川舟運では
   廻米輸送
を行う下げ荷として塩などの物産を移入しており、これに携わる有力商人が存在していた。
 安政6年(1859年)横浜港が開港されると、甲州屋忠右衛門(篠原忠右衛門)、川手五郎右衛門、若尾逸平ら投機商が出現した。
 彼らは横浜に店を構え蚕糸や果樹など甲州物産を輸出して財をなした。
 忠右衛門らはその後養蚕恐慌により没落したが、若尾逸平らは新興町人として生き残って成長し、彼らはいずれも甲府町方の商人に対して在方に出自をもっている。
 明治中期には若尾逸平、雨宮敬次郎、根津嘉一郎らの先駆者に続き小野金六、小池国三、古屋徳兵衛、堀内良平らが出現した。
 彼ら養蚕・生糸事業で得た資本を当時有望性のあった鉄道や電力などの新事業に投資して事業拡大した。
 中央線の敷設に際しては利害で対立するものの、1896年(明治29年)には山梨県内の豪商農層を総動員して
   東京電燈
の株式過半数を買い占め、電気やガスなどの公共事業や株式投資で産業界における存在感を強めた。
 明治後期・大正時代には山梨県政や東京市政にも参画した。

 昭和初期の金融恐慌で総帥的立場にあった若尾家が没落してしまい、世代交代により郷土意識が希薄化すると影響力は弱体化した。
 戦後は財閥解体などにより規模が縮小した。
 ロッキード事件などの汚職に甲州系資本が関与したなどによるイメージダウンや、平成不況などにより廃業・合併する企業が増えるなど現在では甲州系資本の影響力は低下した。
 山梨県立博物館では若尾家など甲州財閥に関係する展示を行っている。

著名な甲州財閥系譜
・甲州屋忠右衛門
根津嘉一郎 (初代)(東武鉄道や南海電気鉄道に関与し、根津財閥を形成)
雨宮敬次郎(雨宮製作所や日本製粉などの創業者)
若尾逸平(東京電燈などの創業者)
若尾民造 (若尾銀行頭取、東京電燈会長)
・小野金六(富士身延鉄道社長)
小池国三(山一證券創業者、前述の若尾に師事した後、独立)
・古屋徳兵衛 (初代)(松屋百貨店創業者)
・堀内良平(富士急行創業者、衆議院議員の堀内光雄は孫)
・神戸挙一(東京電燈などの社長)
・穴水熊雄(京王電気軌道社長)
・穴水清彦(相模鉄道)
・穴水要七(相場師、衆議院議員、富士製紙(後の王子製紙)および北海道電燈(現北海道電力))
・小佐野賢治(国際興業創業者)
小林一三(阪急電鉄)
早川徳次(東京地下鉄道(旧))
・中田大三(神戸電鉄)
・佐藤晴雄(京浜急行電鉄)
・古屋哲男(富国生命)
・小林宏治(日本電気)
・小林中(日本開発銀行)
・三神良三(東京會舘)
田邊七六(日本軽金属)
  
  
   
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2024年06月29日

「シェブロン法理」とは

「シェブロン法理」は米国最高裁が1984年、米石油大手シェブロン天然資源保護協会(NRDC)が争った裁判で示した法律の考え方。
 連邦法に明記されていなかったり曖昧だったりする問題については政府が解釈し、その解釈が合理的であれば司法は従うという原則のこと。

   

   
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2024年06月13日

スイス諜報機関(The Swiss intelligence community  Federal Intelligence Service  FIS)

  (The Swiss intelligence community  Federal Intelligence Service  FIS)
 スイス連邦情報局はスイスの利益とインフラを保護する責任を負う機関
 従業員 303人
 国の主要な諜報機関である連邦情報局( FIS )は、情報局法によって統治されている。
 スイスの最初の連邦軍秘密諜報機関は、第二次世界大戦勃発の数年前
   ハンス・ハウザマン
によって1937年から1939年にかけて
   Büro Ha
として設立された。
 その時点まで、情報収集の責任は片手間の仕事として警察に委ねられていた。
 
 スイスの諜報機関についてはあまり知られていない。
 スイス連邦警察の事件記録が最近発見され、スイスの諜報機関が
   中華人民共和国
と取引していたことが示されている。
 およそ 1960 年から 1980 年にかけての時期、スイスの諜報活動の主な目的はスイス国内の
   共産主義の脅威
に対処することであった。
 事件記録で発見された共産主義と戦う方法の 1 つは
   フィッシュ システム
でスイス国内で行われたあらゆる「反愛国的行為」を追跡する
   索引カード システム
のことである。

 このシステムは成功を収め、冷戦中に 90 万枚のカードが作られた。
 中国、韓国、ベトナム系の人々を対象とした約 25,000 枚のカードが作られたと記録されている。
 フィッシュの究極の目的としては、スイスに危害を及ぼす可能性のある共産主義の脅威を阻止することであった。

 2010年1月1日より、スイスには新たな安全保障政策手段である
   分析・予防サービス (DAP)
   戦略情報サービス (SND)
を統合して連邦情報局( FIS ) が創設された。
 相乗効果を活用し、サービス受領者のニーズに常に適応することで、現代の要件を満たすように調整され、将来的には連邦および各州のあらゆるレベルの窓口となる強力な情報サービスが誕生した。
 
 FIS のパートナーおよびサービス受領者は、政治および軍事指導者、連邦政府で
   連邦国防・民間防衛・スポーツ省(DDPS)
   連邦司法警察省 (FDJP)
   連邦外務省 (FDFA)
   連邦経済省(FDEA)。
のほか、連邦が雇用する 84 名の国家安全保障エージェントを含む州も重要なパートナーとなった。
 FIS は海外において、世界中の 100 を超える諜報機関、警察機関、治安機関と連絡を取り合っている。
 これらの二国間および多国間の連絡はすべて連邦評議会によって承認されている。
  
 連邦民間情報法によればFISはテロリズム、違法な情報、暴力的過激主義、核拡散に関連する危険を認識し、それと闘ことや、重要な情報インフラストラクチャに対する攻撃を識別している。
 スイス情報機関として関心のあるテーマと地理的領域は、テロリズムや暴力的過激主義、拡散、重要インフラに対する攻撃、違法な諜報活動などがある。
 また、海外においては、FIS のテーマ領域は引き続き、拡散、テロリズム、軍事力開発、海外における我が国の軍隊の作戦領域、ならびに兵器技術と武器取引がある。
 関心のある地理的領域は、引き続き、ヨーロッパ、ロシアおよび CIS 諸国、近東および北アフリカ、中東、アジア、米国、およびアフリカのホットスポットとなっている。 
 2017年のFISの予算は7,560万スイスフランということが公表されている。

 その他のスイス諜報機関としては軍事情報局がある。
 また、郵便および電気通信監視局は、連邦司法警察省内のサービスであり(2008年1月1日以降)、犯罪捜査当局の盗聴要請を調整する任務を負っている。
 これで問題となった行為には2012年、上級IT技術者が重要な諜報文書を盗んだことがある。
 また、2014年、連邦情報局の捜査官が、スイスのワインメーカー
   ドミニク・ジルー
の代理としてジャーナリストに対するハッキング事件に関与したことがある。
  
   
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2024年06月09日

サットン・フー(Sutton Hoo) アングロサクソン時代の船葬墓

サットン・フー(Sutton Hoo)
 イングランド東部イースト・アングリアのサフォーク州ウッドブリッジ近くで発見された7世紀の
   アングロサクソン時代の船葬墓
のこと。
 1939年に発掘され、豊かな副葬品が出土したことで知られる。
 中世初期のイングランドを知るうえで極めて重要な考古学的資料で、最も著名なイギリスの考古遺跡のひとつ。
 サットン・フーはデベン川左岸の絶壁上にあり、海から7マイル(約11km)離れている。
 一帯は中世
   イースト・アングリア王国
の墓地となっており、多数の古墳が散在し、のうち1号墓地と呼ばれる地域から出土した船葬墓が、特にサットン・フーと呼ばれている。
 この土地の所有者だった
   エディス・プリティ
が敷地の塚群に興味を持ち、アマチュア発掘家
   バジル・ブラウン
によって発掘が行われた。
 発掘調査で出土した多数の副葬品は現在、ロンドンの大英博物館に展示され、豪華な金銀の装飾品や武具、武器などがある。
 また西暦625年の銘をもつ金貨が出土していることから年代も絞られ、624年に死去した
   イースト・アングリア王レドワルド(Rædwald)
の墓ではないかと推定されている。
 なお、この墓域は1998年からナショナル・トラストが管理している。

    
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2024年05月04日

バーミンガム暴動 (「プリーストリー暴動」とも呼ばれる)

1791年のバーミンガム暴動 (「プリーストリー暴動」とも呼ばれる)
 1791年の7月14日から17日にかけてバーミンガムで起こった暴動のこと。
 暴徒らの主な標的はプロテスタントに属さない
   非国教徒 (Dissenters)
で、とりわけ神学的・政治的にもその中心的存在である
   ジョゼフ・プリーストリー
であった。
 公共図書の購入をめぐる論争から、非国教徒による
   市民権獲得運動
   フランス革命支持
に対する反発などから、地方レベルおよび国家レベルでの時事問題が暴動の引き金になった。
  
 この暴動では
   フランス革命の共鳴者
らによる晩餐会が行われていたバーミンガムの
   ロイヤル・ホテル (Royal Hotel)
への襲撃から始まった。

 暴徒らはその後、プリーストリーの教会と自宅を皮切りに、4つの非国教徒の教会、27の家屋、複数の店舗を次々と襲撃した。
 暴徒の多くはアルコールで泥酔していたものの、それは略奪したものであったり、暴動をやめるよう買収される際に渡されたものであった。
 しかし、少数の中心メンバーは買収されることなく、冷静さを保っていたという。

 暴徒らは非国教徒の家や教会だけでなく
   ルナー・ソサエティ
のメンバーらなど、非国教徒と付き合いのあった人々の家も襲撃していった。
 なお、当時の首相ウィリアム・ピット はこの暴動に直接関与したわけではなかったが、政府は非国教徒らからの
   救済の訴え
には反応が鈍かったという。
 また、バーミンガムの一部の役人が暴動の計画に加担していたとされ、彼らは後に首謀者らを裁く際にも消極的な姿勢を見せていた。

 実業家のジェームズ・ワットは、この暴動はバーミンガムを「二分してしまい、お互いに心底憎み合うことになった」と後に述べている。
 被害を受けた人々はバーミンガムを去り、18世紀の間産業革命の中心地の一つとして栄えたこの都市は、以前よりも保守化した。
 
 もともと、18世紀の間のバーミンガムは、様々な要因で暴動がたびたび起こる都市であった。
 1714年と1715年にも国教会の権益を守るために政府を批判したかどで逮捕された
   ヘンリー・サシェヴェラル (Henry Sacheverell)
の裁判の際、王党派の群集が暴徒化し非国教徒を襲撃している。
 1751年と1759年にはクエーカー教徒とメソジストが襲撃された。

 1780年の反カトリックの
   ゴードン暴動 (Gordon Riots)
では大量の群集がバーミンガムに押し寄せている。
 また、1766年、1782年、1795年、1800年には食料高騰への抗議運動も起こっている。

 1780年代までは宗教的対立はバーミンガムのエリート層の分断を生むことはなく非国教徒とイギリス国教会信徒は折り合いをつけてうまく生活していた。
 彼らは同じ民生推進委員会 (promotional committee) に参加し、ルナー・ソサエティを足場に科学的関心を共有するなど、地域の政治や経済の維持発展に関して協力的関係にあった。

 ただ、プリーストリーを襲った暴動の後、文房具業者でバーミンガムの歴史家であるウィリアム・ハットン (William Hutton) はNarrative of the Riots in Birmingham (1816) において、5つの出来事が宗教的対立の火をつけたとしている。
 出来事として、地元図書館にプリーストリーの著作を所蔵するかどうかの議論、非国教徒らによる審査法 (Test and Corporation Acts) 撤回の運動、プリーストリーを中心とした神学論争、扇動的なビラ、そしてフランス革命勃発を祝う晩餐会などを例示した。

 審査法では非国教徒がオックスフォード大学やケンブリッジ大学に入学したり公職に就くことを認めないなど、彼らの市民権を制限するものであった。
 バーミンガムの非国教徒がこの審査法の撤回を求めて運動を起こした。
 とりわけ1787年あたりからこうした運動のためだけに結成された非国教徒団体が登場し、地域のエリート層が先導していた表面上の連帯が崩れ出した。
 プリーストリーのようなユニテリアンは撤回運動の第一線に立ったため、イギリス国教会の信徒らは神経を尖らせるようになった。
 ただし、こうした運動は1787年、1789年、1790年に起こったものについては失敗している。

 暴動の1か月前、プリーストリーは普通選挙と短期議会の開催を実現させるための改革運動団体 Warwickshire Constitutional Societyにジェームズ・ワットやマシュー・ボールトンらルナー・ソサエティのメンバーを入れようとしたが、この試み自体は失敗した。
 そのため、こうした動きはバーミンガム内の緊張を高めていった。

 こうした対立には政治的・宗教的背景に加え、経済的要因も関係し、下層階級の労働者と上流階級の国教会エリート層はともに
   中産階級の非国教徒実業家
たちの経済的成功とそれに伴う権力の増大を妬むようになっていた。
 実業家たちは有力者の庇護下で功利的な産業・商業活動に勤しんでいた。

 プリーストリーも匿名で出版したAn Account of a Society for Encouraging the Industrious Poor, with A Table for Their Use (1787) において、犯罪や不道徳の温床になる貧困層を保険制度によって救済する必要性を説きながら、同時に最少の費用でいかに彼らから最大の労働力を引き出すことができるかを論じていた。

 その論考で借金回収の重要性が強調されていたことは、明らかに労働者を敵に回すものとなった。

 イギリス国内のフランス革命をめぐる論争 (Revolution Controversy) は1789年から1795年まで続いていた。
 当初は、英仏どちらの論陣も、フランスは100年前のイギリスでの
   名誉革命
と同じ道を辿る (すなわち絶対王政がより民主的な統治形態に変わる) だろうと考えていた。
 そのため、1789年のバスティーユ襲撃は多くのイギリス国民に好意的に受け止められていた。

 また、イギリスでも選挙権が拡張されたり、議会の憲法上の区分の再配置によっていわゆる腐敗選挙区がなくなるなど、さらなる政治体制の変革が起こるだろうというのが、フランス革命支持者らの展望であった。

 しかし 恐怖政治やナポレオン戦争開始の後には、フランス革命の大義を支持したり、改革がイギリスにも及ぶことを信じている人はごくわずかとなり、急進派と疑われる人々は役人や世間からの疑いの標的となった。

 バーミンガム暴動の引き金となった諸々の出来事は、フランス王家の逃亡と逮捕 (ヴァレンヌ事件) から1ヶ月も経たないうちに起こった。
 その時点ではフランス革命に対する当初の見通しがすでに暗くなってしまっていた。

 1791年7月11日、バーミンガムの新聞において、バスティーユ襲撃の2周年目にあたる7月14日に、ロイヤル・ホテル (Royal Hotel) で革命勃発の祝賀会が開かれることが告知された。
 この告知では「自由の友であればだれでも」参加できるとされた。
 同日、ジェームズ・ホブソン (James Hobson) という人物 が書いた
   「過激な革命派の (ultra-revolutionary) 」ビラ
が出回ったため、バーミンガムの役人がビラの出版とその筆者についての情報提供を100ギニーで呼びかけたが、効果はなかった。

 非国教徒らは自分たちの立場を守るために無実を主張し、そのビラが煽る急進的な考えを非難する必要に迫られた。
 7月12日には晩餐会で問題が起こる下地ができてしまった。

 7月14日の朝、「長老派に破滅を」「国教会と国王よ永遠に」といった落書きが町中に見られた。
 この時点でプリーストリーの友人らはプリーストリーの身を案じ、晩餐会に参加しないよう彼を説得した。

 14日はおよそ90名のフランス革命支持者らが集まった。
 晩餐会は国教徒の実業家でルナー・ソサエティのメンバー
   ジェームズ・キア
が取り仕切った。
 午後2時から3時頃にゲストがホテルに到着すると、60-70人からの抗議で迎えられた。
 参加者が食事を終える午後7時から8時頃には何百人もの群衆が集まった。

 暴徒らは、帰宅しようとする祝賀会ゲストらに石を投げつけ、ホテルを占拠・略奪した。
 群集は次にクエーカー教徒の会館に移動したが、誰かがクエーカー教徒は「どんな論争にもどちらの側にも首を突っ込まない」と叫び、代わりにプリーストリーが牧師を務めているニュー・ミーティング・チャペルに向かうよう促した。
 効果なく、その教会が燃やされて全壊した後、別の非国教徒の教会であるオールド・ミーティング・チャペルが襲撃された。

 暴徒はそれからバーミンガム南東のスパーブルック (Sparkbrook) のプリーストリーの自宅Fairhillに向かった。
 プリーストリーはかろうじて難を逃れ、暴動の間は妻とともに非国教徒の友人らのもとに身を隠した。
  
 この騒動の裏にバーミンガムの国教徒エリート層による連携が推測され、おそらく地元の牧師ベンジャミン・スペンサー (Benjamin Spencer) 、治安判事で地主のジョゼフ・カールズ (Joseph Carles) 、弁護士で検視官であったジョン・ブルック (John Brooke) が中心的役割を果たしていたと見られる。
 カールズとスペンサーは暴動が勃発した際にそこに居合わせていたにもかかわらず、暴徒を止めようとしなかった。
 また、ブルックは暴徒らをニュー・ミーティング・チャペルへと誘導したとされる。

 証言者は口をそろえて「治安判事らは暴徒に対して、人や財産に手をかけず集会所のみ襲撃する限りにおいて身の安全を保障する約束をしていた」と述べている。
 判事はまた、暴徒の誰も逮捕しようとせず、逮捕された者も釈放した。
 こうした役人らは、政府から扇動者を裁判にかけるよう指示されていたものの、すぐに対応することはなかった。
 ようやく首謀者の裁判をせざるをえない状況になると、彼らは証言者を脅して、裁判手続きを軽視した[。
 そのため、告発された50人の暴徒のうち、17人だけが裁判にかけられ、4人が有罪判決を受けた。
 そのうちの1人は放免され、2人は絞首刑となり、1人はオーストラリアのボタニー湾に流刑された。

    
posted by まねきねこ at 06:22 | 愛知 | Comment(0) | TrackBack(0) | 格言・ことわざ・用語解説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年04月30日

ブラック・スワン・ファンド(A Black Swan fund) 

ブラック・スワン・ファンド(A Black Swan fund)はブラック・スワン理論に基づいた投資ファンドであり
   市場の急激な下落
から大きな利益を得ようとする投資活動のこと。

 彼らは2007 年から 2008 年の金融危機後にさらに知られるようになった。
「ブラック・スワン」基金の一例は
   マーク・スピッツナーゲル(Mark Spitznagel)
によって設立され、ニコラス・タレブ(Nicholas Taleb)によって助言されたユニバーサのこと。
 2007年から2008年の金融危機の間、このファンドは 100%を超える収益を記録した。
 2015年8月、Universa Investments は1 週間で 10億ドル以上の利益を上げ、年初来利益の 20% に相当する。

      
   
posted by まねきねこ at 14:55 | 愛知 ☔ | Comment(0) | TrackBack(0) | 格言・ことわざ・用語解説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする