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2024年02月19日

ジェイミー・ソルター(​​Jamie Salter) Authentic Brands Groupの創設者

ジェイミー・ソルター(​​Jamie Salter)
   1962/1963年生まれ
 カナダの億万長者実業家
 ニューヨーク市にある米国のブランド管理会社
の創設者、会長、CEO で設立する前は、 Hilco Consumer Capitalの CEO を務めていた。

 カナダのトロント出身で、カリフォルニアの高校に通い、その後ロングビーチ州立大学でビジネスを学び、その後カナダのオタワにあるカールトン大学に転校した。
  1980 年代にスポーツ用品のマーケティングでキャリアをスタートさせ、1992 年にスノーボードメーカー
   ライド
を共同設立し、1994 年にナスダックに上場した。
 1996 年に同社の CEO を辞任した後、他のスポーツ用品会社と協力して働いたのち主要ベンチャー
   ヒルコ トレーディング LLC
のプライベート エクイティ部門
   ヒルコ コンシューマー キャピタル
の共同創設者となり、2006年12月の立ち上げに協力した。
 2010 年にヒルコを退職し、自身の会社オーセンティック ブランズ グループを設立した。

 2021年11月、資金調達ラウンドで同社の価値が95億ドルと評価された後、ソルター氏の純資産は11億ドルと推定されている。
  4 人の息子がおり、全員がオーセンティック ブランズ グループで働いていおり、コーリー・ソルターは同社の最高執行責任者に就任している。
  
    
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リチャード・C・ペリー (Richard Cayne Perry) ペリー・キャピタル LLC (2016 年に閉鎖)の創業者

リチャード・C・ペリー
    (Richard Cayne Perry)
  1955 年 2 月 9 日生まれ
 米国のヘッジファンドマネージャーであり、創業した
   ペリー・キャピタル LLC (2016 年に閉鎖)
は複数の企業に投資し、2012年からはNYの百貨店
   バーニーズ・ニューヨーク
の支配権を所有していた。
 ペリーは2019年8月にバーニーズ ニューヨークの支配権を売却した。
 ペリーは米国の大手投資銀行ベア・スターンズの元CEO
   ジェームズ・ケイン
の妹で小さな輸入業の会社を経営していた
   メレル(旧姓ケイン)
と本の出版社やビジネスマシン会社など、いくつかの会社を経営していた
   アーノルド・ペリー(1925年 - 2001年)
の息子として生まれ、シカゴで育った。
 10歳でマンハッタンに移り、13 歳のときに両親が離婚した。
 マンハッタンの私立男子校アレン・スティーブンソン・スクールに通い、その後マサチューセッツ州ミルトンのミルトン・アカデミーの高等学校に通い、1973 年に卒業した。
 ペンシルベニア大学ウォートン・スクールに通い、 1977 年に学士号を取得して卒業した。
  
 大学在学中に、父親のルートで米国大手証券会社の
   ゴールドマン・サックス
でインターンシップの経験を確保することができ、そのパートナーの 1 人となる
   L. ジェイ・テネンバウム
の下で直接働いた。
 大学卒業後、ゴールドマン・サックスに株式オプション取引デスクとして採用された。
 この間、ペリーはニューヨーク大学のビジネス スクールで夜間 MBA を取得した。

 後にビル・クリントン政権では財務長官として財政均衡を主導することになる
   ロバート・ルービン
が経営するゴールドマン・サックスの株式裁定取引デスクに異動した。
 この間、彼はニューヨーク大学スターン校でルービンの教育助手を務め、ルービンの子供たちのベビーシッターも務めた。
 1988 年にペリー キャピタルを設立するために退職した。

 ペリーの最初の大規模投資として、ペリー・キャピタルは 1994年に1.3億ドルでFlorists' Transworld Delivery (FTD) を買収した。
 買収では、メグ・ホイットマンをCEO に据えることも含まれていた。
 2004年に会社の株式を4.5億ドルで売却し3億ドルの利益を得た。
 2005年、イギリスのサッカー チーム
   マンチェスター ユナイテッド
を買収するためにマルコム グレイザーに5 億 1,200 万ドルの融資を提供した投資家の一人でもある。

 2012年5月、ペリーの会社はバーニーズの所有権を取得した。
 ペリーは同店の最大の債権者であったため、この買収によってバーニーズの5億9000万ドルの負債は5000万ドルに減った。
 ペリー氏の会社は、元過半数株主のイスティスマール・ワールド氏、新規投資家のユカイパ・カンパニーズ氏、バーニーズの現CEOマーク・リー氏を含む7人の取締役会で3議席を獲得した。

 2014年から、ペリー キャピタルLLC は英国マンチェスターの経営不振にある協同組合銀行の大株主となり、取締役会の一員となった。
 ファンド創設から最初の20年間、ペリーは平均15パーセントのリターンを記録し、2007年には資産が155億ドルに達した。
 2016年9月、ペリーは運用資産が後半から60パーセント減少したことを受け、ヘッジファンドを閉鎖すると発表した。

 2019年8月、バーニーズ・ニューヨークは米国のブランド管理会社
   オーセンティック・ブランズ・グループ
に売却され、バーニーズ・ニューヨークは同社の過半数所有者でなくなった。
 
 1985年、彼はマンハッタンで
   リサ・レイチェル・ニューバーガー
と結婚した。
 ニューヨーク市のサットンプレイスにある改装された17部屋のタウンハウスを2000年に1,090万ドルで購入した。
 2018年5月に妻と一緒に購入して改装した後、フロリダ州パームビーチにある住宅地を2019年11月に売りに出した。

 ペリー氏は、オバマ大統領を含む民主党関連の大義、組織、人々の熱烈な支持者。
 また、イスラエル・プロジェクトの理事を務めており、2010年にはセス・クラマンとともにパレスチナに関するアメリカ特別委員会の創設者であり議長であるジアド・アサリのイベントを共催した。
 ペリーの弟であるデビッド・ペリーは、サンフランシスコを拠点とするヘッジファンド・アドバイザーである
   チームコ・アドバイザーズ
の創設者兼CEOであったが、2017年に閉鎖を発表した。

       
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2024年02月17日

ライネル・エミール・グート(Rainer Emil Gut)

ライネル・エミール・グート
        (Rainer Emil Gut)
   1932年9月24日 - 2023年10月11日

 銀行取締役エミール・グートと旧姓ミュラーのローザ・グートの息子として生まれた。
 ツーク、ロンドン、パリの学校に通い1968年にニューヨークの
のゼネラル・パートナーに就任した。

 1971年には当時のSKA(シュヴァイツァー・クレジット・シュタルト、現クレディ・スイス)の米国投資銀行子会社
   スイス・アメリカン・コーポレーション(ニューヨーク)
の社長兼最高経営責任者(CEO)に就任した。
 1973 年に執行委員会のメンバーとなり、1977 年からは「シュヴァイツァー信用組合」 (SKA)のスポークスマンを務めた。
 1982 年に同協会の会長に就任した。

 1983年から2000年まではSKAとクレディ・スイスの取締役会長をそれぞれ務めた。
 1986年から2000年まではクレディ・スイス・グループ(旧CSホールディング)の取締役会長も務めた。

 2000 年から 2005 年まで、ネスレSA の会長を務めた。
 また、アルスイス、バイエル、スイス再保険、スイス航空、ダイムラークライスラースイス、チバガイギー/ノバルティス、エレクトロワット、スルザーなど、いくつかの国際企業で取締役を務めている。

 グートは 2000 年から 2023 年までクレディ スイス グループの名誉会長を務めた。
 グートのリーダーシップの下、SKA は投資銀行業務、資産管理、保険に重点を置いた主要な国際金融サービス グループに発展した。
 なお、第二次世界大戦時のユダヤ人虐殺に伴う「休眠資産」を巡る1990年代のホロコースト論争では、スイス経済界による人道基金創設に尽力した。
 主にグートの交渉で、 1998年にスイスの銀行とニューヨークのユダヤ人原告の間で和解が成立した。

 グートは 1957 年にジョゼフィーヌ ローレンツと結婚し、4 人の子供がいた。
 2019年の彼の資産は1億2,500万スイスフランと推定されている。
 
    
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2024年02月15日

サム・バンクマン=フリード FTXとアラメダ・リサーチの創設者

サム・バンクマン=フリード
    (Samuel Benjamin Bankman-Fried)
       1992年3月6日ー

 米国の起業家、投資家、そして元ビリオネアでSBFというイニシャルでも知られている。
 バンクマン=フリードは
   暗号通貨取引所FTX
   暗号通貨取引会社 アラメダ・リサーチ
の創設者兼CEOであった。
 FTXは2022年末、FTXのネイティブ暗号通貨であるFTTが暴落する危機の中、バンクマン=フリードはアラメダ・リサーチの業務を縮小すると発表した。
 FTXのCEOを辞任し、連邦倒産法第11章の適用を申請したが、同年詐欺罪で逮捕された。
 
 バンクマン=フリードの純資産はピーク時で260億ドルまで増加したが、2022年10月の推定純資産は105億ドル
半減した。
 しかし、2022年11月8日、FTXの支払い危機の中、ブルームバーグ・ビリオネア指数のよれば純資産は1日で94%減少して9億9150万ドルになったと推定され、1日の減少額は同指数の歴史上最大となった。

 2022年11月11日までに、ブルームバーグ・ビリオネア・インデックスでは、バンクマン=フリードには物質的な富がないと見なした。

 バンクマン=フリードの富が消える2022年11月より前までは民主党候補への大口献金者だった。
 2022年の米中間選挙では、民主党候補を中心に4000万ドルを寄付した。

 2022年12月12日、バンクマン=フリードはバハマで逮捕、かつ米国への身柄引き渡しの可能性を保留された。
 電信詐欺や謀議など、犯罪に対するさまざまな容疑が後に明らかになった。

 バンクマン=フリードは、8つの訴因すべてで有罪判決を受けた場合、最高で115年の禁固刑に処される可能性があった。
 同月22日、2億5000万ドルの保釈金の支払いを条件として保釈が認められた。
 なお、2023年8月11日、証人を脅迫しようとしたとして裁判所から保釈が取り消され、その場で勾留されている。
 同年11月3日、地裁の陪審は全ての起訴内容について有罪評決を下した。
  
    
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ウィリアム・アルバート・アックマン(William Albert Ackman) 

ウィリアム・アルバート・アックマン
         (William Albert Ackman)
      1966年5月11日生まれー
 米国の億万長者のヘッジファンドマネージャーであり、ヘッジファンド管理会社
   パー​​シング・スクエア・キャピタル・マネジメント
の創設者兼最高経営責任者。
 投資アプローチにより、アクティビスト投資家になった。 
 2024 年 1 月の時点で、アックマンの純資産はフォーブスによって 40 億ドルと推定されている。

 アシュケナージ系ユダヤ人の子孫でニューヨークの不動産金融会社アックマン ジフ リアル エステート グループの元会長
   ローレンスデイビッド アックマン
とロニー I. (旧姓ポズナー) と間の息子として、ニューヨーク州チャパクアで育った。
 1988 年にハーバード大学から社会学の成績で文学士号を取得した。
 論文のタイトルは「アイビーの壁を登る:ハーバード大学入学におけるユダヤ人とアジア系アメリカ人の経験」で、1992 年にはハーバード ビジネス スクールで経営管理修士号を取得した。

 1992年、アックマンはハーバード大学卒業生の
   デビッド・P・バーコウィッツ
とともに投資会社
   ゴッサム・パートナーズ
を設立し、上場企業に少額の投資を行った。

 1995年、アックマンは保険・不動産会社
   ルーカディア・ナショナル
と提携してロックフェラー・センターの入札を行った。
 ただ、買収には至らなかったが、この入札は投資家からゴッサムへの関心を集めた。
 3年後、ゴッサムの運用資産(AUM)は5億ドルに増加した。

 2002年までに、ゴッサムは、ゴッサムが投資した企業の権益を所有するさまざまな外部株主との訴訟に巻き込まれた。
 2002 年にアックマンは、スタンダード・アンド・プアー社の債券の AAA 格付けに異議を唱えるために
   MBIA
を調査しました。彼は、彼の法律事務所が召喚状に応じた一環として、
 金融サービス会社に関する72万5,000ページの声明をコピーしたとして手数料を請求された。
 アックマン氏は、MBIAのストラクチャード・ファイナンス事業と地方債保険事業を分離するよう求めた。
 MBIAはさまざまな住宅ローン担保債務担保(CDO)に対して販売した数十億ドル規模の
   クレジット・デフォルト・スワップ(CDS )
保護の取引が法的に制限されており、MBIAが説明した第2の会社
   ラクロス・ファイナンシャル・プロダクツ
を利用していたと主張した。

 アックマンは、 2007 年から 2008 年の金融危機の間に、MBIA の社債に対するクレジット デフォルト スワップを購入し、それを売却して多額の利益を得た。
 SECに提出した13Dによると、同氏は2009年1月16日にMBIAのショートポジションをカバーしたと報告した。
 2003年、ホールウッド・リアルティが関与した取引をめぐって、アックマンとカール・アイカーンの間に確執が生じた。
 両氏は、アイカーン氏が3年以内に株式を売却して10%以上の利益が出た場合、アイカーン氏とアックマン氏が収益を折半するという「シュマック保険」の取り決めに合意した。
 アイカーン氏は1株当たり80ドルを支払った。

 2004年4月には
   HRPT プロパティ トラスト
はホールウッドを 1 株あたり 136.16 ドルで買収した。
 なお、「契約」の条項に基づき、アイカーン氏はアックマン氏と投資家に対し約450万ドルの負債を負っていた。
 しかしアイカーン氏は支払いを拒否した。
 アックマン氏は訴訟を起こし、8年後、アイカーンさんは裁判所命令により450万ドルと年9%の利息の支払いを余儀なくされた。
 2004年にアックマンは個人資金と元ビジネス パートナーのルーカディア ナショナルから 5,400 万ドルを集めて
   パーシング スクエア キャピタル マネジメント
を設立した。

 2010年、パーシングはJCペニー株の購入を開始し、JCペニー株の18%にあたる3900万株に平均22ドルを支払った。
 2013年8月、アックマン氏が役員仲間との意見の相違を理由に役員を辞任した。
 このため、百貨店を変革する2年間にわたるキャンペーンは突然終わりを迎えた。
  
 パーシング・スクエアが2014年に投資家に45億ドルの純利益をもたらしたことを受け、LCHインベストメンツは2015年1月にアックマン氏を世界トップ20のヘッジファンドマネージャーの1人に挙げ、2004年の設立以来2014年末までの同ファンドの生涯利益は116億ドルに達した。[24]

 2016年4月27日、アックマン氏は、ヴァリアント・ファーマシューティカルズの退任CEO
   J・マイケル・ピアソン氏
および同社の元暫定CEO
   ハワード・シラー氏
とともに、米国上院高齢化特別委員会で証言した。
 証言パネルは、ヴァリアントのビジネスモデルと物議を醸す価格設定慣行によってもたらされる患者と医療システムへの影響に関する委員会の懸念に関連する質問に答えた。

 アックマンは証言の冒頭で、「ヴァリアントの株主として、私の投資は…ヴァリアントの戦略を支持するものであったと認識している」と述べた。
 アックマンは、2017年3月にヴァリアントの残りの2,720万株ポジションを投資銀行
   ジェフリーズ
に約3億ドルで売却した。
 株式の直接購入と原株である910万株を含むポジションの総コストは推定されている。
 ノムラ・グローバル・ファイナンシャル・プロダクツとのオプション取引は46億ドルとなり、大幅な損失につながった。 

 2012 年 12 月、アックマン氏は
   ハーバライフ
のマルチレベル マーケティングビジネス モデルを
   ねずみ講
と呼んで批判する調査報告書を発表した。

 アックマンは、自身のヘッジファンドであるパー​​シング・スクエア・キャピタル・マネジメントが2012年5月から同社株を(デリバティブではなく)直接空売りし、その結果ハーバライフの株価が下落したことを明らかにした。

 アックマン氏の最初のコメントから数カ月後、億万長者の投資家
   カール・アイカーン氏
が国営テレビでの公開口論でアックマン氏のコメントに異議を唱えた。
 その直後、アイカーン氏はハーバライフ・インターナショナル(HLF)の株を購入した。
 アイカーン氏がHLF株の買い増しを続けたため、株価は引き続き堅調さを示した。

 2013年5月までに、アイカーンは同社の株式の16.5%を所有した。
 その数は、2013 年 11 月までに 6.4% に減少した。

 2014年、アックマンはハーバライフに対する広報活動に5000万ドルを費やした。
 ボブ・バー元下院議員(共和党、ジョージア州)は、アックマン氏が
   短期間の選挙活動
で広報活動や規制圧力を利用したことを調査するよう議会に要請し、元米国証券取引委員会(SEC)委員長のハーベイ・ピット氏は、アックマン氏が意図したのはどうかと疑問を呈した。 

 2015年3月12日、ウォール・ストリート・ジャーナルは、マンハッタン連邦検事局の検察官とFBIがアックマンに雇われた人々が「ハーバライフに対する捜査を促進するために規制当局やその他の人たちにハーバライフのビジネスモデルについて虚偽の発言をしたかどうかを捜査している」と報じた。
 2015年3月、カリフォルニア州ロサンゼルスの連邦地方判事
   デール・フィッシャー
は、同社が違法なねずみ講を運営していると主張するハーバライフ投資家らの訴訟を棄却した。
 フィッシャー氏の判決を受けて、ハーバライフ株は約13%上昇した。
 ハーバライフとFTCは2016年7月に和解合意に達し、同社に対する当局の調査は終了した。

 和解当日、フォーチュン誌はアックマン氏が5億ドルを失ったと見積もった。
 ハーバライフに対するアックマンの立場は、 2013年1月25日にCNBCでハーバライフ支持者のカール・アイカーンと生テレビで30分近く討論することになった。 
 2017年11月、アックマン氏はロイターに対し、空売りポジションはカバーしたが、パーシング・スクエアの資金の3%以下でプット・オプションを使用してハーバライフに賭け続けると語った。
 2018年2月28日、ハーバライフの株価が上昇し続けたため、アックマン氏はハーバライフに対する10億ドル近い賭けから手を引いた。
 
 2020年の株式市場の暴落に先立って、アックマンはパーシング・スクエアのポートフォリオをヘッジした。
 2,700万ドルを投資して信用保護を購入し、ポートフォリオを市場の急激な損失から保護した。
 パーシング・スクエアは2020年3月3日にこのヘッジを初めて開示した。

 ロイター通信によると、「アックマン氏は、事業が好調な企業のポートフォリオを売却するよりもヘッジする方が望ましいと述べた」という。このヘッジは効果があり、1 か月足らずで 26 億ドルを生み出した。

 2020年3月18日、 CNBCとの感情的なインタビューで、アックマン氏はトランプ大統領に対し、コロナウイルスの蔓延を遅らせ、閉鎖による人命の損失とその後の経済破壊を最小限に抑えるため、米国経済の「30日間の閉鎖」を求めた。

 アックマンは、介入がなければホテル株は「ゼロになる」と警告した。
 アメリカは「私たちが知っているように終わる」可能性があると述べた。
 また、「地獄がやってくる」ため、米国企業に対し自社株買いプログラムを中止するよう警告した。

 アックマン氏は後に、破綻する可能性があると警告していた企業の株式を
   積極的に割引購入
したことで批判を受けた。
 しかし、アックマンはCNBCのインタビューに登場する前に、すでに利益のおよそ半分を実現していた。

 アックマン氏は、自身の最も成功した投資は常に物議を醸しており、アクティビスト投資の第一原則は
   「誰も信じない大胆な決断をする」
ことだと述べた。
 最も注目すべき市場戦略には、2007 年から 2008 年の金融危機におけるMBIA社債の空売り
   カナディアン・パシフィック鉄道
との委任状争奪戦 、およびターゲット・コーポレーション、ヴァリアント・ファーマシューティカルズ
およびチポトレ社の株式の保有が含まれる。

 2012年から2018年まで、アックマンは栄養食品会社ハーバライフに対して10億米ドルのショートを抱えていた。
 同会社はマルチ商法会社として設計されたねずみ講だとアックマン氏は説明していた。 

 2015年から2018年にかけて業績が低迷したことを受け、アックマン氏は2018年1月に投資家に対し、人員を削減し、時間を浪費していた投資家訪問をやめ、オフィスにこもってリサーチを行うことで基本に立ち返ると語った。
 翌年、パーシング・スクエアは58.1%のリターンを上げた。
  
 The Giving Pledgeの署名者であり、人生の終わりまでに財産の少なくとも 50% を慈善活動に寄付することを約束している。
 アックマンはユダヤ歴史センターなどの慈善活動に寄付し、3,000万ドルの借金を返済する取り組みの先頭に立って成功し、個人的には680万ドルを寄付した。
 この寄付金は、フェアホルム・キャピタル・マネジメントの創設者であるブルース・バーコウィッツ氏およびルーカディア・ナショナル社長のジョセフ・スタインバーグ氏の寄付金と合わせて、同センターがこれまでに受け取った個人の寄付としては3大額となった。

 2023年にイスラエル・ハマス戦争が勃発した後の2023年10月、ハーバード大学のいくつかの学生グループがイスラエル国家を非難する書簡に署名した。
 声明では「進行中のすべての暴力に対してイスラエル政権が完全に責任がある」とし、ガザの何百万人ものパレスチナ人が「屋外刑務所での生活を強いられている」と宣言した。
 ハーバード大学に対し「現在進行中のパレスチナ人の殲滅を阻止するための行動を取るよう求めた」。

 これに対しアックマン氏は、自分の会社や他社が署名者を「不用意に雇用」することがないよう、書簡の署名に関与した学生全員の名前を公表するよう求めた。
 アックマン氏は、「テロリストの行動を支持する声明を発表する際、企業の盾の後ろに隠れることはできない」とし、「彼らの見解が公に知られるよう名前は公表されるべきである」と投稿した。 
 また、クロディーン・ゲイをハーバード大学学長の座から解任する運動にも従事した。

 2024年1月3日、Business Insider は、アックマンの妻、ネリ・オックスマンが彼女の論文の一部を盗用したと主張する記事を掲載しました。
 論文公開の翌日、オックスマンは博士論文の一部を盗用したことを謝罪した。

 アックマン氏は、2016 年大統領選挙の米国大統領候補としてマイケル ブルームバーグ氏を支持した。
 また、リチャード・ブルーメンソール、チャック・シューマー、ロバート・メネンデス、民主党全国委員会、民主党上院選挙委員会を含む民主党の候補者や組織への長年の寄付者である 

   
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ロバート・グラハム・ダン(Robert Graham Dun) 信用格付け会社「RG Dun and Company」を設立者

ロバート・グラハム・ダン(Robert Graham Dun)
   1826 - 1900 
 1861年に信用格付け会社「RG Dun and Company」を設立し、全国に多くの支店を置いた。
 ダンの経営する会社は、タイプライターを含む事務機器を最初に使用した会社の 1 つといわれる。
 このマシンで毎週の「ダンズレビュー」を執筆し、国際的なビジネス状況を評価した。
 同社は合併して、国内で有名な信用格付けおよび金融サービス出版社の 1 つ
   ダン アンド ブラッドストリート
を設立した。

 ダンは成功した後、社会事業へ貢献から、メトロポリタン美術館に25点の絵画を遺贈し、その中にはドービニーの「湿地」1858年、ブグローの「キューピッドの礼賛」1899年、その他ルソー、ローザ・ボヌール、カザン、トロワヨン、ジェローム、ポール・ポッター、サー・ジョシュアの作品が含まれていた。レイノルズ、オーギュスト・ボヌール、コロー。ダンのコレクションには、フィルミン ジェラルド、ガブリアル マックス、ランバート、ブラスカセット、モンシャブロン、ヴェイラセット、デヴィッド コル、シルグレステ、レスレル、ヴァン マルケの作品も含まれていた。
   
   
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2024年02月13日

ニコライ・タンゲン(Nicolai Tangen) 英国の投資管理会社AKO Capitalを創業し、その後、ノルウェー政府系ウェルス・ファンドの管理を任されている。

ニコライ・タンゲン(Nicolai Tangen)
   1966年8月10日生まれ
 ロンドンに拠点を置く英国の投資管理会社
   AKO Capital
を設立したノルウェー出身のヘッジファンドマネージャー。
 世界最大のモダニズム北欧美術の個人コレクションを所有している。

 ノルウェーのクリスチャンサン出身で、カーチャと結婚しており、3人の子供がいる。
 2019年5月、タンゲンと妻のカーチャがThe Giving Pledgeに参加し、生前または遺言で資産の少なくとも半分を慈善活動に寄付したことが発表された。

 AKO Capitalの経営が成功した後、2020年9月からノルジェス銀行投資管理のCEOを務めている。
 世界の上場企業の約 1.4% を所有する世界最大の公的金融ファンド
   ノルウェー政府系ウェルス・ファンド
の管理を任されている。

 ノルウェー諜報機関で尋問と通訳の訓練を受けたのち、1988年から1992年にかけてノルウェー経済学部とペンシルバニア大学ウォートンスクールに通った。
 また、ロンドンのコートールド美術館で美術史の修士号を修め、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで社会心理学の修士号を取得した。
 料理人としての教育も受けている。

 1997 年にEgerton Capitalに移るまで、Cazenove & Co.のアナリストを務めていた。
 2002 年にエガートン キャピタルを退職した。
 2005 年にロンドンを拠点とするヘッジ ファンドである AKO キャピタルを立ち上げ、108 億ポンドの資産を運用した。

 サンデー・タイムズ紙の2018年長者番付では、英国で最も成功したヘッジファンド・マネージャー20人にランク付けした。
 2020年3月、タンゲン氏が
   イングヴェ・スリングスタッド氏
の後任として、2020年9月にノルジェス銀行投資マネジメントの最高経営責任者(CEO)に就任すると発表された。

 タンゲン氏は、世界最大の政府系ファンドであるノルウェー・ソブリン・ウェルス・ファンドへの投資を担当している。
 この任命は、任命をめぐる状況の結果として非常に物議を醸した。

 ノルウェー議会の財務委員会は、利益相反が起こらないよう財務大臣に介入を指示することを全会一致で決定した。
 その後、タンゲンはAKOキャピタルを売却し、価値と所有権を慈善団体AKO財団に譲渡することを決定した。
 また、彼は個人財産をノルウェーの銀行口座に移管し始め、自費で国民の政治的要求に応え、2020年9月にCEOとして就任した。


 2013 年 4 月に教育と芸術に焦点を当てた AKO 財団を設立し、ジェイミー・オリバー食品財団、ティーチ・ファースト、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス、ペンシルバニア大学ウォートン・スクール、およびコートールド美術館に資金を提供した。
 サンデー・タイムズでは2019年5月、タンゲンが財団を通じて教育と芸術プロジェクトに1億ポンド以上を寄付したと報じた。

 また、2018年10月、タンゲンと妻のカチャはAKO財団を通じてペンシルバニア大学に2500万ドルを寄付した。
 この資金は、タンゲンホールと名付けられた新しいキャンパス建物の建設と、国際奨学金基金の設立に使用されている。
 なお、タンゲン氏は 2012 年以来、すでにペンシルベニア大学の学生 22 人を奨学金で支援してきた。
 また、ウォートン大学の監督委員会の委員も務めている。

 故郷ノルウェーのクリスチャンサンで計画されている新しいプロジェクトの一環として、自身の
   北欧アートコレクション
をノルウェーの財団に寄贈する予定という。
   
  
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2024年02月10日

フェリックス・モリッツ・ウォーバーグ(Felix Moritz Warburg) 米国の銀行家で「ジキル島の陰謀」とも揶揄される秘密会議開始の中心人物

フェリックス・モリッツ・ウォーバーグ(Felix Moritz Warburg)
   1871年1月14日 - 1937年10月20日

 ドイツ・ハンブルクでユダヤ人のモリッツ・M・ウォーバーグ(1838-1910)とシャーロット・エスター・ウォーバーグ(旧姓オッペンハイム、1842-1921)の次男として生まれた米国の銀行家。

 ドイツの同族経営のプライベートバンク
   M・M・ウォーバーグ & CO
を1798 年に創設したメンバーで裕福な保守的なユダヤ系銀行家であるミッテルヴェーグ・ヴァールブルク家の出身である。

 一家は、「リトル・エルサレム」と呼ばれるハンブルクのローターバウム地区グリンデル地区のグリンデルホーフ1aに住んでいた。
 1871年、乳母、料理人、使用人を含む一家は、ローターバウムのやや高級な地区、アウセナルスター近くのミッテルヴェーグ17番、ヨンサレーの角にある住宅に引っ越した。

 フェリックスは 16歳でドイツのハンブルクにある NM オッペンハイム & カンパニーに社会人として就職した。

 フェリックスは 1895年3月19日にニューヨークで
   ジェイコブ・ヘンリー・シフ(1847年〜1920年)
とテレーズ・ローブ・シフの娘
   フリーダ・シフ(1876年〜1958年)
と結婚し、4人の息子と1人の娘をもうけた。

 アルトナ出身のアリス・マグナス(1873-1960)とは1899年に結婚した。
 当初、ハンブルク・ブランケネーゼ市エルベ地区の大きな家族所有の土地ケスターベルクにある古い家に住んでいた。

 1907年、一家は現在のハンブルグ・ダムトール駅に近いアルスター川のほとりの別荘に引っ越し、英国式の生活をしていた。
 ウォーバーグは、妻の名前ALICE(アリス)と命名された21メートルの帆船で航海し、エルベ川のレガッタに数多く参加した。

 ウォーバーグは1908 年の米国大統領選挙の大統領選挙人である。
 ウォーバーグは、大恐慌に至るまでの期間、特に大恐慌の最中にヨーロッパのユダヤ人を助けるために設立した
   アメリカユダヤ人共同分配委員会
の重要なリーダーになっている。
 ウォーバーグは、第一次世界大戦後に飢餓に直面したヨーロッパのユダヤ人を救済するため、米国で積極的に資金を集める活動を行った。
 1925年に委任統治領パレスチナのエルサレムにあるエルサレム・ヘブライ大学を支援するヘブライ大学アメリカン・フレンズの創設者および初代会長を務めた。

 ウォーバーグと共同分配委員会は、1929 年のニューヨーク証券取引所の暴落に続く世界的大恐慌後の 1930 年代にも貢献した。

 ドイツでヒトラーが権力を掌握した後、フェリックスは銀行業よりも慈善事業に興味を持った。
 ドイツから逃れるユダヤ人を助けるために資金を提供した。

 ウォーバーグは亡くなる前に、世界中のユダヤ人の活動に1,000万ドルを寄付している。


ウォーバーグの家族には息子4人と娘1人がおり
・フレデリック・マーカス・ウォーバーグ(1897年 - 1973年)、ウィルマ・L・シャノンと結婚した。
・ジェラルド・フェリックス・ウォーバーグ (1902年頃 - 1971年)、最初はマリオン・バブと結婚し、次にコンデ・モントローズ・ナストの娘ナティカ・ナストと結婚した。
・ポール・フェリックス・ヴァールブルク。
・エドワード・モーティマー・モリス・ウォーバーグ(1908–1992)、メアリー・ウォーバーグと結婚した。
 
・カロラ・ウォーバーグ・ロスチャイルド(1896年 - 1987年)は、エイブラハム・アンド・ストラウスの取締役会会長であり、連邦百貨店の創設者であるサイモン・F・ロスチャイルドの息子であるウォルター・N・ロスチャイルドと結婚した。
 彼女の娘、キャロル・ウォーバーグ・ロスチャイルドは、ピーター・A・ブラッドフォードの母親、アーサー・ブラッドフォードの祖母にあたる。
 
 1927年、ウォーバーグは新しく結成された
   音楽芸術四重奏団(音楽芸術研究所、現ジュリアード音楽院所属)
のメンバー、サーシャ・ヤコブセン、バーナード・オッコ、ルイス・カウフマン、マリー・ローマエト=ロザノフのためにストラディヴァリ楽器4台を購入し寄贈している。

 なお、フェリックス・ウォーバーグの兄のポール・ウォーバーグはアメリカ合衆国の通貨改革計画を進め準備制度理事会などを設置した「ジキル島の陰謀」とも揶揄される秘密会議開始の中心人物で、実際の改革草案の作成一人で作成したと言われている。
 まず、彼はBoard of Governorsとして7人の理事をおき、そして、連邦準備制度Federal Reserve Systemの中心的役割を担う銀行をニューヨーク地区連邦銀行とした。
 銀行が1行であれば中央銀行というイメージができるため、4つの地区連銀(連邦銀行)を当初設立し、後に11の地区連銀を設立し批判を回避した。
   
   
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2024年02月09日

デビッド G. カビラー(David Kabiller) AQR キャピタル・マネジメントの創設者のひとり

デビッド G. カビラー(David Kabiller)
   1963年7月2日生まれー
 クリフ・アスネス、ジョン・M・リュー、ロバート・クレイルとともに
   AQR キャピタル・マネジメント
の創設者で創設プリンシパル、および事業開発責任者である。
 AQR の国際的な成長と投資信託を導入を開始した。
 また、社員が潜在能力を最大限に発揮できるように設計した
   AQR の QUANTA アカデミー プログラム
を設立した。
 このプログラムは、専門能力と個人の能力開発の両方に焦点を当てた、総合的なアプローチを提供している。

 イリノイ州シカゴでユダヤ人家族のエレイン(旧姓チュニック、1934年 - 2022年)とアーヴィング・カビラー(1930年 - 2012年)の息子として生まれ、サリ・カビラー・バティスタという妹がいる。
 ノースウェスタン大学で経済学の学士号を取得し、そこでテニスをするための運動奨学金を受けた。
 また、ビッグテンの学術オールカンファレンスチームに指名され、ノースウェスタン大学ケロッグ経営大学院でMBAを取得した。

 学生時代、放課後は証券会社大手のゴールドマン・サックス社で働いた。
 デリバティブ、 強化された指数化、証券貸付、保険関連証券、ヘッジファンド、ウォーレン・バフェットの投資洞察力の秘密などのテーマに関する論文を共著した。
 なお、Buffett's Alpha」は、Financial Analysts Journal の 2018 年最優秀論文に贈られる Graham and Dodd Award を受賞している。

 ノースウェスタン大学の理事会のメンバーであり、学業とスポーツの両方の奨学金プログラムに多額の寄付を行っている。
  
    
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2024年02月08日

ミッチェル・R・ジュリス(Mitchell R. Julis) キャニオン・キャピタル・アドバイザーズの共同創業者

ミッチェル・R・ジュリス
      (Mitchell R. Julis)
   1955年4月14日生まれー
 米国の実業家で、ロサンゼルスのヘッジファンド
の共同創業者

 ユダヤ人系移民のテルマ・ラビノヴィッツ・ジュリス(旧姓ラビノウィッツ)とモーリス・ジュリスの息子として生まれた。
 父親はギリシャ系ユダヤ人の子孫で、社会科教師と中学校の教頭として働いていた。
 一方、彼の母親はポーランド系ユダヤ人で、言語療法士として働いていた。

 家族はニューヨーク市からニューヨーク州ロックランド郡に引っ越した。
 ミッチェルはプリンストン大学のウッドロウ・ウィルソン・スクールに通い、1977年に最高優等で文学士号を取得して卒業した。
 その後、ハーバード大学法科大学院で法学博士号を取得し、ハーバード ビジネス スクールで経営管理修士号を取得している。

 ハーバード大学在学中いジョシュア・S・フリードマンとルームメイトとなり、後にキャニオンを結成した。
 夏のインターンシップで ロサンゼルスの破産会社での経験から、ジュリスの弁護士への関心が薄れた。
 この経験に満足できず、エンターテインメント業界における破産の利用法についての記事を書き始めた。

 1982年、ロサンゼルス・マガジンに不況下で金持ちになることについての記事を掲載し報道されたことがきっかけで債券取引会社
   ドレクセル・バーナム・ランバート
のトレーダー
   ヘンリー・ウィルフ
にインタビューした。
 取材を受けたウィルフはジュリスがジャーナリズムよりも投資に向いていると確信した。
 1982年、ジュリスはニューヨークの法律事務所
   ワクテル・リプトン・ローゼン&カッツ
に破産・債権者権利弁護士として就職した。

 その後も、ジュリスとウィルフは連絡を取り合い、ウィルフはジュリスをドレクセルの経営者
の弟であるローウェル・ミルケンに紹介した。
 1983年11月、ジュリスはドレクセル・バーナム・ランバートに転職した。

 ジュリスとフリードマンは、ドレクセル・バーナム・ランバートが1990年に債権投資に失敗し閉鎖された後、1990年にキャニオン・キャピタル・アドバイザーズを設立した。

 キャニオンは、銀行負債、ハイイールド証券およびディストレスト証券、証券化資産および株式などの資産クラスに投資する
   マルチ戦略ヘッジファンド
である。

 フォーブスでは2014年に28番目に稼いだヘッジファンドマネージャーとする記事を掲載した。
 1億5,000 万ドルを稼いでいた。

 キャニオンの主力ファンドであるバリュー・リアライゼーション・ファンドは、2014年に18.06% の純収益を記録した。

 ジュリスはプリンストン大学経済学部の諮問委員を務めてきた。
 センター設立の寄付に加えて、ジュリス家は 2007年にプリンストンにジュリス財団プリセプターを設立した。

 このセンターは、ニューヨークで教えていた父と母のモーリス・ジュリスと テルマ・ラビノウィッツ・ジュリスに敬意を表して名付けた。
 また、2015年、ジュリスはユダヤ法とイスラエル法におけるジュリス・ラビノウィッツ・プログラムを設立するためにハーバード大学ロースクールに寄付をしている。

     
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2024年02月07日

ウォルター・L・モーガン(Walter L. Morgan) 最古のミューチュアル ファンドの 1 つ「ウェリントン ファンド」の創設者

ウォルター L. モーガン(Walter L. Morgan)
   1898年7月23日 – 1998年9月2日
 米国初のバランス型ミューチュアル ファンドであり、現存する最古のミューチュアル ファンドの 1 つ
   ウェリントン ファンド
の創設者です。

 モーガンはペンシルバニア州ウィルクス・バールで生まれ、ヒルマン・アカデミーで学んだ。
 1920 年にプリンストン大学を卒業し、会計士として採用され、ペンシルベニア州で最年少の公認会計士になった。
 1920年代、顧客が投資顧問を必要としていることに気づいたモーガンは安定した投資ポートフォリオを構築するために親戚や実業家から10万ドルを集め、1928 年にインダストリアル・アンド・パワー・セキュリティーズ・カンパニーと呼ばれるバランス型投資信託を設立した。
 このファンドは現金、債券、優先株、普通株に投資を行い、レバレッジを利用しなかった。

 その後、ウェリントン公爵にちなんでウェリントン ファンドと改名された。
 ウェリントン・マネジメント・カンパニーは1933 年にフィラデルフィアで法人化さた。 

 1951 年にモーガンはジョン・C・ボーグルを雇い、会社の後継者とした。
 1970 年に引退するまで、42 年間同基金の責任者を務めた。

 モーガンは 1965 年にボーグルを執行副社長に任命し、会社の経営を移管した。

 1966年、ボーグルは会社を、アイベスト・ファンドのマネージャーであるソーンダイク、ドーラン、ペイン、ルイスのボストンに拠点を置く投資カウンセリング会社と合併した。
 同社は引き続きファンドの提供を追加した。

 企業紛争により、ボーグルは 1974 年 1 月 23 日に会社から解雇さた。

 その後、ボーグルはバンガード グループを設立し、ウェリントン マネジメント カンパニーは当時管理下にあった 10 のファンドの投資マネージャーとして留まった。

 1998年7月、バンガードは生誕100周年記念の一環として、ペンシルバニア州バレーフォージの本館をモーガン氏にちなんで命名している。

    
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2024年02月06日

サミュエル・サックス ゴールドマン・サックスの共同設立者

サミュエル・サックス( Samuel Sachs)

   1851 年 7 月 28 日 - 1935 年 3 月 2 日

 米国の投資銀行家で、マーカス・ゴールドマンとともにゴールドマン・サックスを共同設立した。
 売上を資金調達に利用することで多くの大手企業の浮選を引き受け
   マーチャントバンキング
の性質を変えたことで知られている。

 サミュエル・サックスは、メリーランド州で、ドイツのバイエルン州からのユダヤ人移民の母親
   ソフィー (旧姓ベア)
   ジョゼフ・ザックス
の間の息子として生まれました。
 ジュリアス・サックスという兄が1人、エミリー・サックス、ヘンリー・サックス、バーナード・サックスという3人の弟がいた。
 
 サックス氏は、長年の友人であるリーマン・ブラザーズの
   フィリップ・リーマン氏
とともに、新興企業が資金を調達する方法として株式の発行を開拓した。

 その後、サックスはバイエルン州のユダヤ人移民である
   マーカス・ゴールドマン
の末娘、ルイーザ・ゴールドマンと結婚した義父が経営する会社に加わり、1904 年に社名をゴールドマン・サックスに変更した。

 彼らは共同でシアーズ、ローバック・アンド・カンパニーなどの大企業の証券募集を引き受けた。
 この間、ゴールドマン・サックスは店頭市場、債券市場、転換社債市場など、他の主要な証券市場に関与するよう多角化した。

 サックスは1928年に引退、1924 年には50,000 米ドル (2022 年には 854,000 ドルに相当) をハーバード大学に寄付した。 

   
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2024年02月05日

カール・アイカーン(Carl Icahn) 金融家企業の経営権を取得する「乗っ取屋」として有名 

カール・アイカーン(Carl Icahn)
        1936年2月16日 -

 米国の投資家で持株会社アイカーン・エンタープライズの創業者。

 2011年時点で総資産が125億ドルの資産家とされ、テキサコウエスタンユニオンバイアコムサムソナイトハーバライフなどのほかに、原子力開発で有名なカーマギー社にも影響力を持つ富豪。
 
 東欧から移民したユダヤ教を信仰するユダヤ系カントル(朗詠者 先唱者)の父と、学校教師の母のもとにニューヨーク市クイーンズ区に生まれた。

 ニューヨークのファーロックアウェイ高校を経てプリンストン大学で哲学を専攻して卒業している。
 その後、ニューヨーク大学で医学を専攻するも、中退した。

 1961年に25歳で金融投資会社
   ドレフュス商会
で職を得て働きはじめた。
 ドレフュス商会は1994年にメロン財閥の金融持株会社メロン・フィナンシャルと合併。

 1968年には、自身のヘッジファンド、のちのアイカーン・エンタープライズとなる
   Icahn & Co.
を設立した。

 2015年9月末時点でアイカーンは
   投資総額約1兆7000億円
のファンドの運営者となり、企業の経営権を取得する「乗っ取屋」として名を馳せていた。

 1985年にトランス・ワールド航空を買収した。
 このころ、アイヴァン・ボウスキーマイケル・ミルケンと並び米国の複合企業
   ガルフ・アンド・ウェスタン
などの買収をめぐりウォール街市場でのインサイダー取引を疑われていた。
 2000年以降、アイカーン・エンタープライズは年平均22%の運用成績を収めている。

 2004年、マイラン株を買収して議決権を増やし、マイラン名義で
を買収した。
 2006年2月には、ラザードCEO と作成した343ページに及ぶ企画書に
   タイムワーナー買収
を盛り込んだ。
 また、2010年6月までブロックバスター (企業) の重役であった。

 同年7月にメンター・グラフィックスの14%を買収し、2011年2月に買収提案まで行った。

 2012年10月31日、米国のオーバー・ザ・トップ・コンテンツ・プラットフォーム
の10%を買収した。
 2015年11月23日、ゼロックス株の持分7.13%を公開した。

 近年は少数持分を取得した上で経営改革を迫る手法をとるようになった。
 
 2011年3月7日、世界情勢を懸念して自身のファンドから17億6000万ドルを投資家へ返還している。
 その4日後には日本で
   東日本大震災
が起こり、野性的な勘が優れていると金融市場では言われた。
 
 2011年8月、S&P 500を空売り後の株価下落、そしてアイカーンが保有する銘柄の一つ
がGoogleによって好条件で買収されたことも重なり、1週間で5億ドルという記録的な収益をあげている。
 
 2013年8月13日、自身のTwitterアカウントにて「現在、Appleの株式を大量に保有しているが、アップルは過小評価されている。ティム・クックと話し、自社株買いをするべきだと伝えた。」とツイートした。

 これに市場が反応し、株価が5%(時価総額2兆円以上)上昇し、世間を騒がせた。
  
 2015年8月8日、自身が熱心に支援して親交がある共和党の
   ドナルド・トランプ米国大統領候補
から、政権誕生の暁にはアメリカ合衆国財務長官に指名したいと提示された。
 これに対して、「早起きができない」と辞退した後に受諾を表明した。
 しかし、結局財務長官にはアイカーンの知人
   スティーヴン・マヌーチン
の起用が決まり、アイカーンは
   規制改革担当の顧問
に選ばれることとなった。
 なお、アイカーンはトランプ・エンターテイメント・リゾーツの所有者でもある。

   
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ルパート・マードック 世界的なメディア王

ルパート・マードック(Rupert Murdoch) 
   1931年3月11日ー
 メディア・コングロマリットのニューズ・コーポレーションを立ち上げ、世界的なメディア王として知られる。
 ニューズ・コープとフォックス・コーポレーションの株主、共同会長という立場でテレビや新聞、映画、雑誌、音楽産業、インターネットなどを中心とした世界に散らばるメディア企業を率いている。

 米国に移住するまでは長年オーストラリアを拠点として活動していた。
 1985年に米国で
   フォックス放送
を創設した際に連邦通信規則との関係で米国籍でなければ会社を設立できないことから米国に帰化した。
 2023年9月、11月を以ってFOX社とニューズ社の会長から退き、ニューズ社の名誉会長に就任すると発表された。
 
 オーストラリアのビクトリア州メルボルンで生まれた。
 ジャーナリストであった父の
   キース・マードック (Sir Keith Murdoch)
はオーストラリアの名門社会の一員で、第一次世界大戦において従軍記者として活躍した。
 当時のオーストラリア首相
   ビリー・ヒューズ
の個人的なアドバイザーでもあった。

 その後、メルボルンの新聞「ザ・ヘラルド」などを所有し、オーストラリア一政治的影響力の強い新聞社社長・メディア経営者となった。
 キースは1928年にエリザベス・ジョイ・グリーン(後のエリザベス・マードック (Elisabeth Murdoch) と結婚し、息子ルパートと三人の姉妹をもうけた。

 キースはルパートの少年時代の不出来さに不満を持っており、息子が自分のあとを継ぐことを絶望視していたといわれる。
 ルパートはキースに反抗的な態度が多く見られたという。
 なお、母エリザベスは103歳まで生き、生涯ルパートに強い影響力を持った。


 メルボルン郊外のジーロングにある名門校
   ジーロング・グラマー・スクール (Geelong Grammar School)
で学び、オックスフォード大学のウースター・カレッジ (Worcester College) へ進学した。
 大学では学生新聞「チャーウェル(Cherwell)」で広告を販売していた。
 
 1952年、父キースの急死(享年67歳)によりルパートは学業半ばでオーストラリアに戻った。
 父の跡を継いでメディアグループのオーナーになろうとした。

 しかし、過酷とも言える相続税を払った後にはザ・ヘラルドなどの主要な事業は手元には残っておらず、アデレードの新聞
   「ザ・ニューズ (The News) 」
などがかろうじてルパートの手元に残っただけだ。

 ザ・ニューズの社長となったルパートは、アデレード近くで起きた少女殺人事件で逮捕されたアボリジニの
   マックス・スチュワート (Max Stuart)
の冤罪と死刑反対を主張し大キャンペーンを行った。
 この結果スチュワートは冤罪が認められ釈放され、ルパートは大いに名を上げた。
 このキャンペーンの実際の功労者は編集長のローハン・リヴェットであった。

 マードックはザ・ニューズ紙をもとに持株会社
   ニューズ・リミテッド
を創立し、オーストラリア各地の新聞を買収して1970年代にはオーストラリア有数のメディア・グループへと成長させた。

 1964年にはオーストラリア初の全国紙「ジ・オーストラリアン」を発行し、政治的影響力も高めた。
 また、1969年にはロンドンのザ・サンを買収して毎号カラーのヌード写真を掲載するなど一部の顰蹙を買ったものの労働者階級の人気を得ることに成功し販売数を伸ばした。

 1970年代には同じく英国のデイリー・ミラーをはじめとする新聞・出版社・テレビ局などからなるメディア帝国を経営した
   ロバート・マクスウェル
と激しく争いながら英米各地の新聞を次々買収し、1979年に
   ニューズ・コーポレーション
を設立した。
 1980年代にはイギリスの名門紙タイムズ、米国の映画会社20世紀フォックスの買収を行った。
 また、米国でのテレビ・ネットワーク
   フォックス放送
の設立など事業を拡大し、その経済力・政治的影響力は世界規模に拡大した。

 1987年にはかつて父が所有し本拠としていた
   ヘラルド・アンド・ウィークリー・タイムズ
        (The Herald and Weekly Times Ltd)
の買収に成功し、父のメディア王国を取り戻した。

 2005年には当時世界最大のSNS・MySpaceを買収した。
 2007年、ウォールストリート・ジャーナルの発行元であるダウ・ジョーンズを傘下に収めている。

 2011年7月、「ニュース・オブ・ザ・ワールド」の
   電話盗聴事件
に絡み、ニューズコーポレーションCEOとしてイギリス下院の調査委員会に召喚された。
 2012年7月22日、ニューズ・インターナショナルは、マードックが傘下の英有力紙の経営陣から退いたことを明らかにした。

 2013年6月28日、ニューズ・コーポレーションがエンターテインメント分野を主に担う
   21世紀フォックス
と出版分野を主に担う新しい
   ニューズ・コープ
に分社化された。両社の最高経営責任者(21世紀フォックスでは会長も兼務)を引き続き務めた。

 2019年3月20日、ウォルト・ディズニー・カンパニーが21世紀フォックスの大部分を買収した。
 ただ、ディズニーは既に放送ネットワークであるABCを所持しており寡占が懸念された。
 その対応として、フォックス放送とその関連事業は新会社が運営する事となった。
 同日フォックス・コーポレーションが営業を開始し、マードックはその会長を務めた。

 2023年9月21日、同年11月にフォックス・コーポレーション並びにニューズ・コーポレーションの会長職を退任した。
 また、ニューズ・コープの名誉会長に就くことを発表した。
 なお、後任は自身の長男であるラクラン・マードックが就任した。

 マードックの政治的立場は1970年代半ばまでは、マードックのグループ各紙は左派の
   オーストラリア労働党
   イギリス労働党
の支持だったが、その後は右派であるオーストラリア自由党やイギリス保守党支持に転向している。
 マードックは「リベラルどもを潰そう」とも発言するようにもなった。

 一般的に傘下の21世紀フォックスなどが親米・親イスラエルなどの姿勢をとり、ロナルド・レーガンやマーガレット・サッチャー、ジョージ・ウォーカー・ブッシュ、デービッド・キャメロンといった新保守主義・新自由主義の政治家を支持してきた。

 マードック本人も保守主義者であるとされるものの反王制であることでも有名で、特にイギリス王室に対する報道は激烈である。
 こうした事業拡大では日和見とも言える態度がしばしば批判の対象となっているがマードック本人は、自身の政治的立場を「リバタリアニズムの信奉者」だと述べている。

    
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スコット・ステューバー(Scott Stuber) 映画プロデューサー

スコット・ステューバー(Scott Stuber)
 米国の映画プロデューサー
 
 カリフォルニア州ロサンゼルス市グラナダヒルズ地区で生まれた。
 2008年7月26日、コロラド州アスペンで女優の
   レイチェル・ニコルズ
と結婚したが、その7ヶ月後には既に離婚したことを発表した。

 2011年5月31日、女優でモデルの
   モリー・シムズ
との婚約を発表、9月24日に結婚した。
 
 現在、パラマウント映画子会社の
   ディスラプション・エンターテインメント
の社長となっている
   メアリー・ペアレント
と共に
   ユニバーサル・ピクチャーズ
の製作部門の共同社長を務め、2004年に2人は同社の世界製作部門の副会長となった。
 2005年、ユニバーサルは
   ステューバー/ペアレント・プロダクション
と製作契約を締結した。

 2008年、ステューバーが経営しているステューバー・ピクチャーズとユニバーサルの間に5年間の契約を結んだ。
 ステューバーはこれまでに『ぼくたちの奉仕活動』(2008年)、『ミート・ザ・ジェンキンズ』(2008年)、『キングダム/見えざる敵』(2007年)、『トラブル・マリッジ カレと私とデュプリーの場合』(2006年)、『ハニーVS.ダーリン 2年目の駆け引き』(2006年)などのプロデュースに協力している
   
   
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2024年02月03日

アマデオ・ピエトロ・ジャンニーニ(Amadeo Pietro Giannini ) イタリア銀行(バンク・オブ・アメリカの前身)の創業者

アマデオ・ピエトロ・ジャンニーニ(Amadeo Pietro Giannini )
    1870年5月6日 - 1949年6月3日

 米国の銀行家で、イタリア銀行(バンク・オブ・アメリカの前身)を設立した。
 多くの近代的な銀行業務を開発したことが知られており、上流階級だけではなく、主にイタリア系移民である中流階級のアメリカ人に銀行サービスを提供した最初の銀行家の一人であり、また、持株会社構造の先駆者となり、最初の近代的な多国籍機関の 1 つを設立している。
  
 カリフォルニア州サンノゼでイタリア移民の両親ルイージ・ジャンニーニ(1840年 - 1877年)とヴァージニア(旧姓デマルティーニ)・ジャンニーニ(1854年 - 1920年)の長男として生まれた。
 ルイージ・ジャンニーニは、 1849 年のカリフォルニアで起きた
   ゴールドラッシュ
で一攫千金を目論見んで、サルデーニャ王国(イタリア後半)のリグーリア州ジェノヴァ近くのファヴァーレ・ディ・マルヴァーロから米国に移住した。
 また、ルイージは 1860 年代に金を稼ぎ続け、19 年に一度イタリアに戻った。
 1869年にバージニアと結婚して米国に連れて移住し、サンノゼに定住した。

 ルイージ ジャンニーニは 1872 年にアルヴィーゾの40エーカー (16ヘクタール) の農場を購入し、販売用の果物や野菜を栽培した。
 4年後、ルイージ・ジャンニーニは給与をめぐる争いから従業員に射殺された。

 未亡人となったバージニアは 2 人の子供を持ち、3 人目を妊娠中のまま、青果事業の経営を引き継いだ。
 1880年、バージニアは L. スカテナ & Co. (後に AP ジャンニーニが引き継ぐことになる) を設立した
   ロレンツォ スカテナ (1859 〜 1930 年)
と再婚した。
 ジャンニーニはヒールド大学に入学したもの、勉学よりもビジネスのほうが性にあるとして1885年に大学を中退し、L. Scatena & Co. の農産物仲買人としてフルタイムの職に就いた。

 ジャンニーニは、サンタ クララ バレーの農場で農産物仲買人、委託商人、農産物ディーラーとして働き稼ぎまくった。
 彼は1892 年にサンフランシスコのノースビーチの不動産王の娘
   クロリンダ・クネオ (1866 〜 1949 年)
と結婚し、最終的にはジャンニーニが構築した権益を従業員に売却して義父の不動産を管理するために 31 歳で退職した。
 その後、義父が株主の
   コロンバス・セービング・アンド・ローン
の取締役になった。
 ジャンニーニは、銀行を持たない移民の増加にサービスを提供する機会があると考えました。
 ただ、自分の考えに共感しない他の取締役たちと対立し、不満を抱いて取締役会を辞任し、自分の銀行を設立した。

 ジャンニーニは1904 年 10 月 17 日にサンフランシスコのジャクソンスクエア地区に
   イタリア銀行
を設立しました。
 この銀行は酒場を改造して本拠とした。
 銀行は、他の銀行では対応できない、勤勉な移民のための新しい形態の銀行であった。
 その初日の入金総額は 8,780 ドルで、それから1 年以内に、預金額は 70 万ドル (2020 年のドルで 2,040 万ドル) を超えている。

 1906 年のサンフランシスコ地震と火災により、市の大部分が瓦礫となったた。
 この広範な荒廃に直面して、ジャンニーニは一時的な銀行を設立し、預金を集めたうえ、融資を行い、サンフランシスコが灰の中から立ち上がると宣言し。

 地震の直後、迫りくる火災が街を焼き尽くす前に、金庫にあったお金を18マイル(29キロ)離れた当時田舎だったサンマテオの防火地域外の自宅に移した。
 ゴミの下に隠してお金を運ぶためにゴミワゴンを使用した。
 地震による火災により他の大手銀行の金庫室も加熱され、金庫を開けると急激な温度変化で中身の紙幣や証券などが発火する危険があった。多くの金庫は数週間にわたって閉められたまま温度が下がるのを待つ状態であった。
 この時期、ジャンニーニは預金者の引き出し要求に応え、融資を提供できる数少ない銀行家の一人となり、通りにある 2 つの樽にまたがる板の上で業務を行った。

 ジャンニーニは再建に関心のある人々に握手して融資を行ったが、数年後、融資者はすべてのローンを返済したと明らかにしている。
 また、ジャンニーニは、銀行の資産をワゴンで運んでいたゴミ収集人へのご褒美として、その男の息子が14歳になったときに最初の仕事を与えている。

 支店銀行業務は、カリフォルニアで支店銀行業務を許可する 1909 年の法律成立の直後にジャンニーニによって導入された。
 サンフランシスコ以外での最初の支店は 1909 年にサンノゼに設立した。
 1916 年までに、ジャンニーニの事業は拡大し、他のいくつかの支店をオープンした。

 ジャンニーニは、資本基盤を拡大するだけでなく、困難な時期に銀行を安定させる方法として支店銀行業務を信じていた。
 カリフォルニア中の銀行を買収し、最終的にイタリア銀行は州内に何百もの支店を持つようになった。

 オーラ・E・モネットによって1923年にロサンゼルスで設立された
   バンク・オブ・アメリカ・ロサンゼルス
にジャンニーニが投資を始​​めた。
 ロサンゼルスの保守的なビジネスリーダーがサンフランシスコ市民に比べてイタリア銀行を受け入れなかったことが背景にある。

 バンク・オブ・アメリカ・ロサンゼルスはジャンニーニにとって成長路線を代表したもので、社長兼取締役会長のモネットはジャンニーニの投資を歓迎した。
 この合併の完了に際し、ジャンニーニとモネットは、バンク・オブ・アメリカの名前が新銀行のより広範な使命を理想化するものであることに同意した。

 1929 年までに、この銀行はカリフォルニア州に 400 以上の支店を構えた。
 この新しい組織は、1945 年にジャンニーニが引退するまでジャンニーニの会長の下で継続された。
 また、モネット氏は取締役会の席と役員の地位を維持した。

 さらに、合併の条件として、モネットは銀行に「創業物語」の権利をジャンニーニに譲渡する対価として支払われた。
 しかし、モネットは後にこの決断を後悔することになった。

 モネットがバンク・オブ・アメリカ・ロサンゼルスネットワークを創設するまでは、ほとんどの銀行は単一の都市または地域に限定されていました。
 なお、モネットは、集中処理、簿記、現金配達のシステムを最初に作成した人物で、合併後、バンク・オブ・アメリカがサービスを提供するコミュニティの範囲を多様化することで、バンク・オブ・アメリカは、地元の小さな経済問題を乗り越える準備が整った。

 ジャンニーニは、カリフォルニアの映画産業とワイン産業の育成にも貢献し、ウォルト・ディズニーに、米国初の長編アニメーション映画「白雪姫」の制作資金を融資した。
 大恐慌の間、ゴールデン ゲート ブリッジの建設に資金を提供する債券も購入している。

 第二次世界大戦中、造船と建設プロジェクトで知られる実業家ヘンリー・カイザーとカイザー造船 (Kaiser Shipbuilding Company) に資金を提供し、戦争遂行を支援した。
 戦後、イタリアを訪れ、戦争で荒廃したフィアット工場の再建を支援するための融資を手配した。
 ジャンニーニはまた、ヒューレット・パッカードの設立を支援するためにウィリアム・ヒューレットとデビッド・パッカードに資本を提供しました。

 ジャンニーニは、オクシデンタル生命保険会社など、さまざまな持株会社
   トランスアメリカ コーポレーション
という別の会社を設立した。
 かつて、トランスアメリカはバンク・オブ・アメリカの支配株主であったが 1956 年に米国議会で制定された法律によって分離され、銀行持株会社法が可決され、銀行持株会社の産業活動への関与が禁止されている。
 
 なお、ジャンニーニは長年共和党員だったが、大恐慌で共和党が崩壊したため、民主党の国政に関心を持った。
 1934年のカリフォルニア州知事選挙では、ジャンニーニは左翼小説家
   アプトン・シンクレア
が民主党候補者候補の予備選で勝利するのを阻止するために尽力した。
 これには失敗したが、ホワイトハウスの支援を得て、シンクレアを破った共和党候補の現職
   フランク・メリアム
を支持し、資金援助を行った。
 1949 年にジャンニーニが亡くなると、息子のマリオ ジャンニーニ (1894 〜 1952) が銀行のリーダーシップを引き継いだ。
 ジャンニーニの娘、クレア・ジャンニーニ・ホフマン(1905 〜 1997 年) は、父親に代わって銀行の取締役会の席に就き、1980 年代までそこに留まった。

   
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2024年02月02日

ハワード・スタンリー・マークス(Howard Stanley Marks) オークツリー・キャピタル・マネジメントの共同創設者

ハワード・スタンリー・マークス(Howard Stanley Marks)

   1946年4月22日 ー

 米国の投資家で著述家。

 マークス家は民族的にはユダヤ系であったが、クリスチャン・サイエンスの信仰の下、ニューヨーク市クイーンズ区で育った。
 ペンシルベニア大学のウォートン・スクールで学び、1967年に財政学専攻でカム・ロード(優等賞)を得て卒業した。
 なお、副専攻は日本学であった。

 23歳の時、シカゴ大学ブース・スクール・オブ・ビジネスで会計学とマーケティングを学び、経営学修士 (MBA) を取得し、ジョージ・ヘイ・ブラウン賞 (George Hay Brown Prize) を受賞した。

 その後、ニューヨークに戻って働き始め、大手金融機関のシティバンクの役員を務めた後、1980年にカリフォルニア州ロサンゼルスヘ移った。
 マークスはCFA協会認定証券アナリスト であもある。

 1985年に投資会社
   TCWグループ
に加わり、ハイイールド (High Yield)、コンバーティブル・セキュリティーズ (Convertible Securities)、ディストレスト・デット (Distressed Debt) などのグループを組織し主導した。

 1995年に、TCW を離れて投資会社
         (Oaktree Capital Management )
の共同創設者となった。

 2015年には、『フォーブス』誌のアメリカ人長者番付で、アメリカ合衆国で338位(総資産19.5億ドル)と報じられた。
 投資家の間では、マークスが顧客に
   詳細な投資戦略
や経済情勢への洞察を伝えるため
   「オークツリー・メモ (Oaktree memos)」
を公開することで知られている。
 2011年には『投資で一番大切な20の教え―賢い投資家になるための隠れた常識 (The Most Important Thing: Uncommon Sense for the Thoughtful Investor)』を出版した。このほかにも投資関係の著書が複数ある。
 
   
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2024年02月01日

アンドリュー・R・ ジャシー(Andrew R. Jassy) AmazonのCEO兼社長

アンドリュー・R・ ジャシー
       (Andrew R. Jassy)
    1968年1月13日生まれ
 米国の経営者でAmazonのCEO兼社長、Amazon Web Servicesの元CEO。
 ニューヨーク州スカーズデール在住のハンガリー系ユダヤ人の両親マージェリーとニューヨークの法律事務所デューイ・バランタインのロサンゼルス事務所のマネージング・パートナー
   エベレット・L・ジャシー
の間に生まれ、スカーズデール育った。
 スカーズデール高校に通ったのち、ハーバード・ビジネス・スクールでMBAを取得した。
 卒業後は収集品会社MBIのプロジェクトマネージャーとして働いていた。
 また、MBIの同僚と共に会社を設立したが、後に閉鎖した。

 1997年、Amazonにマーケティングマネージャーとして入社し、
共同創業者兼CEOだったジェフ・ベゾスのサポート役を務めた。
 このほか、2003年に立ち上げられたAmazon Web Servicesでは57名をまとめる
マネージャー職に選ばれた。
 2016年まではAWSにてSVP、2023年まではCEOをそれぞれ務めている。
 2021年2月2日、ベゾスが取締役会長に移行、後任としてAmazonのCEOに任命されたことが発表され、同年7月5日、正式にAmazonのCEOに就任した。

    
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2024年01月31日

アントワーヌ=ローラン・ド・ラヴォアジエ 近代化学の父


アントワーヌ=ローラン・ド・ラヴォアジエ
        (Antoine-Laurent de Lavoisier)

   1743年8月26日 - 1794年5月8日

 フランス王国のパリ出身の化学者
 質量保存の法則の発見、酸素の命名、フロギストン説の打破などの功績などから「近代化学の父」と称される。
 裕福な出自から貴族となったが、当時のフランス革命の動乱で革命裁判所における審判にかけられラヴォアジエの科学上の実績を持ち出して弁論を行ったが、裁判長の
   ジャン=バティスト・コフィナル
により、
   「共和国に科学者は不要である」
として退けられたうえ、1794年5月8日には、「フランス人民に対する陰謀」との罪でギロチンで処刑された。

 フランス王国の都パリにおいて、裕福な弁護士である父の下に生まれた。
 母はラヴォアジエが5歳の頃に亡くなり、莫大な遺産を引き継いだとされる。

 母を失ったラヴォアジエは叔母のもとで養育され、1754年から1761年まで、ラヴォアジエはマザラン学校に在籍し、化学や植物学、天文学、数学を学んだ。

 当初、ラヴォアジエは父の跡を継ぐべく法律家を目指し、1761年にはパリ大学の法学部に進学して、1763年に学士号を修得した。
 翌年の1764年には、弁護士試験に合格し、高等法院法学士となった。

 ラヴォアジエが自然科学に興味を抱くようになった転機は、パリ大学の在学中に天文学者のニコラ=ルイ・ド・ラカーユからは天文学を、博物学者のベルナール・ド・ジュシューからは植物学を、博物学者・鉱物学者の
   ジャン=エティエンヌ・ゲタール
からは地質学と鉱物学を、化学者のギヨーム=フランソワ・ルエルからは化学を、それぞれ学んでいた。
 こうした指導により、ラヴォアジエは自然科学に興味を持つようになったとされる。

 ラヴォアジエは法学部に在籍していたものの化学の講義を聴講したり、喜望峰に滞在して天文学の研究をしたり、ゲタールによるフランスの地質図作成に協力したりしたとされる。

 ゲタールと各地をまわるなかでアルザス=ロレーヌなどを旅行した際、ラヴォアジエは各地方の石膏に関心を持ち、これらの比較研究をした。
 これがラヴォアジエの最初の自然科学の研究となる。
 その後にラヴォアジエは特記すべき定量実験で多くの成果を残すことになるが、推測を極力排し確実な実験事実が重視したこの石膏に関する研究は、その兆しとなった。

 1774年に物質の体積と重量を精密に測る定量実験を行い、化学反応の前後では、反応系の物質全体の質量が変化しないことを発見した。
 化学の重要な基本法則とされる質量保存の法則をラヴォアジエは発見して初めて著した。

 また、燃焼における酸素の役割を解明してフロギストン説をラヴォアジエが打破し、酸素の命名者としての栄誉を得た。
 アメリカの科学史家の トーマス・クーンは、著書『科学革命の構造』においてパラダイムシフトの観点からラヴォアジエの功績を評価した 

 ラヴォアジエは著書『化学原論』で、次の33項目を「単一物質」として挙げた。
 この33の単一物質のうち25個は現代の化学においても元素として扱われている。
 残る8つのうち、ホウ酸基、ライム、マグネシア、バリタ、アルミナ、シリカの6つは、それぞれ個別の単体元素の酸化物である。

 2023年の時点で、元素の周期表 (19世紀に考案)には118種の名前のある元素が記載されている。
 このうち、地球上で天然に存在する元素は概ね90種程度で、ラヴォアジエはこのうちの25種を「単一物質」としてまとめた。

 1793年「共和制への反対派」の全てを裁くと言う大きな権限が与えられた「革命裁判所」が設置されると同年11月24日には、フランスの革命政府は
   徴税請負人
の全員を逮捕し処刑すべく、元・徴税請負人らを指名手配した。
 ただ、ラヴォアジエは酷い徴税はしておらず、むしろ税の負担を減らそうと努力していたとされる。

 しかし、この指名手配に対して、ラヴォアジエは自ら出頭したが、徴税請負人の娘(マリー=アンヌ)と結婚していたこと等を理由に投獄された。

 ラヴォアジエは革命裁判所における審判にかけられ、ラヴォアジエの弁護人はラヴォアジエの科学上の実績を持ち出して弁論を行った。
 しかし、裁判長のジャン=バティスト・コフィナルは「共和国に科学者は不要である」として退けたとされる。
 こうして1794年5月8日には、「フランス人民に対する陰謀」との罪でラヴォアジエに死刑の判決が下った。

 刑はその日のうちにコンコルド広場にあるギロチンで執り行われ、ラヴォアジエは50年の生涯を閉じた。

 なお、ラヴォアジエの実験助手としてエルテール・イレネー・デュポンが師事していたとも言われる。
     
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2024年01月30日

ジェームズ・ジェローム・ヒル(James Jerome Hill) 鉄道王

ジェームズ・ジェローム・ヒル(James Jerome Hill)

   1838年9月16日 - 1916年5月29日

 19世紀後半から20世紀初頭にかけて、米国において鉄道経営を担ったカナダ系アメリカ人のこと。

 米国北西部に展開した鉄道グループ
   グレート・ノーザン鉄道(GN)
の最高経営責任者(CEO)で、同鉄道を頂点としたの総帥であった。
 それらの鉄道がカバーした地域および経済に及ぼした影響から
   エンパイア・ビルダー(帝国建設者)
とも呼ばれた。
 
 ヒルは、現在のカナダのオンタリオ州に存在していたイギリスの植民地
   アッパー・カナダ
のタウンシップ、ウェリントン郡エラモサ(Eramosa)(現オンタリオ州)に生まれた。
 幼少時のケガにより、右目を失明していた。

 9年間の義務教育ののち、ロックウッド・アカデミー(Rockwood Academy)に通ったが、父親が死亡したために退学した。
 後年、彼が英語や数学に才を発揮したのは、こうしたバックボーンが影響している。

 ケンタッキー州における事務員から社会生活が始まった。そこで簿記を習得して、米工に永住することを決意した。
 ミネソタ州セントポールに18歳のとき移住し蒸気船の会社で簿記の仕事に就いた。

 1860年までに、卸売り業者に転職し、貨物の積み替え、とりわけ鉄道と蒸気船との積み替えに従事した。
 仕事を通じ、貨物と輸送について学び、ヒルは独立した。

 ミシシッピ川が凍結する冬期間には蒸気船が通れなくなり、輸送の競売に参加し、フォート・スネリングへの燃料用薪の輸送の契約を結ぶことに成功した。

 ヒルの輸送および燃料供給の経験を積み重ね、石炭と蒸気船のビジネスにも参入した。

 1870年には蒸気船での輸送に参入し、2年後には
   ノーマン・キットソン(Norman Kittson)
とともに地域の船舶輸送を独占した。

 1867年に石炭事業に乗り出し「無煙炭」を専売して1874年までに事業規模を5倍に拡大した。
 同時に金融にも参入し、有名銀行の取締役に就任した。

 資金繰りで経営が悪化して倒産した企業を買い取り、事業を組み直して再興し、売却することで、莫大な利益を得ていた。
 ヒルの類い希な性質によるものであった。その性質は、事業が世界的なものになるときも発揮された。
 ヒルの初期の成功は、第一に、猛烈に働き、努力したこと。
 ヒルによれば、成功の秘訣は「働くこと、それも激しく働くこと、知的に働くこと、もっと働くこと」と言っている。
 第二に、ヒルは偏執的に競争が好きであったという。
 強大な敵を打ち負かすことは自尊心を満足させるものであった。
 第三に、ヒルは優秀なリーダーであった。
 ヒルはどんな新たな事業でも、そのニュアンスをくみ取ることができた。
 ヒルの事業戦略はすばらしく、何人であろうとも説得された。

 これらの三つの性質が、ヒルに急激に強大な権力を持たせることにつながったうえ、仕事の見通しを言い当てた。
 これらのことは、1877年にヒルが鉄道事業に参入し大いに発揮された。

 
 鉄道黎明期の1857年、ミネアポリス・アンド・セント・クラウド鉄道(M&StC)とミネソタ・アンド・パシフィック鉄道(M&P)が設立された。
 路線は、セントポールから西へ向かい、ミシシッピ川を渡り、のちに双子都市といわれるようになるミネアポリスを経てダコタ準州との境界であるレッド川沿いのブレッケンリッジまでの幹線と、ミシシッピ川手前で分岐し、ミシシッピ川に沿って北上、クロウ・ウイングまでの支線が計画された。

 1862年、建設途中に資金繰りが悪化し、M&Pは倒産した。
 ただ、この倒産は形式的なもので、負債以外をすべて引き継いだ
   セント・ポール・アンド・パシフィック鉄道(StP&P)
が新たに設立され、資金を集めて一部開業にこぎつけた。

 1864年、経営陣の思惑の違いから支線が
   ファースト・ディビジョン
という別会社となった。

 1864年、ワシントン準州の初代知事
   イザーク・スティーブンス(Isaac Stevens)
が政府に働きかけたことで、五大湖と太平洋北部とを結ぶ
   ノーザン・パシフィック鉄道(NP)
の設立特許が下りたものの資金集めに難航し、1870年2月になって着工した。
 同年7月には、StP&Pの株式の3分の2を取得して、同年末にはファースト・ディビジョンがNPの子会社となった。
 複雑な金融資本の取り込みがあったものの、これら三鉄道は合併はしていない。

 なお、NPが太平洋岸までの建設を終了したのは1883年のこと。

 資金難なのに鉄道建設を進めた結果、1873年恐慌(Panic of 1873)が起こったため多数の鉄道が倒産し、StP&Pも倒産した。

 NPはかろうじて倒産を免れた。
 この倒産劇は、ヒルにとっては絶好の機会であった。
 3年かかってヒルはStP&Pを徹底的に調べたところ、StP&Pは初期投資さえすれば、利益を生み出せる鉄道であるとの結論に達した。

 ヒルはノーマン・キットソン(Norman Kittson)、ドナルド・スミス(Donald Smith)、ジョージ・スティーブン(George Stephen)、ジョン・スチュワート・ケネディ(John Stewart Kennedy)らとチームを組んだ。

 彼らは鉄道を購入したうえ、線路通行権をNPに安価で提供し、相当な距離の路線の延長も果たした。

 1879年5月、ヒルら四人はStP&Pを清算、改組して
   セント・ポール・ミネアポリス・アンド・マニトバ鉄道
                (通称マニトバ鉄道、StPM&M)
を設立した。
 ヒルの最初の目標は、鉄道の延伸と改良であった。

 ヒルは実践的な、細かい点にこだわる性格で、人々が沿線に住むことを欲し、まず家屋敷を人々に販売したのちに移住させた。
 ヒルはロシアから穀物の種子を輸入し、それを農家に販売した。

 また、燃料用の木材も販売した。 

 鉄道をどのルートで通すかを検討するときは、自ら馬に乗り、自身で偵察に行った。
 ヒルのマネジメントの元で、マニトバ鉄道は発展した。

 1880年にはマニトバ鉄道の価値は72万8,000ドルだったものが、1885年には2,500万ドルに高まった。

 政府が鉄道が莫大な利益を生むと見なしたならば、政府は鉄道の運賃引き下げを迫るに違いなかったため、
ヒルは連邦政府による介入を避けた。
 鉄道の利益は鉄道への投資へと還元することで利益を表に出さないようにして回避した。

 こうした投資は運営コストを増加させた。そしてヒルはマニトバ鉄道の社長となり、路線を拡大する方向に向かった。
 拡大路線を突き進み、ミネソタ州最初の鉄道のひとつ
   ミネアポリス・アンド・セント・クラウド鉄道(M&StC)
を買収したのちグレート・ノーザン鉄道と改称した。
 この小さな鉄道が巨大な鉄道システムとなっていたマニトバ鉄道をリースする形をとった。
 これは、あたかも、持株会社と運営会社のような関係になった。

 1883年から1889年の間に、ヒルはミネソタ州からウィスコンシン州、ノースダコタ州を通ってモンタナ州へと至る路線を建設した。
 その建設は、「ヒルにインディアンの居住区を通過する鉄道の建設を許可する」という議案への拒否権を大統領が発動するというような困難を乗り越えてのものだ。

 法はインディアン居住区への鉄道建設を禁じていた。
 しかし、その法はヒルと同じブルボン民主党の立場に立つクリーブランド大統領により廃止された。

 ヒルが鉄道を敷設した時点では周辺に産業がなかったため、企業を買収し、工場を沿線に移設した。

 1889年までに、ヒルは自分の目標を大陸横断鉄道の建設に定めた。

 1893年1月、グレート・ノーザン鉄道(GN)の軌道が完成し、GNは、セントポールからミネソタ州を通り、シアトルを結ぶ1,700マイル(2,735km)の鉄道となり、公的資金の助成や政府による土地の贈与なしで建設された初めての大陸横断鉄道であった

 従前の大陸横断鉄道には、政府による鉄道用地の無償供与などの便宜が図られていた。
 また、数少ない、倒産しなかった鉄道でもある。

 ルートは、競合するノーザン・パシフィック鉄道(NP)のさらに北に敷設された。
 当時、すでにNPは多数の橋梁、急勾配、トンネル等を駆使して太平洋岸北西部に到達していた。

 ヒルは自らルートの大部分の選定にあたり、馬に乗って提案されたルートを踏破した。
 GNのルートの鍵となったのは、それまで地図に記載のなかったマリアス峠(Marias Pass、標高1,588m)をルートに組み込んだことであった。

 マリアス峠はGNの主任技師
   ジョン・フランク・スティーブンス
            (John Frank Stevens)
が1889年12月に発見したもので、ロッキー山脈越えルートとしては、NPのルートに比較して容易なルートであった。
 
 GNが全通した半年後、1893年恐慌(Panic of 1893)が起こった。

 ヒルのリーダーシップは、経済の下落基調においての資本集約の成功例となった。
 危機的状況になっても事業を頓挫させないために、ヒルは農家に対して鉄道の輸送運賃を低めに設定していた。
 また、他の事業では信用販売を展開することで、従業員に賃金を支払うことができた。

 節約も強力に進めるなどして、ある年にヒルは貨物のトンあたりの運送費用を13パーセント引き下げた。
 これらの手法により、ヒルの鉄道は企業価値を上げ、1,000万ドルに近くなった。

 一方、他のほぼすべての大陸横断鉄道は倒産した。

 恐慌下でのヒルの成功はまた、従業員の給与カットを繰り返した効果もある。
 ヒルの細かなところまで管理する手法は、やがて鉄道全般の
   ストライキ
とユージン・V・デブスによる労働組合結成を導いた。

 ヒルとデブスはピルズベリー創始者である
    チャールズ・アルフレッド・ピルズベリー
の調停により、従業員の給与を恐慌以前の水準に戻すという合意に至った。
 
 20世紀となった1901年、ヒルはGNとNPの経営を握っていた。

 NPは1893年恐慌で倒産した際にヒルの友人
   ジョン・ピアポント・モルガン
の資金援助もあって獲得した鉄道であった。
 また、中西部とシカゴとを結んでいた
   シカゴ・バーリントン・アンド・クインシー鉄道(CB&Q)
の経営権もにも触手を伸ばそうとした。

 GNとNPにとっての最大の競合相手
   ユニオン・パシフィック鉄道(UP)
もCB&Qを獲得しようとしていた。
 両者の経営陣は、GNとNPはヒルとモルガン、UPは社長であるエドワード・ヘンリー・ハリマンとウィリアム・ロックフェラーという陣営であった。

 UPのハリマンはCB&Qのトップである「短気な」チャールズ・エリオット・パーキンスと面会した。

 CB&Qの経営権は、パーキンスによれば1株200ドルで、ハリマンが支払う予定だった金額よりはるかに高額であった。
 しかし、NPのヒルはその額に同意し、CB&Qは48.5%ずつ、GNとNPに分割された。

 NPとGNは提携しているため、ヒル陣営にとってとくに問題はない。
 ハリマンは親会社であるNPごとCB&Qの経営権を得るという画策を開始した。

 その策略は、モルガンと敵対していた投資銀行
   クーン・ローブ商会
と、その頭取にしてかつてモルガンの強い影響下にあった銀行家
   ジェイコブ・シフ
ともに進められた。

 ハリマンは密かに株を買い進めたため、4月から株価は急騰し、NPの重役までもが株を放出した。

 1901年5月、NP株がさらに急騰したが、これが1901年恐慌につながることになる。
 5月4日、ハリマンはNP株の過半数にあと4千株、というところまでNP株を買い進め、残る4千株をなんとしてでも買い進めるようにクーン・ローブ商会に命じた。
 しかし、責任者にしてユダヤ教徒であるシフが寺院の礼拝に出席中であったために注文が実行されずに残った。

 NPのヒルは、イタリアにバケーションに出かけていたモルガンに対処を尋ねると、価格を問わず15万株を買うようにと回答した。
 ハリマンは優先株をコントロールすることができた。

 しかし、ヒルは会社の内規で普通株の株主たちが優先株の発行を拒否することができることを知っていた。

 このハリマンとヒルの複雑な株の売り買いが株式市場に混乱を引き起こした。
 土曜、月曜、火曜でNPの株価は70ドルも上昇して5月7日の終値は143ドルだった。

 翌日には200ドルを超えた。
 この動きに乗った投機筋が近い将来の株価下落を見越しての証券会社や金融会社から株を借り、空売りを始めた。

 しかし、NP株は高騰し続けたため、株を借りた投機家はその代金を精算せねばならず、そのために他社の株の売却した。
 その日のうちに他社の株は暴落した。

 翌5月8日、NP株は1000ドルを超えた。
 一方で、ニューヨーク証券取引所開設以来の大暴落が市場を襲い、それにつられてNP株がついに下落した。

 この混乱は、モルガンのパートナーであるジョージ・パーキンズとシフ、もう一方の当事者であるハリマンとがともに動いた。
 空売り側が1株150ドルで買い戻すことを許可することで収束に向かった。
 これを1901年恐慌という。

 これらの一連の動きをさして、ノーザン・パシフィック・コーナー(ノーザン・パシフィック鉄道株買い占め事件)という。
 ヒルとモルガン側が勝利を収め、翌年には、NP、GN、CB&Qの持株会社ノーザン・セキュリティーズ(北部証券会社)を設立した。

 これにはハリマンやロックフェラーも鉄道事業に参加した。

 1904年、反トラスト法のひとつであるシャーマン法に抵触するという判決が下った。
 そうした経緯もあり、判決により解体こそ命令されなかったが、事実上、利益の受け取りを禁止された。
 このため、NPとGNの株を元の所有者に現在の資本比率に応じて返還し、99%減資を行った。

 ハリマンの持株比率は以前よりも下がり、ヒルによるNP・GN支配はより強固なものとなった。
 また、以後この三つの鉄道の協調体制は統合まで続くこととなった。
 
 その後ヒルは、テキサス州に通じるコロラド・アンド・サザン鉄道とスポケーン・ポートランド・アンド・シアトル鉄道(SP&S)をなんとか獲得しようとしていた。
 1916年に死亡するまで、ヒルは5,300万ドル(2007年の貨幣価値でいえば25億ドル)の財産をなした。

 ニューヨーク・タイムズに掲載されたヒルの死亡記事によれば、ヒルはセントポールの自宅にて1916年5月29日に死亡した。
 77歳であった。

 ヒルは美術品の熱心なコレクターであるとともに、後援者でもあった。
 ヒルの美術品や宝石のコレクションはその地方随一のもので大部分はミネアポリス美術館に陳列されている。
 なお、その大部分は相続人より寄贈されたもの。

   
posted by まねきねこ at 09:25 | 愛知 | Comment(0) | TrackBack(0) | バイオグラフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする