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2018年10月21日

武寧王(ムリョンワン) 百済の第25代の王


武寧王(ムリョンワン)
   462年 - 523年

 百済の第25代の王(在位:502年 - 523年)

 高麗17代仁宗の命を受けて
   金富軾
らが作成した「三国史記」の百済本紀・武寧王紀の記述によると武寧王は先代の牟大王(東城王)の第2子。

 南朝梁(502年から557年)の歴史を記した歴史書「梁書」では余隆、「日本書紀」雄略天皇紀5年条では
   加須利君(かすりのきし、第21代蓋鹵王)
の子で嶋君としている。

 旧都漢城(ソウル特別市)を高句麗に奪われ混乱した百済の安定を回復した王。
 
 
 父親の東城王は王権と国力の回復に努め、外征にも成果を挙げたが、在位の晩年には暗君と化した。
 499年に大旱魃が起こって国民が餓えたが、国倉を開いて民に施そうとするのを許さず、漢山(京畿道広州市)の民2千人が高句麗領に逃亡した。

 501年11月、衛士佐平の苩加の放った刺客に刺され、12月に死去した。
 その後、首都熊津(忠清南道公州市)において武寧王に即位した。

 暗殺者の衛士佐平(禁軍を司る1等官)の苩加は加林城(忠清南道扶余郡林川面)に拠って抵抗したものの鎮圧された。

 武寧王はしばしば漢江流域に対する高句麗・靺鞨の侵入を撃退した。
 512年には高句麗に壊滅的打撃を与えた。

 521年には中国南朝の梁に入朝して「百済はかつて高句麗に破られ何年も衰弱していたが、高句麗を破って強国となったので朝貢できるようになった。」と上表した。
 523年5月に死去し、武寧王と諡された。


 1971年に忠清南道公州市(かつての熊津)の宋山里古墳群から墓誌が出土した。
 武寧王陵として王墓が特定された。

 この墓誌には「寧東大将軍百済斯麻王、年六十二歳、 癸卯年(523年)五月丙戌朔七日壬辰崩到」と記され、王の生没年が判明する貴重な史料となっている。

 古墳は王妃を合葬した磚室墳で、棺材が日本にしか自生しないコウヤマキと判明した。
 この他、金環の耳飾り、金箔を施した枕・足乗せ、冠飾などの金細工製品、中国南朝から舶載した銅鏡、陶磁器など約3000点近い華麗な遺物が出土した。
   
       
       
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2018年10月19日

投機界の魔王 雨宮 敬次郎(あめのみや けいじろう、あめみや けいじろう)


雨宮 敬次郎
 (あめのみや けいじろう、あめみや けいじろう)

 弘化3年9月5日(1846年10月24日)
      - 1911年(明治44年)1月20日)

 日本の投資家で「天下の雨敬」「投機界の魔王」と呼ばれた。
 
 
 相互援助的に結束して商売にあたった
   甲州商人
いわゆる「甲州財閥」と呼ばれる集団の一人である。
 
 甲斐国山梨郡牛奥村(現 甲州市塩山牛奥)で長百姓の家「雨宮家」で、次男として生まれる。


 雨宮は少年時代から
   季節商い
などに従事し、成年になるまでに一財産を築いた。


 1870年(明治3年)から1872年(明治5年)頃に神奈川県横浜(横浜市)へ転居し、生糸・洋銀・蚕種などの相場で浮沈を繰り返した。

 1876年(明治9年)11月から1877年(明治10年)6月にかけては米国や欧州に外遊。
 発展段階にある近代国家が投資すべき産業は、鉄道、製鉄、水道等の
   社会基盤の分野
だと悟ったという。
 
 
 1879年(明治12年)に南葛飾郡八郎衛門新田(現在の東京都江東区扇橋)で興した
   蒸気力による製粉工場
が成功し、本格的に実業界へ進出していくこととなった。

 1883年(明治16年)には、農業と工業を連携させる米国での実見をもとに軽井沢の開発事業を行った。


 この時の開墾地は長野県北佐久郡軽井沢町大字長倉地内にある
   「雨宮新田」
という地名として残っている。

 1884年(明治17年)に相場取引を止めて東京に移住した。

 この頃、製粉工場は発展し、1886年(明治19年)に東京蔵前の官営製粉所の払い下げを受けた。


 翌1887年(明治20年)には主に軍用小麦粉製造を目的とする
   有限責任 日本製粉会社
に改称、1896年(明治29年)9月に日本製粉株式会社となった。

 1888年(明治21年)には、新宿 - 八王子間を結び、中央本線の前身となる
   甲武鉄道
への投機で莫大な利益を出した。

 会社内部の対立により株価が低迷すると、好機として、これを更に買い占め、同社の取締役に就任した。

 雨宮は甲武鉄道を西へ伸ばし八王子 - 甲府間を結ぶ「山梨鉄道案」を構想した。
 そのため「甲信鉄道案」を構想していた
   若尾逸平
と利害で対立した。

 1891年(明治24年)には川越鉄道(現在の西武国分寺線)の取締役となった。
 同年、第1回藍綬褒章を受章した。

 1892年(明治25年)に日本鋳鉄会社を興し、当時の東京市に水道用鉄管を納品した。
 ただ、1894年(明治27年)には
   納期遅延問題
を生じ、敬次郎も刑事告訴された。
 
 1893年(明治26年)に北海道炭礦鉄道の取締役に就任し
   大師電気鉄道
の発起人にもなった。

 1894年(明治27年)に
   豆相人車鉄道
を敷設し、岩手県の仙人鉄山(現在の北上市和賀町)も開発した。

 
 1903年(明治36年)に
   東京商品取引所(現在の東京工業品取引所)
の理事長に就任した。

 同年東京市街鉄道の会長に就任し、電力事業にも進出した。

 なお、同年には若尾逸平が東京電灯株式会社買い占めを行ったが、雨宮は距離を置き参加していない。

 1905年(明治38年)に江ノ島電鉄社長に就任した。

 1904年(明治37年)に桂川電力を興している。

 1908年(明治41年)に大日本軌道を設立したうえ、広浜鉄道等を敷設した。
 その他、海運・石油・貿易など様々な事業において積極的な活動をしている。

 1911年(明治44年)に64歳で永眠。

 婿養子に事業を引き継いだ雨宮亘がいる。
 また、歌人の雨宮雅子、華道家池田佳子(佳甫)は敬次郎の玄孫にあたる。
 
 
 逸話として、中央本線が甲州市で塩山駅方面に向けて北側に湾曲しているのは、1903年(明治36年)の開通時に敬次郎の政治力により、出身地へ線路を通したと言われる。

 
 ホテルニュージャパンは雨宮敬次郎邸の跡地に建てられ、邸内には動物園があったという。
       

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2018年10月02日

長寿王(ちょうじゅおう) 高句麗の第20代の国王


長寿王(ちょうじゅおう)
       394年 - 491年


 高句麗の第20代の国王(在位:413年 - 491年)

 中国北斉の魏収が編纂した北魏の正史「魏書」などには「l」の名となっている。
 先代の好太王の長子であり、409年に太子に立てられ、413年に先王の死により後を継いで即位した。
 
 414年9月29日 (旧暦))に首都の国内城(現在の中国吉林省集安市東郊)に父の事績を記した碑文を建造した。
 これが好太王碑であり明治時代に日本軍によって拓本が持ち帰られて解読されるに至ったもの。

 427年に首都を国内城から平壌に移し、新羅や百済、さらに百済を支援した日本軍と戦って朝鮮半島の大半と遼河以東までに勢力を拡大し、高句麗の最大版図を成した。

 475年には百済の漢城(ソウル特別市)を陥落させ
   蓋鹵王
を殺害した戦勝により、百済は熊川に南遷したものの勢力は衰退した。

 また、中国に対しては、北魏との抗争に敗れて亡命してきた北燕の
   馮弘
をめぐって、一時は北魏・宋のそれぞれとの間に緊張が走っていた。

 ただ、南北朝どちらに対しても朝貢を重ねたことで良好な関係を構築した。
 冊封体制下では高い評価を勝ち取り、高句麗の全盛期を築き上げた。

 在位79年にして491年12月に98歳という長寿をもって没し、長寿王と諡された。

 高麗朝17代仁宗の命を受けた金富軾らが作成した、三国時代(新羅・高句麗・百済)から統一新羅末期までを対象とする「三国史記」には埋葬地の記述はない。

 また、北魏の孝文帝は長寿王を哀悼して使者を派遣したうえ「車騎大将軍・太傅・遼東郡開国公・高句麗王」を追贈し、あわせて「康」と諡した。
  
       
       
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2018年08月11日

盧 植(ろ しょく) 「黄巾の乱の追討」に功績を挙げた軍師


盧 植(ろ しょく)

    ? - 192年


 中国後漢の末期に
   文武の才能
を見込まれ「黄巾の乱の追討」に功績を挙げた将軍の1人

 字は子幹

 幽州涿郡涿県(現在の河北省保定市涿州市)の出身で「後漢書」に伝がある。

 儒学者としては『礼記』の注釈者としても知られ、三国時代の蜀漢を興した劉備の師でもある。
 
 身長は8尺2寸(約195cm)で、声は鐘のように大きくよく響いたとされる。


 若い頃に、鄭玄とともに外戚出身の豪族
   馬融
に師事して儒学を学び、古今の学問に通じた。
 なお、馬融よく多くの女人を侍らせ歌舞を楽しみながら講義をしていた。

 盧植がそれに目もくれなかったため、馬融は盧植に敬意を持った。

 古今の書に通じ、博学で節義も高かった事から人望が厚く
   剛毅で節度のある性格
であり、常に世の中を救いたいという志を持っていた。辞賦は好まず、酒は一石程嗜んだ。


 桓帝の没後、皇后の父である竇武が霊帝を擁立し朝政を見るようになると、封爵を与えようとする意見があった。
 盧植はこれを諌めたが、竇武には聞き入れてもらえなかった。


 盧植には州郡からの仕官の誘いがあったが、それをすべて辞退した。

 建寧年間の中期に博士となった。

 熹平4年(175年)に
   九江蛮
が反乱を起こすと、文武の才能がある人物として四府から推薦され、盧植が九江太守に任命された。
 なお、蛮族が降服すると、盧植は病のため官職を去った。


 盧植は故郷の幽州涿郡に戻り
   尚書章句
   礼記解詁
といった著作を著した。

 また、学舎を主宰し、劉備や公孫瓚と高誘といった近隣の子弟に学問を教えた。

 会南夷が反乱を起こすと、かつての九江太守であった時の恩信を買われ、廬江太守に任命されている。

 数年して復職し議郎に任命された。

 黄巾の乱が中平元年(184年)に勃発すると盧植は再び四府からの推挙を受け、北中郎将に任命された。 
 節を持つ事を許され
   護烏桓中郎将
の宗員を副官とし、北軍五校士の将軍とされて天下諸郡の兵を集めた。

 反乱軍の指導者
   張角
の討伐に向かい大破して万余人を斬る功績を立てた。
 張角は広宗に敗走したため、盧植はこれを包囲し雲梯を使って攻め立てた。

 丁度、霊帝が左豊を軍の監察の使者として派遣して来た。
 左豊は盧植に賄賂を要求したものの盧植がこれを断ったため、左豊は
   「盧植は戦おうとしない」
と霊帝に讒言した。
 このため、盧植は怒った霊帝から罪人に落とされたうえ、死一等を免じた上で
   官職を剥奪、収監
される事となった。


 この後に皇甫嵩が黄巾を平定したが、皇甫嵩が盧植の功績を大いに称えた。
 このため、盧植は許され再び尚書に任命された。
 光熹元年(189年)、何進は
   宦官皆殺し
に反対する何太后に圧力をかけるため、凶悪な性格を持つ并州の
   董卓
を呼び寄せようとした。

 盧植は董卓の熟知しており、それを止めさせようとしたが何進はそれに従わなかった。

 宦官の策謀で暗殺されると、その部下の
   袁紹
らが宦官誅罰のため挙兵した。

 盧植もそれに参加し、帝らを連れて逃げる宦官の前に、大斧を持って立ち塞がっている。


 董卓は争乱時に実権を掌握し、帝を少帝から献帝に挿げ替えようとした。

 董卓の暴虐さに誰もが口を噤む中で、盧植のみがこれに反対した。
 そのため董卓によって処刑されかけた。

 ただ、海内の学者・大儒として名高く人望の厚かった盧植は
   蔡邕
や議郎の
   彭伯
の取り成しで助命され、免職だけに留められた。

 その後、災いを避けるため病を理由に都から逃亡した。


 董卓はこれに追っ手を差し向けたが、追い付けなかった。

 その後、盧植は郷里に隣接する上谷郡で隠遁生活を送った。

 冀州牧となった袁紹に招かれて軍師となり、初平3年(192年)に病死した。
 建安年間になり、袁紹を破り河北に進出した
   曹操
は、袁紹の子らを破り柳城まで遠征する途中、盧植の故郷である涿郡を通過した。

 曹操はこの時、亡き盧植の功績を称えて顕彰し、子の盧毓らを官職に就けて報いたという。
  
   
   
  
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2018年08月09日

方 望(ほう ぼう) 中国の新代の軍師


方 望(ほう ぼう)

   ? - 25年

 中国の新代の武将、政治家
 司隷右扶風平陵県(陝西省咸陽市)の出身だが、出身階層など不詳な点が多い。
 前漢の元帝の皇后・王政君(孝元皇后)の甥
   王莽
が簒奪した漢朝の復興を目指した活動家のひとり。
 
 地皇4年(23年)に隴右の
   隗囂
は新の皇帝王莽が敗北した際、群雄の1人として自立した。

 隗囂は使者を派遣して
   方望
を軍師として招聘し、方望もこれに応じた。

 方望は、漢復興の大義を示すため「神道設教」を行うことを進言した。


 隗囂もこれを容れて邑に東面して廟を建てた。
 高祖(劉邦)、太宗(文帝)、世宗(武帝)を祀るなどの行事を取り行った。
 これに伴い、隗囂は元号を漢復に改め、漢復元年(23年)7月付で漢室復興の檄を各郡国に飛ばした。


 漢復2年(24年)に、隗囂が更始帝(劉玄)の招聘に応じて長安へ向かったが、方望は更始帝の敵は多く不安があったため、これを諫止した。
 しかし、隗囂が聞き入れなかったため、方望は手紙を残して隗囂と決別したという。


 翌更始3年(25年)1月、更始政権の統治が混乱した。

 方望は、王莽に廃された
   劉嬰(孺子嬰)
を探し出して天子に擁立することで漢朝を復興しようと図った。

 安陵(右扶風)の人弓林らを説得して同志に加えたうえ劉嬰を長安から探し出した。

 臨(安定郡、現甘粛省鎮原県)にて天子として擁立し、兵を募ったところ数千が集まった。
 なお、方望自身は劉嬰政権の丞相、同志の弓林は大司馬となっている。

 更始帝の命を受けた更始政権の丞相李松、討難将軍蘇茂、定陶王劉祉に討伐された。
 劉嬰、方望、弓林は戦死し、劉嬰政権はあっけなく滅亡した。


 方望の弟方陽は、その後、更始帝が方望を殺したことへの復讐で、華陰(弘農郡)で農民反乱軍
   赤眉軍
を迎え、宗室から天子の劉盆を立て進軍し、王匡軍を撃破して長安に入城、投降した更始帝を殺害した。
       
       
  
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2018年08月04日

樊 崇(はん すう)  赤眉軍の頭領


樊 崇(はん すう)

     ? - 27年

 中国の新代に蜂起した農民軍である
   赤眉軍
の頭領で、後漢時代初期にかけての武将。

 なお、後漢の大司徒ケ禹の配下にも同姓同名の人物(驍騎将軍)が存在するが、これは別人。 

 字は細君 

 徐州琅邪郡の出身

 呂母の乱(天鳳元年(14年))から数年後に、莒(琅邪郡)で100人余りで挙兵した。
 泰山(太山)郡に入って三老を号した。

 当時、青州と徐州は天候不順により
   大飢饉
に見舞われ、各地では匪賊など武装した盗賊が蔓延っていた。

 これらの盗賊の間では樊崇を勇猛な人物とみなしてその傘下に加わるようにもなっていった。
 樊崇軍は1年ほどの間に1万人余りの軍勢に膨らみ勢力が強まった。

 さらに、琅邪郡出身の逄安、東海郡の徐宣、謝禄、楊音ら各地の武装集団も傘下に加わり、数万の軍勢となった。

 最初、莒を攻撃したが攻略できず、転じて姑幕(琅邪郡)を攻撃し支配下に加えた。 


 地皇2年(21年)、探湯侯田況の軍を撃破した。

 樊崇の軍は、青州で略奪を働いた後に泰山に引き返した。
 この頃から、盗賊の寄せ集めだった樊崇の軍が次第に軍隊としての組織、規律を整えていくようになった。
  

 地皇3年(22年)、新朝の皇帝王莽は、樊崇を討伐するために、更始将軍・平均公廉丹、太師王匡の軍を派遣した。

 樊崇らは、敵軍との識別を図るため、自軍の兵士の眉を赤く染めるように指示した。
 こうした風貌から赤眉軍と呼ばれるようになった。

 赤眉軍は廉丹、王匡の軍を撃破し、さらに無塩(東平郡)まで追撃して廉丹を討ち取った。
 その後、赤眉軍の一部は河北へ分散して転戦、樊崇の軍は、各地を攻略しながら陳留郡に侵攻し、魯城(魯郡)を攻め落とした。
 勝の勢いに乗り濮陽(東郡)に進入した。


 更始1年(23年)10月、洛陽に遷都した
   更始帝(劉玄)
は、使者を派遣して樊崇に降伏を勧め、これに応じて樊崇は将帥20数人だけを連れて洛陽を訪れ、列侯に封じられた。

 ただ、地盤が安定せず支配地域が増えていない更始帝としては樊崇らに領地を与えられず、養えなくなった部下の兵士が四散し始めた。

 軍が自壊する流れになっていたため樊崇らは洛陽から逃亡して再び自軍を統率するために戻った。

 赤眉軍は潁川に入り、軍を2つに分け、一軍を樊崇、逄安が率いた。
 もう一軍を徐宣、謝禄、楊音が率いた。

 樊崇軍は長社(潁川郡)、宛(南陽郡)を攻略し、徐宣軍は陽翟・梁(潁川郡)を攻略して
   河南太守
を斬った。

 赤眉軍は連戦連勝しながらも将兵の消耗は激しく兵士の補充が効かず疲弊し、兵士たちは出身基盤の東へ帰ることを求め始めた。


 樊崇らは、東へ戻ると兵士が帰郷して軍が瓦解すると判断したため、あくまで長安へ進攻することを主張した。


 更始2年(24年)冬、樊崇軍は武関から、徐宣軍は陸渾関から、それぞれ三輔へ進入した。
 翌更始3年(25年)1月には弘農郡で両軍が合流した。
 
 赤眉軍は更始軍を撃破して、華陰(弘農郡)に到達した。
 ここで、従軍していた巫(かんなぎ)がトランス状態で劉氏宗族を天子に立てよと告げた。

 更始帝に殺された方望の弟
   方陽
が、劉氏宗室の者を擁立して
   軍の正統性
を確保することを勧めた。

 これを赤眉軍諸将は協議して、一番血筋が近い者三人から籤で選ぶことにした。
 結果、同年6月、劉盆子を皇帝に擁立し、建世元年と号した。
  

 樊崇は勇猛をもって頭領となっていた。
 ただ、読み書き計算が出来なかったため、学問の素養があった
   徐宣
に丞相の地位を譲り、自身は御史大夫に就いた。

 同年9月、赤眉軍は、更始帝に反逆した
   張卬
らの手引きにより、長安を攻め落とし、更始帝を降伏させてその政権を滅ぼした。

 ただ、樊崇らの支配地域では乱脈の限りで、長安やその周辺では
   略奪狼藉
を繰り返した。

 建世2年(26年)春には、糧食が尽きてしまい、長安を捨てて西進するが、安定郡で
   隗囂
と戦ったが大雪に逢い多くの死傷者を出して、結果的に東に還ることとなった。

 この間、光武帝(劉秀)配下の大司徒
   ケ禹
は主力部隊が抜けた機会を狙って長安を攻略して支配下に置いたが、戻ってきた赤眉軍の
   謝禄
がケ禹を撃退するものの、杜陵(京兆尹)で逄安が率いる主力部隊が
   延岑・李宝
に撃破され、兵站線が維持できず食料も不足したため、同年12月、樊崇らは東へ帰る決断をした。
  
 建世3年(27年)、樊崇らは、追撃するケ禹の軍を各地で撃破しながら懸命に東へ逃走した。

 崤底(弘農郡黽池県)で
   馮異
が率いる漢軍に大敗した。

 樊崇らは宜陽(弘農郡)へ逃れたものの、ここで光武帝らが率いる漢の大軍に正面を塞がれ、ついに徐宣以下30人と共に肉袒(上半身を肌脱ぎ)して降伏した。

 その後、樊崇は洛陽に妻子と共に居住したが、同年夏、逄安と共に謀反したため処刑された。
      
       
  
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2018年03月22日

高麗 若光(こま の じゃっこう、生没年不詳) 高麗王族の子孫


高麗 若光(こま の じゃっこう、生没年不詳)


 奈良時代の豪族で氏姓は
   高麗王(こま の こにきし)
で、官位は従五位下だった。
 
 外国の王族の子孫を意味する姓(カバネ)として用いられていた
   王(こにきし)
の賜与を受けており、高句麗王族と見られるが出自は不詳である。 

 歴史書「日本書紀」の天智天皇5年(666年)10月26日条に、高句麗から日本に派遣された使節の一員に
   玄武若光
なる人物がいたとの記述がある。

 また、「続日本紀」の大宝3年(703年)4月4日条に、従五位下高麗若光に王(こにきし)のカバネを与えたとの記述がある。

 ここから「日本書紀」の玄武若光と「続日本紀」の高麗若光が同一人物とすれば高句麗王族の一人として王姓を認められたということになる。
 ただ、傍証がないため確認できておらず、若光のその後の履歴、また若光以外の高麗王氏の人々について六国史は何も記録を残していない。

 霊亀2年(716年)、武蔵国に東海道7ヶ国から1799人の高句麗人を移住させ、高麗郡を設置している。
 若光もその一員として移住したものと推定されている。
 
 埼玉県日高市新堀にある
   聖天院勝楽寺
は高麗氏の菩提寺で、若光の三男とされる聖雲が建立した。
 寺の雷門手前右側に、若光の墓とされる高麗王廟がある。

  

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2018年02月23日

杉野 喜精(すぎの きせい) 相場師で山一證券の初代社長

 
 
杉野 喜精(すぎの きせい)
 
     明治3年9月6日(1870年9月30日) -
            昭和14年(1939年)5月2日)


 日本の実業家、相場師で山一證券の初代社長や、東京株式取引所理事長を務めた。
  
 
 1870年東京深川で江戸詰めの津軽藩藩士・納戸役の家に生まれるも翌年父が失職している。

 東京商業学校(のちの一橋大学)卒業し、1889年日本銀行入行、1896年には愛知銀行副支配人となった。

 1902年に名古屋銀行取締役支配人として就任も、日露戦争後のバブル景気の崩壊による戦後恐慌の影響でモラトリアムを余儀なくされ、責任をとり1907年辞職し兜町で株の現物店の八幡屋を開設した。

 1910年、八幡屋の経営が思わしくなかったところ
   小池国三
に誘われ小池合資会社入社し七番番頭となる。

 1917年小池が銀行業に専念するため杉野に会社を譲り、杉野は
   山一合資会社
を設立し社長に就任した。
 
 1920年には売買高順位業界1位を達成。
 
 
 大正バブルの崩壊を乗り越え、1926年に山一證券株式会社に改組し、社長就任した。
 
 昭和金融恐慌を乗り越え、1935年後任に常務の
   太田収
を据えて社長を退任したうえ、東京株式取引所理事長に就任している。

 東京板紙株を巡る富士製紙と樺太工業の買収合戦では
   徳田昂平
とともに事態の収拾にあたった。

 肺疾患の療養を行うも、理事長在任中の1939年に死去した。
       

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2018年02月20日

若尾 民造(わかお たみぞう) 相場師のひとり


若尾 民造
  (わかお たみぞう)

   嘉永6年12月4日(1854年1月2日)
       - 大正6年(1917年)2月22日)


 日本の実業家で相場師

 甲府市長(官選第7代)としても活躍した。
 
 甲斐国甲府下一条町(現在 山梨県甲府市)の名主家系
   細田利兵衛
の三男として生まれた。

 幼名は長次郎、姉の「はつ」は中央経済界で影響力を持った甲州財閥と呼ばれるグループのひとり
   若尾逸平
の夫人であり、義兄である逸平に認められ明治5年(1872年)に逸平の養子となった。

 逸平の弟である横浜の若尾幾造の長女である若尾幾久と結婚した。


 逸平の隠居により形式的には明治27年(1894年)に家督を相続した。
 大正2年(1913年)の逸平の死後、実質的な若尾家の二代目となっている。

 明治39年(1906年)7月7日の甲府市会において、満場一致で第7代甲府市長として若尾を推薦した。
 これに対して、市会議員全員に辞退の書簡を送付するなど若尾は推薦を辞退した。

 武田千代三郎山梨県知事らの重なる懇請により翻意し、同年7月24日の裁可を経て同日第7代甲府市長に就任した。
 ただ、9か月後の明治40年(1907年)3月5日に辞任している。

 なお、辞任に際し後任の甲府市長に元山梨県知事の
   加藤平四郎
を推薦した。

 明治42年(1909年)に甲府商業会議所が創立すると5月6日に会頭に選出された。
 この職は大正6年(1917年)2月22日(現職として死亡)まで務めている。

 また、実業面においては、若尾銀行頭取、東京電燈会長のほか、横浜正金銀行、東京瓦斯、横浜倉庫などの重役を務めた。

 日露戦争後の1905年(明治38年)に山梨県・甲府市では増設師団の兵営誘致を進めていた。 
 民造は私有地を提供するなど積極的に誘致に携わっている。

 民造の用地提供で1908年(明治41年)に歩兵第49連隊(甲府連隊)の甲府常駐が決定。
 民造はさらに西山梨郡相川村(甲府市)周辺の用地も買収して提供した。

 1912年(明治45年)には皇太子嘉仁親王(大正天皇)の山梨行啓が行われた。

 民造は宿舎となった甲府城稲荷曲輪に存在した公会堂である機山館の改修費を出資した。
 また、予備の宿舎には若尾銀行が充てられた。

 なお、皇太子嘉仁親王は県内各地で甲府連隊の演習を視察した。
       

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2018年02月19日

広瀬 久光(ひろせ ひさみつ) 山梨県で経済・文化・政治活動等に力を入れた名望家


  
広瀬 久光(ひろせ ひさみつ)

  天保10年5月13日(1839年6月23日)
        - 明治43年(1910年)8月11日)

 山梨県で経済・文化・政治活動等に力を入れた名望家として知られる。
 明治の初め、町村にあって行政事務をあずかった吏員として地域の戸長や区長などを歴任した。

 また、東山梨郡書記に任用されるなど、地方自治や農政の進展に貢献した。

 明治13年(1880年)から二期4年間、県会議員に在任し活躍した。
 特に青梅街道の開発に最も力を注いでいたという。

 また、自家の屋敷は土塁が残る武田家家臣の屋敷跡でもある「於曽屋敷」として昭和38年(1963年)9月9日に山梨県指定の史跡に指定されている。
       

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2018年02月09日

若尾 璋八(わかお しょうはち) 山梨県出身の実業家


若尾 璋八(わかお しょうはち)
  
  明治6年(1873年)7月27日 - 昭和18年(1943年)1月10日)

 山梨県出身の実業家、貴族院議員、衆議院議員。
 
 山梨県山梨郡下於曽村(現在の甲州市)に
    広瀬久光
の四男として生まれ、東京法学院(現在の中央大学)を卒業。

 その後、明治29年(1896年)に若尾民造の二女「きよの」と結婚し同人の養子となった。

 大正6年(1917年)4月23日の第13回衆議院議員総選挙、大正9年(1920年)5月10日の第14回衆議院議員総選挙、大正13年(1924年)5月12日の第15回衆議院議員総選挙に山梨選挙区から立候補して衆議院議員に当選した。

 昭和元年(1926年)12月28日に辞任するまで9年4か月在任した。

 その間、立憲政友会総務、大正13年(1924年)6月30日には全院委員長となった。
 また、衆議院議員の辞任後、昭和2年(1927年)8月18日には貴族院議員に勅選され逝去するまで在任した。
 昭和6年(1931年)12月15日には犬養毅内閣の鉄道政務次官に任ぜられている。

 実業面では、明治44年(1911年)12月16日に東京電燈取締役となった。
 大正6年(1917年)7月31日に若尾銀行、大正8年(1919年)1月20日に若尾貯蓄銀行、8月20日に富士製紙の監査役、大正11年(1922年)2月23日に東京電燈副社長を歴任している。

 大正15年(1926年)12月13日には東京電燈、信越電力の社長となった。
 また、揖斐川電力、大同電力、東北電力などの取締役、大正14年(1925年)12月24日には東京株式取引所の理事を務めた。
       

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2018年02月06日

徳田 昂平 日本の相場師の一人


徳田 昂平 (とくだ こうへい)
    1878年5月 - 1951年10月5日

 日本の実業家で相場師 

 徳田商会(のちの内外証券、東海東京証券)の社長
 日本証券取引所総裁、貴族院議員、大蔵省証券取引委員会委員長等を務めた。


 山梨県出身で旧制甲府中学(のちの山梨県立甲府第一高等学校)を経て、東京高等商業学校(のちの一橋大学)を卒業した。

 山梨銀行等を経て、1897年徳田商会入社した。
 入社後頭角を現し、3年後に支配人に就任している。

 徳田商会創業者の
   徳田孝平
の婿養子となり、ロンドンに3年間留学した。
 その後ニューヨークのウォール街の仲買店で株式仲買を学んでいる。

 
 1918年株式会社徳田商会に改組し社長に就任した。
 1924年から1933年まで東株一般取引組合委員長になっている。

 また、東京商工会議所副会長や日本証券取引所総裁を務めた。

 1946年貴族院議員、1947年大蔵省証券取引委員会委員長に就任した。

 東京板紙株を巡る富士製紙と樺太工業の買収合戦では
   杉野喜精
とともに事態の収拾にあたった。
       

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2017年06月21日

菩提達磨



菩提達磨(ぼだいだるま)

 中国禅宗の開祖とされている5世紀後半から6世紀前半のインド人仏教僧のこと。
 『景コ傳燈錄』によれば釈迦から数えて28代目とされている。
 達磨、達磨祖師、達磨大師とも呼ばれる。

 「ダルマ」というのは、サンスクリット語で「法」を表す言葉で達摩との表記もある。

 弟子の曇林が伝えるところによると、達磨は南インドのタミル系パッラヴァ朝において国王の第三王子として生まれた。

 中国唐代の律宗の僧侶
   道宣
の伝えるところによれば、北魏が華北を統一した439年から始まり、隋が中国を再び統一する589年まで王朝が興亡が続いた南北朝の宋の時代(479年の斉の成立以前)に中国にやって来たとされている。

 インドから中国南方へ渡海し、洛陽郊外の嵩山少林寺にて面壁を行った。

 史書などで確認されているだけで曇林、慧可の弟子がいた。

 中国へ布教のため、達磨は海を渡って9月21日(10月18日)に南朝は梁が支配する広州に上陸した。
 
 達磨は嵩山少林寺において壁に向かって9年坐禅を続けたとされている。
 ただ、これは彼の壁観を誤解してできた伝説であると言う説がある。

 壁観は達磨の宗旨の特徴をなしており、「壁となって観ること」即ち「壁のように動ぜぬ境地で真理を観ずる禅」のこと。
 これは後の確立した中国禅において
   六祖慧能
の言葉とされる「坐禅の定義」などに継承されている。

 大通2年12月9日(529年1月4日)、神光という僧侶が自分の臂を切り取って決意を示し、入門を求めた。
 達磨は彼の入門を認め、名を慧可と改めた。
 この慧可が禅宗の第二祖にあたる。
 これ以後、中国に禅宗が広まったとされている。

 達磨は永安元年10月5日(528年11月2日)に150歳で遷化したとされる。
 一説には達磨の高名を羨んだ菩提流支と光統律師に毒殺されたともいう逸話も残っている。

 達磨の没後には道教の尸解に類した後日譚が伝わる。

 当時、北魏の使者として西域からの帰途にあった宋雲がパミール高原で達磨に出会ったというもの。
 その時、達磨は一隻履、つまり草履を片方だけを手にしていたという。

 宋雲が「どこへ行かれるのか」と問うた所「西天へと行く」と答え、また「あなたの主君はすでにみまかっている」と伝えたというのである。帰朝した宋雲は、孝明帝の崩御を知った。

 孝荘帝が達磨の墓を掘らせると、棺の中には一隻履のみが残されていた。
       

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2017年02月18日

観勒(かんろく) 天文、暦本、陰陽道を伝えた。


観勒(かんろく、生没年不詳)

 7世紀初頭の百済出身の僧侶。602年(推古天皇10年)に渡来し
   天文、暦本、陰陽道
を伝えた。

 朝廷は書生を選出して観勒のもとで学ばせ、陽胡玉陳は暦法、大友高聡は天文遁甲、山背日立は方術を学ばせ得徳したとされる。

 暦本は604年に聖徳太子によって採用され持統朝で用いられた。

 この時期においては仏教だけでなく天文遁甲や方術といった道教的思想もまとまった形でもたらされている。

 三論宗の法匠であり、成実宗にも通じていたとされる。

 624年(推古32年)に、日本で最初の僧正に任命された。

 僧が斧で祖父を殴る事件が起こり、天皇はこの僧だけでなく諸寺の僧尼を処罰しようとしたため観勒は日本に仏教が伝来してまだ百年にならず、僧尼が法を学んでいないことからこのようなことが起こったと上表して、事件の僧以外は罰しないよう求めた。

 天皇はこれを許し、この時に初めて僧正・僧都の制を定めたと言われる。

 観勒を僧正に、鞍作徳積を僧都に任じた。
 この僧正、僧都という名称は中国南北朝に始まった仏教統制機関のうち南朝系の僧綱制を踏襲したもの。
       

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2015年03月17日

荘子 道教の始祖の一人


  
荘子(紀元前369年 - 紀元前286年)


 中国の戦国時代の宋国の蒙の出身の道教の思想家。

 道教の始祖の一人とされる人物で荘周(姓=荘、名=周)とされる。
 字は子休とされる。
 
 
 荘子の思想は
   無為自然
を基本とし、人為を忌み嫌うもので徹頭徹尾にわたり俗世間を離れ無為の世界に遊ぶ姿勢で展開される。

 老子の思想では、政治色が濃い姿勢が多々見られる点であるとされる。

 
 軸となる傾向としては徹底的に価値や尺度の相対性を説いている。
 また、逆説を用いて日常生活における有用性などの意味や意義にたいして批判的とされる。
 

 思想を表す代表的な説話として胡蝶の夢がある。

  

 荘周が夢を見て蝶になり、蝶として大いに楽しんだ所、夢が覚める。

 果たして荘周が夢を見て蝶になったのか、あるいは蝶が夢を見て荘周になっているのかという説話の中に、無為自然、一切斉同の荘子の考え方がよく現れているとされている。

 
 ただ、荘子は一般的見方としては孔子を批判しているとされている
  




  
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2015年03月05日

郭璞 中国東晋時代の卜者

  

郭璞(かく はく、276年 - 324年) 


 中国西晋・東晋の文学者・卜者。

 文才と卜占の術により建国まもない東晋王朝の権力者たちに重用された。

 卜占・五行・天文暦法に通ずるのみならず、古典にも造詣が深く、『爾雅』『方言』『山海経』に注したことで知られる。
 文学作品では「遊仙詩」「江賦」などが代表作とされる。



 なお、史書や『捜神記』などの志怪小説では、超人的な予言者・妖術師として様々な逸話が残されている。

 
 寒門の家に生まれ、訥弁であったが、博学で文章が巧みであったという。

 また郭公から五行・天文・卜筮について記述した『青嚢中書』という書物を受け取り、これによって五行・天文・卜筮のあらゆる術に通じ、前漢時代の易経の大家京房(紀元前77年-紀元前37年)や三国時代の管輅(紀元前77年-紀元前37年)をも凌ぐほどであった。

 
 晋(西晋)の滅亡のきっかけを作った皇族同士の内乱(八王の乱)により中原が戦乱に見舞われると、郭璞は筮竹で将来を占った。
 占いではこの地が遠からず異民族に蹂躙されることを予見した。

 江南に親族や友人とともに避難してきた郭璞は、その後、司馬睿(後の東晋の元帝)の腹心王導に招かれ、彼の参軍となった。

 その卜筮の術によって大いに重用された。


 司馬睿が皇帝に即位する前後、その将来を占い、銅鐸の出土や泉の出現などの東晋中興の正統性を裏付ける瑞祥を予見した。
 そのため、司馬睿の寵愛も受けるに至った。

 
 東晋が建国されると、郭璞は「江賦」「南郊賦」を献上した。
 それらは世間で大いに評判になった。


 元帝にも賞賛され、著作左郎に任じられ、ついで尚書郎に移った。

 皇太子司馬紹(後の明帝)からは、その才能と学識を尊敬され、当時の有力者であった温嶠・庾亮らと同等の待遇を受けた。

 王敦が324年に再び反乱を企て、郭璞にその成否を占わせた。

 王敦はかねてから郭璞が温嶠・庾亮らと親しく、彼らに自らの討伐をそそのかしていると疑っていた。
 そのため、占いの結果が 「成る無し」の結果であったことに激怒し郭璞を処刑した。

 王敦の乱が平定されると、郭璞は弘農太守を追贈されている。




  
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2015年01月29日

ブロッサム・ディアリー ジャズシンガー 「ビ・バップのベティ・ブープ」


ブロッサム・ディアリー
    Blossom Dearie 
     (1924年4月28日 – 2009年2月7日)


 子供のような独特の歌声が特徴のジャズ・シンガーであり、時に
   「ビ・バップのベティ・ブープ」
と評されることもある。

 ニューヨークの郊外にあるイースト・ダーラムに生まれ、「ブロッサム」という名前は本名。

 子供の時はクラシック・ピアノを習っていたが、10代のときにジャズ・ピアノに転向した。

 
 1940年代の中頃からウディ・ハーマン楽団やアルヴィノ・レイ楽団など様々なコーラス・グループに参加している。
 また、カクテル・ピアニストとして、クラブやバーで歌ったりもしていた。
 

 1952年にアメリカからフランスのパリへ移り活動。

 そこで知り合ったアニー・ロスやミシェル・ルグランの実姉であるクリスチャン・ルグランらとコーラスグループの「ブルー・スターズ」を結成した。

 
 ジャズ・スタンダードの
   「バードランドの子守唄」
をフランス語で歌うなど、数々の作品を残した。

 1956年、初のリーダー作、「Blossom Dearie Plays "April in Paris"」を録音した。
 初リーダー作の録音に参加したフルート奏者、ボビー・ジャスパーと結婚。

 フランスでもカクテル・ピアニストとしての活動を続け、シャンゼリゼのクラブなどで歌っていた。
 
 アメリカに帰国、「Blossom Dearie」を録音する。
 

 1962年、飲料会社であるハイヤーズがルートビアのCMソングを歌うことを彼女に依頼した。

 ルートビアの愛好者に彼女のレコードを景品に送る企画が持ち上がり、「Sings Rootin' Songs」を録音した。

 
 1974年には彼女の兄であるウォルター・バーチェットを社長に迎えた自主レーベル、ダフォディル・レコード(Daffodil Records)を設立したした。


 アメリカの子供向け教育番組、「スクールハウス・ロック」に出演、ボブ・ドローが手がけた「Figure Eight」などの曲を歌い、歌声を披露した。

   



  



  
   

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 今も高い人気を誇るブロッサム・ディアリーへのオマージュ!
 「たなかりか」初のトリビュート・アルバムはキュートな魅力がいっぱい!

 人気ピアニスト・アレンジャーの伊藤志宏がブロッサムのエッセンスとたなかりかのフレッシュさを見事に溶け込ませた1枚。



  



  
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2014年12月25日

グスタフ・アドルフ・フォン・ゲッツェン プロイセンの探検家

 
グスタフ・アドルフ・フォン・ゲッツェン
           Gustav Adolf von Götzen
    (1866年5月12日 - 1910年12月2日)
 
 プロイセンの探検家でドイツ領東アフリカ総督だった。
 
 ルワンダに到達した最初のヨーロッパ人で、現タンザニアで起こった
   マジ・マジ反乱(1905年から1908年)
を鎮圧、統制した。
 
 マジ・マジ反乱はドイツ帝国の植民地政府が現地民に輸出用綿花栽培の強制労働を課したことが原因となり、残党の掃討を含めればその鎮圧に約3年の時間を要し、犠牲者数は植民地政府側の数百人に対して現地民側は20から30万人(反乱地域の総人口の3分の1に相当)に上ったと推測されている。
 
 
 1884年にパリ大学、ベルリン大学、キール大学で法学を学んだ。
 1887年に軍隊(2nd Garde-Ulanen regiment)中尉就任
 1890年、駐屯していたローマから、キリマンジャロへ狩猟探検へ出立した。
 アナトリア半島へ1892年に旅行した、

 アフリカ探検家、ドイツ領東アフリカ創設者の一人
   カール・ペータース(Karl Peters)
は1885年以降、ドイツによる東アフリカ地域の占領を提言した。
 
 
 アフリカのタンガニーカ沿岸地域が容易に占領出来ると考えられていたのに対し、ベルギー領コンゴに至るまでの内陸部の調査は少なかった。
 
 ゴッツェンはゲオルク・フォン・プリットヴィッツ、ハルマン・ケルスティングと共に内地へ探検を行った。
 
 1893年12月21日、一行はパンガニ(現タンザニア沿岸部)から出立し、ケニアのマサイ地域を経て、1894年5月2日にカゲラ川のルスモ滝に到着した。
 
 ニャンザのムワミ(Mwami、王)と謁見したのちキブ湖へと進んだ。

 ヴィルンガ山地、コンゴのジャングルを越えた後の、9月21日コンゴ川を川下へ進み、11月29日大西洋に到達し、1895年1月にゲッツェンはドイツへ帰国した。

 1901年にはプロイセン領東アフリカ総督として着任したのち、1905年、植民地の半分に広がったマジ・マジ反乱を鎮圧した。
 
 死者数は、ゲッツェン編纂の公式データではヨーロッパ人 15人、アフリカ人兵士 389人だった。
 
 1906年、病気のために総督を辞職した。
 1908年にはプロイセン使節としてハンブルクに着任している。
 
 
 
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2014年07月01日

伊藤惣十郎 尾張国清洲の商人



伊藤惣十郎(宗十郎)
       生没年月日不詳

 織田信長の城下清州(愛知県)における尾張・美濃(岐阜県)両国の商人司として仕えた豪商
 屋号は伊藤屋 法名は安中

 元亀3(1572)年12月に織田信長より朱印状を与えられ、改めて尾張・美濃両国の唐人方(輸入呉服)および呉服方の商売司を任命された。

 両国内における商人はどの売り子でも伊藤支配の夷講へ加入やその手形を所有する義務があり役銭の徴収にあたった。
 また、清州で商売をする他国商人の監督にあたった。 

  
 それ以降、織田信忠、織田信雄、羽柴秀次、松平忠吉からも印判状を与えられている。
  


 慶長15(1610)年、伊藤惣十郎の嫡男
   伊藤助三郎祐基
の代に清州より名古屋本町へ移住し呉服小間物問屋いとう呉服店(松坂屋の前身)を創業、営業を再開し伊藤次郎左衛門(初代)を名のったという記録が「寛延旧家集」に記述がある。

 なお、助三郎は20年大坂の陣で戦死した。
  





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2014年06月29日

フランソワ・レオンス・ヴェルニー 

 
フランソワ・レオンス・ヴェルニー
        Francois Leonce Verny
         (1837年12月2日 - 1908年5月2日)
 
 
 フランスの技術者で1865年から1876年にかけて
   横須賀造兵廠
   横須賀海軍施設ドックや灯台
その他の近代施設の建設を指導し、日本の近代化を支援した。
 
 
 フランス中部のローヌ=アルプ地域圏に位置するアルデシュ県のオーブナで生まれた。
 
 父は製紙工場を経営する
   マテュー・アメデ・ヴェルニー
 母はアンヌ・マリー・テレズ・ブランシュで、5男2女の兄弟の三男だった。
 


 就学年齢の8歳になるとオブナの町で神父が経営するコレージュに通い、平均的な成績をおさめた。
 
 フランスの後期中等教育機関リセへの進学を目指して家庭教師の指導を受けると成績が向上した。
  
 
 1853年に16歳でリヨンのリセ・アンペリアルに入学している。
 
 
 リセでは厳しいカリキュラムをこなし、1854年には数学で学年1位となっているが化学の成績は振るわなかった。
 余暇にはバイオリンや馬術を習い、1856年にかねて志望していた
   エコール・ポリテクニーク
へ合格者115名中64位という成績で入学した。

 ただ、エコール・ポリテクニークでの生活については不明な点も多いが1858年に卒業した。
 
 
 同年、海軍造船工学学校に入り海軍技術者となった。
 在学中に旅に出て、1858年夏はオルレアンやボルドー、トゥールーズ、1859年6月にはイタリア独立戦争中にジェノヴァやフィレンツェを訪れている。
 
 
 工学学校卒業後、1860年8月にブレスト造兵廠に着任し、造船・製鉄・艦船修理など多岐にわたる業務に従事した。

 1860年の北京条約の締結後も清では戦闘が続いていたため、フランス海軍は寧波で造船所やドックを建設し、小型の砲艦を建造する事を決めた。
 
 この建造監督への就任を受諾し、1862年9月に辞令を受けてマルセイユからアレキサンドリア、スエズを経由して上海に向かった。
 
 
 寧波に着くと同地の副領事に任命され、造船所や倉庫、ドックを建設して1864年には4隻の砲艦が全て竣工した。
 この功績により、翌年レジオンドヌール勲章を受章した。
 

 
 江戸幕府は軍備の近代化を進めてフランスの協力で
   近代的造兵廠
の建設を決定し、フランス側の担当者だった
   提督 バンジャマン・ジョレス
の要請によりヴェルニーは1865年1月に日本へ派遣された。
 
 
 江戸に近く、波浪の影響を受けにくい入り江である上に艦船の停泊に十分な広さと深さを備えた海面があり、泊地として良好な条件を備えていた横須賀を選定、造船所や製鉄所を含む同施設の建設地とした。
 
 
 中国から持参した建設資料と見積りを基にヴェルニーは駐日公使
   レオン・ロッシュ
らと横須賀製鉄所の建設原案を作成して2月11日に提出した。
 
 
 計画では4年間で製鉄所1ヶ所、艦船の修理所2ヶ所、造船所3ヶ所、武器庫および宿舎などを建設した。
 予算は総額240万ドルであった。
 

 2月24日に水野忠誠と酒井忠毗が約定書に連署して建設が正式に決まり、造兵廠建設に必要な物品の購入やフランス人技術者を手配するため、同年4月に日本を発ちフランスに一時帰国した。

 間欠熱や胃病のため故郷で休養した後、8月27日から12月7日まで
   文久遣欧使節
に同行して海軍施設などを案内した。
 
 

 1866年3月にフランス人住宅の建設担当者を先に日本に派遣した後、資材を調達してヴェルニー自身も4月16日にマルセイユを出発して6月8日に横浜に到着した。
 
 
 横須賀では入り江が埋め立てられ山が切り崩されフランス人達も驚くほどのスピードで造成が進められた。
 
 ヴェルニーは責任者として建設工事を統率し、40数名のフランス人技術者に指示を出した。
 なお月給は833メキシコドルで、年俸にして10,000メキシコドルを超える高給を受け取っていた。
 
 
 フランス人住宅や警固の詰所、各種工場や馬小屋、日本人技術者養成のための技術学校などの各種施設が建設されtあ。
 
 1867年3月にヴェルニーは上海に渡り、上海領事だったモンモラン子爵の娘・マリーと4月22日に結婚式を挙げた。

 
 1868年に戊辰戦争が勃発して3月には新政府軍が箱根まで進出してきた。
 
 
 陸軍奉行の浅野氏祐と若年寄の川勝広運より横浜居留地へ退去するようフランス人に指示が出た。
 
 ヴェルニーは政治的事件の影響だけでこの事業中断はできないと主張し、非常に脱出方法を確保するため通報艇を待機させながら横須賀にとどまった。
 
 
 4月には神奈川裁判所総督の
   東久世通禧
と副総督の
   鍋島直大
によって横須賀製鉄所が接収された。
 
 この時点で使用した経費は150万8,400ドルに上り、さらに83万ドル以上が必要となったため予算難の新政府はお雇いフランス人の解雇と工事の中断を検討した。
 
 しかし、フランス公使・ウートレやヴェルニーが反対したことで建設の継続が決まった。
 
 
 また、同年には灯台用機械がフランスから届き
   ルイ・フェリックス・フロラン
に命じて観音埼灯台を建設した。
 
 このほか、東京周辺で観音埼灯台、野島埼灯台、品川灯台、城ヶ島灯台の建設にも関わった。
 
 なお、そのうち旧品川灯台だけが博物館明治村に移築されて現存している。
 
 
 妻の健康問題などのため1869年5月から休暇を取ってフランスに帰った。
 1870年3月に横須賀に戻ってきている。

 
 1871年に横須賀製鉄所と横浜製鉄所はそれぞれ横須賀造船所、横浜造船所と改名さた。
 
 9月に工部少丞の肥田浜五郎が造船兼製作頭として横須賀に赴任してきた。
 
 
 ヴェルニーが指導して造船された蒼龍が1872年に、清輝が1875年にそれぞれ進水し、横須賀での艦船建造は順調に進んだ。
 
 ただ、ヴェルニーの高給は新政府にとってネックとなり、1873年にフランス公使・サン=カンタン伯爵と交渉して解任が受諾された。
 
  
 1876年3月3日にヴェルニーは解嘱、1875年12月28日に
   ポール・サバティエ
とともに川村純義の斡旋で宮内省で明治天皇の謁見を受けた。
 
 日本滞在中に1男2女を儲け、またアジア最大の造船能力を誇る長崎造船所の建設にも携わった。
 
 

 マルセイユに到着後、消化不良と衰弱を理由に20日間の休暇を取った。
 
 海軍造船工学学校での教授職などを検討したがフランス海軍内での求職活動は難航した。
 
 
 ローヌ県の海軍工廠でしばらく監督業務を務めた後、1876年から接触を持ったサン=テティエンヌ近郊のフィルミニーとロシュ=ラ=モリエールの炭鉱の所長となり海軍を退職した。
 
 
 1882年から1885年までサン=テティエンヌ商工会議所の幹事を務めた。
 鉱山学校の設立などに携わったのち1888年に故郷のオーブナのポン・ドーブナで家を購入した。
 
 1895年に炭鉱の仕事を辞めるとこの家に移り、1908年5月2日に自宅で肺炎のため死去した。
 
  
  
 
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posted by まねきねこ at 22:00 | 愛知 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | バイオグラフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする