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2018年03月22日

高麗 若光(こま の じゃっこう、生没年不詳) 高麗王族の子孫


高麗 若光(こま の じゃっこう、生没年不詳)


 奈良時代の豪族で氏姓は
   高麗王(こま の こにきし)
で、官位は従五位下だった。
 
 外国の王族の子孫を意味する姓(カバネ)として用いられていた
   王(こにきし)
の賜与を受けており、高句麗王族と見られるが出自は不詳である。 

 歴史書「日本書紀」の天智天皇5年(666年)10月26日条に、高句麗から日本に派遣された使節の一員に
   玄武若光
なる人物がいたとの記述がある。

 また、「続日本紀」の大宝3年(703年)4月4日条に、従五位下高麗若光に王(こにきし)のカバネを与えたとの記述がある。

 ここから「日本書紀」の玄武若光と「続日本紀」の高麗若光が同一人物とすれば高句麗王族の一人として王姓を認められたということになる。
 ただ、傍証がないため確認できておらず、若光のその後の履歴、また若光以外の高麗王氏の人々について六国史は何も記録を残していない。

 霊亀2年(716年)、武蔵国に東海道7ヶ国から1799人の高句麗人を移住させ、高麗郡を設置している。
 若光もその一員として移住したものと推定されている。
 
 埼玉県日高市新堀にある
   聖天院勝楽寺
は高麗氏の菩提寺で、若光の三男とされる聖雲が建立した。
 寺の雷門手前右側に、若光の墓とされる高麗王廟がある。

  

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2018年02月23日

杉野 喜精(すぎの きせい) 相場師で山一證券の初代社長

 
 
杉野 喜精(すぎの きせい)
 
     明治3年9月6日(1870年9月30日) -
            昭和14年(1939年)5月2日)


 日本の実業家、相場師で山一證券の初代社長や、東京株式取引所理事長を務めた。
  
 
 1870年東京深川で江戸詰めの津軽藩藩士・納戸役の家に生まれるも翌年父が失職している。

 東京商業学校(のちの一橋大学)卒業し、1889年日本銀行入行、1896年には愛知銀行副支配人となった。

 1902年に名古屋銀行取締役支配人として就任も、日露戦争後のバブル景気の崩壊による戦後恐慌の影響でモラトリアムを余儀なくされ、責任をとり1907年辞職し兜町で株の現物店の八幡屋を開設した。

 1910年、八幡屋の経営が思わしくなかったところ
   小池国三
に誘われ小池合資会社入社し七番番頭となる。

 1917年小池が銀行業に専念するため杉野に会社を譲り、杉野は
   山一合資会社
を設立し社長に就任した。
 
 1920年には売買高順位業界1位を達成。
 
 
 大正バブルの崩壊を乗り越え、1926年に山一證券株式会社に改組し、社長就任した。
 
 昭和金融恐慌を乗り越え、1935年後任に常務の
   太田収
を据えて社長を退任したうえ、東京株式取引所理事長に就任している。

 東京板紙株を巡る富士製紙と樺太工業の買収合戦では
   徳田昂平
とともに事態の収拾にあたった。

 肺疾患の療養を行うも、理事長在任中の1939年に死去した。
       

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2018年02月20日

若尾 民造(わかお たみぞう) 相場師のひとり


若尾 民造
  (わかお たみぞう)

   嘉永6年12月4日(1854年1月2日)
       - 大正6年(1917年)2月22日)


 日本の実業家で相場師

 甲府市長(官選第7代)としても活躍した。
 
 甲斐国甲府下一条町(現在 山梨県甲府市)の名主家系
   細田利兵衛
の三男として生まれた。

 幼名は長次郎、姉の「はつ」は中央経済界で影響力を持った甲州財閥と呼ばれるグループのひとり
   若尾逸平
の夫人であり、義兄である逸平に認められ明治5年(1872年)に逸平の養子となった。

 逸平の弟である横浜の若尾幾造の長女である若尾幾久と結婚した。


 逸平の隠居により形式的には明治27年(1894年)に家督を相続した。
 大正2年(1913年)の逸平の死後、実質的な若尾家の二代目となっている。

 明治39年(1906年)7月7日の甲府市会において、満場一致で第7代甲府市長として若尾を推薦した。
 これに対して、市会議員全員に辞退の書簡を送付するなど若尾は推薦を辞退した。

 武田千代三郎山梨県知事らの重なる懇請により翻意し、同年7月24日の裁可を経て同日第7代甲府市長に就任した。
 ただ、9か月後の明治40年(1907年)3月5日に辞任している。

 なお、辞任に際し後任の甲府市長に元山梨県知事の
   加藤平四郎
を推薦した。

 明治42年(1909年)に甲府商業会議所が創立すると5月6日に会頭に選出された。
 この職は大正6年(1917年)2月22日(現職として死亡)まで務めている。

 また、実業面においては、若尾銀行頭取、東京電燈会長のほか、横浜正金銀行、東京瓦斯、横浜倉庫などの重役を務めた。

 日露戦争後の1905年(明治38年)に山梨県・甲府市では増設師団の兵営誘致を進めていた。 
 民造は私有地を提供するなど積極的に誘致に携わっている。

 民造の用地提供で1908年(明治41年)に歩兵第49連隊(甲府連隊)の甲府常駐が決定。
 民造はさらに西山梨郡相川村(甲府市)周辺の用地も買収して提供した。

 1912年(明治45年)には皇太子嘉仁親王(大正天皇)の山梨行啓が行われた。

 民造は宿舎となった甲府城稲荷曲輪に存在した公会堂である機山館の改修費を出資した。
 また、予備の宿舎には若尾銀行が充てられた。

 なお、皇太子嘉仁親王は県内各地で甲府連隊の演習を視察した。
       

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2018年02月19日

広瀬 久光(ひろせ ひさみつ) 山梨県で経済・文化・政治活動等に力を入れた名望家


  
広瀬 久光(ひろせ ひさみつ)

  天保10年5月13日(1839年6月23日)
        - 明治43年(1910年)8月11日)

 山梨県で経済・文化・政治活動等に力を入れた名望家として知られる。
 明治の初め、町村にあって行政事務をあずかった吏員として地域の戸長や区長などを歴任した。

 また、東山梨郡書記に任用されるなど、地方自治や農政の進展に貢献した。

 明治13年(1880年)から二期4年間、県会議員に在任し活躍した。
 特に青梅街道の開発に最も力を注いでいたという。

 また、自家の屋敷は土塁が残る武田家家臣の屋敷跡でもある「於曽屋敷」として昭和38年(1963年)9月9日に山梨県指定の史跡に指定されている。
       

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2018年02月18日

雨宮 敬次郎(あめのみや けいじろう、あめみや けいじろう)


雨宮 敬次郎
 (あめのみや けいじろう、あめみや けいじろう)

 弘化3年9月5日(1846年10月24日)
      - 1911年(明治44年)1月20日)

 日本のの投資家で「天下の雨敬」「投機界の魔王」と呼ばれた。

 相互援助的に結束して商売にあたった甲州商人、いわゆる「甲州財閥」と呼ばれる集団の一人である。
 
 甲斐国山梨郡牛奥村(現 甲州市塩山牛奥)で長百姓の家「雨宮家」で、次男として生まれる。

 雨宮は少年時代から
   季節商い
などに従事し、成年になるまでに一財産を築いた。

 1870年(明治3年)から1872年(明治5年)頃に神奈川県横浜(横浜市)へ転居。

 生糸・洋銀・蚕種などの相場で浮沈を繰り返した。

 1876年(明治9年)11月から1877年(明治10年)6月にかけては米国や欧州に外遊し、発展段階にある近代国家が投資すべき産業は、鉄道、製鉄、水道等の社会基盤の分野だと悟ったという。

 1879年(明治12年)に南葛飾郡八郎衛門新田(現在の東京都江東区扇橋)で興した
   蒸気力による製粉工場
が成功し、本格的に実業界へ進出。

 1883年(明治16年)には、農業と工業を連携させる米国での実見をもとに軽井沢の開発事業を行った。
 この時の開墾地は長野県北佐久郡軽井沢町大字長倉地内にある
   「雨宮新田」
という地名として残っている。

 1884年(明治17年)に相場取引を止めて東京に移住した。

 この頃、製粉工場は発展し、1886年(明治19年)に東京蔵前の官営製粉所の払い下げを受けた。
 翌1887年(明治20年)には主に軍用小麦粉製造を目的とする
   有限責任日本製粉会社
に改称、1896年(明治29年)9月に日本製粉株式会社となった。

 1888年(明治21年)には、新宿 - 八王子間を結び、中央本線の前身となる
   甲武鉄道
への投機で莫大な利益を出した。

 会社内部の対立により株価が低迷するとこれを更に買い占め、同社の取締役に就任した。

 雨宮は甲武鉄道を西へ伸ばし八王子 - 甲府間を結ぶ「山梨鉄道案」を構想した。
 そのため「甲信鉄道案」を構想していた若尾一平と利害で対立した。

 1891年(明治24年)には川越鉄道(現在の西武国分寺線)の取締役となった。
 同年、第1回藍綬褒章を受章した。

 1892年(明治25年)に日本鋳鉄会社を興し、当時の東京市に水道用鉄管を納品した。
 ただ、1894年(明治27年)には
   納期遅延問題
を生じ、敬次郎も刑事告訴されるに至った。
 
 1893年(明治26年)に北海道炭礦鉄道の取締役に就任したうえ
   大師電気鉄道
の発起人になった。

 1894年(明治27年)に
   豆相人車鉄道
を敷設したうえ、岩手県の仙人鉄山(現在の北上市和賀町)を開発した。

 
 1903年(明治36年)に
   東京商品取引所(現在の東京工業品取引所)
の理事長に就任した。

 同年東京市街鉄道の会長に就任し、電力事業にも進出した。

 同年には若尾逸平が東京電灯株式会社買い占めを行ったが、雨宮は距離を置き参加していない。

 1905年(明治38年)に江ノ島電鉄社長に就任した。

 1904年(明治37年)に桂川電力を興している。

 1908年(明治41年)に大日本軌道を設立したうえ、広浜鉄道等を敷設した。
 その他、海運・石油・貿易など様々な事業において積極的な活動をしている。

 1911年(明治44年)に64歳で永眠。

 婿養子に事業を引き継いだ雨宮亘がいる。
 また、歌人の雨宮雅子、華道家池田佳子(佳甫)は敬次郎の玄孫にあたる。
 
 
 逸話として、中央本線が甲州市で塩山駅方面に向けて北側に湾曲しているのは、1903年(明治36年)の開通時に敬次郎の政治力により、出身地へ線路を通したと言われる。

 
 ホテルニュージャパンは雨宮敬次郎邸の跡地に建てられ、邸内には動物園があったという。
       

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2018年02月09日

若尾 璋八(わかお しょうはち) 山梨県出身の実業家


若尾 璋八(わかお しょうはち)
  
  明治6年(1873年)7月27日 - 昭和18年(1943年)1月10日)

 山梨県出身の実業家、貴族院議員、衆議院議員。
 
 山梨県山梨郡下於曽村(現在の甲州市)に
    広瀬久光
の四男として生まれ、東京法学院(現在の中央大学)を卒業。

 その後、明治29年(1896年)に若尾民造の二女「きよの」と結婚し同人の養子となった。

 大正6年(1917年)4月23日の第13回衆議院議員総選挙、大正9年(1920年)5月10日の第14回衆議院議員総選挙、大正13年(1924年)5月12日の第15回衆議院議員総選挙に山梨選挙区から立候補して衆議院議員に当選した。

 昭和元年(1926年)12月28日に辞任するまで9年4か月在任した。

 その間、立憲政友会総務、大正13年(1924年)6月30日には全院委員長となった。
 また、衆議院議員の辞任後、昭和2年(1927年)8月18日には貴族院議員に勅選され逝去するまで在任した。
 昭和6年(1931年)12月15日には犬養毅内閣の鉄道政務次官に任ぜられている。

 実業面では、明治44年(1911年)12月16日に東京電燈取締役となった。
 大正6年(1917年)7月31日に若尾銀行、大正8年(1919年)1月20日に若尾貯蓄銀行、8月20日に富士製紙の監査役、大正11年(1922年)2月23日に東京電燈副社長を歴任している。

 大正15年(1926年)12月13日には東京電燈、信越電力の社長となった。
 また、揖斐川電力、大同電力、東北電力などの取締役、大正14年(1925年)12月24日には東京株式取引所の理事を務めた。
       

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2018年02月06日

徳田 昂平 日本の相場師の一人


徳田 昂平 (とくだ こうへい)
    1878年5月 - 1951年10月5日

 日本の実業家で相場師 

 徳田商会(のちの内外証券、東海東京証券)の社長
 日本証券取引所総裁、貴族院議員、大蔵省証券取引委員会委員長等を務めた。


 山梨県出身で旧制甲府中学(のちの山梨県立甲府第一高等学校)を経て、東京高等商業学校(のちの一橋大学)を卒業した。

 山梨銀行等を経て、1897年徳田商会入社した。
 入社後頭角を現し、3年後に支配人に就任している。

 徳田商会創業者の
   徳田孝平
の婿養子となり、ロンドンに3年間留学した。
 その後ニューヨークのウォール街の仲買店で株式仲買を学んでいる。

 
 1918年株式会社徳田商会に改組し社長に就任した。
 1924年から1933年まで東株一般取引組合委員長になっている。

 また、東京商工会議所副会長や日本証券取引所総裁を務めた。

 1946年貴族院議員、1947年大蔵省証券取引委員会委員長に就任した。

 東京板紙株を巡る富士製紙と樺太工業の買収合戦では
   杉野喜精
とともに事態の収拾にあたった。
       

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2017年06月21日

菩提達磨



菩提達磨(ぼだいだるま)

 中国禅宗の開祖とされている5世紀後半から6世紀前半のインド人仏教僧のこと。
 『景コ傳燈錄』によれば釈迦から数えて28代目とされている。
 達磨、達磨祖師、達磨大師とも呼ばれる。

 「ダルマ」というのは、サンスクリット語で「法」を表す言葉で達摩との表記もある。

 弟子の曇林が伝えるところによると、達磨は南インドのタミル系パッラヴァ朝において国王の第三王子として生まれた。

 中国唐代の律宗の僧侶
   道宣
の伝えるところによれば、北魏が華北を統一した439年から始まり、隋が中国を再び統一する589年まで王朝が興亡が続いた南北朝の宋の時代(479年の斉の成立以前)に中国にやって来たとされている。

 インドから中国南方へ渡海し、洛陽郊外の嵩山少林寺にて面壁を行った。

 史書などで確認されているだけで曇林、慧可の弟子がいた。

 中国へ布教のため、達磨は海を渡って9月21日(10月18日)に南朝は梁が支配する広州に上陸した。
 
 達磨は嵩山少林寺において壁に向かって9年坐禅を続けたとされている。
 ただ、これは彼の壁観を誤解してできた伝説であると言う説がある。

 壁観は達磨の宗旨の特徴をなしており、「壁となって観ること」即ち「壁のように動ぜぬ境地で真理を観ずる禅」のこと。
 これは後の確立した中国禅において
   六祖慧能
の言葉とされる「坐禅の定義」などに継承されている。

 大通2年12月9日(529年1月4日)、神光という僧侶が自分の臂を切り取って決意を示し、入門を求めた。
 達磨は彼の入門を認め、名を慧可と改めた。
 この慧可が禅宗の第二祖にあたる。
 これ以後、中国に禅宗が広まったとされている。

 達磨は永安元年10月5日(528年11月2日)に150歳で遷化したとされる。
 一説には達磨の高名を羨んだ菩提流支と光統律師に毒殺されたともいう逸話も残っている。

 達磨の没後には道教の尸解に類した後日譚が伝わる。

 当時、北魏の使者として西域からの帰途にあった宋雲がパミール高原で達磨に出会ったというもの。
 その時、達磨は一隻履、つまり草履を片方だけを手にしていたという。

 宋雲が「どこへ行かれるのか」と問うた所「西天へと行く」と答え、また「あなたの主君はすでにみまかっている」と伝えたというのである。帰朝した宋雲は、孝明帝の崩御を知った。

 孝荘帝が達磨の墓を掘らせると、棺の中には一隻履のみが残されていた。
       

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2017年02月18日

観勒(かんろく) 天文、暦本、陰陽道を伝えた。


観勒(かんろく、生没年不詳)

 7世紀初頭の百済出身の僧侶。602年(推古天皇10年)に渡来し
   天文、暦本、陰陽道
を伝えた。

 朝廷は書生を選出して観勒のもとで学ばせ、陽胡玉陳は暦法、大友高聡は天文遁甲、山背日立は方術を学ばせ得徳したとされる。

 暦本は604年に聖徳太子によって採用され持統朝で用いられた。

 この時期においては仏教だけでなく天文遁甲や方術といった道教的思想もまとまった形でもたらされている。

 三論宗の法匠であり、成実宗にも通じていたとされる。

 624年(推古32年)に、日本で最初の僧正に任命された。

 僧が斧で祖父を殴る事件が起こり、天皇はこの僧だけでなく諸寺の僧尼を処罰しようとしたため観勒は日本に仏教が伝来してまだ百年にならず、僧尼が法を学んでいないことからこのようなことが起こったと上表して、事件の僧以外は罰しないよう求めた。

 天皇はこれを許し、この時に初めて僧正・僧都の制を定めたと言われる。

 観勒を僧正に、鞍作徳積を僧都に任じた。
 この僧正、僧都という名称は中国南北朝に始まった仏教統制機関のうち南朝系の僧綱制を踏襲したもの。
       

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2015年03月17日

荘子 道教の始祖の一人


  
荘子(紀元前369年 - 紀元前286年)


 中国の戦国時代の宋国の蒙の出身の道教の思想家。

 道教の始祖の一人とされる人物で荘周(姓=荘、名=周)とされる。
 字は子休とされる。
 
 
 荘子の思想は
   無為自然
を基本とし、人為を忌み嫌うもので徹頭徹尾にわたり俗世間を離れ無為の世界に遊ぶ姿勢で展開される。

 老子の思想では、政治色が濃い姿勢が多々見られる点であるとされる。

 
 軸となる傾向としては徹底的に価値や尺度の相対性を説いている。
 また、逆説を用いて日常生活における有用性などの意味や意義にたいして批判的とされる。
 

 思想を表す代表的な説話として胡蝶の夢がある。

  

 荘周が夢を見て蝶になり、蝶として大いに楽しんだ所、夢が覚める。

 果たして荘周が夢を見て蝶になったのか、あるいは蝶が夢を見て荘周になっているのかという説話の中に、無為自然、一切斉同の荘子の考え方がよく現れているとされている。

 
 ただ、荘子は一般的見方としては孔子を批判しているとされている
  




  
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2015年03月05日

郭璞 中国東晋時代の卜者

  

郭璞(かく はく、276年 - 324年) 


 中国西晋・東晋の文学者・卜者。

 文才と卜占の術により建国まもない東晋王朝の権力者たちに重用された。

 卜占・五行・天文暦法に通ずるのみならず、古典にも造詣が深く、『爾雅』『方言』『山海経』に注したことで知られる。
 文学作品では「遊仙詩」「江賦」などが代表作とされる。



 なお、史書や『捜神記』などの志怪小説では、超人的な予言者・妖術師として様々な逸話が残されている。

 
 寒門の家に生まれ、訥弁であったが、博学で文章が巧みであったという。

 また郭公から五行・天文・卜筮について記述した『青嚢中書』という書物を受け取り、これによって五行・天文・卜筮のあらゆる術に通じ、前漢時代の易経の大家京房(紀元前77年-紀元前37年)や三国時代の管輅(紀元前77年-紀元前37年)をも凌ぐほどであった。

 
 晋(西晋)の滅亡のきっかけを作った皇族同士の内乱(八王の乱)により中原が戦乱に見舞われると、郭璞は筮竹で将来を占った。
 占いではこの地が遠からず異民族に蹂躙されることを予見した。

 江南に親族や友人とともに避難してきた郭璞は、その後、司馬睿(後の東晋の元帝)の腹心王導に招かれ、彼の参軍となった。

 その卜筮の術によって大いに重用された。


 司馬睿が皇帝に即位する前後、その将来を占い、銅鐸の出土や泉の出現などの東晋中興の正統性を裏付ける瑞祥を予見した。
 そのため、司馬睿の寵愛も受けるに至った。

 
 東晋が建国されると、郭璞は「江賦」「南郊賦」を献上した。
 それらは世間で大いに評判になった。


 元帝にも賞賛され、著作左郎に任じられ、ついで尚書郎に移った。

 皇太子司馬紹(後の明帝)からは、その才能と学識を尊敬され、当時の有力者であった温嶠・庾亮らと同等の待遇を受けた。

 王敦が324年に再び反乱を企て、郭璞にその成否を占わせた。

 王敦はかねてから郭璞が温嶠・庾亮らと親しく、彼らに自らの討伐をそそのかしていると疑っていた。
 そのため、占いの結果が 「成る無し」の結果であったことに激怒し郭璞を処刑した。

 王敦の乱が平定されると、郭璞は弘農太守を追贈されている。




  
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2015年01月29日

ブロッサム・ディアリー ジャズシンガー 「ビ・バップのベティ・ブープ」


ブロッサム・ディアリー
    Blossom Dearie 
     (1924年4月28日 – 2009年2月7日)


 子供のような独特の歌声が特徴のジャズ・シンガーであり、時に
   「ビ・バップのベティ・ブープ」
と評されることもある。

 ニューヨークの郊外にあるイースト・ダーラムに生まれ、「ブロッサム」という名前は本名。

 子供の時はクラシック・ピアノを習っていたが、10代のときにジャズ・ピアノに転向した。

 
 1940年代の中頃からウディ・ハーマン楽団やアルヴィノ・レイ楽団など様々なコーラス・グループに参加している。
 また、カクテル・ピアニストとして、クラブやバーで歌ったりもしていた。
 

 1952年にアメリカからフランスのパリへ移り活動。

 そこで知り合ったアニー・ロスやミシェル・ルグランの実姉であるクリスチャン・ルグランらとコーラスグループの「ブルー・スターズ」を結成した。

 
 ジャズ・スタンダードの
   「バードランドの子守唄」
をフランス語で歌うなど、数々の作品を残した。

 1956年、初のリーダー作、「Blossom Dearie Plays "April in Paris"」を録音した。
 初リーダー作の録音に参加したフルート奏者、ボビー・ジャスパーと結婚。

 フランスでもカクテル・ピアニストとしての活動を続け、シャンゼリゼのクラブなどで歌っていた。
 
 アメリカに帰国、「Blossom Dearie」を録音する。
 

 1962年、飲料会社であるハイヤーズがルートビアのCMソングを歌うことを彼女に依頼した。

 ルートビアの愛好者に彼女のレコードを景品に送る企画が持ち上がり、「Sings Rootin' Songs」を録音した。

 
 1974年には彼女の兄であるウォルター・バーチェットを社長に迎えた自主レーベル、ダフォディル・レコード(Daffodil Records)を設立したした。


 アメリカの子供向け教育番組、「スクールハウス・ロック」に出演、ボブ・ドローが手がけた「Figure Eight」などの曲を歌い、歌声を披露した。

   



  



  
   

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 今も高い人気を誇るブロッサム・ディアリーへのオマージュ!
 「たなかりか」初のトリビュート・アルバムはキュートな魅力がいっぱい!

 人気ピアニスト・アレンジャーの伊藤志宏がブロッサムのエッセンスとたなかりかのフレッシュさを見事に溶け込ませた1枚。



  



  
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2014年12月25日

グスタフ・アドルフ・フォン・ゲッツェン プロイセンの探検家

 
グスタフ・アドルフ・フォン・ゲッツェン
           Gustav Adolf von Götzen
    (1866年5月12日 - 1910年12月2日)
 
 プロイセンの探検家でドイツ領東アフリカ総督だった。
 
 ルワンダに到達した最初のヨーロッパ人で、現タンザニアで起こった
   マジ・マジ反乱(1905年から1908年)
を鎮圧、統制した。
 
 マジ・マジ反乱はドイツ帝国の植民地政府が現地民に輸出用綿花栽培の強制労働を課したことが原因となり、残党の掃討を含めればその鎮圧に約3年の時間を要し、犠牲者数は植民地政府側の数百人に対して現地民側は20から30万人(反乱地域の総人口の3分の1に相当)に上ったと推測されている。
 
 
 1884年にパリ大学、ベルリン大学、キール大学で法学を学んだ。
 1887年に軍隊(2nd Garde-Ulanen regiment)中尉就任
 1890年、駐屯していたローマから、キリマンジャロへ狩猟探検へ出立した。
 アナトリア半島へ1892年に旅行した、

 アフリカ探検家、ドイツ領東アフリカ創設者の一人
   カール・ペータース(Karl Peters)
は1885年以降、ドイツによる東アフリカ地域の占領を提言した。
 
 
 アフリカのタンガニーカ沿岸地域が容易に占領出来ると考えられていたのに対し、ベルギー領コンゴに至るまでの内陸部の調査は少なかった。
 
 ゴッツェンはゲオルク・フォン・プリットヴィッツ、ハルマン・ケルスティングと共に内地へ探検を行った。
 
 1893年12月21日、一行はパンガニ(現タンザニア沿岸部)から出立し、ケニアのマサイ地域を経て、1894年5月2日にカゲラ川のルスモ滝に到着した。
 
 ニャンザのムワミ(Mwami、王)と謁見したのちキブ湖へと進んだ。

 ヴィルンガ山地、コンゴのジャングルを越えた後の、9月21日コンゴ川を川下へ進み、11月29日大西洋に到達し、1895年1月にゲッツェンはドイツへ帰国した。

 1901年にはプロイセン領東アフリカ総督として着任したのち、1905年、植民地の半分に広がったマジ・マジ反乱を鎮圧した。
 
 死者数は、ゲッツェン編纂の公式データではヨーロッパ人 15人、アフリカ人兵士 389人だった。
 
 1906年、病気のために総督を辞職した。
 1908年にはプロイセン使節としてハンブルクに着任している。
 
 
 
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2014年07月01日

伊藤惣十郎 尾張国清洲の商人



伊藤惣十郎(宗十郎)
       生没年月日不詳

 織田信長の城下清州(愛知県)における尾張・美濃(岐阜県)両国の商人司として仕えた豪商
 屋号は伊藤屋 法名は安中

 元亀3(1572)年12月に織田信長より朱印状を与えられ、改めて尾張・美濃両国の唐人方(輸入呉服)および呉服方の商売司を任命された。

 両国内における商人はどの売り子でも伊藤支配の夷講へ加入やその手形を所有する義務があり役銭の徴収にあたった。
 また、清州で商売をする他国商人の監督にあたった。 

  
 それ以降、織田信忠、織田信雄、羽柴秀次、松平忠吉からも印判状を与えられている。
  


 慶長15(1610)年、伊藤惣十郎の嫡男
   伊藤助三郎祐基
の代に清州より名古屋本町へ移住し呉服小間物問屋いとう呉服店(松坂屋の前身)を創業、営業を再開し伊藤次郎左衛門(初代)を名のったという記録が「寛延旧家集」に記述がある。

 なお、助三郎は20年大坂の陣で戦死した。
  





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2014年06月29日

フランソワ・レオンス・ヴェルニー 

 
フランソワ・レオンス・ヴェルニー
        Francois Leonce Verny
         (1837年12月2日 - 1908年5月2日)
 
 
 フランスの技術者で1865年から1876年にかけて
   横須賀造兵廠
   横須賀海軍施設ドックや灯台
その他の近代施設の建設を指導し、日本の近代化を支援した。
 
 
 フランス中部のローヌ=アルプ地域圏に位置するアルデシュ県のオーブナで生まれた。
 
 父は製紙工場を経営する
   マテュー・アメデ・ヴェルニー
 母はアンヌ・マリー・テレズ・ブランシュで、5男2女の兄弟の三男だった。
 


 就学年齢の8歳になるとオブナの町で神父が経営するコレージュに通い、平均的な成績をおさめた。
 
 フランスの後期中等教育機関リセへの進学を目指して家庭教師の指導を受けると成績が向上した。
  
 
 1853年に16歳でリヨンのリセ・アンペリアルに入学している。
 
 
 リセでは厳しいカリキュラムをこなし、1854年には数学で学年1位となっているが化学の成績は振るわなかった。
 余暇にはバイオリンや馬術を習い、1856年にかねて志望していた
   エコール・ポリテクニーク
へ合格者115名中64位という成績で入学した。

 ただ、エコール・ポリテクニークでの生活については不明な点も多いが1858年に卒業した。
 
 
 同年、海軍造船工学学校に入り海軍技術者となった。
 在学中に旅に出て、1858年夏はオルレアンやボルドー、トゥールーズ、1859年6月にはイタリア独立戦争中にジェノヴァやフィレンツェを訪れている。
 
 
 工学学校卒業後、1860年8月にブレスト造兵廠に着任し、造船・製鉄・艦船修理など多岐にわたる業務に従事した。

 1860年の北京条約の締結後も清では戦闘が続いていたため、フランス海軍は寧波で造船所やドックを建設し、小型の砲艦を建造する事を決めた。
 
 この建造監督への就任を受諾し、1862年9月に辞令を受けてマルセイユからアレキサンドリア、スエズを経由して上海に向かった。
 
 
 寧波に着くと同地の副領事に任命され、造船所や倉庫、ドックを建設して1864年には4隻の砲艦が全て竣工した。
 この功績により、翌年レジオンドヌール勲章を受章した。
 

 
 江戸幕府は軍備の近代化を進めてフランスの協力で
   近代的造兵廠
の建設を決定し、フランス側の担当者だった
   提督 バンジャマン・ジョレス
の要請によりヴェルニーは1865年1月に日本へ派遣された。
 
 
 江戸に近く、波浪の影響を受けにくい入り江である上に艦船の停泊に十分な広さと深さを備えた海面があり、泊地として良好な条件を備えていた横須賀を選定、造船所や製鉄所を含む同施設の建設地とした。
 
 
 中国から持参した建設資料と見積りを基にヴェルニーは駐日公使
   レオン・ロッシュ
らと横須賀製鉄所の建設原案を作成して2月11日に提出した。
 
 
 計画では4年間で製鉄所1ヶ所、艦船の修理所2ヶ所、造船所3ヶ所、武器庫および宿舎などを建設した。
 予算は総額240万ドルであった。
 

 2月24日に水野忠誠と酒井忠毗が約定書に連署して建設が正式に決まり、造兵廠建設に必要な物品の購入やフランス人技術者を手配するため、同年4月に日本を発ちフランスに一時帰国した。

 間欠熱や胃病のため故郷で休養した後、8月27日から12月7日まで
   文久遣欧使節
に同行して海軍施設などを案内した。
 
 

 1866年3月にフランス人住宅の建設担当者を先に日本に派遣した後、資材を調達してヴェルニー自身も4月16日にマルセイユを出発して6月8日に横浜に到着した。
 
 
 横須賀では入り江が埋め立てられ山が切り崩されフランス人達も驚くほどのスピードで造成が進められた。
 
 ヴェルニーは責任者として建設工事を統率し、40数名のフランス人技術者に指示を出した。
 なお月給は833メキシコドルで、年俸にして10,000メキシコドルを超える高給を受け取っていた。
 
 
 フランス人住宅や警固の詰所、各種工場や馬小屋、日本人技術者養成のための技術学校などの各種施設が建設されtあ。
 
 1867年3月にヴェルニーは上海に渡り、上海領事だったモンモラン子爵の娘・マリーと4月22日に結婚式を挙げた。

 
 1868年に戊辰戦争が勃発して3月には新政府軍が箱根まで進出してきた。
 
 
 陸軍奉行の浅野氏祐と若年寄の川勝広運より横浜居留地へ退去するようフランス人に指示が出た。
 
 ヴェルニーは政治的事件の影響だけでこの事業中断はできないと主張し、非常に脱出方法を確保するため通報艇を待機させながら横須賀にとどまった。
 
 
 4月には神奈川裁判所総督の
   東久世通禧
と副総督の
   鍋島直大
によって横須賀製鉄所が接収された。
 
 この時点で使用した経費は150万8,400ドルに上り、さらに83万ドル以上が必要となったため予算難の新政府はお雇いフランス人の解雇と工事の中断を検討した。
 
 しかし、フランス公使・ウートレやヴェルニーが反対したことで建設の継続が決まった。
 
 
 また、同年には灯台用機械がフランスから届き
   ルイ・フェリックス・フロラン
に命じて観音埼灯台を建設した。
 
 このほか、東京周辺で観音埼灯台、野島埼灯台、品川灯台、城ヶ島灯台の建設にも関わった。
 
 なお、そのうち旧品川灯台だけが博物館明治村に移築されて現存している。
 
 
 妻の健康問題などのため1869年5月から休暇を取ってフランスに帰った。
 1870年3月に横須賀に戻ってきている。

 
 1871年に横須賀製鉄所と横浜製鉄所はそれぞれ横須賀造船所、横浜造船所と改名さた。
 
 9月に工部少丞の肥田浜五郎が造船兼製作頭として横須賀に赴任してきた。
 
 
 ヴェルニーが指導して造船された蒼龍が1872年に、清輝が1875年にそれぞれ進水し、横須賀での艦船建造は順調に進んだ。
 
 ただ、ヴェルニーの高給は新政府にとってネックとなり、1873年にフランス公使・サン=カンタン伯爵と交渉して解任が受諾された。
 
  
 1876年3月3日にヴェルニーは解嘱、1875年12月28日に
   ポール・サバティエ
とともに川村純義の斡旋で宮内省で明治天皇の謁見を受けた。
 
 日本滞在中に1男2女を儲け、またアジア最大の造船能力を誇る長崎造船所の建設にも携わった。
 
 

 マルセイユに到着後、消化不良と衰弱を理由に20日間の休暇を取った。
 
 海軍造船工学学校での教授職などを検討したがフランス海軍内での求職活動は難航した。
 
 
 ローヌ県の海軍工廠でしばらく監督業務を務めた後、1876年から接触を持ったサン=テティエンヌ近郊のフィルミニーとロシュ=ラ=モリエールの炭鉱の所長となり海軍を退職した。
 
 
 1882年から1885年までサン=テティエンヌ商工会議所の幹事を務めた。
 鉱山学校の設立などに携わったのち1888年に故郷のオーブナのポン・ドーブナで家を購入した。
 
 1895年に炭鉱の仕事を辞めるとこの家に移り、1908年5月2日に自宅で肺炎のため死去した。
 
  
  
 
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2014年06月27日

肥田 浜五郎 「日本の造船の父」


肥田 浜五郎
  (文政13年(1830年)1月
     −明治22年(1889年)4月27日)
 
 
 土岐氏庶流で岐阜県土岐市肥田町を発祥の地として肥田氏を名乗った。
 
 土岐肥田頼衡が観応3年(1352年)伊豆守に任ぜられ次男肥田二郎を守護代として肥田村に定住させたのが始まりとされる豆州肥田氏の末裔で幕末期の幕臣 技術者 明治期の官僚
 
 長崎海軍伝習所第二期生で諱は為良(ためよし)という。
  
 
 韮山代官江川英龍の手代見習として
   伊東玄朴
に蘭学を学び、長崎海軍伝習所で機関学を修めた。
 
 1859年(安政6年)に
   軍艦操練所教授方出役
となった。
 
 1860年(万延元年)、咸臨丸蒸気方(機関長)に選ばれた。
 山本金次郎(副長)、岡田井蔵、小杉雅之進(機関方見習士官)を率い、太平洋往還を成功に導いた。
 
 当時、病気だった勝海舟に代わり、肥田と小野友五郎(測量方)、浜口興右衛門(運用方)が操船の指揮をしていたという。

 帰国後、1861年(文久元年)、軍艦操練所頭取手伝出役を経て、軍艦頭取出役となる。
 

 1862年(文久2年)、幕府軍艦としては最初となる蒸気軍艦千代田形の蒸気機関を設計した。
 
 1863年(文久3年)、小十人格軍艦頭取、海路上洛する徳川家茂の御座舟翔鶴丸艦長を務めた。
 1864年(元治元年)、両番格軍艦頭取となる。

 1865年(慶応元年)、横須賀造船所の工作機械を購入のため、オランダに派遣された。
 この帰途、幕末から明治期(1865年から1876年)に横須賀造兵廠、横須賀海軍施設ドックや灯台、その他の近代施設の建設を指導することになる
   レオンス・ヴェルニー
と会見している。
 

 1866年(慶応2年)軍艦役、1868年(慶応4年)、軍艦頭に昇進、富士山丸艦長を務めた。
 

 明治維新後、静岡藩海軍学校頭となった。
 
 
 1869年(明治2年)8月15日民部省出仕となり、以後新政府に仕えた。
 
 工部少丞、次いで造船頭兼製作頭となり
   岩倉使節団理事官
として欧米各国を歴訪した。
 
 
 帰朝後は工部大丞、海軍大丞兼主船頭と進み1875年(明治7年)4月4日海軍少将となった。
 主船頭頭、横須賀造船所長、主船局長を経て1883年(明治15年)12月27日機関総監、1887年(明治19年)7月12日海軍機技総監、宮内省御料局長官などを歴任した。

 
 明治22年(1889年)4月27日、藤枝駅で走りはじめた列車に飛び乗ろうとして転落し死去した。
 
 
 なお、当時の列車に便所がなかった為、駅で用を足した後、無理に戻ろうとした為とされている。
 同年中に列車内への便所の設置が始まっているが、この事故も後押しした。
  
  
  
 
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2014年06月16日

本間 宗久 「出羽の天狗」

  
 
本間 宗久
   1724年(享保九年) - 1803年(享和三年)
 
 出羽庄内(現在の山形県酒田市)出身
 江戸時代の米商人で、酒田、大坂、江戸での米の商いで莫大な富を得た。
 後に出羽国米沢藩の第9代藩主上杉鷹山を補佐した酒田の豪商本間光丘は甥にあたる。
 
 
 大坂・堂島の相場師牛田権三郎と並び称される。幼名 久作
  
 
 
 酒田五法
 ・三山 ・・・ 酒田五法:三山
 ・三川 ・・・ 酒田五法:三川
 ・三空 ・・・ 酒田五法:三空
 ・三兵 ・・・ 酒田五法:三兵
 ・三法 ・・・ 酒田五法:三法
を発案し、ローソク足の考案者であると言われている。
 
 江戸時代、世界的に見て先駆的な先物市場であった大阪堂島、蔵前の米会所で、後の
   チャールズ・ダウ
と並んでテクニカル分析が行われており、200年以上がたった今でも、その基本的な手法が活用され酒田罫線法として伝わっている。
 
 
 
 本間宗久の父親は酒田の米屋「新潟屋」の本間原光である。
  
 宗久が16歳の時、8代将軍徳川吉宗が統治する江戸へ家業修行のための見聞を得るために遊学し帰省後酒田にて米相場における投機を父に進言した。
 
 しかし、手元にある資金を先物相場で現実には手元にない米を売買するといった偽りの行為について「商いの正道ではない」と容れられなかった。

 父原光の死後、後を継いだ長兄光寿も数年で隠居した。
  
 
 光寿は「新潟屋」の跡継ぎとして長兄の子光丘を家業修行のため愛媛「奈良屋」へ手代奉公として出した。
 
 その間は宗久を仮の主としたことで宗久は店の資金を元手に酒田の米相場で投機を行った。
 相場が見事当たり、一躍「新潟屋」身代を数万両単位で増資させた。
 
 
 甥の光丘が愛媛より帰郷したため、久作は仮の主の座を返した。
 
 光丘は「新潟屋」の経営方針を違える久作とは叔父甥の縁を切り店(たな)より追放してしまった。
 また、久作が投機で得た金の多くを防砂林等の公共事業へ寄付してしまっている。

 
 酒田を出た久作は江戸で米相場の投機を行うがこんどは目論見がことごとく外れ破産してしまった。
  
 
 失意の中で帰郷した久作は懸命に働き資金を蓄えて体勢を立て直し、今度は当時江戸以上の大市場であった大坂で再度投機を行うために出向いた。
  
 
 大坂の米相場では江戸の失敗を材料に相場の流れを読む手法を考案するなど才能を発揮し大勝利を繰り返し、「出羽の天狗」と称された。
 
 
 大阪で得た利益を持ち酒田で再度商いを始めたものの、相変わらず光丘からは縁を切られたままの状態が続いた。
 
 
 50歳になった久作は、名を宗久と改め江戸へ移った。
  
 ここでも相場に成功し多額の身代を作り出した影響もあり、出羽国米沢藩の藩政改革で上杉鷹山を補佐するようになっていた光丘とは長い間対立していたが和解がなった。
 
 その後は江戸で新潟屋の現物米とあわせて莫大な財産を手にしたという。
 
 
 宗久は酒田の米を売り本間家の勃興を側面から支えた。
 
 その活躍ぶりは、
   『酒田照る照る、堂島曇る、江戸の蔵米雨が降る。』
   『本間さまには及びもないが、せめてなりたや殿様に』
といった唄が流行るほどであったという。 
 
  
  
 
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2014年06月15日

最後の“相場師”是銀

 
 
是川銀蔵(これかわ・ぎんぞう)
  (1897年7月28日 - 1992年9月12日)
 

 兵庫県赤穂市の貧しい漁師の七人兄弟の末っ子
   小山銀蔵
として生まれた。
 
 もともとの小山の家は赤穂では有名な旧家であったが、明治維新で没落した。
  
 
 3才の時に赤穂から神戸へ転居し、尋常小学校を卒業した後、14歳で貿易商の
   好本商会
の丁稚となった。
 
 1914年に好本商会が倒産、一旗上げるべくロンドンを目指し出国した。
 中継地の中国の大連に着いたときにヨーロッパで第一次世界大戦が勃発した。
 
 
 日本軍が山東半島の龍口に上陸したため、軍との商売を目指して龍口へ移った。
 軍が青島へ向かうと徒歩で追いかけたという。
  
 手持ち資金が底をつき生死を彷徨いながらも軍の出入り商人となり、貿易会社小山洋行を設立した。
 

 食料品や桐を扱って利益を上げたが、軍の高官に対して饗応を行った為、1915年に
   贈賄容疑
で憲兵に逮捕された。
 ただ、未成年であったこと等を理由に無罪となり、日本に送り返された。

 
 約半年後、再び青島へ渡り現地の通貨である一厘銭を両替し、金属資源として売却する商売を始めた。
 

 一厘銭は亜鉛・銅・鉛の合金であり、戦争による金属資源の高騰から2倍以上の価値で売れ莫大な利益を上げた。
 
 
 その後、1916年に孫文を支援する日本軍に貸した3万円が返済されず、12月にドイツからの講和の打診により相場下落も影響して事業は破綻した。

 
 意気消沈として日本に戻り姉婿の縁で龍野市で貝ボタンの工場を経営した。
 
 
 質素な平々凡々とした生活に飽き足らず、自由に活動するために工場を兄に譲り1919年に大阪へ移った。
 
 
 伸鉄工場を作り、景気悪化の影響を受け倒産寸前であった亜鉛メッキ工場を安価に買収して
   大阪伸鉄亜鉛メッキ株式会社
を作り、260人の従業員を雇用するようになった。
 
 
 1923年に関東大震災の一報を受けるとバラックの需要を見越してトタン板と釘を買占め、巨利を得た。
 なお、この取引で得た利益は他人の不幸によるものであったため、半分を大阪府へ寄付したという。
 
 
 1927年に昭和金融恐慌が発生した際には預金していた銀行が破綻、会社運営の資金が消失してしまい支払いが出来ずに倒産してしまった。
 
 ただ、債権者達は理解があり、事業の継続を支持したものの経営者としての責任を取り是川は経営を債権者に任せて引退した。
 
 
 経済恐慌を経験したことで資本主義に対して懐疑的になり、3年間図書館に通い詰めて世界情勢、投資理論を独学
   恐慌は景気循環によって生じる予測可能な変動
であるとの理論を形成し、資本主義の仕組みは衰退しないと判断したという。

 
 1931年、34歳で70円を元手に大阪株式取引所で株式投資を始め、年末までに7000円に増やした。
 
 
 1933年に大阪堂島で「昭和経済研究所」(是川経済研究所)を設立し、研究と指導を行った。
 
 
 商品先物を扱う
   大阪三品取引所
では1935年に綿の世界的凶作を見越して綿を買い、売りに回った昭和綿花株式会社の
   駒村資平
と仕手戦を数ヶ月続けた。
 
 なお、買い方が優勢で約300万円の利益があった。
 ただ、欲が頭に入ってしまったのか駒村資平からの解け合いの申出を断った後に相場が反転し下落してしまい、逆に1万数千円の損失を受けた。

 
 諸外国の経済動向の調査から、アメリカ、イギリス、ソ連が水面下で
   極東に向けた軍拡
を行っていることを予測し、軍・財界・マスコミへ警告を行った。
 
 
 ただ、当時は米英との親善外交が主流であり憲兵隊などから取調べを受けた。
 
 戦前期の内閣直属の物資動員・重要政策の企画立案機関である企画院の沼田多稼蔵の理解を得て陸軍へ進言するようになったという。
 
 

 1938年に朝鮮半島東部の江原道で
   是川鉱業
を設立させ、これを短期間で軌道に乗せた。
 その後、1943年には是川製鉄株式会社を設立させ従業員1万人を雇用する朝鮮有数の大企業となった。
 
 
 朝鮮総督だった小磯國昭と知遇を得てから、1944年の小磯内閣誕生の際には入閣要請を受けたものの事業に専念するため断った。
 
 
 太平洋戦後、日本の国策会社のオーナーであったため、新生朝鮮の警察に逮捕された。
 日本企業の資産を奪う目的があった朝鮮の対応を見て処刑を覚悟したが、朝鮮人を平等に扱っていたことから、嘆願運動が発展して釈放された。

 
 1960年に大阪府の泉北ニュータウン開発でも土地投機を行い3億円を得て、株式相場への復帰資金をつかんだ。

 
 
 なお、相場師として晩年となった昭和50年代に入ってから市場で話題となった。
 1976年の日本セメント、1979年の同和鉱業、1982年の不二家、1983年の丸善石油、平和不動産の株買い占め、仕手戦で名前が知られるようになった。
 
 最も良く知られたものは1981年から1982年にかけての住友金属鉱山の仕手戦であった。
 

 1981年9月に金属鉱業事業団(現独立行政法人石油天然ガス・金属鉱物資源機構)が鹿児島県の
   菱刈鉱山
で金鉱脈を発見したと発表した。
 
 是川は朝鮮で鉱業を営んでいた時の経験に基づき、いち早くこれに注目し現地視察を行った。
 
 住友金属鉱山株の買い占めを行った。
 買い占め前の8月の安値203円から仕手戦の様相となり暴騰したものの翌年3月に逆に利益確保が強まり大暴落してしまった。
 
 その後、是川がもつ隣接鉱区を住友金属鉱山が買取、金鉱開発に着手すると発表した後に4月の高値1230円まで株は高騰した。


 是川は約1500万株(本人の談話では名義書換を行ったのは1400万株)を買い占め200億円の巨利を得たとされるが大部分を税金で国庫に収めた。 
   
  
  
 
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2014年06月09日

田中平八 「天下の糸平」

田中平八
 (1834年8月15日(天保5年7月11日)
       - 1884年(明治17 年)6月8日)
 

 
 長野県(現在の駒ヶ根市)生まれの幕末、明治の実業家、本姓は藤島で幼名は釜吉、名は政春といった。
  
 生家は資産家であったが
   米と綿相場で失敗
し没落したため、三男の平八は1846年(弘化3 年)頃に現在の飯田市の魚屋に丁稚奉公に出された。
 
 
 1849年(嘉永2 年)頃に、魚屋として暖簾分けしてもらい独立り、1853年(嘉永6年)に田中はると結婚し、田中家の養子となり田中姓を名乗った。


 名古屋の伊勢町や大阪の堂島で市場取引が行われていた米相場に手を出したものの大損した。
   
 
 幕末期の神道無念流剣術の剣術家では千葉周作の玄武館や桃井春蔵の士学館と並んだ江戸三大道場の一つ
   練兵館
の創立者
   斎藤弥九郎
の門下生となった。
 
 同道場が長州藩の師弟への剣術教授をしていた関係もあり
   吉田松陰
   清河八郎
らと交わったとされる。
  

 水戸の天狗党の乱(1864年(元治元年)で挙兵後に参集した群衆の一人として参加した。
 挙兵は鎮圧されて捉えられ小伝馬町に投獄された。
 
 この投獄によって剣の道から離脱して商売に生きることを決意したともいわれている。
 
 
 横浜へ1858年(安政5 年)頃に出て、生糸・藍玉を扱う商売を始めた。

 その後、1865年(慶応元年)横浜で大和屋の後ろ盾を得て
   糸屋平八商店
を開業し、生糸・為替・洋銀・米相場に成功し巨利を得た。

 この成功により通称
   糸屋の平八
   天下の糸平
と呼ばれた。
 
 しかしいつまでも天下は続かず、1868 年(慶応4年)には、四日市から横浜に茶を運ぶ途中に所有していた船が難破し全財産を失った。


 その後、横浜金穀相場会所を1872年(明治5年)に設立し頭取に就任した。
 また、同時期に洋銀相場会所を設立している。


 相場師の諸戸清六今村清之助と組んでイギリス人貿易商や清国人商人を相手に仕手戦を仕掛けたが、資本にモノを言わせて買い捲ったものの追加資金が細くなって負けそうになったことから、偽札を作り見せ金とすることによって勝利した。

 しかし、これが露見してしまい信用がなくなり横浜での商売が出来なくなった。


 東京で田中組(後の田中銀行)を1876年(明治9年)に創立した。
 1878年(明治11 年)に
    渋沢喜作渋沢栄一の従兄)
を発起人として東京株式取引所の設立し、同時に大株主となった。


 東京米商会所(後の東京米穀取引所、現在の東京穀物商品取引所)の初代頭取として1883 年(明治16年)に就任した。
 
 また、この米商会所の株式を上場することで、後に、これも仕手戦と化し莫大な資金を確保することとなったという。
 
 
 晩年、病気となり熱海で療養中には私財を投じて熱海までの水道・電話線を架設した。


 座右の銘として
  相場は騎虎の勢い
が知られ、長女の名前も「とら」とするなど縁起を担ぐことも多かったようだ。
 
 また、横浜ではお倉という女将に富貴楼という待合をもたせた。


 子孫としては、長女とらの婿に糸平不動産や田中鉱山(後の田中鉱業)を興した三代目田中平八(北村菊次郎)、三代目田中平八の長男に日本のラグビーの父と言われる田中銀之助がいる。
  
  
  
 
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posted by まねきねこ at 20:41 | 愛知 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | バイオグラフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月01日

ヨハン・グーテンベルク 印刷機を発明

 
ヨハネス・ゲンズフライシュ・ツール・ラーデン・ツム・グーテンベルク
       Johannes Gensfleisch zur Laden zum Gutenberg
                  (1398年頃 - 1468年2月3日)
 
 
 ドイツ出身の金属加工職人 印刷業者
 活版印刷技術の発明者として広く知られている。

 
 グーテンベルクの古い記録は、裁判記録以外ほとんど残っていない。
 
 活版印刷技術の真の発明者は誰かという論争が古くから行われてきた。
 グーテンベルクとする説が最も有力である。
 
 1445年までに活版印刷技術を考案し、その機器の実用化に成功して、自ら印刷業・印刷物出版業を創設したといわれる。
 
 
 金属活字を使った印刷術を発明したことで印刷革命が始まりルネサンス、宗教改革、啓蒙時代、科学革命の発展に寄与した。

 
 1439年頃にヨーロッパで初めて活字による印刷を行った。
 
 活字量産方法の発明、油性インクの採用、当時使われていた農耕用スクリュープレスのような木製印刷機の採用など、様々な面で印刷に貢献している。
 
 
 グーテンベルクの活字生産方法の目新しい点は、古くから活字合金の発明とパンチ法と呼ばれる鋳造技法といわれている。

 活版印刷具は急速にヨーロッパ各地に普及し、さらに世界中に広まっていった。
 
 印刷技術は羅針盤、火薬とともに「ルネサンス三大発明」の一つにあげられる。
 
 
 
 ドイツの都市マインツの上流階級の織物の貿易商人
   フリーレ・ゲンスフライシュ・ツア・ラーデン
とその2番目の妻で商店主の娘であった
   エルゼ・ヴューリヒ
の間に末っ子として生まれた。
 
 

 13世紀以降、グーテンベルク一族は冶金業と商業に従事していた。父母の間には長男フリーレ(後に市参事会員)、長女エルゼが生まれ、次男として生まれたのがヨハネスであった


 当時のマインツでは市民と貴族の間で争いが繰り返されていた。その煽りでグーテンベルク一家は1411年以降、他の貴族たちと同じように、何度もマインツを離れて母が相続した地所を持っていたエルトフィレ・アム・ラインへ逃れることを余儀なくされた。
 
 
 成人したヨハネスは金属加工の腕を磨き、貨幣鋳造職人としてその手腕を高く評価されていた。
 
 ただ、母方の祖父が貴族でないという理由で貨幣鋳造業ギルドへの加入が認められなかった。
 
 1434年3月にグーテンベルクは金細工師としてシュトラースブルクの民兵組織に登録されている。
 
 1437年には裕福な商人に宝石研磨の技術を教えていた。
 
 1439年頃、グーテンベルクはアーヘンの巡礼者に聖火を写し取るといわれていた研磨した金属鏡を売るという事業に出資を募り、財政的問題を生じた。
 
 アーヘンではカール大帝の遺品を展示する計画があったが、深刻な洪水が発生したため1年延期された。
 
 そのため集めていた資金で使ってしまったぶんを返せなくなったのである。
 
 
 1440年、シュトラースブルクで自身の研究に基づく印刷術を完成させ1450年までには印刷所の運営を開始した。
 
 最初に印刷したのはドイツ語の詩と見られている。
 
 グーテンベルクはヨハン・フストという裕福な金貸しから事業資金を得ることに成功した。
 
 
 フストは設備費として800グルデンを貸し付け、二人は共同事業者として新規事業を立ち上げた。
 
 フストはパリで写字生の経験を持つ
   ペーター・シェッファー(1430年頃-1467年)
という青年をグーテンベルクのもとに連れてきた。
 
 シェッファーはいくつかの最初の書体をデザインしたと考えられている。
 
 シェッファーは後にフストの娘クリスティーナと結婚して婿になり、印刷業をビジネスとして成功させることになる。

 グーテンベルクは親戚が所有する Hof Humbrecht と呼ばれる建物を印刷所とした。
 
 
 フストからさらに800グルデンを借り、1452年から聖書の印刷を開始した。
 最も利益の上がった印刷は、教会向けの数千枚の贖宥状の印刷で、1454年から1455年ごろから印刷している。

 「グーテンベルク聖書」と呼ばれる最初の印刷聖書「四十二行聖書」は1455年に完成した。
 約180部を印刷し、多くは紙だが、一部は羊皮紙に印刷された。
 

 フストがグーテンベルクを訴えるという事態が起きグーテンベルクの印刷機と活字、印刷済みの聖書の半分などがすべて抵当としてフストの手に渡った。

 グーテンベルクはこの決定に従った。
 
 再び資金を集めて自宅の印刷所で書籍の印刷を続け、1459年頃にはバンベルクのアルブレヒト・プフィスター (Albrecht Pfister) の工房での『三十六行聖書』印刷に関与した。
  
 
 グーテンベルクには印刷日時や印刷者の名前を書物に入れるという発想がなかった。
 直接的な年代の確定が困難であった。
 
 
 グーテンベルクを追い出したフストとシェッファーは事業を順調に発展させ、1457年8月15日に出版した『マインツ詩篇』は世界で初めて奥付(コロフォン)に印刷日と印刷者名(フストとシェッファー)を入れた書籍として歴史に残ることになる。 
 

 1462年、マインツは対立する司教同士の争いに巻き込まれた。
 アドルフ2世大司教に従う軍勢がマインツを略奪し、グーテンベルクは自宅と印刷所を失ったためエルトフィレ・アム・ラインに逃れた。

 グーテンベルクは、印刷術考案の功績を讃えて1465年に
   アドルフ大司教
の宮廷に従者として召し抱えられる栄誉を得た。 
 なお、俸給として宮廷での衣装一式と、2,180リットルの穀物と2,000リットルの免税のワインを与えられている。

 グーテンベルクがひっそりと世を去ったのは3年後の1468年のことであった。
 
 
 
   
    
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posted by まねきねこ at 20:47 | 愛知 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | バイオグラフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする