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2014年06月27日

肥田 浜五郎 「日本の造船の父」


肥田 浜五郎
  (文政13年(1830年)1月
     −明治22年(1889年)4月27日)
 
 
 土岐氏庶流で岐阜県土岐市肥田町を発祥の地として肥田氏を名乗った。
 
 土岐肥田頼衡が観応3年(1352年)伊豆守に任ぜられ次男肥田二郎を守護代として肥田村に定住させたのが始まりとされる豆州肥田氏の末裔で幕末期の幕臣 技術者 明治期の官僚
 
 長崎海軍伝習所第二期生で諱は為良(ためよし)という。
  
 
 韮山代官江川英龍の手代見習として
   伊東玄朴
に蘭学を学び、長崎海軍伝習所で機関学を修めた。
 
 1859年(安政6年)に
   軍艦操練所教授方出役
となった。
 
 1860年(万延元年)、咸臨丸蒸気方(機関長)に選ばれた。
 山本金次郎(副長)、岡田井蔵、小杉雅之進(機関方見習士官)を率い、太平洋往還を成功に導いた。
 
 当時、病気だった勝海舟に代わり、肥田と小野友五郎(測量方)、浜口興右衛門(運用方)が操船の指揮をしていたという。

 帰国後、1861年(文久元年)、軍艦操練所頭取手伝出役を経て、軍艦頭取出役となる。
 

 1862年(文久2年)、幕府軍艦としては最初となる蒸気軍艦千代田形の蒸気機関を設計した。
 
 1863年(文久3年)、小十人格軍艦頭取、海路上洛する徳川家茂の御座舟翔鶴丸艦長を務めた。
 1864年(元治元年)、両番格軍艦頭取となる。

 1865年(慶応元年)、横須賀造船所の工作機械を購入のため、オランダに派遣された。
 この帰途、幕末から明治期(1865年から1876年)に横須賀造兵廠、横須賀海軍施設ドックや灯台、その他の近代施設の建設を指導することになる
   レオンス・ヴェルニー
と会見している。
 

 1866年(慶応2年)軍艦役、1868年(慶応4年)、軍艦頭に昇進、富士山丸艦長を務めた。
 

 明治維新後、静岡藩海軍学校頭となった。
 
 
 1869年(明治2年)8月15日民部省出仕となり、以後新政府に仕えた。
 
 工部少丞、次いで造船頭兼製作頭となり
   岩倉使節団理事官
として欧米各国を歴訪した。
 
 
 帰朝後は工部大丞、海軍大丞兼主船頭と進み1875年(明治7年)4月4日海軍少将となった。
 主船頭頭、横須賀造船所長、主船局長を経て1883年(明治15年)12月27日機関総監、1887年(明治19年)7月12日海軍機技総監、宮内省御料局長官などを歴任した。

 
 明治22年(1889年)4月27日、藤枝駅で走りはじめた列車に飛び乗ろうとして転落し死去した。
 
 
 なお、当時の列車に便所がなかった為、駅で用を足した後、無理に戻ろうとした為とされている。
 同年中に列車内への便所の設置が始まっているが、この事故も後押しした。
  
  
  
 
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2014年06月16日

本間 宗久 「出羽の天狗」

  
 
本間 宗久
   1724年(享保九年) - 1803年(享和三年)
 
 出羽庄内(現在の山形県酒田市)出身
 江戸時代の米商人で、酒田、大坂、江戸での米の商いで莫大な富を得た。
 後に出羽国米沢藩の第9代藩主上杉鷹山を補佐した酒田の豪商本間光丘は甥にあたる。
 
 
 大坂・堂島の相場師牛田権三郎と並び称される。幼名 久作
  
 
 
 酒田五法
 ・三山 ・・・ 酒田五法:三山
 ・三川 ・・・ 酒田五法:三川
 ・三空 ・・・ 酒田五法:三空
 ・三兵 ・・・ 酒田五法:三兵
 ・三法 ・・・ 酒田五法:三法
を発案し、ローソク足の考案者であると言われている。
 
 江戸時代、世界的に見て先駆的な先物市場であった大阪堂島、蔵前の米会所で、後の
   チャールズ・ダウ
と並んでテクニカル分析が行われており、200年以上がたった今でも、その基本的な手法が活用され酒田罫線法として伝わっている。
 
 
 
 本間宗久の父親は酒田の米屋「新潟屋」の本間原光である。
  
 宗久が16歳の時、8代将軍徳川吉宗が統治する江戸へ家業修行のための見聞を得るために遊学し帰省後酒田にて米相場における投機を父に進言した。
 
 しかし、手元にある資金を先物相場で現実には手元にない米を売買するといった偽りの行為について「商いの正道ではない」と容れられなかった。

 父原光の死後、後を継いだ長兄光寿も数年で隠居した。
  
 
 光寿は「新潟屋」の跡継ぎとして長兄の子光丘を家業修行のため愛媛「奈良屋」へ手代奉公として出した。
 
 その間は宗久を仮の主としたことで宗久は店の資金を元手に酒田の米相場で投機を行った。
 相場が見事当たり、一躍「新潟屋」身代を数万両単位で増資させた。
 
 
 甥の光丘が愛媛より帰郷したため、久作は仮の主の座を返した。
 
 光丘は「新潟屋」の経営方針を違える久作とは叔父甥の縁を切り店(たな)より追放してしまった。
 また、久作が投機で得た金の多くを防砂林等の公共事業へ寄付してしまっている。

 
 酒田を出た久作は江戸で米相場の投機を行うがこんどは目論見がことごとく外れ破産してしまった。
  
 
 失意の中で帰郷した久作は懸命に働き資金を蓄えて体勢を立て直し、今度は当時江戸以上の大市場であった大坂で再度投機を行うために出向いた。
  
 
 大坂の米相場では江戸の失敗を材料に相場の流れを読む手法を考案するなど才能を発揮し大勝利を繰り返し、「出羽の天狗」と称された。
 
 
 大阪で得た利益を持ち酒田で再度商いを始めたものの、相変わらず光丘からは縁を切られたままの状態が続いた。
 
 
 50歳になった久作は、名を宗久と改め江戸へ移った。
  
 ここでも相場に成功し多額の身代を作り出した影響もあり、出羽国米沢藩の藩政改革で上杉鷹山を補佐するようになっていた光丘とは長い間対立していたが和解がなった。
 
 その後は江戸で新潟屋の現物米とあわせて莫大な財産を手にしたという。
 
 
 宗久は酒田の米を売り本間家の勃興を側面から支えた。
 
 その活躍ぶりは、
   『酒田照る照る、堂島曇る、江戸の蔵米雨が降る。』
   『本間さまには及びもないが、せめてなりたや殿様に』
といった唄が流行るほどであったという。 
 
  
  
 
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2014年06月15日

最後の“相場師”是銀

 
 
是川銀蔵(これかわ・ぎんぞう)
  (1897年7月28日 - 1992年9月12日)
 

 兵庫県赤穂市の貧しい漁師の七人兄弟の末っ子
   小山銀蔵
として生まれた。
 
 もともとの小山の家は赤穂では有名な旧家であったが、明治維新で没落した。
  
 
 3才の時に赤穂から神戸へ転居し、尋常小学校を卒業した後、14歳で貿易商の
   好本商会
の丁稚となった。
 
 1914年に好本商会が倒産、一旗上げるべくロンドンを目指し出国した。
 中継地の中国の大連に着いたときにヨーロッパで第一次世界大戦が勃発した。
 
 
 日本軍が山東半島の龍口に上陸したため、軍との商売を目指して龍口へ移った。
 軍が青島へ向かうと徒歩で追いかけたという。
  
 手持ち資金が底をつき生死を彷徨いながらも軍の出入り商人となり、貿易会社小山洋行を設立した。
 

 食料品や桐を扱って利益を上げたが、軍の高官に対して饗応を行った為、1915年に
   贈賄容疑
で憲兵に逮捕された。
 ただ、未成年であったこと等を理由に無罪となり、日本に送り返された。

 
 約半年後、再び青島へ渡り現地の通貨である一厘銭を両替し、金属資源として売却する商売を始めた。
 

 一厘銭は亜鉛・銅・鉛の合金であり、戦争による金属資源の高騰から2倍以上の価値で売れ莫大な利益を上げた。
 
 
 その後、1916年に孫文を支援する日本軍に貸した3万円が返済されず、12月にドイツからの講和の打診により相場下落も影響して事業は破綻した。

 
 意気消沈として日本に戻り姉婿の縁で龍野市で貝ボタンの工場を経営した。
 
 
 質素な平々凡々とした生活に飽き足らず、自由に活動するために工場を兄に譲り1919年に大阪へ移った。
 
 
 伸鉄工場を作り、景気悪化の影響を受け倒産寸前であった亜鉛メッキ工場を安価に買収して
   大阪伸鉄亜鉛メッキ株式会社
を作り、260人の従業員を雇用するようになった。
 
 
 1923年に関東大震災の一報を受けるとバラックの需要を見越してトタン板と釘を買占め、巨利を得た。
 なお、この取引で得た利益は他人の不幸によるものであったため、半分を大阪府へ寄付したという。
 
 
 1927年に昭和金融恐慌が発生した際には預金していた銀行が破綻、会社運営の資金が消失してしまい支払いが出来ずに倒産してしまった。
 
 ただ、債権者達は理解があり、事業の継続を支持したものの経営者としての責任を取り是川は経営を債権者に任せて引退した。
 
 
 経済恐慌を経験したことで資本主義に対して懐疑的になり、3年間図書館に通い詰めて世界情勢、投資理論を独学
   恐慌は景気循環によって生じる予測可能な変動
であるとの理論を形成し、資本主義の仕組みは衰退しないと判断したという。

 
 1931年、34歳で70円を元手に大阪株式取引所で株式投資を始め、年末までに7000円に増やした。
 
 
 1933年に大阪堂島で「昭和経済研究所」(是川経済研究所)を設立し、研究と指導を行った。
 
 
 商品先物を扱う
   大阪三品取引所
では1935年に綿の世界的凶作を見越して綿を買い、売りに回った昭和綿花株式会社の
   駒村資平
と仕手戦を数ヶ月続けた。
 
 なお、買い方が優勢で約300万円の利益があった。
 ただ、欲が頭に入ってしまったのか駒村資平からの解け合いの申出を断った後に相場が反転し下落してしまい、逆に1万数千円の損失を受けた。

 
 諸外国の経済動向の調査から、アメリカ、イギリス、ソ連が水面下で
   極東に向けた軍拡
を行っていることを予測し、軍・財界・マスコミへ警告を行った。
 
 
 ただ、当時は米英との親善外交が主流であり憲兵隊などから取調べを受けた。
 
 戦前期の内閣直属の物資動員・重要政策の企画立案機関である企画院の沼田多稼蔵の理解を得て陸軍へ進言するようになったという。
 
 

 1938年に朝鮮半島東部の江原道で
   是川鉱業
を設立させ、これを短期間で軌道に乗せた。
 その後、1943年には是川製鉄株式会社を設立させ従業員1万人を雇用する朝鮮有数の大企業となった。
 
 
 朝鮮総督だった小磯國昭と知遇を得てから、1944年の小磯内閣誕生の際には入閣要請を受けたものの事業に専念するため断った。
 
 
 太平洋戦後、日本の国策会社のオーナーであったため、新生朝鮮の警察に逮捕された。
 日本企業の資産を奪う目的があった朝鮮の対応を見て処刑を覚悟したが、朝鮮人を平等に扱っていたことから、嘆願運動が発展して釈放された。

 
 1960年に大阪府の泉北ニュータウン開発でも土地投機を行い3億円を得て、株式相場への復帰資金をつかんだ。

 
 
 なお、相場師として晩年となった昭和50年代に入ってから市場で話題となった。
 1976年の日本セメント、1979年の同和鉱業、1982年の不二家、1983年の丸善石油、平和不動産の株買い占め、仕手戦で名前が知られるようになった。
 
 最も良く知られたものは1981年から1982年にかけての住友金属鉱山の仕手戦であった。
 

 1981年9月に金属鉱業事業団(現独立行政法人石油天然ガス・金属鉱物資源機構)が鹿児島県の
   菱刈鉱山
で金鉱脈を発見したと発表した。
 
 是川は朝鮮で鉱業を営んでいた時の経験に基づき、いち早くこれに注目し現地視察を行った。
 
 住友金属鉱山株の買い占めを行った。
 買い占め前の8月の安値203円から仕手戦の様相となり暴騰したものの翌年3月に逆に利益確保が強まり大暴落してしまった。
 
 その後、是川がもつ隣接鉱区を住友金属鉱山が買取、金鉱開発に着手すると発表した後に4月の高値1230円まで株は高騰した。


 是川は約1500万株(本人の談話では名義書換を行ったのは1400万株)を買い占め200億円の巨利を得たとされるが大部分を税金で国庫に収めた。 
   
  
  
 
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2014年06月09日

田中平八 「天下の糸平」

田中平八
 (1834年8月15日(天保5年7月11日)
       - 1884年(明治17 年)6月8日)
 

 
 長野県(現在の駒ヶ根市)生まれの幕末、明治の実業家、本姓は藤島で幼名は釜吉、名は政春といった。
  
 生家は資産家であったが
   米と綿相場で失敗
し没落したため、三男の平八は1846年(弘化3 年)頃に現在の飯田市の魚屋に丁稚奉公に出された。
 
 
 1849年(嘉永2 年)頃に、魚屋として暖簾分けしてもらい独立り、1853年(嘉永6年)に田中はると結婚し、田中家の養子となり田中姓を名乗った。


 名古屋の伊勢町や大阪の堂島で市場取引が行われていた米相場に手を出したものの大損した。
   
 
 幕末期の神道無念流剣術の剣術家では千葉周作の玄武館や桃井春蔵の士学館と並んだ江戸三大道場の一つ
   練兵館
の創立者
   斎藤弥九郎
の門下生となった。
 
 同道場が長州藩の師弟への剣術教授をしていた関係もあり
   吉田松陰
   清河八郎
らと交わったとされる。
  

 水戸の天狗党の乱(1864年(元治元年)で挙兵後に参集した群衆の一人として参加した。
 挙兵は鎮圧されて捉えられ小伝馬町に投獄された。
 
 この投獄によって剣の道から離脱して商売に生きることを決意したともいわれている。
 
 
 横浜へ1858年(安政5 年)頃に出て、生糸・藍玉を扱う商売を始めた。

 その後、1865年(慶応元年)横浜で大和屋の後ろ盾を得て
   糸屋平八商店
を開業し、生糸・為替・洋銀・米相場に成功し巨利を得た。

 この成功により通称
   糸屋の平八
   天下の糸平
と呼ばれた。
 
 しかしいつまでも天下は続かず、1868 年(慶応4年)には、四日市から横浜に茶を運ぶ途中に所有していた船が難破し全財産を失った。


 その後、横浜金穀相場会所を1872年(明治5年)に設立し頭取に就任した。
 また、同時期に洋銀相場会所を設立している。


 相場師の諸戸清六今村清之助と組んでイギリス人貿易商や清国人商人を相手に仕手戦を仕掛けたが、資本にモノを言わせて買い捲ったものの追加資金が細くなって負けそうになったことから、偽札を作り見せ金とすることによって勝利した。

 しかし、これが露見してしまい信用がなくなり横浜での商売が出来なくなった。


 東京で田中組(後の田中銀行)を1876年(明治9年)に創立した。
 1878年(明治11 年)に
    渋沢喜作渋沢栄一の従兄)
を発起人として東京株式取引所の設立し、同時に大株主となった。


 東京米商会所(後の東京米穀取引所、現在の東京穀物商品取引所)の初代頭取として1883 年(明治16年)に就任した。
 
 また、この米商会所の株式を上場することで、後に、これも仕手戦と化し莫大な資金を確保することとなったという。
 
 
 晩年、病気となり熱海で療養中には私財を投じて熱海までの水道・電話線を架設した。


 座右の銘として
  相場は騎虎の勢い
が知られ、長女の名前も「とら」とするなど縁起を担ぐことも多かったようだ。
 
 また、横浜ではお倉という女将に富貴楼という待合をもたせた。


 子孫としては、長女とらの婿に糸平不動産や田中鉱山(後の田中鉱業)を興した三代目田中平八(北村菊次郎)、三代目田中平八の長男に日本のラグビーの父と言われる田中銀之助がいる。
  
  
  
 
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2014年06月01日

ヨハン・グーテンベルク 印刷機を発明

 
ヨハネス・ゲンズフライシュ・ツール・ラーデン・ツム・グーテンベルク
       Johannes Gensfleisch zur Laden zum Gutenberg
                  (1398年頃 - 1468年2月3日)
 
 
 ドイツ出身の金属加工職人 印刷業者
 活版印刷技術の発明者として広く知られている。

 
 グーテンベルクの古い記録は、裁判記録以外ほとんど残っていない。
 
 活版印刷技術の真の発明者は誰かという論争が古くから行われてきた。
 グーテンベルクとする説が最も有力である。
 
 1445年までに活版印刷技術を考案し、その機器の実用化に成功して、自ら印刷業・印刷物出版業を創設したといわれる。
 
 
 金属活字を使った印刷術を発明したことで印刷革命が始まりルネサンス、宗教改革、啓蒙時代、科学革命の発展に寄与した。

 
 1439年頃にヨーロッパで初めて活字による印刷を行った。
 
 活字量産方法の発明、油性インクの採用、当時使われていた農耕用スクリュープレスのような木製印刷機の採用など、様々な面で印刷に貢献している。
 
 
 グーテンベルクの活字生産方法の目新しい点は、古くから活字合金の発明とパンチ法と呼ばれる鋳造技法といわれている。

 活版印刷具は急速にヨーロッパ各地に普及し、さらに世界中に広まっていった。
 
 印刷技術は羅針盤、火薬とともに「ルネサンス三大発明」の一つにあげられる。
 
 
 
 ドイツの都市マインツの上流階級の織物の貿易商人
   フリーレ・ゲンスフライシュ・ツア・ラーデン
とその2番目の妻で商店主の娘であった
   エルゼ・ヴューリヒ
の間に末っ子として生まれた。
 
 

 13世紀以降、グーテンベルク一族は冶金業と商業に従事していた。父母の間には長男フリーレ(後に市参事会員)、長女エルゼが生まれ、次男として生まれたのがヨハネスであった


 当時のマインツでは市民と貴族の間で争いが繰り返されていた。その煽りでグーテンベルク一家は1411年以降、他の貴族たちと同じように、何度もマインツを離れて母が相続した地所を持っていたエルトフィレ・アム・ラインへ逃れることを余儀なくされた。
 
 
 成人したヨハネスは金属加工の腕を磨き、貨幣鋳造職人としてその手腕を高く評価されていた。
 
 ただ、母方の祖父が貴族でないという理由で貨幣鋳造業ギルドへの加入が認められなかった。
 
 1434年3月にグーテンベルクは金細工師としてシュトラースブルクの民兵組織に登録されている。
 
 1437年には裕福な商人に宝石研磨の技術を教えていた。
 
 1439年頃、グーテンベルクはアーヘンの巡礼者に聖火を写し取るといわれていた研磨した金属鏡を売るという事業に出資を募り、財政的問題を生じた。
 
 アーヘンではカール大帝の遺品を展示する計画があったが、深刻な洪水が発生したため1年延期された。
 
 そのため集めていた資金で使ってしまったぶんを返せなくなったのである。
 
 
 1440年、シュトラースブルクで自身の研究に基づく印刷術を完成させ1450年までには印刷所の運営を開始した。
 
 最初に印刷したのはドイツ語の詩と見られている。
 
 グーテンベルクはヨハン・フストという裕福な金貸しから事業資金を得ることに成功した。
 
 
 フストは設備費として800グルデンを貸し付け、二人は共同事業者として新規事業を立ち上げた。
 
 フストはパリで写字生の経験を持つ
   ペーター・シェッファー(1430年頃-1467年)
という青年をグーテンベルクのもとに連れてきた。
 
 シェッファーはいくつかの最初の書体をデザインしたと考えられている。
 
 シェッファーは後にフストの娘クリスティーナと結婚して婿になり、印刷業をビジネスとして成功させることになる。

 グーテンベルクは親戚が所有する Hof Humbrecht と呼ばれる建物を印刷所とした。
 
 
 フストからさらに800グルデンを借り、1452年から聖書の印刷を開始した。
 最も利益の上がった印刷は、教会向けの数千枚の贖宥状の印刷で、1454年から1455年ごろから印刷している。

 「グーテンベルク聖書」と呼ばれる最初の印刷聖書「四十二行聖書」は1455年に完成した。
 約180部を印刷し、多くは紙だが、一部は羊皮紙に印刷された。
 

 フストがグーテンベルクを訴えるという事態が起きグーテンベルクの印刷機と活字、印刷済みの聖書の半分などがすべて抵当としてフストの手に渡った。

 グーテンベルクはこの決定に従った。
 
 再び資金を集めて自宅の印刷所で書籍の印刷を続け、1459年頃にはバンベルクのアルブレヒト・プフィスター (Albrecht Pfister) の工房での『三十六行聖書』印刷に関与した。
  
 
 グーテンベルクには印刷日時や印刷者の名前を書物に入れるという発想がなかった。
 直接的な年代の確定が困難であった。
 
 
 グーテンベルクを追い出したフストとシェッファーは事業を順調に発展させ、1457年8月15日に出版した『マインツ詩篇』は世界で初めて奥付(コロフォン)に印刷日と印刷者名(フストとシェッファー)を入れた書籍として歴史に残ることになる。 
 

 1462年、マインツは対立する司教同士の争いに巻き込まれた。
 アドルフ2世大司教に従う軍勢がマインツを略奪し、グーテンベルクは自宅と印刷所を失ったためエルトフィレ・アム・ラインに逃れた。

 グーテンベルクは、印刷術考案の功績を讃えて1465年に
   アドルフ大司教
の宮廷に従者として召し抱えられる栄誉を得た。 
 なお、俸給として宮廷での衣装一式と、2,180リットルの穀物と2,000リットルの免税のワインを与えられている。

 グーテンベルクがひっそりと世を去ったのは3年後の1468年のことであった。
 
 
 
   
    
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2014年05月29日

丹羽 保次郎 NE式写真電送装置を開発

丹羽 保次郎
  1893年(明治26年)4月1日
      - 1975年(昭和50年)2月28日)
 
 NE式写真電送装置を開発した技術者
 
 東京電機大学初代学長で日本の十大発明家の一人として数えられる。
 
 従三位勲一等工学博士
 三重県松阪市名誉市民(第1号)

 
 1916年に東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業後
   逓信省電気試験所
を経て1924年6月日本電気に入社した。
 
 同年から翌1925年末にかけ欧米へ最新の通信技術を学びに視察した。
 
 1926年2月工学博士、学位論文の題は「矩形枠捲線輪特ニ其誘導系数ノ計算方法ニ関スル研究」である。
 
 
 帰国後、同社の研究開発体制の強化を担当し1927年技術部長となる。
 
 
 写真電送の研究に取り組み始め
   小林正次
と共にNE式写真電送装置を完成させた。
 
 
 この装置は大阪毎日新聞社に採用され、1928年の昭和天皇の即位大礼の写真電送に使用された。
 翌1929年には東京〜伊東間での長距離無線写真電送の実験に成功した。

 1939年には新設の研究所の初代所長に就任し電波探知機などの研究を指揮した。

 
 1949年に東京電機大学初代学長に就任した。
 1955年社団法人テレビジョン学会初代会長に就任した。
 1959年に文化勲章受章、1971年には勲一等瑞宝章を授与される。
 
 
 
   
    
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2014年05月20日

鈴木梅太郎 米糠を脚気の予防に使えることを発見

鈴木 梅太郎
 (1874年4月7日 - 1943年9月20日)
 
 
 戦前の日本の農芸化学者
 
 米糠を脚気の予防に使えることを発見した事で有名になった。
 勲等は勲一等瑞宝章
 帝国学士院会員。文化勲章受章者。
 
 東京帝国大学名誉教授で理化学研究所設立者のひとり。


 静岡県榛原郡堀野新田村で農業を営む
   鈴木庄蔵
の次男として生まれた。

 
 帝国大学農科大学(現東京大学農学部)農芸化学科を卒業、東京帝国大学教授を務めるとともに
   理化学研究所
の設立者として名を連ねた。
 
 東京帝国大学を退官後は東京農業大学農芸化学科教授に就任している。
 

 1887年に東遠義塾が開講したため入塾した。その後、1888年5月15日に単身徒歩にて上京している。

 東京神田の日本英学館に入学後、東京農林学校予備校に入学した。

 1889年に東京農林学校入学した。翌年、東京農林学校は帝国大学農科大学と改称された。

 
 1893年に帝国大学農科大学予科、1896年に帝国大学農科大学農芸化学科を卒業して大学院に入った。
 
 
 1901年にベルリン大学に留学、エミール・フィッシャーのもとで、ペプチド合成の研究に従事した。
 
 
 1906年に帰国し盛岡高等農林学校教授となった。
 1917年に理化学研究所主任研究員となった。

 1910年(明治43年)6月14日、東京化学会で
   白米の食品としての価値並に動物の脚気様疾病に関する研究
を報告した。
 
 この報告では、ニワトリとハトを白米で飼育すると脚気様の症状がでて死ぬこと。
 糠と麦と玄米には脚気を予防して快復させる成分があること。
 白米はいろいろな成分が欠乏していることを認めた。
 
 
 糠の有効成分に強い興味をもった鈴木は、以後その成分の化学抽出をめざして努力した。
 
 同年12月13日の東京化学会で第一報を報告し、翌1911年(明治44年)1月の東京化学会誌に論文「糠中の一有効成分に就て」が掲載された。
 
 糠の有効成分(のちにオリザニンと命名)は、抗脚気因子にとどまらず、ヒトと動物の生存に不可欠な未知の栄養素であることを強調していた。
 
 その後の「ビタミン」の概念をはっきり提示していたが「これは新しい栄養素である」という一行が訳出されなかったため、オリザニンは世界的な注目を受けることがなく、第一発見者としては日本国内で知られるのみとなってしまった。
  
 
 糠の有効成分は、濃縮して樹脂状の塊(粗製オリザニン)を得たものの、結晶にいたらなかった。
 
 
 1911年10月1日にオリザニンを発売したものの、都築甚之助の精糠剤
   アンチベリベリン(
がよく売れたのに対し、なかなか医学界に受け入れられなかった。
 
 8年後の1919年(大正8年)になって始めて
   島薗順次郎
がオリザニンを使った脚気治療報告を行った。


 
 国民の脚気死亡者は、日中戦争の拡大などにより食糧事情が悪化するまで、毎年1万人から2万人で推移した。 
 
 
 ビタミンを初めて抽出したとして世界的に知られるのは
   カジミール・フンク
である。
 ビタミンの名称は彼の命名によるものとされる。

 
 1922年には合成清酒を発明、1924年に「理研酒『利久』」の名称で市販された。
 
 その後の「三倍増醸清酒」開発の基礎ともなった。 

 
 
 
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2014年05月18日

三島 徳七 MK鋼の発明者

三島 徳七
 (1893年2月24日 - 1975年11月19日)
 
 
 兵庫県津名郡広石村(現 洲本市五色町広石)生まれの冶金学者
 日本の産業技術進歩に大きな役割を果たしたMK鋼の発明者として知られる。
 日本学術会議会員、日本学士院会員、文化勲章受章。

 
 鉄にニッケルを加えたニッケル鋼は磁石とならない。
 これに、さらにアルミニウムを加えた合金は永久磁石(MK磁石)に適していることを1931年に発見した。
  
 
 1917年にKS鋼を発明した東北帝国大学の
   本多光太郎
は磁石開発における競争相手であった。
  
 
 このKS鋼に比べ、MK鋼は材料価格も安く、製造費用を抑えることができた。
 
 本多は、1934年にMK鋼を上回る新KS鋼を開発し、MK鋼とほぼ同水準の材料を作りあげている。

 

 淡路島で農業を営む喜住甚平の7人兄弟の末っ子として生まれた。
 1913年に立教中学を首席で卒業し、書生をしながら苦学して東京帝国大学に入学した。
 その後に主任教授の三島家の養子となった。
 
 
 1920年に東京帝国大学工学部鉄冶金学料卒業後、東京帝国大学講師、1921年に東京帝国大学助教授となった。
  
 
 1928年に学位論文「ニツケル」及「ニツケル」合金ノ焼鈍脆性を作成したのち1931年に「MK磁石」と命名された画期的な永久磁石を発明した。
 

 東京大学教授退官後、日本鋳物協会会長、日本シェルモールド協会会長、綜合鋳物センター会長、新技術開発事業団開発審議会会長、日本鉄鋼協会会長、日本金属学会会長など各種機関の会長を歴任した。
 

  
 
 
 
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2014年05月13日

池田 菊苗 「うま味」の発見

池田 菊苗
 1864年10月8日(元治元年9月8日)
           - 1936年5月3日)
 
 
 戦前日本の化学者。
 
 薩摩藩士池田春苗の次男として京都で出生。
 京都府中学、大学予備門を経て、1880年から大阪衛生試験所で化学を学んだ。

 帝国大学理科大学化学科(現東京大学理学部化学科)を1889年に卒業、大学院へ進学する。

 1891年に高等師範学校教授。1896年に東京帝国大学理科大学化学科の助教授となる。

 
 1899年より、物理化学研究のためにドイツ・ライプツィヒ大学オストワルド研究室に1年半留学する。

 1901年5月から10月までロンドンに滞在し夏目漱石と同じ下宿に住んだ。
 以降親交を持った。
 帰国後、東京帝国大学教授に昇進、1902年に理学博士の学位を取得した。

 
 1907年、酸甘塩苦の4基本味以外の味成分を「うま味」と名づけた。
 
 単離研究に着手し昆布の旨み成分が
   グルタミン酸ナトリウム
であることを発見した。
 
 翌1908年にグルタミン酸ナトリウムを主成分とする調味料の製造方法を発明し特許を取得した。
 
 
 1909年5月、うまみ調味料「味の素」が鈴木製薬所(現 味の素株式会社)から発売された。
 なお、菊苗はグルタミン酸を、「具留多味酸」と表記した。

 
 1917年に理化学研究所の創立に参加し同所の化学部長に就任した。

 弟子である小玉新太郎が1913年に鰹節のうま味成分であるイノシン酸を発見した。
 また、1960年にはグアニル酸のうま味が、国中明博士によって解明されている。
  
 
 
 
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2014年05月07日

蔡倫 紙の発明

 
蔡倫(さい りん、50年? - 121年?)
 
 中国後漢代の宦官
 字名は敬仲
 
 製紙法を改良し、実用的な紙の製造普及に多大な貢献をした人物として知られる。
  
 
 桂陽(現在 湖南省郴州市)で生まれた。
 
 明帝の永平末年(75年)から宦官として宮廷に登用された。
 章帝代には位の低い「小黄門」であったが、和帝即位後の89年には「中常侍」にまで登り詰めた。
 
 97年には剣などの武器類やさまざまな品物の製作監督や製造技術確立を任務とする尚方令という役職を得た。
 
 
 105年(元興元年)、蔡倫は樹皮・麻クズ・破れた魚網などの材料を用いて実用に耐える紙を製造した。
 これを和帝に献上した。
 
 
 その製法は、細かく砕いた材料を水に溶かし、竹を編んで作成した簀で漉い上げ、乾かす工程を経て完成された。
 
 これは蔡倫の独創ではなく、既に絹製品を製造する過程で生じた絹糸や真綿の屑を用いて、同じ手法で「絮」(じょ)と呼ばれる防寒などに用いられた安価な不織布が製造されていたという。
 
 蔡倫はこの手法など既存の技術を集約・改善したもの。
 
 なお、当時「紙」とは「絮」のような絹くずから作られたものを指した。
 そのため蔡倫が発明した紙は
   「蔡侯紙」
という尊称を用いて区別された。
 

 蔡侯紙を献上した105年に和帝が没した。幼くして帝位を継いだ殤帝も1年で亡くなった。
 
 当時政治の実権を握っていたケ太后は、章帝の皇太子たる地位を廃され清河孝王となった劉慶の息子劉祜(当時 13歳)を安帝として擁立した。
 
 ケ太后は摂政として、外戚と宦官を併用しつつ実権を握った。
 
 蔡倫は114年に竜亭侯に封ぜられた。
 
 
 121年にケ太后が亡くなると、安帝が宦官の協力を得てケ一族の粛清した。
 
 父劉慶が皇太子を廃された理由を調査したところ祖母宋貴人が巫蠱の呪詛をしたという讒言があり自殺に追い込まれたことを突き止めた。
 
 82年に宋貴人の呪詛が事実であると報告をしたのが小黄門の蔡倫だったことも明らかになり安帝は蔡倫に廷尉への出頭を勅命した。
 
 ただ、士大夫は礼を守り刑には及ばないという考え方があった。
 そのため、廷尉出頭の勅命を帯びた使者は毒薬とともにこれを伝えるのが慣例となっていた。
 
 蔡倫もこれに従い、沐浴し衣服を整え、毒を飲んで死んだ。
  
 
 
 
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2014年05月06日

ニコラス・コペルニクス 地動説を提唱した天文学者

ニコラス・コペルニクス
   (1473年〜1543年)
  
 
 ポーランドで数学と美術を学んだ。
 その後イタリアに行って医学・宗教・天文学を学んだ。
 
 
 コペルニクスは、宇宙の中心に地球ではなく太陽をもってくれば、さまざまな疑問が解決できるのではと考えた。
 
 この新しい考え方による惑星の位置の計算法を数学的な方法で確立した。
 
 
 これによって、それまでの天動説では説明がつかなかった惑星の奇妙な動きが、うまく説明(地動説)できた。
 
 コペルニクスの地動説は、中世の科学観を追放するきっかけとなった。
   
 
 
 
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2014年04月27日

グスタフ・ナハティガル 中央アフリカの探検を行った。

 
グスタフ・ナハティガル
   Gustav Nachtigal
     1823年2月23日−1885年4月20日

 
 ブランデンブルク辺境伯領のアイヒシュテットに生まれた。
 
 父はルター派の牧師であった。
 
 ハレ大学、ヴュルツブルク大学、グライフスヴァルト大学で医学を修め、その後、軍医として数年勤務した。
 
 母国の寒冷な気候が健康に害となったため、北アフリカのアルジェとチュニスに移住した。そこで医師としていくつかの探検隊に参加した。
 
 
 1868年、プロイセン王ヴィルヘルム1世の命令を受けた探険家
   ゲルハルト・ロルフス
と出会い、2年に及ぶ探検行に同行した。
 
 
 ナハティガルはのちにこの経験を
   「サハラとスーダン」
と題する本に書き、名声を得た。
 
 
フランスがチュニジアに保護領を建てたのを受け、ドイツ帝国の領事として1884年までチュニスにとどまった。
 
 その後、特別顧問として1884年初頭
   オットー・フォン・ビスマルク
によって西アフリカ探検に派遣された。
 
 これは表向きはドイツが商業活動を行う条件を調査するためのものだった。

 実際には西アフリカをドイツ領に組み込むことを目的としていた。
 
 
 ナハティガルはメーヴェ号(ドイツ語 かもめの意)で出発し、ギニア湾沿岸を探検した。
 
 
 1884年7月5日にはトーゴにドイツの旗を立て、7月14日にはカメルーンのドゥアラをドイツの保護領であると宣言した。
 
 これらは外国折衝の末、ドイツ帝国の版図に加えられている。

 
 ナハティガルは8月8日、カメルーンを出帆した。
 アフリカからの帰途、パルマス岬沖で1885年4月20日に病気のためなくなり、グランド・バッサムに葬られている。
  
  
 
 
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2014年04月21日

岡田 弥三右衛門 蝦夷地に進出した近江商人

 
 
岡田 八十次
 
 慶長から元和年間(1596年 - 1624年)に蝦夷地へ進出した老舗近江商人のひとり。
 
 屋号は松前で恵比寿屋、近江で松前屋として商売をしていた。
 
 歴代当主が襲名した名称でもある。
 (なお、第6代まで弥三右衛門を当主名として用いた)
 
 
岡田 弥三右衛門
  永禄11年(1568年) - 承応3年(1654年)
 
 江戸時代初期の商人で、蝦夷地に進出した近江商人で岡田八十次家の初代。
 
 
 近江国では、織田信長の天下統一の侵攻で六角氏が衰退、浅井氏が滅亡したの後、多くの家臣等が帰農、又は商人へと転じていった。
 
 岡田家の初代は岡田藤左衛門で元武士の家柄とされる。
 
 岡田弥三右衛門は永禄11年(1568年)の頃、蒲生郡加茂村(現在の滋賀県近江八幡市)に生まれ、安土城下で商売を営んでいた。
 
 本能寺の変で織田信長政権が崩壊した後安土城も落城し火を放たれた街は衰退した。
 
 
 天正14年(1586年)豊臣秀次八幡城築城を契機に八幡城下爲心町に新たに店を設けたものの、豊臣秀吉の命令で秀次が高野山で自害させられその後八幡城の廃城となった。
 
 
 再び商売が悪化して街が衰退すると、慶長年間(1596年 - 1615年)に呉服太物を抱えて奥州に行商を始めた。
 
 現地では八戸を拠点とし、大いに蓄財をなしたという。
 
 

 更に松前藩家臣
   工藤平右衛門
の助力を受けて松前(現北海道松前町)に進出し、蝦夷地に呉服・太物・荒物を販売する支店を大松前に開き、屋号を「恵比須屋」とした。
 
 次第に松前藩(藩主 松前 慶広)の信任を受けて、蝦夷地の千石船を用い海産物を北前船を活用して出羽から北陸・上方へと運んだ。
 
 また、蝦夷地における漁場経営や物資の調達を請け負ったりして御用商人として活躍した。
 
 弥三右衛門は岡田家の蝦夷地での基盤を作り上げ、慶安3年(1651年)に郷里近江八幡で死去したという。
 
 子孫も松前の支店を拠点として蝦夷地における近江商人の中心的存在として活動した。
 両浜町人の代表的商家の一つとなった。
 
 なお、岡田家第10代の時には小樽内・古平・礼文・利尻など23ケ所で場所請負を行っていた。
 

 12代目・13代目が北海道の開発事業に参加して小樽の町の基盤整備を行ったり、北海道で炭礦や農場を経営したり、更には九州地方でも事業展開を見せた。
 
 海外との競争が激しくなり、景気変動の大きな変化に対応が出来ず過ぎた事業も多くあり次第に経営が苦しくなり、明治34年(1901年)に13代で破産を余儀なくされた。


  
 
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2014年04月20日

滝定助 名古屋の実業家


瀧 定助
  1869(明治2)年1月15日
      −1932(昭和7)年10月27日
   明治-昭和時代前期の名古屋の実業家。
  
 
 もともと瀧家は名古屋近郊の丹羽郡東野村古知野(現 愛知県江南市)の豪農であったという。
 
 
 初代瀧浜右衛門は、京都にで呉服、織物の知識を習得、その後、帰郷して絹織物の卸売商を宝暦元年(1751年)に「絹屋」を創業(現タキヒヨーの創業)した。
 
 
 二代目瀧浜右衛門は事業拡大を志して江戸を視察し、尾張地方で製造される
   木綿
を江戸で販売し、その帰りに関東の織物を仕入れて名古屋で販売するルートを開拓することに成功し、急成長のきっかけをつかんだ。
 
 
 天保の飢饉では
   窮民の救済
につとめた功績で尾張藩より苗字帯刀が許され、藩の御勝手御用達を命じられた。

 二代目瀧浜右衛門には男子がいなかったので長女と次女に婿養子をとった。
 
 長女の婿養子三代目瀧浜右衛門は若くして死去し、次女の婿養子とは離縁してしまった。
  
 
 長女の子(二代目瀧浜右衛門の孫)を本家の跡継ぎとして四代目瀧浜右衛門を襲名した。
 
 
 また、次女の子(二代目瀧浜右衛門の孫)を
   瀧定助
     (正太郎 幼名泰治朗)
として本家に引き取って育てた。
  
 
 初代となる瀧定助は祖父である
   瀧浜右衛門(了意)
が営む「絹屋定助」の暖簾を1864年(元治元年)に19歳で継承して、名古屋東万町で呉服太物卸商を営んだ。
 
 明治以降は「瀧定商店」「瀧定助商店」と称していった。
 
 
 定助は家業の絹織物卸売商だけでなく、貸金業や不動産投資にも手を広げてたちまち本家を圧倒する存在となった。
 
 明治39年滝定(たきさだ)合名会社に改組して代表社員となる。
  
 
 その後も事業を拡大し名古屋銀行頭取、東陽倉庫、帝国撚糸織物などの社長をはじめ幅広く実業界に進出したうえで名古屋商工会議所副会頭をつとめた。

 
 
 四代目瀧浜右衛門も瀧定助に対抗して古知野から名古屋に進出して商売をしようとした。

 祖父の二代目瀧浜右衛門が事業の活発化に反対したため、目論見が潰され頓挫した。
 
 
 二代目瀧浜右衛門の死去に伴って、1875年に本店を古知野から名古屋に移転させることが出来た。
 
 1888年には店名を
   「瀧浜右衛門商店(通称瀧浜)」
と改、さらに、京都支店、東京支店も開業していった。 

 1890年には愛知織物合資会社(のちに呉羽紡績に吸収合併されて現東洋紡)、1896年には帝国撚糸を設立した。

 
  
 
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2014年04月17日

茂木惣兵衛 取り扱った生糸量は日本一

茂木惣兵衛
 1827(文政10)年−1894(明治27)年8月
 
 上野国(群馬県)高崎市の質商
   「大黒屋」茂木惣七
の長男として生れ、惣次郎といった。 
 
 1837(天保8)年惣兵衞と改正した。
 
 
 ペリー提督の要求で江戸幕府が日米通商修好条約を締結し横浜が開港されると惣兵衛は生糸商
   野沢屋(野沢庄三郎)
に勤務した。
 
 野沢庄三郎が病没すると野沢屋の暖簾を譲り受け横浜市弁天通4丁目(現2丁目)に自分の店舗を構えた。
 なお、屋号はかつてと同じ野澤屋呉服店としている。
  
 
 生糸の商いに励み資産を蓄積していき横浜で惣兵衛が存命中に取り扱った生糸量は、生糸売込商人中ほぼ第一位であったといわれる。
 
 
 1869(明治2)年には横浜為替会社(第二国立銀行に改組)の頭取となり、1874(明治7)年には第二国立銀行や横浜取引所の副頭取となった。
 
 1881(明治14)年には第七十四銀行の頭取になった。
  
 
 明治14年横浜において外国商社に対抗して
   居留地貿易慣習改善
のために設立した連合生糸荷預所では
   原善三郎
   渋沢喜作
らと共に取締役に就任し組織闘争を行った。
 
 1890(明治23)年には原善三郎の後任として横浜生糸貿易商組合長になった。
 
 
 生糸で財をなした惣兵衛は横浜市戸部に別荘も構え、熱海には梅林を作った。
 
 
 没後は二代目、三代目と引継ぎ、1896年、名古屋滝定助次男泰次郎(茂木惣兵衛の養子 3代目茂木惣兵衛)が
   合名会社茂木商店
と同時に茂木銀行(後の七十四銀行)を設立した。
 
 1910年には横浜伊勢佐木町1丁目にデパートメントストアとして支店を開設した。
 
 合名会社茂木商店の綜合商社化を試みたが1919年11月には世界恐慌の影響が直撃し「野澤屋呉服店」と「七十四銀行」(横浜七十四銀行と改称、現在 横浜銀行)を整理する状況まで追い込まれ1920(大正9)年ついに茂木合名会社は経営破綻した。
 
 
 亀井株式会社初代社長で横浜の資産家で生糸商の
   亀井信次郎
は事業整理のため、名古屋の資産家滝定合名会社社長
   滝定助
   (3代目茂木惣兵衛の兄、4代目茂木惣兵衛の伯父)
に野澤屋呉服店の営業続行を願い出たところ滝定助は90万円を支出し、名古屋の松坂屋などの出資を仰いだうえ野澤屋呉服店の土地建物一切を買収して社長に就任し1921年に野沢屋呉服店を復活させた。現在は
   横浜松坂屋
と改称して営業を継続している。
 
 
 なお、建物は2004(平成16)年12月、市歴史的建造物に指定された。
 
 
 
 
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2014年04月15日

阿部市郎兵衛 近江国能登川の商人

阿部市郎兵衛
 近江国能登川の近江商人で屋号は『紅屋』
 
 江戸時代後期、麻布問屋として
   『能登川の阿部』家
は、『五個荘の山中』家と『高宮の堤』家と共に
   『近江三福』
の一つと言われた。
 
 また、阿部家は本家と分家が乗合店として共同で経営しており、明治維新期も阿部一族として乗合事業を展開した。
 

 本家・分家が乗合で事業を展開することは近江商人としては珍しい方式。
 これが故に、活用できる資本が大きくなったことで他の近江商人家と異なり、一族それぞれが経済界に重きを置くことができた。

 
 阿部奥右衛門
   阿部市郎兵衛家の家祖とする。
  阿部市郎兵衛 (4代)専祐
    江戸時代中期の人。3代市郎兵衛の子
    娘に養子を迎え阿部市太郎家を建てた。
  阿部市郎兵衛 (5代)常省
    (明和4年(1767年)-天保6年3月(1835年4月)、4代市郎兵衛の子)
    麻布商を営み、紅染め業を始め「紅市」の名を広める。
    享和の頃には利子をとり3-6ヵ月間の延べ売り(掛け売り)販売を始めた。
    利子収入も加わり富を蓄えた。
  阿部市郎兵衛 (6代)浄廉
    (寛政8年(1796年)-安政5年1月(1858年2月、5代市郎兵衛の子)
    麻布・海産物なども扱い、北海道、奥羽に販路を広げ豪商となる。
  阿部市郎兵衛 (7代)蓮永
    (天保8年(1837年)-明治37年(1904年)
     2代市太郎の長男で6代市郎兵衛の養子
    金巾製織(現在の東洋紡績の前身のひとつ)、近江銀行等の創業者の一人。
  阿部市郎兵衛 (8代)浄幸
    (生年不詳-明治35年(1902年)
     2代市三郎の長男・7代市郎兵衛の養子
  阿部シゲ
     市郎兵衛家9代目当主。

 

 阿部市太郎家
  4代市郎兵衛の娘婿。
  阿部市太郎 (2代)
     阿部市郎兵衛 (5代)の子。
  阿部市太郎 (3代)
     2代市太郎の次男(7代市郎兵衛の弟)
     金巾製織創業者の一人。
   阿部房次郎
     3代市太郎の娘すゑ子の入婿
     東洋紡績社長、江商(後の兼松江商(現兼松)創業者の一人。
   阿部市次郎
     5代市郎兵衛の子。
   阿部彦太郎
     市次郎の長男で阿部彦将軍と呼ばれた相場師。
   阿部市三郎
     5代市郎兵衛の子。
   阿部市三郎 (2代)
     2代市太郎の子(7代市郎兵衛の弟)。
   阿部利兵衛
     5代市郎兵衛の子。
   阿部周吉
     第3代利兵衛家当主。
     2代利兵衛の娘なをの入婿。
   阿部元寿
     第4代利兵衛家当主
     膳所藩筆頭家老戸田資慶の長男、3代周吉の娘はつの入婿。
 
 
 
 
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2014年04月13日

アーネスト・ヘンリー・シャクルトン アイルランド生まれの探検家

 
アーネスト・ヘンリー・シャクルトン
       Sir Ernest Henry Shackleton
         (1874年2月15日 - 1922年1月5日)
 

 アイルランド生まれのイギリスの探検家アーネスト・シャクルトンは優れたリーダーシップを発揮した1人として挙げられ。
  
 
 1914年、シャクルトン率いる
   大英帝国南極横断隊
はエンデュアランス号で南極大陸に向かった。
 
 途中で遭難し南極の海では氷の塊の中に閉じ込められてしまう。
 
 そのまま約10ヶ月間漂流した後、ついに船が沈没してしまい南極大陸横断の計画は完全に頓挫した。

 船から持ち出した最小限の備品を使って
   氷上でキャンプ生活
をしながら、脱出のタイミングを探った。
 
 脱出の機会を得た一行は、救命ボートに乗って荒海へと出発、何とかエレファント島へとたどり着いた。
 
 
 隊員の中には体力の消耗が激しい者が含まれていたため、シャクルトンと体力の残っている5人の計6人でエレファント島の北東1,300kmにある捕鯨基地のあるサウスジョージア島へ再び出航した。
 
 サウスジョージア島に到着したものの捕鯨基地とは全く反対側の地点で島にある山脈を越える必要があった。
 
 
 シャクルトンは、5人の中からさらに体力が残っている者2人を選んで捕鯨基地に到達することが出来た。

 イギリスを出発してから約2年後、遭難等で体力が弱った隊員を各地に残してきが善人救助され、シャクルトン以外の隊員27名全員が奇跡的に生還を遂げた。
 
 
 当時は装備が貧弱であったため誰かが死ぬのが当たり前ともいわれた南極探検において、遭難という状況にも陥ったのに全員生還させた判断力がリーダーとしての素質が注目される。
 
  
  
 
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2014年04月12日

フランシス・ボーフォート ビューフォート風力階級の提唱者

 
フランシス・ボーフォート
      Francis Beaufort
       (1774年5月7日 - 1857年12月17日)
 
 アイルランド出身の海洋学者、気象学者、水路学者、探検家
  海軍提督で少将
 
 
  Beaufort はビューフォートとされることも多い。
 
 
 1787年にイギリス海軍に入隊、1805年から海洋測量をした。
 
 1806年に風力を0から12までの13段階で表し、それに対応した海上の様相
   ビューフォート風力階級
についての表を作成した。
 
 その後、より客観的な風速と風力階級も対応付けられた。
  
 
 1829年から1854年まで同軍隊の水路監に就任した。
 
 ボーフォート風力階級(ビューフォート風力階級)はボーフォートが航海日誌に自身の定義で記したもので、1839年から正式に定義付けられ、広く使われるようになった。

 1857年に死去した。
  
  
 
 
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2014年04月11日

ジョージ・フレッチャー・モー オーストラリア初期の植民者の一人

 
ジョージ・フレッチャー・モー
     George Fletcher Moore
       (1798年12月10日 - 1886年12月30日)
 
 
 オーストラリア初期の植民者の一人
 
 西オーストラリア州初期の支配階級の中心を担った一人で数多い遠征と探求を行った。
  
 
 パース地区のアボリジニの言語採取と記録を行った最も早い人物。
 後年『Diary of Ten Years Eventful Life of an Early Settler in Western Australia』を著した。
 
 
 アイルランドのティロン州DonemanaのBond's Glenで生まれた。
 
 ロンドンデリーのフォイル・カレッジ、次いでダブリンの トリニティ・カレッジで学んだ。
 
 
 1820年に法律学を修めて卒業した。
 
 その後、6年間アイルランド法曹界の中央本部である
   キングスイン(King's Inns)
で働いたものの、そこではあまり出世を望めないことがわかり、植民地で司法のキャリアを積む決心をした。
 
 
 オーストラリアに最近できたスワン川植民地( Swan River Colonyに目をつけて、公務で出向くことが出来ないかを植民地省Colonial Officeに問い合わせたものの同所の人事は西オーストラリア州政府の
   ジェームス・スターリン卿
          (James Stirling)
が管轄していたため、植民地省は回答出来なかった。
 
 ただ、移住するならば紹介状を用意するとだけモーに約束した。

 移住を決断しクレオパトラ号でダブリンを出航し1830年10月30日にスワン川植民地に到着した。
 
 植民地の行政を管掌していた
   ウィリアム・マッキー
         (William Mackie)
がモーのために、小治安裁判法廷と12月上旬の四季裁判法廷の裁判長のポストを用意していた。
 

 モーは、その職務に就任する前にスワン川植民地の用地払い下げや農場開拓における諸問題に目を向けた。
 
 11月末頃までにモーは、彼自身は行った事は無いが7月にロバート・デールが探検し良い土地だと保証したエイボン谷 (Avon Valley) の開発所有を申し出た。
  
 
 またウィリアム・ラムが爵位を受けるために必要だった
   アッパースワン開発
        (Upper Swan)
を、補助金の半分を受け取ることを条件に引き受けた。

 
 1831年9月、ロバート・デールがギルフォード (Guildford) からアッパースワンまでの道路建設のため多くの人手を連れて向かった。
 モーも同行して予定通りヨーク (York) に入ったモーとデールは、エイボン川 (Avon River) について多くの発見をした。
 
 この探索でモーは、内陸地にある遥かに優れた牧草地の情報をたくさん得た。

 
 1832年2月、モーは当初に希望していた司法の職を得て、民事法廷委員となった。
 
 
 俸給と肥沃な領地を手中に、モーは多くの使用人を雇い入れ農場経営の拡充を図った。
 翌年には、彼の植民地は最も多くの羊を所有する大農場のひとつとなった。
 

 モーは、当地のアボリジニに対して友好的な態度を一貫して持っていた。
 白人優先主義が強い時代としては特異な例と言える。

 
 
 1833年5月には犯罪者として指名手配されていたアボリジニの
   イェーガン
と会った際に彼の言い分を聞き、同年中ごろにはパース・ガゼット紙に現地アボリジニの習慣に関する記事を寄稿している。
 
 植民化によって土地を奪われた現地人への補償や、キリスト教化の促進についても熱心に主張した。
 
 
 開拓者のひとりロバート・リオン (Robert Lyon) がアボリジニの言葉を学ぼうとした際には資金を援助し、モー自身も一緒に習得に努めた。

 
  
 1834年7月、裁判所におけるモーの役職はマッキーに引き継がれ、代わりに司法長官に任命された。 
  
 
 モーは知事であるスターリン卿の政策を良しとせず、多く反対の行動をとった。
 特に1835年3月以降スターリンが提案したアボリジニに対抗する
   騎馬警察
の募兵については、執拗なまでに反対を続けた。

 
 1839年初頭、ジョン・ハット (John Hutt) が行政官に就任した。
  
 モーがオーストラリアに戻った1843年頃、スワン川植民地は景気後退の時期にあった。
 その後数年にわたって地主たちを襲う不況を和らげるための施策が多く提案された。
  
 
 モーは地主層の不始末こそ不景気の原因だと非難して、これらの施策案にことごとく反対を表明した。 1846年10月29日、モーはクラーク行政官の義理の娘であるファニーと結婚した。
 
 同年の12月、クラーク行政官と植民長官のピーター・ブラウン (Peter Broun) は深刻な病に臥した。
 モーは医師からクラークへの面会を許可された数少ないひとりで、11月にモーは次代の植民長官に任命された。
 なお、ブラウンは同じ月に亡くなり、クラークも翌年2月に没した。
 

 モーは後任のリチャード・マッデンが到着した1848年3月まで、行政官代行
   フレデリック・アーウィン (Frederick Irwin)
の下で職を全うした。
 
 
 不人気なモーを遠ざけるため、マッデンと新任行政官チャールズ・フィッツジェラルド (Charles Fitzgerald) は、モーを行政への影響が与えられないようにした。

 そのため、1852年初頭、モーは休暇を取るためオーストラリアを去りアイルランドへ戻った。
 
 妻の精神状態を考慮したことが大きかったためだが、健康の回復は見られなかったため西オーストラリアへ戻ることを拒絶した。
 
 そのためモーは現地でのあらゆる役職を失い、また恩給も得ることが出来なかった。
 
 なお、妻ファニー・モーは1863年に亡くなったが、モーは西オーストラリア州に戻ろうとしなかった。

  
  
 
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posted by まねきねこ at 09:49 | 愛知 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | バイオグラフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月10日

ティム・セヴェリン 英国の冒険家

 
ティム・セヴェリン
    Tim Severin
      (1940年 - )
 
 
 アイルランド在住の英国の冒険家で作家。
 これまでに文学や歴史、伝説に題材を得た数多くの探検を実現させた。
  
 
 オックスフォード大学で地理学を学び学生時代に最初の大規模な冒険として
   マルコ・ポーロ
の足跡をオートバイで辿ることを試みた。
 
 
 1976年から1977年にかけて
   聖ブレンダン
の航海伝説を検証するために、アイルランド西海岸地方の伝統的な
   革張りのボート「カラハ」
でアイルランドからニューファンドランド島までの実験航海を行った。
 
 
 1980年から1981年にかけてはアラビアの伝統的な
   木造帆船ダウ
でマスカットから広州までの航海を実行した。
 
 1980年代中には古代ギリシアのガレー船を復元して、イアソンとアルゴ船の伝説を検証すべくギリシアから黒海への航海を行った。
 
 また、オデュッセウスの伝説を検証するためトロイアからイタキ島までの航海を行うなどガレー船での2度の実験航海を行った。
 
 
 その後、陸上での冒険に舞台を移し
   ゴドフロワ・ド・ブイヨン
の足跡を追って騎馬でフランスからエルサレムへと旅を行った。
 
 
 モンゴル帝国の騎兵たちの移動経路をやはり騎馬で辿るため、モンゴルからゴビ砂漠を越えてカザフスタンに入る冒険を行った。

 
 1993年には徐福の伝説に想を得て
   竹の筏
による香港・北米大陸間の横断を試みたが西経145度の海域で筏が崩壊し、航海は失敗した。

 
 1990年代中盤にはカイ諸島の伝統的な
   航海カヌー「プラフ・カルリス」
を現地の船大工を雇って建造し
   アルフレッド・ラッセル・ウォレス
の足跡を辿って香料諸島を巡る航海を行ったがインドネシア政府の怠慢により研究ビザの発給が受けられないままの見切り発進となった。
 ただ、最終的には航海の意義に感動した現地の役人により、ビザ無しでの長期滞在は不問とされている。
 
 
 1990年代後半には、メルヴィルの『白鯨』に登場する
   モビー・ディック
のモデルを探してヌク・ヒヴァ、フィリピン、トンガ、インドネシアなどの海を巡った。
 
 
 最近では2000年代初頭にはロビンソン・クルーソーが流された島を探してチリ沖やカリブ海を回った。
 
  
  
 
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posted by まねきねこ at 08:49 | 愛知 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | バイオグラフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする