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2014年04月20日

滝定助 名古屋の実業家


瀧 定助
  1869(明治2)年1月15日
      −1932(昭和7)年10月27日
   明治-昭和時代前期の名古屋の実業家。
  
 
 もともと瀧家は名古屋近郊の丹羽郡東野村古知野(現 愛知県江南市)の豪農であったという。
 
 
 初代瀧浜右衛門は、京都にで呉服、織物の知識を習得、その後、帰郷して絹織物の卸売商を宝暦元年(1751年)に「絹屋」を創業(現タキヒヨーの創業)した。
 
 
 二代目瀧浜右衛門は事業拡大を志して江戸を視察し、尾張地方で製造される
   木綿
を江戸で販売し、その帰りに関東の織物を仕入れて名古屋で販売するルートを開拓することに成功し、急成長のきっかけをつかんだ。
 
 
 天保の飢饉では
   窮民の救済
につとめた功績で尾張藩より苗字帯刀が許され、藩の御勝手御用達を命じられた。

 二代目瀧浜右衛門には男子がいなかったので長女と次女に婿養子をとった。
 
 長女の婿養子三代目瀧浜右衛門は若くして死去し、次女の婿養子とは離縁してしまった。
  
 
 長女の子(二代目瀧浜右衛門の孫)を本家の跡継ぎとして四代目瀧浜右衛門を襲名した。
 
 
 また、次女の子(二代目瀧浜右衛門の孫)を
   瀧定助
     (正太郎 幼名泰治朗)
として本家に引き取って育てた。
  
 
 初代となる瀧定助は祖父である
   瀧浜右衛門(了意)
が営む「絹屋定助」の暖簾を1864年(元治元年)に19歳で継承して、名古屋東万町で呉服太物卸商を営んだ。
 
 明治以降は「瀧定商店」「瀧定助商店」と称していった。
 
 
 定助は家業の絹織物卸売商だけでなく、貸金業や不動産投資にも手を広げてたちまち本家を圧倒する存在となった。
 
 明治39年滝定(たきさだ)合名会社に改組して代表社員となる。
  
 
 その後も事業を拡大し名古屋銀行頭取、東陽倉庫、帝国撚糸織物などの社長をはじめ幅広く実業界に進出したうえで名古屋商工会議所副会頭をつとめた。

 
 
 四代目瀧浜右衛門も瀧定助に対抗して古知野から名古屋に進出して商売をしようとした。

 祖父の二代目瀧浜右衛門が事業の活発化に反対したため、目論見が潰され頓挫した。
 
 
 二代目瀧浜右衛門の死去に伴って、1875年に本店を古知野から名古屋に移転させることが出来た。
 
 1888年には店名を
   「瀧浜右衛門商店(通称瀧浜)」
と改、さらに、京都支店、東京支店も開業していった。 

 1890年には愛知織物合資会社(のちに呉羽紡績に吸収合併されて現東洋紡)、1896年には帝国撚糸を設立した。

 
  
 
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2014年04月17日

茂木惣兵衛 取り扱った生糸量は日本一

茂木惣兵衛
 1827(文政10)年−1894(明治27)年8月
 
 上野国(群馬県)高崎市の質商
   「大黒屋」茂木惣七
の長男として生れ、惣次郎といった。 
 
 1837(天保8)年惣兵衞と改正した。
 
 
 ペリー提督の要求で江戸幕府が日米通商修好条約を締結し横浜が開港されると惣兵衛は生糸商
   野沢屋(野沢庄三郎)
に勤務した。
 
 野沢庄三郎が病没すると野沢屋の暖簾を譲り受け横浜市弁天通4丁目(現2丁目)に自分の店舗を構えた。
 なお、屋号はかつてと同じ野澤屋呉服店としている。
  
 
 生糸の商いに励み資産を蓄積していき横浜で惣兵衛が存命中に取り扱った生糸量は、生糸売込商人中ほぼ第一位であったといわれる。
 
 
 1869(明治2)年には横浜為替会社(第二国立銀行に改組)の頭取となり、1874(明治7)年には第二国立銀行や横浜取引所の副頭取となった。
 
 1881(明治14)年には第七十四銀行の頭取になった。
  
 
 明治14年横浜において外国商社に対抗して
   居留地貿易慣習改善
のために設立した連合生糸荷預所では
   原善三郎
   渋沢喜作
らと共に取締役に就任し組織闘争を行った。
 
 1890(明治23)年には原善三郎の後任として横浜生糸貿易商組合長になった。
 
 
 生糸で財をなした惣兵衛は横浜市戸部に別荘も構え、熱海には梅林を作った。
 
 
 没後は二代目、三代目と引継ぎ、1896年、名古屋滝定助次男泰次郎(茂木惣兵衛の養子 3代目茂木惣兵衛)が
   合名会社茂木商店
と同時に茂木銀行(後の七十四銀行)を設立した。
 
 1910年には横浜伊勢佐木町1丁目にデパートメントストアとして支店を開設した。
 
 合名会社茂木商店の綜合商社化を試みたが1919年11月には世界恐慌の影響が直撃し「野澤屋呉服店」と「七十四銀行」(横浜七十四銀行と改称、現在 横浜銀行)を整理する状況まで追い込まれ1920(大正9)年ついに茂木合名会社は経営破綻した。
 
 
 亀井株式会社初代社長で横浜の資産家で生糸商の
   亀井信次郎
は事業整理のため、名古屋の資産家滝定合名会社社長
   滝定助
   (3代目茂木惣兵衛の兄、4代目茂木惣兵衛の伯父)
に野澤屋呉服店の営業続行を願い出たところ滝定助は90万円を支出し、名古屋の松坂屋などの出資を仰いだうえ野澤屋呉服店の土地建物一切を買収して社長に就任し1921年に野沢屋呉服店を復活させた。現在は
   横浜松坂屋
と改称して営業を継続している。
 
 
 なお、建物は2004(平成16)年12月、市歴史的建造物に指定された。
 
 
 
 
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2014年04月15日

阿部市郎兵衛 近江国能登川の商人

阿部市郎兵衛
 近江国能登川の近江商人で屋号は『紅屋』
 
 江戸時代後期、麻布問屋として
   『能登川の阿部』家
は、『五個荘の山中』家と『高宮の堤』家と共に
   『近江三福』
の一つと言われた。
 
 また、阿部家は本家と分家が乗合店として共同で経営しており、明治維新期も阿部一族として乗合事業を展開した。
 

 本家・分家が乗合で事業を展開することは近江商人としては珍しい方式。
 これが故に、活用できる資本が大きくなったことで他の近江商人家と異なり、一族それぞれが経済界に重きを置くことができた。

 
 阿部奥右衛門
   阿部市郎兵衛家の家祖とする。
  阿部市郎兵衛 (4代)専祐
    江戸時代中期の人。3代市郎兵衛の子
    娘に養子を迎え阿部市太郎家を建てた。
  阿部市郎兵衛 (5代)常省
    (明和4年(1767年)-天保6年3月(1835年4月)、4代市郎兵衛の子)
    麻布商を営み、紅染め業を始め「紅市」の名を広める。
    享和の頃には利子をとり3-6ヵ月間の延べ売り(掛け売り)販売を始めた。
    利子収入も加わり富を蓄えた。
  阿部市郎兵衛 (6代)浄廉
    (寛政8年(1796年)-安政5年1月(1858年2月、5代市郎兵衛の子)
    麻布・海産物なども扱い、北海道、奥羽に販路を広げ豪商となる。
  阿部市郎兵衛 (7代)蓮永
    (天保8年(1837年)-明治37年(1904年)
     2代市太郎の長男で6代市郎兵衛の養子
    金巾製織(現在の東洋紡績の前身のひとつ)、近江銀行等の創業者の一人。
  阿部市郎兵衛 (8代)浄幸
    (生年不詳-明治35年(1902年)
     2代市三郎の長男・7代市郎兵衛の養子
  阿部シゲ
     市郎兵衛家9代目当主。

 

 阿部市太郎家
  4代市郎兵衛の娘婿。
  阿部市太郎 (2代)
     阿部市郎兵衛 (5代)の子。
  阿部市太郎 (3代)
     2代市太郎の次男(7代市郎兵衛の弟)
     金巾製織創業者の一人。
   阿部房次郎
     3代市太郎の娘すゑ子の入婿
     東洋紡績社長、江商(後の兼松江商(現兼松)創業者の一人。
   阿部市次郎
     5代市郎兵衛の子。
   阿部彦太郎
     市次郎の長男で阿部彦将軍と呼ばれた相場師。
   阿部市三郎
     5代市郎兵衛の子。
   阿部市三郎 (2代)
     2代市太郎の子(7代市郎兵衛の弟)。
   阿部利兵衛
     5代市郎兵衛の子。
   阿部周吉
     第3代利兵衛家当主。
     2代利兵衛の娘なをの入婿。
   阿部元寿
     第4代利兵衛家当主
     膳所藩筆頭家老戸田資慶の長男、3代周吉の娘はつの入婿。
 
 
 
 
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2014年04月13日

アーネスト・ヘンリー・シャクルトン アイルランド生まれの探検家

 
アーネスト・ヘンリー・シャクルトン
       Sir Ernest Henry Shackleton
         (1874年2月15日 - 1922年1月5日)
 

 アイルランド生まれのイギリスの探検家アーネスト・シャクルトンは優れたリーダーシップを発揮した1人として挙げられ。
  
 
 1914年、シャクルトン率いる
   大英帝国南極横断隊
はエンデュアランス号で南極大陸に向かった。
 
 途中で遭難し南極の海では氷の塊の中に閉じ込められてしまう。
 
 そのまま約10ヶ月間漂流した後、ついに船が沈没してしまい南極大陸横断の計画は完全に頓挫した。

 船から持ち出した最小限の備品を使って
   氷上でキャンプ生活
をしながら、脱出のタイミングを探った。
 
 脱出の機会を得た一行は、救命ボートに乗って荒海へと出発、何とかエレファント島へとたどり着いた。
 
 
 隊員の中には体力の消耗が激しい者が含まれていたため、シャクルトンと体力の残っている5人の計6人でエレファント島の北東1,300kmにある捕鯨基地のあるサウスジョージア島へ再び出航した。
 
 サウスジョージア島に到着したものの捕鯨基地とは全く反対側の地点で島にある山脈を越える必要があった。
 
 
 シャクルトンは、5人の中からさらに体力が残っている者2人を選んで捕鯨基地に到達することが出来た。

 イギリスを出発してから約2年後、遭難等で体力が弱った隊員を各地に残してきが善人救助され、シャクルトン以外の隊員27名全員が奇跡的に生還を遂げた。
 
 
 当時は装備が貧弱であったため誰かが死ぬのが当たり前ともいわれた南極探検において、遭難という状況にも陥ったのに全員生還させた判断力がリーダーとしての素質が注目される。
 
  
  
 
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2014年04月12日

フランシス・ボーフォート ビューフォート風力階級の提唱者

 
フランシス・ボーフォート
      Francis Beaufort
       (1774年5月7日 - 1857年12月17日)
 
 アイルランド出身の海洋学者、気象学者、水路学者、探検家
  海軍提督で少将
 
 
  Beaufort はビューフォートとされることも多い。
 
 
 1787年にイギリス海軍に入隊、1805年から海洋測量をした。
 
 1806年に風力を0から12までの13段階で表し、それに対応した海上の様相
   ビューフォート風力階級
についての表を作成した。
 
 その後、より客観的な風速と風力階級も対応付けられた。
  
 
 1829年から1854年まで同軍隊の水路監に就任した。
 
 ボーフォート風力階級(ビューフォート風力階級)はボーフォートが航海日誌に自身の定義で記したもので、1839年から正式に定義付けられ、広く使われるようになった。

 1857年に死去した。
  
  
 
 
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2014年04月11日

ジョージ・フレッチャー・モー オーストラリア初期の植民者の一人

 
ジョージ・フレッチャー・モー
     George Fletcher Moore
       (1798年12月10日 - 1886年12月30日)
 
 
 オーストラリア初期の植民者の一人
 
 西オーストラリア州初期の支配階級の中心を担った一人で数多い遠征と探求を行った。
  
 
 パース地区のアボリジニの言語採取と記録を行った最も早い人物。
 後年『Diary of Ten Years Eventful Life of an Early Settler in Western Australia』を著した。
 
 
 アイルランドのティロン州DonemanaのBond's Glenで生まれた。
 
 ロンドンデリーのフォイル・カレッジ、次いでダブリンの トリニティ・カレッジで学んだ。
 
 
 1820年に法律学を修めて卒業した。
 
 その後、6年間アイルランド法曹界の中央本部である
   キングスイン(King's Inns)
で働いたものの、そこではあまり出世を望めないことがわかり、植民地で司法のキャリアを積む決心をした。
 
 
 オーストラリアに最近できたスワン川植民地( Swan River Colonyに目をつけて、公務で出向くことが出来ないかを植民地省Colonial Officeに問い合わせたものの同所の人事は西オーストラリア州政府の
   ジェームス・スターリン卿
          (James Stirling)
が管轄していたため、植民地省は回答出来なかった。
 
 ただ、移住するならば紹介状を用意するとだけモーに約束した。

 移住を決断しクレオパトラ号でダブリンを出航し1830年10月30日にスワン川植民地に到着した。
 
 植民地の行政を管掌していた
   ウィリアム・マッキー
         (William Mackie)
がモーのために、小治安裁判法廷と12月上旬の四季裁判法廷の裁判長のポストを用意していた。
 

 モーは、その職務に就任する前にスワン川植民地の用地払い下げや農場開拓における諸問題に目を向けた。
 
 11月末頃までにモーは、彼自身は行った事は無いが7月にロバート・デールが探検し良い土地だと保証したエイボン谷 (Avon Valley) の開発所有を申し出た。
  
 
 またウィリアム・ラムが爵位を受けるために必要だった
   アッパースワン開発
        (Upper Swan)
を、補助金の半分を受け取ることを条件に引き受けた。

 
 1831年9月、ロバート・デールがギルフォード (Guildford) からアッパースワンまでの道路建設のため多くの人手を連れて向かった。
 モーも同行して予定通りヨーク (York) に入ったモーとデールは、エイボン川 (Avon River) について多くの発見をした。
 
 この探索でモーは、内陸地にある遥かに優れた牧草地の情報をたくさん得た。

 
 1832年2月、モーは当初に希望していた司法の職を得て、民事法廷委員となった。
 
 
 俸給と肥沃な領地を手中に、モーは多くの使用人を雇い入れ農場経営の拡充を図った。
 翌年には、彼の植民地は最も多くの羊を所有する大農場のひとつとなった。
 

 モーは、当地のアボリジニに対して友好的な態度を一貫して持っていた。
 白人優先主義が強い時代としては特異な例と言える。

 
 
 1833年5月には犯罪者として指名手配されていたアボリジニの
   イェーガン
と会った際に彼の言い分を聞き、同年中ごろにはパース・ガゼット紙に現地アボリジニの習慣に関する記事を寄稿している。
 
 植民化によって土地を奪われた現地人への補償や、キリスト教化の促進についても熱心に主張した。
 
 
 開拓者のひとりロバート・リオン (Robert Lyon) がアボリジニの言葉を学ぼうとした際には資金を援助し、モー自身も一緒に習得に努めた。

 
  
 1834年7月、裁判所におけるモーの役職はマッキーに引き継がれ、代わりに司法長官に任命された。 
  
 
 モーは知事であるスターリン卿の政策を良しとせず、多く反対の行動をとった。
 特に1835年3月以降スターリンが提案したアボリジニに対抗する
   騎馬警察
の募兵については、執拗なまでに反対を続けた。

 
 1839年初頭、ジョン・ハット (John Hutt) が行政官に就任した。
  
 モーがオーストラリアに戻った1843年頃、スワン川植民地は景気後退の時期にあった。
 その後数年にわたって地主たちを襲う不況を和らげるための施策が多く提案された。
  
 
 モーは地主層の不始末こそ不景気の原因だと非難して、これらの施策案にことごとく反対を表明した。 1846年10月29日、モーはクラーク行政官の義理の娘であるファニーと結婚した。
 
 同年の12月、クラーク行政官と植民長官のピーター・ブラウン (Peter Broun) は深刻な病に臥した。
 モーは医師からクラークへの面会を許可された数少ないひとりで、11月にモーは次代の植民長官に任命された。
 なお、ブラウンは同じ月に亡くなり、クラークも翌年2月に没した。
 

 モーは後任のリチャード・マッデンが到着した1848年3月まで、行政官代行
   フレデリック・アーウィン (Frederick Irwin)
の下で職を全うした。
 
 
 不人気なモーを遠ざけるため、マッデンと新任行政官チャールズ・フィッツジェラルド (Charles Fitzgerald) は、モーを行政への影響が与えられないようにした。

 そのため、1852年初頭、モーは休暇を取るためオーストラリアを去りアイルランドへ戻った。
 
 妻の精神状態を考慮したことが大きかったためだが、健康の回復は見られなかったため西オーストラリアへ戻ることを拒絶した。
 
 そのためモーは現地でのあらゆる役職を失い、また恩給も得ることが出来なかった。
 
 なお、妻ファニー・モーは1863年に亡くなったが、モーは西オーストラリア州に戻ろうとしなかった。

  
  
 
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2014年04月10日

ティム・セヴェリン 英国の冒険家

 
ティム・セヴェリン
    Tim Severin
      (1940年 - )
 
 
 アイルランド在住の英国の冒険家で作家。
 これまでに文学や歴史、伝説に題材を得た数多くの探検を実現させた。
  
 
 オックスフォード大学で地理学を学び学生時代に最初の大規模な冒険として
   マルコ・ポーロ
の足跡をオートバイで辿ることを試みた。
 
 
 1976年から1977年にかけて
   聖ブレンダン
の航海伝説を検証するために、アイルランド西海岸地方の伝統的な
   革張りのボート「カラハ」
でアイルランドからニューファンドランド島までの実験航海を行った。
 
 
 1980年から1981年にかけてはアラビアの伝統的な
   木造帆船ダウ
でマスカットから広州までの航海を実行した。
 
 1980年代中には古代ギリシアのガレー船を復元して、イアソンとアルゴ船の伝説を検証すべくギリシアから黒海への航海を行った。
 
 また、オデュッセウスの伝説を検証するためトロイアからイタキ島までの航海を行うなどガレー船での2度の実験航海を行った。
 
 
 その後、陸上での冒険に舞台を移し
   ゴドフロワ・ド・ブイヨン
の足跡を追って騎馬でフランスからエルサレムへと旅を行った。
 
 
 モンゴル帝国の騎兵たちの移動経路をやはり騎馬で辿るため、モンゴルからゴビ砂漠を越えてカザフスタンに入る冒険を行った。

 
 1993年には徐福の伝説に想を得て
   竹の筏
による香港・北米大陸間の横断を試みたが西経145度の海域で筏が崩壊し、航海は失敗した。

 
 1990年代中盤にはカイ諸島の伝統的な
   航海カヌー「プラフ・カルリス」
を現地の船大工を雇って建造し
   アルフレッド・ラッセル・ウォレス
の足跡を辿って香料諸島を巡る航海を行ったがインドネシア政府の怠慢により研究ビザの発給が受けられないままの見切り発進となった。
 ただ、最終的には航海の意義に感動した現地の役人により、ビザ無しでの長期滞在は不問とされている。
 
 
 1990年代後半には、メルヴィルの『白鯨』に登場する
   モビー・ディック
のモデルを探してヌク・ヒヴァ、フィリピン、トンガ、インドネシアなどの海を巡った。
 
 
 最近では2000年代初頭にはロビンソン・クルーソーが流された島を探してチリ沖やカリブ海を回った。
 
  
  
 
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2014年04月09日

本間 宗久 相場の神様

本間 宗久
 1724年(享保9年)
    〜1803年(享和3年)
 
 
 江戸時代の出羽庄内(現在の山形県酒田市)出身の米商人
 酒田、大坂、江戸での米の商いで莫大な富を得た。
 
 なお、財政危機にあった米沢藩主
   上杉鷹山
を補佐した酒田の豪商本間光丘は甥にあたる。
 

 父は酒田の米屋
  新潟屋
の本間原光である。
  
 
 8代将軍吉宗治世の時代、16歳の時に江戸へ遊学し帰省後酒田にて
  米相場での投機
を父に進言したものの
  商いの正道ではない
と相手にされず、大阪の米相場で才能を発揮した。
 
 
 後に江戸に移り、ここでも成功し
  相場の神様
  出羽の天狗
と呼ばれた。
 
 父原光の死後、後を継いだ長兄光寿が数年で隠居した。
 
 跡継ぎとして子光丘を家業修行のため愛媛
   奈良屋
へ手代奉公とし、その間は宗久を仮の主とした。
 

 宗久は店の資金で酒田の米相場で投機を行った。
 この投機は大成功し一躍「新潟屋」の身代を数万両単位で増資させた。
 
 この成果に伴い光丘と「新潟屋」の主人の座を代わり、大坂、江戸で、新潟屋の現物米とあわせて莫大な財産を手にすることになる。
 
 
 本間宗久は酒田五法を考案したとされ、当時先駆的な先物市場であった、堂島、蔵前の米会所で、後の
   チャールズ・ダウ
と並んでテクニカル分析の先駆者の一人として経済学上名高いものである。
 

 200年以上がたった現在でもなお、その基本的な手法は有効であるとされている。

 ただ、宗久翁秘録、酒田戦術詳解、本間宗久相場三昧伝といった書物が、宗久の手になるものとして現在に伝わるものの真偽は不明である。
 
 
 
 
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2014年04月08日

ゴンサロ・ヴェーリョ・カブラル 1431年にフォルミガス島を、1432年にはサンタマリア島を発見

 
ゴンサロ・ヴェーリョ・カブラル
      Gonçalo Velho Cabral(生没年不明)
 
 
 15世紀のポルトガルの航海者、探検家
 
 エンリケ航海王子に仕えた航海者の中でも特に信頼があるキリスト騎士団に属する騎士。
 
 
 1427年のディオゴ・デ・シルヴェスによるサンミゲル島の発見して以後、後にアゾレス諸島と呼ばれることとなる周辺の海域において探索行を行った。
 
 1431年にフォルミガス島を、1432年にはサンタマリア島を相次いで発見した。

 
 1432年には幾つかの島において牧畜を導入した。
  

 20世紀にポルトガルの歴史家
   ダミオン・ペレス
が1439年発行の海図などを研究した結果、1427年にサンミゲル島を発見した
   ディオゴ・デ・シルヴェス
がアゾレス諸島の発見者であると定まった。
 
 
  
  
 
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2014年04月07日

ジャック・カルティエ 北米の探検家 「カナダ」の名付け親

 
ジャック・カルティエ
     Jacques Cartier
      (1491年12月31日 − 1557年9月1日)
 
 
 フランス・ブルターニュ地方サン・マロ出身のフランス、ブルターニュ地方に主として暮らすケルト系民族風呂トン人の探検家
 
 北米セントローレンス湾とセントローレンス川岸にヨーロッパ出身者として初めて到達した。
 
 イロコイ族の言葉からその周辺の土地を「カナダ」と名付け記述したことで知られる。
 
 
 
 北米大陸へ3度の探検を行い、プリンス・エドワード島やセントローレンス河口に到達している。
 現在のケベックに上陸し、後のフランスによるカナダ領有の基礎を築いた。
 

 最初の探検行は、フランス国王
   フランソワ1世
の援助を受け探検隊を組織して1534年4月に2隻の船でサンマロを出航した。
 
 現在のニューファンドランド島およびカナダの沿海部を調査し、セントローレンス湾を横断してプリンス・エドワード島を発見した。
 
 ガスペ半島の東端に到達し、セントローレンス川の河口付近を探検して、一帯を
   「ヌーベル・フランス」
と命名した。
 
 セントローレンス河口地方のイロコイ族の首長ドンナコナ(Donnacona)の2人の息子
   ドマガヤ (Domagaya)
   タイニョアニ (Taignoagny)
の身柄を拘束してフランスに連行、北米先住民を支配下に組み込む先駆けとなった

 
 第二回の探検行は1535年5月13日、3隻の船と110人の乗組員で行われ、ドンナコナの2人の息子も同行した。
 
 
 前年探検したセントローレンス川の河口へ直行、9月7日イロコイ族の村落スタダコナ(Stadacona 現在のケベック)に到達し、ドンナコナと会した。
 
 なお、カルティエはスタダコナとその周辺の土地や川を「カナダ」と呼んでいる。
 
 
 さらに上流に向い、イロコイ族の要塞村落ホチェラガ(Hochelaga 現在のモントリオール)へ到達した。
 そこをモン・レアル(Mont Real、フランス語で「王の山」の意)と名付けた。

 
 探検隊の人数も少数であったため摩擦も少なくカルティエとイロコイ族の関係は良好でドンナコナの家でタバコを振舞われた。
 
 また、更に北にあるという黄金の地
   サグェナイ王国(Royaume du Saguenay)
について知った。
 
 
 カルティエは、次回の航海で連れ帰る約束で、首長ドンナコナの息子2人を含む10人の先住民を同行しフランスへ帰国した。
 
 
 第三回の探検行は1541年、1,500人の開拓移民に先行する形で行われた。
 
 ただ、スタダコナに到着したカルティエは、ドンナコナが3年前、1539年に死去していたことを知った。


 サグェナイを探そうと試みたが、ホチェラガより北に至ることは出来ず引き返した。
 また、後続の移民団を待ったが現れず、カナダで厳しい冬を越した後、翌年フランスに戻った。

 
 1557年9月1日、サンマロ近郊の自分の地所で死去した。

  
  
 
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2014年04月06日

マルティン・ベハイム 世界初の地球儀 (Erdapfel) を製作

 
 マルティン・ベハイム
   Martin (von) Behaim
     (1459年10月6日 - 1507年7月29日)
 
 
 ポルトガル王に仕えたドイツ人の天地学者、天文学者、地理学者、探検家
 
 ニュルンベルクで商人の7人兄弟の長男として生まれた。
 父はヴェネツィアでの商売を含む多くの商売をしていて、晩年に上院議員(1461年)にも選ばれた。
 1474年に亡くなった(母は1487年7月8日死去)。
 
 ベハイムも商人となって1477年にベルギーのフランドルに向けて旅立ち、ベルギーのアントウェルペン州の都市メヘレンに落ち着き
   衣類商 Jorius van Dorpp
の商売を手伝うようになった。
 
 同年2人はフランクフルトの市を訪れアントウェルペンで仕入れた衣類をドイツの商人に売った。
 
 
 母はベハイムにメヘレンに戻ってベハイム家と取引のある
    Bartels von Eyb
のところで働くよう知らせてきた。
 
 ベハイムは叔父のレオンハルト・ベハイムに、戻らずに商売を覚えたいとの手紙(1478年9月18日)を送ってた。
 
 結局、別の商人ニュルンベルク出身だがアントウェルペンで商売をしていた Fritz Heberleinのところで働くようになり、そこで算術と商売を学んだ。
 
 
 1480年、ポルトガルとフランドル間の貿易に注目し、リスボンへと向かい、商売と当時急激に盛り上がりつつあった
   海外探検
に熱中して航海術、宇宙誌、探検といった知識を吸収した。

 1483年ジョアン2世からアブラハム・サクート率いる航海術に関する協議会に招待された。
 

 ヤコブの杖をポルトガルにもたらしたのはベハイムと言われている。
 
 ただ、多くの航法計器はスカンジナビア人、ギリシャ人、ローマ人、アラブ人、中国人が数世紀も前から使っていた。
 
 ベハイムは精度的に問題のある木の代わりに真鍮を使い、アストロラーベを改良した。
 
  

 ディオゴ・カンと共に自身2回目の探検航海(1485-86年)を行い、西アフリカの海岸沿いに南下して現在のアンゴラあたりまで到達した。
 その後アゾレス諸島を経由して帰還した。
  
 1486年に結婚すると、舅の
   Josse van Huerter
が司令官とフランドル人のリーダーを務めていたアゾレス諸島のファイアル島に住むようになった。
 
 
 1490年、家業を切り盛りするためにニュルンベルクに戻り、1491年から1493年までそこに留まった。
 
 
 有名な世界初の地球儀 (Erdapfel) もそこで製作した。
 
 1493年にはフランドルとリスボンを経由してファイアル島に戻り、1506年までそこに留まった。
 

 1507年7月29日、商用でリスボンを訪れていた最中に亡くなった。
  
 
 
 
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2014年04月05日

アドルフ・フリードリヒ・ツー・メクレンブルク コンゴ川支流沿いの原生林地域や、チャド湖盆地を探険

 
アドルフ・フリードリヒ・アルブレヒト・ハインリヒ・ツー・メクレンブルク
     Adolf Friedrich Albrecht Heinrich Herzog zu Mecklenburg [-Schwerin]
      (1873年10月10日 −1969年8月5日)

 ドイツのアフリカ探検家、植民地政治家
 
 ドイツ領トーゴラント総督(在任1912年 - 1914年)だった。
 
 第一次世界大戦末期の1918年11月
   バルト連合公国
の元首に推戴されたもののドイツの敗戦により君臨・統治は叶わなかった。
 
 ドイツ・オリンピック委員会(DOA)会長(在任1948年 - 1949年)、ドイツ国民オリンピック委員会(NOK)初代会長(在任1949年 - 1951年)を歴任した。
 
 
 メクレンブルク=シュヴェリーン大公
   フリードリヒ・フランツ2世
とその3番目の妻であるシュヴァルツブルク=ルードルシュタット侯女マリーの間の次男として生まれた。
 なお、父にとっては7番目の息子であった。

 
 1907年から1908年にかけ
   中央アフリカ地溝
の調査探検を行い、アフリカ大陸を横断した。
 
 
 1908年、ライプツィヒ地理学協会より「エドゥアルト・フォーゲル賞」を授与された。
 
 調査探検とトーゴ滞在で持ち帰った昆虫のコレクションはベルリンのフンボルト博物館とフランクフルト・アム・マインのゼンケンベルク自然博物館で保管されている。

 
 1910年から1911年にかけ、アフリカのチャド湖、コンゴ盆地北部の諸河川、現在のスーダンに当たるナイル川流域を踏査した。
 
 それまでほとんど知られていなかったコンゴ川支流沿いの原生林地域や、チャド湖盆地を調査した。
 
 探検隊の分隊の一つはナイル川上流近くのバール・エル・ガザール川まで進み、他の諸分隊はカメルーン南部やギニア湾の諸島へ向かった。
 
 
 この探検旅行について記述したアドルフ・フリードリヒの著書『Vom Kongo zum Niger und Nil(コンゴからニジェール、ナイルへ)』は、探検書として今日に至るまで高い評価を得ている。

 
 1912年から1914年までドイツ領西アフリカの一部であるトーゴラント最後の総督を務めた。
 
 第1次世界大戦後、ドイツ植民地団体(Deutsche Kolonialgesellschaft;DKG)の副総裁を務めた。

 第一次世界大戦中、オーストリア=ハンガリー軍に勤務するなどしていた。
 
 
 1918年11月5日、ドイツ占領下のバルト海沿岸地域において、アドルフ・ピラール・フォン・ピルヒャウ男爵を首班とする全バルト地域暫定摂政委員会が発足した。
 
 暫定摂政委員会は中世のリヴォニア連盟が存在した領域(現在のエストニア、ラトヴィアに相当)にバルト連合公国を建国することを提案した。
 
 ただ、バルト連合公国はドイツ帝国以外に承認国も無いまま、1918年11月28日には消滅した。


 1917年4月24日にゲーラにおいて、弟系ロイス侯ハインリヒ27世の娘ヴィクトリア・フェオドラ(1889年 - 1918年)と結婚した。
 
 ただ、ヴィクトリアは一人娘ヴォイツラヴァ=フェオドラ(1918年 - )を出産した直後に亡くなった。
 
 
 ヴォイツラヴァは1939年にロイス=ケストリッツ侯子ハインリヒ1世と結婚した。
 
 アドルフ・フリードリヒは1924年10月25日に、異母兄ヨハン・アルブレヒトの未亡人であるシュトルベルク=ロスラ侯女エリーザベト(1885年 - 1969年)と再婚した。

 アドルフ・フリードリヒは1969年にオイティーンで亡くなった。 
 
 
 
 
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2014年04月03日

サミュエル・ド・シャンプラン ケベック植民地の基礎を築いた

 
サミュエル・ド・シャンプラン
       Samuel de Champlain
         (1567年または1570年 - 1635年12月25日)
 

 17世紀フランスの地理学者、探検家および地図製作者
 
 フランス王アンリ4世の意向に従い、ケベック植民地の基礎を築いたことで知られ
   「ヌーヴェル・フランスの父」
と呼ばれる。
 
 現在のシャラント=マリティーム県ブルアージュ (Brouage) に生まれた。
 1603年からしばしばカナダのフランス領
   「ヌーヴェル・フランス」(Nouvelle France)
へ渡航していた。
 
 1604年にはド・モン卿ピエール・デュグァ (Pierre Dugua, Sieur de Monts) とともに植民活動を行った。
 
 
 1608年に再びヌーヴェルフランスに向かい、セント・ローレンス川流域の
   ケベック植民地(現ケベック)
を築いた。
 
 1635年にケベックで死亡した。
 
  
  
 
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2014年04月02日

ジャック・マルケット ミシシッピ川流域やセント・ローレンス湾、ハドソン湾を探検・探査

 
ジャック・マルケット
    (Le Père) Jacques Marquette
      (1637年6月10日 - 1675年5月18日)
 
 
 フランスのイエズス会宣教師。
 フランス・イエズス会宣教師の
   北米原住民への布教活動
でカナダ(フランス領 ニューフランス)に遣わされる。
 
 
 フランス系カナダ人の
   ルイ・ジョリエ(Louis Jolliet)
と共に、ミシシッピ川流域やセント・ローレンス湾、ハドソン湾を探検・探査した。

 
 その後、イリノイ州で任務についたが、健康を害し、マキノー島への道中に死亡した。

  
  
 
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2014年03月27日

テオドール・アンドレ・モノ フランス国立自然史博物館教授

 
テオドール・アンドレ・モノ
    Théodore André Monod
       (1902年4月9日 - 2000年11月22日)
 
 
 フランスの博物学者、探検家
 
 ルーアンで生まれた。
 
 IFAN研究所所長、フランス国立自然史博物館教授などを歴任した。
 
 最初、モーリタニアに渡りモンクアザラシの研究をした。
 その後サハラ砂漠に目を向け、未発見の植物種や新石器時代の遺跡などを発見した。
 
 最大の発見はマリ共和国の
   アドラル・デ・ジフォガ
で約6000年前のアスラール人(Homme d'Asselar)の人骨だと言われている。
 
  
  
 
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2014年03月26日

ジャン・ド・ベタンクール 

 
ジャン・ド・ベタンクール
     Jean de Béthencourt
          (1360年頃 - 1425年)
 
 
 フランスの探検家
 モロッコやサハラが近い北アフリカ大西洋沖にある
   カナリア諸島
を探検し、北側のランサローテ島にフランス人として初めて降り立った。
 
 フエルテベントゥラ島とエル・イエロ島を攻略し、探検の資金を援助をしていたカスティーリャ王エンリケ3世により、カナリア王の称号を受けた。
 
 

 1402年5月1日、ラ・ロシェル港から280名の乗員(多くがノルマンディー人)とともに出航した。
 
 探検を記した本『ル・カナリエン』によると、その中には、初期のカスティーリャによるカナリア諸島探検で捕らえられ洗礼を受けた、2人のカナリア諸島人でフランチェスコ会派僧がいたという。
 
 
 ベタンクールがスペインの都市カディスに到着し、補給等のため数週間滞在する間に乗員らの多くが脱走してしまった。
 最後には53名しかいなかったという。

 ベタンクールには子供がなかった。
 カナリア諸島にはベタンクールを先祖に持つ子孫が多数いるが、彼の後を継いだ甥マチオ・ド・ベタンクールの子孫に倣ったものと推測される。

 フエルテベンチュラ島の都市ベタンキュリアは、ベタンクールの名にちなんだ名である。
 
  
  
 
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2014年03月25日

ウィリアム・K・L・ディクソン 映画カメラを発明

 
ウィリアム・K・L・ディクソン
   William Kennedy Laurie Dickson
      1860年8月3日−1935年9月28日
  
 
 フランス系スコットランド人の発明家
 
 トーマス・エジソンに雇われ映画カメラを発明したことで知られる。
 
 世界初の映画監督および撮影監督のひとり。
 
 世界初の音声つき映画 『ディクソン・エクスペリメンタル・サウンド・フィルム』(22分の短篇、1894年製作)の監督としても知られる。
 
  
  
 
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2014年03月24日

マルク=ジョゼフ・マリオン・デュフレーヌ 18世紀のフランス海軍軍人で探検家

 
マルク=ジョゼフ・マリオン・デュフレーヌ
     Marc-Joseph Marion-Dufresne
       (1724年5月22日 - 1772年6月12日)
 
 18世紀のフランス海軍軍人で探検家
 
 フランスのブルターニュ地方
   サン・マロ
で生まれ、海軍に入りオーストリア継承戦争(1740年 - 1748年)などに従軍した。
 
 退役後は、フランス東インド会社に所属しフランス島(現在のモーリシャス)に移り住んだ。
 
 
 インド洋の貿易で財産を築き1768年にセーシェル諸島の探検調査を行った。
 さらに南方の未探索の海域で、当時存在が想定されていた
   未知の南方大陸(テラ・アウストラリス)
を発見したいとの意気込みから、世界周航を行った探検家
   ブーガンヴィル
がフランスに連れてきてパリで見世物同然になっていたタヒチ島民
   アオトゥールー(Aoutourou)
を故郷に送り届け、その途中で南方海域の探索を行うという航海を提案した。
 
 マリオン自身も出資するこの計画はモーリシャスの総督に認められた。
 
 マリオンを補佐する士官と2隻の船、マスカリン号およびマルキ・ド・カストリー号が用意された。

 1771年10月18日にフランス島を出港したが、天然痘に罹っていたアオトゥールーはマダガスカル沖を航海中に死亡した。
 
 航海の主目的はここで失われた。
 
 探検のために航海は続けられ、2隻の船は喜望峰を経由して進路を南にとった。
 
 
 1663年にオランダ人によって発見されたが、位置が正しく記録されなかった
   プリンス・エドワード諸島
に1772年1月13日に到達した。
 大きい方の島には「希望の土地」(現在のマリオン島)の名が与えられた。
 
 ここから同緯度を東に向かった探検隊は1月24日、新たにクローゼー諸島を発見した。
 
 オーストラリアの南を通ってさらに東へ航海し、タスマニアに立ち寄った後、1772年3月25日ニュージーランド北島に到着した。
 
 
 これはヨーロッパ人としてはタスマン、クック、シュルヴィルに続く4度目のニュージーランド来航となった。
 
 アイランズ湾に停泊、現地のマオリ族はタヒチの語彙がある程度通じた。
 
 それまで取引を行って友好的な関係を持てたため、船の乗組員は警戒を緩め
   壊血病患者
を静養のため上陸させ、水と食糧を調達し船の修理に取りかかった。
 
 
 フランス人たちマオリ風習を理解せずの「禁忌を犯した」ため、6月12日に上陸したマリオンを含む一行はマオリ族から攻撃を受け夜になっても誰一人船に戻らなかった。
 
 翌日陸地に送られたボートの乗員が1人が戻り、他の全員殺害されたと副官のクローゼーに伝わった。
 探検隊ははじめてマオリとの敵対関係が生まれたことを知った。
  
 
 生存者を捜索し収容するために武装した一隊を島に上陸させたが、集結してきたマオリ族との戦いになりマオリ族を一方的に攻撃しながら前進し殲滅をはかった。
 
 マオリの集落に入ったフランス人たちはマリオンらの遺体の一部とその着衣を見つけた。
 この報復としてその集落を焼き払った。
  
 
 マリオン亡き後の指揮はマルキ・ド・カストリー号の艦長
   デュ・クレムール(du Clesmeur)
に引き継がれ、探検隊はフィリピンを経由してフランス島に帰還した。
 
  
  
 
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2014年03月21日

シャルル・ド・フーコーカトリック教会の神父で、探検家

 
シャルル・ウジェーヌ・ド・フーコー・ド・ポンブリアン
         Charles Eugène de Foucauld de Ponbriand
            (1858年9月15日 - 1916年12月1日)
 
 
 フランスのカトリック教会の神父で、探検家、地理学者
 
 
 ストラスブールに貴族の家に生まれ、両親にとってシャルルは2人目の子供だった。
 
 ヴェルサイユでイエズス会のリセを卒業し、1877年に
   サン・シール陸軍士官学校
を卒業した。
 
 フランス領アルジェリアに渡り、その後はモロッコに入国してフランスの権益拡大のための現地調査を始めた。
 
 
 1888年に著書「モロッコのルネサンス」を発表した。
 
 帰国後、パリのサントギュスタン教会に配属された。
  
 
 1890年に厳律シトー会に入会し、シリアやナザレに向かいトゥアレグ族と共に行動し、彼らの文化を調査した。
 
 
 1916年にフランス支配に反発した、イスラーム神秘主義の改革運動の流れを汲む
   サヌーシー教団
によって差し向けられた刺客にアルジェリア南部にあるタマンラセット近郊で暗殺されたといわれている。

 2001年4月24日に教皇ヨハネ・パウロ2世によって尊者に、2005年11月13日に、教皇ベネディクト16世によって列福された。

  
  
 
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2014年03月19日

ニコラ・トマ・ボーダン 18世紀のフランス人探検家

 
ニコラ・トマ・ボーダン
    Nicolas Thomas Baudin
       (1754年2月17日-1803年9月16日)
 
 フランス人探検家
 
 フランス西部、ポワトゥー=シャラント地域圏の都市
   ラ・ロシェル
近くの島、レ島の平民出身
 
 
 20歳でフランス東インド会社の商船隊に雇われて参加、その後フランス海軍に入った。
 
 アメリカ独立戦争ではカリブ海で従軍、戦後オーストリアの植物学者をインド洋と太平洋に送る船の指揮をとった。
 
 その機会に船で植物と動物を生きたまま運ぶ方法を習得した。

 
 1792年、フランスがオーストリアと開戦すると海軍に復帰しようとしたがオーストリアとの関係があったことで果たせなかった。
  
 
 1795年、フランス国立自然史博物館の館長
   アントワーヌ・ローラン・ド・ジュシュー
を訪ね、カリブにおける植物採集の航海について提案した。
 
 探険旅行で多くの珍しい植物、鳥、昆虫のコレクションをフランスへ持ち帰って評判となった。
 
 
 1800年10月、フランス政府に新たな学術航海の提案を行い、オーストラリア沿岸の地図を作成する探検の指揮者に選ばれた。
 
 
 フランソワ・ペロンら9人の動物学者と植物学者レシュノーを含む自然科学者を乗せ、 ジェオグラフ(Le Géographe)号 と ナチュラリスト(Le Naturaliste)号の2隻で出航した。
 
 
 1801年5月、オーストラリア南西のルーイン岬に到着して調査を開始した。
 
 1802年4月にイギリスの航海者
   マシュー・フリンダース
がエンカウンター湾の沿岸の作図をしているところに偶然出会った。
 
 
 その後イギリス植民地だったシドニーで補給し、その木の材料の名前をとってカジュアリーナ(Casuarina)号と名付けられ新しい船を購入した。 
 
 標本でいっぱいになったナチュラリスト号を本国に送り返し、タスマニア、ティモールへと旅立った。

 ボーダンは本国に帰る途中のモーリシャスに寄ったところで結核に患い亡くなっている。
  
  
 
 
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