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2014年04月09日

本間 宗久 相場の神様

本間 宗久
 1724年(享保9年)
    〜1803年(享和3年)
 
 
 江戸時代の出羽庄内(現在の山形県酒田市)出身の米商人
 酒田、大坂、江戸での米の商いで莫大な富を得た。
 
 なお、財政危機にあった米沢藩主
   上杉鷹山
を補佐した酒田の豪商本間光丘は甥にあたる。
 

 父は酒田の米屋
  新潟屋
の本間原光である。
  
 
 8代将軍吉宗治世の時代、16歳の時に江戸へ遊学し帰省後酒田にて
  米相場での投機
を父に進言したものの
  商いの正道ではない
と相手にされず、大阪の米相場で才能を発揮した。
 
 
 後に江戸に移り、ここでも成功し
  相場の神様
  出羽の天狗
と呼ばれた。
 
 父原光の死後、後を継いだ長兄光寿が数年で隠居した。
 
 跡継ぎとして子光丘を家業修行のため愛媛
   奈良屋
へ手代奉公とし、その間は宗久を仮の主とした。
 

 宗久は店の資金で酒田の米相場で投機を行った。
 この投機は大成功し一躍「新潟屋」の身代を数万両単位で増資させた。
 
 この成果に伴い光丘と「新潟屋」の主人の座を代わり、大坂、江戸で、新潟屋の現物米とあわせて莫大な財産を手にすることになる。
 
 
 本間宗久は酒田五法を考案したとされ、当時先駆的な先物市場であった、堂島、蔵前の米会所で、後の
   チャールズ・ダウ
と並んでテクニカル分析の先駆者の一人として経済学上名高いものである。
 

 200年以上がたった現在でもなお、その基本的な手法は有効であるとされている。

 ただ、宗久翁秘録、酒田戦術詳解、本間宗久相場三昧伝といった書物が、宗久の手になるものとして現在に伝わるものの真偽は不明である。
 
 
 
 
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2014年04月08日

ゴンサロ・ヴェーリョ・カブラル 1431年にフォルミガス島を、1432年にはサンタマリア島を発見

 
ゴンサロ・ヴェーリョ・カブラル
      Gonçalo Velho Cabral(生没年不明)
 
 
 15世紀のポルトガルの航海者、探検家
 
 エンリケ航海王子に仕えた航海者の中でも特に信頼があるキリスト騎士団に属する騎士。
 
 
 1427年のディオゴ・デ・シルヴェスによるサンミゲル島の発見して以後、後にアゾレス諸島と呼ばれることとなる周辺の海域において探索行を行った。
 
 1431年にフォルミガス島を、1432年にはサンタマリア島を相次いで発見した。

 
 1432年には幾つかの島において牧畜を導入した。
  

 20世紀にポルトガルの歴史家
   ダミオン・ペレス
が1439年発行の海図などを研究した結果、1427年にサンミゲル島を発見した
   ディオゴ・デ・シルヴェス
がアゾレス諸島の発見者であると定まった。
 
 
  
  
 
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2014年04月07日

ジャック・カルティエ 北米の探検家 「カナダ」の名付け親

 
ジャック・カルティエ
     Jacques Cartier
      (1491年12月31日 − 1557年9月1日)
 
 
 フランス・ブルターニュ地方サン・マロ出身のフランス、ブルターニュ地方に主として暮らすケルト系民族風呂トン人の探検家
 
 北米セントローレンス湾とセントローレンス川岸にヨーロッパ出身者として初めて到達した。
 
 イロコイ族の言葉からその周辺の土地を「カナダ」と名付け記述したことで知られる。
 
 
 
 北米大陸へ3度の探検を行い、プリンス・エドワード島やセントローレンス河口に到達している。
 現在のケベックに上陸し、後のフランスによるカナダ領有の基礎を築いた。
 

 最初の探検行は、フランス国王
   フランソワ1世
の援助を受け探検隊を組織して1534年4月に2隻の船でサンマロを出航した。
 
 現在のニューファンドランド島およびカナダの沿海部を調査し、セントローレンス湾を横断してプリンス・エドワード島を発見した。
 
 ガスペ半島の東端に到達し、セントローレンス川の河口付近を探検して、一帯を
   「ヌーベル・フランス」
と命名した。
 
 セントローレンス河口地方のイロコイ族の首長ドンナコナ(Donnacona)の2人の息子
   ドマガヤ (Domagaya)
   タイニョアニ (Taignoagny)
の身柄を拘束してフランスに連行、北米先住民を支配下に組み込む先駆けとなった

 
 第二回の探検行は1535年5月13日、3隻の船と110人の乗組員で行われ、ドンナコナの2人の息子も同行した。
 
 
 前年探検したセントローレンス川の河口へ直行、9月7日イロコイ族の村落スタダコナ(Stadacona 現在のケベック)に到達し、ドンナコナと会した。
 
 なお、カルティエはスタダコナとその周辺の土地や川を「カナダ」と呼んでいる。
 
 
 さらに上流に向い、イロコイ族の要塞村落ホチェラガ(Hochelaga 現在のモントリオール)へ到達した。
 そこをモン・レアル(Mont Real、フランス語で「王の山」の意)と名付けた。

 
 探検隊の人数も少数であったため摩擦も少なくカルティエとイロコイ族の関係は良好でドンナコナの家でタバコを振舞われた。
 
 また、更に北にあるという黄金の地
   サグェナイ王国(Royaume du Saguenay)
について知った。
 
 
 カルティエは、次回の航海で連れ帰る約束で、首長ドンナコナの息子2人を含む10人の先住民を同行しフランスへ帰国した。
 
 
 第三回の探検行は1541年、1,500人の開拓移民に先行する形で行われた。
 
 ただ、スタダコナに到着したカルティエは、ドンナコナが3年前、1539年に死去していたことを知った。


 サグェナイを探そうと試みたが、ホチェラガより北に至ることは出来ず引き返した。
 また、後続の移民団を待ったが現れず、カナダで厳しい冬を越した後、翌年フランスに戻った。

 
 1557年9月1日、サンマロ近郊の自分の地所で死去した。

  
  
 
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2014年04月06日

マルティン・ベハイム 世界初の地球儀 (Erdapfel) を製作

 
 マルティン・ベハイム
   Martin (von) Behaim
     (1459年10月6日 - 1507年7月29日)
 
 
 ポルトガル王に仕えたドイツ人の天地学者、天文学者、地理学者、探検家
 
 ニュルンベルクで商人の7人兄弟の長男として生まれた。
 父はヴェネツィアでの商売を含む多くの商売をしていて、晩年に上院議員(1461年)にも選ばれた。
 1474年に亡くなった(母は1487年7月8日死去)。
 
 ベハイムも商人となって1477年にベルギーのフランドルに向けて旅立ち、ベルギーのアントウェルペン州の都市メヘレンに落ち着き
   衣類商 Jorius van Dorpp
の商売を手伝うようになった。
 
 同年2人はフランクフルトの市を訪れアントウェルペンで仕入れた衣類をドイツの商人に売った。
 
 
 母はベハイムにメヘレンに戻ってベハイム家と取引のある
    Bartels von Eyb
のところで働くよう知らせてきた。
 
 ベハイムは叔父のレオンハルト・ベハイムに、戻らずに商売を覚えたいとの手紙(1478年9月18日)を送ってた。
 
 結局、別の商人ニュルンベルク出身だがアントウェルペンで商売をしていた Fritz Heberleinのところで働くようになり、そこで算術と商売を学んだ。
 
 
 1480年、ポルトガルとフランドル間の貿易に注目し、リスボンへと向かい、商売と当時急激に盛り上がりつつあった
   海外探検
に熱中して航海術、宇宙誌、探検といった知識を吸収した。

 1483年ジョアン2世からアブラハム・サクート率いる航海術に関する協議会に招待された。
 

 ヤコブの杖をポルトガルにもたらしたのはベハイムと言われている。
 
 ただ、多くの航法計器はスカンジナビア人、ギリシャ人、ローマ人、アラブ人、中国人が数世紀も前から使っていた。
 
 ベハイムは精度的に問題のある木の代わりに真鍮を使い、アストロラーベを改良した。
 
  

 ディオゴ・カンと共に自身2回目の探検航海(1485-86年)を行い、西アフリカの海岸沿いに南下して現在のアンゴラあたりまで到達した。
 その後アゾレス諸島を経由して帰還した。
  
 1486年に結婚すると、舅の
   Josse van Huerter
が司令官とフランドル人のリーダーを務めていたアゾレス諸島のファイアル島に住むようになった。
 
 
 1490年、家業を切り盛りするためにニュルンベルクに戻り、1491年から1493年までそこに留まった。
 
 
 有名な世界初の地球儀 (Erdapfel) もそこで製作した。
 
 1493年にはフランドルとリスボンを経由してファイアル島に戻り、1506年までそこに留まった。
 

 1507年7月29日、商用でリスボンを訪れていた最中に亡くなった。
  
 
 
 
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2014年04月05日

アドルフ・フリードリヒ・ツー・メクレンブルク コンゴ川支流沿いの原生林地域や、チャド湖盆地を探険

 
アドルフ・フリードリヒ・アルブレヒト・ハインリヒ・ツー・メクレンブルク
     Adolf Friedrich Albrecht Heinrich Herzog zu Mecklenburg [-Schwerin]
      (1873年10月10日 −1969年8月5日)

 ドイツのアフリカ探検家、植民地政治家
 
 ドイツ領トーゴラント総督(在任1912年 - 1914年)だった。
 
 第一次世界大戦末期の1918年11月
   バルト連合公国
の元首に推戴されたもののドイツの敗戦により君臨・統治は叶わなかった。
 
 ドイツ・オリンピック委員会(DOA)会長(在任1948年 - 1949年)、ドイツ国民オリンピック委員会(NOK)初代会長(在任1949年 - 1951年)を歴任した。
 
 
 メクレンブルク=シュヴェリーン大公
   フリードリヒ・フランツ2世
とその3番目の妻であるシュヴァルツブルク=ルードルシュタット侯女マリーの間の次男として生まれた。
 なお、父にとっては7番目の息子であった。

 
 1907年から1908年にかけ
   中央アフリカ地溝
の調査探検を行い、アフリカ大陸を横断した。
 
 
 1908年、ライプツィヒ地理学協会より「エドゥアルト・フォーゲル賞」を授与された。
 
 調査探検とトーゴ滞在で持ち帰った昆虫のコレクションはベルリンのフンボルト博物館とフランクフルト・アム・マインのゼンケンベルク自然博物館で保管されている。

 
 1910年から1911年にかけ、アフリカのチャド湖、コンゴ盆地北部の諸河川、現在のスーダンに当たるナイル川流域を踏査した。
 
 それまでほとんど知られていなかったコンゴ川支流沿いの原生林地域や、チャド湖盆地を調査した。
 
 探検隊の分隊の一つはナイル川上流近くのバール・エル・ガザール川まで進み、他の諸分隊はカメルーン南部やギニア湾の諸島へ向かった。
 
 
 この探検旅行について記述したアドルフ・フリードリヒの著書『Vom Kongo zum Niger und Nil(コンゴからニジェール、ナイルへ)』は、探検書として今日に至るまで高い評価を得ている。

 
 1912年から1914年までドイツ領西アフリカの一部であるトーゴラント最後の総督を務めた。
 
 第1次世界大戦後、ドイツ植民地団体(Deutsche Kolonialgesellschaft;DKG)の副総裁を務めた。

 第一次世界大戦中、オーストリア=ハンガリー軍に勤務するなどしていた。
 
 
 1918年11月5日、ドイツ占領下のバルト海沿岸地域において、アドルフ・ピラール・フォン・ピルヒャウ男爵を首班とする全バルト地域暫定摂政委員会が発足した。
 
 暫定摂政委員会は中世のリヴォニア連盟が存在した領域(現在のエストニア、ラトヴィアに相当)にバルト連合公国を建国することを提案した。
 
 ただ、バルト連合公国はドイツ帝国以外に承認国も無いまま、1918年11月28日には消滅した。


 1917年4月24日にゲーラにおいて、弟系ロイス侯ハインリヒ27世の娘ヴィクトリア・フェオドラ(1889年 - 1918年)と結婚した。
 
 ただ、ヴィクトリアは一人娘ヴォイツラヴァ=フェオドラ(1918年 - )を出産した直後に亡くなった。
 
 
 ヴォイツラヴァは1939年にロイス=ケストリッツ侯子ハインリヒ1世と結婚した。
 
 アドルフ・フリードリヒは1924年10月25日に、異母兄ヨハン・アルブレヒトの未亡人であるシュトルベルク=ロスラ侯女エリーザベト(1885年 - 1969年)と再婚した。

 アドルフ・フリードリヒは1969年にオイティーンで亡くなった。 
 
 
 
 
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2014年04月03日

サミュエル・ド・シャンプラン ケベック植民地の基礎を築いた

 
サミュエル・ド・シャンプラン
       Samuel de Champlain
         (1567年または1570年 - 1635年12月25日)
 

 17世紀フランスの地理学者、探検家および地図製作者
 
 フランス王アンリ4世の意向に従い、ケベック植民地の基礎を築いたことで知られ
   「ヌーヴェル・フランスの父」
と呼ばれる。
 
 現在のシャラント=マリティーム県ブルアージュ (Brouage) に生まれた。
 1603年からしばしばカナダのフランス領
   「ヌーヴェル・フランス」(Nouvelle France)
へ渡航していた。
 
 1604年にはド・モン卿ピエール・デュグァ (Pierre Dugua, Sieur de Monts) とともに植民活動を行った。
 
 
 1608年に再びヌーヴェルフランスに向かい、セント・ローレンス川流域の
   ケベック植民地(現ケベック)
を築いた。
 
 1635年にケベックで死亡した。
 
  
  
 
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2014年04月02日

ジャック・マルケット ミシシッピ川流域やセント・ローレンス湾、ハドソン湾を探検・探査

 
ジャック・マルケット
    (Le Père) Jacques Marquette
      (1637年6月10日 - 1675年5月18日)
 
 
 フランスのイエズス会宣教師。
 フランス・イエズス会宣教師の
   北米原住民への布教活動
でカナダ(フランス領 ニューフランス)に遣わされる。
 
 
 フランス系カナダ人の
   ルイ・ジョリエ(Louis Jolliet)
と共に、ミシシッピ川流域やセント・ローレンス湾、ハドソン湾を探検・探査した。

 
 その後、イリノイ州で任務についたが、健康を害し、マキノー島への道中に死亡した。

  
  
 
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2014年03月27日

テオドール・アンドレ・モノ フランス国立自然史博物館教授

 
テオドール・アンドレ・モノ
    Théodore André Monod
       (1902年4月9日 - 2000年11月22日)
 
 
 フランスの博物学者、探検家
 
 ルーアンで生まれた。
 
 IFAN研究所所長、フランス国立自然史博物館教授などを歴任した。
 
 最初、モーリタニアに渡りモンクアザラシの研究をした。
 その後サハラ砂漠に目を向け、未発見の植物種や新石器時代の遺跡などを発見した。
 
 最大の発見はマリ共和国の
   アドラル・デ・ジフォガ
で約6000年前のアスラール人(Homme d'Asselar)の人骨だと言われている。
 
  
  
 
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2014年03月26日

ジャン・ド・ベタンクール 

 
ジャン・ド・ベタンクール
     Jean de Béthencourt
          (1360年頃 - 1425年)
 
 
 フランスの探検家
 モロッコやサハラが近い北アフリカ大西洋沖にある
   カナリア諸島
を探検し、北側のランサローテ島にフランス人として初めて降り立った。
 
 フエルテベントゥラ島とエル・イエロ島を攻略し、探検の資金を援助をしていたカスティーリャ王エンリケ3世により、カナリア王の称号を受けた。
 
 

 1402年5月1日、ラ・ロシェル港から280名の乗員(多くがノルマンディー人)とともに出航した。
 
 探検を記した本『ル・カナリエン』によると、その中には、初期のカスティーリャによるカナリア諸島探検で捕らえられ洗礼を受けた、2人のカナリア諸島人でフランチェスコ会派僧がいたという。
 
 
 ベタンクールがスペインの都市カディスに到着し、補給等のため数週間滞在する間に乗員らの多くが脱走してしまった。
 最後には53名しかいなかったという。

 ベタンクールには子供がなかった。
 カナリア諸島にはベタンクールを先祖に持つ子孫が多数いるが、彼の後を継いだ甥マチオ・ド・ベタンクールの子孫に倣ったものと推測される。

 フエルテベンチュラ島の都市ベタンキュリアは、ベタンクールの名にちなんだ名である。
 
  
  
 
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2014年03月25日

ウィリアム・K・L・ディクソン 映画カメラを発明

 
ウィリアム・K・L・ディクソン
   William Kennedy Laurie Dickson
      1860年8月3日−1935年9月28日
  
 
 フランス系スコットランド人の発明家
 
 トーマス・エジソンに雇われ映画カメラを発明したことで知られる。
 
 世界初の映画監督および撮影監督のひとり。
 
 世界初の音声つき映画 『ディクソン・エクスペリメンタル・サウンド・フィルム』(22分の短篇、1894年製作)の監督としても知られる。
 
  
  
 
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2014年03月24日

マルク=ジョゼフ・マリオン・デュフレーヌ 18世紀のフランス海軍軍人で探検家

 
マルク=ジョゼフ・マリオン・デュフレーヌ
     Marc-Joseph Marion-Dufresne
       (1724年5月22日 - 1772年6月12日)
 
 18世紀のフランス海軍軍人で探検家
 
 フランスのブルターニュ地方
   サン・マロ
で生まれ、海軍に入りオーストリア継承戦争(1740年 - 1748年)などに従軍した。
 
 退役後は、フランス東インド会社に所属しフランス島(現在のモーリシャス)に移り住んだ。
 
 
 インド洋の貿易で財産を築き1768年にセーシェル諸島の探検調査を行った。
 さらに南方の未探索の海域で、当時存在が想定されていた
   未知の南方大陸(テラ・アウストラリス)
を発見したいとの意気込みから、世界周航を行った探検家
   ブーガンヴィル
がフランスに連れてきてパリで見世物同然になっていたタヒチ島民
   アオトゥールー(Aoutourou)
を故郷に送り届け、その途中で南方海域の探索を行うという航海を提案した。
 
 マリオン自身も出資するこの計画はモーリシャスの総督に認められた。
 
 マリオンを補佐する士官と2隻の船、マスカリン号およびマルキ・ド・カストリー号が用意された。

 1771年10月18日にフランス島を出港したが、天然痘に罹っていたアオトゥールーはマダガスカル沖を航海中に死亡した。
 
 航海の主目的はここで失われた。
 
 探検のために航海は続けられ、2隻の船は喜望峰を経由して進路を南にとった。
 
 
 1663年にオランダ人によって発見されたが、位置が正しく記録されなかった
   プリンス・エドワード諸島
に1772年1月13日に到達した。
 大きい方の島には「希望の土地」(現在のマリオン島)の名が与えられた。
 
 ここから同緯度を東に向かった探検隊は1月24日、新たにクローゼー諸島を発見した。
 
 オーストラリアの南を通ってさらに東へ航海し、タスマニアに立ち寄った後、1772年3月25日ニュージーランド北島に到着した。
 
 
 これはヨーロッパ人としてはタスマン、クック、シュルヴィルに続く4度目のニュージーランド来航となった。
 
 アイランズ湾に停泊、現地のマオリ族はタヒチの語彙がある程度通じた。
 
 それまで取引を行って友好的な関係を持てたため、船の乗組員は警戒を緩め
   壊血病患者
を静養のため上陸させ、水と食糧を調達し船の修理に取りかかった。
 
 
 フランス人たちマオリ風習を理解せずの「禁忌を犯した」ため、6月12日に上陸したマリオンを含む一行はマオリ族から攻撃を受け夜になっても誰一人船に戻らなかった。
 
 翌日陸地に送られたボートの乗員が1人が戻り、他の全員殺害されたと副官のクローゼーに伝わった。
 探検隊ははじめてマオリとの敵対関係が生まれたことを知った。
  
 
 生存者を捜索し収容するために武装した一隊を島に上陸させたが、集結してきたマオリ族との戦いになりマオリ族を一方的に攻撃しながら前進し殲滅をはかった。
 
 マオリの集落に入ったフランス人たちはマリオンらの遺体の一部とその着衣を見つけた。
 この報復としてその集落を焼き払った。
  
 
 マリオン亡き後の指揮はマルキ・ド・カストリー号の艦長
   デュ・クレムール(du Clesmeur)
に引き継がれ、探検隊はフィリピンを経由してフランス島に帰還した。
 
  
  
 
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2014年03月21日

シャルル・ド・フーコーカトリック教会の神父で、探検家

 
シャルル・ウジェーヌ・ド・フーコー・ド・ポンブリアン
         Charles Eugène de Foucauld de Ponbriand
            (1858年9月15日 - 1916年12月1日)
 
 
 フランスのカトリック教会の神父で、探検家、地理学者
 
 
 ストラスブールに貴族の家に生まれ、両親にとってシャルルは2人目の子供だった。
 
 ヴェルサイユでイエズス会のリセを卒業し、1877年に
   サン・シール陸軍士官学校
を卒業した。
 
 フランス領アルジェリアに渡り、その後はモロッコに入国してフランスの権益拡大のための現地調査を始めた。
 
 
 1888年に著書「モロッコのルネサンス」を発表した。
 
 帰国後、パリのサントギュスタン教会に配属された。
  
 
 1890年に厳律シトー会に入会し、シリアやナザレに向かいトゥアレグ族と共に行動し、彼らの文化を調査した。
 
 
 1916年にフランス支配に反発した、イスラーム神秘主義の改革運動の流れを汲む
   サヌーシー教団
によって差し向けられた刺客にアルジェリア南部にあるタマンラセット近郊で暗殺されたといわれている。

 2001年4月24日に教皇ヨハネ・パウロ2世によって尊者に、2005年11月13日に、教皇ベネディクト16世によって列福された。

  
  
 
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2014年03月19日

ニコラ・トマ・ボーダン 18世紀のフランス人探検家

 
ニコラ・トマ・ボーダン
    Nicolas Thomas Baudin
       (1754年2月17日-1803年9月16日)
 
 フランス人探検家
 
 フランス西部、ポワトゥー=シャラント地域圏の都市
   ラ・ロシェル
近くの島、レ島の平民出身
 
 
 20歳でフランス東インド会社の商船隊に雇われて参加、その後フランス海軍に入った。
 
 アメリカ独立戦争ではカリブ海で従軍、戦後オーストリアの植物学者をインド洋と太平洋に送る船の指揮をとった。
 
 その機会に船で植物と動物を生きたまま運ぶ方法を習得した。

 
 1792年、フランスがオーストリアと開戦すると海軍に復帰しようとしたがオーストリアとの関係があったことで果たせなかった。
  
 
 1795年、フランス国立自然史博物館の館長
   アントワーヌ・ローラン・ド・ジュシュー
を訪ね、カリブにおける植物採集の航海について提案した。
 
 探険旅行で多くの珍しい植物、鳥、昆虫のコレクションをフランスへ持ち帰って評判となった。
 
 
 1800年10月、フランス政府に新たな学術航海の提案を行い、オーストラリア沿岸の地図を作成する探検の指揮者に選ばれた。
 
 
 フランソワ・ペロンら9人の動物学者と植物学者レシュノーを含む自然科学者を乗せ、 ジェオグラフ(Le Géographe)号 と ナチュラリスト(Le Naturaliste)号の2隻で出航した。
 
 
 1801年5月、オーストラリア南西のルーイン岬に到着して調査を開始した。
 
 1802年4月にイギリスの航海者
   マシュー・フリンダース
がエンカウンター湾の沿岸の作図をしているところに偶然出会った。
 
 
 その後イギリス植民地だったシドニーで補給し、その木の材料の名前をとってカジュアリーナ(Casuarina)号と名付けられ新しい船を購入した。 
 
 標本でいっぱいになったナチュラリスト号を本国に送り返し、タスマニア、ティモールへと旅立った。

 ボーダンは本国に帰る途中のモーリシャスに寄ったところで結核に患い亡くなっている。
  
  
 
 
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2014年03月17日

ルネ・カイエ トンブクトゥへの探検

 
ルネ・カイエ
   René Caillié
     (1799年9月19日 - 1838年5月17日)
 
 フランスの探検家
 
 貧しいパン職人の子として生まれ11歳で孤児となった。
 
 17歳で単身アフリカに渡り苦労して金を稼いだ。セ
 
 アラビア語とイスラム教の教えや習慣を身に着けてから砂漠の民トゥアレグ族の都市
   トンブクトゥ
への旅に出発した。
 
 セネガル南部から旅を始め、マリに入り、ジェンネ、モプティを経て、ようやくトンブクトゥにたどり着いた。
 
 マリ帝国、ソンガイ帝国時代に繁栄し西欧では「黄金郷」はすでに荒廃した泥の町に過ぎず失望した。
 
 2週間現地に滞在しこの町に関する詳しい観察を書き留め、早々に帰国の途についた。
 
 帰りも苦労したがモロッコに入ってからは順調に進み、ラバットのフランス領事館に無事保護されフランスに帰国している。
 
  
  
 
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2014年03月13日

ヤーコプ・ロッヘフェーン オランダの航海者

 
ヤーコプ・ロッヘフェーン
   Jacob Roggeveen
    (1659年2月1日 - 1729年1月31日)
 
 オランダ(ネーデルラント連邦共和国)の航海者、探検家
 
 ヤーコプの父親
   アレント・ロッヘフェーン
は数学者で、地理学・天文学、また航海に関する知識があり、神話上の土地テッラ・オーストラルの研究に専念していた。
 
 息子のヤーコプが62歳にしてその土地を探すため、3艘の船で出発した。

 ヤーコプは1683年にミデルブルフで公証人となった。
 
 1690年、ハルデルワイク大学で法律を修め、1707年から1714年までバタビア(現在のジャカルタ)で裁判官として働いた。
 1715年にミデルブルフに戻っている。
 

 1721年8月1日、オーストラリア大陸を求めて、オランダ、オランダ西インド会社の3隻の帆船、Arend号、Thienhoven号、Afrikaansche Galey号からなる艦隊を率いた。
 
 フォークランド諸島に寄航した後、ルメール海峡を通過し、南緯60度まで南下し、太平洋に入った。
 
 チリのバルディビア近くに上陸し、フアン・フェルナンデス諸島に1722年2月24日から3月17日まで滞在した。
 
 1722年4月5日のイースターの日にイースター島を発見し、2,000人から3,000人の住民を見たと報告した。
 
 ツアモツ諸島、ソシエテ諸島、サモア経由でバタビアに達した。
 
 バタビアでオランダ東インド会社の独占を犯したとして逮捕された。
 その後、解放され補償が支払われ1723年に、オランダに戻った。
 
  
  
 
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2014年03月07日

チェスネキー・ジュラ マケドニア公国の国家元首

 
チェスネキー・ジュラ
     Cseszneky Gyula
   (1914年 - 1956年以後〈没年不明〉)
 
 
 第二次世界大戦中のイタリア王国の傀儡政権
   ピンドス公国・マケドニア公国
の名目的な君主、詩人かつ翻訳家で冒険家でもあった。
 
 ハンガリー王国の名門貴族
   チェスネキー家
の当主であり、チェスネキー伯爵、Milvány男爵、初代バコニ伯(Bakonyi vadgróf)ともいわれる。
 
 
 元々はカトリックの司祭を目指していたが、志半ばで軍人を志すようになった。
 
 イタリアの士官学校に通い、ピオンビー ノ公バルダッサーレ・ボンコンパーニ (en:Baldassarre Boncompagni) の援助を受けた。

 1940年のウィーン裁定後には、予備役の参謀将校としてトランシルヴァニアに進駐した。
 
 摂政ホルティ・ミクローシュよりヴィテーズ(Vitéz、勇者)・Milványiの称号を贈られた。
 
 
 1941年にはクロアチア独立国のトミスラヴ2世よりバコニ伯の称号を受けた。
 
 1943年にイタリアが建設したピンドス公国の摂政となり、その後成立したマケドニア公国では大公ユリウス1世として国家元首に就任した。
 
 ただ、どちらの場合も実権を保持していなかった。
 
 
 1943年9月にはイタリアが連合国に降伏したため、ナチスドイツの手によってバルカン半島が占領されチェスネキーは強制退位させられハンガリーに帰国した。
 
 ただ、兄チェスネキー・ミハーイ (Mihály Cseszneky de Milvány) がミカエール1世として即位するよう求められたが拒否したため公国自体が消滅した。
 
 
 チェスネキーは反ナチス主義者であり、ユダヤ人の親族もいたためゲシュタポに追われることになった。
 一方、ブダペストではナチスの迫害からユダヤ人の救出をしたため、戦後にはイスラエルより
   「諸国民の中の正義の人」
の称号を送られた。

 戦後、チェスネキーはハンガリー共産政権から逃れるため、同様に傀儡君主であったトミスラヴ2世とともにアルゼンチンに亡命した。
 
 チェスネキーはブラジルで生存していたと見られており、1956年以降に死亡したとされている。
 
  
  
 
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2014年03月05日

ヴァーンベーリ・アールミン ハンガリーの旅行家

 
ヴァーンベーリ・アールミン
        Vámbéry Ármin
     (1832年3月19日 - 1913年9月15日)は
 
 
 ハンガリーの旅行家で東洋学者
 本 名 バンベルゲル・アールミン Bamberger Ármin
     ヘルマン・バンベルガー Hermann Bamberger
 
 
 チャッローケズ島 Csallóköz(ジトニー島)の都市、ドゥナセルダヘイ Dunaszerdahely (現在スロ バキア・ドゥナイスカー・ストレダ Dunajská Streda)に生まれる。
 
 
 青年時代にトルコへ渡り、イスタンブルに数年住む。
 
 当時、イスタンブルにはハプスブルク朝の下にあるオーストリア帝国からハンガリー王国が独立しようとした1848年革命が失敗したことでオスマン帝国へ亡命したハンガリー人のコミュニティがあった。
  
 
 アールミンは時にその世話になりつつ、オスマン帝国の高官の子弟の家庭教師などをつとめて徐々にオスマン帝国での知己を増やしていった。
 なお、トルコ語やペルシア語はこの時期に学んだという。

 
 1863年デルウィーシュ(托鉢的なイスラム教徒の修道者)に変装して東トルキスタンから訪れていた巡礼者やキャラバンに加わった。
 
 ペルシアを経由し、ブハラ、サマルカンド、カルシーを経て、ペルシアのマシュハドに帰る大旅行を行った。

 1865年からハンガリー共和国のブダペシュトに本部を置く
   エトヴェシュ・ロラーンド大学
の教授をつとめた。
 
  
 なお、ブラム・ストーカーの小説「ドラキュラ」の登場人物「エイブラハム・ヴァン・ヘルシング」は、ヴァーンベーリと面識のあったストーカーがヴァーンベーリをモデルにしたとも言われている。
 
  
  
 
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2014年03月04日

ピエール・ブラザ

 
ピエール・ポール・フランソワ・カミーユ・サヴォルニャン・ド・ブラザ
   Pierre Paul François Camille Savorgnan de Brazza
          (1852年1月26日 -1905年9月14日)
 
 
 イタリア系フランス人の探検家
 イタリア名 Pietro Paolo Savorgnan di Brazza
 
 アドリア海のもっとも奥まった部分フリーウリ地方出身の貴族の家系に生まれ、ローマから出て1874年(22歳)にフランスに帰化した。
  
 
 フランス海軍士官だった1875年にアフリカ探検隊を率いてセネガルの首都ダカールに上陸した。
 
 パリ地理学会の資金・人的な支援をうけて
   コンゴ川流域
を探検し、オゴウェ川の水源を探すために川をさかのぼった。
 
 ブラザはフランスに戻りその報告を地理学協会で講演し、 レジオン・ドヌール勲章を授けられました。
 
 ブラザは中部アフリカのフランスによる植民地化に重要な役割を担った。

 
 ベルギー国王レオポルド2世はアフリカ進出計画に加わるようブラザに要請した。
  
 ブラザがそれを辞退したところライバルでもある英国人探検家
   ヘンリー・モートン・スタンリー
が臆面もなく金目当てにベルギー国王の申し出に飛びついた。
 
 スタンリーは科学的・友愛的な装いをしつつベルギー王レオポルド2世の私的団体であった
   国際アフリカ協会
の依頼で
   文明化をもたらすという口実
によりアフリカに派遣され、現地の首長たちと条約を交わした。
 
 スタンリーが建設した道路は奴隷貿易に利用され、レオポルド2世の野望が露見してもスタンリーはその任務に留まった。
  
 
 これを知ったブラザは、急いで2度目のアフリカ探検を組織し、フランスの全権代表として、テケ族の首長
   マココ
に、コンゴの領有権をフランスに移譲する条約の交渉を行った。
 
 
 そして、1882年に正式に承認され、ブラザは西アフリカの総務長官に任命された。
 
 レオポルド2世は、コンゴの1部を自らの私有地とすることを強くブラザに要求した。


 1884年、ドイツ宰相ビスマルクが主導し
   ベルリン会議
を開催してコンゴ問題に決着をつけた。
 
 フランスはコンゴ川左岸の権利を放棄し、ブラザを植民地総務長官に任命した。
 
 一方、依然として奴隷を使用しながらコンゴの富を分け合っていた商人たちに、数百か所の土地を払い下げた。
 
 しかし、ブラザは植民地の経営に失敗し、1898年解任されました。
 
 
 その頃、2つのスキャンダルが新聞に暴露され、西欧の植民地帝国を揺るがしました。
 ベルギー領コンゴの赤色ゴムの問題で、これによりレオポルド2世は国際調査委員会の意向に従うことになりました。
 
 フランス領コンゴのゴーとトケの事件で、この地域で数々の信じがたい野蛮行為が行われていることが問題となった。
 
 フランス政府はベルギー領コンゴと同じように、外部からの仲介を受けるのを恐れ、ブラザに現地の状況を念入りに調査するよう要請した。

  
 再びコンゴを訪れたブラザは、現地で目にしたことに唖然とした。
 
 恐るべき状況に関する報告書を作成するためのメモが秘密の引き出しの中にぎっしり詰まっていた。
 
 ブラザはマラリアを患っていたものの、休む間もなくその報告をまとめた。
 
 
 しかし、帰国の途中病気が悪化し、1905年9月14日、他界してしまいまった。
 
 ブラザが亡くなって10日後、調査団はボルドーに到着し、トランクはパリに運ばれた。プラザのメモが入っていたとおぼしきトランクは、2度と家族のもとへは戻ってきませんでした。
 
 
 外務省から召喚されたジョルジュ・ヴィトンは大臣立ち会いのもとで隠し引き出しを開けるよう命じられた。
 
 なお、複雑な仕掛けの隠し引き出しの開け方を知っていたのは、ブラザ本人と彼の秘書、そしてジョルジュ・ヴィトンの3人だけであったという。
   
 
 現在のコンゴ共和国の首都であるブラザヴィルは、彼の名にちなんでいる。
 
  
  
 
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2014年03月03日

エマニュエル・ジョフロア 天然ゴムを作りだす樹木を探索

 
エマニュエル・ジョフロア
       Emmanuel Geoffroy
         (1862年 – 1894年)

 フランスの植物学者・探検家
 
 マルティニークやフランス領ギニアに旅をし、天然ゴムを作りだす樹木を探索した。
 
 また、それらの地域に生育するハリエンジュ属 (Robinia) の植物が、魚に対する毒として用いられていることをフランス領ギニアの原住民から学んだ。
 
  
 ジョフロアはロテノンを発見して
   ニコウリン (nicouline)
と名づけていたが、これは彼の死後になってから明らかにされた。

 1894年に寄生虫感染症により死去した。

  
  
 
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2014年02月03日

ジョヴァンニ・バッティスタ・ベルツォーニ 1817年にアブ・シンベル神殿の出入り口を発掘。

 
ジョヴァンニ・バッティスタ・ベルツォーニ
        Giovanni Battista Belzoni
        (1778年11月15日 - 1823年12月3日)
 
 イタリアの探検家
 
 2mを超す巨漢であったといわれており、サーカスなどで活躍した大道芸人で怪力自慢で人間ピラミッドという芸を持っていた。
 
 機械工学の専門家でもありアフリカ探検で知られ、1817年にエジプトでアブ・シンベル神殿の出入り口を発掘した。
 
 その後、カフラー王のピラミッドやセティ一世の墓を発掘している。
  
  
  
 
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