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2014年03月17日

ルネ・カイエ トンブクトゥへの探検

 
ルネ・カイエ
   René Caillié
     (1799年9月19日 - 1838年5月17日)
 
 フランスの探検家
 
 貧しいパン職人の子として生まれ11歳で孤児となった。
 
 17歳で単身アフリカに渡り苦労して金を稼いだ。セ
 
 アラビア語とイスラム教の教えや習慣を身に着けてから砂漠の民トゥアレグ族の都市
   トンブクトゥ
への旅に出発した。
 
 セネガル南部から旅を始め、マリに入り、ジェンネ、モプティを経て、ようやくトンブクトゥにたどり着いた。
 
 マリ帝国、ソンガイ帝国時代に繁栄し西欧では「黄金郷」はすでに荒廃した泥の町に過ぎず失望した。
 
 2週間現地に滞在しこの町に関する詳しい観察を書き留め、早々に帰国の途についた。
 
 帰りも苦労したがモロッコに入ってからは順調に進み、ラバットのフランス領事館に無事保護されフランスに帰国している。
 
  
  
 
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2014年03月13日

ヤーコプ・ロッヘフェーン オランダの航海者

 
ヤーコプ・ロッヘフェーン
   Jacob Roggeveen
    (1659年2月1日 - 1729年1月31日)
 
 オランダ(ネーデルラント連邦共和国)の航海者、探検家
 
 ヤーコプの父親
   アレント・ロッヘフェーン
は数学者で、地理学・天文学、また航海に関する知識があり、神話上の土地テッラ・オーストラルの研究に専念していた。
 
 息子のヤーコプが62歳にしてその土地を探すため、3艘の船で出発した。

 ヤーコプは1683年にミデルブルフで公証人となった。
 
 1690年、ハルデルワイク大学で法律を修め、1707年から1714年までバタビア(現在のジャカルタ)で裁判官として働いた。
 1715年にミデルブルフに戻っている。
 

 1721年8月1日、オーストラリア大陸を求めて、オランダ、オランダ西インド会社の3隻の帆船、Arend号、Thienhoven号、Afrikaansche Galey号からなる艦隊を率いた。
 
 フォークランド諸島に寄航した後、ルメール海峡を通過し、南緯60度まで南下し、太平洋に入った。
 
 チリのバルディビア近くに上陸し、フアン・フェルナンデス諸島に1722年2月24日から3月17日まで滞在した。
 
 1722年4月5日のイースターの日にイースター島を発見し、2,000人から3,000人の住民を見たと報告した。
 
 ツアモツ諸島、ソシエテ諸島、サモア経由でバタビアに達した。
 
 バタビアでオランダ東インド会社の独占を犯したとして逮捕された。
 その後、解放され補償が支払われ1723年に、オランダに戻った。
 
  
  
 
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2014年03月07日

チェスネキー・ジュラ マケドニア公国の国家元首

 
チェスネキー・ジュラ
     Cseszneky Gyula
   (1914年 - 1956年以後〈没年不明〉)
 
 
 第二次世界大戦中のイタリア王国の傀儡政権
   ピンドス公国・マケドニア公国
の名目的な君主、詩人かつ翻訳家で冒険家でもあった。
 
 ハンガリー王国の名門貴族
   チェスネキー家
の当主であり、チェスネキー伯爵、Milvány男爵、初代バコニ伯(Bakonyi vadgróf)ともいわれる。
 
 
 元々はカトリックの司祭を目指していたが、志半ばで軍人を志すようになった。
 
 イタリアの士官学校に通い、ピオンビー ノ公バルダッサーレ・ボンコンパーニ (en:Baldassarre Boncompagni) の援助を受けた。

 1940年のウィーン裁定後には、予備役の参謀将校としてトランシルヴァニアに進駐した。
 
 摂政ホルティ・ミクローシュよりヴィテーズ(Vitéz、勇者)・Milványiの称号を贈られた。
 
 
 1941年にはクロアチア独立国のトミスラヴ2世よりバコニ伯の称号を受けた。
 
 1943年にイタリアが建設したピンドス公国の摂政となり、その後成立したマケドニア公国では大公ユリウス1世として国家元首に就任した。
 
 ただ、どちらの場合も実権を保持していなかった。
 
 
 1943年9月にはイタリアが連合国に降伏したため、ナチスドイツの手によってバルカン半島が占領されチェスネキーは強制退位させられハンガリーに帰国した。
 
 ただ、兄チェスネキー・ミハーイ (Mihály Cseszneky de Milvány) がミカエール1世として即位するよう求められたが拒否したため公国自体が消滅した。
 
 
 チェスネキーは反ナチス主義者であり、ユダヤ人の親族もいたためゲシュタポに追われることになった。
 一方、ブダペストではナチスの迫害からユダヤ人の救出をしたため、戦後にはイスラエルより
   「諸国民の中の正義の人」
の称号を送られた。

 戦後、チェスネキーはハンガリー共産政権から逃れるため、同様に傀儡君主であったトミスラヴ2世とともにアルゼンチンに亡命した。
 
 チェスネキーはブラジルで生存していたと見られており、1956年以降に死亡したとされている。
 
  
  
 
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2014年03月05日

ヴァーンベーリ・アールミン ハンガリーの旅行家

 
ヴァーンベーリ・アールミン
        Vámbéry Ármin
     (1832年3月19日 - 1913年9月15日)は
 
 
 ハンガリーの旅行家で東洋学者
 本 名 バンベルゲル・アールミン Bamberger Ármin
     ヘルマン・バンベルガー Hermann Bamberger
 
 
 チャッローケズ島 Csallóköz(ジトニー島)の都市、ドゥナセルダヘイ Dunaszerdahely (現在スロ バキア・ドゥナイスカー・ストレダ Dunajská Streda)に生まれる。
 
 
 青年時代にトルコへ渡り、イスタンブルに数年住む。
 
 当時、イスタンブルにはハプスブルク朝の下にあるオーストリア帝国からハンガリー王国が独立しようとした1848年革命が失敗したことでオスマン帝国へ亡命したハンガリー人のコミュニティがあった。
  
 
 アールミンは時にその世話になりつつ、オスマン帝国の高官の子弟の家庭教師などをつとめて徐々にオスマン帝国での知己を増やしていった。
 なお、トルコ語やペルシア語はこの時期に学んだという。

 
 1863年デルウィーシュ(托鉢的なイスラム教徒の修道者)に変装して東トルキスタンから訪れていた巡礼者やキャラバンに加わった。
 
 ペルシアを経由し、ブハラ、サマルカンド、カルシーを経て、ペルシアのマシュハドに帰る大旅行を行った。

 1865年からハンガリー共和国のブダペシュトに本部を置く
   エトヴェシュ・ロラーンド大学
の教授をつとめた。
 
  
 なお、ブラム・ストーカーの小説「ドラキュラ」の登場人物「エイブラハム・ヴァン・ヘルシング」は、ヴァーンベーリと面識のあったストーカーがヴァーンベーリをモデルにしたとも言われている。
 
  
  
 
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2014年03月04日

ピエール・ブラザ

 
ピエール・ポール・フランソワ・カミーユ・サヴォルニャン・ド・ブラザ
   Pierre Paul François Camille Savorgnan de Brazza
          (1852年1月26日 -1905年9月14日)
 
 
 イタリア系フランス人の探検家
 イタリア名 Pietro Paolo Savorgnan di Brazza
 
 アドリア海のもっとも奥まった部分フリーウリ地方出身の貴族の家系に生まれ、ローマから出て1874年(22歳)にフランスに帰化した。
  
 
 フランス海軍士官だった1875年にアフリカ探検隊を率いてセネガルの首都ダカールに上陸した。
 
 パリ地理学会の資金・人的な支援をうけて
   コンゴ川流域
を探検し、オゴウェ川の水源を探すために川をさかのぼった。
 
 ブラザはフランスに戻りその報告を地理学協会で講演し、 レジオン・ドヌール勲章を授けられました。
 
 ブラザは中部アフリカのフランスによる植民地化に重要な役割を担った。

 
 ベルギー国王レオポルド2世はアフリカ進出計画に加わるようブラザに要請した。
  
 ブラザがそれを辞退したところライバルでもある英国人探検家
   ヘンリー・モートン・スタンリー
が臆面もなく金目当てにベルギー国王の申し出に飛びついた。
 
 スタンリーは科学的・友愛的な装いをしつつベルギー王レオポルド2世の私的団体であった
   国際アフリカ協会
の依頼で
   文明化をもたらすという口実
によりアフリカに派遣され、現地の首長たちと条約を交わした。
 
 スタンリーが建設した道路は奴隷貿易に利用され、レオポルド2世の野望が露見してもスタンリーはその任務に留まった。
  
 
 これを知ったブラザは、急いで2度目のアフリカ探検を組織し、フランスの全権代表として、テケ族の首長
   マココ
に、コンゴの領有権をフランスに移譲する条約の交渉を行った。
 
 
 そして、1882年に正式に承認され、ブラザは西アフリカの総務長官に任命された。
 
 レオポルド2世は、コンゴの1部を自らの私有地とすることを強くブラザに要求した。


 1884年、ドイツ宰相ビスマルクが主導し
   ベルリン会議
を開催してコンゴ問題に決着をつけた。
 
 フランスはコンゴ川左岸の権利を放棄し、ブラザを植民地総務長官に任命した。
 
 一方、依然として奴隷を使用しながらコンゴの富を分け合っていた商人たちに、数百か所の土地を払い下げた。
 
 しかし、ブラザは植民地の経営に失敗し、1898年解任されました。
 
 
 その頃、2つのスキャンダルが新聞に暴露され、西欧の植民地帝国を揺るがしました。
 ベルギー領コンゴの赤色ゴムの問題で、これによりレオポルド2世は国際調査委員会の意向に従うことになりました。
 
 フランス領コンゴのゴーとトケの事件で、この地域で数々の信じがたい野蛮行為が行われていることが問題となった。
 
 フランス政府はベルギー領コンゴと同じように、外部からの仲介を受けるのを恐れ、ブラザに現地の状況を念入りに調査するよう要請した。

  
 再びコンゴを訪れたブラザは、現地で目にしたことに唖然とした。
 
 恐るべき状況に関する報告書を作成するためのメモが秘密の引き出しの中にぎっしり詰まっていた。
 
 ブラザはマラリアを患っていたものの、休む間もなくその報告をまとめた。
 
 
 しかし、帰国の途中病気が悪化し、1905年9月14日、他界してしまいまった。
 
 ブラザが亡くなって10日後、調査団はボルドーに到着し、トランクはパリに運ばれた。プラザのメモが入っていたとおぼしきトランクは、2度と家族のもとへは戻ってきませんでした。
 
 
 外務省から召喚されたジョルジュ・ヴィトンは大臣立ち会いのもとで隠し引き出しを開けるよう命じられた。
 
 なお、複雑な仕掛けの隠し引き出しの開け方を知っていたのは、ブラザ本人と彼の秘書、そしてジョルジュ・ヴィトンの3人だけであったという。
   
 
 現在のコンゴ共和国の首都であるブラザヴィルは、彼の名にちなんでいる。
 
  
  
 
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2014年03月03日

エマニュエル・ジョフロア 天然ゴムを作りだす樹木を探索

 
エマニュエル・ジョフロア
       Emmanuel Geoffroy
         (1862年 – 1894年)

 フランスの植物学者・探検家
 
 マルティニークやフランス領ギニアに旅をし、天然ゴムを作りだす樹木を探索した。
 
 また、それらの地域に生育するハリエンジュ属 (Robinia) の植物が、魚に対する毒として用いられていることをフランス領ギニアの原住民から学んだ。
 
  
 ジョフロアはロテノンを発見して
   ニコウリン (nicouline)
と名づけていたが、これは彼の死後になってから明らかにされた。

 1894年に寄生虫感染症により死去した。

  
  
 
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2014年02月03日

ジョヴァンニ・バッティスタ・ベルツォーニ 1817年にアブ・シンベル神殿の出入り口を発掘。

 
ジョヴァンニ・バッティスタ・ベルツォーニ
        Giovanni Battista Belzoni
        (1778年11月15日 - 1823年12月3日)
 
 イタリアの探検家
 
 2mを超す巨漢であったといわれており、サーカスなどで活躍した大道芸人で怪力自慢で人間ピラミッドという芸を持っていた。
 
 機械工学の専門家でもありアフリカ探検で知られ、1817年にエジプトでアブ・シンベル神殿の出入り口を発掘した。
 
 その後、カフラー王のピラミッドやセティ一世の墓を発掘している。
  
  
  
 
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2014年01月01日

クロンファートのブレンダン 「聖ブレンダンの航海」(Immram )で名高い。

 
クロンファートのブレンダン
         聖ブレンダン
    Saint Brendan of Clonfert
        (484年頃 - 578年頃)
 
 
 航海者ブレンダン、旅行者ブレンダンとも呼ばれる初期ケルト系キリスト教の聖人
 聖公会・カトリック教会・正教会で崇敬されている。
 
 
 ローマ・カトリックでの祝日は5月16日、正教会では1月15日。
 
 
 主として半ば伝説と化した楽園探索
   「聖ブレンダンの航海」(Immram )
で名高い。
 
 484年、ブレンダンは現在のアイルランド南西部ケリー州トラリー近郊に生まれた。
 
 アードファート司教聖エルクによって洗礼を受け、5年間、聖アイタの元で学んだ。
 その後聖エルクの元でさらに勉学を仕上げ、512年に聖職者となった。
 
 
 512年から530年にかけてアードファートやブレンダン山の麓に瞑想を行うための隠居所を建てた。
 ここから、7年かけた有名な楽園探索の航海に出発、8世紀の記録で60名あまりが同行したという
 
 
 9世紀の『航海者聖ブレンダンの旅行』に記述された
   祝福された土地(ティル・ナ・ノグ)
への伝説の旅で名高い。
 
 60名の巡礼を引き連れての大西洋への旅など14もの変形版があり、アメリカ大陸を発見したというものまである。
 

 一般的に物語が宗教的寓話であることから推測され、伝説が事実をふまえてのものか、創作された物か、ブレンダンが到達した祝福の地は実際のアメリカ大陸だったのか、という疑問がある。
 
 
 アイルランド人冒険家
   ティム・セヴェリン
はブレンダンの寓話を事実と踏まえて、聖ブレンダンの航海になぞらえて革張りのボートでもしかして北アメリカに到達できるのではと考え、これを実行した。
 
 なお、クリストファー・コロンブスも聖ブレンダンの航海を知っており、大西洋を横断すればアジアへ行くことは可能だと考えていたという。
 
  
 アイルランドへ帰国したブレンダンは、残りの人生を送ったAnnaghdownに司教座を創設した。
 アイルランド教会によって列聖され、祝日は5月16日。
 
 アードファートに司教座が創設されると、トモンドからその座を受け継ぎ、コニー島に550年頃修道院を建設した。
 
 その後、再びウェールズとアイオナへ向かい、グレートブリテン島で3年間の福音伝道をした。
 
  
  
 
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posted by まねきねこ at 09:04 | 愛知 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | バイオグラフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする