市場散歩   注目銘柄   One Milestone   証券会社

2025年03月10日

ウィリアム・ヘンリー・ヴァンダービルト(William Henry Vanderbilt)鉄道財閥ヴァンダービルト家の当主

ウィリアム・ヘンリー・ヴァンダービルト(William Henry Vanderbilt)
   1821年5月8日 ー 1885年12月8日
 アメリカ合衆国の実業家、鉄道財閥ヴァンダービルト家の当主。
 1821年、ニュージャージー州ニューブランズウィックで生まれた。
 海運業・鉄道事業で財を成し、「提督(The Commodore)」の異名をとった
と、その妻のソフィア・ジョンソン(1795年 - 1868年)の間の第2子、長男として生まれた。
 1877年、亡くなった父から1億ドル近くを相続した。
 その後、9年以内に1億9,400万ドルまで財産を増やした。
 彼が亡くなった時、彼は世界一の富豪であった。
 1841年、長老派教会の牧師の娘
   マリア・ルイーザ・キッサム(1821年 - 1896年)
と結婚した。 
 1882年10月9日、シカゴ・デイリー・ニューズのインタビューで「鉄道は『親愛なる市民』のために動いているのではない。これに関しての批判はナンセンスだ。投資をすることによって利益を得る人のために動いている。」と語った。
 1883年、郵便物を輸送する汽車の廃止について記者に問われた際、「人々のためになんて。自分達のためでなく誰かのためになんてそんな馬鹿馬鹿しい考えは持っていない。」(1882年10月9日のシカゴ・デイリー・ニュースのインタビューによる)と答えた。
 父親のコーネリアスはウィリアムを「ばか者」と呼び、度々叱ったり批判したりした。
 彼は「ばか者」ではないことを証明したかったが、父への畏怖のため立ち向かうことはできなかった。
 
 父によって有能な実業家となるよう厳しい教育を受けた。
 19歳でニューヨークの銀行に入社した。
 1862年にスタテンアイランド鉄道に重役として入社し、すぐに同社の社長に就任している。
 1865年にはハドソン川鉄道の副社長の肩書も得た。
 1869年にニューヨーク・セントラルおよびハドソン川鉄道の副社長になり、1877年に父が死ぬと社長の座を引き継いだ。
 同時に、レイクショア・アンド・ミシガン・サザン鉄道、カナダ南部鉄道、ミシガン・セントラル鉄道の社主にもなった。
 彼は積極的に鉄道業を拡大し、ヴァンダービルト家に多大な富を追加した。
 1883年、退職し、息子達が彼の所有する鉄道会社の社長職を継ぎ、彼が亡くなると膨大な遺産を引き継いだ。
 この時、ヴァンダービルト家の世代交代を世間に認知されることとなり、ヴァンダービルトは
を祖とするアスター家の富をはるかにしのぎ、その直系のニューヨーク市の上流階級出身の
   アルヴァ
と息子
が結婚することとなった。
 この結婚を機にアメリカのゴールデン・エイジの上流階級の仲間入りとなった。
 彼と妻の間には4人の息子、4人の娘の計8人の子供がいる。
 ヴァンダービルトは積極的な慈善家でもあり、キリスト教青年会、メトロポリタン歌劇場の創立、コロンビア大学医学部の寄贈などを行なった。
 1880年、テネシー州ナッシュビルのヴァンダービルト大学に聖書学部、図書館、160室の寮、講堂、カフェテリアを備えた
   ウェズリー・ホール
の建設のための費用を寄付した。
 1932年、この建物は火事により焼失し、彼の息子
   フレデリック・ウィリアム
は保険でまかなえない分を補填し、新しい建物の建設に協力した。
 ヴァンダービルトは熱心な芸術愛好家でもあり、
   オールド・マスター
の価値の高い作品などを含むコレクションを所蔵し、生涯で200枚以上の絵画を5番街にある豪華で宮殿のような大邸宅に所有していた。
 膨大な富にもかかわらず、彼自身は幸せとは言い難かった。
 死の直前、「2億ドルを背負うのは容易ではない。簡単に人を殺せる金額だ。そこには何の喜びもない」と語ったとされる。
 1883年、全ての会社の社長職を更新し息子達を重役に据えたが、徐々にその職を離れ、経験のある者がその職に就いた。
 1885年12月8日、ニューヨーク市で亡くなった。
 ニューヨークのスタテンアイランドのニュー・ドープにあるモラヴィア兄弟団墓地のヴァンダービルト家の霊廟に埋葬された。
 彼の遺産は8人の子供と妻に分配され、その主要部分は年長の息子である
   コーネリアス2世
に譲渡された。
   
   
posted by まねきねこ at 21:19 | 愛知 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | バイオグラフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

米韓連合訓練「フリーダムシールド」きょう開始されるも、誤爆事故で射撃格訓練は中断

 米韓軍当局が10日から20日まで朝鮮半島防御のための定例連合訓練「フリーダムシールド(FS、自由の盾)演習を実施する。
 戦闘機の誤爆事故があったため射撃訓練は行われない。
 韓国軍の合同参謀本部は、朝鮮半島全面戦争状況を仮定した
   指揮所訓練(CPX)のFS演習シナリオ
と連係し、地・海・空、サイバー、宇宙など全領域にわたる
   連合野外機動訓練(FTX)
を進行すると明らかにした。

 両国はFSの期間中、連合野外機動訓練を昨年の10件から今年は16件に増やして進める計画だ。
 特に衛星利用測位システム(GPS)かく乱、サイバー攻撃、ドローンを利用した攻撃をはじめ、北朝鮮軍のロシア派兵で最近表れた戦術的変化などをシナリオに反映して訓練を進行する予定だと、合同参謀本部は説明した。
FS演習と関連した各部隊の野外機動訓練中の射撃訓練は、6日に発生した戦闘機誤爆事故のため行われない。

 これに先立ち国防部は韓国軍のKF−16戦闘機2機が空対地爆弾MK−82を射撃場でなく、誤って民間施設等に8発投下し、数十人が負傷する誤爆事故が発生したため、正確な事故の原因が究明されるまで小銃射撃を含むすべての射撃訓練を中断することにした。
 また、空軍が戦闘機誤爆事故後に対北朝鮮監視・偵察と非常待機など一部の必須戦力を除いて、すべての機種の飛行を制限しているという点も野外機動訓練に一部の影響を及ぼすとみられる。
 一方、北朝鮮は韓米連合訓練を「北侵略演習」と反発してきたため、今回もこれを口実に武力示威をする可能性がある。
 北朝鮮は7日、国営メディアを通じてFS演習に対し「悪意的なあらゆる兆候をもれなく備えていて、最悪の変移を繰り返した」とし「近く朝鮮半島に情勢悪化の暴風をもたらすだろう」と非難した。

    
posted by まねきねこ at 09:14 | 愛知 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | onemile stone | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

中国消費者物価指数(CPI)で根強いデフレ圧力を浮き彫り、2月は約1年ぶりの下落

 中国の消費者物価指数(CPI)は先月、1年1カ月ぶりの下落に転じた。
 ただ、季節要因による統計上のゆがみがあるものの、世界2位の経済大国が直面しているデフレ圧力の根強さを示している。

 国家統計局が9日発表した2月のCPIは
   前年同月比ー0.7%
に低下した。
 1月は0.5%上昇していた。
 なお、ブルームバーグが調査したエコノミストの予想は0.4%低下だった。

 2月の生産者物価指数(PPI)は
   前年同月比ー2.2%
の低下となった。
 1月の2.3%低下からマイナス幅が縮小したが、2年5カ月連続の前年割れとなった。

 なお、今年は春節(旧正月)の連休期間が昨年より早く、これが統計に影響したとも考えられる。
 今年の春節連休は1月28日−2月4日で昨年は2月中だったためだ。

 中国政府は2025年のインフレ率目標を2%前後と、ここ20年余りで最も低い水準に設定している。
 最高指導部がようやくデフレが経済を圧迫していると認識したことを示す兆候だが、対応の遅れも世論からの反発を抑え込むための工作のひとつだ。

 ブルームバーグ・エコノミクス(BE)の朱懌エコノミストではリポートで、「物価上昇圧力の弱さは今後も続くだろう。政府が25年のCPI上昇率目標を2%にしたことは、デフレリスクを回避するため需要喚起を優先させるというシグナルだ」と指摘した。

 中国習近平が率いる政府による経済再活性化の緊急性が高まっている。
 北京で5日開幕した全国人民代表大会(全人代、国会に相当)では、米国との貿易戦争激化の脅威にもかかわらず、今年も5%前後との野心的な経済成長率目標を発表した。
 政府は財政刺激策を強化し、国内消費を増やす計画も打ち出している。
  
 
posted by まねきねこ at 09:00 | 愛知 | Comment(0) | TrackBack(0) | onemile stone | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

米国はG7の「シャドーフリート」対策部会設置に反対すると、関係者が明かした。

 米政府は対ロシア制裁に違反し原油・石油商品を運ぶタンカー
   「シャドーフリート(影の船団)」に対処する作業部会の設置
を目指す今年の主要7カ国(G7)議長国カナダの提案を拒否した。
 この事情に詳しい関係者がメディアの取材で明らかにした内容が市場に流れ出した。
 多国籍の枠組みや機関における米国の立場について、トランプ政権は再検証を行っており、プーチン政権による独裁者としての権力を維持させる取り組みを支援する目論見になっている。
  
 カナダは月内にケベック州シャルルボアでG7外相会合を開催する。
 ただ、海洋問題に関する共同声明の策定に向けた交渉において、米国は中国についての文言を強める一方で、ロシアへの言及を弱めるよう働きかけている。
 非公開情報だとして関係者が匿名を条件に語ったもの。
  
 なお、ジョリー・カナダ外相の報道官は進行中の交渉についてコメントしないとメディアの質問に対して答えたうえ、米国務省の報道官もメディアからの電子メールでのコメント要請にすぐに応じなかったという。
   
    
posted by まねきねこ at 08:23 | 愛知 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | onemile stone | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

金融界ではなく実体経済や中小企業、消費者がトランプに反発しかねない環境がトランプ関税や放言の繰り返しで作り出されている。

 投資家出身のベッセント氏は、トランプ政権の焦点はウォールストリートではなくメインストリート、つまり金融界ではなく実体経済や中小企業、消費者だとの考えを示した。

 ただ、7日に発表された2月の雇用統計は、 雇用の伸びが堅調に推移した一方、失業率はわずかに悪化と、相反する内容となった。
  
 連邦政府職員の削減を進める権限を
   イーロン・マスク
に与えたトランプ氏は製造業の雇用が増えていると言及した。
 また、「労働市場は素晴らしいものになるだろう。政府の仕事ではなく、高い給料を支払う製造業の仕事を提供するだろう」と自画自賛したが、世論調査に8割の米国民がトランプ政治に求めるものとは大きな隔たりがあり、口先だけで逃げようとしても批判の矛先は避けられないだろう。
  
  
ひとこと
 大統領への政策の批判が抑制されるのは4月に入る頃までの猶予でしかない。
 今のところは、見ているだけの米国民も、強く反発が広がるまでの時間が限定的なトランプには毎日少なくなっている。
 こうした点に注目し、出来事を見る事が必要だろう。
posted by まねきねこ at 08:12 | 愛知 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | onemile stone | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ウォール街だけでは物事は進まない

 保守系のシンクタンク、ヘリテージ財団
   EJアントニ研究員
は、「ウォール街の人々には適応期間が必要だろう。関税を導入したからといって、天が落ちてくるわけではない」と指摘した。

ひとこと
 ただ、保守系のシンクタンクの描く未来がトランプの政治手法では悪夢を描きかねず、米国民が現実野中に叩き込まれれば、人の心理も大きく変化することになり、場合によっては、ウォール街もクラッシュすることになる可能性が高まる。

   
posted by まねきねこ at 08:04 | 愛知 | Comment(0) | TrackBack(0) | onemile stone | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

夢想家か?トランプ大統領が世論の批判が広がっている景気減速懸念をかわすため、米経済は「過渡期」にあると主張するが根拠不明

  トランプ米大統領は9日放送のFOXニュースの番組「サンデー・モーニング・フューチャーズ」で、米経済の年内の
   リセッション入りを予想しているか
との質問に、「私はそのようなことを予測するのは嫌いだ。われわれは非常に大きなことを行っているので過渡期がある」とコメントし、
   関税と連邦職員削減に重点を置く政策
が市場の混乱を招く中、米経済は「過渡期にある」と主張し、景気減速リスクを巡る懸念をかわそうと躍起になっている。

 トランプ氏の発言は先週の上下両院合同会議での施政方針演説や、ベッセント財務長官を含む政府高官の最近のコメントとおおむね一致している。
 減税と関税収入が
   景気を浮揚させるとの見通し
がトランプ氏のチームの主張の核になっているが、自由経済を抑制する政策ため過去に享受してきた米国経済の繁栄は遠のくことになりそうだ。

 そもそも、トランプ氏の一貫性を欠いた関税政策は投資家の動揺を招いており、テクノロジー株の売りを誘発。ボラティリティーは数年ぶりの高水準に拡大した。
 投資家出身のベッセント氏は7日、CNBCとのインタビューで、米経済は政府支出への依存を断ち切るための「デトックス」が必要だと発言した。
 しかし、債券トレーダーは米経済が失速するリスク拡大のシグナルを発しており、トランプ政権の暴走が目立ち、経済対応が後手に回っているといった見方を打ち消す事はできない。

 トランプ氏は4日夜の演説で、
   自身の包括的な関税政策
の実施に伴い「調整期間」が生じる可能性があると認めたうえ、「多少の混乱はあるだろうが、われわれはそれでOKだ。大したことではない」と語ったが、国内物価の急上昇が引き起こされるリスクに対しての対応を冠gなえれば、時間的な齟齬が起こり、そもそも出来ないだろう。

 先週のS&P500種株価指数は週の最後に持ち直したが、週間ベースでは昨年9月以来の大幅安となったままだ。

 しかし、トランプ氏は9日放送の同番組で自らの手法を弁護し言い逃れに終始しており、「われわれは米国に富を取り戻している。これは大きなことだ」と自画自賛したが、底は浅い。
  
   
posted by まねきねこ at 08:00 | 愛知 | Comment(0) | TrackBack(0) | onemile stone | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

トランプ政権のメッセージが変化「痛みなくして米経済の復活なし」と米国民に要求しかけた。

 米国経済は病んでいるという認識にある
   トランプ大統領
は、経済の立て直しという公約を掲げて選挙戦を勝ち抜いたが、2期目のトランプ政権が始まってから1カ月半が過ぎ、トランプ政治がダッチロール化してしまっており
   その治療は痛みを伴い得る
という兆候が表れ始めている。
  
 トランプ氏は伝道師のごとく
   「黄金時代」が到来するというビジョン
を米国民に語り続けてきたが、
   関税計画とその実施時期の先送りなどの撤回
が相次ぎ、
   世界的な貿易戦争と株式相場の急落
を引き起こした1週間を経て、トーンはやや変化したが、未だ夢想状態のままで放言を繰り返しているようだ。
  
 トランプ氏は連邦議会で4日夜行った施政方針演説では、「関税は米国を再び豊かにし、再び偉大にするためのものだ。そして、それは実現しつつあり、すぐに実現するだろう」と述べた上で、「多少の混乱はあるだろうが、われわれはそれでOKだ。大したことではない」と強調したが、米国民が
関税の上乗せを負担する現実に目を外らせている状況だ。
  
 ベッセント財務長官は7日、「市場も経済も中毒になっていた。われわれは政府支出に病みつきになっていた」と指摘。したうえ「この先はデトックス(解毒)の期間になる」と話し、強い逆風が米国民の懐を直撃し金を巻き上げることを予告しともいえる。
  
 トランプ氏が自身の政策を推し進める中、少し前まではそれほど厄介には見えなかった幾つかの厳しい現実が立ちはだかっており、米国民にハネムーン期間を過ぎた現実を突きつけることになり、白人貧困層の支持が強いトランプに対する失望感が広がりそうだ。
  
 特に同氏は当初発表していた関税の一部を撤回しながらも、
   新たな関税を課すとの方針
をそもそも変えていないため、インフレの抑制は容易ではないとみられている。
 消費者や投資家の不安が募り、経済は減速しつつある。
  
 トランプ氏はかつて自身のパフォーマンスを株式相場で測っていた。
 しかし、今では考えを一変させて無視する形となっており、全て投資家が悪いといった構図を作り出そうとしているようにも見える。
  
 カナダとメキシコとの貿易戦争を辞さないとするトランプ氏が議会演説する数時間前、S&P500種株価指数は昨年の大統領選以後の安値を記録したうえ、週間ベースでも下落した。
  
 米国債も週間で値下がりしたが、ガソリン価格下落への期待を支える原油安は明るい材料だった。
  
  
posted by まねきねこ at 07:45 | 愛知 | Comment(0) | TrackBack(0) | onemile stone | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

金スポット相場は週間ベースでは上げた。

 NY時間、金スポット相場は小幅続落していた。
 ただ、週間ベースでは上げた。
 
 米国のトランプ関税に関するニュースが
   値動きを荒く
したうえ世界経済の見通しに対する
   不透明感を強めた
ため、安全資産を求める動きとなった。

 関税が消費者物価の上昇と成長の鈍化につながり、物価安定と雇用の最大化という金融当局の2大責務に課題を突きつけるとエコノミストはみている。
 金利を生まない金にとって、金利低下は買い材料となる傾向があるが、米国のトランプ政権による失政が影響しスタグフレーションに突入する場合のリスクヘッジで米国内の投資家が現物の貴金属を確保するために欧州から金や銀などを大量に現物移動させており、米国の貿易収支の悪化にも繋がっている。
 また、中国の中央銀行は2月、金準備を4カ月連続で拡大した。
   
 ニューヨーク商品取引所の金先物4月限は
   1オンス=2914.10ドル
と前日比ー12.50ドル(0.4%)くなった。
   
    
posted by まねきねこ at 02:00 | 愛知 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | onemile stone | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年03月09日

ドワイト・モロー(Dwight Morrow)米国の実業家 投資銀行JPモルガンの設立パートナー

ドワイト・ホイットニー・モロー(Dwight Whitney Morrow)
   1873年1月11日 - 1931年10月5日
 米国の実業家、外交官、政治家であり、メキシコの宗教紛争である
   クリステロの反乱(1926年 - 1929年)
の仲裁を行い、米国とメキシコの関係を改善した米国大使として最もよく知られている。
 また、石油をめぐる二国間の紛争の緩和にも貢献した。
 モロー使節団のメキシコ派遣は「帝国主義からの撤退における重要な一歩」であった。
 彼はアン・モロー の父であり、
   チャールズ・A・リンドバーグ
の義父である。
 スコットランド系アイルランド人の家系であるモローは、ウェストバージニア州ハンティントンで生まれた。
 1875年、両親のジェームズ・エルモアとクララ(ジョンソン)・モローと共にペンシルベニア州アレゲニーに移住した。
 父ジェームズはマーシャル大学(現在のマーシャル大学)の学長であった。
 モローの高祖父アレクサンダー・モローは、1803年頃にアイルランドからアメリカに移住した。
 それ以前は、アレクサンダーの先祖はスコットランドから来ていた。
 1895年にアマースト大学を卒業後、モローはコロンビア大学ロースクールで法律を学び、ニューヨーク市のシンプソン・サッチャー・アンド・バートレット法律事務所で弁護士として働き始めた。
 1903年、大学時代の恋人エリザベス・リーブ・カッターと結婚し、4人の子供に恵まれた。
 娘のアン・モローは、父がメキシコ大使だったときに知り合ったチャールズ・A・リンドバーグと後に結婚した。
 1913年、彼は当時の米国で最大かつ最も強力な商業銀行および投資銀行の一つであるJPモルガンのパートナーとなり
   3M
などの産業大手に資金援助を行った。
 モルガンのパートナーとして、彼は多くの企業や金融機関の取締役を務めた。
ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発すると、銀行は英国とフランスに多額の資金を貸し付け、両国はそれを使って米国で軍需品を購入した。
 米国が参戦すると、モローはニュージャージー州の国家戦時貯蓄委員会の委員長となった。
 また、海外では連合国海上輸送会議の顧問や連合国軍補給委員会の文民委員を務めた。その兵站および知的才能が認められたモローは、ウッドロウ・ウィルソン大統領の指示でフランスに派遣され、
   ジョン・J・パーシング将軍
の主任文民補佐官を務めた。

 1925年、モローはアマースト大学の旧友で友人の
   カルビン・クーリッジ大統領
から、米国の航空に関する調査委員会を率いるよう召喚された。
 同年9月、クーリッジ大統領は「軍の秩序と規律を害する行為」を理由に陸軍航空隊の
   ビリー・ミッチェル大佐
の軍法会議を命じた。
 裁判は11月に予定されていた。
 裁判に対する政治的な反発を予想し、自身の経済観に基づいて航空政策を形作ろうとしたクーリッジは、モローに軍と民間の航空専門家からなる委員会を率いて航空のあらゆる側面を調査するよう依頼した。
 ミッチェルの有罪判決前に公表された委員会の報告書は、陸軍内に通信部隊や補給部隊に相当する航空隊を創設することを勧告し、その結果1926年7月に アメリカ陸軍航空隊が設立された。

 モローはクーリッジ大統領によって1927年から1930年まで駐メキシコ大使に任命された。
 このニュースを知ったメキシコの報道機関は、金融会社JPモルガンのパートナーの任命は「ドル外交への回帰」であると予想した。
 しかし、クーリッジ政権はメキシコと米国の関係を変える計画を立てており、モローはそれを実行することになっていた。モローがメキシコで最初に行ったことの1つは、大使館を示す標識を「アメリカ大使館」から「米国大使館」に変更することだった。
 「アメリカ」や「アメリカ人」という言葉を米国だけを指すために流用することは、メキシコを含む西半球の他の国々を長い間苛立たせていた。
 モローは、大衆の支持とメキシコ政府への健全な経済財政上の助言を融合させた素晴らしい大使として広く称賛された。
 1927年、彼は人気ユーモア俳優の
   ウィル・ロジャース
と有名な飛行家の
   チャールズ・リンドバーグ
をメキシコ親善旅行に招待した。
 彼の娘のアン・モローはリンドバーグに紹介され、二人はすぐに婚約した。
 モローは別荘を所有していたクエルナバカの町に感謝するため、メキシコ革命後の観点から見たメキシコの歴史を年代記とするコルテス宮殿の壁画をメキシコ人芸術家の
   ディエゴ・リベラ
に依頼した。 

 モローはプルタルコ・エリアス・カジェス大統領(1924年 - 1928年)との朝食会を数回企画し、石油や灌漑からメキシコの宗教的反乱まで幅広い問題について議論した。
 このため、モローは米国の新聞で「ハムと卵の外交官」というあだ名を付けられた。
 モローはまた、ロジャーズを自分とカジェスのメキシコ旅行に同行するよう招待した。
 ロジャーズはメキシコとメキシコ人に関する好意的なヒューマン・インタレスト記事を米国の新聞に送り、米国のメキシコに対する認識を変えるのに貢献した。
 メキシコの石油をめぐる紛争では、米国やその他の外国の石油会社がメキシコにおける権益の保護を要求し、モローはメキシコによる油田の国有化を阻止するのに貢献した。
 しかし、国有化は10年後の1938年に行われた。
モローの最も有名な業績は、メキシコ政府とメキシコのカトリック教会との間の紛争の調停であった。こ
 の紛争はクリステロの反乱として知られる暴力的な武装蜂起にまでエスカレートしていた。
 紛争地域から米国にメキシコ難民が逃げ込んでいることもあり、南の隣国でこのような国内混乱が起きることは米国の安全保障上の利益にはならない。
 モローの調停努力は成功し、全国カトリック福祉会議のジョン・J・バーク神父の援助も受けた。
 バチカンもメキシコでの和平を積極的に模索していた。

 1928 年に再選された
   アルバロ・オブレゴン大統領
が暗殺された後、前大統領のカジェスは任期制限により再任の資格を失い、メキシコ議会は
   エミリオ・ポルテス・ヒル
を大統領に指名した。
 事実上、カジェスはマキシマトと呼ばれる期間に権力を握り続けた。
 1928 年 12 月に暫定大統領となった
   ポルテス・ヒル
は、モローとバークに和平構想を復活させる許可を与えた。
 ポルテス・ヒルは 5 月 1 日に外国特派員に「カトリックの聖職者は、国の法律を尊重するという唯一の義務を負う限り、望むときに儀式を再開することができる」と語った。

 モローは1929年6月21日に戦争当事者間の合意に至った。彼の事務所は、メキシコでの礼拝再開を認めるアレグロス(合意)と呼ばれる協定を起草し、カトリック教徒に3つの譲歩を与えた。
 すなわち、聖職者上位者によって指名された司祭のみ登録を義務付けること、教会での宗教教育(学校では不可)を許可すること、聖職者を含むすべての市民が法律改正の請願を行えるようにすることであった。
 1917年憲法の反教権条項はそのまま残されたが、体系的に施行されることはなかった。
 1930年、モローは
   ウォルター・エヴァンス・エッジ
の辞任によって生じた空席を埋めるため、共和党員としてアメリカ合衆国上院議員に選出された。
 同時に、1931年3月4日から始まる任期いっぱいの議員に選出された。
 同年、彼はアメリカ哲学協会の会員に選出された。
 彼は1930年12月3日から1931年10月5日に ニュージャージー州イングルウッドで死去するまで上院議員を務めた。
 
 ニューヨーク市での講演の後、モローはニュージャージー州イングルウッドの自宅で睡眠中に脳卒中を起こし、1931年10月5日の翌日の午後に亡くなった。
 JPモルガンのパートナーであったモローは、ニュージャージー州で最も裕福な人物の一人でした。
 モローの死は、共和党のモーガン・フォスター・ラーソン知事がモローの後任としてウィリアム・ウォーレン・バーバーを米国上院議員に任命する次の選挙の30日以内に起こった。
 モローはイングルウッドのブルックサイド墓地に埋葬された。
 モローの遺言は1927年1月24日の日付で、アマースト大学に20万ドル、スミス大学に20万ドル、スミソニアン協会に10万ドル、その他家族や友人への遺贈など、100万ドルを超える特定の遺贈が記されていた。
 遺産は約1,000万ドル(2024年の価値で1億8,100万ドルに相当)と評価された。
 ニュージャージー州に100万ドルという巨額の相続税を支払ったことで、同州は財政均衡を図ることができた。
 さらに、 1929年にはアン・モロー・リンドバーグのために100万ドルの信託基金が設立されていた。
 モローの個人文書は、アマースト大学ロバート・フロスト図書館のアーカイブおよび特別コレクションに保管されている。
 1934年、ベティ・モローは、英国の外交官で作家のハロルド・ニコルソンに亡き夫の決定的な伝記を書くよう依頼した。
 ニコルソンは数か月間、イングルウッドとメイン州に滞在し、家族やJPモルガンのモローのパートナー、元メキシコ大統領プルタルコ・エリアス・カジェスへのインタビューを本にまとめた。
 それは1935年10月に『ドワイト・モロー』として出版された。

 1932 年に設立されたドワイト・モロー高校は、彼に敬意を表して名付けられた。
 この学校は、ニュージャージー州イングルウッドとイングルウッド クリフスの生徒を対象とする公立学校である。
 第二次世界大戦の 自由船 SS ドワイト・W・モロー号は彼に敬意を表して命名された。

   
posted by まねきねこ at 13:39 | 愛知 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | バイオグラフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする