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2025年09月02日

ジェイク・グジク(Jake Guzik)シカゴ・アウトフィットの財務・法律顧問

ジェイク・「グリースィー・サム」・グジク(Jake "Greasy Thumb" Guzik)
   1886年3月20日 - 1956年2月21日
 シカゴ・アウトフィットの財務・法律顧問であり、後に政治的な「グリース」となった。
 グジクは1886年3月20日、オーストリア=ハンガリー帝国のガリツィア=ロドメリア王国クラクフ近郊で、プロイセン領シレジアのカトヴィッツ出身のドイツ系ユダヤ人の両親のもとに生まれた。
 グジクは20世紀初頭にアメリカ合衆国に移住し、後に兄のハリーと共にシカゴのサウスサイド、リービーの歓楽街で売春、そして性的奴隷とされる行為に手を染め、最終的には
と繋がりのあるライバル
を廃業に追い込んだ。
 彼は後に、セント・ヒューバートの
   オールド・イングリッシュ・グリル&チョップ・ハウス
を拠点とする、強力な政治ボス兼「フィクサー」となった。
 そこでグジックは、様々な警察署や市役所の職員に予定通り賄賂を届ける「バッグマン」の相手をしていた。
 1920年代初頭、
   アル・カポネ暗殺計画
を耳にしたとされるグジックは、カポネに密告した。
 後にシカゴ・アウトフィットと手を組んだ。
 カポネの下で、グジックはアウトフィットの信頼できる会計係兼金融の達人となった。
 グジックはカポネ、そして後に
のために働いた。
 なお、グジックは銃を使うことも人を殺したりすることもできなかったため、カポネは彼を庇護した。
 それは、1924年5月、グジックはフリーランスのハイジャック犯
   ジョー・ハワード
と口論になり、平手打ちや蹴りを浴びせられた。
 抵抗できないグジックはカポネに事の顛末を話した。
 カポネはハワードを探し出し、サウス・ワバッシュ・アベニューにある
   ハイニー・ジェイコブ
の酒場でハワードを轢き殺した。
 そこでハワードは「あの小娘を泣き言を言わせた」と自慢していた。
 ハワードはカポネを見つけると手を差し出し、「やあ、アル」と声をかけた。
 しかし、カポネはハワードの肩を掴み、激しく揺さぶり、なぜハワードが友人を虐待したのか問い詰めた。
 「お前の女の所へ帰れ、このポン引きめ」とハワードは答えた。
 するとカポネは無言で拳銃を取り出し、ハワードの顔面に突きつけ、数秒後、銃弾を撃ち込んだ。
 シカゴを組織化しようと試みる中で、カポネは様々なギャング抗争においてグジックの助言をすぐに信頼するようになった。
 グジックは警察や政治家への賄賂の金庫番も務めており、
   「グリースィー・サム」
というあだ名の由来となった。
 この数年後、カポネの健康状態が悪化すると、グジックはカポネとその家族が何不自由なく暮らせるよう尽力した。
 1940年代から1950年代にかけて、全米のシンジケートが
   ビッグ・シックス
によって支配されていた時代、グジックとアッカルドは毎週東部へ飛び、組織の他の幹部たち、
と会っていた。
 グジックが直面した唯一の深刻な法的トラブルは
   IRS(内国歳入庁)
とのもので、最終的には数年間の服役を強いられた。
 また、キーフォーバー委員会の公聴会では、質問への回答が「私に対する差別」となる可能性があるとして、
   憲法修正第五条
を主張し回答を拒否した。
 グジックは1956年2月21日、シカゴ南部で
   ジャック・アーノルド
という名で借りていたアパートのベッドで心筋梗塞のため亡くなった。
 享年69歳であった。
 彼の葬儀には、シナゴーグの歴史上かつてないほど多くのイタリア人が参列した。

    
posted by まねきねこ at 02:00 | 愛知 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | バイオグラフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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