スプリヤディ (Supriyadi 旧式表記 Soeprijadi)
1923年4月13日 - 1945年2月14日行方不明
インドネシアを占領していた日本帝国に対する反乱蜂起の主導者
インドネシア国家英雄とされている。
スプリヤディはオランダ領東インドのトレンガレック(Trenggalek) で1923年4月13日に生まれた。
彼は中学の後、政府の吏員になるべくマゲランの学校に通った。
ただ、卒業する前に大日本帝国がオランダの植民地となっていたインドネシアに軍事侵攻し、オランダ軍を降伏させた。
スプリヤディは高校に転校し、西ジャワのタンゲラン(Tangerang)で、日本軍の設置した青年道場の訓練を受けた。
1943年10月に、日本軍は連合国に対峙する兵力の補完として、インドネシア人による軍事組織
ジャワ防衛義勇軍(Pembela Tanah Air 略PETA)
を設置した。
スプリヤディはPETAに入隊し、訓練の後、東ジャワのブリタル (Blitar) に配属された。
彼はロームシャ(労務者)を監督する任務を負っていた。
戦況が悪化するに伴い、連合国に攻撃を受け船舶等による物資輸送が途絶し、食料を始めモノの確保が出来なくなりロームシャの窮状は日本に対する反乱の動機となった。
スプリヤディはPETA入隊時、小団長 (Shodancho) の位を与えられた。
民族主義の指導者
スカルノ
がブリタルの両親を訪問した時、PETAの将校達はスカルノに反乱を計画し始めた事を告げてスカルノの意見を求めた。
スカルノは将校達に、反乱の結末を考慮するように諭したが、反乱のリーダーであるスプリヤディは蜂起が成功すると確信して暴走した。
1945年2月14日未明、
蜂起した部隊
は日本軍を攻撃し、重傷者を出した。
ただ、日本軍は蜂起部隊を鎮圧し、首謀者たちを裁判にかけた。
6人(または8人 )が死刑を宣告され、残りは3年から終身の禁固刑となった。
なお、首謀者のスプリヤディは脱出し、日本軍から逃亡し切ったと言われている。
反乱失敗の後、スプリヤディが再び現れる事はなく偶像として崇拝されるようになった。
1945年8月19日、独立を宣言したばかりのインドネシア政府の政令により、スプリヤディは大統領内閣(スカルノ大統領自身が首相)の人民治安大臣に任命された。
ただ、彼は姿を現すことはなく、10月20日、代理大臣
ムハンマド・スルヨアディクスマ (Muhammand Soeljoadikusuma)
に交代された。
今日まで彼の運命は不明のままである。
スプリヤディが大臣任命の時に生きていたとするなら、彼は22歳で、インドネシアの歴史の中で史上最年少の大臣になっていたことになる。
スプリヤディは1975年8月9日、正式にインドネシア国家英雄として宣言された。
これは死後追贈の称号であるため、公的にその死が宣告されたことになる。


